ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.170
 発行:2018.10.10


10月書会は、下記の要領で行います。

月 日 : 2018年10月20日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
開 場 : 午後5時30分 
開 始  : 午後6時00分 ~ 8時45分
作 品  : 『未成年』3回目
報告者  :  フリートーク  司会進行 小山創さん       
会 費  : 1000円(学生500円)

12月読書会は、15日午後、東京芸術劇場第5会議室です。
開催日: 2018年12月15日(土) 午後2時~4時45分迄です


第48回大阪「読書会」案内10・6(土)
『カラマーゾフの兄弟』第4編
ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪読書会第48回例会は、以下の日時で開催しました。10月6日(土)14:00~16:00
会場:まちライブラリー大阪府立大学 参加費無料 〒556-0012 大阪市浪速区敷津東2丁目1番41号南海なんば第一ビル3FTel 06-7656-0441(代表)
地下鉄御堂筋線・四つ橋線大国町駅①番出口東へ約450m(徒歩約7分)



『未成年』3回目は、フリートークします。今回で『未成年』は最後となります。参加の皆さんから簡潔な感想と作品批評、議論されたいテーマなどご提議あれば幸いです。

『未成年』これまでの報告
1回目2018年 6月9日  報告者 國枝幹生さん  わが青春のアルカージイ
2回目2018年 8月25日 報告者 富樫紀隆さん  『未成年』の魅力とは何か



『未成年』とは何か
 (編集室)

『未成年』とは何か。作者ドストエフスキーの思い、『創作ノート』抜粋を紹介する。
※『ドストエフスキー 写真と記録』V・ネチャーエワ(論創社1986.3.10)仲村健之介訳

作者の想い

□1876年『作家の日記』ドストエフスキー
私はもうずいぶん前から、ロシアの現代の子供たちについて長編を書くのを自分の最高の目標としてきた。もちろん、それは現代の、子供たちの父親についても書くもので、両者を現代のその相互関係において捉えるものである。小説の核となる詩的世界は出来上がっている。小説家においては常にそうであるに違いないが、その詩的世界が第一に生まれたのである。私は、能う限りあらゆる社会層の父親と子供を取り出してきて、子供たちを、その少年時代の最初から追跡してみるつもりである…今私は『未成年』を書き上げただけである。これは私の思想の最初の見本である。しかし、そこでは子供たちはもう少年時代を脱してしまって、もうちょっとで一人前になる人間として現れて、おずおずと、かつ、図々しく、一刻も早く人生の第一歩を踏み出したいと願っている。
□ドストエフスキー『創作ノート』[長編の全体の題は]人物、典型的の人物、夢想家。主人公は彼ではなくて、少年。子供たちについて、ひたすら子供たちだけについての小説。用事のときの主人公についても…。『活動への第一歩』という題にすべきではないか…あるいは『無秩序』という題。あるいは『詳しい話し』か『ある詳しい話し』という題。
□『創作ノート』ドストエフスキー
極めて重要。未成年は小説全編を通じてロスチャイルドについて自分の理念を手離さない…小説全体において、この理念にこの小説最大肝要な意味を付与するようにもってゆくこと。

アルカージイ「手記」の意義

□『創作ノート』ドストエフスキー
長編(告白)の最期の意味は、彼、未成年が、これまで見聞し体験した諸々のことに衝撃を受け、打ちのめされていながらも、気力をふりしぼり、考えをまとめて、新しい生をめざして方向を切り替えようとしている、ということ。一本一本の草に、そして太陽に賛歌を(フィナーレの数行)
□『未成年』ドストエフスキー
…現代の差し迫った問題が過ぎ去ってゆき、未来がやって来たとき、未来の芸術家は、過ぎ去った無秩序と混乱を描くためであれ、美しい形式を探し出してくるでしょう。そのときこそ、君(アルカージイ)のこのような手記が必要になるのです。…君の手記は、それがどんなに混乱に満ちた偶然的なものであるのにせよ、正直なものでさえあるなら、素材を提供してくれます。―――
「アルカージイ」について
□『思想家と芸術家としてのドストエフスキー』A・V・ルナチャルスキー(1875-1933)〈※ルナチャルナスキー=マルクス主義の立場に立つ哲学者、批評家、ロシア革命後、ソ連邦ロシア共和国の初代人民教育委員を12年にわたってつとめた。〉都会は、とりわけペテルブルグは、資本主義の激しい風邪で彼を包み込んだ…小市民は、特にインテリは、例外なく、この時代、立身出世を、成功を目ざす激烈な競争と闘いに直面したのだった。権力と富のチャンスが誘惑の手を差し伸べ、繁華街のぜいたく品と金持ちの暮らしが手招きした。

ドルグーシン事件 『未成年』の素材の一つ
■レフ・トボルコフの供述から(ドルグーシン・グループの一人)
彼(ドルグーシン)は、有能で、知的に発達し、教養もあり、民主社会主義的傾向の新しい思想の感化を深く受けた男であります。現在の社会秩序は彼を満足させませんでした。彼は、自分なりの理想をこしらえたのでした。それは大体のところチェルヌイシェフスキーあるいはフレロフスキーの理想に近いものでした。

※フレロフスキー(1829-1918)=本名はB・B・ベルヴィ、経済学者、ユートピア社会主義の考えの持ち主。無償の農民教育、農民による土地所有、農村共同体の強化などを訴えた。その『ロシアにおける労働者階級の現状』は名著と言われている。
※ドルグーシン・グループ=1876年7月に裁判が行われたドルグーシン事件をドストエフスキーは『未成年』のデルガチョーフとその仲間のモデルとした。彼らは教会や皇室を否定して、福音書のイエスの教えに従わんとする革命家たちだった。

■ドストからブッイコーヴィチ宛(1843-1909ジャーナリスト)への手紙1874.8.11
…あなたは、新聞のドルグーシン一派の裁判の記事を集めてくださると確約して下さいました…その記事の載った新聞が、今、私が取り組んでいる文学上の仕事のために是非とも必要なのです…



8・25読書会報告 


参加者15名

報告者・富樫紀隆さんの報告 魅力を語る (編集室)

多くの作品感想にいえることだが、5サイクルという作品読み。半世紀で5回目の読みである。これほど長く繰り返しがつづけば、たいていの作家の作品感想は、枯渇する。前人の轍を踏むばかり、となる。その証拠に、幾多の作家の読書会が産声をあげ、消滅している。しかし、そのなかにあってドストエフスキー読書会は、発足時の新鮮さがある。常に時代の読みがある。今回の富樫さんの報告にも、それを感じた。富樫さんの場合、以下の時代における三点が課題となったと報告した。
○ドストエフスキーとサリンジャー(『ライ麦畑で捕まえて』の作者)
○ドストエフスキーとエヴァンゲリオン(アニメ 謎のロボットとの闘い)
○ドストエフスキーとゲーム(依存症になることで問題になっている)


報告要旨  『未成年』の魅力とは ? 
   

