ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.63  発行:2000.10

                                     
い よ い よ 4 サ イ ク ル ス タ ー ト へ            


次回(10月)読書会のお知らせ 

10月読書会は、4サイクルのスタートとなります。が、ドストエーフスキイ作品は常に新しい発見があります。はじめて読むときと同じ気持ちにさせられます。

月 日: 2000年10月14日( 土曜日 )    
時 間: 午 後6時〜9時                
場 所: 東京芸術劇場小会議室1(JR池袋駅西口徒歩3分)Tel.03ー5391ー2111  
報告者: 菅原 純子 氏                       
題 目: 『貧しき人々』を読んで 
会 費: ¥1000                                                
◎ 読書会終了後は二次会を予定しています。お待ちしています。        
会 場: 池袋西口周辺の居酒屋
時 間: 9時〜11時
会 費: 2〜3千円程度                     



10月14日( 土 )読 書 会  報 告 要 旨          



『貧しき人々』を読んで 


菅原 純子    

ドストエフスキーは、1839年8月16日付の兄ミハイルへの手紙で次のように書いている。 「ぼくの魂は以前のように荒々しい衝動を感じなくなりました。さながら深い秘密を隠した人の心のように、静まり返っています。『人間および人生は何を意味するか』ということを学ぶ点では、ぼくもかなり進歩を示しました。人間の性格を研究する仕事は、多くの作家についてやってゆけます。(中略)ぼくは自信あります。人間は神秘です。それを解き当てなければならないのです。もし生涯それを解きつづけたなら、時を空費したとはいえません。ぼくはこの神秘と取り組んでいます。なぜなら、人間になりたいからです。」

この時、十八歳のドストエフスキーにして文学への情熱、あふれでてくる創作欲を持ち、人間に対するつきせぬ思い、観察力、すでに作家として生きてゆきたいという心を秘めていたのである。

処女作『貧しき人々』にも、ワルワーラ、ジューヴシキンの中心的な二人の人物はもちろんのこと、それ以外の人物にも、人間とは何とまか不思議な存在であろうか、人間の運命とはいかなるものか、貧乏人とはどのような人間であろうかなど、さまざまな場面での人間模様が浮かびあがってくる。

ジェーヴシキンに関して言えば、9月9日の手紙で、ちぎれたボタンが閣下の足元へころがってゆき、そのボタンを拾い立ち上がると、ちぎれた糸にジェーヴシキンはくっっけはじめそして、にたにたと笑ってしまう。このにたにた笑いは、一概に自分自身を冷笑しただけではなく、ジェーヴシキンという人物が自己の内面に向いたがゆえの笑いなのではないだろうか。しかし、意外にも『貧しき人々』には、あっけなく死んでゆく人物が多いのに気付く。ワルワーラの父や母もあっけなく死んでゆくし、貧しく失職しているゴルシコフの男の子の死、ゴルシコフ自身も名誉を回復すると同時の死など、さらに、ワルワーラの手記の中で亡くなってゆくポクローフスキイは、ワルワーラの初恋の人でもあり、ポクローフスキイの部屋の中にある全部の本を読んでしまいたいという、愛するものへの精神の同一化を求めた青年でもある。さらに救いのないのは、ポクローフスキイの臨終での時にあり、彼が、窓を開けてくれと頭で合図し、カーテンを引いた窓の外には、最後に見たかった太陽も見られず息を引き取ってゆく場面や、哀れなのは、そのポクローフスキイの柩を乗せた馬車の後を、ポクローフスキイ老人が、ポケットにつめた本が落ちるのを拾い拾い氷雨の中を追いかけるシーンなど。このポクローフスキイの死以後、ワルワーラもまた何回ともなく、自分はいつ死ぬかわからない、この秋にはきっと死ぬに違いないなど、死の想念がつきまとってくる。果たして、このようなワルワーラは、以前辱められたブイコフとの結婚で貧困と不幸から救われるのであろうか、否、田舎町で病気の悪化により、ジェーヴシキンが言ったように、死んでしまうのであろうかというところは疑問である。人は人を信じることによって救われるのであろうか。

