ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.143  発行:2014.4.15



第262回読書会のお知らせ

月 日 : 2014年4月26日(土)

場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)

開 場 : 午後1時30分 

開 始 : 午後2時00分 〜 4時45分

作 品 :『地下生活者の手記』米川正夫訳3巻(河出書房新社) 他も可

報告者 : 近藤 靖宏 氏     

会  費 : 1000円(学生500円)

二次会はJR池袋駅西口付近の居酒屋 
       

6月読書会は、東京芸術劇場の第7会議室です。報告者、國枝幹生・及川環
開催日 :  2014年6月28日(土) 午後2時〜4時45分迄です。




大阪「読書会」案内 4・26

ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪読書会の第22回例会は、以下の通りです。
日時:4月26日(土)14:00〜16:00、
場所:会場:まちライブラリー大阪府立大学 参加費無料 
作品:『死の家の記録』第二部
URL: http://www.bunkasozo.com 




4・26読書会

『地下生活者の手記』第1回

報告者・近藤靖宏

 
 この作品の随所にチェルヌイシェーフスキーの『何をなすべきか』のパロディが散りばめられていることを実際に読んで確認するという試みを報告する予定です。
 1回目ですので特に変わったことはせず、まずはオーソドックスにアプローチしましょうというスタンスです。

報告を前に


 『読書会通信』をお読みの皆様、お久しぶりです。最近はドストエフスキーから離れてチェーホフの戯曲を読んだりしていましたが、もうじきあの『地下室の手記』をやると聞き是非読書会に参加したくなりました。私は大学生の時にこの作品に出会って以来、何度も読んできました。心底ドストエフスキーが好きな皆様にとってこの作品の面白さはもはや説明不要に違いありませんので私がこれ以上語る必要はないのかもしれませんが、是非語りたいことがあって敢えて報告者を引き受けることにしました。
 
 この作品の主人公は病的なほどに自意識過剰な人物として特徴付けられますが、今回はその話は程々にします。自意識の問題についてはバフチンの『詩学』に詳しく解説してありますし、私にとっては既に『ドストエフスキー広場No.21』に『未成年』に関する論文を投稿したときに考えに考え、考えあぐねた問題だからです。
 
 文庫本の巻末にある解説などを読んだ方は、この作品の主人公が同時代に書かれたチェルヌィシェーフスキイの『何をなすべきか』の主題に批判的であるばかりでなく、作品全体が『何をなすべきか』のパロディになっているということをご承知のことでしょう。しかし主人公の批判が当たっているのかは実際に『何をなすべきか』を読んでみないと分かりませんし、パロディというものはその元になっているものを知らないと笑うことはできません。つまり、真面目に読むにも面白おかしく読むにも『何をなすべきか』は避けて通れません。
 
 私は、ドストエフスキーの作品はもっと面白おかしく読むべきだと思っています。ドストエフスキーは作品のところどころに読者を笑わせるための仕掛けを盛り込んでいるのであり、読者がそこで笑えないとするならばその読者は作品が読めていないということになるからです。そこで今回の報告は「パロディとしての『地下室の手記』」と題し、小説『何をなすべきか』の概要を示したうえで、それが『地下室の手記』といかに接点があるかということをお話するつもりです。
 
 例えば『何をなすべきか』には「新しい人たちについての物語から」という副題が付いているのに対して、『地下室の手記』の冒頭でドストエフスキー自身が「私はつい最近の時代に特徴的であったタイプのひとつを、公衆の面前に引き出してみたかった。」と言っているあたりはまるで作品の意図が『何をなすべきか』に対する当てつけである、と言っているかのようです。また『地下室の手記』の主人公が将校との喧嘩の一環としてすれ違った時に道を譲るまいとするシーンは、チェルヌイシェーフスキイが彼の言う新しい人たちの性格についてあまり良いとは思えない例をあげて説明しているのを見てそれをからかっているものであると読むことができます。
 
 『何をなすべきか』は小説のための小説というよりは、例えばルソーの『エミール』のように作者が便宜的に小説の形をとって読者に何らかのメッセージを送ることを意図して書かれた作品です。したがって、これ自体はそれ程面白くないかもしれません。ただし、これを読むことは『地下室の手記』だけでなく『悪霊』を読むためにも役立ちます。「皆様も『何をなすべきか』を是非読んでください。」これが今回の報告における私の主張です。   




<資 料>

1864年3月26日 兄ミハイルへの手紙
           
  
 「ぼくの作品についても苦情をいいます。恐ろしい誤植だし、それにあんなふうな載せ方をするくらいなら、つまり文章をねじまげたり、自家撞着に陥るような形で発表するより、最後の一つ前の章(作品の根本思想が漂泊される最も重要な章)は、いっそ載せないほうがましです。検閲の連中は豚同然で、ぼくがみせかけのためにありとあらゆるものを嘲笑して、ときどき?神の言を吐いているのに、そんなところは通過さして、そうした言葉の中から信仰とキリスト教の必要を結論している個所は、禁止とくるのですね。」
 これは『地下生活者』を理解する上に、きわめて重要な文献である。

