ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.200 発行:2023.10.4
第318回10月読書会読書会のお知らせ
月 日 : 2023年10月14日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分
時 間 : 午後2時00分~4時45
作 品 : 『死の家の記録』
報告者 : 下原敏彦
会場費 : 1000円(学生500円)
全作品を読む会12月読書会
日時:2023年12月16日(土)14:00~16:45
会場:東京芸術劇場小5会議室
作品:未定
大阪読書会(第77回)
日時:2023年11月24日(金)14:00~16:00
会場:東大阪ローカル記者クラブ
作品:『虐げられた人々』第二編
連絡:080-3854-5101(小野)
10月読書会
作品:『死の家の記録』
報告者:下原敏彦
今、私は『死の家の記録』をどう読むか。
下原敏彦
はじめに
凡そ10年ぶりで『死の家の記録』を読むことになった。だが、私はこの再会をさほど喜んではいない。この作品を前にすると逡巡する。気が重いのである。じつをいうと私は全作品のなかで、この作品を苦手としてきた。この作品は、ドストエフスキ―がシベリアのオムスク監獄で体験した、地獄のような4年間を、作品としては10年間の創作ルポタージュとして描いたもので、他のドストエフスキー作品とは趣を異にしている。しかし、その後の大作を読むうえで重要な作品といわれている。極悪人たちとの監獄生活と彼らが犯した犯罪の数々。面白く読めるはずだが、『貧しき人々』の感動に引きずられていた私にとっては、苦手な作品になっていた。
こんな囚人もいた。あんな犯罪者もいた。監獄では、こんなこともあった、あんなこともあった。はじめのうちは刺激的だが、じきに慣れておどろかなくなる。どんなに異常な犯罪も凶悪犯も数が多いとあきてくる。犯罪の種類は、あげたらきりがない。「ここではもうどんな人間にも、だれも驚きはしない」と『死の家の記録』の書き手が言っているような気分に私自身が落ち込んでしまった。そんなわけで、身を入れて読むことができなかったのである。この作品をあきずに楽しく読むには、どうしたらよいか。今回、私が自分に課したのはそんな課題だった。
◎「福音書」を読むように
ドストエフスキ―が監獄で唯一手に出来た本が『福音書』であったことはよく知られている。
やっとひざのかくれる短い外套の下で、彼はデカブリスト党員の妻にもらった福音書を手探りで探した。(アンリ・トロワイヤ『ドストエフスキー伝』)
フョードル・ミハイロヴィチは徒刑生活の四年間、片ときもこの聖書を離さなかった。その後もこの聖書はたえず目の前の仕事机の上に置いてあって、考えこんだり、何か疑いが起こったりすると、彼はよくこの福音書の勝手なところをひらいて、最初のページにある言葉を読んだ。(アンナ・ドストエフスカヤ『回想のドストエフスキー』)
そうして(臨終の)今も、夫は自分で福音書をひらき、わたしに読んで欲しいと言った。開かれたのはマタイ伝第3章の2ページだった。「ヨハネいなみて言ひけるは、我は汝より洗を浮くべき者なるに、汝かへって我に来たるか。イエス答へけるは、とどむるなかれ、かく大いなるただしきことは我らに尽すべきなり」。「聞いただろう、おまえ。──『とどむるなかれ』つまり、死ぬということだ」と夫は言って、本を閉じた。
(アンナ・ドストエフスカヤ 『回想のドストエフスキー』)
『死の家の記録』もドストエフスキ―をまねて、ひろげた頁から読むという読み方があってもよいのではないか、ふとそう思った。そうやって、あてずっぽうに読んでみると、「ああ、あの囚人の話か」「ああ、あの犯罪の場面か」と、おのずと興味が湧いてきた。監獄や病院に充満する悪臭や部屋着の汚さと不潔さが頁から伝わってくるようになった。6サイクル目にして初めて囚人たち一人一人がみえてきた。
◎「死の家」は「再生の家」だった
研究者の多くが指摘するように、『死の家の記録』は、ドストエフスキ―のその後の作品に大きな影響を与え、たくさんの多彩な人物を生みだした。「死の家」はドストエフスキーの再生のための家だったのだ。
これは表面的には大ルポタージュではあるけれども、その深い底には、将来の大ドストエーフスキイを準備したいくつかの要素を含んでいるのである。(米川正夫『ド全集 別巻』)
『死の家の記録』は、主題、人物、方法など、さまざまな意味において、後年の大作を生み出す母体となったという点において、ドストエフスキ―の作品系列の中で重要な位置をしめている。(工藤精一郎『死の家の記録』解説 新潮文庫)
例えば、工藤精一郎は『死の家の記録』の解説で犯罪者と作品の登場人物との類似性を次のように述べている。
ラスコーリニコフには徒刑囚の山民の特性をみることができるし、スヴィドリガイロフには密告者Aの不道徳性を、スタヴローギンはペトロフを・・・
私自身は、また別の人物同士の類似性に気づいた。
このガージンというのはおそるべき人間だった。彼はただ慰みのために小さな子供を殺すのが好きだった・・・子供をどこか適当な場所に誘いこんで、まずおびえさせ、ゆっくり、じわじわと、舌なめずりしながら切り殺すというのである。
私がガージンで連想する人物は『カラマーゾフの兄弟』に出てくる。イワンがアリョーシャを試す話として登場する将軍である。この将軍は、自分の猟犬に石を投げた少年を母親の前で裸にして、猟犬に襲わせるのだ。そんな残虐非道ができる人間が現実に存在するだろうか。ドストエフスキーの創作に違いない、そう思っていた。しかし、そんな人間の原型をドストエフスキーは死の家で見ていた。5歳の男の子をおもちゃで遊ばせておいて、そのあと殺したと自慢した囚人。アリョーシャにでさえ「死刑にしろ!」と叫ばせたような、そんな人間が監獄にはうようよいたのだ。
◎私が気にいっている場面
監獄に迷い込んだか、捨てられたかした傷ついた鷲を野に放してやる場面。
「どうせくたばるんなら、せめて監獄の外で死なしてやろうや」
鷲は土塁のうえから荒野へ放たれた。それは晩秋の曇った、寒い日のことであった。