富樫紀隆

「胸のポケットの中に縫い付けられていた手紙」は、アルカージイの潜在欲望の現れであります。つまり、「白紙の手紙」はアルカージイの持ついろいろな抑圧やコンプレックスの補償、抵抗の手段、代償行為なのです。ヴェルシーロフは、「人が生きることの辛さ」を知っています。と、同時に「人が生きることの面白さをも知っています。生きるために例え(嘘)だとわかっていても「正義と愛」という(夢)や(希望)が必要なのだ、と知っています。ドストエフスキーは私小説という表現手段の特色、つまり、アルカージイイが書いた「小説」であるという世界観を生かしたことにより、読者の青年たちに虚構と現実との違和感もなく、ピュアにつたえることができるのです。それが『未成年』が持つ最大の魅力です。



「ドストエーフスキイの会」例会報告


ドストエーフスキイの会は、9月15日(土)午後2時から早稲田大学文学部富山キャンパス32号館224教室で第247回例会を開催した。
◆報告者 坂庭 淳史(さかにわ あつし)氏
◆題 目 タルコフスキー映画におけるドストエフスキーとの信仰と生に関する対話




連載  ドストエフスキー体験」をめぐる群像

   
(第79回)『未成年』という作品の<読みにくさ>という<独創性>    

福井勝也

現在「読書会」では、ドストエフスキーの『未成年』(1875)を読み進めている。この作品をドストエフスキーの五大作品(「ベスト・ファイブ」)の一つに入れることに異論のある読者がいるかもしれない。ただ単に「五大長編」と括れば無論別だが、問題は読者の好み如何ではなく、よく指摘されるこの小説の「わかりにくさ」「読みにくさ」という評価の内実に係わる。このことは、一度しっかりと考えたいと思っていたので、今回取り上げてみた。その事を考えていた矢先、さらにそのことを促すきっかけを頂いた。

亀山郁夫氏が五年を費やされた『白痴』の翻訳が完結し、新訳新刊(9/20)の『文庫4』をお送り頂いた。その「訳者あとがき」には、次なる挑戦として「ドストエフスキー五大長編の新訳完成」を目指して『未成年』の翻訳へ向かう決意が記されていた。早速お礼のメールを返信した際、読書会で目下『未成年』を読んでいて、かなり重要な作品であることを再認識している旨付記した。亀山氏も直ぐに反応してくださり、同時に今まで余り読まれて来なかった理由を考えてみるべきだとの助言をもらった。

すでに二回の読書会でも感想が色々と述べられたが、確かに『未成年』という小説には、独得な「読みにくさ」があって、作品全体の「わかりにくさ」が読者を強いることになる。その点で最後まで読み通すには、他のドストエフスキーの作品とはやや異なる<忍耐>が必要とされるかもしれない。そしてその<忍耐>は、多くの登場人物とその複雑な人間関係をなかなか把握しきれないもどかしさから来る。しかしそれだけなら他の長編にもある程度言える話である。また『未成年』の小説構成が特別に不十分であるとの指摘は必ずしもあたらないと思う。大冊の名著『評伝ドストエフスキー』(1947)のモチューリスキーは、その『未成年』作品論で、その四つのテーマを明らかにし、三部からなるドラマ展開を整理してみせてくれる。そのうえで、その構成についても次のように語っている。

ドラマチックな構成原理も、この長篇小説で新しい力を獲得している。時制の一致は驚くほどの一貫性で守られ、それは時間の推移が明示されていることで強調されている。第一部のさまざまな事件はすべて、「去年の9月19日、20日、21日」の3日間のことを語っている。第二部の事件は、「11月15日、16日、17日」の3日間に起こっている。ドストエフスキーの他の長篇小説で、時間の境界がこれほど明確にしめされているものはほかにはない。激情と事件の混沌たる世界は、厳密な輪郭で仕切られた時間内に納められている。しかも計算されているのは、日数だけでなく、ときには分単位にも及んでいる。読者は時計を念頭に置いて、現実の時間と比較することで、事件の急激なリズムを感じとることができる。(引用は前掲著p.556、最終行の太字は筆者)

ここでの解説は、確かに批評家のもので、われわれ読者が読んで直ぐにその構成が呑み込めるかどうかは別問題だろう。ただモチューリスキーの指摘で当方が関心を持ったのは、『未成年』という作品に流れる独特の時間についての指摘であった。きっちりと仕切られた時計的時間との比較にあって、現実の流動する時間と向かい合う小説への着目と言える。

それでは、このことはどこから来ているのか?それが、全篇21歳の青年の手記で書かれた一人称語りのスタイルから来るらしいとの見当はつく。つまり読者は、主人公マカール・ドルゴルキーの身体を通して以外、小説外の情報を経験することを原則与えられてない。作者ドストエフスキーは、ある程度の作品の読みにくさを承知で、その方法で書いているのだ。そうは言っても、読者にも作品を読む時間が与えられていて、いつの間にかその青年による語りを忘れて、読者自身が物語を再構成(空想)する欲望に捕らえられる。そこから読みの混乱がさらに生じ、一層作品が分からなくなるのだろう。