『世紀』発行の広告文 1864年1月末

 …我々は、土壌について、教養社会を純粋に民衆的な自然な利益と結合させることについて、すでにあまりにも長時間にわたって語ってきた。それは、今もう一度、我々の新しい雑誌の方向を明確にせんがためであった。近時1812年(ナポレオンがロシアで敗退した)以降の数々の大いなる事件は、教養社会と地方自治会との結合の最初の徴候なのであった。ということは、双方の側が互いに理解しはじめたということであり、双方が、我々が常に望み、わが政府もまたそれを目指して努力してきたとのこと、明瞭なる模範的実例となってきた、ということである。やがて、あらゆる真のロシア人の目ざす方向が、一切のくどくどしい説明も、一切の誤解もなく、白日のごとく明らかになる時が来るであろう。
(ドストエフスキー『世紀』発行の広告文 訳中村健之介)





ドストエフスキー『地下室の手記』
 (江川卓 訳 新潮文庫 1969)
(典拠:第29回医学図書館サービス研究大会 2012年8月知的書評合戦 ビブリオバトル in MIS )

紹介者:下原 康子 


 私が紹介するのは、ドストエフスキー42歳のときの作品『地下室の手記』です。私はこの本をロシア文学なんて重くて暗くてむずかしいという イメージをお持ちの方、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を読み切ることができなかったという方におすすめしたいのです。

 私ははたちのころ、この本と出会いました。30代、40代、50代、60代と何度も読み返しましたがそのたびに新鮮で面白く感じました。も し、最初に読んだのが大作の『カラマーゾフの兄弟』だったら、もしかしたら、挫折して、ドストエフスキーは私にとって縁のない作家になったか もしれません。

 主人公は19世紀ロシアのペテルブルグに住む40才の男です。20代まで役人をしていましたが、多少の遺産が入ったのきっかけに仕事を辞 め、地下室のような貸間に引きこもり、自分自身を相手に空想にふける、そういう生活を20年も続けています。

 全編、この男の独白で、もっぱら 自分のことばかりしゃべりまくっているのですが、この男がいかなる人物かとなると簡単ではありません。皮肉屋、逆説家、自意識過剰、御託屋、 うぬぼれ屋、小心者。人好きがしない男のくせに友だちにあこがれる空想家。一言でいえば、おつきあいは遠慮したい、そういう人物です。 

 しかしながら、私は似た人物に思い当りました。それが誰かといえば、「自分自身」なのでした。当時、はたちのうら若き乙女が、この40才の 引きこもり男を「私」と感じたのです。66才になった今読んでもやっぱり「私」と感じます。 

 この本のテーマをあえて一言でいえば、それは「自意識」です。
「自分自身と向き合う」、世間では簡単にそう言いますが、それが自分の意識を 覗き込むことだとしたら、健全な安全地帯から離れ、地下室の思想と無縁ではいられなくなるかもしれません。 

 私にとってドストエフスキーは、いつでも戻っていける、ときには閉じこもることができる仮想の地下室であったから、実際には引きこもらずに すんだのかもしれない、今振り返ってそういふうにも思えるのです。 

 インターネットになじんだ私たちは、この作品のスタイルがまさしくブログであることに気がつきます。今現在でも引きこもりの人たちが、自分 自身に向けて、見ず知らずの読者に向けて、また社会や世界に向けても、発信しているかもしれません。その中から新しい表現、新しい文学が生ま れることがあるかもしれません。 

 文字通り、『地下室の手記』で私はドストエフスキーにはまりました。その後、大作を読み進むうち、「地下室人」はドストエフスキーの人物の 「典型」であることが理解できるようになりました。 

 この本はドストエフスキー相性占いに最適の本と言えるでしょう。もし、ピンとこなかったら、努力して大作を読むのはつまらないと思います。 読書は恋愛と似ています。生涯つきあえる、そういう作家を選ぶのが一番です。読書の目的に人生の喜び以上のものはないのですから。





プレイバック読書会
 
1サイクル目の読み 1972年11月11日


『地下生活者の手記』

斉藤俊雄


 一回目の討論では、本書は人間にとって普遍的な問題を描いた小説で、地下室人は特殊ではないという意見と、それに反対するものとに大きく意見が分かれた。
前者の立場 第一部におけるチェルヌイシェフスキー批判とか、反合理主義とかは当時の現象、風俗に対する反応にすぎずここで描かれているのは人間心理の普遍性であり、人間は意識と云う病気を病んでいる。すなわち自己意識は原罪なのだということである。これは鋭く徹底的に分析されているが、あたりまえの人間だ。だから「地下室…」といういい方も感じとしては納得できない。
後者の立場  みんなそうだといういい方にがまんできない。自意識の問題を人間一般の問題に結びつけることはできない。自己意識を歴史の問題として、時代の社会的精神的状況との連関からとらえねばならない。あるいは ―― 地下室人は自分がこうなりたいと思ってもできない人間だからやっぱり特殊だ。といったぐあいである。
 
