ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.159
 発行:2016.12.2


第278回12読書会のお知らせ

月 日 : 2016年12月10日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
開 場 : 午後1時30分 
開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品  : 『悪霊』1回目
報告者  :  小野口哲郎さん & 小山創さん       
会 費 : 1000円(学生500円)
 
2月読書会 作品『悪霊』2回目
開催日 2017年2月18日(土) 午後2時~4時45分迄です



第36回大阪「読書会」案内
 12・3(土)『賭博者』
ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪読書会の第36回例会は、以下の日程で開催します。12月3日(土)14:00~16:00、・会場:まちライブラリー大阪府立大学 参加費無料 作品は『賭博者』
〒556-0012 大阪市浪速区敷津東2丁目1番41号南海なんば第一ビル3F Tel 06-7656-0441(代表)地下鉄御堂筋線・四つ橋線大国町駅①番出口東へ約450m(徒歩約7分)URL: http://www.bunkasozo.com E-mail:




10年前の『悪霊』報告のみなさん

 
第一回、2月23日開催 報告者・菅原純子氏が「スタヴローギンはなぜこのような人間になってしまったのか」
第二回、4月12日開催 報告者・山田芳夫氏が「トリビアリズムで読む『悪霊』」
第三回、6月14日開催 報告者・金村 繁氏が「『悪霊』を読む」&「スタヴローギン私考」
第四回、8月 日開催『悪霊』祭りフリートーク



『悪霊』のための覚書

この作品についてドストエフスキーは、ストラーホフ宛の手紙1870年3月24日付でこのように述べています。

『ロシア報知』に載せる予定でいま書いている作品に、私は強い期待をかけています。といってもそれは、芸術作品としての面ではなく、思想的立場の表明の面での期待です。たといそのために私の文学者としての芸術性が台無しになろうとも、いくつかの思想をはっきり表明してしまいたい気がするのです。頭の中にも、心の中にも積もり積もったものがあって、それが私を引っ張り出すのです。論争的なパンフレットになろうとかまいません。とにかく私は自分の考えを言います。成功してくれればと願っています。

発端 1869年の晩秋、ドストエフスキーは旅先のドイツのドレスデンで、ロシアの新聞のこんな記事を読んで衝撃を受けた。

事件ニュース
農業大学内で死体発見 犯罪か

「昨年、11月25日、ペトローフスキイ農業大学内の庭園のはずれを通りかかった二人の農民が、築山横の休息所の入り口近くに、帽子や防寒頭布、棍棒などが散乱しているのを発見した。休憩所から池の端までまっすぐに血痕が続いており、氷結した池の中に、黒いベルトを締め、防寒頭布をかぶった姿で死体が見えた。同じ場所には紐で結ばれた二つの煉瓦と、紐の切れはしも発見された。」1869年11月27日付け「モスクワ報知」

事件ニュース
農業大学殺人事件の被害者身元判明 同大の学生

『悪霊』の元となった殺人事件は、1869年11月21日に起きた。「モスクワ報知」は、この事件に注目して11月29日に続報を掲載した。以下の記事。ペトローフスキイ農業大学内で殺されていた「被害者の身元が判明した。被害者は、ペトローフスキイ農業大学生イワン・イワーノヴィチ・イワーノフである。被害者の金や時計などに手が付けられておらず、散乱していた帽子、頭布はイワーノフの所有物ではないことが判明。死体の両足は頭布で縛られていたがこの頭布は彼が大学のの友人から借り得た物だという。首はマフラーでぐるぐる巻きにされ、端には煉瓦が結びつけられていた。額には、鋭利な刃物によると思われる損傷がある。」

事件ニュース
主犯、革命家のネチャーエフ(22)容疑者 逃亡

事件から一月たった12月25日、当局は農業大学生殺人事件の首謀者名を発表した。それによると犯人は革命グループ複数で、主犯格はS・G・ネチャーエフ(1847-1882)。事件後ドイツに逃亡、1月にはジュネーブ到着。

