ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.175
 発行:2019.8.1


第293回8月読書会のお知らせ


月 日: 2019年8月10日(土)
場 所: 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
開 場: 午後1時30分 
開 始: 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品: 『カラマーゾフの兄弟』 4回目
報告者: 石田民雄さん
参加費: 1000円(学生500円)



8・10読書会 『カラマーゾフの兄弟』4回目


イワン・カラマーゾフ―その思想と論理構造を探る

石田民雄

読書会発表の意図:イワンの無神論「神がなければすべては許される」は彼の叙事詩『地質学的変動』に遡る。神は認めるが「神が創った世界」は認めないとする無神論の迂回的論理構造、叙事詩『大審問官』および『地質学的変動』における無神論の論理構造、そしてイワンとスメルジャコフとの対面に見られる論理構造と精神的破綻までの過程を追求することで『カラマーゾフの兄弟』の創作意図の一つを探る。



6・15読書会報告
 
               
2019年6月読書会、参加者21名

令和最初の読書会 6/20 『カラマーゾフの兄弟』3回目

6月読書会は、「令和」最初の「読書会」となった。報告者の菅原純子さんは、10年前2009年に「はたして『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャの人物像とは」を発表。物語におけるアリョーシャの立ち位置、役目などを注視した。が、10年後の今回は、その問題を、さらに掘り下げ、深化させ、より幅広い考察をみせた。

報告者は、10項目の問題をあげ、別配布のレジメに添って丁寧に報告された。

1.中村勘三郎と、ドストエフスキーの原点である人間の謎に関して
2.ロシアの『カンディード』を書くことというメモと、3.11ならびに
  リスボンの大震災
3.『カラマーゾフの兄弟』の中にあるヴォルテールに関する点
4.第五編の章と、第六編との関連性
5.受難した子供
6.真の父親とは
7.受難した子供スメルジャコフのたどる道
8.アリョーシャにとって、スメルジャコフは何だったのか
9.反逆の章の子供の受難の問題、現代日本における幼児虐待の問題も含めて
10.神義論―弁神論と反逆の章の関連性

とくに5~10項目の問題を中心に報告された。40分報告のあとの質疑応答では、様々な意見、感想がでた。この日、はじめて参加したFさんは、遠い西の県から新幹線でこられた。「ドストエフスキーと出会った3年前から、参加することが夢でした。やっとこれたことをうれしくおもいます」との挨拶に、新鮮さを感じた。評論家で読書会前世話人の横尾和博さんも、久しぶりに元気な顔をだされた。読書会参加は、2か月に一度の再会だが、「ゆく川の流れは絶えずして」で、皆さんの生活も様々な移ろいがある。トルコ、イスラエル一人旅を楽しんできた人もいれば、新しい生活を待つ幸福な人、病院通いで過した人も。読書会は、作品世界の縮図である。(編集室)



連載      

ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第84回)ドストエーフスキイの会発足50周年記念号「広場」(No.28)について

福井勝也

このところ堀田善衞の小説『時間』(1955)について論じてきたが、もう少し話したいこともあるが、その前に今月末(7/27)にその合評会も開かれる、会発足50周年記念号の「広場」(No.28)について先に触れておきたい。まずは、50年節目の年に相応しい「広場」の発刊がなされたことを言祝ぎたい。刊行までに議論も若干あったが、第一に記念エッセイとして川崎浹氏の「コンピューターアルゴリズムと地下室人」が「21世紀・近未来のドストエフスキー」との総題見出し付きで、巻頭に掲載された意義は改めて大きいと感じた。

人工知能(AI)がバラ色の時代の象徴として語られつつある昨今、いち早く「2×2=4の世界は、死の始まり」と喝破した19世紀地下室人は、21世紀の会発足50年の節目にドストエフスキーを再導入するうえで恰好のキャラクターだと思う。川崎氏は、ノア・ハラリ氏の近著『ホモ・デウス』で「いずれ人間がアルゴリズムに拘束を強いられ、アルゴリズムによって産出される超人間(ホモ・デウス)の従属物になるのではないか[‥」人工知能によってシンギュラリティという名の特異点を超えるホモ・デウスが現れ[‥」人間最後の砦である自由意志といえども、幸福のための「アルゴリズム」つまり最高の効率的な計算システムに道を譲るだろう」と予測するその見解について、川崎氏はとりあえず説得力ある警鐘として紹介しておられる(p.6)。

