ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.142  発行:2014.1.22



第261回読書会のお知らせ

2月読書会は、下記の要領で行います。
 
月 日 : 2014年2月1日(土)

場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)

開 場 : 午後1時30分 

開 始 : 午後2時00分 〜 4時45分

作 品 : 『いやな話』米川正夫訳3巻(河出書房新社) 他も可

報告者 : 國枝 幹生 氏     

会  費 : 1000円(学生500円)

4月読書会は、東京芸術劇場の第7会議室です。
開催日 :  2014年4月26日(土) 午後2時〜4時45分迄です




大阪「読書会」案内 2・8
ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪読書会の第21回例会は、以下の通りです。
 ・2月8日(土)14:00〜16:00、
 ・会場:まちライブラリー大阪府立大学 
 ・作品は『死の家の記録』1部
  URL: http://www.bunkasozo.com 
  「ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪」世話人小野 元裕




2014年を迎えて 本年もよろしくお願い申し上げます 

ドストエフスキーを読みつづけることの意義  (編集室)


 「ドストエーフスキイ全作品を読む会」普段、何気なく言ったり書いたりしているが、この名称、世間にあっては摩訶不思議に思えるらしい。「なぜドストエフスキーばかりを」「なぜ、あきたりしないのか」など「なぜ、なぜ」ばかりの質問である。ドストエフスキーを読まない人にとっては、全作品を読むは、解けぬ謎のようだ。疑問だけならよいが、不可解極まってストレスになる。もしそんな人がいたら、それはそれで申し訳ない限りである。

 なぜドストエフスキーを読みつづけるのか。人それぞれと思うが、一つには懐疑の芽を育ててくれる。そんな気がするのだ。例えば先日、映画「ハンナ・アーレン」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督 バルバラ・スコヴァト)を観た。「不屈の精神で「悪」と真実に立ち向かったハンナ・アーレントの愛と信念が胸打つ実話」「誰からも敬愛される高名な哲学者から一転、世界中から激しい非難を浴びた女性がいた」「彼女は世界に真実を伝えた」銀幕には、感動的な宣伝文句や崇高な理念を守った哲学者への賛美が踊る。だが、神さえ疑うドストエフスキーは、この賛辞にも「まてよ」と眉をひそめさせる。ちょうどシェロモ・ヴェネッイアの『私はガス室の特殊任務をしていた』を読んだ後もあったが、ハンナの強い信念さえ疑ってみるのだ。映画のあらすじは、こんなふうであった。

ドイツに生まれ、ナチス政権による迫害を逃れてアメリカへ亡命したユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは元ナチス高官アドルフ・アイヒマンの裁判の傍聴記事を執筆・発表するが、記事は大論争を巻き起こし、アーレントも激しいバッシングを受けてしまう。その顛末を通して絶対悪とは何か、考える力とは何かを問うとともに、アーレントの強い信念を描き出していく。
                   
(2012年/ドイツ・ルクセンブルグ・フランス/114分/Dcp)

 収容所体験。むろんハンナも体験者で、肉親や知人も失った。が、映画からは、人間選別、ガス室行きの恐怖は伝わってこなかった。アウシュビッツ行の貨物列車時刻表の正確さや『夜と霧』の沈鬱な感動もない。怪物アイヒマンは、ただの小役人に過ぎない。普通の人、反ユダヤ主義者ではない。命令に従っただけ。論理的にはそうかも。だその言は死ねばA級戦犯も兵士もみな同じ、そんな考えと重なって何か釈然としなかった。(編集室)




 
2・1読書会について   

 2月読書会は、抽選の都合で第一土曜日となりました。前回が12月は7日でしたので、師走、正月と忙しい期間で、ゆっくり読めなかったかも知れません。(かえってゆっくり読めたという人もいるかも知れません…)が、今度の作品は、折よく『いやな話』は短編です。いまからでも読みきれることができると思います。再読、一読をおすすめします。

 2月読書会『いやな話』の報告者は、國枝幹生さんです。國枝さんは、前々回の『虐げられし人々』につづいての報告になります。が、早くから『地下生活者の手記』レポートに意欲をみせていました。その意味で『虐げられし人々』につづいての『いやな話』レポートは、『地下生活者の手記』報告へのよき前哨となりそうです。


『いやな話』米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集5』解説

 『いやな話』も同じくゴーゴリ的な官吏の世界を撮り扱った短編であり、同じく風刺とユーモアを狙ったものであるが、『鰐』の基調がファンタスチックであるのに対して、これは本格的なリアリズムの手法で書かれている。主題は、農奴解放直後の自由主義・進歩主義の流行が、軽佻浮薄に陥りやすいのに対して、一つの警告を発することであろう。また、当時の青年層を牽きつけた民衆との接触という思想が、はかない幻滅に終わりがちであった社会現象を、ユーモラスな筆致で描こうという意図もあったろう。とまれ、『いやな話』はしかく開き直って論ずるほどの重要性を有してはいないけれども、すでに十分円熟しきったドストエフスキーの筆は、この短編に重厚な芸術味を盛ることに成功している。『いやな話』は、『鰐』に先立つ3年、1862年に、『エボーハ』の前身である『ヴレーミャ』の12号に掲載された。

『いやらしい小噺』中村健之介著・訳『ドストエフスキー人物事典』前半あらすじ抜粋
 
 …プラリンスキーは、わが身安全、昇進第一の役人世界を歩いてきて一応の地位についた。ところが、かれは、どうしたわけか、おれはみんなの仲間に入れてもらえない、だれもおれの善良さを分かってくれない、という疎外感にとりつかれている。かれは、この、人から拒まれているという不断の意識、だれかに認められ受け入れてもらいたいという「承認欲求」にたえず追い立てられて、自分の善意をだれかに示す機会はないかと必死で探すようになる。

