ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.162
 発行:2017.6.15


第281回6月読書会のお知らせ


月 日 : 2017年6月24日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
開 場 : 午後1時30分 
開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品  : 『悪霊』4回目
報告者  : 梶原公子さん      
会 費  : 1000円(学生500円)

第41回大阪「読書会」案内 
ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪読書会の第41回例会は、以下の日程で開催します。8月19日(土)14:00~16:00/会場:まちライブラリー大阪府立大学/ 作品は『永遠の夫』参加費無料 /〒556-0012 大阪市浪速区敷津東2丁目1番41号南海なんば第一ビル3FTel 06-7656-0441(代表)/地下鉄御堂筋線・四つ橋線大国町駅①番出口東へ450m(徒歩約7分)/小野URL: http://www.bunkasozo.com 



6月読書会
 
                               
ドストエフスキーにおける「悪」 ワルコフスキー、スタヴローギンからの一考察

梶原公子

1、私の体験から
① 高校生の酒盛り事件(高校教員時代の最悪な出来事)
・ クラス合宿での「酒盛り」の噂
・ 「性善説」を信じる自分
・ 悪意ある副担任
・ 酒盛りの現場に遭遇
・ 退学した生徒が合宿所に侵入していること
・ 暴走族がやってくる
・ 事件の結末
② 事件をきっかけに「性善説」を疑うようになる
・ 「教員と生徒との信頼関係は善意、誠意、理性で築ける」という信念、思い込みの揺らぎ。「人間の天性は善である。悪事はたまたま何かの拍子、環境などの問題から偶発的に起きるもの」といういわゆる「性善説」の危うさを感じる。ルソーの思想「あらゆるものは神の手から出るときは美しい。人間の手の中で醜くゆがむ」という説に疑問を感じるようになる。
・ 一方、高校時の友だちの言葉も、ずっと気持ちの底にあった。「大量の同族殺人(戦争)をするのは人間だけ。人間は生来原罪を負っている」
・ 『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンとアリョーシャの会話にも、これと通底する思想がある。((第5編 プロとコントラ 4)…イワンが領主の犬にけがを負わせた少年は、領主によって猟犬に噛み殺された話しをする。アリョーシャは「そんな領主は銃殺です!」と叫ぶ。この記述につながっているのではないか
2、 「善」の系譜と「悪」の系譜
・ ムイシュキン、チホン僧正、マカール・ドルゴルーキー、ゾシマ長老…
・ ワルコフスキー、地下室の主人公、ラフコーリニコフ、スヴィドリガイロフ、スタヴローギン…
・ ドストエフスキーの主人公は「善」よりも「悪」のほうが数も多く、力強く、魅力的である。
3、 ワルコフスキー(『虐げられた人々』1861年)における「悪」
・ワルコフスキーの人物像⇒「悪」としての「新しい人間」とされる。
【物語】ワルコフスキーはネルリの母親を捨て、このことが元でネルリの祖父とネルリ自身も死んでしまう。ワルコフスキーの息子アリョーシャは、ナターシャを愛しつつも,莫大な遺産を引き継ぐカーチャに惹かれる。ワルコフスキーはその遺産に目をつけ、アリョーシャにカーチャとの結婚をすすめる…
ワルコフスキーだけが物語で独り勝ちする。
ワルコフスキーの行為は、法的に罪にならない「悪」だが、思いと行為は犯罪を生む可能性を含んでいる。
・ ワルコフスキーの立場…面子というものを自身から剥ぎ取って、邪悪と思われる根性をすっかり白昼にさらしている。
「くだらなくないものは個性です。私自身です。すべては私自身のためにあり、全世界は私のために作られた」
「道徳を守る、守らないは個人の自由だ。守ったほうが生活しやすいなら、それだけの理由で守るに過ぎない。道徳は日常生活を円滑に営むためのエチケットに過ぎなく、普遍的妥当性と呼ぶほどのものではない。他人にとってのルールは、必ずしも自分にとってのルールとは限らない」
「私はただ人より露骨が悪いだけかもしれませんよ」
・ ワルコフスキー的な悪は、現代社会を生きる人間に通底している。自分が快適に楽しく生きるのであれば、他人を不幸にしてでも自分の権利を行使する。
・ ワルコフスキー的「悪は」現代社会が欲望を膨らませ、煽り立て、助長するところからきている⇒「あなたの(自分の)自由」「好きなように生きなさい」
4、スタヴローギンにおける「悪」
・ スタヴローギンの人物像
大地主の一人息子、聡明、見識があり誇り高い、超人的能力と頑健な肉体、美貌を併せ持つ。暴力的、無神論者、生きていることに意味を感じられずすべてに対して投げやり、無関心、退屈している。「精神的壊死」、あまるほどの能力と金を持ちながら、誰も信じられず、それらを生かす視点を持っていない。美と醜が隣り合わせにある。
・ ワルコフスキーの「悪」を下敷きにしつつも、これと大きく異なっている
スタヴローギンはワルコフスキーがより近代人化した姿。ワルコフスキーは、この世で幸福に生きていけると信じているが、スタヴローギンにはそのような「信仰」をすでに失っている。スタヴローギンは世の中で何が起ころうが、関心がなく、無感動。生きていることが気が狂いそうなほど退屈。
・ スタヴローギン的な感覚…科学技術と自由主義思想が発達していく19世紀に生まれてきたタイプだが、それだけでは理解できない底の深さがある。その奥の深さということに関し、前回の石田レポートを読んで触発された。以下、前回レポートを継続させた議論をしたい。
5、ドストエフスキーにおける「悪」は、「性善説」との対比だけでは理解しがたい
 ニコライ・ヴェルジャーエフは、ドストエフスキーにおける「悪」はドストエフスキーの思想につながっているとして、次のように論じている。
ニコライ・ヴェルジャーエフ1960『ドストエフスキーの世界観 ヴェルジャーエフ著作集2』斉藤栄治訳 白水社
「悪は人間が内的深さを持っている一証にほかならない。悪は人格とつながっている。無責任なヒューマニズムは悪を否定する。それは人格を否定するからだ」
「悪は人間本性の奥底にある、人間本性の非合理な自由にある」
「悪は内的、形而上学的性質のものであって、外的、社会的性質のものではない」
◆つまり、人間は無意識であっても悪を本質的に持っている。悪は人間の自由意思であり、内発的なものである、ということだ。
また、加賀乙彦も同様のことを指摘している。
 加賀乙彦1973 『ドストエフスキー』中公新書
「ドストエフスキーの思想と信仰にとって、そのような行為は必要であった」
◆ドストエフスキーの「悪」は、勧善懲悪のような二元論ではなく、神の存在とのかかわりで捉えなくてはならないということだろう。現代は神の存在というものを論じない傾向にある。ここにドストエフスキーの「悪」を理解することの困難さがある。ドストエフスキーの「悪」を神とのかかわりで捉えるとはどのようなことか、次の疑問を提示しながら考えたい。
6、『悪霊』への疑問、スタヴローギンの「罪」
「なぜドストエフスキーはスタヴローギンに少女凌辱という最も醜悪な罪を犯させたのだろうか?」
 この疑問は『悪霊』を読んだ当初もそうだったが、ことに前回レポートを提示されたとき再度考えさせられた。この疑問に焦点を当て、スタヴローギン像をまとめてみる。
・ 私は淫蕩を好まないし、欲しもしなかった。p685 (ダーリヤへの手紙)【マトリョーシャ凌辱は淫蕩ゆえではないことになる。作者はスタヴローギンを通じて人間はどこまで醜悪になれるのかを試し、その結果最も醜悪な行為としての少女凌辱をさせた、ということになる】
・ 無神論者で神の存在は認めない。しかし超越的存在と神の存在には関心がある。
・ 能動的、積極的に世界と関係を持つことができない。
・ 無関心の病が原因で自殺をしたいと考えていた。
・ 極度に不名誉な、並はずれて屈辱的で卑劣で特に滑稽な立場に立たされるたびに、度外れた怒りと同時に信じられない快感を掻き立てられてきた。
・ 私は善悪の別を知りもしないし、感じてもいない男である。単にその感覚を失ったばかりでなく、善も悪もない男なのだ。P686
・ 問題は生きていくのが気が狂いそうなほど、退屈なことであった。(略)けっして理由のあることではないのだが、何とかして自分の人生を滅茶苦茶にしてやりたい、それもできる限り醜悪に、という考えが浮かんだ。P687
 これらのことを前提にスタヴローギンがマトリョーシャに取った態度を「告白文書」と関連させ、先の疑問を考えたいと思う。
 スタヴローギンはマトリョーシャに無関心な態度を取り続けつつも、マトリョーシャに対するそのような仕打ちを後悔しなかった。マトリョーシャが首をくくったのち彼女の幻覚が現れ、スタヴローギンが有罪であることを知らしめる。が、スタヴローギンはマトリョーシャの幻覚を振り払いたくない、むしろその幻覚を呼び出しさえするとしている。それは自分(スタヴローギン)の罪の意識を増幅させるためにそうしている、というのである。
 少女凌辱という最も醜悪な罪を犯し、その罪を強く自分に認識させるためにマトリョーシャの幻覚を自分で招きよせ、罪の意識を増幅させるというのである。
 チホン僧正が「告白文書」を読んだ後、スタヴローギンはチホンに次のように言う。
「ぼくはですね、あなたに赦してもらいたいんですよ」p705
そのあとでこうも言う。
「ぼくは自分を自分で赦したい。これが僕の最大の目的、目的のすべてなのです!」p706
時に自分で自分を赦したいというのである。両者のうち「自分で自分を赦す」ことの方が「最大の目的」だと言っている。
 では、「自分で自分を赦す」とはどのようなことだろうか?
 キリスト教的に考えれば人間の罪を赦すことができる唯一の存在はキリストである。スタヴローギンの関心は「神の存在(神は存在するか)」である。このことを考え合わせればスタヴローギンは、自分で醜悪な罪を犯し、その罪を強く認識し、それを自分で赦したいと考えた。つまり自身が神になることである。そうすることで善悪の価値観から自由になることができるのかを自問し、自分の精神と身体において「自分が神になる行為」を実験(実行)した。それが(自分の人生の)「最大の目的」だったからである。
 しかし、善悪から自由になるということは神になる、というより人間が人間でなくなることであるという結論に達したのではないだろうか。人間が人間でなくなる先にあるものは自己破滅、つまり自殺ということになる。スタヴローギンの「罪」の結末である縊死には、このような意味が込められているものと思われる。