 また、本書が理解されるようになるまでの歴史 ―― 背徳的と批評史の上では批判されても、スースロヴァも理解しなかったこと、日本で問題にされるようになったのは昭和10年代になってからであること、を理解することの必要性も指摘された。もっとも、それだけで問題が片づかないとすれば、ドストエフスキー自身が『未成年』の創作ノートの中で地下室人について触れ、「私は、ロシア人の大多数である真実の人間をはじめて描き出し…」といっていることと、地下室人にとって「おれは一人で他はみんな」であることの関係を、先のように普遍か特殊かというように対立させるのではなく、もう少しちがった観点から考え直す必要があるようだ。

 二回目の討論では、前回には行く分軽視されていた第一部における文明批評の問題が『夏象冬記』などとの関係から復権され、またカントとの相互位置定位 ―― 「カントの自己意識は〈我〉の成立のための根拠、原理だが、ドストエーフスキイの自己意識においては、私は私に一致することはない」など ―― が試みられた。さらに対照的な作品である『死の家』と本書が、『罪と罰』など以降の作品ではどのような構造で入っているかなどが論じられたが、話が抽象的になりすぎたのではないかとして、作品そのものより具体的な検討が提案され、そこで ―― 二部の四人の男やリーザは一部で〈英雄にも虫にもなれない私〉に対置された〈自然と真理の人〉に当たる ― として一部と二部のつながり、照応関係が確認された。

 なお、リーザについては、受け身に立つことががまんできない地下室人に対して、相手が思ってくれるあるべき自分をそのまま出す、それは地下室人の敗北の姿を示していて、ドストエーフスキイ=地下室ではない。リーザは〈罪と罰〉のソーニャに発展するもので、その形象は当時ドストエーフスキイが唱えていた〈土壌主義〉と関連がある。リーザは地下室人に対して、ソーニャはラスコーリニコフに対してともに〈不幸な人〉ととらえるという点でも小林秀雄のいうように作者の視点となっている、などの意見が出された。しかし時間切れのために検討しつくすことはできず、○憎悪と復権に燃えているねずみ。○行為と意識の対象。○石の壁(自然の法則、数学)とそれに対して罪がある私。○歯痛(存在の痛み)理性と意欲…など主要なモチーフと作品内でのその構造、そしてそれを受けて一部の終わりおよび二部の終わりに繰り返して出てくる〈手記を書く、告白するとはどういうことか、自分が自分にむかって自分のことを語るとはどういうことか? アンチ・ヒーローとは? といった問題は提起されたにとどまった。




第28回例会『地下生活者の手記』をめぐるシンポジウム
                
地下室人とは何か

新谷敬三郎
 

 『地下室の手記』でドストエフスキイが提出している問題は、人間=私は、社会的存在として理性が貫徹する歴史の法則に服していなければならないが、同時に人間は自己関係的な存在として、窮極において自分自身とのみかかわる自己目的的な存在でもある。この関係は果たして二律背反的であるか。それをいかにして超えるか。これがこの作品ばかりでなく、ドストエフスキイの創作の一貫した課題であった。

 そして、地下室人とは、ヒーロー(絶対的な自我)にも虫(自然の法則、あるいは歴史の法則)にもなれない存在であることを自覚しているところの精神であり、それゆえに社会的存在であることを許されない(自他ともに)、ちゃんとした人間になれない、だから地下の人間なのである。むろん、彼は何とかしてちゃんとした人間になりたいと願う。が、ひとがならしてくれないのだと彼は叫ぶ。

 こうして彼は復讐と憎悪に燃える。何に対してかといえば、それは他人に対してなのだろうが、彼にあってはそれは外へ表現されることなく、すべて自分自身にむけられる。

 地下室人は、すでに言ったように社会的存在であることを絶望的に拒絶されているので、彼の情念も思惟も行為として表現されることがなく、意識の出来事として言葉と化するほかはない。彼は意義の機能、言葉そのものであって、その意識の永久運動のなかで世界も彼自身も一切が相対化されてしまう。

 こうした地下室人のすがたはリーザとの交渉にもっとよく現れている。彼はこの娼婦と寝ながら、暗闇のなかでお喋りをする。そのときローソクは燃えつきて真の闇になったと彼は書いている。この女こそ彼にとって、心から話しかけることのできる相手であったのだが、その相手にむかいあったときでも、相手は見えていないのである。したがって、彼のお喋りも見えない相手への呼びかけ、結局、自分の内なる相手への呼びかけとなり、自己演技と化しそのことを彼は意識する。

