ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.205
 発行:2024.8.1


第323回8月読書会のお知らせ

月 日 : 2024年8月17日(土) 
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分 
時 間 : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品 : 『罪と罰』第1回
報告者 :  フリートーク
会場費 : 1000円(学生500円)



☆全作品を読む会10月読書会

 日時:2024年10月11日(金)14:00~16:45
 会場:としま産業振興プラザ 
*最後の「大切なお知らせ」をごらんください。  
 作品:『罪と罰』第2回目

☆大阪読書会 (第81回)
 日時:2024年9月20日(金)14:00~16:00 
 会場:東大阪ローカル記者クラブ 
 作品:『死の家の記録』第2部



2024年8月17日(土) 読書会 

作品:『罪と罰』第1回


6サイクル目の『罪と罰』第一回目です。参加者それぞれのご意見やこだわりを、フリートークで思いきり語りあいましょう。



過去の『罪と罰』報告記録


2006年 6月読書会 報告者・江原あき子 『罪と罰』について
2006年 8月読書会 報告者・長野 正さん 『罪と罰』を読む
2006年10月読書会 報告者・岡野秀彦さん オイデップス王と『罪と罰』
2015年 2月読書会 報告者・前島省吾さん 『罪と罰』の不思議な言葉とラスコーリニコフの犯行動機
2015年 4月読書会 報告者・小柳定次郎さん 「ラザロの復活」から見えてくるもの



参考資料1


ラスコーリニコフの13日間
(1865年7月8日~7月20日)
 編集室作成
参考:江川 卓 著「謎とき『罪と罰』」(新潮選書 1986)第XIII章:13の数と「復活」神話




参考資料2


インサイダーな学生時代とロシア文学

( 『手塚治虫マンガ文学館』筑摩書房より )

手塚治虫

私は英米文学というものを殆ど読まない。わずかにシェイクスピアになじんだだけで、ワイルドやグリーンやポオやモームやスタインベックなどを読むには読んでも体質に合わないというか、アングロサクソン流の論理だてがどうも臭くてなじめないのである。どちらかと言えば、エンタテイメントとしてSF小説などにそれなりの価値を認めている程度だ。

私が学生時代むさぼるように読んだのは、なんといってもトルストイや、ドストエフスキイなど、土の匂いがぷんぷんと臭うようなロシア文学であった。ことに学生演劇に凝っていた当時、ゴーゴリの短編や、『どん底』などを舞台で演じたこともあって、ロシア人の体臭は懐かしく、抵抗なく読み続けることができた。私のストーリイ・テリングの教科書として『戦争と平和』や『罪と罰』などは有難い存在である。ことに『罪と罰』からは、作劇法だけではなく数え切れないほどいろいろなものを学んだ。手垢のつくほど読んだのは中村白葉氏訳の世界文学全集である。

ラスコリニコフの思想については、当時からかなり否定的で、その意味では私はいたってインサイダー的な学生だったのだが、彼をめぐるさまざまな人物像にかえってそれなりに共感を覚え、好意をもったものだ。たとえばルージンのような、俗物根性のかたまりにさえ、面白がって共鳴した。スヴィドリガイロフに至っては、感激して人物論を書こうと思ったくらいである。なにひとつ犯罪の証拠をにぎらないまま、心理的にぐいぐいと主人公を追いつめていくポルフィーリイ判事とのやりとりが圧巻で、これが雑誌に掲載された時、読者はどんなに興奮して次を待ちあぐねただろうかが想像できた。その本格ミステリーの道具だてのうまさは、現代の推理作家など足もとにも及ばない。

私がこの作品に興味を覚えた動機は。敗戦直後、小説の舞台そのままが、当時の社会情勢で、不条理の殺人、貧困と無気力、売笑婦、学生犯罪などのなまなましいニュースが、奇妙なほど酷似していたからであるが、それから20年たって、さらに今日性をもって迫って来るこの物語につくづく作者の偉大さを認識するものである。

余談だが、学生演劇熱が昂じて、その合同公演で行ったときも参加してしまったが、そのときとり上げられたのがこの『罪と罰』だった。三幕二十四場ほどの大作で、私は、主人公が罪を犯すアパートのペンキ職人の役を貰った。さらに数年たって、私が現在の仕事にはいってから、子供のためにこの名作を紹介しようと、ダイジェスト・マンガ化して出版したことがある。マンガブームになって、昔書いたものを、某紙が最近採録してくれた。こうして『罪と罰』は私ときってもきれない縁になってしまった訳である。
(1953年11月)