ピョートルのモデルになったネチャーエフとは何者か。
ネチャーエフは1847年に生まれる。父親はある時はペンキ屋、またあるときはカフェのボーイ、つまり職が定まらなかった。ネチャーエフは14歳の頃から工場で働きはじめる。1866年、ペテルブルグにでて教員試験にパス。アンドレーエフ学校の教師となる。1868年にはペテルブルグ大学の聴講生となって急進的学生サークルと知り合う。1869年の学生運動では活動家として活躍する。その後、スイスに脱出する。(ドストエフスキーとアンナは前年5月にジュネーヴから帰国している)ここでバクーニンやオガリョーフと会見、亡命者たちは若い革命家のエネルギーと情熱に魅了される。バクーニンはネチャーエフをとおしててロシア内部に彼の理想を実現してくれる革命組織を作ることを夢見た。「本状を携行せし者は、全世界革命連合ロシア支部の代表者の一人である。1869年5月15日 ミハイル・バクーニン」これがネチャーエフが得た信任状である。(井桁貞義著『ドストエフスキイ』清水書院から)



ドキュメント「悪霊」発表の頃


1869年(48歳)2月~3月、プーシキン封の作品に挑戦するも断念。7月フローレンス出立。ヴェニス4日、プラハ3日逗留で8月ドレスデンに帰る。9月14日、次女リュポーフィ(エーメ)誕生。11月21日、ネチャーエフ事件、つよい関心を抱く。12月、旧友ドゥロフ死去。『偉大な罪人の生涯』を構想、べつに『悪霊』のノートをとり始める。1870年(49歳)1月~2月『永遠の夫』を『黎明』誌に発表。『悪霊』起稿。7月普仏戦争。10月『ロシア報知』編集部に『悪霊』送付。 ―――――――1871年(50歳)1月『悪霊』を『ロシア報知』に連載開始。7月1日、ネチャーエフ事件の審理開始 ドストエフスキー本事件の最も重要な政治文書『革命家問答教示所』を特にあらゆる角度から研究。公表分のデーターとあわせて『悪霊』第2編、第3編に利用。8月ペテルブルグに帰還 16日 長男フョードル誕生 11月 『悪霊』第2編完結(1月、2月、4月、7月、9月、10月、11月号に掲載)以後約1年にわたり発表中絶、殺害現場を実地検証 12月末~翌年1872年1月モスクワ滞在ペトロフスコ・ラズーモツスコエへおもむき、イヴァーノフ(シャートフ)殺害現場を実施検証




読書会プレイバック
 1975年12月読書会

『悪霊』と『死霊』   野田吉之助

 ドストエーフスキイは『悪霊』のなかで、キリーロフに〈地球と人類の物理的変化〉ということを語らせている。キリーロフの理論によれば、もしこの世界に神が存在しないとすれば、人間が神になる必要があり、その時人間は肉体的にも精神的にも変化し、また世界も事物もすべて変化してしまう、というのである。
 埴谷雄高の『死霊』は、作者の哲学的観念を盛った小説といえるが、そのなかで、黒川健吉(作者の分身のようだ)が右のキリーロフの思想をうけついでいるように思われる。もちろん黒川にはキリーロフを悩ましたような神の有無の問題はない。神にかわって存在の問題が前面にでてくる。黒川の思想を要約すればこうである。われわれの世界は自同律から成り立っており、すべての存在は〈自同律の不快〉に呻吟している。この不快感を解消するには、いまある存在形式を変革しなければならない。その変革は何によって可能か。人間の意識から創出された〈虚体〉をこの存在につけ加えることによって―― 。
 〈地球と人類の物理的変化〉を目指す点において、黒川健吉はまさにキリーロフの嫡子といえよう。そのキリーロフはドストエーフスキイによって悪霊に憑かれた者のひとりとして自殺する運命を背負わされる。キリーロフの嫡子である黒川健吉もドストエーフスキイの眼から見れば、同じ悪霊に憑かれた者と映るだろう。一方、埴谷雄高は、ドストエーフスキイの信仰〈存在論〉以前の精神構造と称し、彼の最大の弱点と見放している。ドストエーフスキイも埴谷雄高も〈窮極の問い〉を問うことから出発しながら、前者は信仰に、後者は、ニヒリズムに到達するが、これを逆に、答えられない〈窮極の問〉が存在することこそ神の恩恵といえないか。 (「ドストエーフスキイの会会報No.39」1976.1.30)