極悪非道の囚人たち。監獄にいた動物たちの皮をはぎ、食べてしまった彼らにも、一縷の情けはあったのだ。だれにも懐かなかった森の王鷲に対する畏怖と敬虔の念をもっていたのだ。
…鷲は傷のなおらぬ翼を振りながら、急いでどこかわたしたちの目のとどかぬところへ逃げ去ろうとするように、まっすぐに走っていった。…「一度も振り向かねえで、さっさと逃げていきゃあがる」…「決まってるじゃねえか、自由だよ。自由の匂いを嗅いだのよ」
「自由」という言葉にドストエフスキ―の思いが集約されている。私も猛禽類のふくろうを飼ったことがある。コロスケと名付けた。雛のうちはかわいかったが、大きくなると夜の帝王らしい威厳がでてきた。餌のカエルもいなくなり私には飼うのが無理になった。晩秋のある日、山に放した。(下原敏彦『伊那谷少年記』「コロスケのいた森」2004))
おわりに
苦手だった『死の家の記録』。しかし、この作品、私の人生に大いに役に立っていたのだ。70年代オイルショックの不況時代、私は無職で、街を彷徨っていた。今日の食事代を得るために臨時の職をさがした。山手線新橋駅近くに日本最大の貨物駅、汐留駅があった。拾ったスポーツ紙に臨時作業員募集。お歳暮時期で広大な貨物駅は戦場のような忙しさと轟音だった。大勢の作業員が汗まみれになって働いていた。深夜、最後の貨物列車がでていくと、貨物駅は、いきなり地の底に落ちたような静寂につつまれた。そんなとき無為に過ぎていく青春を思った。こんなところで貴重な人生を使ってしまうのか。焦りと後悔でいら立った。そんなとき「声」が聞こえた。「ここは、宝の山じゃないか」。それは「死の家」の観察者の声だった。監獄の犯罪者だけが観察対象じゃない。ここにはホームレスすれすれの失業者もいれば、倒産した町工場の社長もいる。ギャンブル依存者、人生に失敗したいろんな人が働いている。観察は学びだ。生きた学問だ。その言葉に力を得て観察を始めた私は、積み荷作業が辛いものではなくなった。その後のドストエフスキ―の作品の読みを楽しくすることにも大いに役立っていたのだ。
『死の家の記録』をめぐって 若きドストエフスキー
全作品を読む会読書会『死の家の記録』資料 (編集室 2023.10)
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821.11.11~1881.2.9)
1845(24歳)『貧しき人々』
1849(28歳)ペトラシェフスキー事件で逮捕
1850(29歳)オムスク要塞監獄
1854(33歳)セミパラチンスクで一兵卒として勤務
1859(38歳)12月ペテルブルグに戻る
1860(39歳)『死の家の記録』発表
資料1:工藤精一郎訳『死の家の記録』解説(新潮社文庫)
『死の家の記録』は1860年9月に序章と第1章が『ロシア世界』誌に発表され、翌年4月『時代』誌(『ヴレーミャ』ドストエーフスキイが兄ミハイルとともに創刊した雑誌)に発表を移し、1862年の12月号に検閲によって発表が遅れていた第8章が掲載されて完結した。この作品の制作の過程は長く、そして複雑である。その発端となったものは、オムスク監獄の主任医師の温情によるメモの制作である。主任医師トロイツキー博士は、雑役囚ドストエフスキーの辛い労役を軽減してやろうと思って、入院期間を延ばしてやり、禁じられていた物を書くことを許してやった。ドストエフスキーは入院中に囚人たちの言葉づかい、会話、詩、監獄の歌、さらにさまざまなエピソード、情景、事件、囚人の告白などを書つけはじめた。これらのメモが病院の看護長の手許に保管され、しだいにたまっていった。出獄後、セミパラチンスクへ移ると同時に、ドストエフスキーの言う、この「亡び去った民衆に関する覚書」の仕事はいよいよ熱をおびはじめ、主人公が考え出され、主題が豊富になるにつれて、小説の膨大な構想が少しずつ成長してきた。
資料2:ドストエフスキー没後に書かれた医師の手紙
◎リーゼンカンプからアンドレイ・ドストエフスキーへ(1881年2月26日)
[アレクサンドル・リーゼンカンプ 1821生れ。医師。植物学者。1838年、ペテルブルグにきてドストエフスキーと知り合い、一時期同じ家で寝起きを共にした。外科医の資格を得てシベリアのオムスク陸軍病院に勤務する。]
1845年に小生はシベリアに行き、イルクーツクからネルチンスクと勤務して、最後にオムスク衛戌病院に落ち着きました。フョードル・ミハイロヴィチがドゥーロウと一緒におられたところです。<・・・・・> 彼は元シベリア独立軍団の軍医長 I.I.トロイツキーと、工兵隊に勤務していた時の同僚のムッセリウス中佐に大事にして貰っていました。この人たちをはじめほとんどの軍医が種々気を遣ってくれましたのに、オムスク要塞司令官のドゥ=グラーヴェ少将と、その輩下のクリフツォフのごときは、恢復するかしないうちに退院の手続きをして、他の獄囚と一緒に汚い仕事に就かせようとしました。この時ちょっと口答えしただけで体罰です。それを目撃した故人の仲間の恐怖は想像に余ることと存じます。クリフツォフの目の前で体刑を受けたフョードル・ミハイロヴィッチは、神経は昂るし自尊心は傷つくで、1852年に初めて癲癇を起こし、それ以後毎月繰り返すようになりました。
L.グロスマン『年譜』新潮社版ドストエフスキー全集別巻 松浦健三編訳
◎ヤノーフスキイからマイコフへ(1881年2月24日)
[ステパン・ヤノフスキー(1817-97) 医師。教師。1877年からスイスに移住して余生を送った。ドストエフスキーとは1846年に医師と患者の関係で出会って以来親しくなり、逮捕される日まで毎日のように会っていた。]
故フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーはペテルブルグにいる時分から、ペトラシェフスキー事件に問われる3年前、あるいは3年以上前から癲癇に苦しんでいました。無論シベリア流刑以前です。問題はこの疾患の重いものはepilepsiaと称するもので、フョードル・ミハイロヴィチに現れた 1846年、47年、48年の症状は軽度であったことです。ところが、はたの者は気付かなくても本人は誠に不安で、自分で意識して、平常卒中風と称していました。
資料3:ドストエフスキーの診断書