 それはこの手記そのものについてもいえる。彼にとっては、告白するとか、手記を書くとかいっても、それが誰にむかってそうするのかが見失われ、自分自身にそうしているとしか思えなくなってしまう。それは自分に対する演技でしかないのである。





2・1読書会報告
 

2月読書会、2014年最初の読書会19名参加で盛会

『いやな話』とは何か

報告者・國枝幹生さん
何か「もの足らない」作品だった

 報告者の國枝さんは、最初に「はじめて読んだのですが、なにか、〈ものたらない〉作品でした」と苦笑された。すでに、何度か読んできている人にも経験あることだが、ドストエフスキーは、どうしても後の大作が印象づよく、シベリヤ頃までの中編、短編は、戸惑う作品が多い。ドストエフスキーの書いたものだから、ということで読みきる作品が多々ある。初期作品が後期の土台になっている。そのように理解しようとしても、なかなかである。「ものたらない」の素直な感想に好感をもった。





連載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像                       (第52回)三島由紀夫の生と死、その運命の謎
秋山駿、小林秀雄に関連して 

福井勝也
 

 前回は秋山駿と磯田光一に触れて、もう少し話を続けてみたいと述べたところで終わった。二人の批評家の違いについて、やや放言気味だが面白いと思う議論を紹介する。

 柄谷 彼(秋山駿―注)は後に文壇的批評家になるんですけれど、60年代後半では本当にポツンといたんですね。彼は群像新人賞を第一回目で受賞したのだけれど、そのあと文芸雑誌に載せてもらえなかった。載せてくれないからといってもう一回新人賞に応募して断られたという話がある。ぼくはその時期の秋山駿は非常に好きだった。結局彼がやっていたのは、一般性を決してもちえないような自己の問題ですね。これはその時代流行していたアイデンティティ論とまったく違う。また、彼は犯罪の問題をやっていたけど、それも『あらゆる犯罪は革命的である』とかいう本とまったく違っていた。( 中略 )

柄谷 秋山がやっていたのは犯罪の意味や哲学ではなく、犯罪の心理や内面でもなく、そこに存する「私」の問題だからね。

浅田 目の前のこの石ころが問題だっていうような、ある種のリアルな感触はあると思うんです。ただいかんせん石ころというのは長年いじくっている内にフェティッシュになってしまいますからね。

柄谷 秋山駿が輝いた時期っていうのは、むしろ60年代ですね。ぼくが60年代で実存主義的だと思うのは、秋山駿だけです。

三浦 そうでしょうね。磯田光一にもふたつの面があって、60年代の磯田光一はある意味で秋山駿と拮抗するぐらいの、一種の暴力性はあったんじゃないか。

柄谷 いやあの人はぼくにとって全然輝きがなかった。( 中略 ) 

三浦 ぼくはどっちかというと60年代は秋山駿と磯田光一が対になっているような気がしていた。秋山駿と磯田光一ということでは、一方が虫瞰図というか、虫的だ、とれば片一方は鳥瞰図といか、鳥的。そういう違いがあるような感じがした。

柄谷 ぼくはある意味で秋山駿を畏れていました。磯田光一はちょっとばかにしていた。

 この辺で止めておこう。どうも磯田に分の悪過ぎる展開になっているが、柄谷の秋山への思いが先導したせいだろう。引用初出は、「討議「昭和批評の諸問題 ― 1985-1989」(「季刊思潮第8号」1990)」であり、この時期すでに磯田は亡く、秋山は勿論存命であった。それがどう討議に影響したかは別として、氏については概ね的を得たものかと思う。しかしあくまで討論時点の評価であって、秋山に関して言えば、その後の批評家人生を加味する必要がある。この点で、秋山にはその晩年の文学的成熟があった。そのことを強く感じさせられたのは、『私小説という人生』(2006.12)という著作である。秋山は、著作の冒頭と後書きで思いを述べている。氏は76歳で、逆算?すると余命7年余りの晩熟期と言えよう。

 「愚かなことかもしれぬが、私は、自分のことをもう一度生き直してみよう、という年齢に達したと思った。それで、自分に文学の魅力を教えてくれたもの、ドストエフスキー『罪と罰』」を、初めて眼にするもののように、一ページ一ページを読んでみた。そうか、若い頃はこんな言葉に魅入られていたのか、と、しだいに自分の心のかたちが明らかになっていった。」

 「わたしは古希に達した頃から、自分をもう一人の母親のように養ってくれたもの、日本の近代文学について、何か恩返しをしていかねばならぬ、と思った。そこで日本の純文学の中心を流れたもの、私小説について、そこにどんな魅力があり、いかなる文学の力があったかを、改めて明らかにしたいと考えた。」