しかしそもそもここでの議論、例えば人間が「ホモ・デウス」に座をゆずりその家畜になる関係こそ、ドストエフスキーが見透した<2×2=4>の延長、「<AI時代>の大審問官の支配する世界」であるだろう。作家はその<防波堤>にその家畜にならざる者として、<アンチ・ヒーロー>の「地下室人」を創造しておいたのだと考えられる。そして人工知能(AI)の根幹の議論についても、川崎氏は同エッセイで本質論に言及していると言っていい。すなわち「「自由意志」と「自意識」は『地下室の手記』の二つの主要なモチーフだが、「意識」は脳生理学にも係わる主題で、「人を動かすものの正体」が今話題のマイケル・ガザニガ著『<わたし>はどこにあるのか』でも問われている。私もいずれ、「意識」の在りかを探る脳科学と『地下室の手記』の自意識を擦り合わせるつもり(p.8)」であると既に語っておられるのだ。

実は今日の人工知能(AI)問題の前提こそ、デカルトのコギト哲学以降、心身・心脳問題の現代版であることを認識すべきだと思う。実はこの問題は、19世紀以降現代脳科学まで引き摺って来ている、記憶が脳(「物質」)に局在するとの<迷信>に依拠している。そしてこれに対しては、いくら科学が進歩しても人工知能は、「記憶」を保存できても、生成できないという<常識>の範囲で応答すれば事足りるはずなのだ。<IT化>がどんなに進んでも、文字通りの<AI化>は実現しないと言い換えてもいい。そしてこのことを、小説で表現したのが、ドストエフスキーの『地下室の手記』(1864)なのだろう。さらに言えば、この問題を最先端の科学的成果(大脳生理学、心理学、解剖学)を利用しつつ、近代ヨーロッパ哲学の根幹にある心身・物心平行論(デカルト・スピノザ・ライプニッツ等)に対して独自の知見を示したのが、アンリ・ベルクソン(1859-1941)の『物質と記憶』(1896)であった。本著は、フロイト(1856-1939)の『夢判断』(1900)による無意識の発見とも並び立つ20世紀の精神革命の双璧的著作と考えられる。

21世紀もしばらく経過した今日、スマホのような電子機器の驚異的進化が人間意識に大きな影響と変化をもたらしつつある現在、「ホモデウス」という名の「大審問官」の出現に脅かされる人類的な危機と対峙するためには、「地下室人」を生んだドストエフスキーともに人間生命の存在論的解明を試みたベルクソン・フロイト等が力になるだろう。

さて今回の「広場(No.28)」においてもう一つ目玉だと思うのが、木下豊房氏の翻訳論文、ドミトリー・セルゲーヴィチ・リハチョフ(1906-1999)のドストエフスキーの「年代記的時間」であろう。リハチョフ氏については、木下氏が訳文の後に「解説」も付されている。それによれば氏は、ロシア古代文学の権威で、生粋のペテルブルグ人で、さらに分離派(古儀式派)の忠実な信徒であったとの興味深い紹介もある。さらに、社会主義革命期の激動のロシア現代史を「非党員であり、反体制派ではなく、それでいて独自の自立的立場をとりえた」「権力と距離をとりつつ妥協する稀有の才覚の持ち主であった」(p.111)との情報もあり、今回当方に様々なことを連想させた。

ただし、木下氏からこの翻訳論文について全般的な説明をお聴きしたのは、昨年(12/15)の「世界文学会」(中大駿河台会館)での発表講演であった。その時には、20世紀の極端な歴史的変動(ロシア→ソビエト→ロシア)を生き抜いた著者自身よりも、論文自体、ドストエフスキーの小説表現に特徴的な「時間」について、ロシアの古代中世的な「年代記的時間」を対照することで、その現代性・芸術性について『未成年』等の作品に即して精密に解き明かす内容に強く惹き付けられた。そして今回「広場」で翻訳論文を読む機会に恵まれ、また合評会でも感想を述べる機会を頂くことになった。

このタイミングで「広場」の翻訳を何度か読むうちに、正直その価値を改めて強く感じている。それは逆に、何故これまでこのような論文が翻訳されずにあったのか、本国ロシアではこの論文に限らず、リハチョフのドストエフスキー研究がどう評価されて来たのか、そんな元々の疑問が頭を掠めた。この点では、解説最終部の木下氏の言葉が気になった。