 …その夜、自宅への帰り道、プラリンスキーは、結婚披露宴の宴を開いている小さな家の前を通りかかる。聞いてみると花婿は、プラリンスキーの局に勤める最下等官のプセルドニーモフだとわかった。それを聞いてプランスキーは、普段なら声をかけることもない「下級の」連中の宴席へ、ついふらふらと足を踏み入れてしまった。自分が身分の下の者たちにも親切な「人道主義者」であることをだれかに示して、受け入れてもらうことによって、あの拒否のサインの心理的圧迫をはねのけ、やるせない孤立感から自分を救いだしたかったのである。…宴席の空気はがらりと変わり、客たちは一体何事が起きたかと緊張する。

 …会場の雰囲気をもとへもどそうと、注がれる酒を必死になって呑み、磊落な長官らしく見せようと気力をふりしぼって演技を続けるのだが、やることなすことすべて裏目に出て、…ついにはべろべろに酔いつぶれてしまい、新婚夫婦のために用意されていたベットへと運びこまれるのであった。

 ―― この短編は保守派進歩派を刺そうとする姿勢で書かれていない。ドストエフスキーの力の大半は登場人物の正確描写に注がれている。――





年譜  『いやな話』誕生前後
(米川正夫訳『ドスト全集』から)

1862年12月『時代』で「いやな話」発表

・1862年(41歳)
1月 1月号より『死の家の記録』第二部連載開始(2,3,5、12月号)
     5月 ペテルブルグ大火。後年『悪霊』に生かされる。
     6月7日 最初の外国旅行に出立。
     6月15日 パリ着。
     6月27日 ロンドンに出発。
     7月4日 ゲルツェンを訪問。ロンドンでバクーニンと知己になる。
          ケルン → スイス → イタリアなどを経て帰国の途に。
     8月末 ペテルブルグに帰る。
    12月 『時代』11月号に『いやな話』を発表。アポリナーリヤ・スースロヴァとの交際深まる。
・1863年(42歳)
     2月〜3月 『夏象冬記』を『時代』2月号、3月号に掲載。
8月 アポリナーヤ・スースロヴァと再度の外国旅行。一人下車したヴィースバーデンの賭場で5千フラン儲ける。このとき以来、賭博熱にとらわれる。
     9月 バーデンでルーレットに沈溺。所持金全部失う。
   滞在中のツルゲーネフに50ターレル借用。『賭博者』の着想を得、ストラーホフに無心。ストラーホフ前借りして300ルーブル送金。
    ナポリ → ジェノア → トリノを経てベルリンでスースロヴァと別れる。帰国の途につくがハンブルグで賭博。無一文に。パリのスースロヴァに送金を頼む。
    10月中旬 ようやくペテルブルグに帰還。
    12月 伯父クマーニンの遺言により3000ルーブルを得る。ネクラーソフ、ドストエフスキーをモデルにした小説『不幸な人々』を完成。
冬 マリヤ夫人の肺患昇進。モスクワで夫人の看病。
・1864年(43歳)
     1月末 新雑誌『世紀』発刊の許可。予告広告文作成。
3月 『世紀』第1、第2号併せて発刊、同誌に『地下生活者の手記』第一部を発表。
4月15日 妻マリヤ・ドミートリェヴナ、モスクワで死去(1825-64 39歳)
       『世紀』4号に「地下生活者の手記」第2部掲載。
7月10日 兄ミハイル・ミハイロヴィチ死去(1820-64 44歳)

 1862年からの2年間は、ドストエフスキーにとって、まさに、いやな出来事の連続だった。ヨーロッパ旅行中にはまった賭博熱。シベリヤ時代を支えた最初の妻、マリヤの死。そして、そして一番の信頼者だった兄ミハイルの突然の死。作品『いやな話』は、いやな出来事の前触れとなってしいまった。が、転んでもただでは起きぬところがドストエフスキーか。いやな出来事は、不幸な現実となった。が、悲しみの涙は、『地下生活者の手記』という奇異な作品を育てる要素になった。それはまた、大作への予感でもある。その意味で、この時期は作家ドストエフスキーにとって、一つのターニングポイントともいえる。

最初の妻マリヤについて・『いやな話』の頃

マリヤ・イサーエワ(1825年〜1864年)

 1864年4月15日、モスクワの病院で39歳で亡くなった最初の妻マリヤ夫人とは、どんな人物だったのか、後で再婚したアンナは、よく知られているが、マリヤは今一つである。『いやな話』『地下生活者の手記』を理解するうえでマリヤ夫人の情報は重要といえる。

シベリアでの安息の場

P・P・セミョーノフ『天山への旅』

 ドストエフスキーは、制限つきの自由を得ていたけれども、もしマリヤ・ドミートリヴナ・イサーエワとの親密な関係という、運命の女神が送ってくれる明るい光がなかったならば、彼の境遇は依然として暗澹たるものだったろう。彼女の家とそこに集まる人々との交際が、ドストエフスキーにとっては、日々の安息の場であり、この上なく同情の泉であった。
 イサーエワはまだ若かった。(30歳にもなっていなかった)彼女は…アストラハンの生まれで、アストラハン(ヴォルガ河がカスピ海へ注ぐ河口の町。マリヤは、町の検疫所長の娘)の女学校を優等で卒業した。ということは、セミパラチンスクの社交界のご婦人方の中で、彼女は一番教養のある知的な女性だったということである。

 ドストエフスキーは明るい将来への希望に満ちて意気揚々クズネーツク(この町でイサーエフ急死、1857年2月どとマリヤ結婚)へ出かけて行った。一週間後、彼は、若い妻とその連れ子を伴って、この上ない上機嫌で、私のところへ戻って来た。そして、私のところでさらに二週間、客として滞在し、またセミパラチンスクへ帰って行った。

セミョーノフ(1827-1914):探検家、40年代ペトラシェフスキー・サークルに出入りしていた。1856年8月、旅の途中にセミパラチンスクに立ち寄った。

知的好奇心が強く、活気にあふれていた

A・E・ヴランゲリ『シベリアのドストエフスキーの思い出』

 当時、彼女の白い皮膚には、不吉な赤い色が表れていた。そして、その数年後には、肺病は彼女を墓へと連れ去ったのだ。彼女は、非常な読書家で、教養も十分あり、知的好奇心が強く、気だてがよく、並外れて活気にあふれ、ものに感じやすい人だった。

