ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.61  発行:2000.6.1


                                         
 次 回 読 書 会 の お 知 ら せ 

 6月読書会は、8月の「国際ドストエフスキー研究集会」で講演される長瀬隆氏が先駆けて報告(日本語版で)してくださいます。より多くの皆様の出席をお待ちしています。
                               
月  日: 2 0 0 0 年 6 月 1 0 日 ( 土 曜 日 )                             
時  間: 午 後 6 時 0 0 分 〜 9 時                                       
場  所:  東京芸術劇場小会議室1(JR池袋駅西口徒歩3分)Tel.03ー5391ー2111                
報 告 者:  長 瀬   隆  氏                                                  
題  目:  『カラマーゾフの兄弟』における作中作家と悪魔について                        
会  費:  ¥1000                                                        



6 月 1 0 日 ( 土 ) 読 書 会  報 告 要 旨


 6月10日の読書会では、作家・長瀬隆氏に報告していただきます。氏は8月開催される「国際ドストエフスキー研究集会」で講演されますが、今回の報告は、その8月講演に先んじて国内(日本語)版として発表していただきます。
 なお、氏は今報告を8月講演の参考にされたいとのことです。報告(下記論文)に対して皆様の忌憚のないご意見、ご感想を期待しております。

                                          
カラマーゾフの兄弟』における作中作家と悪魔について  

長瀬 隆      

                                     
 寺田透はその『ドストエフスキーを読む』の後書き的性格の序文において「かれの重要な作品が、『罪と罰』をのぞくと、どれも、けしてドストエフスキーそのひととは見せない虚構の筆者の書いたものの体裁をとっている事実とその意味について、これまで全く論じられているとは見えない」と述べている。これはバフチンの。『ドストエフスキーの詩学』を読んだうえでの言葉である。たしかにバフチンは「もっぱら創作方法の観点の一角からのみ」執筆しているにもかかわらず、ドストエフスキーのほとんど全ての作品において巨大な意味をもっている作中作家についてまったく言及していないのである。しかし寺田はもしもペレヴェルゼフの『ドストエフスキーの創造』を読んでいたならば、こうしたことは言わず、また言えなかったであろう。そこではすでに1912年という早い時点でこの問題は、十分ではないが基本的には正しく解明されているのである。
 『カラマーゾフの兄弟』は「私」なる語り手の序文から始まっている。それによるとこの小説には13年後のアリョーシャを主人公とする続編が予定されているということである。この言葉をほとんどすべての論者が真にうけてきた。しかし寺田はこれには疑問を呈し、「巻末で、少年たちに向かってアリョーシャが小演説をする場面、それに答える少年たちの「ウラー」と、一生手をとりあって行こうと叫ぶ彼らの言交わしを書いたとき、少なくともそのとき(中略)次作の企画は、もう放棄されていたと見るべきではなかろうか。(中略)自分で判断して、それを書くことは断念したのだと思う。(あるいはもともと書くつもりはなしに、あの次作がありげな序文を書いたのである)」と述べている。この問題を解明するためには私たちは、彼の出発点、処女作『貧しき人々』に立ち返らなければならない。書簡体のこの小説には「私」は存在しない。加えてドストエフスキーは兄への手紙のなかで自分の顔を隠して書きおおせえたことを非常に誇っているのだ。しかし私たちはつづく第二作の『分身』において、「私」の登場を見る。この「私」と先の誇りはどのように結びついているのであろう。