実は以上の『未成年』という小説表現の特徴を深く認識発見し、その<独創性>をいち早く語ったのが、戦前ドストエフスキー作品に論究を始めたばかりの小林秀雄であった。それは「「未成年」の独創性について」(1933)という中編論考であるが、ここから戦後へと跨がり30年以上をかけたドストエフスキー論にあって、小林らしい慧眼が瑞々しく語られた画期的な批評文だと改めて思う。ここで取り上げて特筆する理由である。今回の当方の議論も、この内容に改めて触発されたものである。関連箇所をやや長目に引用する。(「小林秀雄全作品4」p.243~259、新潮社)

この手記に描かれた出来事はすべて青年の心の中の出来事である。青年の情熱であり、青年の思索であり、青年の観察である。作者は何処にも顔を出していない。作者は完全にこの青年を自分の傀儡として、この早熟な天才的な青年の持っている鋭さ、美しさと共にその頑固、鈍感、醜さを憚るところなくさらけ出させている。作者は青年を捕らえて瞬時もはなさない。瞬時もこの小説がドルゴルキイの手記であり、作者或は他の誰の手記でもない事を忘れない。これは青年の徹底した客観化である。私は青年の本姓というものをこれ程強く深く描いた小説を他に知らない。読者はこの小説の溌剌とした筆致に魅せられて?々これが青年の手記である事を忘れる。忘れる時に不自然を感ずる、誇張を感ずる。言うまでもなく誤りは読者の側にある、この小説を理解する鍵はすでに冒頭の短文にあると言った所以である。(小林はこの論考を、ドストエフスキーの作品中で最も個性的な書き出しであると特筆して、冒頭その長目の引用から開始する。筆者注)

青年が己れを語った小説はある、青年を上から観察した小説はある。しかし作者が青年を完全に擒にして、青年の内心に滑り込み、青年をそそのかし一切をさらけ出させた「未成年」の如き小説を私は知らないのである。作者はドルゴルウキイを単に観察しているのではない、青年に乗り移っている。(前掲書、p.252、太字は筆者)

この後、小林はロスチャイルドを夢見ているアルカージイ・ドルゴルウキイが儲けようとして競売に出向く場面を具体的に問題にする。つまりそこでは、読者が空想し期待するような、ドルゴルウキイの新たな企みの発覚とか新奇な事件の発生とかは何も起こらず、結果的にアルカージイは10ルーブルを得ただけで終わるのだ。ここで小林は注意深い読者となって、「未成年」の独創性について次のように語っている。

この場合でも誤りは読者の側にある。読者はこれが大人の手記ではなく子供の手記である事を忘れたのだ。子供の空想の生ま生ましさを忘れたのだ。だから作者がこの子供の空想の生ま生ましさに全身を託して筆をすすめている時勝手にいらざる錯覚をおこすのだ。

罪は読者の側にあると言ったが、技未熟な作家は論外だが、一流作家は、こういう余計な錯覚なぞを読者に起こさせぬものだ。例えばトルストイのあの整然たる描写を考えればいい。「戦争と平和」や「アンナ・カレ二ナ」は累々と重なる複雑な構成にもかかわらず、与えられる印象は大へん静かな統一したものである。トルストイの小説には読者を惑乱させる様な出来事が描いてないのではない。そういう出来事が、すべて作者の沈着なリアリズムの作法でしか起こらぬのだ。丁度芝居の観客が、舞台で何が起ころうが安心している様なものだ。処がドストエフスキイの劇場では、幕がかわる毎に観客は席を代えねばならぬ様な仕組になっている。而も幕はなんの警告もなくかわる。

彼は、多くの写実派の巨匠等が持っていた手法上の作法を全然無視している。彼の眼は、対象に直にくっついている。隙もなければゆとりもない。作中人物になりきって語る事は、最も素朴なリアリズムだが、この素朴なリアリズムが対象に喰い入る様な凶暴な冷眼と奇怪に混淆している。こういう近代的なしかも野性的なリアリズムが、読者の平静な文学的イリュウジョンを黙殺している。   (前掲書、p.25 、太字は筆者)

ドストエフスキー劇場では、見る者同士のみならず、見る者と見られる者の位置の交替が頻繁に起こる。その比喩するものが、物質の無数の単位的分割と連続的な差異化の可能性を発見した二十世紀現代物理学と同質で、その量子論や波動力学出現の先取りであったと考えても良いかもしれない。ここには、近代物理学が前提とした固定的な絶対的人間観に代わって、現代物理学に相応しい、常に変化し相対化した新たな人間観が実現されている。小林はドストエフスキーの文学を、トルストイのそれと決定的に区別するためにそのような比喩を使っている。トルストイが一流なら、ドストエフスキーは超一流なのだろう。

そしてそうした比喩の根本にあるのが、『未成年』の主人公アルカージイが生きる、流動する時間であり、ドストエフスキーは『未成年』という作品の時間をそのようなものとして描こうとした。小林は、そこに『未成年』の独創性の核心があると考えたのだろう。しかしそれと同時に、その時間の流れに抵抗を感じた読者が、戸惑い置き去りにされる。トルストイの「平静な文学的イリュウジョン」に止まりたい欲望に捕らわれた読者は、ドストエフスキーの近代的なしかも野性的なリアリズムに黙殺されることになるのだ。

この点で小林が最後に言及するのは、小説のエピローグ(第3部第13章)でアルカージイの手記をすべて読んだ男(モスクワで親代わりしてくれた、マーリヤ・イワーノヴナの夫のニコライ・セミョーノヴィチ)の書簡である。そこでは、ここまで辿り着いた読者へ、ドストエフスキーに成り代わった(才能ある現代の小説家を装った)人物氏が、作品(「手記」)のあたかも「謎解き」でもするように語る(青年アルカージイが隠し持っていた「手紙」の意味)。それは同時に、現代作家が課題とすべき小説的主題の宣明でもあった(「偶然の家族」を生きる現代ロシアの若者の現実的考察と未来)。そしてそのために必要な新しい小説形式・文体の発見の努力についての。以下、小林論考の人物氏の言葉である。

「わが小説家の立場は極めて明瞭であります。彼らは歴史体以外の形式では、書く事が出来ません。なぜなら現在には美しき典型がないからです。よし多少その名残りをとどめているにもせよ、目下一代を支配している輿論によると、それらはなんらの美をも保っておりません」(中略)(ここの(中略)は、原文のまま、筆者注)