とりとめもなく書いてきたが、ドストエフスキーの作品の魅力を一言ではいえないが、私は作品を読んでいる時、ジェーヴシキンは私だとか、ワルワーラは私だとか、読んでいる人間を作品の中に引きこんでゆき、ここにあなたがいるでしょうと頷かせてしまう、作家であるからではないだろうか。




ドキュメント『貧しき人 々』     

1844年・「辞表を出した理由といっても、出したから出したというまでのことで、つまりはっきり言って、もうこれ以上勤務することが出来なかったからです。/ぼ (9月30日兄宛)・くが退官することは誰も知りません。服をこしらえようにも1カペイカもないのです。ぼくの退官許可は10月14日までには出ることになっています。」           

1843年8月に中央工兵学校を卒業しペテルブルグ工兵団製図室に勤めることになったドストエーフスキイは、翌年9月、たった1年勤めただけで誰にも相談することなく役所を辞めてしまう。すべては『貧しき人々』を書くためであった。

1844年・「ぼくは、期待をかけているものがあるんです。『ウージェニー・グランデ』 (9月30日兄宛)くらいの長さの小説を書きあげようとしているのです。」 
、「もう清書もしている段階で、14日までには間違いなく返事をもらえることになっている。」

がしかし、すぐに作品を仕上げることはできなかった。その頃のドストエフスキーのことを友人のグリゴローヴィチは「彼は自分の書いているものについてはひとことも言わなかった。私が尋ねると、気乗りしないような短い返事が返ってきた。/私の見たのは、ただ、ドストエフスキーの手だとわかる字体で一面に書きつぶされたたくさんの紙であった。/根をつめた仕事と、いつもいつも家に閉じこもりきりであることのために、彼の健康は著しく損なわれた。若い頃、工兵学校時代に、すでに何度か現われていた病気が、そのために悪化したのだった。」(※病気とは、癲癇ではなくノイローゼではないかと云われている)ドストエフスキーは、この作品を何度も書き直した。そして、また春がきた・・・・。      

1845年・「・・・小説がまだ仕上がっていなかったのです。もう11月頃にすっかり書(3月24日兄宛) 、き終えたのですが、12月になって、全体を作り直そうという気になったのです。/3月半ばになって、これでよしとなり、満足がゆくものになりました。     ・ぼくは自分の小説に心から満足しています。

1845年・「ぼくのこの小説からぼくはどうしても放免してもらえないでいるのですが、(5月4日兄宛)  しかし、もうこれでお終いです。手直しはこれが最後です。」

ついに、作品は仕上がった。だが、ドストエフスキーは文学関係の知人は友人のグリゴローヴィチただ一人だった。その朝、彼はグリゴローヴィチを自分の部屋に呼ぶと唐突に言った。「昨日清書を終えたばかりなんだ。読むから聴いてもらいたいんだ。」

1845年・5月のある朝、ドストエフスキーを訪ねたグリゴローヴィチは言った。「ネク ラーソフを紹介するよ。原稿を持ってきたまえ。」

ドストエフスキーはネクラーソフに原稿を渡し握手してすぐに別れた。翌日の午前4時、昼のように明るい白夜であった。そんな早朝、突然、ベルが鳴ってグリゴローヴィチとネクラーソフが飛び込んできた。『貧しき人々』誕生の、そして文豪誕生の瞬間だった。





ある個人的読書感想 
私はなぜ『貧しき人々』か 


下原敏彦

ドストエーフスキイの読者のあいだでよく聞かれる質問がある。「作品のなかでどの作品が一番好きか?」という問である。別段、集計をとったわけではないが、一般的には『罪と罰』、二番目当たりに『白痴』か『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』、穴場で『地下室の手記』『二重人』といった作品だろうか。『貧しき人々』をあげる人は、あまりいない。作家のなかでも、見当らない。かなり昔になるが、宮本百合子が一番にあげていたような気がするが(定かではないが彼女の作品に『貧しき人々の群』がある)。とにかく名作ぞろいのドストエーフスキイ文学である。それも、たいていの作家が竜頭蛇尾に終わるところをドストエーフスキイ作品はますますに磨きがかかっていく。それだけに処女作を一番にあげるのは難しいところだ。他の作品が量、質、物語性ともにあまりに大き過ぎる。