 19世紀ロシア文学の特徴の一つに作中作家の存在というものがあった。たとえば『オネーギン』においてはプーシキンは物語をしばしば中断し、「私」の名において己の感慨を吐露している。ゴーゴリの代表作の『死せる魂』にもこうした「私」は登場している。私たちはそれらを作者その人と見なして読み、いかなる不都合にも遭遇しない。しかしドストエフスキーの場合は違うのだ。この作家は処女作において使用した自慢の創作方法は、「私」を虚構化することによって、ここにおいても貫徹しているのである。
 主人公のゴリャートキンは精神に変調をきたし、かつ自身でもそれに気づいていて精神科医にかかっている人物として設定されている。原因は彼が身のほど知らずな野心を抱いたためである。そして冒頭からゴリャートキンに密着して書いていたドストエフスキーは、やがて一転して主人公の役所の長官宅の夜会にその視点を移す。そこにゴリャートキンが闖入してき、つまみ出され初冬の夜の町に放り出される。ここで再びゴリャートキンに密着した叙述に戻り、やがて彼は己れの分身、第二のゴリャートキンなるものを幻視することになる。以後「私」は消滅し、二度とは現われない。「読者諸君よ」の呼びかけは続いている。しかし「私」は永久に帰ってこず、加えていつしか「読者諸君よ」の呼びかけも消え、作品は全面的に旧新二人のゴリャートキン氏の物語に変貌する。衆知のごとくこの作品はきわめて悪評で、当初はそれには反発したドストエフスキーもやがては失敗作であることを認め、一度ならず改作を試みつつ、手の施し様がなく、放棄した。
 ヂェーヴシキンは小市民であり、この階級の者たちはペルヴェルゼフが指摘し分析するように、その社会的地位に羊のように忍従して生きる以外にない。しかし周囲を犠牲にしても狼的に成り上がろうとする者はあり、ゴリャートキンはこれに属した。分身=第二のゴリャートキンとは、ゴリャートキンが成りたいと欲して奔走したが、ついに成り切れない者であった。そしてこの作品における作中作家の「私」とは、この分身=第二のゴリャートキンを描くために必要となって登場しているのである。語り手だった私が仮面をかぶって分身=ゴリャートキンを演じているのである。だからこそその出現とともに「私」は行方をくらまさざるを得なかったのである。これがこの作品のからくりなのである。少なからず読者をナメているのである。
 ドストエフスキーにとってこの作品の失敗は、その原因が奈辺にあるのかが自分ではよく分からなかったために、堪えた。同時代のトルストイ等の文学がプーシキンに始まる貴族文学の完成であったのに対し、ドストエフスキーの場合はその遺産がゴーゴリに萌芽としてあっただけの小市民の文学の創造であった。彼は小市民の人物に深い愛情を抱いていたが、同時に小市民そのもののうちに、自ら出口を見出だしえない弱点があることを知っていた。彼のその後の空想的社会主義、ペトラフシェフスキーの結社への参加はこの問題の解決を目指してのものであった。小説に行き詰まったためであり、それは逮捕される直前の『ネートチカ・ネズナーノヴァ』(の前半)によく現われている。そこに描かれているのは小市民出身の作家には芸術的完成は不可能ではないのかという暗い疑惑である。
 『貧しき人々』と『分身』を比較検討しよう。ヂェーヴシキンにも社会の上層に這い上がりたいという気持ちはあった。しかし彼は書くこと、手紙マニヤであり続けることによってそれを紛らわすことができた。しかし相手の結婚によって文通は終焉をむかえるに至り、発狂せんばかりに嘆き、事実半ば発狂したところで小説は終わっている。この小説をもっと続けようとするならば、手紙を書くことなどは無意味であったことを知るヂェーヴシキンを書かねばならなかったであろう。その無意味さを嘲っている人物がいた。ヴァルヴァーラを通じて二人の文通を知っていたブイコフである。思えばヂェーヴシキンだってヴァルヴァーラをものにしたかったのである。しかし身のほどを心得て文通で我慢していたのであった。しかしこうした続編を書くためにもはや文通の形式は放棄されねばならなかった。かくて第二作が書かれることになったのである。当然のことながらその主人公はいかなる文学趣味とも無縁で、ブイコフがそうであったように即物的に上層を目指すことになった。求める女も自分とどっこいどっこいの貧しいヴァルヴァーラなどではなく、長官の令嬢ということになる。そして高飛びしたための失敗、完全な発狂。これは後味の悪い小説なのである。
