ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.66 発行:2001.4.7
次回読書会のお知らせ
月 日:2001年4月21日(土)
時 間:午後6時〜9時
場 所:東京芸術劇場小会議室@
報告者:秋山 伸介 氏
作 品:分身
会 費:1000円
4月21日読書会報告 レジメ
分身 その不可能性の可能性
秋山 伸介
いらいらするもの、あるいは、不安を駆り立てるものとは、思わず迷い込んだ見慣れない場所、旅先のはじめての部屋などにおいてまだ自己の世界に参入していないものが、新鮮というよりも、むしろ習慣を脅かすものとして迫ってくる場合である。身の周りに自己の制御を超えた不気味なものが取り巻いていて、見られているような感じのするときである。つまり、日常的に行なってきた無意識的行動の自動装置が解除されてセンサーが活動を始めその点検が済んで新に自己の世界に受け入れるまでの不安定な時間の状態が、他者の視線を呼び起こすのだ。自己は習慣によって世界を馴染み深いものとして構成するが、この日常的世界に亀裂を入れるものに出会うと世界はたちまち奇異なものに変わり、誰かに見られているような落ち着きのない場所になる。しかし、また一方で、この不安定感には日常性を打ち破るような何か刺激的で惹きつけられるものがあるのも否めない。
では、ものに見られているこの感覚はどこから来るのだろうか。チンパンジーと人間の子供に初めて鏡を見せてやると、チンパンジーの子供はしばらく興味を持って見ているが、その対象が自分だと分かるとやがて鏡の前を立ち去ってしまう。一方、人間の子供は鏡の中の対象が自分だとわかっても興味を失うことはない。まして帽子をかぶった子供は、いろいろ椅子の位置を変えたりして、なかなか鏡の前から去らない。この違い、はどこにあるのだろうか。チンパンジーの子供がただ対象にのみ興味を示すのに対して、人間の子供は母親の眼でもって自分を見ていると言われている。人間の子供においては主客が逆になっている。
では、このことは何を物語っているのか。人間は言葉を習得する以前に言葉にたよってコミニケーションを行なう条件を備えている。つまり、相手の視線でもって自分を見る能力が幼児期のうちにあるからである。帽子をかぶった子供はいろんなポーズをとりながら、鏡の中に母親の限に映る自分を見ては、母親に喜んでもらっている自分の姿を想像しているのだ。
鏡の中の自分を他者の限で見ることの出来る能力が、言葉を話す条件として人間には幼児のうちから具わっている。そして、幼児における未分化の状態、つまり、自他一体の世界にまず最初に亀裂を入れるのが他者の視線であって、その暴力的侵入者、つまり、最初のそれは母親の視線であるのが一般であるのだから、子供の世界が立ち上がる事と母親の視線とは切っても切れない関係にあるのである。したがって母親の養育態度がその後の世界観に大きく関わってくるのだが、通常の親子関係ならば、子供にとってこの始まりの世界は母親のやさしいまなぎしに支えられて極めて心地よいところであるはずであろう。愛という感情はこの母親のまなざしでもって自己を見たときの悦びにその源泉があるように思われる。なぜなら、人を愛するという事は相手の中に自己の悦びを見出す作業に他にらないのであり、この悦びこそが母親のまなざしを源泉としているからである。しかし、ここに落穴がある。つまり、他者の視線で成立した世界はまた脆くも他者の視線で崩壊もするという事である。
目の前に拡がる世界は私たちが考えている程確固としているわけではない。他者の視線にさらされてたえず変更を迫られているのが常である。なぜか、最初の世界が立ちあらわれるとき、未分化の世界に裂け目を入れるそのカは同時に、この瞬間に私と名づけられたものを抑圧する。境の前でつい母の笑顔を想い描いてしまう子供は、いかに心地よくても、しかし、そのときすでに、そして、いま成立したばかりの私そのものを殺しているのだ。母親に愛されがたいために。
実は日常の生活において、それはゆるやかな営みであっても、私たちは同様のことを繰り返している。知らないうちにさまざまな他者の表情やしぐさを読み取り、気づかないまま彼らの視線を作り出しては、自己の世界に亀裂を入れて、いま在る自己を括弧でくくってしまう。私たちの世界はいつも再編を余儀なくされ、落ち着く先も知らないかのようである。ゴリャートキンの悲喜劇もここから始まるわけだが、私たちの世界が他者の視線によって成立した世界である限り、この悲喜劇からは逃れようがない。さまざまな他者を自己の鏡として他者の中に自己を見ながら、彼らの視線を作り出すこの能力はむしろ、人間だけに与えられた特権である。たとえ悲劇を生み出そうとも、この能力に否応もなく身をまかせてしまうのが人間の人間性というものではないだろうか。
ことさらに他者の日に映る自己を意識しては身の縮む思いをしながら、あえてその視線にさらされることに一種の快感を得ているひとがいる。自己の世界の背後で押し殺された私そのものが、たまりかねてアピール行動に駆り立てるのだ。まさにゴリャートキンのことだが、みずから好んで不快な他者の視線を意識の舞台に登場させ自虐的に自己の世界を瓦解させては、あたかもその崩壊感を楽しんでいるかのようにふるまわずにはいられないのである。それは病的ともいえるが、自己を作ったはずの他者の視線が自己に対して力を振るい、また。抑圧を生み出しておきながら、−方では抑圧を解放する、そんな両義的な働きが他者の視線には潜んでいるのも事実だ。ゴリャートキンの奇行に対して、幼児期の歪んだ母子閑係に原因を求めるのは自由だが、日常の習慣性に慣れ親しんだ私たちのまえに突然現われる他者のよそよそしい視線に妙な興奮を覚えるのは、ゴリャートキンの矛盾した感覚とたいして違わないだろう。物的空間ではあるが、そのことについては冒頭萌で述べた。ただ、ゴリャートキンの場合は、他者の視線が作った自己の虚像がひとり歩きしてしまったのである。だが、このことだってそう篤くには催しない。世にときめくアイドルなら誰しも一度は悩むだろう。夥しいファンの視線によっていつのまにか生み出され、ひとりさまよい歩く自己の虚像、というより自己のお化けに。よく考えてみれば、私たちの経験のなかにだって見つかるかも知れない。しかしゴリャートキンに言わせれば、「君はまったくの思い違いをしている」ときっと云うだろう。たしかにそうだ、ゴリャートキンはあまりにも悲惨すぎる。でも、こう言い返さずにはいられない。
「君の場合はアイドルと違って、にせ者が本物に取って代ったのだから、そのこと、つまりネ、他者の視線のもたらす力を思い知っただけでもシアワセさ。なぜなら、たえず変化してやまない自己の世界にいや、私そのものに、もともと本物なんてどこにもありゃしないんだから」と。