ヴランゲリ(1833-18…)ドストエフスキーのファン。1849年12月22日の刑場の群衆のなかに学生としていた。1854年県知事としてセミパラチンスクに赴任。生涯ドストエフスキーと親交があった。


セミパラチンスクの家

 Z・A・スイッチナ『ドストエフスキーの思い出』

 ドストエフスキーが住んでいた家のことはよく覚えている。その家は4部屋ありました。最初の小さな部屋が食堂。その隣りが寝室、最初の部屋から左へ行ったところが客間で、これは広い角部屋でした。客間の左手に書斎へ通じるドアがあり、ど部屋も家具は簡素なもので、大変使いよくなっていた。

旅行中のドストエフスキー

1863年8月28日 弟ニコライへ
「マリヤ・ドミートリエヴナの身を案じてやってほしい。あれのことでいい便りがあったら、ぜひきかせてもらいたい。体の具合はどうなんだろう」
8月28日 継子パーヴェルへ
「お母さんのことで、なにかわかったことがあったら、ぜひ手紙でわたしに知らせるように」

追悼 マリヤ・ドミートリエヴナ

 ドストエフスキーから兄ミハイル宛の手紙 1864年4月15日

 昨日マリヤにひどい発作がおこりました。喀血して、それが胸につまのったものですから、窒息しそうになったのです。われわれはみんなその周りに集まって、最後を待っていました。妻は、みんなに別れを告げ、みんなと和睦し、いっさいの指図をしました。あなたの家族一同にも、どうかよろしく、長生してくださいとのことでした。エミリヤ・フョーロドヴナにはとくによろしく申しました。あなたと和睦したいという希望を表明しました。(兄さん、ごぞんじでしょうが、あれは一生の間、あなたを秘密の敵だと思い込んでいたのです)苦しい一夜を明かしました。今日になって、たったいま、アレクサンドル・パーヴロヴィチが、今日は臨終だと、きっぱりいいました。またそれは間違いなしです

 懐かしいミーシャ兄さん、今、午後7時、まりや・ドミートリエヴナは行気を引き取りました。あなた方、皆さんが長生きされ、幸福でありますように、と遺言しました。(この通りに申しました)妻の冥福を祈ってやってください。




プレイバック読書会
 1973年 第17回読書会(『No.24会報』)
                
『いやな話』

稲葉重貞


 ドストエーフスキイが実になんとも読者をひきつけて離さないのは、いわゆる読ませる作家であることは異論のないところだが、今回の『いやな話』も例外ではないようだ。意識して分析的な読み方をしようとする人もおれば批評の姿勢をとる以前にすっかり鑑賞者の立場に立って内容のおもしろさや表現の巧みさに関心を寄せ、感嘆する人などもおり、双方の見解がにぎやかに出された。はじめて読んだという人も何人かおり、実はこの会の隠れた利点として、このようにあまり言及されてない作品も必ず読むことになり、目立たない作品のなかに他ならぬドストエーフスキイの真髄を発見したりすることになるのである。

 作品における構成は、その作家の創造上の視点と密接に4関係して居ると思われるのだが、米川正夫氏は、この作品の主題について、「農奴解放直後の自由主義・進歩主義の流行が軽佻浮薄に陥りやすいのに対して、一つの警告を発することであり、又、当時の青年層を牽きつけた民衆の接触という思想(ヴ・ナロード)がはかない幻滅に終わりがちであった社会現象をユーモラスなタッチで描こうという意図もあったろう」と述べて、さらに「聞き直って論ずるほどの重要性は有していないけれど…」と言葉を結んでいる。

 さて、ここで開き直るか直らないかは別として、先にあげたこの作品の構成という点に注意を向けてみると作品の中心であり、量的にも大半をしめる「結婚の祝宴の場面」の前後に、いわばその導入部と結びとにあてるべく若干の紙幅がさかれている事に気がつくと思う。主人公イヴァン・イリッチと、役所の同僚であるシゾレンコとの何気ないやりとりが描かれているだけのことなのだけれど、作品をよく読むうえで決して無視することのできない、重要な、しかも暗示に満ちた言葉がいくつか出てくることに、記者の注意を喚起しておきたい。それはつぎにあげるような表現である。

 ―― 控室でイヴァン・イリッチは、軽い上等の毛皮外套に身をくるみなんのためか知らないが、シプレンコの着ているくたびれた洗熊の外套をわざと見ないようにしながら、二人づれで階段を下りはじめた。(中略)

 ―― 『下司 !』と(シプレンコに対して)イヴァン・イリッチは心の中で思った。

 ―― 「いやな話だね !」とシプレンコ氏はいった。

 この作品の題名となっている言葉をシプレンコの口を通して言わせているのは、決して偶然でないのである。主人公、イヴァン・イリッチは『地下生活者』の主人公である空想家の系譜に属する人物である。現実から非現実へ、そして、日常から、非日常へ、その転換点にひとりの空想家の誕生する契機が含まれていると思うのだが、私はイヴァン・イリッチの現実(=日常)を同僚であるシプレンコとの人間関係を軸に考えてみたらどうかと思うのである。そのとき、結びにおける次の言葉が意味を持たずにはいなくなる。

 ―― いまわしい幻がのべつ浮かんできた。最も頻繁に現れたのはシプレンコである。…ときおり、彼はすっかり意気地なくなって、今にもすぐ、シプレンコのところへ行ってゆるしを乞い友情を求めかねまじいほどであった。

 その人間関係はあくまで暗示にとどまっている。『白夜』の主人公からナスチェンを奪っていく生年の影が、その主人公にとって暗示的であるのと同様にシプレンコの幻影はイヴァン・イリッチの意識下にあって彼を終始、不安な状態に陥れているのである。

