ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.183
 発行:2020.11.21


12月「読書会」のお知らせ


月 日 :2020年12月6日(日)
場 所 :池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)03-5391-2111
開 場 :午後1時30分 
開 始 :午後2時00分~4時45分
作 品 :『カラマーゾフの兄弟』イワン対スメルジャコフ3度目の訪問
朗 読 :イワン 近藤靖弘さん スメルジャコフ 冨田陽一郎さん
会場費 :1000円(学生500円)

忘年会は行いません。
第302回 2月読書会は、2021年2月20日(土)東京芸術劇場小5会議室14:00

【編集室からのお願い】
東京芸術劇場が閉館にならないかぎり読書会は開催します。とはいえ、開館は直前まで不確実です。心配な方は当日、東京芸術劇場(03-5391-2111)にご確認頂ければ幸いです。参加される方は、検温とマスク必須です。体調管理はしっかりと。会場では、連絡先(電話番号)筆記をお願いします。



12月6日読書会の話題提供のために。


「カラマーゾフの兄弟 学習ガイド」より
THE GLENCOE LITERATURE LIBRARY
Study Guide for The Brothers Karamazov (PDF)

全文は以下のページで読めます。
カラマーゾフの兄弟 学習ガイド

http://dokushokai.shimohara.net/meddost/karagido.html

第四部第11編 兄イワン 

殺人が行われた後、イワンはスメルジャコフと3回会って話をしました。これらの場面は、この小説の中で最も重要な箇所の1つです。人間の内面のリアリティーを描写するドストエフスキーの卓越した能力が示されています。二人の会話からフョードルが殺された夜に何が起こったのかが明らかにされます。これらの場面に関して以下の質問に答えてください。

質 問

1.最初の面談でスメルジャコフを見たとたんに、イワンが思い出した言葉は何でしたか?
2.スメルジャコフがもっとも恐れていることは何ですか?
3.スメルジャコフはイワンの「おまえは、誰もがおまえと同じ臆病者だと思っていたのか?」という質問に対して何と答えましたか?
4.最初の面談の後のイワンの気持はどのようなものでしたか?
5.スメルジャコフはイワンに門のそばで話したことについては誰にもしゃべらないと約束していますか?
6.イワンがフョードルの殺害を望んでいた理由についてスメルジャコフはどのように説明していますか?
7.イワンがカテリーナからドミートリィが真の殺人者である証明として受け取ったものは何でしたか?
8.イワンが3回目の訪問に向かう途中で出くわした人物は誰ですか?
9. スメルジャコフは殺害を正当化するためにイワンの信念をどのように使用していますか?
10.スメルジャコフの発作は本物(real)ですか、それとも偽物( sham)ですか?
11. スメルジャコフはどこにお金を隠していましたか?
12.3回目の訪問の別れ際、スメルジャコフは最後に何と言いましたか?
13.スメルジャコフと別れた帰り道にイワンは何をしましたか?

作品分析的質問

1.イワンがドミートリィについて企てている計画とは何ですか?その計画は夢から霊感を得たドミートリィの新しい信念に矛盾しませんか?
2.スメルジャコフは自分がフョードルを殺害したことをどのように証明しましたか?それを知った時のイワンの反応はどのようでしたか?
3.哲学者ハンナ・アーレントは、悪がいかに特徴のない日常的な外観を呈するかを説明するために、ナチスの戦争犯罪者アドルフ・アイヒマンに言及しました。イワンの悪魔はこの例にあてはまりますか?
4.ドミートリィはアレクセイに語ったように生まれ変わったのでしょうか?この変化についてどう思いますか?そこには心理学的な現実性がありますか?
5.11編第3章で、リーズがアレクセイに「悪を憎むなんて、みんな言っているけど、心の中では密かに悪を愛しているのよ」と言います。あなたは彼女に同意しますか?あなたの立場を裏付けるために、時事や他の情報源からの例を挙げてください。