しかし、私にとって『貧しき人々』は、なにはともあれ一番に掲げなければならない作品なのである。比類なき面白さに夢中になった『罪と罰』、鬼気迫る情景が脳裏から離れなかった『白痴』、暗澹たる気持ちになりながらも読まずにはいられなかった『悪霊』。そして、人間のすばらしさも愚かさも混濁として流れてゆく大河『カラマーゾフの兄弟』。いずれの作品も捨てがたい。が、それでも私は『貧しき人々』なのだ。なぜか。

ドストエーフスキイ作品をどんなきっかけで読むことになったのか。これも人それぞれの出会いがあると思う。「偶然、手にした」「人に教わった」「学問の為にたまたまとりあげた」などなどさまざまな動機があるに違いない。なかには「叱られて」といったこんな変わり種もある。余談になるがちょっと紹介したい。読書会の会員の方で若い頃、学生運動で成田闘争に関わっていた人の話である。闘争運動が激しかった当時、成田周辺は警戒が相当に厳しく、空港内にはなかなか入れなかったらしい。唯一の侵入できる手段は、空港内で働く人たちの送迎バスだった。そこで、彼は従業員になりすまして、新宿駅西口からバスに乗り込んだという。だが、すぐに売店で働くオバちゃんに見破られ大声で一喝された。「ドストエフスキーを読みなさい!!」。彼は雷に打たれた気持ちだったという。

私の場合、こんなに劇的でも衝撃的でもない。私はすこぶるシンプルな方法でドストエーフスキイを知り、『貧しき人々』を読むことになった。きっかけは、椎名麟三だった。たしか「重き流れのなか」か「深夜の酒宴」の文庫本を読んでいた。なぜ椎名麟三かというと、これもよくわからない。たぶんそのころ石川達三をよく読んでいたので、ついでにといったところかも知れない。が、椎名文学は、私に不思議な感覚を味わわせてくれた。私はこんな作品を書いた作家自身に興味を抱いた。それでこれまで「あとがき」など読んだことがないのに、はじめて読んでみたのだ。そして、作家がドストエーフスキイというロシアの文豪を崇拝していることを知った。が、ただそれだけだった。そのことはなんの動機にもならなかった。むしろ、なんだロシアかぶれの作家だったのかという落胆の方が大きかった。だが、次の瞬間私の関心を引き寄せたのは、文豪の処女作に関する解説だった。ネクラーソフという詩人で出版人が10ページ読むとやめられず、一気に読み、興奮のあまり作者に会いに行った、というくだりであ。この世に、そんなそんな文学作品があるのだろうか。まず最初に浮かんだのはその疑問だった。自慢ではないが血沸き、肉踊る面白い冒険小説なら、何冊も読んできた。しかし、作者に会ってみたいとまでは思わなかった。ネクラーソフという人は本当に面白かったのだろうか。椎名文学はすっかり忘れたて、その疑問だけがひろがった。ある日、眉唾を承知で『貧しき人々』読んだ。なんの変哲もない書簡小説。だが、一字一句読み進むのが惜しかった。これほど面白い本に出会ったことがなかった。
 



「ドストエーフスキイの会」情報

国際ドストエフスキー研究集会 2000
「21世紀人類の課題とドストエフスキー」 


22日の千葉大けやき会館・26日の早大AV教室に多数の一般参加者 が集いました。
「21世紀人類の課題とドストエフスキー」と題したドストエフスキー国際研究集会は、外国から大勢の研究者を招いて8月22日から26日まで催されました。会場は千葉大と早稲田大学。一般参加者参加は初日22日と、最終日26日に日本語通訳で行なわれました。22日の会場は千葉大けやき会館。26日の会場は早大AV教室。いずれも多数の一般参加者がありました。とくに26日には80名近い参加者があった。居酒屋で開かれた最終日の親睦会は賑やかく楽しい酒席となりました。なかでも30年つづく読書会のこと、自らの生活のことシベリヤ帰りの父親のことを語った福井さんのスピーチは、ロシアや東欧諸国の外国人研究者の皆さんの心を打ったようです。大成功の国際大会でした。