「それは(「未成年」の如き作品は―小林注)労して功なき仕事で、美しい形式に欠けています。のみならず、これらの典型はいずれにしても、まだ流動する現在の現象であり、したがって、芸術的完成味を有し得ないのです。重大な誤謬も有り得る事ですし、誇張も見落としも充分にあり得るのです。何にしても、多くの事柄を洞察しなければなりません。とはいうものの、ただ歴史体の小説のみを書く事を欲しないで、流動せる現代の悩みに捕らわれた作家は、一体どうしたらよいのだろうか?それはただ推察することです‥‥‥そして誤ることです」(前掲書「全作品4」p.258~9)

残りスペースも僅かなので、後は読書会で補足するが、触れておきたい論文がある。池田和彦氏の「『未成年』の混沌について」(「ドストエーフスキイ広場」No.4 1994)である。当論考と同じ主題を扱った研究論文である。目配りのいい内容で、丁寧に作品のなかに分け入った分析があり、参考文献も種々あげられている。但し、当方が今回取り上げた小林秀雄の論考への言及が全くないのが、不思議であった。今回当方は、そこに焦点をあてたつもりである。併せて是非一読してほしい。最後、当方も今回あえて触れなかった大事な論究があるので付記しておく。小林との関係を更に問題に出来ればと思うのだが。

いずれにしても、『未成年』の記述の混沌には、過去を完結した整理された過去としてではなく流動し生起する現在としてえがくこと、ベルクソン流に言えば、流れ去った時間ではなくながれつつある時間を描き、同時に執筆の現在のアルカージーを描こうという二重の志向、試みがあったのである。(前掲書、p.9 太字は筆者) (2018.9.30)



文献「ドストエフスキーと自殺」
 

下原康子 

私がドストエフスキーを繰り返し読み続ける理由は、何回読んでも初めて読んだかのようにおもしろいから。おもしろく感じる箇所も好きになる人物も読むたびに変わります。ドストエフスキーは人生の大いなる楽しみ。ドストエフスキーと世界旅行(または宇宙旅行)のどっちをとるかと言われたら躊躇なくドストフスキーを選びます。確かにドストエフスキー作品は、殺人、自殺、貧困、狂気、病気、虐待など暗く重いテーマに満ち満ちています。切迫感や息苦しさを感じるのは確か。けれどその一方で、読み終わったあとになんともいえない清々しさが残ります。真実に触れた感じがします。嘘がないと信用できます。樹木希林さんが夫の内田裕也さんを何があっても「純なところがある」といって愛したように。「おとなしい女」から『作家の日記』を読んだことがきっかけになり、現在の私の関心は「自殺」です。ドストエフスキーの作品には17人以上の自殺者が描かれているそうです(Foy)。てんかん者よりも数が多いのですが、文献(医学文献も含めて)は少ないようです。その中から以下の2つを紹介します。ドストエーフスキイ全作品を読む会HPのトップページにリンクしてあります。

James L. Foy ら ドストエフスキーと自殺 (1979)
dokushokai.shimohara.net/meddost/foy.html
小説、雑誌、および作家自身の人生経験の中にある自殺に関する言及を考察し、ドストエフスキーの自殺学への貢献の全体像を提供しています。

A.アルヴァレズ『自殺の研究』第4部5:明日への虚無 二十世紀への推移dokushokai.shimohara.net/meddost/alvarez.html
キリーロフの自殺、『作家の日記』のなかのゲルツェンの娘の自殺およびその影響で書かれた「宣告」について、キルケゴール、カミュ、ヴィトゲンシュタイン、トルストイを引いて考察しています。

ちなみに『未成年』には5人の自殺者が描かれています。
① リディア・アフマーコワ マッチの燐を飲んで自殺(うわさ)
② フロスト ピストル自殺 
③ オーリャ 縊死
④ 7歳の男の子 川に飛び込み(マカール老人の挿話)
⑤ のっぽ(ラムベルトの仲間) ピストル自殺



ドストエフスキー文献情報
  2018・8/2~2018・10/6   

提供=ド翁文庫 佐藤徹夫さん
           
◎『白痴 4 』ドストエフスキー、亀山郁夫訳 光文社
    〈光文社 古典新訳文庫 KAト1-20〉2018.9.20 ¥1040+
     ※完結篇。巻末:読書ガイド、年譜。

◎『汝はTなり トルストイ異聞』ヴィクトル・ペレーヴィン、東海晃久訳
     河出書房新社 2014.10.30 418p 19.2㎝ \3900+
     ※4年前の出版であるが、店頭で初めて発見。帯で知る。
     「…トルストイが記憶喪失の武術の達人になり、ドストエフスキーが斧を振り落し、ソロヴィヨフは監獄にいる。…」何と登場人物に「ドストエフスキー」が居るのだ。

◎「『悪霊』におけるアメリカのモチーフ一面――オゴロードニコフの
アメリカ旅行記の活用」/ 千頭敏史 ちかみ・さとし
「むうざ ロシア・ソヴェート文学 研究と資料」31(2018.7.20)p57-76