10・15読書会報告
 

『永遠の夫』、参加者は21名

猛暑の後は台風、また台風の夏。やっと気持ち和む秋がきたと思ったら、こんどは梅雨空の秋。ほんとうに小さい秋となった。が、参加者はお天気にも季節にも左右されることないのが読書会である。『永遠の夫』にもかかわらず21名と、いつも通りだった。
負け犬の中の負け犬小説 『未成年』との比較
ドストエフスキーの作品群のなかで、どちらかといえば敬遠される小説だが、近藤靖宏さんが報告を買ってでた。「負け犬の中の負け犬」小説と評しながらも、自身がモチーフとする作品『未成年』との比較を指摘された。小山さんの軽快な司会進行のもと以下の5項目にそって報告された。なんともネクラな話だが、笑いが多かったのが救い。
1.『永遠の夫』というよりもドの作品に登場する人物「負け犬の中の負け犬」
2.登場人物が自分自身を発見する。トルソーツキイは復讐する必要なかった。
3.喜劇の中にある悲劇 リーザさえいなければ笑って済ませられる物語である。
4.罪の意識から逃れたい ヴェニチャーニノフはリーザによって贖罪のチャンスを得た。
5.知る者だけが持つ選択肢 リーザは肝心なことを語らないまま死んでいった。



「ドストエーフスキイの会」情報


ドストエーフスキイの会の第236回例会は、11月19日(土)午後1時から5時まで千駄ヶ谷区民会館第一会議室で開催されました。
報告者 : 熊谷のぶよし 氏
題 名 : ラスコーリニコフの深き欲望

第237回例会は
2017年1月28日(土)千駄ヶ谷区民会館 午後1時~5時まで
報告者予定 大木貞幸氏




ドストエフスキイ研究会便り(4)のお知らせ
 〈主催・芦川進一〉
  
パウロに焦点を絞り

 新しい「研究会便り(4)」が12月末に完成します。7月の「研究会便り(2)」のフョードル論に続いて、10月の「研究会便り(3)」からは、三回の予定で、カラマーゾフの兄弟』冒頭に挙げられた、ヨハネ伝の「一粒の麦」の死の譬えと取り組んでいます。この譬えから浮かび上がって来るのは、イエスの十字架上の死と復活の問題と、もう一つ、師イエスを裏切り十字架に追いやった弟子たちは、如何にその罪意識を清算されたのかという問題です。前者がキリスト論、後者がユダ的人間論の問題で、これら二つがキリスト教生成の核となったと考えられます。「研究会便り」では、(3)から(5)の三回にわたり、後者のユダ的人間論に的を絞って考察しているのですが、今回の「研究会便り(4)」においては、考察の対象を(3)におけるヨハネ福音書から更に、各福音書と使徒行伝へ、そして諸書簡へと拡げ、殊に新約思想の中心人物であるパウロに焦点を絞り、彼の「十字架」と「罪」に関する思索を扱っています。最終回は(来春1月末の予定)、これら二回を踏まえ、改めて「ユダ」としてのイワンについて考える予定です。
 ドストエフスキイと聖書との関係に関心を持たれる方、また将来ドストエフスキイと出会う日本の若者たちが、ドストエフスキイ文学とキリスト教との関係について、また洗礼者ヨハネやイエスやパウロとの関係について、正面から考察するための「叩き台」となるよう、誤魔化しのない考察を残しておきたいと思っています。「研究会便り」へのアクセスが厄介だと言われます。ご迷惑をおかけして恐縮です。改めて以下に紹介させて頂きます。
1.まず「河合文化教育研究所」のHPに入り、
2.その「新着のお知らせ」を開け、
3.「ドストエフスキイ研究会便り(4)」をクリックする。
以上が一番早いと思われますが、検索回数が増えると、「ドストエフスキイ研究会便り4」のみで検索しても、 一気にアクセス出来るようになるかと思います。

【ドストエフスキイ研究会について】
 日本の若者がドストエフスキイ世界に親しみ、そこから原理的な思索を試みることは今では殆ど皆無となりました。しかし現実を嘆くよりも、新しいドストエフスキイの時代を準備すべく、当研究会はドストエフスキイのテキストにひたすら向かい、彼が土台としたキリスト教を理解するために聖書テキストも並行して読み進めています。1987年の開始以来、河合塾出身の若者1000人以上が、それぞれの感受性でドストエフスキイと聖書世界を受けとめ、社会に旅立ちました。将来はこの延長線上に、ドストエフスキイ理解を広く人間と世界と歴史の理解へと繋げる学問の場として、単科的な「塾大学」の立ち上げも視野に入れています。 研究成果としては、単行本で『隕ちた「苦艾」の星─ドストエフスキイと福澤諭吉─』(1997)、『「罪と罰」における復活─ドストエフスキイと聖書─』(2007)を河合文化教育研究所から、『ゴルゴタへの道─ドストエフスキイと十人の日本人─』(2011)を新教出版社から刊行し、今年は『カラマーゾフの兄弟論』を河合文化教育研究所から発行しました。(芦川)



