ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.201
 発行:2023.12.10


第319回12月読書会のお知らせ


月 日 : 2023年12月16日(土) 
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分 
時 間 : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品 : 虐げられし人々
報告者 :  徳増多加志さん

会場費 : 1000円(学生500円)
 


☆全作品を読む会2月読書会
  日時:2024年2月17日(土)14:00~16:45
  会場:東京芸術劇場小5会議室  
  作品:未定

☆大阪読書会 (第77回)
  日時:2024年1月26日(金)14:00~16:00 
  会場: 東大阪ローカル記者クラブ 
  作品:『虐げられた人々』第二編




2024年12月読書会


作品:『虐げられし人々』


報告者:徳増多加志さん



資料1


偉大な芸術に入るための恰好な門  米川正夫
 
『虐げられし人々』は、ドストエーフスキイの創作の頂点を形づくっている『罪と罰』以後の一連の大作にくらべてはもちろん、ほとんど同時に書かれた『死の家の記録』に比較しても、芸術的にははるかに低い評価を受けなければならぬけれども、ペテルブルグという陰鬱な都会の持つ不思議に魅惑的な雰囲気の中に、猟奇的秘密の糸をくり拡げて、読者の好奇心を最後まで強くつかんで話さないドラマチックな構成。主要人物の特異な性格、作者の烈々たる人道的情熱、その厳粛なモラルなど、ドストエーフスキイの芸術の根幹をなしている特徴と、その典型的手法がことごとく鮮明に輪郭を現している上に、文壇デビューした当時の作者自身の境遇や感懐を、説話者たる青年文学者に託して、ドストエーフスキイとしては珍しく、自伝的要素を濃厚に加味している点、他の傑作に見られない特殊な親しみを感じさせる作品である。このインチメートな感じと物語の小説的興味とは、『虐げられし人々』を一般読者にとって、ドストエーフスキイの偉大な芸術に入るための恰好の門となっている。

『虐げられし人々』全編を通じて、描写に最も真実性の豊かなのはイフメーネフ老夫婦であろう。スミットとその娘、及び孫のネルリに関する挿話はあまりに小説的で迫真性を欠いているが、ネルリの像の中にドストエーフスキイの主張している詩情が脈打っているのはいなめない。
(『ドストエーフスキイ全集3『虐げられし人々』解説より)


シェイクスピアの完全無欠な創造物とは違う  J.A.ロイド

しかし何びとも、シェイクスピアその人すらも、この『虐げられし人々』を自伝の一部とする虐げられしものの小説家以上に、人間の魂を公平無視にのぞき込みはしなかった。


私は感動と愉悦をもって読了した。 トルストイ

わたしは自分を彼と較べようなどとは、一度も考えたことがない。彼が書いたものはことごとく、―よいもの、真実なものだけを指しているのだが、―ああいうふうだったので、彼があんなにやればやるほど、わたしはますます喜んだわけだ。芸術的完璧と知性とは、わたしに羨望の念をそそるが、まごころから出た作品は、歓喜を誘い出す・・・彼が亡くなる数日前、わたしは感動と愉悦をもって、『虐げられし人々』を読了した。



資料2


ドキュメント『虐げられし人々』(米川正夫『ドストエーフスキイ研究』より)


■ 1860年(39歳)
1月、モスクワ・オノフスキイ出版所より初の本著作集刊行。
4月、文学者救済基金協会、慈善興業としてゴーゴリ作『検察官』上演。ドストエーフスキイ、郵便局長役で出演。
7月、兄との協同編集にかかわる月刊誌『時代』、聖ペテルブルグ検閲委員会より刊行許可を得る。
9月、『時代』誌創刊の予告広告文発表。週刊紙『ロシア世界』67号より『死の家の記録』を緒言から連載。『虐げられし人々』起稿。フランス刑事事件文献の中にラスネール事件を発見。「殺人犯の文学者に関心を抱く。