2024年6月読書会報告 6月29日(土)

作品 『賭博者』

報告者 冨田陽一郎さん

12名の参加者がありました。




連 載



「ドストエフスキー体験」をめぐる群像


(第114回)小林秀雄「ドストエフスキイ・ノオト」とベルクソン哲学⑤  
 -「座談/コメディ・リテレ-ル」(1946.2)・「感想-ドストエフスキイのこと」(1946.11)

福井勝也
                                 
前回から、いよいよ「「罪と罰」についてⅡ」(1948)が本論稿の射程に入ってきた。しかし実は、小林の戦後ドストエフスキー批評の本格的再開は、それ以前に幾つかのステップが踏まれていた。「空白の三年間」(1943~1945)の沈黙を破った、その最初の戦後文壇への復帰は、終戦後いち早く文学活動を再開し創刊された同人誌『近代文学』(1945)座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」による招請とそれへの出席により始まった。

第一次戦後派と呼ばれる六人の同席者(荒正人、小田切秀雄、佐々木基一、埴谷雄高、平野謙、本多秋五)は、戦前左翼運動に係わった者たちで、司会を務めた平野(実は、平野は小林の再従弟にあたる遠い親戚筋で、小林の出席も平野を通じたものとされる、注)の冒頭発言には、その座談会開催の趣旨とその雰囲気がほぼ感知される。

「・・・あの時(昭和18年初め頃、文学者戦時組織の文学報国会での小林の講演、注)以来、終戦になった今日にいたるまでの約二年半以上の間に、小林さんがどういうことをお考えになっていたか、そういうことを最初に伺いたいと思います。(中略)一方、小林さんは、昔から、サント・ブウブの所謂「真の批評は座談から生まれる」という批評の要諦を実践して来ているとも言える。(中略)そういう意味で、今日の座談会を通じて、現在の小林秀雄は何を考えているかということをお聴きしたいと思うんです。」 
          (「座談/コメディ・リテレ-ル」p.9-10、『小林秀雄全作品15』所収)


この座談は何度か読んできたが、本多秋五のやや挑発的な質問に対する小林の「僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。」という、ただここだけの部分が有名になり過ぎた感がある。しかしそれよりも、今回は小林が率直に戦後の文学活動を再開する意志を表明した機会として注目したい。そして何よりも、戦前からのドストエフスキーの文学批評について、それに新たに立ち向かう意欲を語った内容を押さえてゆきたい。

そしてその発言が、この後取り上げる「感想-ドストエフスキイのこと」(1947.11『時事新報』掲載)という戦後初のドストエフスキーに関する本格的な文章へと繋がったものと考えられる。その意味では、引用した司会者平野の座談開始の発言は、小林にとっても戦後活動再開の導きの機会になったはずだ。座談に臨む質問者のニュアンスは各々異なるが、概して小林は、それらの質問に率直かつ真摯に答えていると感じた。
 
順不動だが、小林の応答部分を中心に、本論稿の趣旨から貴重だと感じられる箇所を以下に引用してみる。これ以降の小林のドストエフスキーに関する文章と重なる発言も散見されて興味深い。まず、荒正人の「戦争中、小林さん自身の動きを含めて、コメディ・リテレール(本座談のタイトルでもあるが、「文壇喜劇」というくらいの意味。バルザックの「人間喜劇」コメディ・ユメーヌのもじり、本書注を参照)というものをごらんになって、絶望したことはありませんか。」との質問への小林の応答。(前掲書p36、以下の太字は筆者)

「ないですよ。僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき周り(従軍記者を志願し何度か満州等を訪れている、注)、仕事なぞろくにしなかったが、ドストエフスキイの仕事だけはずっと考えていた。これらは千枚も書いて、本を出すばかりになっているんですが、また読み返してみると詰まらなくて出せなくなった。しかし、まだ書直す興味は充分あるのです。戦争している以上、日本が勝つようにいつも希っていたし、僕のような一種の楽天家は敗戦主義なぞを見るといやな気がいつもしていたが、ドストエフスキイの仕事のことになると、それはもう、戦争なぞとは関係のない世界に入りこんでしまうのだよ。いつもそこに帰る。帰ると非常に孤独になるんだよ。」