10・31読書会報告 

 
コロナ禍のなか16名の参加者がありました。参加者全員が各人のドストエフスキーとの出会いを語りました。「わからないから読む」「背景が面白いから」「気楽に読めるから」「悪魔をつくりだすところに興味あった」「現実と虚無との組み合わせが」などなど、各人各様の出会いと捉え方がありました。ドストエフスキー作品は、よく100人が読めば100通りの感想がある、といわれますが、まさしくその言を証明するそれぞれの感想でした。時間制限のなかで言い足りなかった人も多かったと思います。本通信でも受け付けます。どうぞおよせください。


2020年(令和2年)の読書会


コロナウイルスが蔓延する嵐の中の2020年でした。開催か中止か。毎回、苦渋の選択を迫られた読書会でしたが、会場閉鎖のための中止2回をのぞく4回は安全に開催することができました。皆様のご協力に感謝します。明けぬ夜はありません。来年は、禍のない年でありますように祈念します。

以下は2020年に開催できた、また、できなかった読書会の記録です。

1月11日(土)『カラマーゾフの兄弟』5回目 フリートーク 参加20名
2月29日(土)中止。東京芸術劇場閉鎖のため
4月25日(土)中止。東京芸術劇場閉鎖のため
6月27日(土)『カラマーゾフの兄弟』6回目 報告者 冨田陽一郎 参加者15名
8月29日(土)「ドストエフスキーのてんかんについて」報告者 下原康子 参加者13名
10月31日(土)フリートーク「私とドストエフスキー」参加者16名



連 載      

ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第92回)渡辺京二著『ドストエフスキイの政治思想』について①
    
福井勝也

やや遠廻りした感もあるが、標記渡辺氏の著作について感想を述べるタイミングが巡って来たと思う。元々『ドストエフスキイの政治思想』(初出は、1973~4)を一読して深く感じ入ったのが始まりであったが、ただ最初にこの著書だけを拙速に論じるのは避けるべきだと思えた。この間コロナ禍もあって、遅まきながら今年90歳の渡辺氏の主要著書を集中的に読ませて頂いて(なお継続中)、今はその廻り道が良かったと考えている。

そしてこの間に偶然の廻り合わせだが、アメリカ大統領選挙投票(11/3)が実施された。そして現在、その開票速報と同時に伝えられるアメリカの政治的混乱が、コロナ報道を凌ぐように連日世界を騒がしている。今日現在(11/7)二人の大統領候補は、自身の当選を確信する発言をお互いに繰り返し、敗北宣言(「ノーサイド」)どころではない。メディアを巻き込んだ両陣営(「赤と青」)の闘いは、支持者同士の衝突を誘発しかねない危機をアメリカに生んでいる。この結末には、その投票の公正さを前提にした司法判断が必要で、舞台は「法廷闘争」になる可能性まで出て来て、既に訴訟が提起され始めている。

なぜ他国の政治選挙が日本でもこんな詳細に話題になるのか、無論アメリカの大統領選挙だからであるが、結局は株価が選挙情報に直ぐに反応する実利的な影響力のためからか。それにしても日本のメディア(国民)もお祭り状態で、なぜか事態をどこか愉しんでいる風である。某局のTVコメンテーターが、世界で民主主義のお手本であったアメリカ、それも大統領を選ぶ過程での「泥仕合」を見せられて、今までアメリカへの憧憬が絶望に変わったと語っていたが、何故かどこか嬉々として見えた。確かにトランプ大統領は、これまでのアメリカが背負ってきた民主主義国家の優等生イメージを、この任期4年で塗り替えた。再選を目指す今回の選挙でも同じやり方を通したが、彼を支持する国民が依然多数いることもはっきりした。トランプはこの度、ただのポピュリスト以上の存在になりつつあるか。果たしてそれは、アメリカの民主主義が地に堕ちることを意味するのか?