ドストエフスキイ研究会便り (11) のお知らせ


スメルジャコフ論を終えて

芦川進一                             

昨年の末から河合文化教育研究所のHPに掲載してきました「ドストエフスキイ研究会便り」(6)-(11)が終了しました。これは二年前に上梓しました拙著『カラマーゾフの兄弟論―砕かれし魂の記録―』の「後産」とも言うべきもので、殊に私が青春時代からこの作品の「ブラック・ホール」と考えてきたスメルジャコフについて、改めてゆっくりと論じたものです。前著のアリョーシャ論に対して、彼はスメルジャコフに対しては冷淡であったのではないかという批評・感想が多く、またこれは世界のカラマーゾフ論にも多い論点であり、ここで改めてこの問題を様々な角度から検討しておこうと思いました。その主な論点は、基本的には前著と同じで、この作品の「罪なくして涙する幼な子」の極北に位置する存在たるスメルジャコフと、「実行的な愛」の人アリョーシャとが、如何に正面から切り結び、この不幸な存在が究極弟アリョーシャの体現する「神の愛」と「キリストの愛」の内に摂取されるかを、彼の遺書の検討から始めて、様々な聖書語句や概念の検討、シリアの聖イサクの検討などを通して明らかにしようとするものです。  「己自身の意志と好みによって己の命を絶滅させる。誰にも罪を負わせぬため」――このスメルジャコフの遺書が持つ意味は、実に重く重大なものであり、かつ解釈が困難なものであることを改めて痛感しました。ある意味でスメルジャコフの解釈は、この遺書の解釈にかかっているとも感じさせられます。本論はその解釈を旧約聖書の「聖絶」の概念の検討から始め、更に新約的磁場に、最後にはアリョーシャの「ゾシマ伝」にまで拡げ、スメルジャコフが直面していた「懼るべき」「活ける神」について浮き彫りにすることを目指しました。 日本でも世界でも、ドストエフスキイの理解を聖書理解と結びつけることが余りにも少ない中で、この六回にわたるスメルジャコフ論が、彼の稀に見る宗教的形而上学的思索に目を向けることへの「叩き台」となってくれれば幸いに思います。

※ アクセスについては、http://bunkyoken.kawai-juku.ac.jp/research/dosuto.html?「ドストエフスキイ研究会」?「ドストエフスキイ研究会便り(1)~(11)」の順となります。「河合文化教育研究所」あるいは「ドストエフスキイ研究会便り」と入力して、クリックして頂いても同じプロセスになると思います。少々煩雑で恐縮です。なお下原ご夫妻が主催される「ドストエーフスキイ全作品を読む会」のHPにもリンクして頂きましたので、こちらからもアクセスが可能です。http://dokushokai.shimohara.net/



広  場 

連載3回目 閑話「今、ドストエフスキー作品を読むこと」後編

野澤高峯

僕が重きを置く哲学は、最近批判の多い相関主義の立場なので、文学作品を読むことについても自らの「実感」を大切にしてきました。それは自らの価値観の源泉であり、それゆえ「こだわり」も生みます。前回述べたようにそうした「情動」や「実感」が排外主義に向かわず、「実感」をもとに他者との共通了解を取り出す理路(相互共存在)として、また、多重帰属をメタレベルで釣り支えるものとしても、第四次帰属の受け止め方(世界に向き合う根拠)がとても重要だと思っていますが、今回強調したかったのは、ネトウヨ現象が感情を基に第三次帰属を容易にスポイルしていく形で老齢世代に広がっていると共に、一方では過剰な自意識で第三次帰属を突き詰め、社会の外に自分の存在を見出していく若者を見る限り、結論としては、自らを最後に釣り支える第四次帰属をどのように捉え返していくかが重要だと思っています。そこには若い世代に一般的に広がる「キャッチ・オブ・オール」としてのコミュニケーション能力重視を背景として、語り合う場でのスマートさ(好感度)の特化は、この「こだわり」による異議申し立ては、結果的に政治的意味合いを避けられず、老害として排除されるかもしれません。僕の世代までは、文学は常に体制に拮抗することで、その存在に意義がありました。しかし、そこにはマイノリティー憑依の様に「他者」を私の名のもとに安易に我有化させないことを自覚しつつ文学的な装置を意識して、この「こだわり」を捉えていきたいとは思っています。

文学でのこうした問題系の考察にはポリティカル・フィクションの作品群(『悪霊』もその一つ)があり、僕は過去に『読書会通信』で取り上げたいただいた寄稿文で扱った作家達(岩井俊二・桐山襲・高橋和巳・桐野夏生・笠井潔)の作品にも同じ位置付けをしてきました。ここでは文学史でも過去に幾度か論争を繰り広げた「政治と文学」の在り方を止揚する形で、日本の論壇でもこの数年ポリティカル・フィクション批評として確立されつつあることにも目を向けたいと思います。この批評の代表格である社会・文芸批評家の杉田俊介はこれを下記の様に提起しています。

「右派は「芸術や文化に政治を持ち込むな」という時勢主義的な抑圧に腐心し、リベラル派は「近代経済学や政策論に基づいて語れ、もしくはアカデミズムに準じろ、無力な文化左翼は黙っていろ」というシニシズムを振りまく中、「政治と芸術」の問題を再検討し、いわば文化左翼(左)的な批評の強度を取り戻し、政治的美学批評をリブートすること。ベンヤミンもバフチンもドゥルーズも、そういう観点なしに読めるとは思えません。(ここでいう文化左翼とは、文化やコンテンツの問題「だけ」を語るのではなく、それらと資本主義やグローバルな労働の問題を重層決定的に「同時に」論じる立場のこと)」

従来からの「政治と文学」論争をヘーゲル的に解釈すれば、要点は「自己」の存在本質を、「公共性(社会)」の側から見るか、「個別性(個人)」の側から見るか、という各々の感覚の違いをお互いが普遍化する対立であり、「真」を絶対的に追及する「道徳」の態度と、その内的根拠を問題とする「良心」の態度のせめぎあいと見ることができます。賢いリーダーの独裁制を希求するという愚行を諦め、衆愚の試行錯誤こそ民主主義の本質ですが、「公共性(社会)」を支えてきた立憲主義や法治主義自体が崩れ始めた現代日本では、「個別性(個人)」を重視すること自体にも政治的中立性を確保できなくなっていると僕は感じています。この現状を前回述べた文脈で言えば、日本浪漫派が政治から距離を置き美や芸術に逃避したことこそが、逆説的に政治的効果を生み、超国家主義と結びついたとする橋川の「耽美的パトリシズム」の現代的反復を想起せざるを得ません。そこには僕が若かった80年代に感化されたポストモダン思想に裏打ちされたイロニーや、糸井重里的面白主義から引き継がれたサブカルの享楽と共に、中沢新一に幻惑された一人として、その帰結としてのオウム真理教事件を最終的に総括できず、現代のネトウヨ現象を「サイファ」の頽落表象とするスピリチュアリズムが温存され愛国と結びついた状況だと解釈するなら、後期ドストエフスキー作品に低通するニヒリズムが、現代日本社会により深く横たわっていると思わざるを得ません。その点について、笠井潔の2012年時点での複数のツイートを、多少長くなりますが、僕なりに下記のようなコメントとして一つにまとめてみました。

