ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.60  発行:2000.3.3


次回読書会のお知らせ

2004年4月8日:午後6時〜9時
東京芸術劇場
大審問官と現代日本人の神
報告者:金村繁
 


実 録 ・ 読 書 会     「場」T、U、V、W号から

ドストエーフスキイ全 作 品 を 読 む 会 の 軌 跡 

 前号で記したように【ドストエーフスキイ全作品を読む会】通称「読書会」は、「ドストエーフスキイの会」会員の有志の発案で1971年に生まれた。そして、第一回読書会が同年4月10日に早稲田大学大隅会館で開かれた。その年から、2000年の現在まで実に29年の長き歳月にわたって引き継がれてきた。本文はその軌跡を「場」を参考に、あるときは推測と想像を交えながら物語るものである。
 「読書会とドストエーフスキイの会とは、どこがどう違うのか」読書会に新しく参加した人たちから、よくこんな質問を受ける。そのたびに説明し、ドストエーフスキイの会への入会をおすすめしているのであるが、これがどうして、なかなかわかっていただけない。なにか二重に勧誘されているような怪訝な気持になるらしい。まったくの誤解であるが、なにせ悪徳商法やらカルト宗教が蔓延るご時勢である。そんな印象をもたれてしまった方には、ひたすらお詫び申し上げるほかはない。
 そこで、あらためて「読書会」とは何か−そこからはじめてゆきたい。それには、まずドストエーフスキイの会について語る必要がある。時代が要請するかどうかは知らないが、日本においてドストエーフスキイ熱は、まるでおこりのように突然に発生する。1968年という年に考えられた「ドストエーフスキイの会設立計画」も、まさにその例にもれない。そのとし日本は昭和元禄を謳歌していた。流行語となった言葉に「ハレンチ」「ブルーライト・ヨコハマ」「ノンポリ学生」「五月病」などがある。いずれも、天下太平を想像させるものだ。しかし、その陰で若者たちの怒りはピークに達していた。明治維新から100年、敗戦から23年。国体のさまざまな箇所に、歪みや金属疲労があらわれはじめていた。それをいち早く察知したのが学生たちだった。官僚制度や利権構造から生まれる疑惑。学歴主義かの歪み。あらゆる不条理に学生たちは、戦いを挑んだ。
 東大医学部の学生自治会では医師法改正(インターン廃止と医師登録制)に反対して、いわゆる東大紛争の発火点ともなる無期限ストを開始した。一方大学のマスプロ化計画で、いわれなき差別をうけつづけていた日大生もついに立ち上がった。頂点と底辺の蜂起。火の粉はいっきに全国の大学に燃えひろがった。実に115校以上の大学で紛争があった。学生たちの真摯な訴えにたいしてときの政府は、大きなミスを犯した。体面と国体維持に執着するあまり、解決に手っ取りばやい暴力を選択してしまったのだ。60校以上の大学に国家権力が出動し流血の惨事をまねいた。〈ハチのムサシは死んだのさ 戦い破れて死んだのさ〉そんな歌が悲しく流れた。暴力による解決は機動隊と過激派というモンスターを生み出しただけだった。学生という歯止めが無くなった国家は乱開発、金権主義に拍車をかけた。
 学園に平穏が戻った。しかし、早大露文科の新谷敬三郎教授は、その静けさに胸騒ぎをおぼえていた。崇高な理念は、ときには悪霊に変貌する。それは、もしかしてロシア革命直後のモスクワでペレヴェルゼフが感じた不安と同じものだったのかもしれない。(実際、この何年か前に新谷教授は長瀬隆氏と一緒にペレヴェルゼフがロシア革命に悪霊を予感した講演論文「ドストエフスキーと革命」を目にしていた。)社会主義国家建設に邁進しようとするロシア。なりふりかまわず高度成長の道をひた走りはじめた日本。時代や国情に差異こそあれ、新谷教授は、同様な不吉なものを感じとっていた。そして、想起した。折しもロシアから後輩の木下豊房氏が帰国していた。教授は躊躇なく氏に声をかけた。「ドストエーフスキイの会をつくってみようか」と。時に1969年2月のことである。  (つづく)