シベリア守備大隊付軍医エルマコフが記したドストエフスキー少尉補の診断書
(1857年12月16日)
年齢35歳。体格普通。1850年初癲癇発作(epilepsia)。症状。叫声、意識消失、手足顔痙攣、泡噴出、嗄れ声、脈弱迅減少、発作時間15分。その後発作状態一般の衰えを見せて意識恢復。1853年再発。1853年再発。以後毎月末発病。現在ドストエフスキー氏は、過労のため体力の消耗を訴え、神経衰弱によりしばしば顔面神経麻痺に苦しむ。ドストエフスキー氏はここ4か年間、発作の都度治療を受けたが、依然おさまる気配がない。このゆえに勤務続行は不可能と認める。
L.グロスマン『年譜』新潮社版ドストエフスキー全集別巻 松浦健三編訳
資料4:ドストエフスキーが受けた笞刑(ちけい)
オムスクのオストゥローク(監獄)でドストエフスキーと同房にいたロジノフスキーという囚人が、当時のドストエフスキーの生活ぶりを感動的に綴っている。それが、最近チフリスの新聞『カフカース』に掲載された。ロジノフスキーの言うところによると、ドストエフスキーが初めて笞打ちを受けたのは、スープにゴミが入っているのを同囚たちに代わって訴え出たためだった。二回目の懲罰を受けたのは、オストゥロークの責任者であった少佐が制止するのもきかず、ある同囚が溺れかかるのを救おうとしたためだった。いずれも笞打ちは激烈をきわめ、病院に担ぎ込まぜるえなかったほどだという。ロジノフスキーによれば、二回目の「執行」のあと、同囚たちはドストエフスキーがてっきり死んだと思ったらしい。六週間入院してふたたび姿を見せた時、皆はパコーイニク(あの世の人)と仇名をつけている。ドストエフスキーの裁判、判決、懲罰にまつわるもっと詳しい話は、『アチェーチェストゥヴェンヌィエ・ザビースキ(祖国雑記)』1881年2月号と1882年3月号を参照。
ジョージ・ケナン著 左近毅訳『シベリアと流刑制度Ⅰ』(P.388-9)
本書は1885-86の実地調査をもとに1891年にまとめられた。
資料5:ドストエフスキーから出版者・批評家に宛てた手紙
◎M.N.カトコフへ セミパラチンスク 1856年1月11日
[カトコフ(1818-71)著名なジャーナリスト。保守派の牙城『ロシア報知』の創刊者。]
すでに昨年8月、貴誌の寄稿者であるA.N.プレシチェーエフより、小生の作品を何か『ロシア報知』に掲載してもよいとのご意向である旨、うけたまわりました。小生はもう以前から目下執筆中の長編を掲載していただけないか、お願いしようと思っていたところでした。ただ、なにぶんにも完結しておりませんでしたので、お願いするわけにもいかなかったのです。<中略> この長編は、小生がまだオムスク市におりましたころ、暇にまかせて構想したものです。3年ほど前にオムスクを出ましてから、小生は紙とペンを手にすることができるようになり、さっそく仕事にかかりました。しかし、小生はこの仕事を急ぎませんでした。いっさいをデテールの隅々にいたるまで考えぬき、個々の部分を組み立てたり、そのつりあいをとったり、いくつかの場面をそっくり書き留めたり、それより何より、材料を集めることの方が、小生には楽しかったのです。3年間そういう仕事をつづけましたが、仕事の熱は冷めるどころか、かえっていっそう気が乗ってきました・・・(手紙の大半は、金のために仕事せざるを得ない苦しい胸の内が吐露されている。『ロシア報知』に「長編」を掲載する約束は果たされなかった。)
新潮社版ドストエフスキー全集22:書簡Ⅲ作家、編集者への手紙 江川卓訳
◎A.N.マイコフへ セミパラチンスク 1856年1月18日
[マイコフ(1821-97)詩人、批評家。1940年代から心を通わせ合った友人]
徒刑時代に書けなかったことで、私がどれほどの苦しみを味わったか、言い尽くせないほどです。その一方、私の内面ではさかんな仕事がつづいていました。いくつかうまくできたものもありました。それを実感できたのです。あそこにいたとき、私は頭の中で大きな小説を完成させました。自分の作品に対する最初の愛が、歳月が過ぎ、いよいよ実現にかかったとき、もう冷めてしまったしまっているのではないか、と心配でした。しかし、これは誤りでした。私が創りあげた性格、小説全体の基礎であるところの性格は、何年間にもわたって発展させられる必要のあるもので、もし、その準備もととのわぬうちに、興奮にかられるままそれに手をつけたりしたら、何もかも台なしにしてしまったことでしょう。しかし、監獄を出て、準備はすべてととのったのに、私はやはり書くことをしませんでした。書けなかったのです。一つの事情、私の人生に訪れることがあまりに遅く、それでもついに訪れた一つの機会が(マリア・イサーエワへの愛)私を引きつけ、完全に私を呑み込んでしまったのです。・・・・・ しかし、だからといって、私は完全に無為に過ごしていたわけではありません。私は仕事(おそらく、ステパンチェコヴォ村とその住人)をしました。しかし、私のいちばん大きな作品はわきにどけて置いたのです。もっと精神の落ち着きが必要です。
新潮社版ドストエフスキー全集22:書簡Ⅲ作家、編集者への手紙 江川卓訳
資料6:若きドストエフスキーの風貌
◎アレクサンドル・リーゼンカンプ
(A.E.リーゼンカンプが見た1830年末(15歳ころ)のドストエフスキーの風貌)
小肥り。淡いブロンド、丸顔、開き加減の小鼻、背は兄より低かった。短く刈り込んだ薄い栗色の髪、広い額、薄い眉、その下に深く潜む小さな灰色の眼。血の気のない頬に雀斑がある。病的な土気色をした顔。やや厚い唇。鷹揚な兄にくらべて、はるかに活気があり、活動的で熱しやすかった。
L.グロスマン『年譜』新潮社版ドストエフスキー全集別巻 松浦健三編訳 P.44
かれは午前中に将校クラスの講義に出席すると、あとはじぶんの書斎にひきこももって、文学の仕事に没頭していたのである。かれの顔色は土色を帯び、とりわけ朝はたえず空咳に悩まされ、声はひどいしわがれ声となり、さらに顎骨の下の腺には腫物ができて、あきらかに病気の兆候が示されていた。しかしながら、ドストエフスキーはこういったことをみな、他人には絶対に気づかれないようにしていたため、医者のリーゼンカンプでさえも、かれに咳薬を処方することも、ジュークたばこを吸いすぎぬように注意することもできないほどであった。