 そのような思いから、秋山は小林秀雄の表現を再検証する。例えば、小林秀雄は内面世界を描く私小説(一人称小説)が抱える表現上の自己矛盾(「他者性の排除」)について、それに正面衝突して生きた、非凡な作家としてドストエフスキーを提出したのだと。重要な指摘だ。

 「彼(ドストエフスキー、筆者)が、処女作「貧しき人々」を一種の告白体(「書簡形式」、筆者)の形式で書いたという事は、決して偶然ではなかった。それどころか、小説の世界に這入って行こうとして、彼には、人間の内部世界という入り口しか見附からなかったという事が、彼の全制作を決定して了ったと言っても過言ではない。「貧しき人々」ばかりではなく、彼の初期の重要な作品は、凡て一人称小説の形式で書かれた。」
   
 そして、『死人の家の記録』の様な客観的記録も、或る奇怪な人物の手記の形で書かれねばならず、しかもこの人物に出会う「私」という人物さえ作中に現れねばならなかった、そんなドストエフスキーの小説作法について、それはなぜか、と問い、こう断定する。

 「・・・理由はいろいろ考えられるだろうが、根本は、自分とは何かという難問が、絶えず作者を悩ましていたというところに帰する様に思われる。」    (同前)

 私小説とは何か、という問題をめぐっての小林の自問自答みたいだが、たしかにドストエフスキーも「私」と「小説」との、奇妙な連続と背反について、怖るべきほどの徹底さで体当たりした。この作家の体当たりをモデルに、小林は、一人称小説の根柢の問題を取り出す。「一人称小説の作家は、狭い告白の世界から、広い世間に出て行こうとすると非常に苦しい立場に置かれる事になる。」ではドストエフスキーはどうしたか。「『虐げられし人々』の『私』を殆ど不可解なほど無私な人物にしたのも(中略)作者の小説技術上止む得ぬ窮余の策であった。」そこに私小説の急所があるとして、小林は、前記引用の問題点をあらためて深いかたちで取り上げこう言いなおす。

 「・・・すると、ドストエフスキイには、こういう苦しい工夫をしてまでも、一人称小説に固執しなければならなかった理由があったに相違ないという事になる。所謂自然主義小説家達は、この様なヂレンマを決して経験しなかった。自己というものを人生の客観的観察器具と化して了った彼等には、自己とは何かという様な呪われた問題は起り得なかったからである。ドストエフスキイは「罪と罰」で、はじめて一人称小説の形式を捨てたのであるが、その捨て方は、所謂自然主義小説家達が夢にも考えられなかった様な捨て方だったし、勿論捨て得たものも亦彼等の想像を絶した小説形式であった。では、彼はどの様な捨て方をしたのか。これが「地下生活者の手記」が語らねばならなかった処なのである。」(同前) <略>

 要するに、『地下生活者の手記』によって、「私」が主人公である「私」の世界を「私」が物語る、という、私小説の道を徹底して往ってみたら、その果てに、作品自身が自己否定しているような、奇妙な世界が出現した、というのだ ― 「彼(主人公)は、ゴリャートキンのように狂ってはいない。だが、小説自体は狂っている。」「始めもなければ終りもなく、筋もない、骨組みもない。主人公は確かにいるのだろうか。本当はいないかも知れぬ。」(同前)

 そして、作品の末節にある主人公の自己否定の言葉 <略> を引用して、小林は言う ― 「一人称小説の形式は、最も烈しい純粋な形で座礁した。」むろん、ドストエフスキーは失敗したわけではなく、計画どおりに見事に暗礁に乗り上げたのであり、そのことによって、「自分とは何かという難問」について主人公には答えは与えられなかったが、作者には小説的な明答が与えられた ― 「曰く、新に自分自身を産め、と。」新たに生み出されたのは、路上から誕生したような一青年の心の秘密、というより、ついにあくまで秘密であるほかはない自分の心というものと、外の現実の全体とが、深い根底でどんな交流をおこなっているか、その生きたドラマを、ラスコーリニコフという主人公を創造することによって描いた、『罪と罰』という制作である。以上が小林の考えだ。

 長い秋山の引用を、ほぼそのまま再掲した。それは秋山が、<私小説という問題>を睨みながら開始された小林のドストエフスキー論(「私小説論」(1935))から出発していたからである。当時、小林は特殊日本的な「私小説」の限界性と可能性について考えていた。その新たな可能性を探る言葉として「社会化した私」というキーワードも導かれた。しかしそのキーワードは、例えばジードが語った「純粋小説」の社会的、文学的前提を日本の現実が欠いていたために浸透しなかった。また横光利一の「純粋小説論」の議論も同様に空転を強いられた。しかし小林は、その問題を解く鍵を粘り強くドストエフスキーに発見していった。それは、小説表現の変化の過程を読み取ることによった。