 
イ ワ ン ・ カ ラ マ ー ゾ フ の 座 標 

 H.Kugimoto                                
          
 ああ わが魂よ、不死の生を求むる勿れ。むしろ 可能の領域を窮めよ。−ピンダロス−
         
1.不死がなければすべては許されている
 はじめに〜〃不死がなければ〜〃このイワン・カラマーゾフの発言は異母弟スメルジャコフを使嗾して実父殺害に走らせ、その殺人事件を軸としてストーリーは展開、又「父と子」「死と再生」というテーマとも物語の枠組みともとれる大きな問題を提起するに至るのであります。後述(晩年のドストエーフスキイの変貌)するところの理由によって、ドストエフスキーの作家的立場はゾシマ=アリョーシャの線によって代弁されていることは明らかではありますが、私は敢えてカント的にテーゼとアンチテーゼのあいだに介在するアンチノミー(二律背反)を課題とした問題意識によって「人間の自由」について考案してゆきたいと思います。
A.モデル 
 「死の家の記録」の冒頭に登場し、また「創作ノート」にもその名前がみられるドストエフスキーのかっての囚人仲間、退役陸軍少尉イリンスキーの物語がモデルとして有力であるようであります。(グロスマン他)イリンスキーは貴族出身、借金で首の廻らない放蕩者で実父殺害の件で十年の懲役に服していたが実は無罪で、彼の弟は実際は犯人だつたのだが、面会に来た弟の妻の哀願により弟の罪をそのまま引受け服役、のち裁判で無罪が立証され、弟は罪の意識で精神錯乱におちいったものらしいです。
 また、モデルとは云えないまでも、ドストエフスキーの父ミハイル・アンドレービッチが用地の農奴を苛酷に扱って反感を買い、百姓三人によってリンチに処せられたあと殺害され、表面的には「卆中による死」として家族も事件をもみ消した形跡があつたらしいが、当時工兵学校在学中の少年ドストエフスキーに強い衝撃を与えたことはよく知られています。
B.Sacrifice(供犠・いけにえ)
 (人の死)は哀しむべきものでありまして(殺害)が倫理的、法律的にも許すべからざる大罪であることは今更言うまでもありません。しかし、その様な我々の常識、良識は一体何に根拠をおいているのでしょうか。宗教や人間社会の古い伝統の中における(人の死)の意味は、一歩踏み込んで考えると意外に深く我々の実存の奥底を照らし出してくるものかも知れません。
 この物語では四人の死、つまりフョードル、スメルジャコフ、ゾシマ、イリューシャのそれぞれの死があり、そり死の形態は殺害、縊死、病死等それぞれ異なっている様にも見えますが、作家が作品の冒頭のエピグラフにおいてヨハネ伝第12章の「・・・一粒の麦もし地に落ちて死なずば唯一つにてあらん、云々」と、引用しております通り(人の死)が再生につながる−−という思想を伝えております。「一粒の麦」の比喩は文学的にも宗教的にも美しい表現で感動的ではありますが、(人の死)−−特に(殺害による死)は決して綺麗事ではすませない、ある生々しい人間社会の習慣の一つの断面を示しているようにも思えます。
 Sacrifice(供犠、いけにえ)はSacrid(神に捧げられた、神聖な)、Sacrament(秘蹟)という派生語があることが示すように(聖なるもの)を意味し、日本語の「犠牲」の語感とは異なった意味とニュアンスをもっているように思われます。
 そして、特に留意致したい点は、ヘブライ語では「犠牲」は「屠殺」の意味であって、破壊や殺害を伴はない「犠牲」は無く、「血」をみない「犠牲」はありえない、ということであります。イエス・キリストの言葉としてヨハネ伝第6章(52〜54)は伝えております。
「まことに誠に汝等らに告ぐ、人の子の肉を食はず、その血を飲まずば、汝らに生命なし。わが肉をくらひ、わが血を飲むものは、永遠の生命をもつ、われ終りの日にこれを甦へらすべす。」さればこそ〃最後の晩餐〃においてキリストは「このブドウ酒はわたしの血であり、このパンはわたしの肉体である。これを食べることによって罪から救われるのだ」と弟子たちにすすめるのであります。そしてその伝統は、カトリック.ミサの不可欠の要素として2000年後の現代にまで受け継がれている訳であります。
 では、その供犠の儀式」がどの様にして古代から行なわれてきたか、キリスト教の前身であるユダヤ教の場合を中心に(ローマ帝国国有信仰、ヒンドウ教も大筋に於いて同じ形式)概略的にみてゆきたいと思います。(説明の煩瑣、輻輳をさけるための箇条書とします。)(多目的的犠牲)
神の恵みを受けるための犠牲     
司祭が職につくときの犠牲      
出産のけがれを清めるための犠牲等などのための「犠牲の儀式」が執行されつづ罪、掟を犯した者の贖罪のための犠牲 
結婚のための犠牲          
王の即位のための犠牲        
流行病その他病気治療のための犠牲  
収穫時のための犠牲        
犠牲の儀式(どの犠牲にも共通の形式性)
・聖所(一定区画を限り、清掃する)
・参会者、司祭、犠牲獣の四つの要素で犠牲の儀式は成立します。           
式次第    
・司祭〜斎戒沐浴、清潔な衣服着用 ・犠牲獣〜水浴−御神酒を飲ませる               
・参会者〜断食
・聖所〜祭壇、聖なる柱を設ける
・参会者〜犠牲獣に按手(手で触れる)
・司祭〜犠牲獣を殺す
・ /血〜司祭が参会者、祭壇、聖なる柱に塗る
  \肉〜・祭壇に捧げる(神の側)
     ・参会者一同〜食わす(俗の側)
(血)と(死)が絶対的必要要素となる
 ・   /彼岸と此岸\ をつなぐ媒介となる
 ・・→ \聖界と俗界/ (絶対的にかけ離れたものをつなぐ)  
                          

