ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.160
 発行:2017.2.6


第279回2月読書会のお知らせ


2月読書会は、下記の要領で行います。
 
月 日 : 2017年2月18日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
開 始 : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品 :『悪霊』2回目 米川正夫訳『ドスト全集9、10巻(河出書房新社)』 他訳可 
報告者 : 太田香子さん  司会進行 熊谷暢芳さん       
会 費 : 1000円(学生500円)

4月読書会は、29日、東京芸術劇場第7会議室です。作品『悪霊』3回目
開催日 :  2017年4月29日(土) 午後2時~4時45分迄です

第37回大阪「読書会」案内 2・18(土)『悪霊』第1回目
ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪読書会の第37回例会は、以下の日程で開催します。2月18日(土)14:00~16:00、・会場:まちライブラリー大阪府立大学 参加費無料 
作品は『悪霊』〒556-0012 大阪市浪速区敷津東2丁目1番41号南海なんば第一ビル3FTel 06-7656-0441(代表)地下鉄御堂筋線・四つ橋線大国町駅①番出口東へ約450m(徒歩約7分)URL: http://www.bunkasozo.com
  


『悪霊』第2回


報告者は、太田香子さん 司会進行は熊谷暢芳さん
『悪霊』2回目の報告者は、大田香子さんです。読書会への参加は、最近ですがドストエフスキーの作品読みはベテランです。内に秘めた想いも濃いです。司会進行は、古参の熊谷さんです。新旧、融合の報告会となります。どのような読みをしてこられたか、楽しみです。

レジメ  

私は、このように読みました
シャートフとスタヴローギン
太田 香子

スタヴローギンは『悪霊』の主軸を為す存在ですが、本編中においては、ほぼすべての登場人物から恐れられており、スタヴローギンその人自身が現れ、各登場人物と正面からやり取りする場面はあまりありません。そのため、「チホンのもとにて」を考慮しない本編において、その人物像および思想を把握することは容易ではなく、謎に包まれた存在と言えるでしょう。
その中で、第2部 第1章 6、7におけるシャートフとのやり取りにて、シャートフはスタヴローギンの核心に迫る追求をします。本来であれば『悪霊』の中核を為すはずであった「チホンのもとにて」の布石ともとれる箇所でもあり、スタヴローギンという人物を把握する手がかりとなり、またシャートフの人物像と思想を知るうえで欠かせない場面です。今回は当該箇所に焦点を当て、シャートフ、そしてスタヴローギンの人物像と思想について考えたいと思います。


『悪霊』アラカルト 


『悪霊』ドストエフスキー(Wikipedia)

『創作ノート』『悪霊』から(『ドストエフスキー写真と記録』)

スターヴローギン = ニヒリズムの敵…高慢な貴族…彼はあらゆる党派の外にいる…地主貴族のぼんぼんの堕落した性質と、非常な知力と、心情の偉大な行動…この人の中に、訳を演じている者がおり仮面があるのが、見てとれた。『創作ノート』
私を驚かせたのは、彼の顔だった…まるで絵に描いた美男子のようなのに、同時に何か非常に不快な感じがするのだ。あの人の顔は仮面のようだ、と人々は言った…『悪鬼ども』
シャートフ = 彼は以前は、大学生だったのだが、ある学生紛争事件の結果、大学を放校になった。子供の頃彼は、ステパン教授の生徒だった。生まれは農奴だった。『悪霊』

年譜でみる『悪霊』完結まで

1869年(48歳)11月21日 ネチャーエフ事件発生
1870年(49歳)1月~2月『永遠の夫』を『黎明』誌に発表。『悪霊』起稿。7月普仏戦争。10月『ロシア報知』編集部に『悪霊』冒頭部分送付。 
1871年(50歳)1月『悪霊』を『ロシア報知』に連載開始。7月1日、ネチャーエフ事件の審理開始 ドストエフスキー本事件の最も重要な政治文書『革命家問答教示所』を特にあらゆる角度から研究。公表分のデーターとあわせて『悪霊』第2編、第3編に利用。8月ペテルブルグに帰還 16日 長男フョードル誕生11月 『悪霊』第2編完結(1月、2月、4月、7月、9月、10月、11月号に掲載)以後約1年にわたり発表中絶、

イヴァーノフ殺害現場を実地検証 

1872年12月末~翌年1872年1月モスクワ滞在ペトロフスコ・ラズーモツスコエへおもむき、イヴァーノフ(シャートフ)殺害現場を実施検証。1872年(51歳)11月『悪霊』第三編前半を『ロシア報知』11月号に発表 12月『市民』(極右系週刊新聞)編集長を引き受ける。12月『悪霊』第三編後半を『ロシア報知』12月号に発表、完結。

新聞記事の「ネチャーエフ事件」

1869年の11月末、ドストエフスキーは、いつものようにドレスデンのカフェで祖国ロシアの新聞を読んでいた。9月に次女リュボーフィ誕生で、いくらか気をよくしてはいたが、殺人、放火、暴動、虐待などのニュースに「なんてこった!わがロシア」に苦虫をつぶしていた。そのうちふと、こんなゴミ記事に目をとめた。「なんだ…」こんな内容の記事だった。