 この辺りの道筋を、秋山は小林の言葉を丁寧に辿り直してみせてくれている。何より小林の「地下室の手記」から「罪と罰」に至る文体の確立と変化への着目は見逃せない。そしてその前提には、19世紀から20世紀的へと大きく変質を遂げようとしていた新たな時代の人間像に見合う、表現形式の達成があった。小林秀雄は、フロイトの心理学・ベルグソンの哲学から、ドストエフスキーの文学表現のリアリズム、その独自性を洞察していった。秋山駿は晩年の文学的円熟のなかで、この辺りを語り直す重要性を認識していたはずだ。それは偶然、この時期のバフチンの営為とも重なっていた。(2014.4.7)







映画  「ドストエフスキーと愛に生きる」を見て

前島省吾


 この映画の原題は「The woman with five elephants」。ウクライナ人でありながら故郷に帰れぬままドイツで生きることを余儀なくされ、ドストエフスキーの作品をドイツ語に翻訳したスヴェトラーナ・ガイヤーの人生と彼女のドストエフスキーへの思いを描いたドキュメンタリー映画である。梗概や見どころはインターネット上で読むことができるし、亀山郁夫氏の解説http://www.webdice.jp/dice/detail/4117/
もあるので、ここでは特にドストエフスキーに関する言葉だけを拾ってみたい。

 「『罪と罰』を『罪と贖罪』と訳した」と聞いたときは、一瞬耳を疑った。しかし、「ドストエフスキーが描く人間は皆自由を求める。自由の定義は各自がそれぞれに決定する。自由人のラスコーリニコフは殺人を人道と愛の行為とみなそうとした。ブッシュもプーチンも同じだ。ドストエフスキーは、このような不正と闘ったのだ。」という語りを聴いて、「贖罪」と訳した彼女の心情が分かりかけてきた。父はスターリンの粛清により死んだ。第二次世界大戦が始まり祖国がヒトラーの進攻を受けていた時、18歳の彼女はナチの将校の援助でドイツに留学した。ドイツはゲーテの国、学問するにふさわしい国であったが、一方ヒトラーの国でもあった。戦争は勝利に終わりドイツからは解放されたが、ソ連体制下のウクライナでは帰国すれば敵国への協力者と見なされ粛清されることは必至であった。そのままドイツでの滞在を続け、大学の教師、翻訳家として半世紀以上を過ごし、再び故郷の土を踏んだ時は83才になっていた。

 故国を追われたり、ヒトラーに殺されたり、圧制に苦しめられたりした人々と共に過酷な現実の中を生き抜いた小国ウクライナの女性だからこそ、「良心の声に従って血を流すことに自分を賭けたラスコ−リニコフは、贖罪すべきである。」という思いを込めて敢えて『罰』ではなく『贖罪』という語を選択せざるを得なかったのだと思う。スターリンもヒトラーも日本の軍国主義者も、そして現代の非凡人達も、殺人、虐待、人種差別、他国への侵略、他国民の人権蹂躙、自国民への弾圧粛清を行う権利など持っていない。そして罪を犯した者は流した血と被害者の苦しみに対して贖罪すべきである。これは虐げられた人々の苦しみを共に苦しみ、抑圧された民族の悲しみを共に悲しんだ彼女の心の叫びだった。

 彼女は家庭の人でもある。家族友人が集うとき料理人の役を務めるのは老いたスヴェトラーナである。彼女は玉葱を刻みながら「ドストエフスキーの小説は『玉葱』だ」と語る。一般に小説には芯(メインプロットとメインテーマ)があるが、ドストエフスキーの小説は芯よりも玉葱の皮のように重層に積み重ねられたひとつひとつの言葉のほうが重要な意味を持つ。それが挿入句であれ、挿話であれ、饒舌な語りであれ、哲学的な対話であれ、その言葉は『象徴』となり『観念(イデー)』となり「自律的に運動する精神的意味」(森有正)となって読者の心の深奥を揺り動かす。「玉葱」はその「言葉」の集合体であり、ドストエフスキー文学の真髄である。そして「玉葱」はドストエフスキーの「言葉」を愛した彼女の人生そのものでもあった。
 
 84歳のスヴェトラーナ・ガイヤーが織り成す深く静かな言語の世界と、紡がれる美しい言葉たち ―― ドストエフスキー文学と共に歩んだ一人の女性の数奇な反省を追ったドキュメンタリー。(冊子『ドストエフスキーと愛に生きる』OFFICIAL GUIDE BOOK)





「表現と認識」を考察する


國枝幹生

 先日の「NHK100分で名著」の中で亀山氏が、「ドストエフスキーは表現を変えることで認識を変えた」と言っているのをみて、表現と認識との差あるいは同類はどこにあるのかと疑問に思い、自分なりに考えてみた。それを今回の映画「ドストエフスキーと愛に生きる」の感想を交えてこれを書いている。