ドストエフスキー文献情報

2016・11/29  提供=ド翁文庫 佐藤徹夫さん

〈図書〉

『夏目漱石とドストエフスキイ 近代化と伝統』久山康著 国際日本研究所 平成2(1990)、6.24 ¥1200 185p 18.3㎝ 内容:第一部 夏目漱石;第二部 ドストエフスキー ※秋口に関西方面の古本祭りのカタログに発見。発刊年から26年が経っているが、初めてのものであり、発行所から考えると稀覯本と思われる。価格も1頁40円程になる。

『ロシア藝術学の構造と視座――ドストエフスキイ、チェホフそしてエイゼンシュテイン――』山田幸平著 晃洋書房 2013.8.10 ¥3600 256p 21.6㎝ 内容:序論―ロシア藝術学の課題;第一章 ドストエフスキイの近代概念;;第二章 ロシア芸術における民族性;第三章 劇的なるものの形成;第四章 映像への視座;あとがき ※山田幸平・近藤耕人著『ドストエフスキイとセザンヌ 詩学の共生』晃洋書房 2014.8.30 ¥2800 あり

『井筒俊彦全集 第三巻 ロシア的人間』慶應義塾大学出版会 2014.1.20 ¥6800 7+575+20㎝ 19.5㎝ 内容:露西亜文学 p3-176;ロシア的人間――近代露西亜文学史 p265-546(十三章 ドストエフスキー p505-536)※『ロシア的人間』・初版:弘文堂 昭.28.2.20 ¥290;新版:北洋社 1978.10.16 ¥1200 〈北洋選書〉;文庫版:中央公論社 1989.1.10 ¥490〈中公文庫12.25.1〉

『渡辺京二』三浦小太郎著 言視舎 2016.3.20 ¥3800 394p 19.4㎝ 〈言視舎 評伝選〉内容:渡辺京二 p17-384(第七章『ドストエフスキイの政治思想』p119-134)

『「100分de 名著」コレクション』NHK「100分de名著」制作班編 文藝春 2016.11.10 ¥1200 199p 18.8㎝ 内容:16 『罪と罰』ドストエフスキー著 p96-101(解説:引用:番組から:こぼれ話(N))※放送は2013年12月

『『罪と罰』をどう読むか 〈ドストエフスキー読書会〉』川崎浹・小野民樹・中村邦生著 水声社 2016.11.15 ¥2500 251p 19.5㎝ 巻末:主要登場人物;邦訳一覧;ロシア語原文(タイトル)。内容:Ⅰ 『罪と罰』への道;Ⅱ 老婆殺害;Ⅲ 殺人の思想;Ⅳ スヴィドリガイロフ、ソーニャ、ドウーニャ;Ⅴ センナヤ広場;Ⅵ 「エピローグの問題 ※更に2件程「世界文学入門・入門」の類のものがあるが取り上げないことにした。

〈逐次刊行物〉

鼎談 ドストエフスキーとテロの文学――『カラマーゾフの兄弟』を読みなおす/亀山郁夫+東浩紀+上田洋子「ゲンロン genron」1(2015.12.1)p178-198 ※小特集:テロの時代の芸術 ¥2300 ※今回発見した「ゲンロン友の会」の雑誌

名場面からたどる『罪と罰』原作Ф.Мドストエフスキー 訳・解説 望月哲男「NHKラジオ毎日ロシア語」54(7-9)(2016.10~12月号)・第7回 決行 54(7)(2016.10月号)p117-125 8回 2人目の犠牲者 54(8)(2016.11月号)p121-129 9回 警察にて 54(9)(2016.12月号)p123~131



評論・連載
      
「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第68 回)堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』の『白夜』    