寄 稿

自己から世界へ(前編)-『地下室の手記』を参考に-

野澤隆一

 前回(読書会通信 No.161 発行:2017.4.20)の連赤文学の考察でドストエフスキーが19世紀に見た無神論の命題を踏まえ、事件の当事者の兵士(及び広くは全共闘運動の参加者)たちの思考の背景にあった「自己否定」は、文学での高橋和己の主題であったと提示しました。私にとっての高橋和巳は推理作家の笠井潔の言う「現実的世界喪失の観念的自己回復」を中心主題とする作家だと位置付けていますが、今回は「自己否定」について全共闘世代と10年の隔たりがあるしらけ世代の私が、何故「自己否定=利他性」の対極と解釈されがちな「自己中心性=私利私欲=利己性」をモラルの基準に置くに至ったかを、相当極私的ですが高橋の文学態度を皮切りに、自分と社会を繋ぐ課題において影響された文芸批評家の加藤典洋の思想と『地下室の手記』を参考にその受容の経緯を捉え、また幾つかの作品解釈を参考に「地下室人とは私にとってどのような存在か、またこの作品は何処に向かったのか」についても併せて述べたいと思います。
 
1.「自己否定」について
 「自己否定論」とは、全共闘世代がその運動実践に置いて実存主義やマルクス主義を背景として、革命の主体を確立するにはエリート(プチブル)である自らの加害者性を克服し、世界を視野に弱者(労働者)の立場に立たなければならないとした考え方ですが、その裏に「自分の所属する国家や民族が犯した過去の犯罪を敢えて追及し、それを断罪している自分の道徳的優位性を誇示する」という「自己否定する自己の無批判な自己肯定」が隠されていたとする逆説も含みます。しかし、高橋和己はその作家としてのポジショニングを下記の通り述べていました。

 「よくもあしくも、自己を無辜の位置におき、他者の矛盾や不義を糾弾することによって、自己があたかもその悪から免れているとみなす発想は文学にはない」(*1)
 
 作家であり京都大学文学部助教授でもあるという立場での共闘運動の実践というパラドキシカルな状況で、「そうした文学が自己を支えるが、その同じ文学が自己を告発する」と氏は最終的に述べています。しかし、高橋は上記の逆説に「被害加害関係の逆転の契機としての自己否定」として論理そのものが内包するラディカリズムの両義性を見ていました。私は高橋の作品にラディカリズム具現の可能性をみましたが、高橋の急逝後に起きた連赤事件はその困難さの最終的な帰結であったと受け取りました。(*2)ここでの共産主義化理論は否定のメタ思想として機能し「自己否定」は「総括死」に転化され、論理の拡大はその後のセクト間の内ゲバまで引き起こすに至りますが、そうした運動の自滅を前にして、私は当事者が「自己否定」の論理をあくまでも合理的に突き詰めていく、左翼思想の設計主義がはらむ正義に対しての或る種の純粋さや真面目さには大きな違和を感じざるを得ませんでした。70年代が青春期の私にとって社会と距離をとるそうした世代感受は「しらけ」と揶揄されてきましたが、大きな世界や歴史を前提する社会的存在としての自己ではなく、シニシズムを背景に消費社会での欲望を追求する生活重視と共に、あえて「自己否定」を問題とするならば、身近な日常で他者と関わりあう事から自らの内面を見つめるような、自分の中にある「自己矛盾・自己欺瞞」(たとえば差別感情など)に向き合うしか解決の道筋はないのではないかというのが実感でしたが、勿論、仏教的な欲望否定、自己滅却に向かうことではありません。一言でいえば「社会の矛盾を指摘し、世界を変える」ことよりも「世界をよく理解し、よりよく生きる」という事で社会との繋がりを持つ姿勢に他なりません。ただ、ラディカリズムを生き延びさせる点は「世界を変える、ではなく世界を消滅させる」という志向の有効性を文学に期待することになりました。大げさに言えば全共闘運動の功罪の両面を受け止めるという事だったのかもしれません。