 小説とは命がけの仕事であり、作家とは一作ごとに死んでは甦る人間の喩である。そうでない作家もいるが、ドストエフスキーはそういう作家であった。つまりどの作品もひょっとしたら最後となる作品かもしれなかったのだが、『カラマーゾフの兄弟』は格別だった。
 それが最後の作品であると思っていたと見なされる根拠は無数にあるが、その一つは終わりに近い章での「私の鼻を返してください」云々の鼻談義である。そこでは『分身』がゴーゴリの『鼻』の改作であったことが改めて回想されている。『分身』という作品は『鼻』がなければ構想されることもなかった作品であった。ペテルブルグで床屋が朝食のパンを割るとなかから鼻が出てくる。彼はそれが常客の一人の鼻であると確信し、ネヴァ河に捨てようとする。目覚めたコヴァレョフは鼻がないのに気づき探す。街で馬車に乗ろうとしているのを見つけ、戻るようにように促すが聞き入れられない。彼は知り合いの貴族夫人の陰謀に相違ないと考え、夫人にその娘をもらってやってよいと手紙を書くが、「そんなことを頼んだ覚えはない」とあしらわれる。鼻はペテルブルグ市内を奔放に徘徊し、コヴァレョフは憔悴する。警察がようやく捕らえて連れてくるが、いかにしても元の場所には付かない。しかしある朝目覚めてみると、鼻はなにごともなかったかのように元のところに戻っていた。この作品のみそは鼻が己れの意志をもって行動していることであって、若かったドストエフスキーはこの鼻を肉体を持った人間として描いてみようと思い立ったのである。作品の失敗は、この思いつきの失敗であった。しかし、ドストエフスキーは徐々に立直ってゆく、しかし私たちは、ドストエフスキーにおける作中作家は分身とともに出現したことを確認しておく必要がある。以後彼の作品には作中作家のいるところには必ず分身がおり、分身のいるところには必ず作中作家がいるという構造のものとなった。この例外は一つもない。
 思いつきは『鼻』に関連する問題だけではなかった。ドストエフスキーはロシア人であったのでドヴォイニークという言葉が二重人と分身の両義を有することを知っていた。また己の描く小市民がその社会における地位のゆえにあらゆる意味で二重人であり、それが極端に達すると二極分裂をきたし分身を幻視することを知っていた。まさに後者の場合を彼は第二作で描こうとしたのであり、その際にこのトヴォイニークという含蓄はあるが曖昧でもある言葉を不用意に使用したのである。十分に準備なしに若気のいたりで野心にかられて使用したのである。高飛びしたのはゴリャートキンだけではなかったのだ。作者も同様だったのであり、ためにベリンスキーには斥けられ、ペトラフシェフスキー事件に連座して一度は死刑の判決をうけ、シベリヤ送りになった。思いつきによる失敗は途方もなく高くついたのであった。このためドストエフスキーはこの後絶えてこの言葉を使用していない。作中作家は一作ごとに深化発展をしており、分身もまたそれに親しく対応した。しかしトヴォイニークという言葉は慎重に避けた。
 彼は『悪霊』の執筆の後にようやくこの言葉に回帰できる状態になる。じつに二十九年を要して後のことである。『未成年』は今日までだれによっても語られてはいないが、彼においてかくも重大な意味を持っていたドヴォイニークという一語の解明のために書かれた作品である。「私は自分がほんとうに二つに割れてゆくような気がするんのですよ。まったく精神的に分裂してゆくのです。私はこれが怖くてたまらない。まるで自分のそばに分身が立っているような具合なのだ。」とヴェルシーロフが告白し、聖像を真っ二つに割る。ドヴォイニークは実に9回にわたって掲げられ、エピローグに至ってドストエフスキーはこの作品の 作中作家=未成年(アルカージー)の口を通じてこれに説明を与えている。