福井勝也
            
 そろそろドストエフスキー生誕200年のメモリアル年(2021)が射程に入って来たと言ったら、気がいささか早すぎると言われるだろうか?前年の2020年夏には東京オリンピックが開催されるが、こちらの方はすでに話題沸騰で4年後のこととはすでに感じられない程だ。しかし果たしてその頃世界が如何様な事態を迎えているか、次期米国大統領に選出されたまさかのトランプ旋風が世界を吹き荒れている昨今、4.5年後のことなど皆目見当がつかない。それでも、折角ここまでお付き合い頂いたドストエフスキーのメモリアル年をできれば平和裏に言祝ぎたいものだと思う。
 さて、今日は丁度11月11日で、ドストエフスキー195歳の誕生日(露歴10月30日)に当たる。この記念日にドストエフスキーについて書こうというわけだが、主題は標題にも掲げた、堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』(1968)の『白夜』についてということになる。前回も若干触れたが、この作品にはその第一部のエピグラフに、『白夜』冒頭の5.6行(米川正夫訳)が置かれている。この「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた。・・・」に始まる文章に、堀田は深い拘りと愛着を覚えていたようで、少年時には「この書き出しをしまいには暗誦してしまい、それを自分で英語に直し、この米川訳と自己流に英語に直したものとの双方を、折に触れてすらすらと口にすることが出来た。」と数年後に語っている。そこでは更に、米川訳その後の改訳文「素晴らしい夜であった。それは、親愛なる読者諸君よ、我らが若き日にのみあり得るような夜だったのである。・・・」(河出版全集1951、新版も同様)まで引用して、両者を併置しながら「テクスト・クリティク」を試みている。そこでは、エピグラフ引用文の方がよりこなれた、洗練されたものだと改めて言明しているくらいだ。
 実は、この堀田の「『白夜』について」という短文は河出書房新社刊行の『文芸読本 ドストエーフスキイ』(1976.1)に再録されたものだが、原文は1970年8月に発表されたことがその奥付から分かる。この1970年は、『若き日の詩人たちの肖像』(1968)刊行の2年後にあたっている。おそらくこの「エッセイ」は、堀田の「ビルディングスロマン(そのパロディ)」とも読める『若き日の詩人たちの肖像』(自伝小説)を意識して書かれたはずだ。堀田は、1936年18歳で富山から慶応大予科受験の準備で上京する。その日に2.26事件に遭遇する偶然の運命からこの小説は始まり、卒業後の就職(国際文化振興会)の翌々年(伝記では1944年)郷里に招集令状が届いて、富山に向かう時期までが描かれる。この東京での「若き日の詩人たち」との交遊記は、戦争へ向かう戦前の日本滅亡期と重なり、徴兵までの猶予期間における文学的政治的青春の伝記的事実がベースになっている。前回も少し触れたが、ここには堀田と交遊のあった「若き詩人たち」が仮名で何人も登場してくる。集英社文庫版(1977)の篠田一士の解説(「自伝小説」という呼称も篠田による)によれば、例えば「白柳君」が白井浩司、「浜町鮫町君」が村次郎、「赤鬼君」が加藤道夫、「澄江君」が芥川比呂志、「良き調和の翳」が鮎川信夫、「冬の皇帝」が田村隆一、「ルナ」が中桐雅夫、「富士君」が中村真一郎、「ドクトル」が加藤周一といったところが明らかにされている。さらに「ランボオとドストエフスキーは同じですね。ランボオは出て行き、ドストエフスキーは入って来る。同じですね」(p.83、p.100)と若者(堀田)が煙に巻くようなことを語りかける「成宗の先生」が、小説家、詩人の堀辰雄であることが分かる。その他にも仮名・実名で登場する文学者達が、主人公の眼を通して係わってくる。そこには、堀田の同時代者への批判意識がフィクショナルな人物造形にもなっている場合がある。