ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.140 発行:2013.10.17

第259回10月読書会のお知らせ

月 日 : 2013年10月26日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)
開 場 : 午後1時30分 
開 始 : 午後2時00分 〜 4時45分
作 品 : 『虐げられし人々』米川正夫訳(河出書房新社) 他も可
報告者 : 國枝 幹生氏     
会  費 : 1000円(学生500円)

二次会はJR池袋駅西口付近の居酒屋  5時10分 〜  

  
12月読書会は、東京芸術劇場の第5会議室です
開催日:  2013年12月7日(土) 午後2時〜4時45分迄です





『虐げられし人々』を読んで
      

國枝 幹生


小沼文彦が述べたこと(『虐げられた人々』巻末 1974 岩波書店)

「発表と同時に相反する二つの批評を得た。それは、一つはドブロリューボフを代表する社会的傾向、悪徳公爵一人のためにイフメーネフ、ナターシャ、ネルリは虐げられ踏みつけにされてそれぞれ悲惨な目にあう。純な心のナターシャのような娘が、どうして軽はずみで怠け者の少しも頼りにならないアリョーシャに恋するようになったかドストエフスキーはそれを読者に説明してない。

 良いところは、ヒューマニズムが溢れている後期の作品に比べ、もっともすぐれたもの。
彼のいわゆるよい傾向に属する「貧しき人々」「死の家の記録」などと共に反動的作品「白痴」「悪霊」などと全く反する作品の一つとして数えられている。

 このドブロリューボフの批判に対して、それは自分の思想的な立場にとらわれ過ぎたものでナターシャがアリョーシャのような男に恋を覚えさせるようにした点こそドストエフスキーの非凡な才能がある。ナターシャの性格の創造こそ一代進歩である。とする一派がある。

 底に流れているのはドストエフスキーのヒューマニズムの精神である「全ての人間はまず人間であらねばならない。他の人間に対しても人間が人間に対するようにしなければならない」という彼の理想である。

中村健之介が述べたこと(ドストエフスキー人物事典 2011 講談社)

 ドストエフスキーが自分の回顧像をこのように、不幸な人に同情し援助する博愛主義者として描いたのには、間にいった。彼が青年時代に心酔した「新しいキリスト教としての社会主義」の考えが深くかかわっている。その「社会主義」は、足の悪い人や姦淫(かんいん)の女に同情する福音書のイエスこそ理想の人間だと教えた。そして、そのイエスにならって、不幸な女や傷ついた幼い者のために、おのれを犠牲にし愛をもって援助者となることが、人間の最高の生き方なのだと教えた。1840年代のロシア知識青年の間では、この教えが「新しい真理」として熱心に受け入れた。コマローヴィチが「ドストエフスキーの青春」で言っているように、ドストエフスキーも、「40年代人」の一人として、その人道主義の教えを心に深く吸い込んだのだった。「あなた方は、「シラー」の様な博愛主義者だ。このワルコフスキーの言葉にも、作者ドストエフスキーの、「新しいキリスト教としての社会主義」に対するこだわりがみえる。」つまり、「社会主義」という博愛主義をめぐる、ドストエフスキー自身のアンビヴァレンス(愛憎相半ばする感情)が彼の創造した人物たちに反映しているのである。

國枝幹生が述べること

 今回の作品は前回、前々回と比べると格段に読みやすく、また劇を見ている様な感覚を味わえた。個人的な精神の描写もあるがストーリーとしての技術がみられた様に思う。
ネルリが最後に死んでしまう所などは、つい感情移入してしまい泣きそうになった。
 この物語を語る語り手が病床についていることはさらりと描かれていて、読んだ後に解説書を読んで気がついた。この語り手が「虐げられた人々」に入るのか入らないかがよく分からなかった。最初読んだ時は誰が虐げられた人々なのかよくわからなかった。ネルリだけが唯一虐げられた人のようなきもしたが、人々となっているので他にもいるのだろうと思われる。しかし大人の人間が自分の力でもって人生を切り開いていけないほど、打ちのめされているとは思えなかった。そういう、いわゆる人生の不条理的なものはどこにでもある気がしてわざわざ「虐げられた」と表現するような事でもない気がした。そういった意味でこの本がなぜ「虐げられた人々」となっているのか皆様のご意見を伺いたい。
 小沼文彦氏が書かれていることについては、ナターシャがアリョーシャのような男に恋することは、ナターシャの視線からみると不思議に思えるが、この物語全体の構成から考えると、必要だったように思える。とくに自己犠牲を払ってまでナターシャを助けようとする語り手が生きてくるためにはナターシャは駄目な男に恋するほど良かったのではないかと思う。