まずは辞書的な意味からみたい。

認識::十分に認知しているまたは認識している事を、理解という。
{日本語wordNet類語}
(認知とは、明確に明瞭に何かを意識すること、)
((意識とは、知識を持つこと、))
つまり認識は、十分に明確に知識をもつことが理解となる。

表現::受けた影響を自分なりの視点を加えて提示し直すさまを、理解という。
{Weblio類語辞書}
つまり、表現は、受けた影響を自分なりの視点を加えて提示し直すことが理解となる。

理解という類語から、違った見方でみることが認識と表現の差あるいは同類になっている。

 表現を変えることで認識を変えるということはどういうことなのか。
辞書通りに考えるとどうなるか。つまり「受けた影響を自分なりの視点を加えて提示し直す事」を変えることで「十分に明瞭に知識を持つ事」が変わるということである。

 ドストエフスキーは、「表現を変えることで認識を変える」ことができた。とはどういう意味か。つまりある作家は、認識の変化がその表現を変えるに至るが、ドストエフスキーは同じ認識の変化について「表現を変えることで認識を変える」ということ。である。これは一見同じ様な意味にとれる。なぜならば、認識というのは根源的なもので表現とはそれよりも下位にあるという気分が働くからである。何しろ辞書的な意味では、表現は「受けた影響を自分なりの視点を加えて提示し直すこと」で、「認識」は十分に明瞭に知識を持つことであるからである。認識の方が普遍的な雰囲気にはなる。特に原因がどちらかにある場合、つまり「表現」と「認識」のどちらかが原因(どちらかに よって 
 どちらかになる)となるような関係に二つの語が置かれている場合、「認識によって表現がある」と表すと納得できるものの「表現によって認識がある」と表すのは納得ができない気分なのだ。どうしても「表現」の補償に「とある認識」を置きたくなる。(「とある認識」によって表現されることによって認識がある。という風に)認識することが前提という気分なのだ。

 少し見方を変えて、「表現」と「認識」を同位(どちらかに すること をどちらかにする)に置いてみる。すると「表現することを認識する」と「認識することを認識する」ができる。あるいは「表現することを表現する」と「認識することを表現する」となる。ここでは「認識することを認識する」と「表現することを表現する」というのは明確な循環ではないかもしれないけれど、循環として考えられるので外す。つまり、「表現することを認識する」というのと「認識することを表現する」という二つの関係ができる。どちらも同位に考えているので、どちらかが先に(表現と認識の順序が先に)議論されなければならない、ということにはならない。こう考えると亀山氏が言った意味がどんなものか分かる気がする。つまり、表現と認識が同位になっているからこそ、ドストエフスキーは「表現を変えることで認識を変えることができた」のである。つまり普段何気なく使っている表現を認識のレベルまで上げていき、片方で普段何気なく使っている認識を表現のレベルまで落とすことによって、初めて「表現を変えることで認識を変える」事が出来たのだ。

 これを今回観た映画に合わせて考える。すると、翻訳というものは母国語で使われている表現をロシア語の認識と調節する必要がある、ということである。あるいは、母国語で使われている認識とロシア語の表現を調節する必要がある、ということだ。映画の中に「何かを持つということは、何かに支配される事だ」という印象的な場面があったが、それは母国語のレベルでの表現や認識がロシア語での認識や表現との微妙な匙加減を生む。そういったある言葉と無い言葉を表現したり認識することは世界を広げるかもしれない。

 映画の公式ホームページを観れば、亀山氏をはじめ色々な方のコメントを読むことができる。だから僕はこの映画の感想をかくにあたり、自分の観方を書かせていただいた。映画の方はドキュメンタリー的な感じで、90分くらいで終わる。ある一人のお婆さんの話しだが、予想以上に学ぶことが多いと思った。彼女の人生を歩んでみなければ分からない事もあるだろうが、自分の名誉として生きていくためには何が必要か、という事を問いかけているような感じがした。そんな問いかけも出来ないほど、忙しい世の中だけれど。





回 想  

新谷敬三郎先生没後20周年に寄せて その2

 1995年(平成7年)この年は、日本にとって忘れられぬ年となったが、ドストエーフスキイ全作品を読む会並びにドストエーフスキイの会にとっても、忘れられない年である。この年の11月、会の創設者であり会の代表者、そしてドストエフスキーを愛読する市井の読者にとって精神的支柱だった新谷敬三郎先生が亡くなられた。来年2015年は没後20年となることから、本紙面において新谷先生のド研究や読書会における足跡を再紹介したい。