ここには、小林のドストエフスキー文学批評が辿った道筋にあって、重要な事実が含まれていて興味深く思う。当方が下線を引いた箇所には、幾つかの事実が隠されている。

前回の本論稿では、「沈黙の三年」以前に書き続けた「悪霊論」(1937)「カラマアゾフの兄弟論」(1941~42)がいずれも「未完」となって中断された事実を指摘した。そして、後者を書き継ぐ合間からその中断後にかけて、小林が日本古典(「当麻」「無常といふ事」「徒然草」「西行」「実朝」)に沈潜し執筆する時期が重なって訪れる。最後「実朝」が書き継がれ発表されたのは、昭和十八年の六月であった。この後に、主たる発表が途絶えて沈黙の期間に入るわけだが、年譜ではこの年十二月に旅行中の南京で、戦後に発表された「モオツァルト」(1946.12月『創元』第一号)を書き始めたことになっている。

おそらくドストエフスキーに関する原稿執筆も、この時期に継続されていたと推定される。それは何と千枚にも及ぶものになったようだ。その内容が気になる。そしてそれが、本を出すばかりになったと言うが、それは一体いつ頃なのか。しかし読み返してみて詰まらなくなって、出せなくなってしまったと言う。果たして、それが戦争中なのか敗戦後のことなのか、その千枚の原稿は結局破棄されてしまったのか、「書直す」とは全く新たに書き始めることなのか、残っている原稿に気に入るまで手を入れることなのか。

次々に、言葉の裏の事実関係が気になる。さらに、下線部分の後半に関係するが、小林には、ドストエフスキーの仕事が「戦争なぞとは関係のない世界に入りこんでしまう」ことであったと言うが、果たして、それはどういうことなのか。そこに「帰ると非常に孤独になる」とは、さらに何を意味しているのだろうか。

ここではそれらへの答えは、今直ぐにはっきり出てこない。しかし漠然とは想像できる。ただその不確かな推測を、今ここで安易に語ってはいけないように感じる。何故なら、その応答として、「「罪と罰」についてⅡ」(1948)が書かれたと思えるからだ。今は、もう少しこの時期の小林の心の有り様にこだわってみたい。

次も何故か、荒正人(1913-1979)の登場になる。(ここで、急に氏の編著書『ドストエーフスキイの世界』(河出書房新社1963)を思い出した。漱石研究家としても有名であったが、この時期第一次戦後派として『第二の青春』(1947)を刊行し活躍の先頭を切った、注)

荒がここで小林に、こんな気になる問いかけをしている。「‥‥、小林さんが最近にお書きになった「実朝」のような世界、ああいう世界に対して、今のお気持ちとしてあれを推し進めていきたいとお考えになってるんですか。」それに小林は、次のように答えている。
扱う対象は実は何でもいいのです。ただそれがほんとうに一流の作品でさえあればいい。そうすれば、あらゆるものに発見の喜びがあって、どれを書いても同じです。音楽でも、美術でも、小説でも、それが西洋のものであれ、日本のものであれ、ともかく一流というものの間には非常に深いアナロジーがある。」(この後、荒の応答後に小林が続く)
「こんな風なことも考える。例えば、僕は長い間中絶してから、「ドストエフスキーの文学」をまた書こうと思っていますけれども、彼に関するいろいろな批評を読んでしまうと、いろいろな意見が互に相殺して、結局何も言わない原文だけ残るという感じをどうしようもないのだね。批評家は誰も早く獲物がしとめたい猟師のようなものでね。ドストエフスキイはこういうものだと、うまく兔を殺すように殺してしまって、そうしてみせてくれる。兔を一匹二匹と見せられているうちは、まず面白い。兔の死骸がしこたま積み上げられるとなると閉口するのだよ。全然兔が捕まらない批評だってあったっていいだろう。そうすると、批評というものがだんだん平凡な解説に似て来るんです。勝手な解釈は極力避けるということになるから、原文尊重主義というものになって来る。昔の人は原文というものを非常に大事にした。古典といってね。批評精神が発達しなかった証拠という風ばかり考えたがるが、そこにはやはり深い智慧があるのだ。原文尊重という智慧だ。古典を絶対に傷つけたくなくなるんだ。勝手に解釈するのが嫌になるんだ。古典を愛してそのまま読む、幾度も読むうちに原文の美がいよいよ深まって来る。そういう批評もあるのだ。現代では一番軽蔑されている批評方法だ。批評家とは読むことを知っている人だ。――これはたしかサント・ブウブの言葉だが、あの言葉だって、取りようによっては大変深刻な言葉です。一番立派な解説が一番立派な批評でもある。そういう道があるわけだ。解説は一番やさしく又一番難しい。」 (太字は筆者、注)