 つまり問題は、何故、シプレンコの存在がイヴァン・イリッチにとって暗示的な意味を持つのかということになる。それは自ら、ドストエーフスキイがどこに視点を置いてこの空想家を描き出そうとしているのかという問題の鍵になると思うのだが…




12・7読書会報告 

               
12月読書会、師走で多忙のなか15名参加

『夏象冬記』はフリートークで

ルポ・旅行記・文明批評・優劣議論沸騰
 2013年最後の読書会は、師走早々だったが、15名の参加者があった。報告者が都合で参加できなかったことからフリートークになったが、この作品に寄せる感想は様々で活発な意見がだされた。はじめにどう読むかで意見が別れた。たんに旅行記として読んだ、文明批評として読んだ。作品としては、駄文である。優れた予見である。
「現代において、共感できる」「自己犠牲」と言った感想も・・・。

41年前、第20回読書会、斉藤俊雄さんの感想に注目
 多くの感想がだされたなか、第20回読書会での斉藤俊雄さんの『夏象冬記』感想が注目された。斉藤氏は、読書会で多くでた「ドストエーフスキイは好きだが、この作品については二度と読む気がしない」と言った感想に、このように反論している。(第20回から引用)

 … 私はこれらの意見には直接賛成はできないが、ここには共通して作家が自国をではなく外国を風刺の対象にするということからくる倫理的嫌悪があるように思われ、そういう点では興味深かった。この倫理的嫌悪は、遠く、ロシヤと日本のヨーロッパへの対しかたの違いに根差していると思われたからである。ゼンコーフスキーの『ロシヤ思想家とヨーロッパ』を読むと、ドストエーフスキイのみならず、フォンヴィージンに始まって、ゴーゴリ、ゲルツェン、レオンチェフ、トルストイ、ベルジャーエフといったほとんどすべてのロシヤの作家、思想家が(一方ではヨーロッパに引かれながらも)、『夏象冬記』のような、あるいはもっと辛辣なヨーロッパ批判をくり返しているさまが見てとれる。そして、それがどんなに不愉快に思われようとも、こうしたヨーロッパ批判とロシヤの最もすぐれた文学的思想的営為とは密接に結びついており、…それを否定し去ることができなくなっているのだ。…




連載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像                       (第51回) 三島由紀夫の生と死、その運命の謎                   
 秋山駿追悼、小林秀雄に関連して

福井勝也


 年が明けて、14日に満60歳、還暦を迎えた。小林秀雄が還暦時(1962)に感想を書き記した「還暦」というエッセーがあるのを思い出した。率直な物言いで、気取りのない知的な文章に引かれてゆっくりと読み返した。幾つかの文言が自然に眼に止まった。
「では、何故目出度いか(長命がー著者注)、これは誰にも一と口では言えぬ事柄だから、天寿という言葉を発明した。天寿という言葉が出来て、これを使ってみると、生命の経験という一種異様な経験には、まことにぴったりとする言葉と皆思った、そういう事だったのだろう。命とはこれを完了するものだ。年齢とは、これに進んで応和しようとしなければ、納得のいかぬ実在である、<中略> 孔子は、還暦を「耳順」の年と言った。耳順うとは、面白い言葉で、どうにも解されようが、人間円熟の或る形式だと考えたのは間違いない。寿という言葉も、経験による人の円熟という意味に使われて来たに相違ないので、私などは、さて還暦を祝われてみると、てれ臭い仕儀になるのだが、せめて、これを機会に、自分の青春は完全に失われたぐらいの事は、とくと合点したいものだと思う。ところが、このいかにも判然とした、現実的な感覚が、ともすれば私から逃げるのである。やはり、私が暮らしている現代の知的雰囲気が、強く作用している事を思わざるを得ない。」

 引用文で気になったのは、末尾下線部の部分であるが、享年80歳であった小林の人生を思う時、成る程還暦時の正直な感慨であるなと改めて思った。
 実は、今回取り上げようと思うのは、昨秋(10/12)他界された文藝評論家の秋山駿氏(1930-2013)のことだ。氏も享年が83歳であってみれば、天寿全うの類に入るのだろう。同年代の例えば文藝評論家磯田光一氏(1931-1987)が還暦を待たず、56歳で急逝しているのと比較すると、失礼ながら秋山氏は「意外な」長生きをされたと思う。最近磯田氏の小林秀雄論(1966)等も読み返す機会があって、同時代(60-80年代)に活躍したお二人の批評文について考えたが、秋山氏の方が「文学青春的な」中身でかえって早世型であったと思う。この点英文学研究者畑から出発し、大学紛争で(中央)大学を辞職した(1969.8)磯田氏の文章は、「冷静で中立的なバランス感覚に勝れた」もので、言わば晩熟型の感じがあった。しかし結果は触れた通り逆の(人生)結末であってみれば、まずは、そのイメージが底の浅いものであったことになる。それか、案外に文作とは逆のものを両者が目指されていた思うべきかもしれない。その点では例えば、二人の三島由紀夫論(磯田氏の『殉教の美学』1964、これは三島事件前後に増補改訂版(1969.1971)出たが、その予言性も話題になり磯田氏は三島死後の一年間著作の刊行停止を表明した。秋山氏には、事件後に名文「太陽と鉄」1971がある)などをしっかり読み比べてみる必要がありそうだ。

 ともかく秋山駿という存在は、当方がドストエフスキーを本格的に読み始めた70年代後半には、(磯田氏とともに)活発に時評文を発表していて、そしてその批評の原点は小林秀雄であり、小林が論じたドストエフスキーであったと思う。