■ 1861年(40歳)
1月、『時代』誌刊行、『虐げられし人々』を創刊号より7月号まで連載。かつての主治医ヤノーフスキイの妻、女優アレキサンドラ・シューベルトと交際。数ヶ月で終わる。
2月、『時代』第2号にラスネール事件発表。19日、農奴解放令発布。
4月、『死の家の記録』を『時代』に再び緒言より連載、断続して翌年に至る。
9月、ドブロリューボフ、『現代人』9月号に『打ちのめされた人々』論発表。『時代』誌にアポリナーリャ・スースロヴァの短編掲載。
12月、ツルゲーネフ、『死の家の記録』を賞賛。『現代人』誌上で『時代』誌を批判。ドストエーフスキイ、医大生ナジェージダ・スースロヴァ(アポリナーリャの妹)と交際。オストロフスキイ、ドブロリューボフ、サルトゥイコフ、シチェドリン、グリゴーリエフなど知巳になる。



資料3


『虐げられし人々』の翻訳  

ナダ出版センターホームページより
http://homepage3.nifty.com/nada/index.html

明治26年(1893)
5月 損害と侮辱と 高安月郊訳 同志社文学(~7月) [虐げられし人々]
明治27年(1894)
5月 損辱 内田魯庵訳 国民之友(~28年6月) [虐げられし人々]
3月 虐げられし人々(上下) 昇曙夢訳 近代名著文庫6 新潮社
8月 虐げられし人々(上巻・下巻) 加藤朝鳥訳 アカギ叢書 赤城正蔵(~9月)
大正7年6月 虐げられし人々 昇曙夢 ドストエーフスキイ全集2 新潮社
1月 虐げられし人々 中村白葉訳 婦人世界(~12月)
11月 虐げられし人々 中村白葉訳 近代名著物語叢書1 上方屋出版部
大正14年10月 虐げられし人々 昇曙夢訳
虐げられ辱められし人々(細田民樹)死の家の記録(田中純)

国立国会図書館蔵書検索・申込システム(NDL-OPAC)  
http://opac.ndl.go.jp/index.html

大正13年 『虐られし人々』佐々木味津三訳 春陽堂
昭和7年(1932)『虐げられし人々』前後編 昇曙夢訳 春陽堂 世界名作文庫
昭和10年(1935)『虐げられし人々』昇曙夢訳 新潮社 世界名作文庫
昭和23年(1948)『虐げられた人々』上巻 昇曙夢訳 日本社 日本文庫
昭和26年(1951)『虐げられた人々』神西清、中沢美彦共訳 角川書店 角川文庫
昭和28年(1953)『虐げられた人々』小沼文彦訳 岩波書店  岩波文庫
昭和29年(1954)『虐げられし人々』米川正夫訳 『ドストエーフスキイ全集3』



資料4


『虐げられし人々』について。ドストエーフスキイの書簡より。

■A.I.シューベルトへ 
(1860年5月3日)

わたしは当地へ帰って、まったく熱病やみのような状態でいます。いっさいの原因はわたしの長編(おそらく『虐げられし人々』)なのです。わたしにはわかっていますが、わたしの文学上の運命はその成功いかんにかかっているのです。これから3カ月ばかり、昼も夜も書かなくてはならないでしょう。

■A.P.ミリューコフ(文学史家・批評家)へ 
(1860年9月10日)

小生は執筆に着手しました。まだどんなことになるかわかりませんが、背中も伸ばさずに仕事をする覚悟です。

■F.N.ベルグ(詩人・ジャーナリスト)へ 
(1861年6月12日)

親愛なるフョードル・ニコラエヴィチ。『虐げられし人々』を取り扱われた貴兄の論文(雑誌『ヴレーミャ』に寄せられてもの)の一ヶ所を、ちがった意味にとったことは、小生としてまことに不快であり、かつ恥ずかしく思います。