回想の典拠:『ドストエフスキーの伝記のための資料』のなかでミルレルが抜粋したもの。
『ドストエフスキー 同時代人の回想』ドリーニン編 水野忠夫訳 P.82
◎ステパン・ヤノフスキー
いまここに、1846年当時(25歳ころ)のドストエフスキーの風貌を、できるだけ正確に、忠実に描き出してみよう。背は普通よりも低かったとはいえ、体格はよく、とくに肩幅が広くて、胸は厚かった。頭部は均整がとれていたが、額は異常に発達していて、とりわけ額の上部が突き出ていた。明るい灰色がかった小さな眼は、じつに生き生きとしており、うすい唇はいつもしっかりと結ばれていて、そのため人の善さそうな、また親切そうな表情を顔全体につくりだしていた。髪の毛は明るい色というより、ほとんど白っぽくて、ひじょうに細く、やわらかそうに見え、手のひらや足なんかもめだって大きかった。服装はいつも清潔にしていて、センスよく着こなしていたといってもよかった。かれが身につけていたものは、上等な羅紗地で作った特別仕立ての黒いフロックコート、黒のカシミヤのチョッキ、一点のしみもない洗い立てのオランダ製ワイシャツ、それにチンメルマンのシルクハットなどで、服装全体の調和を壊しているものがあったとしたら、それはあまりかっこうのよくない靴と、軍学校の生徒というより、神学校の卒業生のように鈍重なかれの振る舞いだけであった。精密検査と聴診の結果、肺臓は全然異常がなかったが、脈拍が不規則で、婦人や神経質な人々によくあるようにひじょうに早いということがわかった。
最初のときとそれにつづく三回か四回の診察のときは、わたしたちの仲は、普通の患者と医師という関係にすぎなかったが、二人で会っていた短い時間にも、かれの考え方や、きわめて繊細で深い分析力や、なみなみならぬ心のあたたかさに、わたしは強く惹きつけられたので、その後、病気以外のことでもできるだけ長く話し合えるようにもっと早く来てもらえないかとかれに頼んでみたほどだった。その願いは受け入れられて、ドストエフスキーはいつでも十時にではなく八時半にわたしのところに来るようになり、いっしょにお茶を飲んだりしていたのだが、数か月後には、かれはさらに晩の九時にもわたしのところにたち寄るようになって、二人で十一時まで話続けたり、ときには泊まりこんでしまうことすらあった。そういった朝や晩のことは、わたしにとって忘れられないものとなろう。それというのも、一生のうちであれほど楽しく、またあれほどためにもなった時は、ほかになかったからである。
『ドストエフスキー 同時代人の回想』ドリーニン編 水野忠夫訳 P.82
◎ヴランゲリ
[A.E.ヴランゲリ 1854年セミパラチンスクに地方検事として赴任。懲役後の兵卒勤務をしている作家に同情し、あらゆる面で便宜をはかり援助を与えた。]
(1854年11月21日。ヴランゲリがドストエフスキーを招待して、親戚知友から託された金と手紙を渡す。)
ドストエフスキーは招ばれた理由も相手も知らないので、はいってきたときひどく固くなっていた。縦襟と肩章が赤い、鼠色の外套を着た彼は、雀斑の目立つ病的な蒼白い顔をして、不機嫌そうに見えた。背はそう高くはなかった。じっとこちらに注ぐ知的な灰青色の眼は、私の奥深くへ光を当てて、一体この男は何者だろう?と窺うふうであった。後日白状したところでは、使いの者から「検事殿」がお呼びだと聞かされて動転し、不安でならなかったそうである。しかし、こちらから先に訪ねて行かなかったことを詫び、手紙や小包みを渡しながら内地の人たちの言づけを伝えると、ドストエフスキーはにわかに縛めを解かれたように明るくなり、楽に口を聞き始めた。
原典:A.E.ヴランゲリ著『シベリアのF.M.ドストエフスキーの回想1854-1856』1912刊
L.グロスマン『年譜』 新潮社版ドストエフスキー全集別巻 松浦健三編訳 P.130
8月読書会報告 2023年8月26日(土)
第317回(2023.8.26)全作品を読む会で取り上げた作品は『弱い心』でした。
報告者:梶原公子さん
司 会:青野康子さん
参加者 10名
連 載 「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第109回)『広場32号』(2023.4)掲載文への「感想」など
福井勝也
今回「広場32号」から、論文等ジャンルに拘らずに、当方が関心を持った掲載文「感想」(3件)を本欄に記した。内容は、合評会(7/30)既報告文を修正(掲載順も)した。
① [論文]バフチンの「ポリフォニー」と小林秀雄の「デモン」-作者との関係におけるドストエフスキーの主人公の自由の問題をめぐって
千葉 雄(報告者)
今回の千葉氏「広場」掲載論文には、例会発表の元になった大冊の博士論文があって報告以前に読ませて頂いて有り難かった。さらに例会時配布の報告資料も参考にした。そして今回「広場」の論文を読みながら、これらの過程で問題が当然ながら絞られて、タイトルも到達点を得た感じがした。博論と「広場」論文との差は当然あるにせよ、結果的に千葉氏の問題意識の重心が、バフチンから小林に傾いて来たように感じられた。
この点で、編集後記熊谷氏の千葉論文への寸評「「ポリフォニー」によって無効にされたかに見えた形而上学の意義を小林秀雄にもとづいて検討している。「形而上学」の再導入はドストエフスキー理解にはたして有効であるか、スリリングな議論が展開される」。とは、小林サイドからの見方を優先した同趣旨の指摘だろうと思った。
そんな観点から千葉論文を見るとき、やはり問題の焦点になるのは、小林の戦前戦後の「罪と罰 論」の差異として、戦後にそれがはっきりと指摘される「デモン」(ソクラテスのダイモニオン)の存在だろう。千葉氏は、これを次のように語っている。
「小林は超越的な次元から垂直的に降りてくる声(「デモン」)において、ドストエフスキーの主人公の意識を動かし自己や世界を問う姿勢が始まることを考察しようとしている。バフチンは自己の内外の水平で対等な対話を生む声を論じ、小林は自己内に垂直的に降りてくる孤独な宿命を宿した実存を生み出す声について批評する。しかし、人間に対してレッテルや分類によって把握しようとする一面的な合理主義や実証主義や自然主義に回収されない人間の深部にあるものとしてそれぞれ声を考察している点で共通している」(「広場」p68-69)。