 秋山氏没後再版された文庫本(『内部の人間の犯罪』、秋山駿評論集、講談社文芸文庫)の年譜(秋山編)を繙くと、1953年(S.28)、23歳 3月、大学(早大仏文科―執筆者注)卒業。その後三年ばかり、会社勤めができず、ただ家にいた。昼間はひとりで街を歩き回り、夜は眼の前の壁の汚点と対話するのが日課であった。壁の汚点を、ドストエフスキー『白痴』でイッポリートがいう「マイエルの家の煉瓦壁の汚点」になぞらえた、とその文学的出発を記している。1959年(S.34)、29歳 当時報知新聞社に勤務し、この年に結婚し、終の棲家となる東京西郊のひばりが丘団地に入居したが、何故か親族とはすべて絶交、結婚式も結婚届もしなかったと。なお、この年10月「小松川女高生殺しとイッポリート」を同人誌に発表している。翌年の1960年、30歳で「小林秀雄」で「群像」新人文学賞評論部門を受賞するも、その後3年ほど低迷と付記している。3年後の1963年(S.38)、中原中也論「内部の人間」を書き、さらに小松川女高生殺し事件を主題にした「想像する自由」(第一評論集『内部の人間』1967に収録)を発表している。それが三島由紀夫に認められて、文芸誌に再出発する道が開けたとのことであった。翌年の1964年(S.39)、34歳で、23歳の体験から11年を経て「イッポリートの告白」・「石塊の思想」が発表されるとともに、「文学界」に「時代小説について」が連載される。すでにこの時期には、秋山氏の80年代(昭和が終焉する89年頃まで)の批評スタイルがほぼ固まっていたことが分かる。

 当方が最初に秋山氏の著作を手にしたのは、『小林秀雄と中原中也』(レグルス文庫1973初版)で、77年春のことであった。その本は、それまでに書いた幾つかの小林と中原について文章を集めたアンソロジーで、各論考の書かれた時期も明示されていない新書版の評論集だった。今回、秋山氏が死去し当方還暦を迎えて、自分のドストエフスキー体験はここから開始されたと改めて思い返した次第だ。例えば、このなかの「小林秀雄の神」(1971)では次のように書かれていた。ただし、当時自分がこれをどう読んだかははっきり覚えていない。

 「小林秀雄が最近の対談(数学者岡潔との対談「人間の建設」1965―筆者注、この対談の「白痴」をめぐる二人の言葉は、驚く程率直なもので貴重な内容になっている)で、キリスト教の神というのはよくわからないといっている。やはりそうなのかと私は思う。彼がいつかそんなことをいうだろうと私は漠然と予感していた。 <中略> 神という存在、あるいはこの存在を生きた言葉で語った何かしら名状しがたいキリストの姿に、彼がもっともよく接近したのは、『「白痴」について』(1952-1953、中断の後1964年に単行本刊行―筆者注)のなかで描かれる、「一人の異様な死刑囚」においてである。ドストエフスキーという囚人が、この死刑囚に出合う。ラスコーリニコフのような「最新式の殺人者」だけが、心を開いてこの死刑囚のおそるべき存在を直覚する。キリストは何をわれわれへと語ったのか。それは「凡そ文化など噂にも聞いた事のない人」の言葉である。殺人者の眺める死刑囚としての神、ソーニャのように襤褸布よりも無意味な売春婦が溺れる者の藁のように掴む神。そんな場所に長く人が踏み止まれるわけがない。私は、日本人の書いた文章のなかでは、小林のその言葉が、神という存在に生きた手を延ばしてもっとも密度あるものだと思う」

 秋山はさらに、同著巻末「小林秀雄と中原中也」で、中也を自分が発見した「内部の人間」に自分自身を重ねながら、「私は結局、中原中也に、自分が人間であることのすべてを負っているような気がする。私は、自分の生のあらゆる行程が、中原中也の声を聴くところから一人の人間として出発し、長いカーヴを経たのち、また元の中原中也の場所へ戻ってくるのであろう、と予感する」とまで書いている。そして最後に、小林と中原の決定的な人間的差異を次のように語って本書を閉じている。この部分には、一部かなり強い乱暴な傍線が引かれていた。

「彼(小林秀雄―執筆者注)は、深い精神の出会いと交際とをもつ中原の友人であった。彼は同じ場所から出て来た人間であった。ところが、この小林秀雄のなかには、中原中也の世界を裂くように働く或るもの、もっとも深く共感する故にもっとも深く背反しなければならぬような何かがあった。その何かを、一種の精神のドラマへの要求とか、知性の運動と考えてもいい。< 中略 > 内的な純粋な声としての魂と、これを改変するために厳密な知性への渇望と、―― どちらがより根本から人間的な行為であろうか。私はしだいにこの二人のなかに、精神の一つの対比、一つの難問を見出すようになっていった・・・」

 実はこの後、代表作『知れざる炎―評伝中原中也 』(1977)を読んで、その「秋山駿体験」なるものが、ほぼ80年代まで「ドストエフスキー体験」と併行した。それは当方の蔵書の一角を占めている秋山本によって証明されている。しかし、磯田の夭逝(1987)後90年代以降は、何故か秋山批評の通奏低音として鳴り響いていた「内部の人間」や「石塊の思想」の声が自分から遠ざかろうとしていた。それが何から来るのか半ば分かり、半ば気付かぬふりをしていた。今回還暦を迎え、小林の「還暦」の感想の「青春」に触れた件が身に染みて、別なかたちでありありとその「体験」を思い直す巡りとなった。小林の文章を読んでいて、「還暦」とは、死の方からの不思議な問いかけ、その内的な経験「この世に生きるのも暫くの間だ、或は暫くの間だが確実に生きているという想いのニュアンス」を改めて感じる契機だと教えられた。その際、遠ざかっていた秋山駿の言葉が甦ってくるようであった。秋山氏とは、世紀を越えてから三島との思い出だったか、二度程お話を伺う機会があった。その際、少しだけ質問などさせて頂いたが、その際懐かしさを強く感じた記憶がある。今回の機会に改めて、もう少し秋山・磯田批評に拘ってみたいと思う。(2014.1.14)





最新ドストエフスキー文献情報
  提供・佐藤徹夫氏

1.「NHK 100分de名著」に亀山郁夫氏による『罪と罰』。
 Eテレ.12月4、11、18、25日 PM.11:00〜11:25
 (再放送:翌週水曜日 AM5:30〜5:55  PM00:25〜00:50) 
 テキストは、12月1日発行  ¥550