 その後80年代以降の文壇を席捲したポストモダン思想はマルキシズムと高度消費社会での欲望追及に対抗しましたが、この流行思想が標榜した神に代わるモラルの根拠は、一言でいえば「他者」と言えるでしょう。しかしこの思考方法は、他者性と共に世の中に対する反社会的感情(ルサンチマン)として「否定」の場所を「外部」と称し仮託しているだけという認識もあり、自己否定論の後継を感じた私はそれにも同調できず、そうした超越項を抹殺していくにはニーチェが言うニヒリズムの徹底としてのラディカリズムを生き延びさせる理路に可能性を見ました。それは結局、大半が70年代に消滅した「大きな物語」について高橋和巳的両義性を踏まえても、文学やサブカルの世界でアイロニカルに想像的に修復(物語消費)したフェイクでしかありませんでした。その80年代のフェイクが現実となったのが90年代のオウム真理教事件であり、ゼロ年代に起きた9.11同時多発テロです。一方でその問い直しの原点は文学ではヴァレリーや小林秀雄の「自意識」のような純粋思考ですが、それは他者ではなく自己を起点とすることです。勿論、文学や様々な芸術に対する自分の価値判断などが他者の価値判断に通じているという確信が伴っている事は大前提ですが、「主観」から始める哲学としては現象学の主張です(ちなみに高橋和己はフッサールに大きな理解を持っていました)。それは「客観」から始める思考がどのように人間の内面のモラルに届く事が出来るかという理路に対し、身近な事がらについての自分の好き嫌いや美醜の価値観が、どのように善悪に対して通じ世界へ広げる事が出来るかという問題設定です。しかし、今から思えばそうした当時の立ち位置は「社会的なるもの」に対する単なる反動が強かっただけで、ハンナ・アレントが後に「社会的なるもの」を批判の上、新たに提示した「公的なるもの」に対しては自分を繋げる道筋は無自覚だったように思います。(*3)しかし、ニヒリズムを徹底するというガジェットとして『気分が良くて何が悪い?What is so bad about feeling good?』と架空作家の作品名に言わせた小説(*4)と共に、その後90年代以降に出遭った『地下室の手記』が私のポジショニングを後押ししました。それは地下室人のように自分の意識の底板の場所まで立ち戻り、私欲の自由さを感じるという気分の肯定やラディカリズムの匂いを感じると共に、ドストエフスキーが捉えた「無神論」の意味を理解することでした。結論を先に述べればそうしたモラルの基準を自分の私利私欲に置くという点で、大きな示唆となったのは文芸批評家の加藤典洋が提示した「自分のためから始めて、他人の思いへつながる道を切り開くこと。既成の正しさを自分の中から一度取り払い、誤りうることに自分を置くこと」「私利私欲の世界である<市民社会>を母体に、公共的な市民像を構築することは可能か」(*5)という理路であり、「ジコチュー」という言葉のネガティヴな意味を払拭し、この道筋で自分と社会との繋がりを考えていくことを主軸に、尚且つ笠井潔のアチチュードを基に「否定性」に回収されないラディカリズムの延命も同時に傍らに考えていくことでした。
    
2. 『何をなすべきか』をどう読むか
 『地下室の手記』の「地下室」章をテキストとして、「自己否定」に連なる左翼思想にみる「社会的なるもの」に対する私の違和を『地下室の手記』が応答したチェルヌイシェフスキー『何をなすべきか』(*6)の思想的意味として整理します。これはヴェーラを主人公とした世界最初のファミニズム小説とも言われますが、「水晶宮」に例えられる空想的社会主義の実現を願うこの小説から私が初めに受けた印象は「政治と文学」という観点です。それは政治が大事か、文学や表現が大事かということではなく、ドストエフスキーが地下室人に託しこの小説を批判したことに、私は「政治的プラトニズム」を読み込んだ事です。一般的にはこの小説は「人は私利私欲を理性的に追求することによって同時に他者への利益をも生かすことになる」という「理性的エゴイズム(私利私欲)」を表現した作品として「美にして崇高なるもの(カント)」、「自然と真理の人(ルソー)」と共に地下室人の批判対象と評されています。それを前提とした「政治的プラトニズム」とは前述での高橋和己がその文学で掴んだ視点を保持できずに推移した「自己否定論」の現代にも残る思考形態とも思われ、一言でいえば「自分よりも他者が大事と考えなければならない」という考え方の起点として、この作品にはその主張が他者への要請も伴い、自らの道徳的優位性としての自己肯定が隠されているのではないかという理性的・合理的なものをも無化する底の浅いエゴイズムが根底にあると感じたことです。哲学者の竹田青嗣はこの考え方の内実を次のように述べています。
 
 「政治的プラトニズム」は、政治的に絶対正義を要求する考え方です。絶対正義主義は、他者の為になることこそ良いことだという「絶対他者主義」と、一番弱い人間の立場に立つべきだという「絶対弱者主義」が柱になっている。この考え方は、世の中のひどい矛盾から出発して、まずある種絶対的な形で理想状態を設定する。この発想をとると、たいてい「絶対平等主義」に近づきます。…この「政治的プラトニズム」は、近代以前の専制的な社会制度に対する打消し(=リアクション)として出てきたものです。…絶対的専制の抑圧感の反動形成として、いかに絶対的な理想社会や理想の政治を実現するか、という発想になるのです。政治的プラトニズムは、ひとつまちがえると正義のためにはどんなことも許されるというところまで行く可能性がります。」(*7)
 
 全共闘運動、ポストモダンブームの終焉後の湾岸戦争時の国民国家批判やそれに奉仕したとした近代文学批判、そして最近でも一部に見る教条主義的アクティビスト主導による市民運動には運動そのものを目的化しているように(地下室人は「目的に達する経緯だけを好み、目的そのものはどうでもいいようにみえる」と述べています)、未だにこの考え方が残存していると思え、市民運動の中にどう「公共性」を打ち立て目的を達成させる活動を開いて行かれるかを期待するのみです。私はそうした世界像を紡ぐ各々の実存的状況を読むことに文学の可能性を見ています。

 また、批評家の東浩紀は『何をなすべきか』を現代的視点で読みかえ、前述の隠された自己肯定を快楽として読み込んでいます。(*8)この作品は「若い女性がベンチャー企業を立ち上げ、シュアハウスで暮らしながら経営哲学を説く「お仕事小説」である」と説き、チェルヌイシェフスキーの立場は今で言えば、情報技術やグローバリズムに期待を寄せる多少リベラルな知識人のそれに近いと指摘しています。但し地下室人はその主張の実現可能性は肯定していますが、「自分はそんなものに巻き込まれたくない」と賢くならない事、そうした幸せにならないことの権利を主張していると解釈しています。現代に置き換えた表象で見ればトランプ政権樹立の一背景のように、それはグローバリズムを支援する国際派知識人と、反グローバリズムに傾斜する鬱屈を抱えた市民の対立に相当します。しかし、加藤も評価していますが、東はこれを対立軸で捉えるのではなくグローバリズムとナショナリズムを二重構造と捉えていることを押さえ、私が特に注目したのは『地下室の手記』を基にした下記の指摘です。
 