「今回、リハチョフの一連のドストエフスキー論を訳出してみて私が感じたのは、1960年代にすでに、彼はドストエフスキー文学のいわゆるポストモダ二ズム的な性格を洞察し、明確に分析していたということである。1963年に、ミハイル・バフチンの『詩学の諸問題』が出て、「対話性」、「ポリフォ二イ性」という理念的な面が注目され、多く論じられるようになったが、小説の構造、語りや叙述のスタイルといった文学研究の視点からいえば、リハチョフのアプローチの方がより革新的で、説得力があるとさえいえるのではなかろうか。」(「広場」p.112)

木下氏のリハチョフを高く評価する言葉として、当方も十分に頷ける内容であると感じるとともに、幾つかの新たな感想を抱いた。まず今回の「広場」は、会の活動を振り返る50周年記念号ということで、自分も「感想」-会誌「研究Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」発刊の頃との拙文を掲載させて頂いた。この「研究」が発刊された時期(84.2月~86.3月)こそ、60年代には始まっていたヨーロッパ発のポストモダ二ズム思想が、日本のドストエフスキー研究にも影響した時期であった。この点69年に発足した当会が、新谷敬三郎氏がバフチのン紹介者であったことも思い出すべきだろう。そしてバブル最盛期でもあったあの頃、その時代評価はともかく、日本においても「世界知としてのドストエフスキー」が百家争鳴の如くに語られる「ベル・エポック」の時期でもあったとも思えるのだ(「広場」p.19)。

そして、今回木下氏のリハチョフ論文が本邦初訳されたわけだが、この論文が元々1967年に書かれ、1984年に刊行された著書の一部であった経緯を知らされ、やや複雑な思いに捕らわれた。すなわち60年代に既に発表され、80年代に書物になりながら、なおこのようなドストエフスキー研究の重要文献が十分検討されぬままにあったのか、結果50年を経て本会(本邦)に到達したという顛末への複雑な思いである。もしかすると、当方は、翻訳者以上に、本論文を「過大評価」しているのだろうか?この点は、最後に触れたい。
 
ここでは先に、リハチョフ論文からそのエッセンスが美事に語られていると思う部分をやや長目だが引用してみる。すでに「通信」No.173号で、「堀田善衛とドストエフスキー」論考での「キイ・ワード」「未来からの挨拶(Back to the Future)」の説明箇所にも引用した。今回は、木下氏から最近ご送付頂いた最新訳(修正版)から省略なしに引用しておきたい。実は今回読み直しに当たって、翻訳論文の気になったところを勝手に抜き書きしてみたが、意外に長いワンフレーズの文章で約30箇所以上に及んでしまった。本来、すべて紹介したいが、今回は一箇所に限ってみた。(手元の「新訳」p.20-21 ←「広場」p.107-108)
 
「ドストエフスキーは時間を追いかけるが、後の時代のプルーストのように、かつて有り、過ぎ去り、いまや追憶で、現在の彼方、生成過程の彼方にある「失われた時」を追ってではない。ドストエフスーは年代記者として、の間のものを定着させ、それを書き留めての間のものの中に永遠を究明しようとする。ドストエフスキーが書くものはまだ冷めやらない過去であり、現在であることをやめない過去である。彼の年代記は「かけ足の年代記」で、彼の雑報記者はレポーターにそっくりである。そのためピーメン(訳註5によれば、ピーメンはプーシキンの劇詩『ポリス・ゴドノフ』に登場する古老の年代記者、筆者註)に似ず動きまわり、ピーメンとは違って若い。しかしやはりピーメンとの関係はある。ドストエフスキーは年代記者として、意味深いものにも、つまらないものにも同等の意義をあたえ、主要なものと二次的なものをその叙述の中で結びつける。それが彼に、些細なものに永遠の印を、未来の予感を、まだ誕生に至らない未来そのものを見透かしさせるのである。

ドストエフスキーは客観性と信憑性の探究に全身全霊打ち込んでいる。些細なもの(デテール)と主要なもの(全般的なもの)へ同等に注意を向けることによって客観性を保つことが彼には可能になる。

出来事はある者にはそのように見え、他の者には別様に見える。しかし出来事についての見解の多様性からいえるのは、出来事が存在したこと、それは幻ではないこと、さまざまの視点の間に共通するものが一般的で客観的なものであるということである。事件の跡を追っての語り手の素早い追跡を背景として、そこから抽象化された、未来への作者のすべての指向は、予言として、予見として、生起しつつあるものの永遠の本質への確証として受け止められる。