2.〈研究書〉
 ・『白痴』を読む ドストエフスキーとニヒリズム清水孝純著 九州大学出版 2013.9.30
 ・『ひらけ! ドストワールド 人生の常備薬ドストエフスキーのススメ』大田直子著 ACクリエイト/ACBooks 2013.11.5 ¥1300
 ・『やっぱり世界は文学でできている 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義2』沼田充義著  光文社  2013.11.20  ¥1800
 ・あらためて考えるドストエフスキー/亀山郁夫×沼野充義 P13〜57
 ・太宰とドストエフスキーに感じる同じもの/綿矢りさ×沼野充義 P181〜236




   
ドストエフスキー年代記(代表編者V・ネチャーエワ)


ドストエフスキー家系図

 父ミハイル・アンドヴィチ(1789-1839)=== 母マリヤ・F・ネチャーエワ(1800-1837)
                    |
アレクサンドラ―ニコライ―ヴェーラ―アンドレー―ワルワーラ―作家ドスト―ミハイル
(1835-1889) (1831-1883) (1829-1896)(1825-1897) (1822-1893) (1821-1881) (1820-1864)
                            ||
                        マリヤ(1825-1864)パーヴェル(1845-1900)
                            ||
                           アンナ(1846-1918)
                             |
次男アレクセイ――長男フョードル――次女リュボーフィ――長女ソフィヤ
     (1875-1878)   (1871-1921)    |(1869-1926)   (1868 3カ月死亡)
タチャーナ ===  アンドレイ
             (1936・結婚)  (1908-1968)
                |
ドミイトリイ ―― ターニャ
ドストエーフスキイの会の招きで来日2004年11月4日(当時45)
ドストエーフスキイの会・読書会主催で東京芸術劇場で講演





広  場 


新谷敬三郎先生没後20年を前に

 阪神淡路大震災、オウム事件・・・1995年は、日本の安全神話を揺るがせた大事件や自然災害が起きた。つい最近のように思えるが数えればもう19年も前になる。まさに光陰矢のごとし、月日の過ぎる速さに驚くばかりである。

 平成7年この年は、日本にとって忘れられぬ年となったが、ドストエーフスキイ全作品を読む会並びにドストエーフスキイの会にとっても、忘れられない年である。この年の11月、会の創設者であり会の代表者、そしてドストエフスキーを愛読する市井の読者にとって精神的支柱だった新谷敬三郎先生が亡くなられた。来年2015年は没後20年となることから、本年から、本通信紙面において新谷先生が残されたドストエフスキー研究や関係作品、先生へのメッセージなどを紹介していきたい。

 はじめに先触れとして先生の7回忌に書かれた追悼文を紹介する。筆者は、会発足から亡くなるまで新谷先生と親交が深かった下原康子。




ありがとう、ステパン先生 ― 新谷敬三郎先生七回忌によせて ――

典拠:『ドストエーフスキイ広場 No.11』(2002)

下原 康子

 「新谷敬三郎先生を偲ぶ会」がご命日の十一月六日まじかの平成十三年十一月三日(土)午後四時から高田馬場のレストランを借り切って開かれた。ときわ奥さまをはじめ大学、学会、ドストエーフスキイの会などから、先生ゆかりの関係者三十名ほどが集って、生前の先生を偲んだ。会からは木下先生の奥さま(木下先生は外せない予定が重なってやむなく欠席され、奥さまがメッセージを代読された)、井桁貞義氏、岩浅武久氏、渡辺好明氏、福井勝也氏、冷牟田幸子さん、下原康子が出席した。小山田チカエさんは、会の半ば過ぎに西荻窪まで来られていたのだが、残念ながら間に合わず欠席された。

 佐々木寛氏が司会をされた。最初に木下先生のメッセージを奥さまが読みあげられた。

 一九六九年のドストエーフスキイの会発足以来三十余年に及ぶ新谷先生との思い出と感謝の思いがしみじみつづられていた。その後もひきずられるように、次々と出席者のスピーチが途切れることなく続いた。思い出が溢れ出し止まらないようだった。自身の父親と重ねて話ながら涙ぐむ人もいた。先生の存在の大きさを改めて痛感し、もっともっと長生きをしていただきたかったと思った。ドストエーフスキイの会から渡辺さんと福井さんがスピーチをされた。お二人の話に共通していたのは、新谷先生は研究者には厳しかったが、一般会員にはいつもたいへん優しく接してくださったことだ。本当にそのとおりだった。おそらく多くの人が同じ感謝の気持ちを抱いていると思う。

 私にとって新谷先生は親しみやすい反面、ドストエーフスキイとダブルイメージの謎多き人でもあった。しかし、先生がドストエーフスキイの会に対していかなる理念をお持ちだったかについては確信がある。『場 ドストエーフスキイの会記録T』のあとがきで木下先生が「内にも外にも開かれた出会いと対話の精神 」と表現されているその理念を新谷先生の肉声で再現してみよう。早稲田大学小野講堂で開かれた第九回総会(一九七八・六・二四) での『挨拶』と題する講演の冒頭の部分である。(会報五二号)

 「ドストエーフスキイの会は今年で十年目を迎えました。その間さまざまな人々が集まり、また別れていきました。別れていってそのままになった人もいれば、またひょっこり現れる人もいました。現在会員は百十八名だそうですが、例会ごとに新しい人々が参加し、何ごとかを語り、しばらく一緒に歩いたり、またふっとどこかへ行ってしまったりしました。そういうことが大変のんきにできる会なのですが、でもいつのまにか何となくある人々がひとつの場をつくって、こうした営みをつづけて、いつのまにか九年たったのでしょう。有難いことです。

 この会はこうした出会いの場所、そこにはしかし、いつもドストエーフスキイがいるはずなのですが、実は私たちはまだその人を見たことがない。おそらくそのせいで、しきりに彼の噂をして、出てくるのを待っている。あるいは無駄なことをしているのかもしれません。確実なこと、有用なことでなければしないという人にとってはきっと意味のない場所に違いありません。でもおかげでちゃんと続いているのでしょう。あるいは私たちはかくれて見えないドストエーフスキイに踊らされているのかもしれません。ちょうど彼の作中人物のように。そう考えるほうがでも楽しいですね、彼を踊らせて見せ物にしようなどと企むよりは。」