ドストエフスキー絡みで、当方が気になったのは、度々登場するドストエフスキーに耽溺し、大審問官論の話に熱心な「アリョーシャ」という作家志望の文学青年であった。実は色々調べてみたが、どうもこの男には特定のモデルが見当たらない。言わば、時代の空気を象徴化した虚構の人物らしい。彼については、作品の上・下巻を通じ比較的最後の方までその登場が繰り返される。この点では、この時代のドストエフスキー文学受容に対する堀田の拘りが伺える。例えば小説下巻の第四部第二章、周囲の「詩人たち」が順に招集徴兵され、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」という言葉が囁かれ始めた頃、こんな風に「アリョーシャ」が出現する。
 アリョーシャだけが即日帰郷で帰って来たが、この彼は、カンナガラノミチということをしきりに言い、どういう字を書くのだ、と男(主人公の堀田、注)が問うと、「惟道の道」と書いてくれた。ドストエフスキーから太宰を経て惟道の道にいたるまでに、三年とはかかっていなかった。アリョーシャは男の部屋で話していて、突然正座して膝に手を置き、眼と額をぎらぎらと輝かして、「だからキリストがだな、キリストが天皇陛下なんだ。つまり天皇陛下がキリストをも含んでいるんだ。キリストの全論理の、その上に、おわしましますんだ」と言った。それまでは、アリョーシャの文学的全関心の──これだけは知り合ってからの六年間、決して変わらなかった──集中しているドストエフスキーの大審問官論の話を、相も変わらずにしていたのであったが、彼はその結論に達したわけであった。それは、男(上記注と以下同じ)にもわからぬことはない話である。けれども、男には何かさびしい気がした。反論すれば、男を殺さんばかりに怒り出すにきまっていたし、それはなんともいえず、徹底的にさびしいようなことである。男が黙っていると、アリョーシャはふたたび膝を崩して、「おれ結婚した」と言った。「そうか」と男が答えた。(集英社文庫下巻、p305-306)
 もう一個所、同じ第四部第四章の終盤近く、男(主人公の堀田、注)にもいよいよ招集令状が来る。その郷里からの電報が届く直前にも「アリョーシャ」が登場する。阿佐ヶ谷の家に帰りつくと、お婆さん(男の実母の妹、自由民権の気骨を持つ女性で作品の主要人物の一人、注)は、「なーもなかったぞいね」と言い、「あンひとがおいでになって、これ‥‥」とつづけて茶箪笥から封筒をとり出した。あンひとというのは、アリョーシャのことであった。封筒には神楽坂相馬屋の原稿用紙が入っていて、それには、いよいよ官費大旅行に行くことになりました。期再会。とだけしるしてあった。官費大旅行とは、要するに招集が来たということであって、これには男も少々おどろかされた。というのは、近頃のアリョーシャは、日本の神ががりがいよいよ昂じて来て本当に狂的な国学信奉者となり、彼の先生である太宰治にさえも相手にしてもらえなくなっていたのである。アッツ島玉砕のときに、彼の若い妻が、「いやねぇ‥‥」と言ったというので、彼女の顔かたちが変わってしまうほどに殴りつけたりしていた。アッツ島の軍神たちを妻が侮辱した、というのである。そのアリョーシャが、官費大旅行と書くとは、それは本当に意外なことであった。いよいよ、となって何かの心境の変化が起きたのか、と思ってみたが、官費大旅行とは、どうにもあまりに散文的で見当をつけることも出来にくい。(集英社文庫下巻、p386-387)
 この後直ぐに、男に招集令状が来たことを知らせる電報が届いて作品は閉じられてゆく。その決定的な場面終了を象徴するように、エピグラフや小説の要所で思い出したように何度か引用された『白夜』冒頭文章への別離が告げられる。ここに至って、作品においてドストエフスキーの『白夜』が持った意味が重い余韻を伴って響いて来る。そしてその幕引き役を「アリョーシャ」が務めている意味は何のか、気になる。この終わりかけた作品の数頁をもう少し丁寧に読む必要もありそうだ。