ドストエフスキーの小説の「かけ足の年代記」は現代的な文学形式である。それはまったく古風な語りを模倣する試みではなく、芸術的な時代の忘れられた形式を機械的に復活させる試みでもない。それは時には速記録である。速記録の特徴は、年代記的な構成の手法と混淆して、ドストエフスキーのスタイルに影響をあたえた。」

ここで最後に、自分が本論文を「過大評価」する前提に触れておきたい。それは今までにもあったドストエフスキー作品に特徴的な<時間>の説明と違って、リハチョフの切り口や語り方が、この問題をより鮮明化するように当方の思考を導いてくれたためであった。

それは、ドストエフスキーは「流れゆく現実への想いにとらえられた作家である」というリハチョフの言葉からすべて出発していた。そこで作家が描く時間の独自性とは、「時間における一点から他の一点への移行、過程、動き、経過時間であって、その新しい描写形式」を作家は目指したのだと再定義された。このことは、ドストエフスキーが同時代の小説のみならず、19世紀に隆盛になった西欧の近代小説がそのようには描かれていないことを洞察し、それに対し不満であったことが前提にある。おそらくそのような近代小説の形式では、人間の真実が現在も未来においても表現できないと考えたからであろう。そのための独自の文学形式に挑戦したのがドストエフスキーであったと思うのだ。そしてそれは、我々が日常に生きる時間をできる限りそのままに描くことを欲望した作家であったと言い換えられるだろう。ドストエフスキーにとって文学する目的は、早くから人間の真実を解き明かすことであったが、そのような時間描写を目指すことこそ、人間精神(意識/無意識/記憶)の秘密を明らかにすることができると考えたのではなかったか。

そしてそうした描写を可能にするために、ドストエフスキーが採用した小説構造上の仕掛けについてリハチョフは説明する。すなわちその独自の「語り手」のあり方を解明する。ここで彼は、その「語り手」の淵源を古代ロシアの文学伝統に見定め「年代記者」を甦らせ、小説の「現代の年代記者」(ドストエフスキー自身の表現)と比較してみせる。そしてリハチョフは、それがあくまで作家の援用であって、ドストエフスキーが実現したのが、現代小説における独自の芸術形式であったと結論する。さらにドストエフスキーが小説内に配置し、自由に駆け巡らせる独特な「語り手」の典型とは、「第一に作家であり、たいていの場合無名で、偶然のいきさつで書いていて、事件を発生時にできるだけ近い形で記録しようと努めている日記の書き手であったことを明らかにする。そして、この「語り手」の特徴と小説の時間の推移が如実に表現された作品が『未成年』であって、論文は、その主人公(アルカージー)の語りのあり方 ─ その叙述のドキュメンタリー性、その事実重視 ─ に頁を多く割いている。ここも本論の大切なポイントだと感じた。
 
スペースの関係もあり、本稿をここまでで(数点の蛇足を付して)締め括りたい。実は、リハチョフ論文について講演で内容をお聴きした時、真っ先に思い浮かんだのが、小林秀雄の最初期のドストエフスキー作品論「「未成年」の独創性について」(1933)であった。すでにこの論考については、本通信170号(2018.10/10)でも紹介したが、今回小林が作家の視線、そのリアリズムが「近代的なしかも野性的なリアリズム」だと語っていたことが、リハチョフ論文の「かけ足の年代記」「現代の年代記者」の背後にある作家の視線と重なるものだと感じた。この時期、小林はベルクソンを既に耽読していたことが分かっている。論文にはプルーストの「失われた時」が出て来て、それとドストエフスキーが描く「時間」が違うとのリハチョフの指摘も引用した。この偏差にも注意すべきだが、おそらくこの背後には、リハチョフのベルクソン受容(『意識の直接与件に関する試論』1889)があるはずだと見た。小説『失われた時を求めて』(1913~1927)がベルクソン哲学に示唆を与えられたものであることは、プルースト自身が認めている。しかし当方は、ドストエフスキーまで遡る影響関係を、ここでの誰彼に指摘適用しようとするつもりはない。