 新谷先生、ごらんのとおり、発足から三十余年たった今でも、会は意味を問わない場所で、でもおかげでちゃんと続いています。ちょっぴりニヤッとしてうなずかれるお顔が目に浮かぶ。

 新谷先生は独特のスタイルを持った方だった。文体と書体はすぐにそれとわかった。特に会報掲載の追悼文が印象に残っている。中でも「野田栄一氏を悼む」(会報四一号・一九七六)は忘れがたい。「野田栄一さんが亡くなられたと聞いてびっくりした。去年の夏であった。最近例会にお顔をお見せにならなくなったので、如何おくらしですか。あなたがお出にならないと、会がさびしくて仕方ありません。とお便りしたら涼しくなったら、また出かけます。というご返事だったのに、その後もご出席がないので案じていたところであった・・・」野田栄一さんは、報告が終わるといつもまっさきに三つの質問をなさるのが印象的な白髪の紳士だった。新谷先生は野田さんが会にみえなくなったのを気づかっておたよりをなさっていたのだ。

 平成七年、阪神淡路大震災とオウム事件で日本の安全神話が崩壊したその年の四月二十日、古い会員の一人で私の無二の親友だった伊東佐紀子さんが癌で逝った。下原敏彦が新谷先生に訃報をお知らせし、追悼文をお願いした。伊東さんへの追悼文が会に寄せられた新谷先生の最後の言葉になろうとは予想だにしなかった。それから半年も経たずして先生は亡くなられた。それほどお加減が悪かったのに、無理なお願いをした上に、伊東さんが亡くなって二ヵ月後、私が乳癌にかかり入院していたことまでお知らせしご心配おかけしていた。

 読書会通信のお礼を述べられたおはがきの最後にあの独特の書体で「奥さま、お身体をお大事に」と書かれていた。七月末のある夜、突然電話をいただいた。特に用件があったわけでもなく、敏彦が最近の読書会のことなどをとりとめなくお話したら、「会場が変わったんだねえ、行ってみようかねえ」とうれしそうに言われたという。お礼の一言も申し上げないでお別れしたのが残念でたまらない。

 楽しかった思い出が浮かんでは消えてゆく。コンサートホール時代の読書会(一九七五・二〜一九七九・二)。ラスコーリニコフの屋根裏部屋のような場所だった。そのころの参加者は十数名くらいだったが、新谷先生はたいてい参加されていた。あまり発言はされず端の方の席で楽しげに議論に耳を傾けておられた。それだけで、心地よい刺激がその場の雰囲気を盛り上げ、熱気が増した。自信のない発言者も先生がうなずいてくださることで励まされた。先生は二次会にも必ず参加されていた。

 田中幸治さんのお誘いで、読書会のメンバー、しかし世間的には奇妙な組合せの男女六名(新谷、田中、木下、伊東、外山、佐伯)で埼玉県寄居の少林寺五百羅漢にハイキングに行ったこともある。佐伯(下原)が記している(会報二九号・一九七三)。草津の天狗山ペンションでの泊りがけの読書会も忘れられない。米川先生の北軽井沢別荘をお訪ねし、米川夫人とご長男の哲夫氏に歓待していただいた。伊東さんが記している(会報三四号・一九七五)。伊東さんのシャンソン発表会も聞きにきてくださった。

 伊東さんや私たち女性だけで作っていた文学同人誌『ぱんどら』の五号から十号(最終号)の表紙のデザインは新谷先生の作品である。コンピュータグラフィックを先取りしたような洗練されたデザインに同人一同目をみはった。五号には女性のペンネームで新谷先生の一編の詩が載っている。多彩な才能にめぐまれた方だった。一九九○年代初期にすでにパソコンを愛用なさっていたし、コンピュータゲームを楽しむ感性も持っておられた。

 早稲田の最終講義をワープロで復元しコミュニティカレッジの製本教室に通って私家本を作られた。そのいきさつを書かれたものを、亡くなられた後、ときわ奥さまがかわいいフロッピー本(フロッピーと同じサイズの豆本)に製本されたのを送っていただいた。職人の仕事場にあこがれ、それがかなった喜びが素直に記されている。穏やかな晩年がしのばれる。

 通信技術の変革がコミュニケーション手段の一形態である文学や芸術に大きな影響をもたらすであろうことを先生は予言しておられた。現在、インターネットをきっかけに例会や読書会に参加する若い人たちが増えてきている。読書会で報告した若い女性は『貧しき人々』はメール交換で『六通の手紙に盛られた手紙』は「インターネットの掲示板」と称した(読書会通信七○号・二○○一)。「そのとおりです」そう言って先生は大きくうなずかれるに違いない。

 「偲ぶ会」の最後はときわ奥さまの心にしみるご挨拶でしめくくられた。「しら鳥はかなしからずやそらの青海のあおにもそまずただよう・・・主人はこのしら鳥のような人でした」と言われた。それをうかがって、「我信ず、信なき我を救いたまえ」という先生が好きだと言われた言葉が思い出され、先生の姿が『悪霊』のステパン氏の最後の姿と重なった。

 ありがとう、なつかしいステパン先生。いつまでも私たちを見守っていてください。





ドストエーフスキイの会・読書会発足の頃(1969〜71年まで)