10月読書会報告
 1

10月14日(土)参加者 11名。1名の初参加がありました。



連 載



「ドストエフスキー体験」をめぐる群像


 (第110回)小林秀雄の「ドストエフスキー・ノート」と「ベルクソン体験」①  

福井勝也


「読書会通信」も前回で通算200号になり、年6回発行なので単純計算して33年以上、一世代を越えて届けられてきた勘定になる。なお恐縮だが本連載も今回110回を迎えて、第93号(2005.12.10)が初回なので、既に18年が経過した。本人にしても驚きである。この機会に、拙文にこれまでお付き合いくださった読者諸氏に、そして本誌編集発行元である下原夫妻には心から感謝しなければならないと思う。真に有り難いことである。

さて本年は標題に掲げた小林秀雄(1902-1983)の没後40年に当たり、昨年は生誕120年であった。これまでの本連載稿を振り返って今更の仕切り直しでもないが、改めて感じたことがある。自身がドストエフスキーを愛読する源泉となってきた小林秀雄の存在の大きさである。十年前の没後30年(2013年)の時も、小林に纏わる思いを書き綴ったが、未だ語られていないと思うことも数多あり、その感慨を近年更に深くしている。

そのひとつは、昭和初期に開始された小林の「ドストエフスキー・ノート」(作品論)を読み返しながら、その背後に小林を類い希な批評家に育んだ思考の土壌とも言える「ベルクソン哲学」が見て取れることだ。今回の標題も、「ドストエフスキー・ノート」に改めて着目しながら、同時期に併走していた小林の「ベルクソン体験」を考察し、それが「ノート」にどう反映したかを具体的に探ってみたいと思った。

今回考察の第一期は、小林の文学活動が始動する大正期末頃から本格化する昭和10年頃まで。その具体的画期としては、大正13年7月の小説「一ツの脳髄」発表から、昭和10年1月に「文學界」編集責任者となり、同誌に「ドストエフスキーの生活」を連載し始めた頃までを始めの一区切りとしたい。(なおこの連載は12年3月まで続き、さらに序文「歴史について」が付されて14年5月に『ドストエフスキーの生活』として刊行された。)
 
この時期、小林の主な関心は、ドストエフスキー(文学)、ベルクソン(哲学)、アインシュタイン(現代物理学)の三つの方向に徐々に絞られて行ったというのが、当方の大筋の見立てである。そしてこの三者への関心は、当面の主な対象にドストエフスキー文学を論ずるうえで、後二者への独立した探求がその拠り所になったと基本的に考えている。
 
そうだとすれば、これ以降小林のドストエフスキーの論稿を正確に読み取るためには、後二者の理解とそれへの考察が必要だと思える。但し、実は同時に後二者間の相関した関係も独立した内容を孕んでいた。そこから、物理学者アインシュタインと哲学者ベルクソンの対立という歴史事実(ベルクソンのアインシュタイン批判の著作『持続と同時性』(1922)の刊行からその絶版に至る経緯の問題)が生じて来る。小林が戦後独立したベルクソン論「感想」を書き続けたのも(『新潮』に昭和33年5月から38年6月号(56回)まで連載しつつ中断を余儀なくされた)、この「哲学と物理学とのあいだの空前の対立劇」(『定本 小林秀雄』前田英樹著、2015)に強い関心を抱いたからであろう。その関心は、彼自身が解決に寄与すべき独立の問題として現れた。その意味でも、それが中絶を余儀なくされた結末は、小林のその後の批評家活動に大きな影を落とした可能性がある。
 
その一つの反響が、ベルクソン論「感想」中断後程なくの「ドストエフスキー・ノート」終結になった。具体的には、戦後の昭和27年5月から28年1月まで書き続けられ、その後中断されていた「『白痴』についてⅡ」が、この時期(昭和39年1月)その最終章が加筆されて結末が着けられた。さらにそれが、角川書店より単行本『「白痴」について』として刊行されたのだった(昭和39年5月)。「ドストエフスキー・ノート」(作品論)で単行本化されたのが生涯にこの一冊であってみれば、小林には異例の事態であった。
 