長い引用になったが、最初の引用も同じだが、戦争の時代を小林が何を拠り所にして批評家としての自分をどう築いて来たか、平易な言葉で正直に語られていると思った。戦後が始まったこの時期、小林が改めてドストエフスキー文学に向かおうとした批評精神の内実とその探求の実践方法が、巧みな比喩によって宣言されていると感じた。

小林は、「沈黙の三年」を経てその到達した批評精神をやっと語り始めることができた。小林のその後に歩んだ批評家の生涯を知る者として、ここでの言葉が、単なる抽象的な宣言ではなく、小林の批評家人生を最後まで貫抜いた生きられた具体的な準則であったことが分かる。この時に小林が到達した、その批評精神を鍛えたものこそ、批評対象として一流の「実朝」であり「ドストエフスキー」であったのだ。そこに深いアナロジーを発見したが、それ以上の理屈はなかったのだと、小林はそう言っているようだ。そしてその問題の探求に向かうと、「戦争なぞとは関係のない世界に入りこんでしまう」とまで言っていて、「そこに帰ると非常に孤独になる」とも語っていた。おそらくそこに、「実朝」と「ラスコーリニコフ」の「孤独な精神」の深いアナロジーの世界を発見したからなのだろう。

そしてその際、小林の批評文学の哲学的な土台になったのが、ベルクソンの人間精神(心)を探求する哲学であり、その経験の哲学を支える幾つかの方法ではなかったかと考える。
それは単なる抽象的な理屈ではなく、実在を根拠とする具体的な方法となって小林の文体として機能した。例えば、小林が重ねて引用する兔を仕留めるやり方、すなわち数多あるドストエフスキーの文学解釈は、ベルクソンによる観念論哲学における「一般観念」批判の応用でなかったか。実在に根拠を持たない「一般観念」を弄ぶ作品解釈は、いくら試みても兔の死体を積み重ねるだけで実在には到達しない。究極には、「ゼノンの矢」あるいは「アキレスと亀」の譬えが示すところか。そしてその解釈の根本的批判の前提には、小林がドストエフスキーの文学にベルクソンの哲学との本質的アナロジーを発見したことがあった。次に、そのことを語ったと思える小林の文章を引用してみよう。

ここで、今回標題にも掲げた小林の戦後本格的なドストエフスキー批評の先駆となった、この時期発表された宣言的文章「感想――ドストエフスキイのこと」(1946.11)を紹介する。但し、これまでにも触れてきた郡司勝義氏の『ドストエフスキイ全論考』(1981)の巻末解題(p.526)では、次のように紹介されていて、その実際に書かれた時期(下書き等)について気になるところがあり、全体の判読に問題が残る批評文とも言える。
「昭和二十一年十一月十日から十三日まで、四回にわたって「時事新報」に発表された。これは昭和十七年に「カラマアゾフの兄弟」を書き、さらにドストエフスキイについての論文を書く構想をねっていた時期の、いわば中間報告である。さらに二年たって、昭和二十三年十一月に発表された「『罪と罰』についてⅡ」を読めば、明瞭なことである。」

それでは兎に角、前述のドストエフスキー文学とベルクソン哲学のアナロジーの交叉する問題を小林が意識して記したと思える文章をこの批評文から抜粋してみよう。やや長くなるが、本文終了間際の段落から引用する。(前掲書『全作品15』p.45-46、下線は筆者)

「ドストエフスキイは、哲学的作家という様なものではない。僕は、哲学者と小説家とを同居させた一つの精神を考える。彼の哲学的教養は、殆ど言うに足りなかったと思われるが、彼がイデアの世界を創り出さなかったのは、見える世界の形しか決して信じようとせぬ小説家という同居人の反対によるのである。彼の作中の男女が、愛し合い乍ら憎み合う様な関係を、この二人の同居人は結んでいたのではあるまいか。