今回ここに大統領選挙を取り上げたのも、『ドストエフスキイの政治思想』を丁度読み直したことによる。渡辺氏にはこの度、本著を通じて痛切に教えてもらったことがある。すなわち、ドストエフスキーという19世紀ロシアの作家は、急激に近代化された当時の政治司法制度に馴染めなかったロシアの民衆に徹底的に寄り添う思想家であったということだ。

その点でドストエフスキーが今回のアメリカの事態を見たら、どう反応すると考えた。おそらく少しも驚かず、フランス革命から欧米先進国が歴史的に築いてきた民主主義のどん詰まりの事態、そして元々そういう制度だと断じたと思う。この点では、これから法廷闘争になれば必要な弁護士が両陣営で準備されるだろうが、例えば渡辺氏は本著で、ドストエフスキーが反撥を禁じえなかった近代弁護士制度への作家の思いを要約し語っている。

「ドストエフスキイは弁護士制を一応「立派な制度」として認めている。それはかならずしも世間的な良識に対する妥協ではなく、専制権力の恣意による絶対的正義の裁きなどより、それははるかに合理的な制度であることは彼も認めざるをえなかったのだと解される。にもかかわらず、彼から見れば、それは良心とすこやかな感情を蹂躙せずにはおかぬような要素を含む制度である。むろん、弁護士は少なからぬ場合良心に従って法廷弁論に従事しているのであろうし、何も始終いいぬけとごまかしとうそを並べたてているわけではない。だが、ドストエフスキイがそのような誇張によって指摘したかった根本問題は次のことである。弁護士制の暗黙のうちに前提とする倫理は、人間社会とは利害の体系であり、あい争う個別的利害は、法というルールにいかにたくみに適合するかという一種のゲームとして、その勝敗を判定されるべきであるという論理ではないのか。これを徹底させればうまく相手をだましたほうが勝ちという論理であり、下世話にいえば商売人の論理である。ドストエフスキイが問題にしているのは弁護士制度の是非ではなく、弁護士の倫理でもない。その制度が立脚している人間観あるいは社会観であり、「ほとんどいとわしい印象」「なぜか心を暗くするもの」とはまさしくそれに触発された感想だったのである。(ゴシック部は、筆者)(本著、九「市民社会になじめぬロシア民衆の伝統」p.122-123)

ここでドストエフスキーが、民主主義の最期の砦とも言われる近代司法制度の本質を、倫理的な観点から、その致命的欠落を見破っていたことは評価されていいだろう。この視点から見れば、今回の問題はトランプの「蛮行」にあるというよりも、司法取引すらありうる「法廷闘争」(法治民主主義)そのものにあると言える。それはトランプが、大方メディアの予測に反して、土壇場でバイデンと互角に競う成行の問題でもあった。コロナ禍で既に全米23万人以上の死者を出している現職大統領の失政を考えた時、バイデンに比してトランプの人気が変わらず岩盤的だったことは、むしろ注目すべきことかもしれない。ここには、南北戦争時代からの合衆国の地域的職能的分裂が今も存在している現実がある。つまりアメリカの近代化が民衆を分断しつつ、それを政治的に利用しながら、どうにか合衆国を弥縫して来た歴史が今回も反復されようとしているわけだ。

このことは日本では別なかたちで顕在化したようだ。それは、今までの大統領イメージを一変させ、好き嫌いと無関係に「トランプ現象」として現出した。それは今も尾を引いていて、アメリカの選挙後の混乱を嬉々として話題にするメディアがそれを煽り続けている。この一連の日本での「トランプ現象」の底にあるものは何か、気になるところだ。

おそらくここには、幕末に武力(「黒船」)で開国を迫り、近代的国家制度を強要した先進国アメリカ、さらに敗戦時には、より徹底した民主主義制度と合せて無防備な国家(平和憲法)を押しつけた戦勝国アメリカへの民衆心理が深層に横たわっていよう。それは一方でまず、強圧的近代化に馴染めずに苦しんだ多くの民衆の潜在的記憶とそれへの共感。同時にその中には、苦しんだ末にさらに先の日米大戦で戦死した者たちの無念と生存者の罪障感。他方では、それらをあたかも無きが如くに忘却し、自分たちの努力で戦後の高度経済成長を達成したのだとする、言わば西欧近代化の優等生だとの自負心等々。