ここで当方が千葉氏に尋ねたいと思ったことがある。それは、何故小林は、戦前の作者と主人公との木下氏が論ずるテーゼ「同化と離脱」の延長においてにせよ、このような「デモンの声」を戦後に呼び出すことになったのか。さらに千葉氏は、ここで二人の違いを明示しながら、結果的に何故、その声が人間の深部にあるものとして(垂直的に降りてくる声としてではなく)二人に共通であるもののように結論したのか。
この問題は、二人のドストエフスキー論の接合点をどこまで近接させて考えるか、それを判断するうえで大切な内容だと思う。とりあえず、自分なりに考えてみたい。
小林の戦後「罪と罰 論」は、昭和23年11月に発表されているが、それ以前終戦の翌年に母親を21年5月に亡くしている。実は少し後になるが、それらの出来事に関連して、小林がソクラテスの「デモンの声」についてはっきりと語り直した文章がある。
それは、戦後の「罪と罰 論」から約十年が経過した昭和33年5月に連載が開始されたベルクソン論の「感想」(生前、小林は中断した「感想」の全集収録を禁じたが、現在は『全作品』で読める)の第一回である。そこでは、小林の母親が死んで数日後の奇妙な話、母親の魂が一匹の蛍になって飛んでいるのに出くわした経験と、それから二ヶ月後に水道橋のプラットフォームから酔っ払って転落したが危うく助かった話、その際には、ただ「母親が助けてくれたことがはっきりした」出来事の経験だったと語られる。
その事件後、小林は伊豆の温泉宿に五十日ほど静養のため投宿する。小林は「その間に、ベルクソンの最後の著作「道徳と宗教の二源泉」をゆっくり読んだ。以前に読んだ時とは、全く違った風に読んだ。私の経験の反響のなかで、それは心を貫く一種の楽想の様に鳴った。私は、学生時代から、ベルクソンを愛読して来た」(『全作品』別巻1.p.17)。と述べられている。そしてこのベルクソン最終作の読書体験と小林に天恵のように与えられた経験を、その底で結びつけるように語られたのが「デモンの声」であった。
「ソクラテスのダイモンは、現代人にも同じ事をささやいているのだ。プラトンによれば、ソクラテスには、幼い時から、屡々、この世のものとは思えぬ声が聞こえる事があって、彼はこれにあらがう事が出来なかった。このダイモンの声は、いつも、何かをしてはならぬという禁止の命令であって、何かをせよと命令したことは決してなかった。ソクラテスの知性は、初め、自然のメカニスムの究明に熱中したが、或る日、アポロンの神殿の「汝自身を知れ」という謎めいた銘に感じて、これを哲学の出発点とする事を決意した。この時から彼の知性の真の劇が始まった。彼の「問答法」は、どんな種類の論理形式でもない。ダイモンから生を享けた否定の力という劇の主人公の運命的な台詞なのだ」(同、別巻1.p.16)。
当方が考えたことを幾つか述べれば、まず戦後小林の「罪と罰 論」に形而上学の導入を言うならば、その形而上学とはソクラテスが神託をうけた「汝自身を知れ」に発する哲学でなければならないだろう。そしてその実践には、「デモンの声」が常に聞こえてくるはずだ。『罪と罰』の主人公、ラスコーリニコフも言って見れば、この思索者の系譜に連なる者としてドストエフスキーが自身を託した者であったろう。さらにこのソクラテスの系譜(「デモンの声」)に連なる形而上学こそ、小林はベルクソンの哲学だと考えたのだろう。だとすれば、小林がここで導入した形而上学とは、「形而上学」一般と考えてはならないだろう。無論、それはカント哲学とかでもありえない。実は、戦後の「罪と罰 論」を子細に読むと、明らかにベルクソンの名を引用する個所があるが、その哲学的思考をベースにした比喩的表現も確かめられる。小林は、おそらく「罪と罰 論」を書くにあたって、その内容を随所で意識化することになったはずで、その思いが「感想」というベルクソン論を後で書くことに結びついたのではないか。それと、千葉氏がバフチンの「希釈された笑い」と小林の「道化」という批評をクロスさせて論じた個所がある(「広場」p64-65)。これなどは、むしろベルクソンの笑いの範疇の議論だと感じた。また小林は、ソクラテスの「問答法」ということに触れているが、実はバフチンのポリフォニックな対話性もソクラテス(「デモンの声」)由来で考えられるのではないか。とすれば、確かにバフチンと小林の形而上学は近接してくるものであろう。
② [旧著新刊]イーゴリ・エヴラームピエフ著『ロシア哲学史-<絶対者>と<人格の生の相克』(下里俊行他訳 水声社 2022) 町田航大(執筆者)
町田氏紹介の本訳書『ロシア哲学史』は600頁を超える大冊で、比較的近年(2014年)ロシアで刊行された大学教育の哲学科教科書であると言う。当方は、町田氏の「広場」本文の校正をお手伝いした時点からこの元本に興味を覚え、早々に図書館から取り寄せてみた。そして直ぐに町田氏が紹介する本書骨格が、第四章のF・M・ドストエフスキーの哲学的見解にあるのだと分かり、上記副題の内実になる言葉「人間の二律背反性という問題」「人間の存在論的本質を探究する高度な形而上学的問い」が本書全体に及ぶことに強く惹かれた。
さらに問題の焦点がキリーロフに当てられていて、ドストエフスキーは彼を通じて自らの世界観や人間理解を高度に表現したとの本書紹介に大きく肯いた。キリーロフの「新しい人間理解」のための二律背反性、片やその基礎が<神>の普遍性、慈悲、超時間性に、片や人間の経験的具体性、衰え、死すべき存在にあり、その間の矛盾を町田氏は的確に指摘されている。この辺要点の説明と均衡の取れた全体の解説が、近時の当方問題意識に響いた。そして、従来のキリーロフ像を哲学的に明確化した次の一文(引用解説)に注目した。
「人間は自分の地上の人格を完全な状態に変容(・・)させる(・・・)が、それを絶対的な人格と取り替え(・・・・)はしない。各々の経験的な人格は絶対的であるが、ただ潜在的(・・・)に(・)、ここに示した変容の見通しにおいて絶対的なのである。(135頁)」