大学構内に遺体 殺人か
11月25日、ペトローフスキイ農業大学内の庭園のはずれを通りかかった二人の農民が、築山横の休憩所の入り口近くに、帽子や防寒頭巾、棍棒などが散乱しているのを発見した。休憩所からは池の端までまっすぐに血痕が続いており、氷結した池のなかに、黒いベルトを締め、防寒頭巾をかぶった姿で死体が見えた。同じ場所には紐で結ばれた二つの煉瓦と、紐のきれはしも発見された。(「モスクワ報知」1869年11月27日付)

これが小説『悪霊』の着想になった事件の第一報であった。
殺人事件は、1869年11月21日に起こった。11月29日付の「モスクワ報知」は続報を掲載する――  (『ドストエフスキイ』井桁貞義著 清水書院)

被害者は同農業大学の学生

被害者の身元が割れた。ペトローフスキイ農業大学生イワン・イヲーノヴィチ・イワーノフである。被害者の金や時計などには手がつけられておらず、散乱していた帽子、頭巾はイワーノフの所有物ではないことが判明。死体の両足は頭巾で縛られていたが、この頭巾は彼が大学の友人から借りた物だという。首はマフラーでぐるぐる巻きにされ、橋には煉瓦が結びつけられていた。額には鋭利な刃物によると思われる損傷がある。」事件の首謀者はネチャーエフ 12月25日に判明



寄稿

『悪霊』が問いかけるもの(前編)「連合赤軍事件」と桐山襲作品について
 野澤隆一
 
 1972年の「連合赤軍事件」は社会に大きな衝撃を与え、理想の時代(大澤真幸)の終りを告げる象徴的な事件として、小説では1973年から現在まで未だに作品化され続けています。(*1)当事者と10歳後の隔たりがある私には、「連合赤軍事件」とは文学と映像作品のみの理解ですが、『悪霊』と出遭うことにより「連赤文学」と私が勝手に総称するこの作品群へのアプローチは「悪霊的問題」として明確化しました。それはこの文学が、あさま山荘での銃撃戦の前に、総括を基に同志を14人も殺戮した物語(事件)の意味を考えるという点で、『悪霊』の中での「悪霊」の派生的な解釈の可能性として捉えています。ただし、連赤文学としての独立した価値は、『悪霊』でのシャートフの殺害との類型のみを取り出すことではなく、文芸作品としてはむしろ各々の作家が作品を発表した時代を背景に、事件や政治運動全体を含め、単なる鎮魂や感傷に留まらない事件の本質の取り出しに大きな意味があると思います(政治的文脈で受けとるという意味ではありません)。私にとってのそれは『悪霊』の通奏低音である「無神論」を現代的に考察する事であり、数多い連赤文学の中から特に印象に残った桐山襲作品を中心に、その意味を現代に通じるであろう「『悪霊』が問いかけるもの」として述べてみたいと思います。
 
1.「悪霊」とは何か-共同体に出現する一側面-
 『悪霊』には2つの「悪霊」が存在します。1つはニコライ、ピョートルに造形化された人格としての「悪霊」であり、2つ目は、この2人が周りに及ぼす影響(ウイルス)としての「悪霊」です。作品での「悪霊」の本質は最終的にはニコライ・スタブローギン一人に収斂されると思われますが、私が派生的に取り出したここでの「悪霊」とは、個としての「人間の観念が引き起こすテロリズム」について、それがピョートルの「革命」という自己観念(自己幻想)が周囲に及ぼす影響だけではなく、ある状況に閉じられた人間達を拘束する「共同体が引き起こす特異な観念(暴力・殺戮)に至る構造」を示しています。
 『悪霊』の5人組内でのシャートフ殺害や連赤での榛名山ベースでの閉じられた共同体(セクト)内での同志の粛清には共通して、共同観念がテロリズムに転倒する自己を超えた独特の観念の発生過程が見てとれます。そうした観念のその自己観念から構築される共同観念(共同幻想)に基づいた共同体(セクト)がどのような転倒に至るかについて、その観念(革命理論)の内容とは別に、テロリズムを単に政治的な文脈に還元せず登場人物の関係性の中に住み着いて来るのがここでの「悪霊」の一側面です。例えばシャートフ殺害の隠れた目的として、殺害によりセクトメンバーを倫理的に結束させる(流れた血で縛る)という「悪霊」(共同観念・共同幻想)が発生することを想定し、ニコライはピョートルに実行を示唆します。また、連赤文学作品から共通に読み取れることですが「革命理論」というキューバ革命やマオイズム等を理論ベースとした「共産主義化」や手段としての「銃」の位置付けとその扱い(唯銃主義)が、反社会的な共同体を保持していくために一つの制度(共同体内の個人を拘束する)として機能していく条件であると捉えて良いと思います。
 そこでの関係性を強化させる人物にピョートル、ニコライ及び森恒夫、永田洋子(各小説でのモデル)という特異なリーダーの存在も構造的には取り出せるでしょう。しかし、そうした共同幻想(革命という観念)が具体的に組織として制度化された場合、構成員に大きな負荷を与える観念が顛倒していくこの別の原理の立ち現れをここでの「悪霊」として示しました。その実態を理論化したのは吉本隆明に他なりません(*2)。人間は一般的にも様々な
共同幻想を描き生活していますが、緩やかな共同幻想ではなく、例えば国家や宗教といったような共同幻想が強い制度として組織化された場合、少なからず個人(自己幻想)や家族(対幻想)に逆立するというのがここでの吉本理論の骨子です。また、心理カウンセラーの宇田亮一はそうした共同幻想が高強度に制度化した場合の3原則を下記の通り取り出しました。(*3)
原則1 いったん、この共同体に所属すると抜けること(構成員を離脱する事)が困難になる。 
原則2 構成員がこの共同体の共同幻想に反する言動(敵対する言動)を行った場合、排除・制裁の対象になる(場合によっては殺害される)
原則3 他の共同体と抗争が生じた場合、構想する共同体(異なる共同幻想)の構成員を攻撃することが義務となる(場合によっては殺害する)「共同体が引き起こす特異な暴力(殺戮)」が発生した理由はこの原則によるものと考えています。この原則は形態として様々でも実際の制度化された高強度な共同幻想に現実的にあてはまる普遍的理論でしょう。『悪霊』や「連合赤軍事件」にはセクトに高強度の制度化が働いていたことを見てとれます。しかし、事件を文学で捉えた場合、そこに零れてくる内実を、登場人物に寄り添い拾い上げていくことに意味があると思います。