これら複雑に分裂した民衆心理を背景に、日本人が現在直面しているのが先進国アメリカの明らかな権威失墜であろう。戦後その傘下で、経済・文化も国防も頼って来た親も同然のアメリカが大きく揺らいでいるのだから、子も同様の日本が騒ぎ立てるのも当然か。しかし同時に、かつて日本を何度か滅ぼした?大国の揺らぎは、日本人にどこか愉快なものに映るのかも知れない。しかし浮き浮きしてはいられない。いよいよ日本の自立する時が巡って来ていると考えるべきだろう。今、吾々はどう自身を奮い起こすべきなのか。

しかしもしかすると、より深刻なのは南北戦争のような分裂の危機すら生じかねないアメリカの今日ではないか。コロナ禍がさらに欧米で深刻に蔓延していることも気になる。いずれにしても、この政治的混乱は早晩日本を含む世界に波及するだろう。今年のコロナ禍は、アメリカ大統領選挙に深く影響を及ぼすことで、地球規模の歴史的な地殻変動をもたらしつつあると危惧すべきだろう。そこには今まで潜在的であった民衆心理が、良くも悪しくもあぶり出されて来よう。これまで理想的と考えられて来た、欧米が生んだ近代の法治民主主義がいよいよ軋み始めている。ここで吾々の力になってくれそうなのが、やはり渡辺氏の紹介するドストエフスキーではないか。本著で語られる「作家の日記」からの文章を引用する。ロシアに押し寄せた西欧近代思想と心底で対峙した者の表現として、原点に戻って参照すべき言葉が記されている。

「西ヨーロッパ人がロシア人と接触して何よりもいらいらさせられるのは、ロシア人が論理と法とを、それ以上の、あるいはそれ以下であるかもしれなない、何かを理由にして軽視することである。つまり裁判を、またどんな判決でさえも、人間としての弱さ ― 自分の、あるいは他人の ― に対する一種のあきらめに似た寛大さと取りかえてしまう習慣があることである。(中略)ロシア人の考え方では、われわれの行為そのものは、法律、習慣、礼儀、絶対的な命令、その他なんであれ、外から人間の良心に押しつけられる規則に一致しているかいないか、などで判断されるものではなく、人間としてのわれわれについて人びとがいだく一般的な意見によって判断される。すなわち、こうしたことは、『人間の諸権利』とはなんらの関係もなく、慈悲や同情の精神、つまりある種の人間愛に関係するものである。」(本著、九「市民社会になじめぬロシア民衆の伝統」p.133-134)

以上の引用文を読む時、ドストエフスキーがシベリア流刑から戻って、本格的長編として書き上げた代表作が、『罪と罰』(「犯罪と刑罰」)でなければならなかった意味には大きいものがあると感じた。そしてまた、最終作が「父殺し」の「罪と罰」をテーマとした『カラマーゾフの兄弟』で、その物語の最後の舞台が法廷であることも偶然ではなかったろう。そして裁判小説に登場する当代一流の弁護士の弁論が持つ意味にも注意すべきものがあると思った。この文章のすぐ後で渡辺氏は、さらにドストエフスキーが語った西欧型市民社会の文明のうちにある「致命的な偏向」について、次のように総括している。

「その致命的偏向とは、人間の共同社会を拮抗する利害の体系としてとらえ、その利害追求の客観的基準を法というルールに求めることによって、拮抗する個人ないし集団の利害を調整し、最大限の効率性と合理性を実現しようとする市民社会の根本原則を指す。ドストエフスキイの政治的思索の大半はこの原則を拒否しうる足場の構築と、その止揚の方向の模索に費やされたといってよい。彼のこのような努力はそれが本能的であり直感的であったために、彼の在世中のみならず死後久しきにわたって、およそ反動的退行的な試みとうけとられてきた。しかし、先入主を排除し、歴史的時間軸をかなり長くとって観察するならば、利害の体系として人間の共同社会をつくりあげて来た西欧型文明はそれ自体かなり強烈な偏差を示す文明の一タイプであって、人類史上、唯一の普遍者の地位を要求するにはほど遠いものであることがわかる。少なくともそれは、ロシアや日本の民衆にその近代化の途上において、きわめて異様な印象を与えたのである。」(本著、九「市民社会になじめぬロシア民衆の伝統」p.135-136)