両者の不断の烈しい対話が、この作者の生涯を貫く。而も、この両者は、各自の能力を行使しようとして、限りなく複雑に分化しようとする知性と、いよいよ単純に深化してゆく直覚との交叉に悩むのである。ここに現れる混乱と矛盾は凡そ徹底したものであって、この疑わしさの渦の中から、例えば、アリョシャが正しいかイヴァンが正しいかという様な問題を掬い上げる事は、殆ど児戯に類する。

要するに、彼の作品の「不安な途轍もない」姿は、完全な失敗でなければ、完全な勝利の様に見え、どちらか選ぶように、僕等に強要している様に思われる。怠惰なる研究家が、その特権を行使するのはまさに其処だ、という風に僕には考えられる。」

まず末尾に「怠惰なる研究家」という、小林が自分を擬えてそう呼んだ言葉が出てくる。これは、前掲引用の座談会での「兔狩り」の譬え話が座談冒頭にも引かれていて、「勤勉な研究家」はドストエフスキー文学が投げかける問題に、色々と理屈(「一般観念」)を付けて白黒付けるところを、自分は「怠惰な研究家」の特権を行使して「兔狩りはしない」と自嘲的に繰り返し述べている箇所に重なろう。

元々、小林がこの比喩に拘るのは、ドストエフスキーがイデア的世界観を結果的に肯定した近代哲学者に対立する(哲学)者として、見える世界の形(「持続」)しか信じない小説家であったとの認識による。そこから、ドストエフスキー文学の本質は、知性と直覚の交叉に悩む「疑わしさの渦」そのものの世界、両者の烈しい対話的世界ということになった。

この小林の卓見こそ、この宇宙の本質を物質的傾向と生命的傾向の二元的な混沌的自然と見たベルクソン哲学とドストエフスキー文学との本質的類似性の発見から来ていた。

そして小林は、この時期そのドストエフスキー文学の「謎めいた姿」「何か巨きな非決定性」「解いてはならぬ謎の力」に促されて、「それが僕に彼の作について又しても新しく書き始める様に迫る。白い原稿用紙で、何がかけるかわからぬ冒険をするように要求する。僕は、彼の作品に関する新しい解釈などを、今はもう少しも望んでいない。」(前掲書p.46)と本批評末尾に記して、「『罪と罰』についてⅡ」執筆の足場を宣言することになった。

さらに、折角なので小林が本論「感想――ドストエフスキイのこと」において、ベルクソン哲学を意識し、その本質的アナロジーを語ったと思われる箇所をもう一つ最後に引いておきたい。本論出だしに「怠惰な研究家の特権」の譬え話があった後、「ドストエフスキーが小説の上にもたらした革命は非常なもので」と始まる、バルザックの小説との対比的な説明が続いた後の締めくくりに、次のような「定言」が飛び出してくる。(太字、筆者)

 「彼(ドストエフスキー、注)の創造の大事な基盤の一つは、言わば、精神物理学者の人間の内部に於ける原子力の発見の様なもので、その生物とともに古い爆発物の爆発を、歴史的評価という様な頼りないもので覆って置く事は難しかろう。」(前掲書p.40-41)

ここで「精神物理学者」とは人間の精神(心)を哲学の対象として、現代物理学者がするように厳密な思考(直観)で立ち向かったベルクソンをモデルとしている。その功績は、原子力の発見に比すべき、生物進化の過程に「時間」を発見して「創造的進化」を語った。小林は、そのベルクソンとドストエフスキーとのアナロジーを語っているのだ。  
(2024.7.17)





寄 稿


オレオレ詐欺と非凡人思想


下原敏彦


毎週月曜日から金曜日にかけて、NHKテレビの午後6時45分頃から数分ほど放映される番組がある。タイトルは、こんなだ。
「STOP 詐欺被害、私たちはだまされない !!」
内容は、今日、詐欺犯が℡をかけた地域を知らせたあと、イラストと音声で詐欺犯の手口や被害を伝えている。

オレオレ詐欺対策で毎日のように、こうして警報を鳴らしている。しかし、被害者は増える一方だという。なぜか ? 詐欺犯のなかには若者が多くなった。そんな証言もある。
 
数年前の春、NHKテレビで「詐欺の子」というドキュメンタリー風のドラマが放映された。詐欺でお金を取りに行く「受け子」とか「出し子」と呼ばれる若者たちをドキュメントタッチで描いていた。インタビューに答える彼らは、普通の真面目な若者に見えた。彼らは、どんな指導方法によって詐欺という悪事に加担するようになったのか。