 桐山文学を述べる前提として連赤文学の私の世代的な受容の意味を考えるとこの「悪霊」出現の傍証として目を引いたのは、同世代から登場した大塚英志の解釈です。その基準を挙げれば私の世代が一般大衆を「労働者」ではなく「消費者」と捉えてきた80年代以降の時代感受があります。大塚の小説『多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の帰還』(2003年)は事件を二次創作的展開(物語消費論)で具現化していますが、評論『「彼女たち」の連合赤軍-サブカルチャーと戦後民主主義』(1996年)では革命理論から離れた意識として、「遠山美枝子の指輪に象徴される何ものか」が粛清の契機となり、革命理論までも一つの記号として相対化し取り込む時代的文脈で、それを女性兵士の実存の意識にある「かわいい」であると解釈しました。それは閉じられた共同体での構成員各自に存在論的に立ち現れた「悪霊」出現の契機と言えるでしょう。それは、事件を契機に全共闘運動が終焉を迎え、全共闘世代が一応に沈黙し始めたことを受けて、セクト内の女性兵士がその後隆盛する消費社会では自己実現できたかもしれないこの解釈は、その後のサブカルチャーのステージで私の世代の世界感受を具現化していく先駆となる視線でした。論理の飛躍とも受け取られがちですが、大塚はそれを一括して「全共闘の時代の〈左翼思想〉そのものが最終的にサブカルチャーの中に崩れ落ちていく性質のものであった」と提示しています。三田誠広『漂流記1972』(1984年)にもその萌芽が見られますが、笠井潔はそれに対して関西ブント出身の森恒夫を除き、関東の都会的センスを持つ唐牛健太郎に見られるブントから派生した赤軍派の行動的ニヒリズムの背景に「かわいい」に対して「かっこいい」という感性があり、これも総括(粛清)の要因としています(*4)。私はこの「かっこいい」は山岳ベースでの森や永田の心理への影響もさることながら、それまでの幹部だった重信房子や田宮高麿たちが感受し、私も10代にもろに浴びた当時のカウンターカルチャー(対抗文化:『明日のジョー』『昭和残侠伝』等)で具現化されたものであり、その思想的主題は政治的に敗北せず、その後のサブカルチャーの作品群には未だに引き継がれていると考えています。村上龍・笠井潔・押井守の小説や映像作品に顕著ですが、それは〈左翼思想〉が崩れ落ちた先というよりもラディカリズムの表現を、行動的ニヒリズムとして生き延びてきた文脈で考えるべきだと思います。(*5)その内実は私が連赤作品の中で特に思い入れの強い桐山襲文学の主題を引き継ぐものであり、あえて言えば当時の文学界はこの主題に真摯に向き合えずその価値を放置しましたが(*6)、今後の「災後文学」作品などに期待するしかありません。私の言うラディカリズムとは本来、運動そのものを社会学や思想的背景(*7)から述べるべきですが、文学として桐山作品から受けた事で言えば、シャートフ殺害に対し「連合赤軍事件」での14人の殺害には共同幻想がより強く働いており、ここでの状況を物語化する質的差異を見ていきたいと思います。以上のような連赤文学を事件の単なる鎮魂や感傷としてではなく主題化する桐山作品の現代的意味については、私がドストエフスキー文学で掴んだ「無神論」の次の解釈を前提とします。
2,「無神論」について
 『悪霊』にも超越論的無神論者のニコライ、無神論的革命主義者のピョートル、「人神思想」を提唱する無神論者のキリーロフ等が登場しますが、ドストエフスキーが捉えた19世紀の無神論をあえて大きく括ると、私は次のように捉えています。
 1つは「神がいなければ、全てが許される」という命題であり、それは「外部」を想定しない人間のモラル(内的倫理)についての問いです。『悪霊』では無神論の帰結として、宗教的共同幻想で統治された社会に対抗して、その転覆の為には殺人も辞さないというピョートルと、様々な道徳否定的行動をとるが、内的倫理を自意識(神を要請する解釈もある)に問いて自滅するニコライという2人に象徴されます。さらに私にとってのニコライ・スタブローギンとは、この問いの奥にある本質として、「人間の生の意味とは何か」という根源的な問いも要請します。虚無と罪の無限円環の中で自意識を見つめるニコライに絶えず出現しているのが「悪霊」であり、作品の中ではこの「悪霊」が本質的なものでしょう。
 また、もう1つの命題は「神がいなければ、それに代わる人間が向かう崇高なもの、絶対感情を喚起するもの、不遇な生を支えたり、それを乗り越えるものはどこにあるか」という神に代わる超越項を求める問いです。この2つの問いに対しドストエフスキー文学とは、このモラルや超越への憧れは普通の人間の日々の生活にだけ根拠を持っていることを描いたというのが私の理解です。あえて言えば、私にとってのドストエフスキー文学とはこのモラルの根拠や超越志向に対し、作品内の登場人物が日々交わすような言葉の中に、「踏み留まりに堪えていく事」を感受し、私自身の平凡な日常生活に照らして見据えていく世界と言えます。初めの問いに対する私の理解は「他者性」や「自己否定」を基準にするのではなく、あくまでも「自己中心性」ということを基礎にしてモラルの根拠を考えていくことです。また、2つ目の問いについて、ニーチェはこの神に代わるものを「真理」「理想」「革命」として取り出しましたが(*8)、日本でもそれまでの戦後市民社会の欺瞞を見据え、この超越項に自らの実存を投げ出したのが、「あの時代」の若者の運動であったと私は捉えています。その後、80年代に主流だったポストモダン思潮で流布した「外部」「他者」も超越項であり(竹田青嗣)、その無効性を踏まえ、それは「空無化したラディカリズム・回収されない否定性」(加藤典洋)、「否定神学」(東浩樹)と揶揄されました。また、同時期には60年代末のアメリカ西海岸の対抗文化から派生した様々な新々宗教やニューエイジブーム(新霊性運動)に見られた通り、この超越項は神秘主義を背景に身体に向かいました。しかし、1995年のオウム真理教事件でこの無効性も最悪な結末として露呈しました。(以下、後編へ続く)
 