「グルジェフやウスペンスキーの名を挙げるまでもなく、19世紀ロシアは同時代のイギリスとならぶスピリチュアリズム大国だった。ここではスピリチュアリズムを、19世紀近代という磁場に適応した(発展した?)神秘思想、オカルティズムという意味で用いている。聖教異端のロシア神秘主義のヴィジョンは、ドストエフスキーを参照するまでもなく、なによりも「大地」を特権化していた。しかし19世紀後半になると、「空=宇宙」のヴィジョンが、しかも鉄とガラスの新建築(水晶宮)のようなテクノロジーと一体化しながら生じてくる。『地下生活者の手記』の主人公が、近代的合理主義のシンボルとして水晶宮を非難していたことを思い出そう。ドストエフスキーが見落とした、この新しい神秘主義的観念(コスミズムの新展開)は、ロシア未来派や革命後のロシア・アヴァンギャルドのヴィジョンに引き継がれる。ロシア・アヴァンギャルドが、第一次大戦後の西欧のモダニズム運動と通底していたことはいうまでもない。しかしマヤコフスキーが自殺に追いこまれ、メイエルホリドが処刑されるという、アヴァンギャルドへの弾圧の果てに、「空=宇宙」をめぐるコスミズム的想像力も、ソ連では絶滅されていく。共産党の宇宙計画にはコスミズムの影もない。冷戦に勝利するための高度テクノロジーにすぎない。共産党ならぬ一般のロシア民衆は、スプートニク打ち上げを、どんなふうに感じたのだろう。たんなるテクノロジーでなく、魂の問題として受けとった人たちは、ある程度の規模で存在したのか、どうか。テクノロジーと神秘主義の結合という点では、ナチ・オカルティズムも同時代的な現象だった。日本では宮沢賢治、稲垣足穂、埴谷雄高といった流れが、それに対応する。オウムのコスモクリーナーは、サブカル的に変容された、その継承といえるかもしれない。20世紀の神秘主義はニヒリズムと切り離せないし、その行き着いたところがナチズムやオウムだとすれば、イワンのニヒリズムはさらに徹底化され、思想的に検証される必要がある。イワンが凡庸なオヤジに「成長」すれば、それで問題解決というわけにはいかない。ドストエフスキーの想像力は、21世紀の今日まで充分に届いている。たとえば『罪と罰』のラスコーリニコフは、世界から不当に排除されていると感じる、将来の希望がない極貧学生で、あげくのはては見すぼらしい下宿の小部屋で引きこもり状態に陥ってしまう。同じような青年は現代日本でもごろごろしている。世界を不当に奪われているというルサンチマンを原動力として、ラスコーリニコフは天才と凡人をめぐる、妄想とすれすれの倒錯的観念を増殖させ、そして殺人=暴力にいたる。自室に閉じこもって排外主義的観念を膨張させたネット右翼が、ついに部屋から出て新大久保の街頭で、「行動する保守」のヘイトスピーチに抗議した通行人に暴行を加える。世界喪失/ルサンチマンの肥大化/妄想的観念/暴力。まったく同型的ではないだろうか。違うのは、同じ倒錯的観念でも、ラスコーリニコフのような構築性と強度が欠けている点だけだ。ネットで拾ってきたクズ情報をパッチワークして、妄想的観念を膨らませるお手軽さが、19世紀ロシアと21世紀日本の違いにすぎない。ラスコーリニコフの倒錯的観念は老婆二人の殺害にいたるが、現代日本の凡庸なラスコーリニコフたちの暴力は、さらに大規模で破壊的なものに成長しかねない。1930年前後のベルリンの街頭で荒れ狂っていた排外主義的暴力は、クリスタル・ナハトにいたる。「行動する保守」の街頭行動をナチ突撃隊と比較するのは大袈裟だと思う人もいるだろうが、世界喪失/ルサンチマンの肥大化/妄想的観念/暴力という点での同型性は疑いがたい。イワンやラスコーリニコフやスタヴローギンを描いたドストエフスキーの想像力は、少しも古びていない。これらの「否定的人物」をオッサン的成熟に向かわせてしまうようでは、ドストエフスキーを読んだとはいえない。」

また、今回は閑話の最後として、僕自身の「サイファ」の受け止めを少しだけお話します。宮台真司は哲学的思考をもとに、次のように述べています。

「メタ視点的な文体で記すと、本書『サイファ』は、諸事物や諸行為を、〈社会〉の視座で見るのでなく〈世界〉の視座で見るように推奨する。〈社会〉とはあらゆるコミュニケーションの全体で、〈世界〉とはありとあらゆる全体だ。〈世界〉は〈社会〉よりも大きい。〈社会〉の視座においては規定されていたものが、〈世界〉の視座においては突如未規定なものへと変貌する。当たり前の諸事物が嘔吐を催させるというサルトルの設定も一例だが、一般的には人や物がそこに在ること自体が「ありそうもない奇跡」として出現する。〈社会〉の視座でなく〈世界〉の視座に立ち得る者が「脱社会的存在」だ。蟻ん子を踏み潰すが如く平気で人を殺せる「究極の悪」も、人にはあり得ない無償の愛(キリスト)を実践できる「究極の善」も、「脱社会的存在」に由来しよう。・・・“「感情」が「自分」を「訪れる」” という「体験」の意味を徹底的に考えるだけでも、「世界の根源的な未規定性」へと開かれることができるというわけです。解読次第では、そういう扉でありうるという意味で、自分もまた「サイファ」です」(『サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル』)