ここに、長年の小林のドストエフスキー批評への意識的な区切りを見ることもできる。しかし、この原因が流布されている「キリスト教というものが私にはわからなかった」という小林の言葉(対談「人間の建設」岡潔・小林秀雄、昭和40年10月「新潮」)だけでは、なかなか納得させられないものが残る。
 
かつて山城むつみ氏は「小林批評のクリティカル・ポイント」(「群像」1992年6月号)という論考で、この時期を小林の批評活動の<頂点>とする(結果的には、この後昭和40年10月から「新潮」で開始される「本居宣長」を小林批評の<衰退>と見る)見解を提起した。当方も当初、山城氏のこの時期への着眼に鋭いものを感じたが、生涯全体に亘る小林の批評家としての成熟達成を見渡す時、やはり<その見通しの悪さ>を指摘することになった(「小林秀雄、戦後批評の結節点としてのドストエフスキー - ムイシュキンから「物のあはれ」へ 」「広場24号」2015.4 )。
 
ここで結論的なことを言うのは、やや早計なのだが、小林をかくまで深いドストエフスキー批評家に導いたのは、言わば氏の「ドストエフスキー体験」であり、それと同機したと思えるベルグソン哲学の愛読、すなわち「ベルクソン体験」に因るものと考える。
 
そして、この「結節点」(クリティカル・ポイント)とは、それまでの成果が小林を十分に養った「臨界点」であったと言うべきで、同時にそれが晩年の小林の批評家としての成熟を促す「機縁」になった。換言すれば、この「機縁」こそ、徐々に小林を最後の批評対象の「本居宣長」を浮かび上がらせるための持続(努力)の「臨界点」であった。
 
小林はその都度の心の促しから、批評対象を鋭敏に選び取ってきた宿命の批評家である。そして結局、その果実のほぼすべてが「本居宣長」に流れ込んだものと考えられる。
 
とりあえず、今回論稿での始まりに、ある見通しをつけて結論らしきものを書いてみた。ここで一旦、問題を元に戻して具体的に述べる必要があろう。すなわち、前述第一期その頃に絞られて以後中軸になった三つの方向が、どう準備されたのか。まずは、生涯小林の思索の土壌を養った「ベルクソン体験」から考えてみたい。
 
小林は、いつ頃からベルクソンに親しみ始めたのか。その「ベルクソン体験」が語られた貴重な記録を示してみたい。最期まで親交があった編集者郡司勝義氏による、生涯小林が愛読した一冊『物質と記憶』に関する最晩年に聞き取られたエッセイ記事(“一冊入魂”達人・小林秀雄の読書法、『ノーサイド』p.23、文藝春秋社1994年12月号)である。その一部を引用する。途中、郡司氏による説明と小林への問いが挟みこまれている。
 
《 「『物質と記憶』だね、あれを本格的に読みはじめたのは、盲腸の再手術がきっかけなんだよ。(小林は、大正14年大学生になった秋に伊豆大島へ旅行する。帰京後盲腸炎の手術をしたが、不手際で再手術となり大変に苦しんだ経験が同紙で語られている。-注)原書の副題が眼についてね、それに惹かれだしたんだからね。」 副題とは、「精神に対する身体の関係についての試論」(仏語題名略、注)とあって、当時はフェリクス・アルカン社から刊行されていたが、現在とは違って本の背中にも、表紙にも、内容が一目でわかるように、この副題が刷り込まれていたのだった。―― 高橋里美訳は、大正三年にすでに出ていましたね、それとは‥‥。 「勿論、原書も買ってもっていたし、対照して読んでいた。今の人には、あの翻訳の文章は親しみづらかろう。が、実に丁寧によく出来ているね。文庫本(岩波文庫の刊行は、昭和11年-注)で出てからは、手軽で便利だから、常住座臥かたわらに置いて、折りにふれて読んだものだった。僕の生涯のうちで、あれほど隅から隅まで、魂を打ち込んで読んだものは、他にない。‥‥」(中略) もう、これ以上、ベルクソンにのめり込んだ人は、他に見出せないだろう、と思ったものだった。 「‥‥僕は、やっぱりベルクソンの『埒内』でしか生きていけないのかな。」と苦笑した。―― 『埒内』とか『枠内』とかいう言葉は、もう、やめましょうよ。『土台』とか『基盤』とか、言うことにして‥‥。 》 (引用途中の注と太字 は、福井)