年譜  『虐げられし人々』誕生まで
(米川正夫訳『ドスト全集』から)

・1859年(38歳)
11月25日ドストエフスキーはトヴェーリ県知事パラノフからペテルブルグ居住許可の手紙を受け取る。
11月〜12月、『スチェパンチコヴォ村』(後に「スチェパンチコヴォ村とその住人」と改題)を『祖国の記録』11〜12月号に発表。 
12月中旬 ペテルブルグに向けてトヴェーリを出発。月末ペテルブルグへ移る
・1860年(39歳)4月文学者救済基金協会ゴーゴリ作『検察官』上演。ドストエフスキー郵便局長役で出演。 
9月1日 『ロシア世界』67号に『死の家の記録』を連載開始。9月×日 『虐げられし人々』を起稿
・1861年(40歳)1月『時代』誌創刊。『虐げられし人々』を7月号まで連載。完結。
2月19日 農奴解放令発布。4月 『時代』に『死の家の記録』を再連載。断続で翌年まで。
7月 聖ペテルブルグ検閲委員会より『時代』刊行許可下りる。
9月 『現代人』9月号に『打ちのめされた人々』(『虐げられし人々』論) が発表(ドブロリューボフ)される。
・1862年(41歳)1月 1月号より『死の家の記録』第二部連載開始(2,3,5、12月号)


連載した雑誌『時代』について

「いいや、兄さん、ひとつ考えてみる必要がありますよ。それも本気になってね。思い切って、何か文学関係の事業に乗り出す必要があります、たとえば雑誌を出すとか・・・(ドストエフスキーから兄、ミハイル宛の手紙  1859年11月12日付)

請 願 書
ペテルブルグ検閲委員会殿

 私儀、1858年10月31日付を以て、政治・文学の週刊新聞「時代」の発行許可を与えられておりますが、来る1861年より、貴委員会によって既に許可されていると同一の企画と名称のもとに、月刊誌を発行したく愚慮しております。因って、既に許可されております企画に従い、ただ発行問題のみを変更して週刊誌に代わって月間として、1冊印刷全紙25枚乃至30枚の、月刊誌を発行することを御許可下さいますよう謹んでお願い申し上げます。(1860年6月18日  退役工兵中尉 ミハイル・ドストエフスキー)

『虐げられし人々』は、1861年1月に創刊された雑誌『時代』から連載。

文学的権威から完全に独立した雑誌を ドストエフスキー

「我々の生きている時代は、最高に注目に値する危機的な時代である・・・・・我々は、諸々の文学的権威に対し敬意を感じているものであるが、しかし、それらの権威からは完全に独立した雑誌を創刊しようと決意した・・・我々の雑誌は、文学以外のことにかかわるいかなる反感も偏愛も抱きはしないだろう…我々は論争を避けるものではない。

成功することを期待する  チェルヌィシェフスキー

 創刊号から判断しうる限りでは、社会の良質の部分をなす人々の間において、さまざまな意見の相違がありうる問題の多くについて、『時代』は、『現代人』と考え方を異にしていると思われる。…我々はこの新しい雑誌が成功することを期待する…(「新しい定期刊行物」)
 ※1860年代の民主主義陣営のオピニオン・リーダー1828-1889

『時代』好評です !  ブレシチューエフからツルネフへの手紙 1861年1月18日

 ドストエフスキー兄弟の『時代』は、なかなか良いもので、みんなの関心をひいています。批評はよく書けていますし、雑誌の傾向も共感を呼びます。

自慢したい頁、50頁くらいある ドストエフスキー(『注記』)