 「地下室人はたんに社会主義者を批判しているわけではない。もしそうならば、社会主義の素晴らしさを説き、地下室人を改心させればいい。実際にそれがチェルヌイシェフスキー
の(そしていまにいたる左翼の)戦略であった。けれども地下室人は、むしろ社会主義の偽善を指摘している。ユートピアの理想に隠された倒錯的な快楽。正しいことをすることのエロティックな歓びに気づいてしまっている。だからそれに巻き込まれない権利を主張する。…社会主義者から地下室人へつながる、政治的であり性的でもある移行の回路、それこそがドストエフスキーが発見したものだった。」
 
 東の読み込みは埴谷雄高や亀山郁夫のマゾヒズム論の影響下にあり、また、バフチン解釈に反してドストエフスキー文学を作品順に弁証法的に解釈しています。それはチェルヌイシェフスキーの偽善を乗り越え、地下室人の快楽の罠を逃れた後、いかにしてスタブローギンのニヒリズムから身を引きはがすのか。それは現代でいえばリベラリズムの偽善を乗り越え、ナショナリズムの快楽の罠を逃れた後、いかにしてグローバリズムのニヒリズムから身を引きはがすのかという問いの中で、地下室人をマゾヒスト、テロリスト、もしくはコミュニタリスト、ナショナリストと捉えたことは自説展開の傍証とした意図がありますが、この人物像は気になる例えであり、地下室人の現代性を考える新しい視点とも言えるでしょう。私はここでの地下室人の快楽という解釈にラディカリズム(行動的ニヒリズム)の匂いを感じます。

 前置きが長くなりましたが、後編では『地下室の手記』の「ぼた雪にちなんて」章を含め、私の視点は地下室人の乗り越えにスタブローギンを置かず「理性的エゴイズム」に対するドストエフスキーの考えた「私利私欲」の意味と地下室の場所を確認し、そこからどのように世界へ自らを開いていくか(他者の思いにつなげられるか=公共性)について、特に加藤典洋の展開した原初的な「私利私欲」と東浩樹の最新自説(郵便的マルチチュード)なども参考にしながら「地下室という場所」を皮切りに、特に作品の主題である地下室人にとっての「リーザとの邂逅」も含め、この作品でドストエフスキーが目指したある到達点も予想したいと考えています。(次回へ続く)  

出典・参考) 
* 『地下室の手記』(江川卓訳 新潮文庫 1969年)
1. 高橋和巳『わが解体』(河出書房新社 1969年)
2.  北田暁大「ゾンビたちの連合赤軍」『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス 2005年)は、「自己否定」を連赤事件当事者がどう解釈し、「総括死」を招いたかという内実に迫る仮説を提出しており、興味深い論考です。
3. ハンナ・アレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫 1994年)での「公共性」提起の背景はファシズム、スターリニズム等の全体主義への抵抗であり、現代日本の右傾化に対する検討としてとても有効ですが、その起点としては私利私欲を否定しています。
4, 村上春樹『風の歌を聴け』(講談社 1979年)ここに言うデレク・ハートフィールドという架空作家は庄司薫だという面白い仮説もあります。
5, 加藤典洋「戦後-私利私欲をめぐって」『戦後的思考』(講談社 1999年)
6, チェルヌイシェフスキー『何をなすべきか』(岩波文庫1980年)
7, 小林よしひろ・橋爪大三郎・竹田青嗣『ゴーマニズム思想講座 正義・戦争・国家』(径書房 1997年)
8, 東浩樹「ドストエフスキーの最後の主体」『ゲンロン0 観光客の哲学』(㈱ゲンロン 2017年)この思想書全体での自説展開は、加藤典洋の言説への応答とも読める内容をガシェットとしているというのが私の読みの最初の印象です。



4・29読書会報告 


4月読書会は『悪霊』3回目、参加者21名。報告者・石田民雄さん、司会進行・熊谷暢芳さんのコンビの下、息の合った報告がなされた。氏は、丁寧な報告資料を配布し、項に沿って作品抜粋からスタヴローギンの性格を多角的に考察しています。
 
配布された報告資料のはじめの部分紹介
ニコライ・スタヴローギンの肖像 ―「チホンのもとにて」をめぐって ―
《主題の主旨》
 ニコライ・スタヴローギンとは誰なのか。彼が企投した世界とは如何なる存在であったのか。この二つの問いに回答を与えることが本稿の主旨であるが、スタヴローギンこそがその二つの問いを自分自身に問いかけ、回答を与えるべく力を注ぎ、消耗し、蕩尽するに到ったものと思われる。「チホンのもとにて」を丁寧に辿ることでそこに逼りたい。
《本編におけるニコライ・スタヴローギンについて》
(上巻)p.474(シャートフ)「あなたは無神論者ですか? いま無神論者ですか?」/(スタヴローギン)「ええ」
p.477(シャートフ)「たとえ真理はキリストの外にあると数学的に証明するものがあっても、あなたは真理とともにあるよりは、むしろキリストとともにあるほうを選ぶだろうって。あなたはこう言いましたね? 言ったでしょう?」
p.490(シャートフ)「……それより、チホンのところへ行ってきませんか?」
(スタヴローギン)「初耳だな…それに、そういう種類の人とは会ったことがないし。ありがとう、行ってみましょう」
(下巻)p.527(キリーロフ)「スタヴローギンは、たとえ信仰をもっていても、自分が信仰をもっていることを信じようとはしない。信仰をもっていないとしたら、信仰をもっていないことを信じようとしない」

質疑応答でだされた言葉・感想
「無神論と無関心」「現代に読む意味」「逆の意味でトランプ大統領」など、様々な感想がでた。が、まだまだ議論の余地があるように感じた。『悪霊』の謎は、尽きぬようだ。

※太田香子さんの「シャートフとスタヴローギン」②は、紙面の都合で次号に掲載



「ドストエフスキイ研究会便り」(番外編)
    