さらに氏は、同紙面でベルクソンの四つの主著 『時間と自由(意識の直接与件への試論)』(1889.30歳)、『物質と記憶』(1896.37歳)、『創造的進化』(1907.48歳)、『道徳と宗教の二源泉』(1932.73歳)を順次列挙しながら、小林の確信的な読書法について、次のように語っている。「 が、小林氏にとって、ベルクソンの思想を年代的、発展的にとらえるのではなく、いきなりその中心が、すべて『物質と記憶』のなかに在るというのだった。だから、これを読み解くのが重要なことであって、それだけ難解であるというのだった」(同、p.18)。

小林にとって、ベルクソンの書物との邂逅は特別なもので、とりわけ『物質と記憶』はなかでも格別な著書としてあった。そしてここには、小林の徹底した読書体験の要点が巧みに捉えられていると感じた。そのことは、例の連載「感想」が基本的に『物質と記憶』を中心に論じられていたことにも通じていた。なお、聞き取り記事では『本居宣長』刊行(昭和52年)以降に、中断したままのベルクソン論の再開意欲が郡司氏に語られていたことも記されていて、小林晩年の重要な伝記的事実が報告されていると思った。

なお、ここでの小林の述懐は、ベルクソン哲学の日本での翻訳・受容の仕方と当然に関係している。しかしそのあり方は、ベルクソンという哲学者の世界的な(世間的な)評価の毀誉褒貶とは、元々無関係であり得た。つまり小林の<愛読>の「ベルクソン体験」は、その世俗的なベルクソン哲学の流行と一線を画した独自なものとして受容されたと言える。

例えば、仮にその「流行」の頂点を1927(昭和2)年のノーベル文学賞受賞とすれば、第三の主要著書『創造的進化』が刊行された1907(明治40)年頃から大正昭和初期を通じて、世界では(日本でも)そのベルクソン・ブームが長らく続いてきたと言える。小林は、ほぼ同時期に思想家としての成長を培ったのだが、それは郡司氏が紹介したように、単なる<影響>の範疇を超え、<絶対的な経験>と言える「ベルクソン体験」としてあった。

丁度それは、小林を本邦初の「批評家」として養ったロシア文学とりわけドストエフスキー受容が「ドストエフスキー体験」であったように。それらは、ほぼ時期も重なっていた。

次に、この「ドストエフスキー体験」の内実が小林にどう語られたかを引いてみたい。
この点で、小林が自らその読書体験を語る貴重な鼎談記録(「文学と人生」小林秀雄・中村光夫・福田恆存、『新潮』昭和38年8月号)を紹介してみる。その談話の始まり「ロシア文学と日本人」では「小林さんはいつごろドストエフスキーを読み出したのですか」と、中村が小林に率直に問いかける。それに小林は、「早いですよ。中学生のころだ。新潮社から固い小さな本で翻訳書がたくさん出ましたよ。あれはほとんどロシアですからな。ツルゲーネフとかトルストイとか、大きいものはみんな出たでしょう。買えばどうしたってロシアなんだ。そのくらい出ていたな」と即答し、何とも嬉しそうに述懐している。