・・・・出来上がった作品は目も当てられないものとなったが、それでも、私としては自慢したいページも50ページぐらいはあるのだ。

「虐げられし人々」etc・・・・・・

シェイクスピアと「虐げられし人々」

 ドストエフスキーの海外における最初の研究者の一人であった、イギリスのJ・A・ロイドは、その著書の中で、この作品についてこう述べている。(米川正夫訳全集)
「ドストエフスキーは、いかなる黙示にも畏縮しなかった。シェクスピアの客観性は持たないけれども、またシェクスピアの強壮な健康性は持たないながらも、このロシアの懐疑者は、少なくともハムレットの創造者と共通な一つの素質を持っていた。その創造者については、ラスキンがいみじくもいっている。〈彼はいかなる道にも偏さないのことが必要であった。彼は法廷や、修道院や、酒場などの生活を、絶望的な公平をもって傍観し、しかも、おのれ自身からも、その人格とともに両親さえも奪い取り、彼らの胸中に没入するほど完全に、自分の創造したすべての人物に同情し得ることが必要であった…彼はまったく怒りも持たず、かつまったく無目的でなければならぬ。なんとなれば、それによって渋面をつくったり、あるいは無頓着に眺められるからである〉ドストエフスキーの『幻想的』な患者はシェクスピアの完全無欠な創造物とは違っていた。が、しかし何びとも、シェクスピアその人すらも、この『虐げられし人々』を自伝の一部とする虐げられしものの小説家以上に、人間の魂を公平無私に覗きこみはしなかった。・・・・」
 シェクスピアと『虐げられし人々』について、訳者・米川正夫は、このように書いている。
「…シェクスピアとの比較に関しては、面白い問題の提起の仕方であるということができる。この問題はシェクスピアがどの程度まで、自分の悲劇的な体験を作品で芸術化したか、ということが判明したとき、はじめてほんとうの問題として成立するわけである。
トルストイと『虐げられし人々』
 一方、トルストイは、この作品について、このようなことをいっている。
「わたしは自分を彼と較べようなどとは、一度も考えたことがない。彼が書いたものはことごとく、――よいもの、真実なものだけを指しているのだが、−―ああいうふうだったので、彼があんなにやればやるほど、わたしはますます喜んだわけだ、芸術的完璧と知性では、わたしに羨望の念をそそるが、まごころから出た作品は、歓喜を誘いだす…彼が何なる数日前、わたしは感動と愉悦をもって、『虐げられし人々』を読了した。


『如何なる星の下に』と『虐げられし人々』の謎

 『虐げられし人々』を手にとると、なぜか高見順(1910-1965)の『如何なる星の下に』を思い出す。そうして、もう一度、この作品を読み返してみようと急いた気持ちになったりする。が、気がついたらそれからもう40年も経ってしまっている。
 この作家の作品で記憶にあるのは、他に『波間』ぐらいか。『如何なる星の下に』は、浅草の踊り子と小説家の話だったが、読んでいるうちに、『虐げられし人々』を想起した。きっと『虐げられし人々』を下地にした。そのように思った。そして、いつか両作品を比べてみようと思いながらも、結局は、なにもできなかった。いまは考察する気力もない。で、もし興味ある人は、『如何なる星の下に』を一読してみてください。




8・17読書会報告
 
               
酷暑のなか参加者15名。8月読書会は、記録的暑さと、お盆明けということもあったが、15名の参加者があった。常木さんは、激動の中東諸国から駆けつけての参加でした。

丁寧な検証でドの獄中記を分析 報告の小柳定治郎さん

 まとめで、小柳氏は「ドストエフスキーの本質はシベリヤではなくペトラシェフスキー事件にあった」と推論された。ドストエフスキーの人生を色分けしたとき、これまでシベリア以前・以後の二つの人生が大方の見方だっただけに、ペトラシェフスキー事件を分岐点みるのは、新しい考察といえる。





「死の家の記録」と「復活」


前島省吾


一、検閲の影響?
 