<参考>
1, 私の事件の文学の原体験は友部正人『乾杯』(2ndAlbum「にんじん」収録 URC 1972年)という詩歌でしたが、小説では小堺昭三『小説連合赤軍』(徳間書店1973年)を皮切りに、現在も文芸誌での連載が終了した桐野夏生『夜の谷を行く』(単行書籍未刊行)まで10作品近く随時発表され、漫画でも山本直樹『レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ』が未だにイブニングに連載継続中で、事件はまだ忘却されていません。
2,『共同幻想論』(河出書房新社 1968年)
3,『共同幻想論の読み方』(菊谷文庫 2013年)
4, 『例外社会 神的暴力と階級/文化/群集』(朝日出版社 2009年)
5, たとえばキリーロフの「信じていないことを、あえてやる」というのは1930年代に徹底化された「行動的ニヒリズム」の前例です。文学的にはマルローや戦前のサルトルとカミュなどに代表され、哲学ではハイデガーなどを指します。
6, 当時の右翼に屈した文学界の桐山作品に対する態度を如実に表した点は『「パルチザン伝説」事件』」(作品社 1987年)で追うことが出来ます。
7,長崎浩『反乱論』(合同出版、1969年)、小坂修平『思想としての全共闘世代』(ちくま新書、2006年)』、笠井潔『テロルの現象学-観念論批判序説』(作品社、1984年、新版2013年)、パトリシア・スタインホフ『死へのイデオロギー日本赤軍派』(岩波書店2003年)
8, 哲学者としての竹田青嗣は宗教に代わるこの近代以降の超越項を「恋愛・芸術・政治・真理」の4つとして現象学的考察で取り出しました。宗教には彼岸性がありますが、この4つは此岸での実現に可能性があるのがその特徴で、その可能性が人間の生を歴史的には支えてきたと説いています。『超越のアンチノミー』(新潮 1996年1月号)



12・10読書会報告 
 

『悪霊』1回目盛会、参加者33名!!
10月読書会の参加者は、定員の28名を5名もオーバーする盛況ぶりでした。読書会開催新記録です。立ち見となった初期の例会を思いだしました。会場が新宿の厚生年金の時代です。大勢の参加者となったが、報告者・小野口哲郎さんは、キリーロフの人身論について、淡々と報告した。船頭役の司会進行・小山創さんは、あわてることなく順調にカジをとって波をのりきり全員の感想を聞きだした。
報告者の小野口さんは、多勢の登場人物のなかからキリーロフに絞って、その人神思想について報告された。はじめて参加の人もご自分のドストエフスキー観を話された。当日、配布された資料の冒頭部分を紹介します。主に、キリーロフの言葉でした。

キリーロフの人神論について   
小野口哲郎

今回『悪霊』の報告に当たって、この長大な作品全体の概観の紹介を限られた時間で済ますことは報告者のなす叶わざるところであり、従って主題を個人的に興味惹かれるキリーロフの人神論に絞りたい。
そもそも「神」とは何か
作家は19世紀のロシア人であり当然ながらキリーロフも同様である。従って作中でいう「神」とはひとまずキリスト教によって早期されるものである。即ちに自由な主体であり一切の主宰者である。
「もし神がいないとしたら、ぼくが神だ」
まとめ…キリーロフの人神論は、作家が狂人に託して描いた実験的・試験的無神論であり、独我論に基づいた謬見である。



「ドストエーフスキイの会」情報

ドストエーフスキイの会の第237回例会は、1/ 28 13時から千駄ヶ谷区民会館で。
報告者は、大木貞幸氏。題名は、「キリストの小説――ドストエフスキー・マルコによるキリスト教批判」
第238会は、3/25 13時 神宮前穏田区民会館第3会議室(2F)