つまり、個々の人間は<絶対者>に変容する可能性を有する点で絶対性を持つが、未だその変容を達成していない中間的存在であるがゆえに「潜在的な」絶対性だということらしい。これはもはや「絶対性」の概念から乖離しているようにも見えるが、著者はむしろ、まさにこうした「絶対性」や<絶対者>概念自体の「再考」こそ、ドストエフスキーのなした哲学的貢献なのだと力説している(135頁)。-「広場」p.171
ここで、当方が今回の町田氏解説の『ロシア哲学史』に何故惹かれたかを語っておこう。実は昨年の合評会で熊谷のぶよし氏の論文「神の観念の破壊」においてイワンの「地質学的変動」以降の「新しい人間」として、キリーロフの「人神になることが許される人間」が連続して話題となった。その際当方は、キリーロフを通じてドストエフスキーが創造した人物像は単なる小説の登場人物を超えた「新人類」誕生の哲学的表現として注目した。そしてその際、この芸術表現に近しい人類の「創造的進化」を前提にした思索の進展こそベルクソン哲学の中身であると直感し紹介した。今回町田氏書評の『ロシア哲学史』から、そのことをより鮮明にイメージさせられた。ここでベルクソン哲学を要約するのは困難だが、専門家の言も借りれば、「処女作『意識に直接与えられたものについての試論』(1889)(別邦訳名、『時間と自由』)以来、一貫して、<持続>の観点に訴えつつ自由な自我の認識可能性を回復しようとしてきて、やがて最後の著書『道徳と宗教の二源泉』(1932)において、やはり<持続>の観点から神(あるいは物質的傾向と生命的傾向の充満する超越的宇宙)の問題に取り組む経緯をたどった。」との表現がドストエフスキー文学と対照できようか。
しかしまた町田氏は、エヴラームピエフ氏がキリーロフを問題とした後に、その根本的変容が達成されたはずの『おかしな男の夢』の世界が、結局その男自身によって崩壊に導かれたように、作家は人間存在の二律背反性の問題に厳しい芸術的表現で応えたことに触れている。このことを受けて、町田氏は「著者の見方によると、人間には、前述の不死を実現しようとする絶対性のベクトルと、それを妨げる我意(相対性)のベクトルがありこの相反関係にある二つのベクトルの終わりなき闘争が、人間存在の矛盾を体現しているらしい。(中略)そして、この絶対性と相対性は人間の内部で、境界を「一義的(・・・)に(・)線引き(・・・)する(・・)こと(・・)」が不可能なほど一体化しており(141頁)この分割不可能な絶対性と相対性の弁証法がドストエフスキーの「新たな人間理解」である」との端的な指摘している(「広場」p.172)。
ベルクソンも前掲最終作の末尾まで、人間の二律背反性の闇の深さを熟知し、人類の終末的な危機が回避されることに強い危惧を抱き続け、同時に人類の「潜在的な絶対性」に強い希望を繋いでいたことが分かる。そのような観点からは、エヴラームピエフ氏の方がベルクソンよりも、より否定的、相対的であろうか。この点でも、ドストエフスキー(文学)自体の哲学的理解の方向性が改めて問題になろう。
」
いずれにしてもドストエフスキー文学が、それ以降のロシアを含む西欧哲学に及ぼした深い影響を明らかにし、さらに流れを古代まで遡ってその哲学的意味を問い直そうとしている本著は、同様な本質的意義を説いたと考えられるベルクソン哲学への論及が欲しいところだ。しかし残念ながら本書には、そのような積極的な記述は見受けられない。
但し、本書第四章の最後、ドストエフスキーとカント哲学との人間観の原則的な相違に触れた後に、フィヒテ哲学がそのカント問題(「超越的理性」)を修正したことから、ドストエフスキーの思索とフィヒテ哲学との比較検討に及ぶ個所がある(p.144)。実は最近、「ベルクソンのフィヒテ観-ポスト・カントの哲学のあるべき姿をめぐって-(村上龍)」という研究論文を読み、ここでの問題の背景を知らされる思いがした。そしてベルクソンは、確かにフィヒテを論じていた(『創造的進化』)。エヴラームピエフ氏のドストエフスキー文学の哲学的位置付けが、ベルクソン哲学を介在させることでより明らかになるだろうと直感した。
③ [論文] 理論に溺れる男ども/理論を飲み込む母ども 永田怜絵(執筆者)
果たしてキリーロフは「人神論」という理論に溺れて、しなくてもよかった自殺を遂げただけの男であったか?本論で永田氏は、キリーロフが一歳半ほどの赤ん坊と「まり」の投げ合いをして無邪気に遊んでいるシーンを引用する。そこで行き交う物は、まり(мяч)ではなく、「まい」(мя)であるとして、言語と言葉(母語)について自説が語られる。
「言語とは上から押しつけられる支配的なものであり、権力によって話すことを強制されたり、禁止されたりもする。しかし、我々が言葉を身につける過程では、間違っていたり、規範から外れていたりしながら、それでもその言葉は相手との間で意味を成す。それは言葉の柔軟性、自由さの表れであり、キリーロフの自殺の数式は真逆のものである。」
ここでは最後に「キリーロフの自殺(理論か?福井注)」は、人間の言語記号でもなくて数的記号にまで貶められていないか。少なくとも、当方は永田氏の言う言語の権力性とともに赤ん坊が母語を分節化して身に付ける過程の神妙さ、尊さについては理解しているつもりだ。そしてこの後唐突に、永田氏は「ここでは、キリーロフの中にある母性が発揮されている」と書き繋ぐ。そして次の段落では、その言葉はドストエフスキーが「キリーロフにそのような役割を与えることは、理論の貧しさと悲劇を示しているようだ」と前段と対照的な結論を導き出している(上記「」部分を含め、ここでの引用は「広場」p.45-46)。
しかし考えてみれば「キリーロフの中にある母性」は、何もここだけに暗示されたものではなかった。シャートフの妻マリヤが出産する場面では、キリーロフは滑稽なほど人間味(母性に通ずる)を発揮して、その悲劇的結末が残酷なくらいにユーモアに溢れている。
この辺ドストエフスキーの心憎いまでのキリーロフの人物描写は、決して彼の人神理論と矛盾するものではないだろう。ましてや、人神「理論の貧しさと悲劇」を暗示してもいない。むしろ新しく生まれ来る人間、生命への賛歌を寿ぐ人物として素直に描かれている。