    
親鸞研究センターに招かれて        

芦川進一

 三月末、本郷にある親鸞仏教センターに招かれて、ドストエフスキイと親鸞についてお話をしてきました。昨年出版した『カラマーゾフの兄弟論―砕かれし魂の記録―』が、罪の問題をメインテーマとしたものだったのですが、これが親鸞聖人の罪の問題と重なるものがあるのではないかということで、一度キリスト教と浄土教の罪の問題、そして救済の問題について討論の機会を持とうというものでした。イワンの罪と救済の問題を中心とした私の問題提起と、研究員の方たちとの討論の詳細は(長時間にわたる真剣なものとなりました)、やがて同センターの研究誌『現代と親鸞』に掲載される予定ですので、その際にはまたお知らせ致します。
 拙著『ゴルゴタへの道』(2011)でも記したのですが、遺作『場所的論理と宗教的世界観』(1946)において、西田幾多郎が論じたのがドストエフスキイと親鸞でした。『カラマーゾフの兄弟』における「大審問官」へのキリストの接吻に表現される超越的愛こそ、外在的超越から新しい内在的超越のキリスト教が拓かれる決定的里程標であり、親鸞聖人が説く罪悪深重の罪人に対する弥陀の本願と共に、宗教の究極の姿であるとの認識。これは日本の哲学・宗教・文学の世界が未だ十分に受け止め切っていないものであり、日本でドストエフスキイと取り組む人々も今後正面から問題として考えてゆくべきテーマだと思われます。ドストエフスキイを介してキリスト教と浄土教が、新旧約聖書と教行信証や歎異抄が、イワンと阿闍世の罪と救済の問題が、そしてまたドストエフスキイ世界と親鸞世界と西田哲学の世界が切り結ぶ可能性。ここに大変ですが二十一世紀に託された豊かで大きな課題と財産があることを自覚し、新たに歩を進めてくれる若者たちが登場することが期待されます。
 親鸞仏教センターは、本多弘之所長の下に若い研究員の方たちが真摯かつ精力的に学びを続ける場であり、ここには私が主催する「ドストエフスキイ研究会」のメンバーも学ばせて頂いています。「ドストエーフスキイの会」の皆さんにも是非このセンターの存在を知って頂き、ここから発行される雑誌『あんじゃり』や研究誌『親鸞と現代』に注目され、様々な刺激を与えられるよう、紹介させて頂きました。


読書感想

『出家とその弟子』と『カラマーゾフの兄弟』


下原康子

 20数年も前のことだ。勤務していた医学図書館で、二人の医師の会話が耳に入ってきた。「患者さんから『出家とその弟子』を読むように言われてね・・・」くつろいだ雰囲気で診療内科の医師が話しかけていた。印象深く記憶しているが、そのときは読んでみたいとまでは思わなかった。それから10数年後、患者図書室の司書をしていたとき、敬愛する日野原重明先生の「医師・看護師に薦める本」のリストの中に『カラマーゾフの兄弟』と並んで『出家とその弟子』をみつけた。先入観も予備知識もないまま初めて読んだ。そして衝撃を受けた。
 解説によれば、『出家とその弟子』(1918)は倉田百三(1891-1943)が二十歳代で書いた作品で、「親鸞とその息子善鸞、弟子の唯円の葛藤を軸に『歎異抄』の教えを戯曲化したもの」とされる。当時大ベストセラーとなり世界各国で翻訳された。ロマン・ロランが「欧亜(ユーラシア)芸術界の最も見事な典型の一つで、これには西洋精神と極東精神とが互いに 結びついてよく調和している。この作品こそ、キリストの花と仏陀の華、即ち百合と蓮の花である。 現代のアジアにあって、宗教芸術作品のうちでも、これ以上純粋なものを私は知らない」と激賞した。
 しかしながら、親鸞にも『歎異抄』にもなじみがない私が驚いたのは、登場人物が『カラマーゾフの兄弟』の人物像に瓜二つであるということだった。親鸞はゾシマに、善鸞はイワンに、唯円はアリョーシャにしか読めなかった。ドミートリーは単独の人物としては出てこないが、放蕩者の善鸞と純愛を貫く唯円にその反映がある。第一幕の日野左衛門(唯円の父)はピョートルに似ているが迫力において及ばず、むしろイワンに近い。ヒロインの二人の遊女、善鸞を愛する浅香(26歳)と唯円と恋仲のかえで(16歳)は共に『罪と罰』のソーニャの面影を宿している。スメルジャコフらしき人物は登場しない。
 場面の類似から言えば、一幕で左衛門が妻に語る「鶏屠し」の夢はラスコーリニコフの「痩せ馬の夢」を連想する。また、左衛門が親鸞を杖で叩いて雪の中に追い出したとき、親鸞が身につけていた阿弥陀如来の像の右手が欠ける。翌日、改心した左衛門がその像を親鸞から賜るというエピソードはいかにもドストエフスキー的だ。第二幕で、親鸞のもとに遠方から多くの信者や参拝人がやってきて「往生のための安心を得たい」と希う。親鸞は「念仏するだけでよい」という。僧院で人々に対応するゾシマの姿を彷彿とさせる。両者ともにその前歴やふるまいから正統派からはやや変わり者の僧侶という評価を受けている点も似ている。この戯曲の序曲「死ぬるもの」は、人間と顔蔽いせる者との対話だが、これはまさしく「ヨブ記」である。
 倉田百三がドストエフスキーを読んでいないとは考えられないと思った。幸いなことに倉田百三の作品のほとんどはインターネットの青空文庫で読むことができる。『愛と認識との出発』(1921)の中でドストエフスキーに触れていた。「ドストエフスキーのようにというのが、その頃の私の生活のモットーであった」という一文があった。


『出家とその弟子』 について(馬込文学マラソン 倉田百三『出家とその弟子』を読む)

 倉田百三の戯曲。 大正5年(25歳)半ばに郷里の庄原で筆を染め、広島の漁村丹那で書き上げた。 倉田の初の本格的な作品。親鸞とその弟子たちのことが描かれている。この作品には、一燈園での生活(半年強)や、2人の姉の急逝や、実家の凋落や、体調不良や、精神的な葛藤(聖者のような生活にあこがれるが美や性に強く心惹かれてしまう)や、宗教への関心(キリスト教や浄土真宗)などが色濃く反映している。 キリスト教的な親鸞像とも評される。同年(大正5年)11月、千家元麿に送りつけた原稿は、千家をはじめ武者小路実篤・長与善郎らを驚かせた。 創刊されたばかりの雑誌 「生命の川」 に掲載。 翌、大正6年、知人の計らいで岩波書店から単行本になった。 無名の倉田は、初版の費用を全て自分で賄った。大評判になり、青年の必読図書になるとともに、世に親鸞ブームを巻き起こす。以後、新潮社、角川書店、旺文社、ポプラ社、偕成社、講談社、集英社などからも出版された。英訳・仏訳もあり、仏訳版の序文はロマン・ローランが書いている。