ドストエフスキイ研究会便り(5)のお知らせ


〈主催・芦川進一〉
  
河合文化教育研究所のHPに掲載しております「ドストエフスキイ研究会便り」も、今回で第五回目となります(二月末の予定)。第三回目から取り組んできましたイワン論(「一粒の麥」の死の譬え―『カラマーゾフの兄弟』におけるユダ的人間論とイワン―」)がここで漸く完結します。これは『カラマーゾフの兄弟』の冒頭に置かれた「一粒の麦」の死の譬えの検討から作業を始めたのですが、最初の二回(「研究会便り(3)(4)」)では、この譬えの奥にある新約聖書のユダ的人間論、つまり師イエスを裏切り十字架上に追いやってしまったユダやペテロなどの弟子たちの罪意識と、その清算の問題を聖書テキストの中に追ったのでした。今回の三回目(「研究会便り(5)」)では、この新約聖書のユダ的人間論の問題が、そのままイワンの運命と重ねられること、そして我々現代人の問題に他ならないことを論じています。

イワンについてはスメルジャコフと共に、拙著『カラマーゾフの兄弟論―砕かれし魂の記録―』において詳述し、今年の春に発行される『広場』においても、昨年の例会での報告を土台として、モスクワにおける彼の聖書との取り組み、殊にそのイエス・キリスト像を検討しています。イワンと取り組めば取り組むほど、ドストエフスキイがこの青年に如何に重大な役目を担わせているかが明らかとなってきて、『カラマーゾフの兄弟』の奥深さに溜息の出る日々です。

なお既にご存知の方も多いかと思いますが、昨年一年の間に上記拙著の出版と相前後して、他にも二冊ほど、聖書テキストとの取り組みを土台とし、聖書学の成果も採り入れつつ、ドストエフスキイ世界へのアプローチを図る著作が出版されました。一つは今年一月の例会で報告された大木貞幸(冬木俊)氏の『キリストの小説 ドストエフスキー・マルコによるキリスト教批判』(近代文藝社)であり、もう一つは清眞人氏の『ドストエフスキーとキリスト教 イエス主義・大地信仰・社会主義』(藤原書店)で、私はそれぞれに深い感銘を与えられました。これらの仕事の客観的な評価については、今後の厳しい「批判」を俟つしかありませんが、これらの延長線上に今後も若い人たちが仕事を積み上げていってくれることを切に期待したいと思います。私の「ドストエフスキイ研究会便り」もそのための一つの「叩き台」となることを願っています。



ドストエフスキー文献情報
 2016・11/20~2017・1/28   
提供=ド翁文庫 佐藤徹夫さん

〈図書〉
『ドストエフスキーの作家像』木下豊房著 鳥影社 2016.8.19 \3800+ 644p 

〈逐次刊行物〉
名場面からたどる『罪と罰』第10回 都市のパノラマと昔の夢 原作Ф.М.ドストエフスキー 訳・解説望月哲男「NHKラジオ まいにちのロシア語」54(10)(2016.12.18=2017・1月号)p125/133
同上 第11回 野心家ルージンの犯罪論「NHKラジオ まいにちロシア語」54(11)(2017・2月号)p127-135

〈対談〉
ドストエフスキーと「悪」/亀山郁夫×中村文則 「文学界」 71(1)(2017.1.1)p238-247 ※中村文則著『私の消滅』が2016年度Bunkamura ドゥマゴ文学賞受賞を記念して行われた対談を再編成

※前回、アンジェイ・ワイダ監督の訃報に付したDVD報に遺漏がありました。
「ナスターシャ Nastazja」SHV(松竹ホームビデオ)DB-0491 (c1994)出演:坂東玉三郎、永島敏行【前回の記事】〈訃報〉A・ワイダ監督死去 90歳。「朝日新聞」10.11 夕刊p14(高野弦、石飛徳樹);10.12 朝刊〈天声人語〉;同 p34 (大竹洋子);同p38(高野弦)
 
〈メモ〉1989.3.1~4.25 ベニサン・ピットにて「ナスターシャ」(玉三郎、辻萬長)公演。1994年 日本・ポーランドとの合作映画(VHS)となる。(玉三郎、永島敏行)



評論・連載
      
「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
          
(第69 回)堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』から『ゴヤ』へ    
                               
福井勝也

年が明けた。前回ドストエフスキー生誕200年(2021)というメモリアルな年にやや気の早い触れ方をしたが、先行き不透明な世界の混迷が加速している年初(トランプ旋風)、吾々の時代を深く見透すために必要なのは、やはり先人がそこに歴史を刻んだ言葉しかないと思う。19世紀ロシアのドストエフスキーという存在の偉大さも、作家自身がその生きた時代に真摯に向き合い、その透徹した視力を過去の歴史に注いだ言葉そのものであったろう。吾々が、ドストエフスキーの言葉に常に還りつつ、時空をへだてながらも、それらを取り巻く言葉の連続にも関心を寄せる意味もそこにあるはずだ。

メモリアルな年廻りになお拘れば、昨年(2017.12.9)が夏目漱石没後100年であり、今年(月)(2018.2.9)は生誕150年にあたる。昨秋から、すでにご紹介した小森陽一氏に関係する講演を重ねて聴く機会を得た。最終日が当読書会に重なった12月10日には、内外の漱石研究者が一堂(有楽町マリオン)に会しての国際シンポジウムが開催された。シンポジウムは、「世界は漱石をどう読んでいるか?」と題していた。その欧米・中国、韓国を含む研究者の突っ込んだ作品理解、テキスト解釈のレベルの高さに驚かされながら、近代国民言語としての日本語の形成者であった夏目漱石の世界(文学)性に改めて深く気付かされる思いがした。