 夕食は中途にして、男は返電をうちに郵便局へ行くことにした。デ ンミタ」アスカヘル、とうちかえし <‥‥> 。新宿の詩人たちのうちの残りの人々にも、新橋サロンの詩人たちにも、なにも言わないことにした。近頃では詩人たちはみな、黙って征くことに、暗黙のうちに、なっていたからである。アリョーシャのそれは、むしろ珍しい例であった。郵便局からの帰りに空を仰いでみると、冬近い空にはお星様ががらがらに輝いていたが、そういう星空を見るといつも思い出す、二十七歳のときのドストエフスキーの文章のことも、別段に感動を誘うということもなかった。なにもかもが、むしろひどく事務的なことに思われる。要するにおれは、あの夢のなかへ、二羽の鶴と牡丹の花と銀襖の夢のなかへ死んで行けばいいというわけだ、と思う。帰りに、せめてマドンナの家を外から眺めて、と思い立って行ってみたが、彼女はまだ戻っていなかった。それでいい‥‥。(集英社文庫下巻、p389、下線は筆者)

 引用が多くなっているうちに今回の紙面も残り少なくなってきた。ここで、引用の「『白夜』について」に戻ってみたい。この終わりの方で堀田は、幾つかの感想を述べている。その一つが「ドストエーフスキイについては、後期の巨大な作品のみを云々する人々を私は好まない。それはいわばおのれの思想解明能力を誇示するかに、ときに私に見えて来て、そういう「幸福」さが「やり切れなく」なって来るのだ。」と語っている。ここからは問題の、いつの間にか「愛国者」に変貌した大審問官論に熱心な「アリョーシャ」のことが容易に連想される。このアリョーシャ像に、堀田が込めたこの時代への批判意識を読み取ることもできるだろう。しかし堀田は、そのことのみを安易に指摘しようとしていないと感じる。むしろそのことの方が大切だと思う。つまりこの作品で堀田がドストエフスキーを引用する時、その独自の読みを一人の読者として語ろうとしているのが分かる。それは、時代に迎合した思想や哲学の潮流に乗っかった議論を排して、一読者としての個人の読みに徹するということの大切さなのだろう。この問題は、前号の「読書会通信」でも紹介された木下豊房氏の新著『ドストエフスキ-の作家像』(鳥影社)の変遷にも関係する議論だろう。『若き日の詩人たちの肖像』(1968)を書いたこの頃、堀田はすでに自らの「作家像」について言及していたことになる。例えば本文中、問題の「アリョーシャ」に言及してこんなことをはっきりと明言している個所がある。「カラマーゾフの兄弟中のアリョーシャではない、若者の友達の一人のアリョーシャにとって『悪霊』は、数あるド氏の作品のなかでも、その深刻さにおいて、深刻最高度ということになってい、それはそうに違いもなかったが、ド氏にあってはその深刻度最高、思想的にも深度最高最深の場面が、読んでいてまことに爆笑を誘うほどのユーモアをともなって描かれていた」(同文庫下巻、p.102)。この後にその場面の解説があるが、スペースの関係もあり、興味のある方は是非ご自分で確認してもらいたい。ここでは堀田が、独断的な奇矯な読みを語っていないことだけは付言しておく。
 堀田は、戦前の日本が滅亡に向かい、自分たちの生存が瀬戸際を迎える時代に「若き日の詩人たち」の苦悩と挫折を自らのものとして、この自伝小説を書きあげた。堀田はこの「エッセイ」のなかでも、東京の街を徘徊しながら青春を過ごした自分を『白夜』の主人公に重ねながら「この仕合わせな「空想家」は、やがてペトラシェフスキイ事件を経て、『地下生活者』となって逆転し、ラスコーリニコフにまで到るのである」と書き残した。
 堀田にとって『若き日の詩人たちの肖像』における『白夜』とは、ドストエフスキーがその後に辿った人生行路(「革命」体験と流刑、その後の文学的再生)の前夜的青春時代そのものとしてあったようだ。それは甘美なロマネスクとはほど遠い内実であった。つまりは、それ自体が大戦を挟んでの日本近代が辿った過酷な歴史的現実でもあったからだろう。実は、ドストエフスキーの『白夜』にも同じような背景があったように思えてきた。だからこそあの哀切な感覚が堀田を深く捉えたのだと思った。(2016.11.11)
  


悪霊こぼれ話(編集室)

富田常雄とドストエフスキー

 近頃では、富田常雄(1904-1967)と聞いても、知らない人が多いと思う。戦前・戦中・戦後の大流行作家で国民的作家、戦後最初の直木賞作家といっても、知る人ぞのみ知るである。しかし、あの柔道小説『姿三四郎』の作者、黒沢明監督がデビュー作にした『姿三四郎』続・『姿三四郎』の原作者といえば、「ああ、三四郎の」(夏目漱石の『三四郎』と間違う人もいるが)と少しはわかる人もいる。もっとも作品を読んだ人は稀に違いない。知られているけど読まれていない。皮肉だが、そのへんがドストエフスキーとの共通項か…。
 ところが最近、この作家の代表作『姿三四郎』は、真に美しい人間を描いた『白痴』を目指して書いた作品、そう思うようになった。つまりこの作家もドストエフスキー作家だった、という思いである。よしだまさし著『姿三四郎と富田常雄』(本の雑誌社)みていたらこんな証言があった。(『大衆文学代表作全集富田常雄集』河出書房 解説・松沢光平)