「サイファ」を笠井潔は、ある根源的な「聖なるもの」に対する人間の欲望の認定とする純粋な信憑である「集合観念」として肯定的に概念化(『テロルの現象学』)し、“「感情」が「自分」を「訪れる」”とは竹田青嗣が「欲望は必ず、私にとってそれが“告げ知らされる”というかたちで、「むこう」からやってくる」(『意味とエロス』)と提示したことと同意だと僕は解釈しています。宮台は「サイファ」の解読にフッサールの現象学が言葉でちゃんと表現したと述べました。僕にとってこの第四次帰属をドストエフスキー文学と関連した他の作品や思想家を取り上げ、否定神学と位置付けてきましたが、自らの事として言えば、フッサール現象学から展開したハイデガーの実存論(『存在と時間』)で捉えています。ここでの「世界内存在」の本質契機の一つである「内存在」の分析がポイントですが、ここでは人間存在が、自己の背後にある何らかの「語り得ぬもの」(無意識・身体・習慣・性格等)によって根本的に規定されている事を鮮明に取り出しました。僕は読書会でのドストエフスキー作品の読解を通じ、幾度となく論議される「語り得ぬもの」としての「神」概念について、本流とされる形而上学的解釈は言うに及ばず、亜流と見られる否定神学的解釈についても、その内実を探る論議自体には現代的な意味を見出せません。それは解釈するものではなく信仰するものだと僕自身は考えている為、そこに何らかの文学的解釈を施し、普遍的な価値を見出すことは原理的には不可能であると考えているからです。今回述べた日常に立ち現れる「語り得ぬもの」の理解は、僕の世代では栗本慎一郎経由でのポランニーの「暗黙知」が一般的でしたが、僕がここから紡いだ世界への視線は、スヴィドリガイロフの次の言葉で表現されています。

われわれはつねに永遠というものを、理解できない観念、何か途方もなく大きなもの、として考えています。それならなぜどうしても大きなものでなければならないのか?そこでいきなり、そうしたものの代わりに、ちっぽけな一つの部屋を考えてみたらどうでしょう。田舎の風呂場みたいなすすだらけの小さな部屋で、どこを見ても蜘蛛ばかり、これが永遠だとしたら。わたしはね、ときどきそんなようなものが目先にちらつくんですよ」(『罪と罰』工藤精一郎訳)

ハイデガーは実存の根拠が「情状性(気分)」(ニーチェでいう「力」)だと説きましたが、これを何か特定の感情や情緒と考えず、むしろ人が感情性、情動性を持っているそれ自体と解釈すべきで、このことが認識や様々な価値判断、理想化という心の動きの土台だと受け止めています。それは全ての人間の「生」自体に権利があるということであり、あらゆる価値判断の基礎です。権利の前提に価値を置く優生主義に見られるような「生の価値判断が可能である」という差別思想に対抗し、天賦人権説による「無条件の生存の肯定」という考えにも繋げています。また、ネトウヨ現象のように、個人や共同体が世間一般(フェイクニュースを含む)の人間存在の意味や価値からその根拠を取り出す理由を、ハイデガーは「死の不安」の隠蔽と馴致としました。しかし、僕は自分の存在の意味や価値の根拠を、世間一般ではなく自分の固有の実存から取り出すというハイデガーの方法に注目したことが、ドストエフスキー作品読解の前提にもなっています(『人間失格』にみる様に、太宰治もこのことに自覚的な作家です)。しかし、後期ハイデガーの「転回」へ続くように、「「真理」の存在根拠は人間存在に「本来性」が内在する」という主張はナチスを呼び寄せたように、「生の価値判断が可能である」という前提を置いているのではないかという疑問が残り、その基調となる「存在」という形而上学を標榜する神秘家めいた後期ハイデガーの進み行きには距離を置きたいと思います。この点は、ドストエフスキー作品の哲学的解釈の大きな分かれ目になると思っていますが、それは「サイファ」をどう受け止めるかという事に繋がります。「神は死んだ」と宣言し、「サイファ」としてのどんな超越性にも絶対性にも依拠しない「生成する力」を提示したニーチェ哲学を背景に、僕が解釈したドストエフスキーの「無神論」とは、「神がいなければ全てが許される」という思想を宣言したイワンが、その思想をもとに父親殺しを実践するスメルジャコフの徹底した自己中心性に怯え、精神に破綻をきたしていく姿を克明に描くことにより突きつけた問いであり、これは現代においてこそ浮上する究極的な問いかもしれません。ドストエフスキー文学を形而上学的な神学解釈のみで括らず、イワンに代表されるような「否定的人物」をオッサン的成熟に向かわせずに、ドストエフスキーの想像力に向き合いたいと思っています。

今回、「語り得ぬもの」をどうとらえていくかを中心に述べましたが、ネトウヨ現象を例にした意図は上記の笠井の言説からも感じるように、ラスコーリニコフを身近な人物と捉えた読解ですが、彼の構築性と強度が欠けている点で、現代社会で緩やかに進行しつつあるのは「上からのファシズム」ではなく、「下からのファシズム(緩やかな全体主義)」ということです。「下からのファシズム」は以前の寄稿文『「観光客」の可能性 -「誤配」と「可誤性」について-』(読書会通信№164)にも関連し、やはり「大審問官」の問いをどう受け取るかということです。その詳細は誌面の都合で今回は立ち入れませんが、前回引用した神山睦美の言説にも触れられている通り、この物語の検討の起点は統治権力を起源論的に捉えるハンナ・アーレントが、大審問官の構成的権力には人々を「絶対的多数の群衆の際限のない苦悩」と捉えた雄弁なピティ(哀れみ)を打ち出すのに対し、イエス(らしき襤褸の人)が「一人の人間の不幸の特殊性」を捉えた無言のコンパッション(同情)を対峙させていくことに、文学の特殊性が政治の全体性を解体していくという視点を押さえつつ、今後の『カラマーゾフの兄弟』の読書会討議に期待したいと思います。その背景には、僕らのすぐ上の世代への「連合赤軍事件」の負荷と同様に、僕らの世代に課せられたのはやはりオウム真理教事件の総括に繋がります。事件後には、社会からはじき出されて「出家」した人間が、どこで「疑似国家」を興しどのように既存社会に「擬似戦争」を仕掛けてくるかという問いが提示され、事実としてそうした反社会的カルト組織は今でも温存されていますが、前述の「政治と文学」を含め、僕はそうした二項対立的な括りは既に今では無効となり、宮台の言う「損得による忖度」というオウム的権力構造を含め、日本の現代社会がオウム的社会そのものだと解釈しています。僕が読書会に復活参加したこの数年、ポリティカル・フィクション批評に拘る理由は、「実存批評」としてこの批評態度を先行してきた90年代からの宮台の論説がオウムを中心に変節展開されていることでもあり、今回の閑話の文脈に沿えば、教団内での麻原彰晃の詐欺師としての天才性は、アウェアネス・トレーニングでの人格改造やドラッグによる神秘体験(語り得ぬもの)を表象として導いた「サイファ」を扱う手法の卓越性ともいえるでしょう。宮台は麻原達の処刑後に下記のようなコメントを出していました。