なお、この鼎談の直後に小林は作家同盟に招かれて当時のソ連邦へ文学旅行に出発した。そんな時期でもあって、様々な意味でタイミングを感じさせられる鼎談になっている。

例えば、引用の告白直前には、小林は世代的なロシア文学体験も証言してみせている。「僕らが文学を習ったのは、詩はフランスだけれども、小説はロシアでしょう。ドストエフスキイやチェーホフの墓参りぐらいしなきゃ。あんなに世話になっているんだもの。ロシア文学は僕らの年輩ではみんな読んだものだ。それからあとになるとそうでもないんだな。」と貴重な懐旧をしている。そしてこの鼎談時期こそ、丁度例のベルクソン論「感想」中断(6月号)にも重なっていて、小林の批評家人生にとって晩年への「結節点」としてあった。

先の議論に戻ってしまいそうだが、小林は確かに、このソ連旅行でドストエフスキーの墓参もしている。これも、この時期小林が呼び寄せた「機縁」の出来事だったと思う。

最後もう一つ、この時期に連なり今回主題を考えるうえで欠かせない、数学者岡潔との対談「人間の建設」(昭和40年10月、「新潮」掲載)を紹介してみたい。ここには、ドストエフスキーもベルクソンもアインシュタインもすべてが登場してくる。現在新潮文庫版『人間の建設』で170頁余の内容だが、当初、どうしてこんな対談(文庫カバー裏表紙には、「日本史上最も知的な雑談」と書かれている)が実現したのかと強い興味を感じた。

対談中の岡との遣り取りで、小林が執拗に理論物理学に言及する場面が出て来る。そこで岡が、「さすがに小林さんは理論物理学も相当に御研究なさっている」と発言していて、小林はそれに次のように応じてみせる。「とんでもないことです。私は若いころにそういうことを考えたことがあるのです。アインシュタインが日本に来たことがありますね(1922、大正11年-注)。あのころたいへんはやったわけです。このはやり方というものも実に不思議でして、そのとき一高におりましたが(一高二年生20歳-注)、土井さんという物理の先生が「絶対的世界観について」という試験問題を出したのです。無茶ですよ。ぼくは何もわからないから白紙で出しましたが、それほどはやったわけです。それから暫くたって、ぼくは感じたのです。新式の唯物論哲学などというものは寝言かも知れないが、科学の世界では、なんとも言いようのないような物質理論上の変化が起こっているらしい。そちらのほうは本物らしい、と感じて、それから少し勉強しようと思ったのです。そのころ通俗解説書というものがむやみと出ましたでしょう。」 
(同文庫p.65-66、太字と注は福井)

どうもこの対談の出だしを読むと、京都「大文字山焼き」の当日に行われたものらしい。あと時期的に注目すべきは、今までにも触れてきたが、小林が、この対談の直前の六月から「本居宣長」の「新潮」での連載を開始していたことだ(昭和51年12月まで)。言わば、この対談は、批評対象をドストエフスキー、ベルクソンから本居宣長に切り替えた時期の<結節点>に、小林から仕掛けられたものではなかったか。言わば、その<機縁>の対談相手に数学者の岡潔が選ばれたのであった。そう思うと、それまでの小林批評のエッセンスが様々に主題を変えて繰り出されていて(例えば、結末を付けたばかりの「白痴論」も話題になっている)、小林はこの対談でこれまでの批評活動に区切りを付け、新たな「本居宣長」に問題意識を繋げようとしているようにも読める。ただし、相手が数学者でもあれば、当然に話題は科学をめぐってということになる。そして上述引用の小林の応答がなされた。

確かにここには、通俗の受容とは違う小林の「アインシュタイン体験」が直観的なかたちで噴出して語られている。更にここで思い出されるのは、物理学者の湯川秀樹氏との対談「人間の進歩について」が、同じ「新潮」で昭和23年夏頃になされていたことだ。そこでもアインシュタインがベルクソンと一緒に話題となった。但し今回は、連載「感想」中断の原因となったベルクソンの『持続と同時性』が話題の核にならざるを得なかった。

今回から標題のテーマで書き始めた内容だが、小林が戦後(昭和39年)に至るまで書き続けた「ドストエフスキー・ノート」については、テーマに即して今後順次触れてゆく予定である。その前に、同時期小林の関心が併走したベルクソンとアインシュタインについて、まず先に触れておこうと思った。今回の引用で示しかったのは、小林が文学に目覚め、やがて本格的に「ドストエフスキー・ノート」を書き始めた頃(第一期)についてであった。