「そもそもドヴォイニークとは何であるか。私がその後わざわざ読んでみたある医学の専門書によると、〈ドヴォイニーク〉はかなり重大な精神的変調の第一段階に他ならないのであって、往々にして悲しむべき結果に導く場合もありうるとのことである。それにヴェルシーロフ自身、母の家で聖像を割ったとき、すでにもう意志と感情が〈分裂〉していることを、恐ろしいほど真剣に告白した」。(この章のものを加えると実に16回を数えるのである)。ここから明らかになるのは、ドヴォイニークは第二作におけるのように独立した人間個体として描かれてはならないものであったということである。
 しからばどのような形態で描かれるべきものであったのか?私たちはその答えを『カラマーゾフの兄弟』のうちに見出す。この長大な作品の主人公は、一人だけ選び出すとすれば、それはもちろんイヴァンである。彼の神の有無をめぐる問いがこの作品の主題となっているからである。ヂェーヴシキンにもゴリャートキンにも思想といえるものはなかった。ドストエフスキーの作品においてちゅうしんに位置する二重人のなかにあって思想家もしくは哲学者として登場してくる最初の人物は『地下からの手記』の主人公である。彼において初めて己の二重性は検討と考察の対象となり、それが意志と意識(感情)の分裂に他ならないことが確認される。主人公は意志に従って生きるべきか、意識に従って生きるべきか結論に達することができない。彼は二つの調和、つまりは「生きた生活」を切望するが、その探求が作品の第二部に記されている。それはラスコーリニコフをへてイヴァン・カラマーゾフにおいて最高の段階に達する。
 二重人における精神的特徴は現実にたいする抗議もしくは叛逆である「我意」、そしてそれに対する忍従であるところの「温順」であった。二重人がゴーゴリの『狂人の手記』のポプリーシチンの系譜を引くのにたいし、温順のタイプは『外套』のアカーキー・アカーキェヴィチ・バシマーチキンを祖とする。しかし我意のタイプはドストエフスキーの独創に属している。三つのタイプは初期作品群においてはみなプリミチヴであったが、中期以降においてはイデオローグに成長し己の思想信条を述べたてる。温順な人は社会の諸矛盾の解決を神意に委ね、我意の人は神を存在しないと考えて社会に叛逆し、人神になろうとする。二重人はそのいずれにも立場をも決定できずにもがき苦しむのであるが、それがイヴァン・カラマーゾフにおいて極限まで追求された。
 若かったドストエフスキーは温順なタイプに皮肉をもって対したこともあった。それは 『プロハルチン氏』によく現われているし、第二作の混濁もそれに起因する。しかし年とともに彼の共感はこのタイプに傾いた。しかし最も高い芸術的完成を示したのは二重人であり温順な人ではなかった。ペレヴェルゼフはそれをドストエフスキー自身が二重人=芸術家であったからであると説明している。
 温順な人への傾斜は彼のキリストへの傾斜と平行している。しかしフォンヴィージナ夫人への手紙によって有名な「真理はキリストとは別なところにあると証明されたとしても、自分は真理とともにあるよりはキリストとともにとどまる道を選ぶ」という言葉は『悪霊』においてはスタヴローギンが語った言葉とされているのである。
 ドストエフスキー文学における最初の思想家は地下人より早く、『虐げられた人々』における我意の人ヴェルシーロフであった。これは初期作品にはなかった貴族階級の人間でもである。これはペレヴェルゼフによれば小市民の人間に貴族の衣裳を纏わせた仮装人物である。そしてこれが作中作家である青年に文学否定の言をなしている。仮装人物=貴族の全員は、温順な人ムイシキンをふくめて文学的創造からからは無縁である。対するに作中作家はその全員が小市民=二重人である。しかし彼らの全員がキリストを信じていたと言いきることはできない。だが文学と美は信じていたとは確言できる。スターヴロウギンはすべてを有しながら、何ものかが欠けていることによって、文学創造からは無縁であり、自殺して果てる。彼は三人称で登場している作中作家の分身といえる。