そんなことより、人間が生きるということが、時間を生きるということであり、時間を生きるということの真実を求めることは、人間存在への最大の問いだと言いたいのだ。そして、ドストエフスキーとは、この問いに対する解答を最大のテーマとしたと文学者であったと考えるのだ。そのような思いから、リハチョフと小林秀雄という二人がドストエフスキーへの思いを共有していても不思議はない。無論、そこにベルクソンが介在していたとしても。小林とリハチョフには、日露の20世紀現代史の違いを越えて何か同じテーマを追いかけていたように感じる。例えば、リハチョフのドストエフスキーの小説表現のあり方を論ずる絵画論は、小林の戦後の『近代絵画論』(1958)に匹敵している。リハチョフ論文との偶然の出会いから様々な思いが重なる。これも会発足50周年にあたって頂いた贈り物だとしたら‥‥、とにかく翻訳者の木下先生には感謝している次第だ。 (2019.7.7)



予備校graffiti
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ドストエフスキイ研究会で出会った青春(四)
テレビで出会ったベトナムの悲劇

河合文化教育研究所研究員   芦川進一

★E君の人生を決めたのは、偶然テレビで目にした一つの光景でした。ベトナム戦争で、戦禍に遭った子が泣き叫んでいる。S君がこの光景を目にした時、既にこの戦争が終わってから長い時間が経っていたはずです。しかし彼は思ったのです ―― このような悲惨な光景が、この地上において再びあってはならない。たとえ過去のこと、遠い国のことだとしても、この無垢な幼な子の涙を見なかったことにしたら、自分の人生は偽りのものとなるだろう。

★E君は自分の夢・使命への準備に二十代全てを費やします。入学した大学でまず彼がぶつかったのが語学の壁でした。ここでは基本的に授業は英語で行われるため、達者な英語を話す帰国子女たちを前にして、受験英語の得意だった彼も大きな挫折感を味わいます。発奮したE君は、大学の留学制度を利用してイギリスで学び、英語の力と自信をつけると共に、自分の夢と使命への具体的な視野もはっきりと自覚をするに至ります ―― 世界に満ちる子供の受難をなくすため、自分が取り組むべきことは「教育」に他ならない。世界を変えるために、最も遠回りに見えて最も確実な道とは、この世界から読み書きの出来ない子を一人でも減らすこと、の問題との対決だ! この自覚と決意は今に至るまで些かもぶれず、彼を貫いています。

★その後E君は、某国立大学の大学院で博士課程を修了した後、(独立行政法人国際協力機構)に入り、バングラデシュとインドネシアでの長い教育活動の後、一度現場での実践活動を整理して新たな飛躍に備えるため、シンガポール大学で教鞭をとり研究生活に入りました。ここで彼は結婚をしてsweet homeを築くのですが、その奥さんは、彼の人生を決定づけたあの戦争をアメリカと戦った国ベトナムからの留学生です。不思議な、しかし強い必然を感じさせる縁です。現在二人はオーストラリアの大学に活動の場を移し、夫婦共々教育と研究に没頭しています。既にE君の海外での実践と研究生活も二十年以上、この間に彼が書き上げた英語論文は世界中の様々な研究誌に掲載され、恐らく質量共に日本のどの大学の教授にも引けを取らないでしょう。

★E君について語るべきことは多いのですが、今回は幼な子の受難の問題以外にもう一つ、E君について私がしばしば若い人たちに語る問題があり、それを記しておこうと思います。日本に一時帰国をした時のことです。彼は私に熱く語ってくれました。

 「海外にいると、どうしても日本と日本人のプラスとマイナスについて考える機会が多くなり、どちらかと言うとマイナスの方が多いのが悲しいです。しかし僕が日本について唯一、常に胸を張って誇り得ることがあるとすれば、それは日本が戦争を永久に放棄した憲法第九条を持っていることです。日本がどんなに豊かで優れた技術を持とうとも、またどんなに素晴らしい自然と伝統を誇ろうとも、この事実以上に素晴らしい財産はないと思います。日本が過去に犯した大変な過ちを踏まえ、この平和憲法を持つに至ったのである限り、そして我々がそれを堅く保持し続ける限り、海外の人たちは日本を信頼してくれます。このことを僕は肌身で実感してきました」

ハッとさせられる言葉でした。二十年以上日本を離れ、ひたすら日本と世界の運命について考え続けたE君にして初めて可能な認識です。私は若者たちに、将来君たちが海外に出る時、日本国のパスポートの携帯を忘れることがまずないと同様、このE君の言葉をしっかりと心に刻んでゆくよう言い聞かせています。