それを準備した「ドストエフスキー体験」には、それと同じ位にベルクソンとアインシュタインを愛読する<体験>があったということだ。そしてそれは、おそらく生涯を貫く小林の批評活動のバックボーンとしてあり続けたが、そのことが露呈する<結節点>の時期もあって、その意味にも注意しつつ小林秀雄の批評文学を振り返ってみるべきだと考えた。そこから、ドストエフスキー文学の新たな読みが開ければと思っている‥‥(2023.11.9)



【広 場】



プレイバック
 

◎ドストエーフスキイと私
(ドストエーフスキイの会発行『ドストエーフスキイ広場 No.13 2004』より)
  
平哲夫

「俺は何と嫌な奴なんだろう。」・・・だったと思いますが、今その本は手許にありません。・・・書き出しのこの言葉に思わず絶句しました。たしか今から51年前(あまりにも昔のことなので真剣に計算してみました。)1953年(昭和28年)の春、戦後の混沌とした状態がそろそろ収束しはじめ、しかしまだその余韻が残っていた頃、私は20歳の学生でした。中央線高円寺駅のそばの古本屋で、赤と黒の表紙の米川正夫訳「ドストエーフスキイ全集」の1冊『地下生活者の手記』が目に止まり、題名そのものに何やら懐かしさと予感が走り、棚から取り出した時のことです。すぐに買い求め一気に読み通しました。

そして、あの不思議な、驚くべきモノローグの世界に出会ってしまったのです。ドストエーフスキイを全部読もうと決心しました。あちこちの古本屋をあさり廻り、白い箱入りの米川正夫訳ドストエーフスキイ全集(河出書房・たしか昭和17年頃の出版と記憶していますが定かではありません。)を第一巻『貧しき人々』から読み始めました。当時はどこの古本屋でも大抵は棚に並べられて居り、全部で22巻(だったと思いますがはっきりしません。24巻だったかも知れません。)それほどの苦労もなく集められました。

約1年半、『貧しき人々』から『カラマーゾフの兄弟』『作家の日記』まで読み通しました。特に『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』は何度も読み返しました。そして1年半後の1954年(昭和29年)の9月頃(これも真剣に計算しました。)生活の些事に追われる様になり、いつの間にか遠のいてしまったのです。その後の50年間は文学とは無縁の仕事の世界に没頭し、退職後の3年間は茫然自失の余暇を経験しました。長い間に、作品や登場人物の輪郭は次第に風化して行き、一部の作品はストーリーさえ忘却してしまった事に気付きました。それでも頭の片隅にはぼろぼろになりながらも、いくつかの作品や登場人物の思想や性格の骨格部分は住み続いて居り、例えば日本赤軍の浅間山荘事件では即座に「悪霊―特に見開きのルカ伝第8章の1節」を想起し、組合活動で判断に迷った時はドストエーフスキイの回路をさぐり、社員研修ではおぼろげながらゾシマ長老の「精神の自由」について語り合った事もありました。

残念ながら、結婚して引越しを数回くりかえすうちに、いつの間にか全集を全て無くしてしまったのです。今思えば悔やんでも悔やみきれないことですが、でも仕方がない。これから出来るだけ時間をかけ、米川正夫訳でなくとも、本の体裁はどうであれ、全巻の入手を目指してあきらめずにがんばろうと思っています。

昨年10月「読書会」とのお近づきがキッカケで『カラマーゾフの兄弟』を読み返しました。半世紀の長いブランクがあったわけですから、読み返すというより、新たに読んだといった方が正しいかもしれません。読み始めの時はなかなかページが進まず、読了するのに1ヶ月かかりました。実に多くのものを発見しました。これ程魅力に富んだドラマが他にあるだろうか。新鮮な驚きと、感動と、尊敬と・・・言葉ではとても表現できません。しばしば嗚咽しました。昔読んだ時に果たしてこれ程までに感動しただろうか? いや、今回のほうがよほど新鮮で、細部までよく理解でき、感動も大きかった!