キリーロフには、真に自立した新たな人間を生み出す先駆者として自然的な摂理が孕まれていると思う。言わば彼の自己犠牲としての自殺は、そのための自然的摂理なのだろう。だから、キリーロフが自殺(自己犠牲)することは、赤ん坊と「まい」(мя)遊びをすることと矛盾していないどころか、連続しているように感じられる。
今回の「広場」では、永田氏の論稿に何故か強いインパクトを感じさせられた。それは、ドストエフスキーの専門研究者としてでない、生地の永田さんの普段の思索の痕跡を見る思いがしたからだろう。しかし同時に、ドストエフスキーを深く読んで来た者の文章であると感じたからでもあった。本会の会誌に、真に相応しい内容として読んだ。なお永田氏以外にも、エッセーの何人かの方に同じような感想を抱いた。その割には、ここで勝手な論評をさせてもらったが、今回論評の流れにあるキリーロフ論の延長として読んで欲しい。 (2023.9.26)
【寄稿】
『正直な泥棒』の真相 研究者もびっくりの新説
下原康子
全作品を読む会読書会は、2022年4月に6サイクル目が始まっています。本来は、名称どおり初期作品も外さないで全作品を読みたいのですが、「興味が持てない」「本が入手できない」「主要な作品に時間を割いてほしい」等々の理由から、残念ながら初期作品のいくつかは割愛しています。かつて初期小品の読書会で、研究者・翻訳者でさえびっくりの新解釈が飛び出したことがありました。解説や評論が見当たらない小作品だからこそでしょうか。2012年2月8日に開かれた『正直な泥棒』がまさにそれでした。「取り立てて論じるほどの内容はない」という雰囲気に支配され、議論が中だるみになっていたころ、Hさんの口から飛び出した新説に参加者全員あっけにとられました。Hさんによる物語の真相は次のとおりです。
真相:毛皮外套を盗んだ泥棒とアスターフィ・イヴァーヌイチのズボンを盗んだ男は同一人物である。つまり両方ともかのエメーリャである。彼は死んではいなかった!最後の臨終場面は、アスターフィ・イヴァーヌイチの作り話なのである。
この作品は、「わたし」の語りにアスターフィ・イヴァーヌイチの語りが挿入される、二重の入れ子構造になっています。そのためか、最後までよくわからないという印象がつきまといます。そんな中、飛び出したのが、Hさんの「エメーリャ=外套泥棒説」でした。耳にしたとたん、「あ、そうだったのか」と腑に落ちるところがありました。この小品の見どころは何といってもエメーリャという人物です。ドストエフスキーの後の大作に心を奪われるとつい見落としがちになるのですが、この種の『貧しき人々』で見出され、プロハルチン氏や「弱い心」のヴァーシャに連なる片隅のリアルかつ空想的なタイプが、後にシベリアで民衆と出会う前から、ドストエフスキー作品の核心部分に存在していたことを実感させられます。
なお、この小品は1848年に発表されたときは「世馴れた男」という題名でしたが、後に「正直な泥棒」に改題されました。
アスターフィ・イヴァーヌイチとエメーリャ
世馴れたいい人のアスターフィ・イヴァーヌイチと宿無しの酔っ払いエメーリャの奇妙な邂逅をたどってみましょう。
エメーリャは、アスターフィ・イヴァーヌイチの家に転がり込み居座ります。まるで、主人を慕う犬ころのようにつきまとって離れません。そのくせ、スルリと抜け出しては酔っぱらって帰ることを繰り返します。アスターフィ・イヴァーヌイチが叱りつけると一日二日はじっとしていますが、三日目にはまた抜け出します。アスターフィ・イヴァーヌイチはほとほとあきれ果て追っ払おうとしますが、一方で、帰ってこないとなると、これまた心配でたまらなくもなるのです。「もし、エメーリャが行ってしまったらおれの世の中も味気なくなくなるだろう」とも考えます。そこでなんとか教育しようと試みますが、箸にも棒にもかかりません。
叱られて数日禁酒しているエメーリャは、沈み切って腑抜けのようになり、ぼんやり座ったままです。そんなエメーリャを見ると、ついかわいそうになってしまうアスターフィ・イヴァーヌイチなのでした。ある日、夜の祈祷式に出かけて帰ってくると、エメーリャがまたしても酔っぱらっています。はっとして、一張羅のズボンを確かめると影も形もありません。アスターフィ・イヴァーヌイチのそぶりから冷たい怒りを察知したエメーリャは、四つん這いになって寝台の下に這入りこみます。やがて這い出てきた彼は体中ぶるぶる震わせおびえきっています。その様子は、アスターフィ・イヴァーヌイチをぞっとさせました。このあたりのディテールは圧巻です。それから二週間というものエメーリャは酒浸りになります。その後、出かけなくなったかとみると、こんどはじっと黙りこくって三日三晩、座りとおします。ふと見ると彼は泣いているのでした。かわいそうでたまらなくなったアスターフィ・イヴァーヌイチは「前のとおり二人で暮らしていこうじゃないか」となぐさめます。するとエメーリャは「あなたが外へ出るときに、長持ちに鍵をかけるのがつらい。もう、いっそ出て行かせてください」そう言って、彼は本当に出て行ってしまいます。
三日待ってもエメーリャは帰ってきません。四日目、心配で仕方がなくなったアスターフィ・イヴァーヌイチは居酒屋を探し回ります。ところが、五日目の夕方、ひょっこり真っ青な顔をして泥だらけになって帰ってきます。腹ペコらしく食事には飛びつきましたが、酒には手を出そうとしません。それから寝たきりになり、一週間余りで臨終の場面になります。エメーリャは、「死んだらわたしの外套を脱がせて売ってください」と言い、最後に「例のズボンはわたしが取ったのです」と言い残して死ぬ、という結末です。
新解釈:「エメーリャ=外套泥棒説」が真相であるという仮定を踏まえて。
・エメーリャは死んではいませんでした。彼は二年前に別れたアスターフィ・イヴァーヌイチを探し回っていたのです。ようやく引っ越し先を探しあててやって来たのでした。最初に来た時は「わたし」しかいなかったので、翌日、再び来ました、その時は、間が悪く「わたし」がアスターフィ・イヴァーヌイチに修繕を頼んでいた外套を体に合わせていたところでした。そこで、エメーリャは、「わたし」の外套を狙って盗んだのです。悔しがるアスターフィ・イヴァーヌイチに、「わたし」は「それでもきみの外套が無事だったのがまだしもだよ」となぐさめています。