8月22日(火)と26日(土)に開催された一般参加記念講演のプログラムです  
8月22日(火)14時30分〜 千葉大学けやき会館 講演(基調講演・日本語通訳付)

○講演者:ウラジミール・トゥニマーノフ(ペテルブルグ、ロシア文学研究所教授)
 演 題:「地下室と〃生ける生〃」   
○講演者:ワレンチーナ・ヴェトローフスカヤ(ペテルブルグ、ロシア文学研究所教授)
 演 題:「バフチンの理論とドストエフスキーの倫理的教え」
 17時30分から千葉大内レストランで歓迎会。多数のド会員も参加。

8月26日(土)14時〜 早稲田大学AV教室 公開講演会
ドストエーフスキイの会「国際研究集会記念講演会」(日本語通訳付き・聴講無料)
○講演者:清水孝純(九大教授)
 演 題:「ドストエフスキー、その終末観と再生−あるユートピア伝説の現代性」
○講演者:ホルスト・ユルゲン・ゲーリック(ハイデルベルグ大学教授)
 演 題:「ドストエフスキーとハイデガー、終末論的小説家と終末論的哲学者」
○講演者:リュドミラ・サラースキナ(ロシア教育アカデミー芸術教育研究所教授、文芸評論家)
 演 題:「ドストエフスキーの終末論−地獄の克服」                                        



書 評
 

『 評伝 ドストエフスキー 』 
図書新聞 00・8・12  コンスタンチン・モチューリスキー著 松下裕/松下恭子訳 筑摩書房\8800円 

作品に対し、生涯が先行
        
長瀬 隆  

ドストエフスキーはロシアの人道主義的作家の一人として読まれてきた。それがかなり異なった読まれ方をするようになったのは、昭和の共産主義運動の興隆とその弾圧による衰退、大量の転向の時代に入ってからである。1934年に本格的な全集の刊行が始まり、前後してシェストフの『悲劇の哲学−ドストエフスキーとニーチェ』が翻訳刊行されて、これが新しい読み方の方向を決定することになった。ナロードニキ運動の哲学者・転向者であるこの思想家は『地下室の手記』の主人公の「一杯のお茶にこと欠かねば世界はどうなってもよい」にシベリヤ流刑後のドストエフスキーの「転向」を見出し、それへの共感を表明したのである。これがわが国の転向者たちの琴線に触れたのであった。小林秀雄の一連のドストエフスキー論はこの状況のなかで執筆されており、埴谷雄高らの戦後文学の方向もまたこの時期に決定された。

1917年のポリシェヴキ革命の後多くの知識人が西欧とくにフランスに移住し、パリにはソルボンヌ大学のロシア学科を中心に彼等の集まりが形成され、シェストフもここで有名になり、ここから日本に流入した。モチューリスキーは1892年のオデッサ生まれ、1919年にロシアを離れパリに住んでおり、シェストフと接触があったことは、本書にその肯定的言及があることからも知られる。しかし彼はより若く現代に近い人であることであり、この書はナチス占領下で1942年にロシア語で執筆が開始され、戦後1947年に刊行されている。ドストエフスキーは同時代の西欧の反キリスト教的傾向に懸念を表明し、とくにドイツ皇帝について警告を発していた。これがヒットラーによって極限まで継承されたと著者は見ており、「およそ70年という年月が経過し、ドストエフスキーの予言の正さが証明された。「反キリスト教的萌芽からは、異教的『全体主義的』国家のドクマが成長したのである」と記す。『作家の日記』の1873年の文章「世界は邪悪な霊が訪れて後に救われるであろう・・・。そして邪悪な霊の訪れはまもなくである。われわれの子孫は、おそらくそれに直面することになるであろう」を「謎めいた予言」として引用しつつ、彼は「ドストエフスキーの精神的子孫であるわれわれはすべて、この『訪れ』の戦慄的な体験を持っている。彼は予見者であり、われわれは目撃者にして証人である」と述べる。身近に強制収容所の犠牲をもつたためであり、これが本書を貫く主調音である。