去年の暮れから今年の正月にかけて、画家の友人から中村融訳『地下生活者の手記』を借り、これも読み返しとは言えず、新たに読み返した。(その友人は焼け跡時代からの友人で矢張り同じ頃にドストエーフスキイを読んだ仲間でしたが、彼も秘蔵していた米川正夫訳の全集を紛失してしまったとのことです。)読んで、改めて一驚しました。今時、こんな構想を組み立てられる作家がいるだろうか。これも『カラマーゾフの兄弟』同様、半世紀前とは比べ物にならぬ新鮮な驚きを与えてくれたのでした。特にリーザとの邂逅から離別に至るまでの主人公の心の変転・・・これはまるで別世界の事であるかの様に、言葉で説明することは不可能ではないかと感じました。そして、長いモノローグの最後の数ページで主人公(作家)はこの世に対する拒絶と絶望を高らかに断言します。しかしその言葉の陰に言い知れぬ憂愁がただよう。・・・何故、ドストエーフスキイの作品が、これほどまでに私(71歳の老人)を勇気づけてくれるのだろう・・・よくわかりません。しかも半世紀前より、より新鮮に感じるとは! これからもドストエーフスキイを読み続け「読書会」の皆さま始め、多くの皆さまと語り合うことを、生涯の楽しみにして行きたいと思っています。

平哲夫さん。おだやかな雰囲気ながら、沖縄に長く赴任し泡盛で鍛えたという酒豪でした。「小生、心臓と格闘中です。何としても戦い抜いてまた読書会に参加致したく念じています」というお手紙が最後になりました。(編集室)


◎在営中の最初のドストエフスキー的体験
(「全作品読書会読書会通信69号2001」より)

金村繁
                                
文学幼年だったから名前も作品名も知ってはいたが、本当に読み出したのは中年過ぎだからむしろ追体験である。当時の軍隊や共営とは何か。「真空地帯」と「神聖家族」を比べて私には後者の方が真相に近いと思える。

昭和18年に学徒動員があって19年現役入営したら大学生は中隊で私一人だった。多勢の中で孤独を感じ「死の家・・・」を追体験する。名古屋の高射砲から気象隊に回された。神戸並みの大地震に見舞われたし、サドの上等兵に半殺しにされたこともある。夜B29の大群が爆撃して行くとたまに命中して火の玉になって落ちた。その時、いま米国の青年が十何人即死したなと思って敵ながらやる瀬なかった。そのうち原隊に戻されたが仲間の同年兵に日本はもう負けるといったのが早速古い兵隊の耳に入って軍歴何年の神様らがトグロをまいてる中に立たされて貴様もう一度言ってみろとやられた。殺されるかと思ったが「はい、必ず負けます、サイパンが落ちた結果、これこれになります」と思い切って話したら彼らは怒るどころか喜んで有難いそんなら我々も満期で家へ帰れるぞと無事放免された。ここで追体験となるのがスタヴローギンがシャートフを「君は神を信じるか」と問い詰める場面を読んで往事を思い出したのである。その後、陣地が猛爆され大勢の死傷者がでた。私も胸をやられて半日、死んでいた。隣の戦友は、結局戦死した。今にして思えば当時の若者はそれなりに死へのまなざしをしていたが、安保闘争の時分は死の恐怖なしで目付きがたけだけしいばかり、経済成長時代はサラリーマン顔付きはけわしく、今は生きてるのか死んでるのか判らぬ男女が少くない。私はもともと反戦思想だったが、今の日本人には私自身をも含めて「恥を知れ!」と大声でどなりたい。

(付記:これを書いている時米国で一大テロ事件、しばらくは何もできずこれが21世紀なのか?)



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