今回もスペースも残り少なくなったが、誤解をされないように付記しておこう。当方何も日本人が努力の末に自国のものにした近代民主主義制度を今更どうこうしようなどと考えているわけではない。渡辺氏に今年教えて頂いたことは、吾々の父母、祖父母、曾祖父母あたりの世代に与えられた「その近代化の途上において、きわめて異様な印象」をまず日本人として想い出すべきだろうと言うことだ。そしてその感覚を蘇らせるうえでドストエフスキーの作品は、日本近代文学以上に?うってつけであると言うことなのだ。

渡辺氏にとって、今回取り上げた『ドストエフスキイの政治思想』は、70年代半ば頃に『暗河』という雑誌に連載されたもので、それが『小さきものの死』(1975)という単行本に収録された。渡辺氏の著作はこの単行本から開始されたと言えるわけだが、それはタイトルどおり、名も無い小さな民衆への鋭敏な感受性から出発している。そしてその際に核となったのが、ドストエフスキーの作品例えば『作家の日記』の「百歳の老婆」や「百姓マレイ」であった。それはドストエフスキーこそ、当時のインテリゲンチャの限度をはるかに超えて民衆と伴に生きた作家であったからのだ。次回触れたいと想う、彼の『作家の日記』での「好戦論」もその延長にあるということだ。今回は、アメリカ大統領選挙に関連しての言わば時事問題に終始した感があるが、それは吾々が、今一度近代的政治制度を受け入れた始まりの時期に戻って足元から考え直す時期に差し掛かっていると思うからである。その際に、ドストエフスキーは参照すべき言葉を残してくれている。そのことを今年、『逝きし世の面影』(2005)の作家渡辺京二氏が教えてくれた。年末に際し改めて感謝しておきたい。そして、本欄を読んでくれた読者の皆さんにも感謝!! (2020.11.10)



【ドストエフスキー情報】
                                  
亀山郁夫氏の文芸誌「すばる」連載の『ドストエフスキーの黒い言葉』が2020年12月号の14回で完結になりました。なお最終回末尾には、《主要参考・引用文献一覧》が付され、木下豊房『ドストエフスキーの作家像』(鳥影社、2016年)の記載がありました。また、岩波「図書」に『新・ドストエフスキーとの旅』も連載中。(情報提供:福井勝也氏)

ドストエフスキー生誕200周年記念に向けて始動。日本大学芸術学部は、清水正教授を中心に特集を企画。(編集室)

1991年(平成3年)はドストエフスキー生誕170周年でした。この節目を記念して企画されたのは「ドストエフスキーを愛した師匠たち」でした。トップバッターとして黒澤明監督の『白痴』が東京・キネカ錦糸町で上映されました。このドストエフスキー祭で上映されたのは、他に以下の作品でした。
・アンジェイ・ワイダ『悪霊』(仏)     ・ジャク・ドワイヨン『女の復讐』(仏)
・ルキノ・ヴィスコンティ『イノセント』(伊) ・レフ・クリジャーノフ『罪と罰』(ソ)
・イワン・プリエフ『カラマーゾフの兄弟』(ソ)他
(1991年9月9日スポーツニッポン)



広  場 

「私は、なぜドストエフスキーを読むのか読みつづけるのか」

2021年はドストエフスキー(1821~1881)生誕200周年です。この節目を記念して「私は、なぜドストエフスキーを読むのか読みつづけるのか」を連載しています。投稿は、到着順に掲載します。