1969(昭和44)3 ドストエーフスキイの会発足
1970(昭和45)10月27日 第11回例会:カラマーゾフの世界(岩浅武久氏)
    子どもの話が印象深かった。ロマンティックリアリズム  入会 50~60名の参加者がいた。
1970.12.19  忘年会 読書会を作ることが決定。
1971.1.30 第12回例会 「悪霊」におけるフォークロア的、神話的要素
1971.4.14 第一回ドストエーフスキイ全作品を読む会 「貧しき人々」早稲田大学交友会館 参加者12名 (伊東さん、外山さん入会)
1971.10.30 ロシア手帖の会共催 ドストエーフスキイ生誕150周年記念講演会
      講師:埴谷雄高、秋山駿、五木寛之 そごう読売ホール 大盛況
      生誕150周年記念出版「ドストエーフスキイとペトラシェフスキー事件」
      (原卓也、小泉猛編 集英社)
1971.11.13 ドストエーフスキイ生誕150周年記念シンポジウム テーマ:ドストエーフスキイと現代 (1部:歴史・社会 2部:存在 3部:方法)3部は例会にもちこした。
(早稲田小野講堂 参加費:200円)

第2部:存在の部 で「ドストエーフスキイにおける悪の問題」ロシアの民間伝承の「悪魔」が話題。
1972.5.13 第3回総会&懇親会 飯田橋の言研友の会
1972.7.1 運営委員会 佐伯、伊東、外山が加わった。
1972.12.9 第2回ドストエーフスキイの会シンポジウム(小野講堂)
     報告者4名 新谷、井桁、黒沢、江川
     江川さん「ドストエーフスキイの作品におけるフォークロア的要素」
     罪と罰(ラザロの復活)
     むこうはフォーク、こちらはフォークロアですね。
1969 東大紛争、日大紛争ピーク
1969.7.20 アポロ11号月面着陸
1970.2.31 よど号ハイジャック事件
1970.11.25 三島事件
1971 成田闘争 ワシントンでベトナム反戦大集会
1972.2.28 浅間山荘事件、連合赤軍事件





映 画
   

ある地方都市にて自主上映の映画「約束」を観る (編集室)

 昨年の晩秋、私事で旅したとき、ある町の公民館で自主上映の映画を観た。「約束」という冤罪事件を扱った映画である。この映画「約束」は、東海テレビ放送「司法シリーズ」の一つで、名張毒ぶどう酒事件の死刑囚を描いたもの。事件は風化しているが概要はこうだ。
 1961年3月28日 三重県名張市の山間部にある葛尾部落の集会所で起きた。部落には18戸の家があった。この月、毎年、開かれる懇親会があり、その席で男は、日本酒、女はぶどう酒を呑むことになっていた。皆で乾杯してはじまった宴会だが、間もなく地獄と化した。ぶどう酒を呑んだ女たちが苦しみだした。15人が倒れ、そのうち5人が死亡した。警察は、「名張毒ぶとう酒事件」として捜査を開始した。
 6日後、部落の住人奥西勝(35)が逮捕された。逮捕理由は、部落内での三角関係を清算するために妻と愛人の殺害を計画、実行したとの物証なしの見切り逮捕。が、容疑者となった奥西本人は、「懇親会の会場となった集会場で、一人になるときを狙いぶどう酒に農薬を入れた」、と自白した。そして、逮捕直後の記者会見で奥西容疑者は、被害者や遺族にお詫びの言葉を述べた。事件は一見落着したかにみえた。
 ところが1964年(昭和39年)津地方裁判所で、自白は信憑性がなく、物的証拠も乏しい。よって「疑わしきは罰せず」ということで無罪判決がおりた。判決後記者会見で奥西は、記者からの(重大事件で、死刑判決は確実というのに)
「なぜ逮捕後の記者会見で、被害者に申し訳ないと、あんなことを言ったんですか」
の質問に、奥西は
「あの時は何と言っていいかわからずにいたら、警部補が原稿を書くからそれを覚えて言うようにと言われた。自分の意志ではなかった」と答えた。
 この判決を不服とした検察は控訴した。
5年後の1969年(昭和44年)名古屋高等裁判所は、1審の無罪判決を破棄し、有罪として
「被告人を死刑に処す」との判決を下した。
 戦後の裁判で唯一、無罪から極刑への逆転判決となった判決。1972年(昭和47年)、最高裁で「死刑」が確定した。以後、奥西は、冤罪を訴えつづける。
 1987年(昭和62年)、逮捕から26年目、奥西(61歳)のところに人権団体から
「あなたの力になりたい」と、救援活動の声が届く。
 以後、署名運動など支援活動は、今日に至る。
 この事件のポイントは、犯人は、18軒の部落内の人間。それも16歳以上の、といえるが、警察の捜査は、先に犯人を断定してしまった。初動捜査のミスといえる。当初、重要参考人は、幾人かいたという。懇親会の会長もその一人らしい。会長は自ら「このような犯罪を起こす理由のあるものが、3人ほど思い当る」と供述していという。そのうちの一人は、会長の妻で、長年いじめられていた姑への復讐がその理由とのこと。いずれにせよ、事件は、狭い社会のなかでの愛欲、家族憎悪のなかで起きたものと推測される。
映画でわからなかったのは、一番身近にいた部落の住人たちの感想と意見がすくない。無罪判決をだした津地方裁判所の裁判官の性格や判歴も知りたい。冤罪は絶対にあってはならない。が、映画観ただけで信じきれるのか、というと懐疑は残る。映画でわかったのは何が真実かを見極めることの難しさ、だった。 

映画「約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯」監督・脚本 齊藤潤一
出演 仲代達也 樹木希林 天野鎮雄 山本太郎
ナレーション 寺島しのぶ
制作・配給 東海テレビ放送


演劇 
東京ノーヴイ・レバートリーシアター主催
ドストエフスキー作『白痴』  提供=中村恵子様

2014年は、2月10日(月)夕方6時30分 、3月2日(日)
午後3時から、4月11日(金)夕方6時30分、5月4日(日)午後3時から 終了後アフターミーティング、6月6日(金)夕方6時30分。料金1000円(全席自由席)




編集室

年6回の読書会と会紙「読書会通信」は、皆様の参加ご支援でつづいております。開催・発行にご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です)
郵便口座名・「読書会通信」    口座番号・00160-0-48024 

2013年11月28日〜2014年1月20日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりて厚くお礼申し上げます。

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