創作

                 
 
ス タ ー ヴ ロ ー ギ ン の 末 裔 

  下原 敏彦
                                                                       
 私が黒木三郎をはじめて見たのは、六十年代後半のある年の春だった。彼は、都心から二十キロほど離れた丘陵地に新設された、N大学の農学部に一年生として入学してきた。その農学部は、いわゆる後進国の農業指導者育成を目的として創られた学部であった。が、百余名の新入生の大半は、法学部、経済学部、理工学部など他学部からの定員漏れで、真に第一志望としてこの学部に入学してきた学生は、三割にも満たなかった。黒木三郎は、その僅かな第一志望者の一人だった。彼は入学早々に注目を浴びることになった。中肉中背のがっしりした体格、スラブ民族を思わせる彫りの深い顔立ち。野性的な奥眼、浅黒い頬に剃りあげた濃いヒゲ。全体に大人びた感じがしたその容姿は、見るからに子供っぽさが残る新入生のなかにあって一際目立つものがあった。それだけに同級生となった新入生たちには、一種近寄りがたい印象を与えていた。そして、その思いは彼の経歴があきらかになった時点で決定的なものとなった。それ以来、同級生の彼に対する尊敬が混濁した畏怖の念は不動のものとなったのだ。ガイダンスが終わり、最初の授業がはじまる前、この学部新設に尽力した主任のS教授が、新設されたこの学部への個人的な思いを話された。「かって、私は、満州に楽園をつくるという国策に協力した。彼の地にすばらしい国をつくって全世界の貧しい人々、虐げられた人々に夢を与えたかった。本当に本心からそう信じた。だが、その思いは裏切られた。アジアは一つという崇高な理念の裏に、植民地支配という怪物が潜んでいた。残念ながら当時の私は、それを見抜くことができなかった。その結果、どうなったか、諸君は歴史から学ばれたと思う」教授は、まるで懺悔するような語り口だった。当時の無念の思いを彷彿してか目には薄らと涙さえ浮べていた。極めて感動的な光景であったにもかかわらず、大半の新入生には、これまた極めて退屈な話だったようだった。自分たちが生まれた前年の出来事とはいえ、彼らにとってはるかに遠い歴史話でしかなかった。「世界は、いまや二極化され、東西冷戦の最中にある。だが第三国の人々は、どうか。その狭間にあって忘れられ、飢え苦しんでいる。私は日本の農業技術をもってして、これらの人々を救いたい。あの戦前の失敗を教訓として、純粋に農業技術だけを伝えることで、アジア、アフリカ、南米の人々を救いたいのです」S教授の話は、演説のように熱を帯びてきた。反比例して新入生たちは、あくびやら知り合った隣同士ひそひそ話をはじめた。ざわめきはじめた座席にあって黒木は、頬杖をついた同じ姿勢でじっと聞き入っていた。そして、ときおり私語をかわす新入生の方を振り向いて、まるで子供に注意するように人差し指を口にたてた。すると不思議と彼らは、なんの抵抗もなく素直に話をやめた。「さいわいにして今年から、この学部が新設されました大きな夢を抱いた諸君が入学してくれたことをうれしく思います」S教授は、話の最後にしっかりした目的をもって入ってきたという新入生の何人かを紹介した。だれそれは東南アジアで米づくりを指導したいと、まただれそれはアフリカで家畜指導を、といったようにである。そのなかで黒木三郎について話されたとき教室に歓声にちかいどよめきが起こった 黒木三郎は、なんと都内にある或る医科大学を二年で中退してきたのだ。その医科大学とN大学ではレベルも分野も違う。それだけに皆の驚きと疑問も当然のことではあった。 彼は、近い将来、南米に移住したいという確かな希望をもっていた。遠縁に戦前、満州国大連で公職についていたものがいて、その関係からS教授を紹介され、入学の推薦を受けたという。しかし、なぜ医科大学を中退してまで、南米行を志すのか。その理由が今一つわからなかった。壮大な悪霊が彼の心に潜んでいようとは知る由もなかった。 つづく