読むにつれ、すっかりはまってしまった

梶原公子
 
ドストエフスキーをしっかり読むようになったのは、そんなに古い話ではない。せいぜいここ14、5年前からだ。まったく予期しないことだったのだが、読むにつれすっかりドストエフスキーにはまってしまった。同じ小説を、同じ個所を幾度読んでも新鮮で、謎は深まるばかり。なかでも私の最も大きな関心事は「神はあるか、ないか」「不死はあるか、ないか」というドストエフスキーの問いが集約されている(と私は思っている)課題だ。これを不可知論(神がいるかいないかはわからない)で片付けたくない。ドストエフスキーの言葉で最も好きなのは「もし、世界中の人がキリストは真理の外にあると言ったとしても、私はキリストの側にいたい」というもの。ドストエフスキーは不可知論を乗り越えようとしている。この言葉は世界中で最も優れた信仰告白だ。この言葉を一つの杖として、作品をもっと深読みできるようになりたい。



日常から脱出できる救命具

西川直子

最近ことあるごとに読み返すようになった「罪と罰」のせいなのか、「LogicよりLifeを大事にしなければ幸福にはなれない」と思うようになった。しかし、あるアニメーターが、自分の作品に凶暴なものを登場させる理由として、「自分の中に凶暴なものがあるからだろう。日常だけでは窒息してしまう」と語ったように、ちっぽけな部品のひとつとして日常生活を営まねばならない私は、そこから脱出するための手段を持たなければ容易に絶望してしまうだろう。世俗的な喜びや悩みに支配されがちな思考と感情の片隅に、「もっと崇高なものに触れていたい」という衝動が宿っているのを信じられるからこそ、まだ生きていられる。自分にとってドストエフスキーの作品は、日常から脱出する手っ取り早い救命具なのだと思う。

ドストエフスキーの作品には、何しろぐっとくるセリフとシーンが多すぎる。例えば「カラマーゾフの兄弟」に出てくるイワンのセリフは、何度読んでも胸を揺さぶられてしまう。「おれは調和なんて欲しくない。人間への愛ゆえに欲しくないんだ。おれは報復されることのない苦しみと共にありたい。むしろ、この報復されることのない苦しみと、鎮められない怒りと共にあり続けたいんだ、“たとえ自分が間違っていたとしても”」。そして、こんなにも熱く人類愛を語りながらも、目の前にいる生身の人間への愛情をうまく持てずにいるイワンに、その同士たちに思いを馳せてしまう。報復される機会のないまま地上から消えていった苦しみは静かに、だが着実に降り積もってゆき、いずれその罪に問われる日が来るような気がしてならない。その時になお生きる希望と罪を引き受ける覚悟を持てるように、私はこれからもドストエフスキーを読み続けるのだろう。ドストエフスキー以外にも大好きな作家はたくさんいるけれど、こんなことをつい考えてさせてしまう魔力が宿った作品を書く作家を他に思いつかない。



ドストエフスキーとニヒリズムという視点から

石田民雄

たとえば『白痴』のテーマの一つは〈死と愛とニヒリズム〉であると言えるのだが『白痴』以降この〈死とニヒリズム〉のテーマは継続されずに「神とニヒリズム」へと主要テーマが変換され、展開されて行くことになっていて消化不良の感が残る。〈死とニヒリズム〉の問題はむしろマルロー或いはカミュによって深められていると感じ、その方向へ関心が向かい、カフカからベケットに至る前衛的手法による文学に〈リアル〉さを感じ、そのラインに沿った読書経験を大学時代に重ねて行った。大学時代唐木順三の著作、西谷啓二の『ニヒリズム』、レーヴィトのニヒリズム論に出会う。映画ではゴダールの『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』などヌーベルバーグに刺激を受ける。1970年11月25日、三島由紀夫事件に衝撃を受け、三島の文学を読み直す。

大学卒業直後、リースマンの『孤独の群衆』を読むことで社会科学分野の著作に親しむことになる。その後モノー『偶然と必然』、ローレンツ『攻撃-悪の自然誌-』など自然科学分野の著書をニヒリズムの視点とその出口の可能性を求めて集中的に読む。職業生活中カフカ、カミュ、ドストエフスキーの著作は継続的に読んでいる。1984年から85年に雑誌掲載された柄谷行人の『探求』に出会い『意味という病』に遡り、近著『世界史の構造』までを継続的に読む。ニヒリズム論として見田宗介『時間の比較社会学』にも感銘を受ける。