「自分自身が体験したこととそれが実際に存在する(か否か)ということは別。…実存的な不全感を解消さえすれば、現実でも虚構でもよい。自己イメージの維持のためにはそんなものどちらでもよいという感受性は、昨今の「ポスト真実」の先駆けです」

今や麻原や主要幹部の証言をこれ以上求めることが不可能となり、ジャーナリズムもその立場が二極化していますが、現在では事件に至った検証資料や出色な論考も提示されていますし、文学者として事件当時に真摯に向き合った村上春樹の当時の著作は、今でも高く評価されるべきだと感じています。その点、文学を通じて、こうした現状にどう向き合うかがオウム世代と揶揄された僕の世代として、次の世代へ橋渡す課題の一つでもあると言え、還暦を過ぎてもオッサン的成熟に向かわず、世界喪失/ルサンチマンの肥大化/妄想的観念/暴力という笠井の否定的なキーワードをどう乗り越えていくかということで、自らの「こだわり」をもとに、今後もドストエフスキー作品を現代に照らし読んでいきたいと思っています。(終わり) 



映画 ドイツ映画「帰ってきたヒトラー」を観る
 (編集室)
・監督デヴィッド・ヴェンド ・原作者ティムール・ヴェルメシユ (2015年)

ひさしぶりに面白い映画を観た。近頃、映画は観なくなったが、この映画は、たまたま新聞のテレビ欄で目にしたので録画した。ドイツ映画は、ほとんど観たことがない。はるか昔『ベルリン忠臣蔵』というB級アクション映画を観たことがある。日本の、いわゆる赤穂浪士の話を現代のドイツの裏社会に重ねたものだった。が、理解に苦しむ(大半は忘れたが)場面もあって笑えた。この映画も、そんなものだろうと思った。サブタイトルにコメディと記されていたことから、どうせあんな映画だろう、と期待しなかった。(原作がベストセラーになったことを知らなかった)

ところが、違った。コメディは、リアル過ぎてというかブラックユーモアーが真に迫りすぎていて笑える。ストーリー展開も面白いのだ。思わず忍び笑いがでるゴーゴリの笑い、ドストエフスキー笑いを思いだす。タブー、ヘイト、差別、現代のメディア社会を金縛る、あらゆる法則を無視して物語は進む。後半に難があるとの評もあるが、制作はドイツということに驚く。ヒトラーの演説が、ことごとく現代の社会問題、世界の権力闘争に符号して思わず共感させられそうにもなる。その意味で危険な映画だ。日本公開は2016年だが、知らなかった。この時期ヒトラーの『我が闘争』再版騒動があったせいかも。いずれにせよ日本では、絶対作ることができない映画だ。

【HP】での解説
『帰ってきたヒトラー』(原題:Er ist wieder da 「彼が帰ってきた」)は、ティムール・ヴェルメシュが2012年に発表した風刺小説である。現代のドイツに蘇ったアドルフ・ヒトラーが巻き起こす騒動を描く。ドイツではベストセラーになり映画化されている。 ヒトラーに対する数々の肯定的な描写から物議を醸したがヴェルメシュ自身は、ヒトラーを単純に悪魔化するだけではその危険性を十分に指摘できないとし、リアルなヒトラー像を表現するためにあえてその優れた面も描き出したと述べているこの映画は、原作小説と同じく、1945年にベルリンで死んだはずのアドルフ・ヒトラーがなぜか現代のベルリンに現れるというところから始まる。なお、基本的に劇中において、周囲の人間はヒトラーをあのヒトラー本人だとは思わず、ヒトラーにそっくりな芸人と見なしている。ヒトラーが現代に復活したシーンの後は、大まかに言って、前半と後半の2部に分かれる。前半は、ヒトラーがドイツ各地をめぐり、一般人と対話を行うドキュメンタリータッチの映像となっている。これに対して、後半はヒトラーがテレビ番組に出演し、ショービジネスでのし上がるというドラマになっている。原作小説においては、ヒトラーがドイツ各地を回っていることが示唆されているが、そのことに大きくページが割かれているわけではない。むしろ、原作小説においては、映画の後半に相当するショービジネスでヒトラーがのし上がっていく様子の描写の比重が大きい。逆に言うと、映画は、原作小説に比べると、ドイツ各地の一般人との対話を描写することを重視し、ヒトラーがショービジネスでのし上がっていく様子の描写を薄くした形になっている。



掲示板


新刊 
下原敏彦著『オンボロ道場は残った ―柔道町道場と我が家の記録―』
2018年8月15日(株)のべる出版企画
柔道のオンボロ道場。大雪被害、借地問題など幾多の消滅危機を奇跡的に乗り越えた…道場主が関わって33年、その歩みを振り返る。柔道の祖・嘉納治五郎の考察も併録。

清水正・ドストエフスキー論執筆50周年記念 展示会&講演会
場 所:日本大学芸術学部江古田校舎西棟3階芸術学部芸術資料館
展示会日程:2018.11.13Tue~11.30Fri  
展示会開館時間:月~金9:30~16:30/土9:30~12:00 日曜休館
特別企画講演会:2018.11.23(金・祝)15:00~17:30 (西棟3階芸術資料館・E-303教室)
第一部 今振り返る、清水正の仕事 
第二部 清水正先生による特別講演 『罪と罰』再読

ドストエフスキー文学記念博物館 マリーナ・ウロキワ氏講演
「サンクトペテルブルグにおけるドストエフスキー」
日時:2018.11.27(火)14:50~16:00
場所:日本大学芸術学部江古田校舎棟地下1階EB-1教室



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