同時期の小森氏との別対談では、『日本語が滅びるとき』(2009)『續明暗』(1990)の作家水村美苗氏の、外国人が日本語を習得する意味(価値)とは、端的に世界文学としての漱石の作品(小説)を日本語で読めることだとの発言がシンポジウム途中に甦ってきた。そのうえで、現代の日本の若者が漱石の日本語にどこまで親しむ機会が持てているのか、その心許ない現状について教育者でもある小森氏に問いかける成り行きも思い出されて心が痛んだ。そんな時に米国(ボストン大学)の発表者が、ドストエフスキーの名前を出して比較するように漱石の世界文学性が語られる将来に言及したのが嬉しかった。しかし、米国の別の発表者(シカゴ大学)が、作品の具体的な言葉を挙げ「漱石は自分の作品が翻訳されることを拒否した」と指摘されたことも同時に触れておきたい。それでも極東のマイナー言語である日本語の困難性を越えて、「これからも漱石を裏切るつもり」の翻訳研究への意欲をユーモアたっぷりに語った言葉に心動かされた。没後100年を経過して外国の人々から、吾々日本人の国民的作家、夏目漱石の日本語について教えられる廻り合わせこそ、漱石の世界文学性の証明が果たされつつあると確信した。

翻ってあと何年かで生誕200年を迎える、19世紀ロシアの国民文学者にして既にその世界評価トップ?のドストエフスキーとは、どのような意味で世界文学者であるのか。その現代的な自明性にこだわってみたいと改めて思う。そしてその評価を、日本語(翻訳語)を通じて享受してきた吾々日本人一般の問題として捉えてみたいと考えた。いずれにしても、このことの示唆はドストエフスキーの作品を読み込みながら、やはりそれを論ずる先人(翻訳者を含む)の言葉に学ぶことからしか始まらないのだろう。

この点で、ここ数回取りあげてきた作家堀田善衛(1918-98)を足がかりにした話題をもう少し継続したい。実は明示の通り、堀田も来年生誕100年(7/17)と没後30年(9/5)を迎える作家である。多摩の読書会では、ここ数年堀田の主要作品を対象にしながら、昨年末には『若き日の詩人たちの肖像』(1968)を読み終えた。そして大作『ゴヤ』(1974-77)に取り組み始めたところだが、ここで『ゴヤ』の問題へ入る前に、その導入のつもりでもう少し前作について触れておきたいと思う。

自伝小説中の「若き日の詩人たち」には、紛れもないドストエフスキー文学の刻印がその根っこにあって、その「通奏低音」については前回も触れた。特に堀田自身のそれは、初期作品『白夜』への深いシンパシーが核になりながら(エピグラフほか)、随所にドストエフスキーへのコメントが散りばめられている。それらが、国の滅亡・再生という日本近代史の大転換の時期に重なりながら独自のドストエフスキー批評として語られてゆく。それはドストエフスキー文学が、大げさな時代の転換に安易な共振(狂信)を遂げる「依り代」になることを忌避するものであるが、エピソード自体が日本近代(文学)にドストエフスキー(文学)が与えた影響の証言ともなっている。この点で、対照的に時代の「依り代」として「ドストエフスキーのキリスト」を「戦前の昭和天皇」にまでなぞらえる「若き詩人」の存在については前回も触れた。それが、だれかの「モデル」というのでもなく、当時のドストエフスキー(文学)の歴史的影響の文化的タイプとして描かれた。すなわち、この問題は個人に特定できない分だけ、より典型的なこの時代の日本人の「ドストエフスキー体験」が定着されたと見るべきだろう。そしてこの登場人物が「アリョーシャ」と称されるのも意味深だが、そのドストエフスキー(文学)の「依り代」として「アリョーシャ」が金科玉条とするのが、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官物語」であった。堀田はこの自伝小説で、特別にこの辺を詳しく論ずることをしない。当方はこの点について、この後堀田が『ゴヤ』の中で論じようとした成行(発端)を発見した、と言ったら言い過ぎか。この点は後程取り上げる話だが、その前に堀田が「詩人たち」に触れた意味深な<言葉>に最後拘っておきたい。

問題の言葉は、『若き日の詩人たちの肖像』の最終部から末尾の部分に二度程出てくる。この自伝小説は、主人公(堀田)にも最後召集令状が届き、それを受領するために東京から本籍地の富山に向かう。その受け取った『臨時召集令状』の理不尽な内容に怒りながら、ひとりで故郷の海波に対面するところで本小説の幕は降りる。ここに「若者」から「男」に呼称の変更を遂げてきた主人公が、最後否応なく戦争に直面させられ、歴史の不条理に巻き込まれた時点で『若き日の詩人たちの肖像』という小説(タイトル)の内実が終わることを物語る。その幕切れはその前、エピグラフ他で主人公が途中で何度も引用する、小説の骨格とも言えるドストエフスキーの『白夜』冒頭の「星空」が「男」から見えなくなってしまったシーンですでに象徴的に告げられていた。その部分は、前回に引用した(集英社文庫下巻、p.389)。
結局、これらの場面の以後の主人公(堀田)の語りは、考えてみればすでにこの自伝小説の範疇を越えていて、それはこの後の戦後的な思考として、以降の著作で展開されるべきものであったはずだ。そんな謎を孕んだ言葉は、富山への帰省車中、碓氷峠をどうにか越えて軽井沢高原辺りの馴染みの山野の風景から浮上してくる。