一方著者がそれに背をむけて出国してきたところのソヴィエト・ロシアはどのように見られていたであろうか。1942年は11月にソ連がスターリングラードで反撃を開始した年であ る。著者はドストエフスキーにたくしてロシアへの愛を語っている。ドストエフスキーは没後今世紀に入って象徴派の作家・思想家の注目するところとなった。例えばその一人アルツィバーシェフの1920年の評論『永遠の幻影』は大正末に翻訳されて広津和郎・芥川龍之介などに多大な影響をあたえた書物であるが、そこでは革命の流血が耐えがたく許しがたいものとして激烈に非難攻撃されている。この作家もやはりパリに亡命した。1912年に『ドストエフスキーの創造』を発表し、そのなかでドストエフスキーを革命との関連において位置づけたペレヴェルゼフ(1989年にみすず書房から拙訳がある)は、こうした状況を視野にいれつつ1921年の生誕百年の祝典で「ドストエフスキーと革命」という講演をおこなった。そのなかで彼は『悪霊』に学ばねばならぬものが多々あることを指摘し、その研究を呼び掛けた。

そしてこれが後にスターリン派の攻撃するところとなり、彼は30年代にはいると文学界から追われる。以後ソ連ではドストエフスキーは禁圧され、1956年のスターリン批判後に状況の若干の変化があり、ペレヴェルゼフは名誉回復したが、『ドストエフスキーの創造』が新しく刊行されるには1984年まで待たねばならなかったのであり、しかしその際にも「ドストエフスキーと革命」は収録されなかった。ソ連が崩壊してようやくドストエフスキーは自由な討議の対象となっており、今日では作家エフレエーエフなどに面白い評論がある。しかし1947年当時のソ連では、モチューリスキーの著書のごときは執筆も刊行もまったく不可能であった。『ドストエフスキー・・・生涯と作品』が原題であるということであり、本書の特徴は作品に対し生涯が先に置かれていることにある。作品は生涯を構成する大きな要素として扱われている。ペレヴェルゼフなどは作品は作品として、伝記は伝記として別に書いており、したがって方法は逆である。著書は家系から説き始め、少年・青年時代を述べ、処女作『貧しき人々』の制作にいたり、さらに次に、といった具合に書く。その方法について著書は序文で「ドストエフスキーの生涯と制作とは切り離すことができない、彼は『その文学のなかで生きた』からである。文学こそ彼の生涯をかけた事業であり、悲劇的な運命そのものであった。彼はそのすべての著作のなかで自分自身の謎を解こうとつとめ、みずから体験したことのみを語っている。ドストエフスキーはたえず告白という形式に惹かれていた。彼の創作は、ひとつの巨大な告白として、その普遍的精神の包括的表現としてわれわれの前に開かれている。生涯と創作のこの精神的統一を、われわれはこの著作のなかで失わぬようにつとめたい」と述べている。20年代にソ連で公刊された創作ノートが積極的かつ先駆的に活用され、このためにこの書は浩瀚なものとなった。しかしこの方法による限界もまた見えるのである。評伝的部分で格別に注目されるのは、流刑後、シベリヤからニコライ二世に書き送られたペテルブルグ帰還の嘆願書にはじまる「転向」であり、その延長上に生じた晩年の右傾化である。それは「君主制主義者、帝国主義者」として繰り返して批判的、疑問的に叙述されている。しかしそれが、現代の「預言者」としてのドストエフスキーとどう結びつくのかは、説明されずお手上げといった形で投げ出されている。これが解明されるためには作品を優先し、その構造を分析しなければならない。著書は『カラマーゾフの兄弟』の序文の13年後のアレクセイを主人公とする第二編があるとする予告を真正直にうけとっている。しかし、この予告は疑わしいし、そもそも語り手の「私」をドストエフスキーその人と見なすわけにはゆかないと思われる。その根拠は『貧しき人々』が往復書簡体の小説で、ドストエフスキーが兄への手紙で己の顔を隠して書いたことを誇っていることである。彼の作品に頻出する作中作家は第二作において初めて現われた。そしてそれはドヴォイニーク(分身と二重人の両義を有する)とともに、一対の不可分の形態においてであった。このことはこの「私」が虚構の存在であること、第一作における創作方法は厳守されていることを意味する。そしてこれは生涯変わらなかったのである。これが把握されないならば、ドストエフスキー全体のリアルな把握は困難である。社会批評や創作ノートは、作品に較べるならば、二義的・従属的な意味しか持たないのである。(作家・ロシア文学者)