 この作品は検閲の影響を受けているという意見が多数あった。政治犯としての前科があるために常に監視下にあったのは事実だし、検閲制度の下で制約があったことは間違いないが、私は後世に名を残す作家は、検閲に屈して節を曲げ二枚舌を使って権力に迎合するような作品を発表することは決してあり得ないと確信している。ラジーシチェフ、プーシキンからブルガーコフ、ソルジェニーツイン、パステルナークまでロシアの偉大な作家は検閲を恐れなかった。ロシアの伝統の中では、偽物は直ちに駆逐されるであろう。たしかに笞刑は死刑の代用であったにもかかわらず死者がひとりも登場していないことや、司法当局が悪辣非道な少佐を罷免したうえ過去の罪まで暴くという首を傾げたくなるシーンもないわけではない。しかしこれが検閲を考慮し本心を偽って権力に阿った結果であるということはできないと私は思っている。全体として、監獄の非人間的な過酷な状況は書き尽くされているし、笞刑の場面にしても彼が書きたかったのは、2000発あるいは4000発もの笞に耐える超人的な人間、その人間の持つ強靭な精神力であったのであろう。ペトラシェフスキー会員であった当時でさえ、農奴解放、出版の自由などの主張を一切作品の中に織り込まなかった。外部環境は書かず人間内部の象徴的心理状況のみ描く、これが彼の作品スタイルである。
 「この壁の中でどんなに多くの青春が葬られたことか。(中略)その逞しい力が滅びたのだ。変則に、不当に、二度と再び返ることなく滅びたのだ。それは誰の罪だろう。実際誰の罪だろう?」という問いへの答が書かれなかったのは検閲のせいであり、当局の監視下にあった為だという人もあるかもしれない。たしかに答は書かれていない。だが果たして検閲のせいであろうか。もし監視下でなければその答を書いただろうか?私は仮に自由な環境であってもこの小説では答は書かれなかったと思う。
 次の聖書の言葉が彼の脳裏に浮かんだことだろう。「主は愛する者を鍛え、子としてうけいれる者を皆鞭打たれる。(ヘブライ人への手紙十二の六」彼は世紀の懐疑の子である。自問自答を繰り返す。「不幸な人々」は鞭打つ神を受け入れるであろうか? 神を愛するだろうか?そもそも神は存在するのか?彼の心に「神の罪?」という疑問がチラと横切ったかもしれない。彼が答を書かなかったのは検閲のためではない。それは彼の生涯問い続けるテーマだったからである。その答えを求めて、「罪と罰」から「カラマーゾフの兄弟」まで一連の大作を書き続けたのである。

二、刑罰に関するトルストイの視点

 「死の家の記録」を読んで感激したトルストイは後年、「誰の罪か」に対する答えとして、「復活」を書いたのではないか。トルストイは、刑罰を作る側の人々、つまり警察検察裁判所などの司法権力機構が人民から集めた莫大な税金から受け取る俸給制度を維持するために、犯罪者を必要として、罪人を作り上げているとみなす。犯罪者の7%をしめる冤罪。約半数を占める情状酌量の余地が十分ある激情、酩酊、嫉妬による犯罪、そして道徳的には本来無実であるべき人々、つまり大地主や国有林の草を刈ったり薪を取ったりしただけで刑罰を受ける者、道徳的に高い分離派教徒、ポーランドやチェルケス人の独立運動の活動家、自分たちの権利を主張しただけの同盟罷業参加者、社会主義者。これらの人々は、司法権力者のみが有罪と認定した人々である。また貧困のなかでパンを盗んだ少年、絶えざる虐待に晒され放置され愚鈍化され誘惑されて犯罪を起こさざるを得なかった者や精神異常者たち。これは本人の罪というよりは、社会の罪というべきである。「刑罰からの解放こそ犯罪からの解放である。」とトルストイは主張する。(参照:復活あとがき 復活と私 北御門二郎)