前読書会主催者・伊東佐紀子さん没後20年

 新谷先生が亡くなられた1995年は、悲しい出来事が多かった。この年の春4月20日、読書会主催者の一人だった伊東佐紀子さんが亡くなった。49歳だった。訃報を新谷先生にお知らせすると、病床から追悼文を寄せられた。

追悼  伊東佐紀子さんを悼む 新谷敬三郎
(「読書会通信32」1995)   

  思いがけず、下原敏彦さんから電話があった。
 伊東佐紀子さんが亡くなった。びっくりした。ひとの死というものはいつも突然やってくる。前から体を悪くして入院しているとは聞いていたけれども…
 伊東さんと出会ってから二十余年が経つ、新宿の厚生年金会館で例会をしていた頃の話だ。
いつも旧姓佐伯康子さんと一緒だった。寡黙な控え目なお嬢さん。そのひとがシャンソンを歌う。その歌声に魅せられた。ハスキーというのか、しゃがれた声がシャンソンにむいていた。
 そのうち『パンドラ』という雑誌を見せられた。彼女たち数人が出した同人誌であった。その雑誌をあらためて読み返したいと思って、探したけれども、どこへしまいこんだのか、どうしても見つからない。
 あれは何時のことか、雑誌の表紙をデザインしてあげるなど、と私が言い出して、それがただ短形を四つ組み合わせただけの、およそ女性誌には似つかわしくない貧しいデザインで、いまだに気にかかっている。
 それにしても、初めて見た伊東さんの短編小説、今は表題も話もうろ覚えだけれども、それを読んだときの感銘ははっきりと残っている。普段の伊東さんからは想像もつかない。目を見張るような表現、ユーモラスなおどけた場面をちりばめて、それでいて羽目を外さない言葉を惜しんだ描写。そのとき私は本人に言った。こんな作品を続けて10も書けば、立派な作家ですよ。それも遠い思い出になった。四十九歳の生涯であったという。
 私も歳とって、自分より若い人の死に出会い、その冥福を祈らなければならないとは・・・・合掌  

 半年後、新谷先生は逝去された。重い病の床にありながらも、そんな様子を微塵たりとみせなかった。7月末のある夜、突然、先生から電話をいただいた。読書会の参加者のこと、会場が東京芸術劇場になったことなどとりとめのないことを話した。最後に「そうだねえ、(読書会)こんどぜひ行ってみたいねえ」そう言ってきられた。何の用事もなかったので、不思議に思った。9月に入って、入院されたと知った。 (編集室)


伊東佐紀子さんを送る  下原敏彦   (『広場 No.5』1996)

 本郷の赤門通りを行くと、白地にくっきりと書かれた「伊東家葬儀」の看板が目に入った。本当に伊東佐紀子さんは死んでしまったのだ。そう思うと、たまらなく寂しくなった。限りなく悲しくなった。五年間の病魔との闘い。不安と絶望の日々。

 しかし、彼女は最後まで希望を捨てなかった。明るさを失わなかった。病室に入っていくと、いつもすまなそうに微笑んで、「わざわざきたの、ついででよかったのに」と、迎えてくれた。その顔に焦燥も嘆きもなかった … いつも静かで落ち着いていた。彼女の不屈な精神に担当の医師は、「教えられました」と敬意を表していた。
 
 そんな友をもったことを誇りに思う。そして、そんな友を失ったことが、とても悔しい。伊東佐紀子さんは、黒枠の写真の中で、やっぱり申し訳なさそうに微笑んでいた。「悪いわね」そうこちらを気遣っているように思えた。合掌すると、彼女のことが、思いめぐった。彼女は6人兄弟の末っ子だった。が、信じられなかった。それほど彼女は、しっかり者だった。お酒が好きで、面倒みがよくて、シャンソンが好きで、「愛の賛歌」が十八番だった。「大丈夫よ」「よし飲もう」が口癖だった。

 だれの悪口も言わず、何の不平ももらさず、街中で、見ず知らずの人にお金を貸してしまうお人好しだった。母親のようなやさしさと姐ご肌のきっぷのよさがあった。それが災いして、損な役回りばかりしていた。いつも黙って愚痴を聞くばかりだった。いつも微笑んで励ますばかりだった。彼女の口から一度も弱音を聞いたことがない。いつも自分のことは二の次だった。男からも女からも好かれ頼られた四十九歳の生涯。ただ他者を癒すためにあっただけのような人生だった。

 まだまだ当てにしていたのに、まだまだ話したかったのに。… 青春を駆け抜けたらさっさと逝ってしまった。まるで、自分の使命は終わったといわんばかりに… そんなの勝手だよ。だが、彼女は、満開のぼたん桜に埋まって心地よさそうだった。「いいのよ、ありがとう」晩春の夜風のなかに、朗らかな彼女の声を聞いた。

八重桜、乱れ咲く一葉会館。一代の才女ここに眠る。さようなら伊東佐紀子さん。





編集室


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