二十世紀、文学の役割が大きく縮減し他の人文科学分野或いは社会科学や自然科学分野に価値の重心が大きく移動してしまっている。かつてドストエフスキーは彼の文学こそが〈リアリズム〉なのだと断わった。エリオットにより『荒地』と名指され現在にまで接続するこの時代、ドストエフスキーの〈リアリズム〉と彼が提出した〈神の観念〉に「荒地」からの出口を見いだす以外に手はないと考えている。


読書会と私
(下原敏彦・康子著『ドストエフスキーを読みつづけて』栞 2011.2.20 )より

新美しづ子

東京芸術劇場に来た。ながいエスカレーターでゆっくり上昇、廊下の絨毯を踏んで読書会会場へ。人口で下原敏彦さん康子さん夫妻に笑顔で迎えられる。同好同士たちがふた月ぶりにご対面。みなさん、話し合いながら熱を帯びてくる。「そう、そう」と手を叩きたいくらい同感であったり、「えっ!」と、時にはびっくりしたり。以前『地下生活者の手記』ではちょっと驚いた。びっくりさせたのは当時大学生のY君、びっくりしたのはおばあさんだから当然といえば当然。「百人に百通りのドストエフスキー」は有難い。素人がおかしなことを口走っても逃げ込ませて頂ける。

下原康子さんとの出会いから六年。もっとずーっと長いような気がする。ドストエフスキー曾孫を囲んだあの早稲田の居酒屋の夜、なにか談笑しながら入ってきた康子さんが、私のまん前に坐った。やっぱりドスト様のおひきあわせ。もう一つの縁は、同じ母校を持っていること。或る日の二次会で雑談中にそれが解った。

去年、谷津干潟の散策は良かった。はじめてみる干潟の風景。読書会の誰彼とあとになり先になり青葉風に吹かれながら歩く。しだいに夢心地になって「ねえ、私達って、いったい、なんなの?」と世迷言を洩らす。

【谷津干潟散策を詠む】

肩寄せて海風青葉風のなかをゆくドストエフスキーはしばらく忘れ
いるはずのないムツゴローの顔など仮想する谷津の干潟の陽にひかる泥
次の日も次の日も消えぬ花のいろ私のなかの栃の木の花
ふとみれば鈍(にび)いろの海がそこにあるあとになり先になり歩く道の辺
この今がふっと不可思議樹の下に友だち十人小雀一羽



追 悼  

米川哲夫さん逝く

毎年この季節になると、寂しいお便りが届きます。長年、「読書会通信」をご愛読いただき、ときには励ましのお手紙をくださっていた米川哲夫さんが9月18日にお亡くなりになりました。ご子息様より「父は来年の生誕200周年をご一緒に過ごせず残念がっていると思います。色々お世話になり、ありがとうございました。今後のご発展を祈念致します」とのお言葉をいただきました。長年のご支援に感謝し、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。



寄稿エッセイ
          
死の家の記録

富岡太郎

子供のころ父親の本ダナに『死の家の記録』が置いてあり、不気味な本だと思った。自分が学生になると新潮文庫で読んだが悲しくも美しい作品だったのでくりかえし読んだ。電車の中で、あれは西船から中野まで往復して車内読書にふけった。いつまで続くかわからない青春の苦悩の中で囚人である主人公のエピソードに自らを重ねた。社会制度が悪いから犯罪が起きるというインテリとは違い、民衆は罪を犯した者をあわれんだ。血縁者に恵まれなかったと知っていたからだろう。民衆はクリスマスプレゼントの善行をするが、あらゆる善行は自己満足というインテリの考えとは全く違うものを作家は感じ取っていた。インテリが生々しい民衆の人生の感覚からあまりにもかけはなれていることを知った、名作だと思った。



編集室


カンパのお願いとお礼

年6回の読書会と会紙「読書会通信」は、皆様の参加とご支援でつづいております。開催・発行にご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です)
郵便口座名・「読書会通信」口座番号・00160-0-48024 

2020年10月15日~2020年11月20日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりて厚くお礼申し上げます。

「読書会通信」編集室 〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方