見ていて、不思議に思ったのは、彼らにまったく犯罪者の陰を感じないのだ。人を騙している。悪事に手を染めている。そんなうしろめたさが感じられないのである。「受け子」や「出し子」の若者たちは、普通のアルバイトをしているように。それ以上に、堂々と快活そうにやっている。むろん一部の若者だが…。

いったい彼らは、どんな騙しのテクニックを教わっているのか。高学歴の若者がカルトに染まる。それとおなじように思えた。彼らが講習を受けている画像があった。見た人もいるかと思いますが――驚いた。

詐欺師の講師がレクチャーしていたのは、いかにして人を騙すか、嘘を信じさせるか、ではなく、いかにして多くの人を幸福にするか、困っている人を救うか、そんな話をしていたのだ。

たとえば、こんな調子だ。「お金をもっているお年寄りがいます。お年寄りは、お金に不自由していません。お金は、タンスの奥に眠っています。お年寄りが亡くなったら、お金には困らない親族たちがわけて贅沢に暮らすだけです。世の中には、お金を本当に必要としている人たち、困っている人たちがいます。そうした人たちのために、あるところからないところに流す。これっていけないことでしょうか。間違っていますか。」一人のお年寄りのおかげで、大勢の若い人が助かるのです。

一瞬、耳を疑った。そのあと、この台詞、どこかで聞いたような話、と思った。そうです、このセリフ、『罪と罰』で、最初に主人公ラスコーリニコフが安料理屋で耳にした会話である。善い世の中をつくるためには、人類二分法が必要。凡人と非凡人に分けて、非凡人にその権利を与える。非凡人には一つの悪事は許される。奇妙な思想にとりつかれた主人公は、この会話で迷っていた強盗殺人を決意し実行するのだ。
 
一人殺せば殺人犯だが、100人なら英雄だ。千円ならこそ泥だが百万円なら革命家。少し長めだが、この物語のテーマを為す思想と思うので抜粋してみる。
 
一方には、おろかで、無意味で、くだらなくて意地悪で、病身の婆さんがいる。だれにも必要のない、それどころかみなの害になる存在で、自分でも何のためにいきているのかわかっていないし、ほっておいてもじきに死んでしまう婆さんだ。わかるかい」
「ところがその一方では、若くてぴちぴちした連中が、誰の援助もないために、みすみす見を滅ぼしている。それも何千人となく、いたるところでだ! 修道院へ寄付される婆さんの金があれば何百、何千というを立派な事業や計画を、ものにすることができる!何百、何千という人たちを正業につかせ、何十という家族を貧困から、零楽、滅亡から、堕落から、性病院から救いだせる――これが、みんな彼女の金でできるんだ。じゃ、彼女を殺して、その金を奪ったらどうか。/ひとつのちっぽけな犯罪は数千の善行によってつぐなえないものだろうか?ひとつの生命を代償に、数千の生命を腐敗と堕落から救うんだ。ひとつの生命と百の生命をとりかえる。―

詐欺グループの講師がレクチャーしていた話の内容は、人を騙す法ではなく、『罪と罰』のテーマ、非凡人思想だった。自分たちの行為は、世界を救う。世の中をよくする。逮捕された「受け子」や「出し子」の若者たちは、それを信じたようだ。。自分は未来のために、正しいことをやっている。その思いが若者たちから罪悪感を消し去っている。地下鉄サリン事件を起こしたオウムの若者たちと重なった。これもテレビのドキュメンタリーのだが、「連合赤軍派の現在」で「自分たちの思想は間違っていない」と主張する彼らも同じである。

『罪と罰』のテーマが、悪事に利用されている。このような詐欺の手法は、ドストエフスキーを愛読してきた読者としては、断じて看過できない。若者たちには自ら『罪と罰』を読んでほしいと切に願う。



大切なお知らせ

読書会の会場が変わります。

東京芸術劇場が、設備更新工事を行うため長期休館します。
期間:2024年9月30日~2025年7月(予定)

これに伴って、2024年10月開催より読書会の会場が以下の場所に変更になり、会場確保の都合により平日開催となります。どうぞご了解ください。

IKE Biz としま産業振興プラザ 第一会議室(5階)
 
〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-37-4 (Tel.03-3989-3131)
(池袋駅西口より徒歩約10分、メトロポリタン改札より約7分)

IKE Biz としま産業振興プラザへのアクセス





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「読書会通信」編集室 〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原敏彦方