・アグラフェーナは口をポカンと開けたまま、泥棒を見つめるばかりで、身動きもしませんでした。エメーリャとは顔見知りだったのではないでしょうか。
・アスターフィ・イヴァーヌイチはすぐに泥棒の後を追いました。にもかかわらず取り逃がしてもどって来ます。その間10分。二人は再会して会話を交わしたのではないでしょうか。遠くない時期に、エメーリャはアスターフィ・イヴァーヌイチの元に舞い戻り二人の生活が再開されるのではないか、そう予感させられます。
・自分の外套が盗まれたわけでもないのに、アスターフィ・イヴァーヌイチの大げさな悔しがり方は度を越しています。「わたし」に対して、泥棒を取り逃がした不手際をしきりに後悔し、泥棒を非難して見せますが、その一方で、「正直な泥棒」という矛盾した表現は、エメーリャをかばっているかのようです。
・ズボン盗難で、アスターフィから冷たいそぶりをされたエメーリャは二週間ばかり酒浸りになりますが、その時の飲み代はズボンを売って得たものでしょう。
・「いっそ出て行きます」と出て行ったエメーリャですが、はやくも五日目には舞い戻ってきます。ズボンを売った金も使い果たし、食べるにも事欠くようになったのでしょう。
・舞い戻ってきて三日目、がたがた震えるばかりで、酒どころか一口も食べなくなったエメーリャを心配して、アスターフィ・イヴァーヌイチは、近所の馴染みの医者を呼びます。このときの医者とのやり取りがなにやら奇妙です。医者は散薬をすすめますが、アスターフィ・イヴァーヌイチは、医者を信用せず、薬を与えません。エメーリャの容体がいったいどの程度だったのか、疑問が残ります。
・アスターフィ・イヴァーヌイチが「わたし」に「旦那、わっしの見ている目の前で、エメーリャは息を引き取ったのでございます。」(米川訳 P.335)と言った後に、再び、エメーリャの様子に戻って話を続けるのがやや不自然に思われます。
・物語はエメーリャがズボンを盗んだことを告白して、アスターフィ・イヴァーヌイチの腕の中で息を引きとるところで終わっていますが、その後の・・・が不自然なほど長たらしくて思わせぶりすぎます。
・この手記を書いた「わたし」(無名氏:10年間引きこもっていた人物)はすべてをお見通しだったのかもしれません。
・この小品におけるドストエフスキーの仕掛けは成功したといえるでしょうか。当時の批評家や読者はこの真相を読み解けたでしょうか。
【広 場】
新しい「ドストエフスキイ研究会」のお知らせ
研究会主宰 芦川進一
今春、河合文化教育研究所の閉鎖を機に、ここで四十年近く続いた「ドストエフスキイ研究会」も一度その幕を閉じました。しかしこれは「始まり」のための「終わり」。直後に新たな「ドストエフスキイ研究会」を発足させ、ホームページも新しく起ち上げました。
新しい研究会はホームページを舞台に、以下五つの柱を軸として展開してゆく予定です。
[1] 「研究会便り」、ドストエフスキイに於けるキリスト教思想研究の発表
「研究会便り」は当座私の研究発表が中心となります。これから数年間は、親鸞仏教センターに於ける研究会(「親鸞とドストエフスキイ」)での発表を土台として、「『カラマーゾフの兄弟』の「光」について」というテーマで、ゾシマ長老からアリョーシャに受け継がれるキリスト教とは如何なるものか、改めてテキストに沿って基本的な考察を進めてゆこうと考えています。8月末に第1回目を掲載しました。
[2] 研究会メンバー各自の専門研究の発表
メンバーは三十代から五十代が中心で、この中からは一休・芭蕉・裁判制度・教育学・歴史学・医学・芸術等の様々な専門分野で、ドストエフスキイと聖書との取り組みを踏まえた思索を展開する研究者が育っています。今後は彼らが段々と前面に出て、日本に於けるドストエフスキイ研究の新しい可能性を提示してくれるでしょう。彼らの研究成果の紹介に加えて、様々な形での対談も入れたサイトを考えています。
[3] 哲学者・小出次雄の遺稿の整理と発表
太平洋戦争の末期、西田幾多郎とその門下生の小出次雄、そして小林秀雄が期せずして『カラマーゾフの兄弟』と取り組みました。彼らは大審問官に対してキリストが与えた接吻に的を絞り、この接吻こそがキリスト教の核心であると捉え、それぞれの思想世界に取り入れたのでした(拙著『ゴルコタへの道』第二部)。芦川の師小出に関しては、昨年上梓した『予備校空間のドストエフスキイ』で取り上げましたが、なお遺稿の整理を進めつつ、その思想と詩作・絵画等を広く世に紹介するサイトを作り、上記三人のキリスト教理解についても、更に注意を喚起し続けようと考えています。
[4] 従来の「ドストエフスキイ研究会便り」の加筆修正
2016年に『カラマーゾフの兄弟論 ―砕かれし魂の記録 ―』を上梓した後も、私は様々なドストエフスキイ論を発表してきました。それらの殆どは河合文化教育研究所のホームページに掲載され、同研究所の閉鎖後もアーカイブとして保存されているのですが、今後それらを加筆修正した上で、ジャンルも整理し直し、改めて新しい「ドストエフスキイ研究会」のホームページに掲載してゆく予定です。このことで、ドストエフスキイとキリスト教に関する基本的論考を提示し、将来この分野での思索を試みる若者たちに「叩き台」を提供出来ればと考えています。
[5] その他
ホームページに「コラム」欄を設けました。ここにはドストエフスキイや聖書に限らず、外国での体験や絵画・音楽・自然体験、更には今まで出会った印象深い人たちや街の思い出等々、出来るだけ多くの写真や図版も利用しつつ自由で楽しい、しかも妥協のない思索の場を創り上げてゆきたいと願っています。
色々な「夢」を記しました。ホームページの起ち上げから日数が浅く、まだ「研究会便り」の論考は1本、「コラム」欄のエッセイも10本ほどしか書き上げていません。しかし拙速は避け、現在世界を覆う閉塞状況を正面から見つめ、メンバーと共に着実に「夢」を現実のものとしてゆきたいと考えています。時間に余裕がおありの時は、是非このホームページにお立ち寄り下さい。
ホームページへのアクセスは、以下で可能です。
「 ドストエフスキイ研究会 ワークショップ 」
編集室
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