新 聞  

現代の「明るい闇」に挑む  朝日新聞夕刊2000.9.21                                       
『善悪の彼岸へ』の著者、宮内勝典氏に聞く 
編集委員・由里幸子                                 

「あのような異常な発想が、なぜ日本で生まれ、あれほど多くの知的な若者たちをひきつけたのか」。作家宮内勝典氏(55)は新著『善悪の彼岸へ』(集英社)で、文学の側からオウム真理教に迫った。オウムを生んだ背景にある先進国に共通するニヒリズム、現代の「明るい闇」は最近の一連の少年事件にもつながっていると語る。

「『人を殺す経験をしてみたかった』という少年の事件が端的に示すように、いまの若者や少年たちにとって世界は実在感をなくし、共同体の規範も何もない空っぽになっている。そういう離人症的な傾向の若者たちが共同体を求めた最後が、オウムだったのではないか。今はその幻想すらなくなって、個人の病理の段階で事件がおこり始めた」

『善悪の彼岸』では、日本やアメリカなどのカルトや背景、共通するニヒリズムを分析した。「発展途上国には、共同体や自然がまだ生きているが、先進国では欲望肯定の資本主義がそれらの崩壊を加速させている。最後には個人のひりひりする神経とか感覚だけが残って、それ以外は世界とのつながりが断たれている状態。銃の乱射、殺人などは世界とのつながりの感触を求める表れ」

少女が事件を起こしにくいのは、身体感覚が少年より強く、現実感があるからだろうと指摘する。そういった病理がもっとも早く文学で出てきたのは、ドストエフスキーの「悪霊」ではないかという。「それまでの小説は殺人の理由、目的、憎悪など動機付けがはっきりしていたが、いたいけな少女が自殺するのを秒読みするように待つスターブローギンのように、悪を悪として実験しているところがある。近代に突入する段階で書かれた小説だが、一本の神経を百年ぐらい先の何もない虚空につきだしていたような気がしますね」

1995年にオウム真理教が強制捜査された当時、アメリカのカルト教団をめぐる小説「奇妙な聖地」を三年近く連載していた。教団が強制捜査され、教組が世界を放浪し始めた矢先にに、現実の事件は起こった。メディアから発言を求められ、教団幹部と対談し、元信者から話を聞いた。

宮内氏も18歳の時、ある教団に誘われて、しばらく合宿生活した。洗脳が始まったが、おかしくて笑いをこらえていた。オウムの若者たちと同じ局面にたたされながら、なぜひっかからなかったのか。自分が読みふけったドストエフスキーやサドなどの文学の「毒」がしみついていたからだと事件後に気づいた。「オウムの若者たちも、もっと文学を知っていればなあと、無念でした」「文学」の毒とは、描かれた人間の振幅だという。「おぞましいものから清らかなものまで、すべて一人の内面のグラデーションの中にある。巨大な振幅が、人間の内面に隠れている宇宙を教えてくれる。それを知っていると、カルトの教義は、人間の振幅のある一部分だけだとわかるのです」/「オウムは宗教ではないといわれているが、宗教のある側面が極限までいった、ネガティブな意味で宗教そのものだと思います。欧米のカルトにくらべ、オウムの場合、信者たちが高学歴だったのが日本的だった。有名大学のエリートたちは受験勉強で、人間の振幅をまなぶ機会がほとんどなかったからだと宮内氏。略