★E君と私との交流は彼の浪人時代からのものですが、三年ほど前から二人の接点が新たに一つ増えました。ライフワークとする教育の問題で、彼がドストエフスキイを取り上げつつあるのです。この地上に満ちる罪なくして涙する幼な子 ―― これはE君の人生の出発点となった問題であり、更にドストエフスキイ研究会でも彼の課題であり続けたのでした。その後海外で教育の問題、殊にil・literacyの克服の問題と取り組み続けてきた末に、彼は改めて『カラマーゾフの兄弟』に登場する青年スメルジャコフこそ、「罪なくして涙する幼な子」の極たる存在であり、自分が取り組んできた問題の多くは、このスメルジャコフの内に含まれていると思うに至ったと言うのです。スメルジャコフについては、私自身も『カラマーゾフの兄弟』のブラック・ホールとして長い間考え、論じてきたため、二人は一年に一度でも研究会を持とうと決めました。先日も一時帰国をした彼と私とは、この問題を論じ合ったのですが、別れ際彼は「僕は先生のドストエフスキイ大学・カラマーゾフ学部・スメルジャコフ学科の学生です。十年は勉強をします!」、こう宣言して去ってゆきました。

★彼はメルボルンにある大学への行き帰り、地下鉄の車中でカラマーゾフと取り組んでいるようです。そこで生まれる疑問は、インターネットで送られてきます。これが我々の普段のゼミの場ですが、彼が触れる英文のドストエフスキイ研究は、スメルジャコフについて未だ十分な分析をしていないため、検討すべき問題は多いのです。旧いアカデミズムの場とは別に、このような「学生」が新しいドストエフスキイ世代を作り、ドストエフスキイを介した新しい日本と世界の未来を創り上げてゆくのでしょう。



広 場


NHK文化センター 柏市民講座 ナポレオン生誕250周年に寄せて

「ナポレオンになりたかった青年の物語」――ドストエフスキー『罪と罰』を読む――

1回 ドストエフスキーとナポレオン 

ナポレオン生誕250周年記念に、なぜドストエフスキーか。どうして『罪と罰』を読むのか。ドストエフスキを知らない、読んでいない本教室の受講者には、不思議に思えるところである。テキスト『罪と罰』が、なぜに「ナポレオンになりたかった青年の物語」か。このタイトルに戸惑うばかりと推測した。

そこで、はじめにナポレオンとドストエフスキーの関係をみることにした。日本で英雄といえば、だいたい戦国時代の武将である。天下統一という目的のために何千何万という人々を殺戮した織田信長、百姓の子から関白、征夷大将軍にまでのぼりつめた豊臣秀吉。いずれも日本においての英雄だが、世界においては、ナポレオンが群を抜いている。コルシカに生まれた一兵士は戦争の度に才能を発揮しついには皇帝の玉座を手に入れた。いつの時代も若者は英雄に憧れる。日本でも幕末の志士、坂本竜馬も、その一人だ。父子共に深いといえる。ちなみにミハイルは陰気で厳格な教育熱心な父親だったが、母マリヤは商家の出で、にぎやかなことが好きな明るい性格だった。

ドストエフスキーのナポレオン好きは、書簡においても証明される。ドストエフスキーは、39歳のとき1860年3月14日付けの手紙に(友人の妻に)こう書いている。
「どうかご立腹のないように。第一、筆跡はわたしとナポレオンとの唯一の類似点ですし」ナポレオンと、字体が似ていることも自慢だったようだ。

『罪と罰』にはナポレオンの名前が13回余も登場する。ドストエフスキーのナポレオンへの思いの強さ、熱さは、たんに英雄への憧れだけではなく生没年の一致、字体の類似にあったのでは。もしかしたら、ドストエフスキーは、ナポレオンを意識したころから、いつかナポレオンを題材にした小説を書いてみよう。そんな野心を秘めたに違いない。そんなふうに想像するわけである。

『罪と罰』は、ドストエフスキーの作品のなかでも、一番人気のある作品である。世界的にも読者は多い。研究書、評論なども沢山出版されている。どの作品も、100人が読めば100通りの感想がある、といわれる。
今回テキストにした『罪と罰』の訳者、江川卓は、その読みについて、「推理小説にはじまって、思想的、哲学的、社会的、心理的、宗教的、等など、実にさまざまなレベルの読みを体験してきた」と述べている。(謎とき『罪と罰』)

ドストエフスキーは、この作品を「犯罪心理の報告書」として紹介している。この講座では、まずは初歩的に、犯罪推理小説として読んでゆく。


編集室


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