評論・連載
   

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第71回)映画『美しい星』(三島由紀夫原作)を見て    
                                 
福井勝也
 
 三島由紀夫原作『美しい星』(昭和37年)の映画(監督吉田大八)が公開され評判になっている。好い読書機会なので、映画先行で先日(6/10)渋谷に出向いた。観客の入りも良く、時間(土曜日午後)と場所柄か若いカップルが多かった。無論、彼らが原作を殊更に意識して鑑賞したわけでもないだろう。それでも映画は、小説を基本的に踏まえており、軽くない主題を現代にシフトさせて一気に面白く描いていた。客席から途中笑い声もあがり、「ミシマが現代に甦った」と感じた。監督の力量も大きいだろうが、年初に三島の未発表録音(1970.2.19)も発見され、自決9ヶ月前の死生観や憲法観が紹介されたこともありタイミングだと思った。吉田監督は、三島の肉声を公開するラジオ番組(3/1)の座談にも出席されていて、その時公開予定を知った。これからその内容を紹介するわけだが、どうしても「ネタバレ」になるおそれのあることをご承知願いたい。ただし本稿は、映画と同時に読了した小説への評価とそれがドストエフスキーに関係してゆくものであることを予めお断りしておく。
 本欄において、三島由紀夫についてはすでに触れて来た(「通信」No.126etc.)。そのきっかけとなったのが、6年前(2011.3.11)の東日本大震災発生であったが、本映画もおそらくあの大震災と福島原発の放射能汚染がなかったら原小説の翻案(リメイク)もなされなかっただろうと感じた。実は、『美しい星』が書かれたのは昭和37年(1962)で、ほぼ一年かけて雑誌「新潮」に連載され年内に単行本が刊行されている。この時期、戦後開始された米ソの東西冷戦が核兵器開発競争となって激化していた。刊行前年(1961)の秋には、ソ連が人類史上初の大気圏内での水爆実験を実施している。当方小学校低学年の頃で、「黒い雨」(放射能汚染雨)という怖い言葉を聞かされた記憶がある。おそらくこの頃、核戦争になれば広島の原爆の何千倍かの威力で地球全体が滅びるという恐怖を子供なりに感じていたはずだ。
 実はこの映画「パンフレット」の最終頁には、原作と映画の要点比較表があって両者のポイントの注釈がされていて便利だ。それは原作への丁寧な配慮にもなっていると感じた。この表による映画の時代設定としては、ここ数年の近未来とされているが、小説と同様4人の宇宙人家族(但し原作では母親は木星人だが、映画では地球人となっている。因みに母親は大杉伊余子、配役は中嶋朋子)が現代に上手くアレンジされているが、ほぼ小説と同じ運命を辿らされていた。しかしその時代背景のテーマは、小説の核戦争の脅威による危機ではなく、地球温暖化によるそれに変更されていた。それにしても今回、北朝鮮によるミサイル発射が毎週繰り返され、その核兵器開発が完成段階にあるとの情報が伝えられる時期に重なり、核による現実的脅威がこれ程緊迫したことは今までなかったかも知れない。その意味では、本映画は原作の危機認識が甦って背景にもなるような廻り合わせ(偶然)を感じた。
 さらにその内容の違いを指摘すれば、原作と映画のラスト・シーンの相違が気になった。すなわち、末期癌を娘(暁子、配役橋下愛、彼女の原作に触れた「パンフレット」のコメントもいい)に宣告される父親(大杉重一郎、主役のリリー・フランキーが好演)が家族とともに夜中に病院を車で密かに抜け出して、丘の上に飛来している宇宙船(UFO)と遭遇する最終場面がある。原作のラストでは、金星人の暁子があざやかに変化する光を放つ円盤を発見して、「来ているわ!お父様、来ているわ!」と叫んだところで小説は終わっている。そしてこの後家族全員か、あるいは父親のみが円盤に乗り込んだかは描かれていない(但し、全員が身支度を済ませていて、各々がその故郷の星に帰還するのを目指しているようだ)。これに対して、映画では、父親だけが宇宙船に乗り込んでいて、その船窓から地上に残した家族との別れを惜しむシーンが描かれる。そしてさらに気になったのは、最後重一郎(火星人)が遠望する画面では、その家族のなかに地球人として暮らした自分自身の姿を眺めていたことだ。言わば、ここで主人公(火星人)は、「分身」(地球人)を眺めていたことになるのだ。
 実は、この映画のラスト・シーンを見て連想させられたのが「私は、おかしな人間だ」で始まる、ドストエフスキーの「おかしな人間の夢 ― 幻想的(ファンタスティック)な物語」(1877)という作品であった。今回は三島の小説に併せて、この『作家の日記』に挿入された作品を再読することになった。そして改めてこの<宇宙小説の荒唐無稽の斬新さ>に感嘆させられた。
 一方発表当時『美しい星』は、作品にUFOが登場する<宇宙小説>でありながら(実際この時期、三島はUFOに深い興味と関心を抱いていたらしい)、<反SF小説・反小説>と否定的に評価され、何とSF界からも文壇からも「??たる非難」があったらしい(「パンフレット」の筒井康隆のコメント、但し筒井はその作品の志向するところを評価する少数者であったという)。三島の落胆が眼に見えるような当時の評判だが、どうもこの後先鋭化してゆく晩年の三島へのスプリング・ボードになった出来事であったように感じさせられた。併せて思うに、三島にとっての『美しい星』とは、前回触れた横光利一の「純粋小説」(「純粋文学にして通俗小説」)とも呼びうる「実験小説」の試みではなかったか。その当方の直観は、「おかしな人間の夢 ― 幻想的(ファンタスティック)な物語」からもたらされたものだった。
 今回、安岡治子氏の光文社版新訳文庫本『白夜/おかしな人間の夢』(2015)で読み返したのだが、この訳文も巻末の解説も素晴らしい内容だと思った。この作品は安岡氏によれば、「ドストエフスキーの主要テーマのほとんど完璧な百科事典(バフチン)」であって、なおその主人公の「<おかしな人間>が夢の中の自殺後に何者かに抱かれて何千光年も先の宇宙の果てに旅する行程(だからこそ幻想的(ファンタスティック)な物語と名付けられている)」を描いた作品ということになる(同文庫解説p.229-230)。作中「おかしな男」は、時空も存在や理性の法則も飛び越えた宇宙空間で暗闇の中に小さな星を発見してゆくのだが、そのくだりが注意を引いた。
「あれはシリウスだろうか?」私は不意に堪えられずに訊ねた。何一つ訊ねたくなかったのに。
「いや、あれは、おまえが家に帰る途中で雲の合間に見た、まさにあの星だよ」と、私を運んでいた存在が答えた。(実は、あの星とは自殺を決意させるきっかけになった星であると同時に、結局は自殺を回避させた「あの小さな女の子」を導く星でもあった。また存在・同伴者とは、こいつと呼ばれる男の分身と考えられる-筆者注、太字も)
 私は、こいつが人間のような顔をしているのは知っていた。不思議なことに、私はこの存在をあまり好きではなかったし、むしろ深い嫌悪感さえ抱いていた。私は、完全なる無を予期しており、そのつもりで心臓にずどんと一発撃ち込んだのだ。それが今、何らかの存在の腕に抱かれている。むろん、こいつは人間ではないとはいえ、とにかく、現に存在しているのだ。《ああ、つまり、死後にも生があるわけだ!》私は、夢特有の奇妙な軽率さでそう考えたが、本質的には、私の心の深いところは変わらずに留まったままだった。そこでこう考えた。《またしても、実在(・・)しなければならず、避け難い誰かの意志によって再び生きなければならないとしても、僕は征服されたり侮辱されたりするのは、御免だ!》(同文庫p.182-183)  
 この後、暗い未知の空間を疾走し続けた「おかしな男」は、遠い星々の何千年も何百万年もの年月がかかる空間を飛び越えてしまったらしい。すると突然「私たちの太陽とまったく同じであり、私たちの太陽のコピー、分身である」対象と巡り合うことになる。そこで「おかしな男」は以下のように叫ぶのだった。
「しかしもしあれが太陽だとすると、私たちの太陽とまったく同じ太陽だとすると、地球はどこにあるんだ?」と私は叫んだ。すると同伴者は、暗闇の中でエメラルドのような輝きを放っている小さな星を指差した。私たちは、真っ直ぐにそちらに向かった。
 本稿は『おかしな人間の夢』の解説ではないので、これまでに引用は止めておく。しかしここまでの内容からも、その描かれた<荒唐無稽な宇宙>は三島の『美しい星』、そしてその翻案作品の今回映画の<元祖>としての<哲学的宇宙小説の嚆矢>だと思えるのだ。そして描かれた宇宙空間こそ、先述した原作『美しい星』の、さらに映画の、<ラスト・シーンの延長>に存在する世界のように見えるのだ。映画の主人公大杉重一郎が、宇宙船から眺めた<地球>、そこに家族と伴にあった<自分自身>とは、「おかしな男」が最後に遭遇した<地球>であり<存在/同伴者>ではなかったか。
ドストエフスキーの『おかしな人間の夢』の宇宙の果てに遭遇する<地球>とそこに暮らす<罪な き麗しき人々>との物語の意外な更なる展開は何を意味するのか。そして最後に、「おかしな男」が叫ぶ「人生を意識する方が、人生そのものより高尚であり、幸福の法則を知る方が、幸福よりも高尚である」という言説への<闘争宣言>と「他者を己のごとく愛せよ」というキリストの言葉が引かれる<伝導>継続への強い意志表明は、自分を救ってくれた「あの小さな女の子」の発見へと向けられていた。
 しかし残念ながら、三島の『美しい星』はそのような強く明るい「フィナーレ」に必ずしもなってはいない。何故なら、小説終盤の第九章で、地球を破滅させるために派遣された宇宙人(白鳥座第61番星の未知の惑星から来た)の羽黒真澄(映画では黒木克己、配役佐々木蔵之介、ややシチュエーションが違う)と重一郎(火星人にして地球の平和と救済を唱える者)との長時間の論戦が伯仲して終わり、その後すぐに重一郎が「病」(末期癌)に倒れるからだ。
 しかしこの論争の章をドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章を引き合いに出して、そのダイアローグ場面を高く評価したのが文芸評論家の奥野健男であった。さらに奥野は、「三島由紀夫は、現実の泥沼をとび超え、いきなり問題の核心をつかむ画期的な方法を、視点を発見したのだ。それが『美しい星』の空飛ぶ円盤であり、宇宙人である。つまり地球の外に、地球を動かす梃子の支点を設定したのだ。宇宙人の目により、地球人類の状況を大局的に観察し得る仕組を得た。人間を地球に住む人類として客観的に眺めることができる。そこから自由に奔放に地球人の運命を論じることができる」と書き、さらに「『美しい星』は日本における画期的なディスカッション小説であり、人類の運命を洞察した思想小説であり、世界の現代文学の最前列に位置する傑作である」と結んでいる(「新潮文庫解説」平成17年3月30日44刷)。そこには(昭和42年10月)という執筆年月がある。
 妥当な評価だと思う。おそらく今回の映画作品も原作を現代に甦らせる試みとして成功していると思うが、それはこの奥野の評価を基本的に踏襲しているからだろう。しかし奥野の言葉を僕なりに補足すれば、三島の『美しい星』の範型は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」に一部はあるにしても、むしろその元祖として、「おかしな人間の夢 ― 幻想的(ファンタスティック)な物語」があるだろうということだ。それに奥野が『美しい星』を高く、正当に評価したのは認めるが、その記された日付が三島の自裁の三年程前であってみれば、三島の最期を入れ込んだうえでの『美しい星』への再評価が欲しいと思うのだ。『美しい星』にはそこまでの射程が問題として孕まれている。残念ながら奥野は、晩年『三島由紀夫伝説』(1993)を仕上げたが、そこに所収された『美しい星』論は、上記解説文に若干の変更を加えただけでそれ以上の内容はなかった。
 この点で、三島にとって『美しい星』の元型とも言えるはずの「おかしな人間の夢 ― 幻想的(ファンタスティック)な物語」の持った意味は皮肉なまでに大きいと思う。何故なら、三島は「おかしな男」が当初意志した「自殺」を図ったわけだが、彼には、その「自殺」を回避させた「あの小さな女の子」を発見出来なかったと言えるかもしれないからだ。あるいは全く別様に考えれば、三島は「自殺」の後に、違うかたちの「甦り」「転生」をその宇宙の彼方に実現しようと希望していたようにも思えるからだ。僕はこの点では、「おかしな男」の前身の一人であったはずの『悪霊』のキリーロフのことが三島とダブって来て仕方がない。この辺は、またいつか論じてみたいと思っている。いずれにしても今回の映画『美しい星』は、色々と考える刺激をもらった。皆さんにも鑑賞されることをお勧めしたい。 (2019.6.9)