「世人は冷然として、私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見よう・・とするだろう。/そして彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心をもつ一人・・の人間だったこと、彼もまた悪人ではなかったことを(ルドルフ・ヘス)」朝日新聞10・3夕刊

豊川の主婦殺害 殺人のための殺人  
                  
少年の精神鑑定書判明 朝日新聞夕刊8・23

「人を殺す経験がしたかった」との動機から、今年五月、愛知県豊川市で主婦筒井喜代さん(当時64)を刺殺したとして、殺人などの疑いで逮捕された同県宝飯郡の当時高校三年生だった少年(17)=現在は家裁に送致=に対する精神鑑定書の全容が23日、明らかになった。鑑定書は、犯行の動機を「殺人犯になってみたいという願いに基づく。『殺人のための殺人』あるいは『退屈からの殺人』と指摘しており、好奇心からの犯罪と結論づけている。

鑑定は、カミュやサルトル、ドストエフスキーらに触れ捜査関係者によると、鑑定書は少年の刑事責任能力を認めた理由について、「少年は知的に優秀で、犯行当時は意識障害や幻覚、妄想などの精神病の状態ではなく、善悪を判断して行動する能力は失われていなかった」ことを挙げた。少年の性格について「分裂病質人格障害か高度の分裂気質者」とは指摘したが、「行為障害や反社会性障害はない」と判断している。少年は鑑定でも、捜査段階と同様に、「殺人犯としてその生活を体験してみたかった」「人が死ぬところを見たかった」「他人のやらなかったことをやってみたかった」などと、落ち着いて客観的に説明したという。また、犯行の二日前に部活動を引退したため、「退屈になったから殺した」などと語ったようだ。

「殺人体験」願望は、小学生のころから持っていた死に対する関心が発達したと分析している。殺人願望のほかに、少年は、@仙人になり不老不死の薬をつくるA社会的に成功する、という自己実現の方法を考えていた。

しかし、@とAは時間がかかるとして、残る願望の中から殺人犯になることを選んだという。鑑定は、自己実現を求めた動機なき犯罪だとし、典型的な「純粋殺人」と位置づけた。さらに、少年の考え方は「病的というほど冷徹な合理性が見られた」と言及し、犯行を前日から計画した点をふまえて「思春期の衝動的行動とは違う」とも指摘した。

動機なき犯罪であることを説明する際、鑑定は、文豪カミュやサルトル、ドストエフスキーらに触れ、「彼らによって考えられてきた人間の不条理を示す事態としての犯罪」との考察を試みている。

少年の知的レベルは高いものの、文学に関心はなく、犯罪小説などの影響は受けていないという。捜査関係者らによると、少年は、心の底から反省したり謝罪したりしていないといい、鑑定書でも「将来の社会適応や再犯防止の観点から、一度は真剣な悔悟と謝罪と被害者への共感を体験させる機会を与えることが必要だ。ただ、それは一、二年で達成されることとは思わない」と述べている。



4サイクルスタートに寄せて
 (編集室)                      

国連サミットとドストエーフスキイ 

次回読書会から、いよいよ4サイクル目がスタートする。私たちは、なぜドストエーフスキイを読むのか?単純な疑問だが、今一度考えてみた。むろん個々にはそれぞれいろんな思いや理由があるだろうが、全人類規模となったときはたしてどんな意味があるのか。今年の夏の終わり9月6日〜8日まで、ニューヨークの国連本部で「国連ミレニアム・サミット」なるものが開催された。189ヵ国から150人以上の国家元首が、政府首脳が参加して、主要テーマ「21世紀の国連の役割−グローバリゼーション」を話し合い、次の項目を全会一致で採択した。(採択資料大綱)
1)平和維持と軍縮 「国際経済と安全保障の中心的役割、国連が担う」と明記。
  ・平和維持活動の強化(PKO)、大量破壊兵器の破棄
2)開発と貧困の撲滅(数値目標) ・1日1ドル以下で暮らす人々(地球人口の22%)  ・安全な水が手に入らない人々(地球人口の20%)それぞれ2015年までに半減。
3)環境保護 人類の共通財産として@地球環境サミット(1992年リオ)で採択されたアジ  ェンダ21持続可能な発展の推進、サポートA京都議定書(温暖化ガス削減)の推進、  2002年に見直しB森林の保護C生物多様性を守るD持続可能な水資源の戦略、管理  E自然災害、人災の削減F人間遺伝子情報への自由なアクセス           
4)人権・弱者救済 ・人権の確立、性差別の撤廃                  
5)アフリカ問題(平和、貧困、開発)・デモクラシーの確立、平和維持
6)国連強化 ・安保理の改革・非国家組織を連携パートナーとする。「国連の目標と計画  に貢献するべくNGO、民間会社、市民組織に多くの機会を付与する」 以上