往きて還らぬ(歌詞は、以前にも触れた作中の『大菩薩峠』<間の山節>から、注)という詩のかけっぱなしのようなものが思い浮かんだ。眼を瞑っていると、明るい陽光にさまざまな木の葉が輝きながらそよいでいるのが見えて来て、その葉の裏 ― ちらちらと見える、そのなんでもない葉裏が胸に痛かった。どういうわけでそうなのかはわからない。なんでいまごろまたこんな妙な葉 ッパのことなんかを、と思い出してみると、不意と芥川龍之介の遺書のことが思い出て来た。

 ‥‥‥唯自然はかういふ僕にはいつもより一層美しい。君は自然の美しいのを愛ししかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである。

―中略― つまりは、こういうような処理しがたいようなものがいっぱいに入って来て、それらのさまざまなものによって全体が形成されて行くというふうな具合に、人生はあるのだろうと思われるのだが、そこに召集令状というものが来て、ぴしゃりと蓋をするか、線を画するかのようにして、一切と切れる、というふうに思うのは、あるいは思いすぎるのは、児女の情というものではないか、というふうに思われるのである。
 風に葉裏をひるがえしている木々のイメージを振り払うように捨てて、もう木の葉になん
ぞに自分の生きている世界を、直観するような生き方はやめにしなければなるまい、と思う。詩人でなくてもいい、と思う。       (同文庫下巻、p.399-400)

 やや長く引用したが、当方が意味のつかめぬ言葉として拘ったのは、下線太字の箇所の児女の情という熟語の抑もの意味と使われ方であった。この言葉は最終頁(p.402)にも再度出て来る。こちらの引用は煩瑣になるので控えるが、意味、言葉の用方は、一度目と変わらないものだろう。辞書(「明鏡」)では、児女は、①男の子、女の子、特に女性 ②子供と女性となっていて、児女の情をスマホ(ウィキペディア)で調べると、何と最初に中国清朝の古典『紅楼夢』の解説が冒頭に出て来て驚いた。そこでは「‥ 士大夫の経世済民という表向き世界ではなく、弱く感じやすい「児女の情」をテーマとするといえる。‥」と解説されていた。この辺で、堀田が拘った言葉の文脈上の意味もほぼ了解できた。そのうえで、何故ここで芥川の遺書が出て来てそれに怒ったり、抑も明るい陽光のさまざまな木の葉の輝きを人生に擬えるような直観を忌避し、詩人になることを断念するとまで言い出したのか。ここに、本自伝小説『若き日の詩人たちの肖像』の最後に切羽詰まった瀬戸際が露出するクライマックスがあると思った。それとどうしても今回述べておきたいと思ったのが、ドストエフスキーの愛読者にはすでにピンときているはずの、『カラマーゾフの兄弟』で無神論者のイワンが語るカラマーゾフ的な生命賛歌の象徴「粘っこい若葉」の件である。ドストエフスキーの小説の一節を暗記するほどに愛読していた「男」(堀田)であれば、この「風に葉裏をひるがえしている木々のイメージ」にイワンの言葉を思い浮かべないはずがない。とすれば「男」は、ここでドストエフスキーの『白夜』の「星空」のみならず、『カラマーゾフの兄弟』の「カラマーゾフ的生命賛歌」も含め断念させられたということかもしれない。それ程に、「男」「詩人たち」にとっては、「臨時召集令状」の意味は苛酷であったとも言えよう。しかし堀田がここで、児女の情という言葉に込めた意味は、さらに深いものがあるようにも思える。その探求は、すでに述べたが、この後の戦後以降の思考で焦点の当てられた問題となって著作が書き進められた考えるべきかもしれない。『カラマーゾフの兄弟』のイワンとアリョーシャの問題には、二人の間に交わされる「大審問官物語」が控えていた。それは『ゴヤ』(1974-77)のなかで、スペインとの文化歴史との対比を通して別なかたちで考察されてゆくことになる。これは後に譲りたい。

 ただし今回、最後の言葉に触れて述べてみたいことは、この『若き日の詩人たちの肖像』の「男」(たち)が、詩人に踏みとどまることができたかどうかも含め、再生した戦後に文学的な活動を開始させるにあたって、その最大の肥やしともなったのが19世紀の後進的資本主義的近代化に骨がらみ立ち向かったドストエフスキーでなかったかと言うことだ。このことは『若き日の詩人たちの肖像』の主要人物の一人、「荒地」の鮎川信夫(「良き調和の翳」)とその盟友、元々彼も詩人で出発した吉本隆明が連想される。彼らには、この時期戦前の詩文学運動の問題を剔抉する論考やその後の著作『戦後詩史論』(1978)、『対談文学の戦後』(1979、鮎川との対談集)があり、そのテーマこそ戦争期に日本的自然に耽溺した詩人たち告発する試みであった(「四季」派の本質-三好達治を中心に、1959)。そして同時期に吉本が書いた「マチウ書試論」(1954)は、「大審問官物語」を俎上にあげて本格的ドストエフスキー論が既に刻印されていた。この辺の流れも併せて考えたい。ここでは、吉本が三好達治の戦争礼賛詩「昨夜香港落つ」を一部引用した後、苛烈に論考を締め括った文章を引用したい。