ドストエフスキー文献情報

2017・4/15~2017・6/10   提供=ド翁文庫 佐藤徹夫さん

〈図 書〉
・『ロシアの物語空間』近藤昌夫ほか著 水声社 2017.4.10 \3500+ 317p 21㎝
      ・フョードル・ドストエフスキー 十字路の聖堂――『地下室の手記』から        『罪と罰』へ/近藤昌夫 p99-119
・『世界文学大図鑑』ジェイムズ・キャントンほか著 沼野充義日本語版監修
       越前敏弥訳 三省堂 2017.5.10 \4200+ 352p 24.2㎝
      ・大いなる意識と深い心には、苦痛と苦悩が付き物だ。
       『罪と罰』(1866年) フョードル・ドストエフスキー p172-177

※2005年に出版された池澤夏樹著『世界文学を読みほどく』〈新潮選書〉がこの度、増補、新版が出た。メルヴィルの『白鯨』が付されただけで、ドストエフスキーの作品は『カラマーゾフの兄弟』に変更はない。そこで改めて記すことをやめた。

〈逐次刊行物〉
・『ドストエーフスキイ広場』26(2017.4.15)全163p
        ・詳細は省略
・NHKラジオ 「まいにちロシア語」55(2) (2017.4.18=5月号)p113-121
        ・各場面からたどる『罪と罰』第14回 それはあなたのことでは?
         原作Ф.М.ドストエフスキー 訳・解説望月哲男
・「同 上」 55(3)(2017.5.18=6月号)p117-125
        ・同上 第15回 夢ー死なない老婆 原作ドストエフスキー 訳・解説 望月哲男
・「図書」820(2017.5.1=2017臨時増刊):岩波文庫創刊90年記念
        ・私の三冊(※228人)
        ・中村健之介 『罪と罰』(江川卓訳 全三冊)p55
        ・沼野充義 『カラマーゾフの兄弟』(米川正夫訳)p57
        ・兵藤裕巳 『白痴』(米川正夫訳 全二冊)p60
        ・皆川博子 『白痴』(米川正夫訳 全二冊)p72