この採択に関してマスメディアは行動でこそ評価される(朝日新聞朝刊社説9・10)として「国連は加盟国の合意なしには前に進めない。加盟国が決意を新にしてこれらの課題に取り組まない限り、今回のサミットは壮大な祭りとしてのみ後世に記憶されよう」と厳しい。それもそのはずである。「世界は数千年紀の夜明けをグローバル化の中で迎えた。だが、運命を共にする地球村、ということばとは裏腹に連帯は欠如し、地域紛争は激化、経済・技術格差は広がる」ばかりなのだ。まさに地球は、ドストエーフスキイ作品のモチーフである「地球は、地殻から中心まで、人間の涙でびしょ濡れになっている」のである。何百万年か前、二本足で立った人間はひたすら調和を目指して歩んできた。そして20世紀、数々の科学的発見。人間は(一部の人間に過ぎないのだが)ようやくにして念願の調和を手にしかかったようにみえた。だが、イワン・カラマーゾフは断固抗議する「ぼくは調和なぞほしいとは思わない。ぼくが人類にたいして抱いている愛からして、それをほしいなぞとは思わない。・・・それに調和は高価すぎる。ぼくらにそんな高い入場料を払う余裕なんかない。だからぼくは自分の入場券を急いで返すことにする。」

さきごろの新聞で、ヒロシマに落とした原子爆弾製造にかかわっていた一人の女性科学者の記事を読んだ。一瞬にして10万余名の人間の命を奪った武器の研究をしていたことに愕然として中国の田舎で農業していたという。アインシュタインもまた、罪の重さに耐えかねて湯川博士に許しをこうた。人類の調和をめざしての進歩、発見。だがそれは、持てる者と持たざる者をつくりだし、弱者を抑圧し、軽蔑し、強制する調和だった。ほんとうのほんとうの調和を目指しての訴え。ドストエーフスキイ作品の警鐘は20世紀終盤、おそまきながらもようやく国連のテーブルにのった。まず読むこと、それが真の調和への一歩である。



6・10 読 書 会  

国際大会に先んじての長瀬隆氏の講演に21名の参加がありました。  

全作品読み3サイクル終了 

6月読書会は、『カラマーゾフの兄弟』最後、また全作品の読み3サイクル終了の読書会となりました。この節目を記念して作家の長瀬氏に報告していただきました。報告は8月に開催される国際ドストエフスキー研究集会で氏がロシア語・英語で発表するものを研究集会に先駆け日本語で発表していただいた。演題は「『カラマーゾフの兄弟』における作中作家と悪魔について」。質疑応答で、はたして『カラマーゾフの兄弟』は未完かとの問いに、「後編は考えにくい。連続の作品を書くはずがない」と、きっぱり答えられたのが印象的でした。13年後という謎に一つの解決を得たような気持ちになりました。二次会も盛会でした。

8月5日(土)の午後2時から、豊島勤労福祉会館で恒例となった暑気払いが開かれました。今年の議題は「少年犯罪とドストエーフスキイ」。猛暑厳しい日中でしたが続発する少年犯罪を危惧してか大勢の参加者があり活発な議論がなされました。参加者は18名、二次会には15名出席。宴席でも大いに盛りあがりました。