 これが大学においてフランス文学を習得し、フランス文学を日本に移植し、また、モダニズム文学の一旗手であった詩人の「西欧」認識の危機における、かけ値なしの一頂点であったことを、わたしたちは決して忘れてはならない。日本の恒常民の感性的秩序・自然観・現実観を、批判的にえぐり出すことを怠って習得されたいかなる西欧的認識も、西欧的文学方法も、ついにはあぶく(・・・)にすぎないこと ― これが「四季派」の抒情詩が与える最大の教訓の一つであることをわたしたちは承認しなければならない。(「四季」派の本質、末尾)

そう言えば、本自伝小説には「成宗先生」の仮名で四季派を元々主宰した堀辰雄が登場していた。主人公の「男」(堀田)は、この「成宗先生」(堀)と会う度に交わす、ドストエフスキー絡みのこれまた意味深の「呪文」の言葉があった。こちらも気になるが ‥‥(2017.1.24)



広  場 


城島徹氏(毎日新聞社編集委員)よりドストエフスキー関連書物をご寄贈いただきました。ありがとうございました。この場を借りてお礼申しあげます。(編集室)

城島氏からの伝言
私の亡き父(城島宗孝)の書棚から「ドストエフスキー」関連のものを詰め込みました。戦争前後の本が多いようですので、早稲田の学生時代や学徒動員から戻ってから購入したものと思われます。私は背表紙を眺めていただけで、ページをめくったことはありませんでした。お役に立つようでしたら幸いです。

以下、城島氏より寄贈された書籍の紹介です。(出版年順不同)

ドストイエフスキイ全集第3巻:ネートチカ・ネズワーノワ他4編 F.M.ドストエーフスキイ 熊澤復六・梅田寛 三笠書房 昭和15 1940
ドストエーフスキイ全集(1):貧しき人々・分身 F.M.ドストエーフスキイ 米川正夫 河出書房 昭和18 1943
ドストエーフスキイ全集(3):主婦 F.M.ドストエーフスキイ 米川正夫 河出書房   昭和25 1950
ドストエーフスキイ全集(6):虐げられし人々・伯父様の夢 F.M.ドストエーフスキイ 米川正夫 河出書房 昭和17 1942
ドストエーフスキイ全集(9):虐げられし人々(Ⅰ) F.M.ドストエーフスキイ 米川正夫 河出書房 昭和25 1950
ドストエーフスキイ全集(28):未成年(Ⅰ) F.M.ドストエーフスキイ 米川正夫 河出書房 昭和22 1947
ドストエーフスキイ全集(29):未成年(Ⅱ) F.M.ドストエーフスキイ 米川正夫 河出書房 昭和22 1947
ドストエーフスキイ全集(30):未成年(Ⅲ) F.M.ドストエーフスキイ 米川正夫 河出書房 昭和23 1948
ドストエーフスキイ(河出書房「文藝」新年付録号) 米川正夫 河出書房  昭和29 1954
ドストイェフスキイの世界観 ニコライ・ベルジャーエフ 香島次郎 朱雀書林  昭和16 1941
ドストエフスキイ傳 エーメ・ドストエフスキイ 高見裕之 アカギ書房      昭和21 1946
ドストエフスキイー論 アンドレ・ジイド 武者小路實光 日本社 昭和21 1946
ドストエフスキーの生活 第10版(昭和14年初版) 小林秀雄 創元社      昭和21 1946
ドストエフスキイ ウオルインスキイ 埴谷雄高 みすず書房 昭和34 1959
ドストエーフスキイの世界 荒正人(編著)執筆者多数 河出書房新社  昭和38 1963
ドストエフスキー ゼンタ・マウリーナ 岡元藤則 紀伊國屋書店 昭和39 1964
私のドストエフスキー体験 椎名麟三 教文館 昭和42 1967
トルストイかドストエフスキーか ジョージ・ステイナー 中川敏 白水社  昭和43 1968
ドストエーフスキー覚書 森有正 筑摩書房 昭和42 1967
文芸読本 ドストエーフスキイ 小林秀雄、秋山駿 他多数 河出書房新社  昭和51 1976
トルストイの思い出 父と私との生活 アレクサンドラ・トルスタヤ 八杉貞利・深見尚行 岩波書店 昭和5 1930
トルストイの生涯(ロマン・ロラン全集第40巻) ロマン・ロラン 宮本正清 みすず書房 昭和22 1947
南風譜(牧野信一遺作集) 牧野信一 序:島崎藤村 甲鳥書林 昭和16 1941



追 悼 

読書会によく参加されていた釘本秀雄さんが亡くなりました。家族の介護もあっても来られなくなってから20年近くなります。昨年、お葉書をいただいたときはお元気とのことでしたが・・・。ドストエフスキーのアンケートに、このように書かれていました。(冒頭の一部です)
「私は、昔好きだった中学の国語の先生が「人間、死ぬまで(童心)を忘れてはダメだよ~それは心の宝なのだ。、と仰言ったことを事あるごとに思い出し、いわばそれを座右銘としておりましたが、今もふっとその言葉を思い出すのであります。(童心)-それは一体何だろう?」 ご冥福をお祈り申し上げます。



カンパのお願いとお礼

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郵便口座名・「読書会通信」 口座番号・00160-0-48024   
2016年12月3日~2017年2月5日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりて厚くお礼申し上げます。

「読書会通信」編集室 〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方