 兄弟ともに黒帯(有段者のこと)であったが他所目には柔道が好きとは見えなかった。しかし家業であるから道場の門弟には稽古をつけなければならず、時間表をつくって交互に道場に出た。二階のアトリエ兼寝室、といっても長く五畳を敷き詰めた小部屋から絵筆を捨てて兄の長弘があまり愉快でなさそうに稽古をつけに道場に消えてから30分も経つと、こんどは階下の三畳の書斎兼寝室の上に、ドストエフスキーの『悪霊』をふせて、弟の常雄が憂うつそうに額の髪の毛をかきあげて道場へ歩いた。(『姿三四郎と富田常雄』 p51)



架空文豪秘話
 (編集室)

当時の電話機の普及率は全国で1万機設置との調査結果がある。

深夜の報告(後)

 明治40年三月のある夜のことである。彼は、さんざん迷った末、意を決して上司である、あの人に電話した。それが筋でもあるし道理でもある。たとえ文学は無縁でもハーンや中国留学生(魯迅)を理解したというところに安心感もあった。
「教師を辞めようと思います」
彼は、いきなり言った。
「そうですか…」あの人は、たいして驚いたふうでもなく、一瞬言葉を切ってから聞いた。
「日光のことを気にしているのかね」
授業中、自分が叱ったあの学生(投身自殺)の件で自分のことを心配されていたのだろうか。そうならありがたかったが、いまはそのことは避けたかった。
「いえ、違います。自分の進路のことです」彼は、少し早口で一気に言った。
「しんろ…進路ですか」あの人は、あくまで落ち着いた声だ。
「文士になろうと思うのです」彼は思い切って言った。これまでの人生を断ち切るように力強く宣言した。
「文士?!」
一瞬沈黙があった。だれにきいても思うだろう。すぐそこに東京大学の教授、日本の教育者そんな栄光が名誉ある地位が約束されているのに、それらを棒にふって一介の物書きに、やくざな文士に身を落とそうというのだ。
 あの人は常々、「青年修養訓」などでいまの日本人に教育がいかに大切で重要かを説いている。悪霊に乗り移られた日本人を救うには教育の力、と訴えている。旅順開城、奉天占拠、日本海海戦、南満州鉄道開設と快進撃だが、それは悪霊がなせる技、あの人が説く自他共栄理念から程遠いものがある。いまこそ教育が必要。が、自分はその教育現場から離脱するのだ。あの人にとっては、到底、受け入れられるものではないだろう。
「なにをたわけたことを!」
こんな一喝が返ってくるかと思った。
 しかし、受話器の向こうのあの人は、あくまで穏やかだった。
「そうか、それはよかった。自分の信じる道を進むのが一番です」あっさり言って、こうも言われた。「私にも、夢があった」
「え、先生にも夢が、ですか」
彼は、驚いた。およそあの人から、そんな言葉が返ってくるとは思わなかった。あの人は日本古来の武道に取り組み、その神髄を復活させようとしている。その傍ら西洋スポーツを取り入れ、これも大いに普及させようとしている。そんな人にどんな夢があったというのか。
「天文学者になりたかったんですよ、私は」あの人は、言った。
「てんもん、といいますと、あの夜空の」彼は、おそるおそる聞いた。
「そうだ、星が好きだった。しかし、人の道は思わぬことで違ってくる」あの人は、軽く笑って、力強い声で言った。「そうと決まれば、文士の道を極めなさい。私も、柔術を極め世界に広めたい。きみも頑張れ」
「はい、ありがとうございます。私も挑戦します」彼は、晴れ晴れとした気持ちで受話器を
置いた。報告してよかったと思った。



掲示板


坂根武著・改訂版『わが魂の「罪と罰」読書ノート』2016.12.1
本書は、先ごろ、姫路の文化賞「黒川録朗賞を受賞されました。
おめでとうございます!!



編集室
            

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