 ドストエフスキーはロシアにおいて貴族階級が果たした歴史的役割を正統に評価し、同時にそれが終焉に向かいつつあるのを見通していた。しかし彼はそれにとって代わる社会がいかなるものであるかを思い描くことができなかった。かくて社会主義・人民主義者の説く未来予想には同意せず、独自な探求をおこなった。
 作家にはかって自分に死刑の判決を下し、シベリヤの流刑地に送った帝政の問題が残っていた。流刑後の彼は保守派に属し、文学という名の独自な地下活動に従事してきた。
 彼自身は二度とはシベリヤには行きたくなかったるしかし最後の作品であるとすれば、思いの丈はぶちまけねばならなかった。かくて温順なイデオローグとしてのゾシマが登場する。その特徴は信仰の厚さであるよりは、より多くの帝政の擁護者であることにある。父フョードルは皇帝とみなされてよく、その殺害に理論的根拠を与えたのはイヴァンの「神がなければすべてが許されている」であった。しかしこの人物は仮定法で言ったのであって、「神は存在しない」と言いきったのではなかった。とはいえ信と不信のあいだで彷徨しており、その振幅は極限に達し、分身幻影を見ることになる。だがそれはもはや第二のゴリャートキンのごとき個体としてではなく、悪魔としてであった。
 問題はその描かれ方である。悪魔はイワンに言う、「あれは(アリョーシャ)可愛い子だぜ。ぼくはゾシマ長老のことで悪いことをしたよ」と。これは何のことを言っているのであろう。どう考えてもそれはゾシマの遺体が発した異臭のこと以外ではありえない。とすればイヴァンは作者ではないのだから、悪魔は彼の分身=半身などではなく、(それはイヴァンがアリョーシャにそう語っているだけのことで)、作中作家の「私」が、かって第二作で分身=第二のゴリャートキンにしたように、ここで悪魔に変身して語っていると読まれるべきである。かってと同じ手法が円熟洗練された形で繰り返されているのである。逆にいえばこの作品に作中作家が存在しているのは、この分身=悪魔を書くためだったことが知られる。それはただこの方法によってしか書きえないものだったのである。
 私のこの主張が説得力に欠けると思う人は、作中作家抜きで『カラマーゾフの兄弟』を書いてみたらよい。あなたは絶対に書けますよ、ただこの悪魔の箇所まではです。その先は不可能です。アレクセイを主人公とした続編があるかのような序文はたんなる韜晦にすぎぬ。ドストエフスキーは続編など考えていなかった、しかし悪魔の箇所の執筆は深く心に念じていた。それがこの序文の意味である。
 総じて分身幻視→発狂によってドストエフスキーが言おうとしていたものは何かということでは、今日「二重性(分身)から統一性(単一性)の副題をもつジラールの『ドストエフスキー』の見解が参考になる。それによればキリストなしでは西欧はやってゆけないことを示すものだとのことである。非西欧に属する私たちとしては、これは参考意見として聞くにとどめたほうがよい。
 イヴァンの発狂とともに悪魔は消滅し、しかし「私」はなおも存続し続ける。しかし小説を書いているのはもはや「私」ではなくドストエフスキーその人である。私はコーリャ・クラーソトキンはきわめて重要であると考えている。「キリスト教なんてものは下層階級を奴隷の状態に押しこめておくために、裕福な上流階級に奉仕してきただけではありませんか。もしキリストが現代にいきていたならば、さっそく革命家の仲間にはいって、めざましく活躍したに違いありません」。「ぼくだって第三課(秘密警察)にふんずかまって、ツェプノイ橋の下で勉強させられるのは真っ平です」。この最後の言葉にはドストエフスキーの帝政への呪咀が表明されている。
 クラートキンは最も若くしたがって未来に最も近接して立っている。この初年の音頭でアリョーシャに向かって「カラマーゾフばんざい!」が唱和されて作品は終わっている。これはアレクセイとコーリャの協調にドストエフスキーがロシアの未来を託していたことを意味しないだろうか。そしてその未来において自らが心血を注いで創造した文学が意義をもちしかるべき役割を果たすだろうことを願いかつ信じていた。単数で書かれているカラマーゾフはドストエフスキーと読まれてしかるべきであろう。