※「演劇年鑑2017」(日本演劇協会編・刊 小学館発売 2017.3.31)にみるドストエフスキー関連公演
・2016.4.23 ピッコロシアター観賞教室 ピッコロシアター大ホール
        劇団うりんこ・兵庫県立青少年劇場主催
        『罪と罰』原作ドストエフスキー 訳:工藤精一郎(「新潮文庫」)
         脚色・演出:山崎清介 美術:岡本謙治
         証明:山口暁 衣装:三大寺保美 音響:角張正雄
         出演:原田邦英 下出祐子 大谷勇次 青山知代佳 内田成美
            柴田早苗 村井奈美 宮腰裕貴 新美英生 鷲見裕美
・2016.11.26-27 日台国際共同プロジェクト Notes Exchange voI.1
        『罪と罰』『地下室の手記』原作:ドストエフスキー
         構成・演出:鳴海康平 WANG Chia-Ming
         出演:小菅紘史 伊吹卓光 八木光太郎 堀井和也 Hana TSAI他
・2016.12.14~18 勅使河原三郎連続公演 KARAS シアターX
        『白痴』原作ドストエフスキー
         出演:勅使河原三郎 佐藤利穂子 鰐川枝里 
         (主催:有限会社カラス 特別提携:シアターX 企画制作:KARAS)



ニュース
 

亀山郁夫氏「日本ドストエフスキー協会」設立へ
http://www.nufs.ac.jp/dsjn/index.html

 亀山郁夫氏が、このほど「日本ドストエフスキー協会」(DSJ)を立ち上げました。なぜいまドストエフスキーか。氏は、設立趣旨のなかで「私たちが生きる現実の世界そのものに隠されています。」と答えています。そして、その意義についても氏が愛読する『カラマーゾフの兄弟』の中の一行「人を愛する者は、人の喜びをも愛する」を引用し共に歩かんとする人たちにひろく呼びかけています。混沌とする世界情勢。先の見えない時代。新生、日本ドストエフスキー協会が、よき道標となることを願ってやみません。ドストエーフスキイ全作品を読む会は、エールをおくります。詳細は、同協会のHPをごらんください。ちなみに同協会代表の亀山氏は、かつて全作品を読む会読書会で講演してくださいました。
月 日 2006年4月8日(土)午後1時30分~4時30分
会 場 東京芸術劇場中会議室(70名収容)盛況でした!!
演 題 ドストエフスキーと「父親殺し」の深層



新 刊
 
森 和朗著『東西を繋ぐ白い道』鳥影社 2017.4.13
原始仏教からトランプ、カオスまで宗教も政治も一筋の道に流れ込む、壮大な歴史のドラマ



読書感想
    

岸政彦著『ビニール傘』を読んで       
江原あき子

 若い時、ぱふ、という雑誌が好きだった。ふつうの人の投稿だけが載っている雑誌で、沢山の人が自分の日常とその日常に対する思いを文章にして投稿していた。いくつかの文章を今でも覚えている。今もふつうの人が出ているテレビが好きだ。探偵ナイトスクープや、夜の巷を徘徊する等。ふつうの人が沢山出てくる番組だ。
 インターネットは何の役にもたたない。知っている人のことを検索できても知らない人のことは教えてくれない。勝手におすすめしてくるけど全然興味がない。知らない人のことを知りたい。その人の心の中の風景が知りたい。ドストエフスキーを読もうと思った理由も、冷戦時代、最も価値観が遠い、理解するのが困難そうな本が読みたかったからだ。
 この小説には特別な才能を持った人もいないし、自分の意思で生きていこう!などというアツい人もいない。でもそもそも、自分の意思で生きている人なんているのだろうか。
 『俺の生活は安いものでできている。どこかの貧しい国で大量に作られた粗悪品。派手なパッケージをあけると、かならずそこにはゴミみたいなものが入っている。俺たちは毎日、ゴミを食っている。そしてゴミを食ったあとのゴミをエレベーターのなかに捨てている。』
 今は効率が良いことが正しいとされる世の中だから、できる限り簡単に、できる限り安上がりに、そして沢山売れるものが尊ばれる。そんなものは結局ゴミなのだけれど、それが正しい、という経済第一の狂信者が多いから少数派は負ける。狂信者は強い。弱者は負け続けるから、意思もくじける。
 私も以前ゴミばかりたべていたから体を壊した。その時は頭もぼーっとしていていつも眠かった。意思って何?という感じだった。
 『ずっと布団のなかで横になって、ただぼんやりと、いろいろな記憶やイメージが頭のなかに浮かんでは消えていくのを見ていた。ふと、雨のなか、どこかの河川敷を、ひとりで透明なビニール傘をさして歩いている自分の姿が、閉じたまぶたの裏側に浮かんだ。
 結局、美容院のときのくだらない男とすこし付き合っただけで、私の大阪での生活は終わってしまった。もっといろいろな人と付き合ったら、そのうち幸せになれたんだろうか。でも、誰かと一緒にいるあいだは、ほかの誰かと一緒にいることができないから、ある人と付き合っているあいだに、時間ばっかり経っちゃって、そうしているうちに私を幸せにしてくれる人はとっとと誰かと付き合っちゃうんだろう。』
 ビニール傘でひとりで歩いていた自分。言葉のない、孤独な時間。その時の音や匂い。たった一度だけの自分だけが記憶している時間。誰でもそんな時間を持っている。
 この小説を読んでいたら、色々なことを思い出した。ひとりで街を歩いている自分。夕暮れの街の揚げ物の匂い。コーヒーショップ。孤独だったのに、満ち足りていた。誰かといる時のほうが悲しかった。時間が過ぎ去って、年をとることが怖かった。
 ラストで主人公のもとに死んだ飼い犬が訪れる。私のところにも死んだ黒猫がよく、訪れた。やっぱり月の夜だった。私も布団の中にその猫を入れてやった。猫は肝臓が悪かった。あっという間に癌になり死んでしまった。食事を変えたことで、姉の猫の方は助かった。ごめんね、あんたにもゴミを食べさせちゃったかも知れないね、そう思うと今もつらい。
 ずっと前から考えていたことだけど、この本を読んで確信した。この世でたったひとりの人の、たった一回の記憶だけが、全ての人とつながっていくんだね。



ドストエーフスキイの会・例会情報


239回例会 5月20日(土)午後1時30分より千駄ヶ谷区民会館にて。
清水孝純氏「悪魔のヴォードヴィル――『悪霊』における悪魔の戦略」



編集室


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年6回の読書会と会紙「読書会通信」は、皆様の参加とご支援でつづいております。開催・発行にご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です)
郵便口座名・「読書会通信」 口座番号・00160-0-48024   
2017年4月10日~2017年6月10日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりて厚くお礼申し上げます。

「読書会通信」編集室 〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方