長瀬隆:著書に『樺太よ遠く孤独な』『微笑の沈黙』・共著に『松尾隆』など   





読 書 会 ハ イ キ ン グ  好天にめぐまれ新緑の高尾を満喫  

 5月3日、悪天の予報でしたが、天気は五月晴れに。読書会ハイキングには7名の皆さんが参加。JR高尾駅から小仏峠をめざしました。山桜は散りどきでしたが、新緑のかがやきに心も洗われるようでした。峠から見下ろす相模湖やはるか向こうの丹沢の山なみ。疲れを忘れさせるすばらしい眺めでした。歩行4時間ほどのコースでした。こんどは温泉のあるところでを約束に散会。健康と楽しい思い出になりました。




                                                  
実 録 ・ 読 書 会     「場」&「ミニ通信」他参考


ドストエーフスキイ全 作 品 を 読 む 会 の 軌 跡 4


 ドストエーフスキイ全作品を読む会、通称「読書会」は1971年に生まれた。以来、2000年の今日まで、隔月ごとの開催を欠かすことなくつづけられてきた。ひたすら自由の場という信念を守り通して。実に30年に及ぶ活動であった。本特集は、その軌跡を『場』や本紙を参考に推測創造し物語るものである。(登場者の敬称略)
 2000年4月8日。時計の針は午後8時30分を回ろうとしていた。レポーターの報告は、まだ終わりそうになかった。この夜の報告者・金村繁は、かって教壇に立っていた自分にタイムスリップしたかのようによどみない口調で話つづけていた。20名の参加者が席を埋める東京芸術劇場小会議室は、どんよりした空気につつまれていた。
 司会を務める藤倉孝純は、いくぶん焦燥した気持ちで参加者を見、報告者の横顔を盗み見ながら、報告の中断を躊躇していた。この夜は、藤倉にとって特別の夜だった。特別の読書会だった。「全作品を読む会」事務局を引き受けて10年。処女作『貧しき人々』から最後の作品『カラマーゾフの兄弟』読了。そしてミレニアム。この節目を潮時に、事務局をおりる決心をしていた。既に後継者にも、その意を汲んでもらっている。故に読書会終了時に、その旨を報告し、バトンを手渡したいと思っていた。だが、金村は講義しつづけていた。永遠に終わりそうになかった。 
 しかし、機会は突然に訪れた。ひとつの発言が春の夜の夢を破った。会場は、にわかに騒然となった。発火点は報告者の「マルクス主義は一信教である」の言だった。宗教と思想をめぐっての喧々諤々。白熱する論議のなかで藤倉は一瞬、目を閉じた。そして、運命の皮肉さに失笑するしかなかった。「なぜこの日、この夜にこの論議なのか」。藤倉の胸中に去来したものは何か。それはマルクス主義と共に歩んだ青春時代だった。父親の影響を受てマルクス主義に染まっていった彼は、時代のなかにその根を深め、完全なるマルキストに成長していった。もっとも、その時代のインテリ層は、たいてい共産主義に近かった。一人一人の人間がより平等に、より幸せになれる共同体の存在。その人類の夢が実現可能の方向に急速に進んでいた。壮大な実験場となったソ連邦の国家建設は順風満帆にみえた。少なくても表層はそうだった。コルホーズをまねる集団農場が日本のあちこちで生まれはじめていた。科学も「地球は青かった」を目指して米国を引き離していた。赤い中国の勝利、楽園国家北朝鮮、キューバ独立。そしてベトナムでも戦いをはじめていた。ヨーロッパを歩きはじめた得体の知れなかった怪物は、人類救済の目標となって世界中を席巻しはじめていたのだ。
 60年安保は、日本の独立独歩、アメリカの軍事支配からの脱却もあったが、闘争の根底にあったのは、理想国家建設を阻む資本主義国家に対する戦いでもあった。藤倉は理想に燃えていた。マルクス主義だけが、この世界を救う方法だと信じてやまなかった。美を阻むもの、それは葬り去らなければならない。藤倉の運動はしだいに過激になっていった。安保闘争では何回も逮捕され拘置所暮らしもした。彼は「要監視」人間となりながらも、さらに理論に磨きをかけ、ゲバ棒、鉄パイプ、火炎ビンで武装していった。だが、彼の心のどこかに常に懐疑があった。ソ連が成功したのはなぜか。理想ではなく、もっと別な何かだったのでは。連合赤軍リンチ事件は、藤倉に冷水を浴びせた。「マルクス主義はどうして同志を殺すのか」この疑問が生まれはじめたとき、藤倉の目に止まったのは新聞の催し欄に掲載されていた「ドストエーフスキイの会」のお知らせだった。     つづく




4 ・ 8 読 書 会  質疑応答で白熱   報告者・金村繁氏

 4月読書会は金村さんが「日本人と宗教」について報告されました。質疑応答で思想と宗教について熱い議論がありました。


 『広場』9号がついに刊行されました。4月8日、「広場」編集委員の皆さんは下板橋集会所で発送作業を行い。同日、全会員に向けて発送いたしました。