三、刑罰に関するドストエフスキーの視点
 ドストエフスキーは全く違う見解を持っていた。
「犯罪人を不幸な者とみなすことは純粋にロシア国民の観念である。しかし民衆は犯罪人を不幸せな人間と呼びはするが、決して彼を犯罪人と考えることをやめにしなかった。犯罪人もまた誰一人自分のことを犯罪人と考えることをやめにしなかった。」「厳酷な刑罰、牢獄、懲役などによって、あるいは彼らの半数を救いうるかもしれない。それは彼らの良心を楽にこそすれ苦しめはしないであろう。苦悩による自己浄化のほうが容易に違いない。そして裁判によって無罪にしてやったら、諸君は彼らの魂に民衆の真理、および神の真理に対する不信の念を注入しているのである。」と過酷な刑罰制度を肯定するかのような発言を「作家の日記」の中に記している。だがその一方で、「死の家の記録」の中に、こういう文章もある。「一口にいえば、他人に対する体刑の権利は社会の癌のひとつであり、その社会における公民思想のあらゆる萌芽と企図を絶滅するための、最も有力な手段のひとつであり、社会を避くべからざる必然の崩壊に導く最大の根拠である。」そして「刑吏の素質はほとんどすべての現代人の内部にその胚珠を隠している。」
 ゾシマ長老の法話に、下記の文章がある。「人は誰の審判者にもなりえぬことを、特に心に留めておくがよい。なぜなら当の審判者自身が、自分も目の前に立っている者と同じく罪人であり、目の前に立っている者の罪に対して誰よりも責任があるということを自覚せぬ限り、この地上には罪人を裁く者はありえないからだ。それを理解したうえでなら、審判者にもなりえよう。」
 ドストエフスキーが問題にしているのは、刑罰は制度の問題というより人間の存在そのものの中にある血と権力への欲望、粗暴な傾向と淫蕩の欲求、つまり人間の問題であった。
 ドストエフスキーは、冤罪さえ肯定的に魂の救済と関連づけて考える。あえて冤罪を引き受けてシベリアに向かおうとするドミートリー・カラマーゾフは、「死の家の記録」のひとつの産物であり、「誰の罪か」の答えのひとつである。彼が罪を引き受けるのは、父の死のためではないとしても、他の自らの罪のためである。あるいは自分の罪ではないとしても、他人の罪のためである。苦悩が救済
になるからである。(E・H・カー 「ドストエフスキー」)

四、 民衆―人間の発見

 ドストエフスキーは「死の家の記録」のなかでは、上記のような司法制度や犯罪および犯罪者に関する思想はほとんど語っていない。唯一思想といえるものは、「民衆の発見」である。私は「民衆の発見」というよりは「人間の発見」であったと思う。彼が「死の家の住民」ひとりひとりの中にある「人間」の真実を発見し、これを詳細に記述したことに比べれば、「貴族と民衆の違い」の意見表明などそれほど重要視するべきこととは思えない。
 顔色ひとつ変えずに老人や子供たちを惨殺してきたオルロフ、全囚人中もっとも向こう見ずで命知らずと怖れられるペトロフ、快楽のために連続幼児殺人を行ってきたガージン、手記の筆者ゴリャンチコフがこれほどの完全な精神的堕落と恥知らずな低劣さにはお目にかかったことがないと記した根性の腐ったスパイで密告者の元貴族A(アリストーフ)、理由もなくおとなしい妻アクーリカを虐待し殺したシシコーフ。彼らのみならず囚人達の誰一人として自分の犯罪に後悔の念を抱いていないと筆者は語る。そのゴリャンチコフでさえ後悔の言葉は一言も語らない。囚人達の心を支配しているものは自尊心であり、自尊心を侵されたと感じたときは強く反応する、時には殺人さえ辞さない、底知れず不条理な人間群。それこそ
ドストエフスキーが発見した人間像である。ただこの小説の中では、死の家の住人自身は誰も自己について語っていない。彼らが自己を語りだすのは別の小説の中である。その時、彼らはラスコーリニコフやスヴィドリガイロフやスメルジャコフ、スタヴローギンに変身することであろう。アクーリカは「おとなしい女」として、シシコーフはその亭主あるいは地下室の住人として再登場するかもしれない。

五、 トルストイとドストエフスキーの聖書理解の違い

 「復活」にはエピグラフとして聖書の言葉が掲げられている。「その時ペテロ彼に来たりて曰いけるは、主よ!幾次までわが兄弟のわれに罪を犯すを赦すべきか?イエス彼に曰いけるは、なんじに七次とは言わじ七次を七十倍せよ」 トルストイは、あくまでキリスト教徒として、正しい聖書解釈を逸脱したギリシャ正教会、国家権力の横暴圧政を糾弾し、その文学も「不幸な人々」救済のための行動の一手段であった。パウロの「ローマの信徒への手紙」に次の記述がある。「私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられてもよいとさえ思っている(9章3節)」。内村鑑三は、このパウロの文章を、「人類全体の救いがなければ、たとえ自分はキリストから離れて滅びてもよい」と解釈する。パウロの真意は憂国の士としてユダヤ教徒を諌め、キリストへの回帰を促し、ユダヤ人・異邦人問わず全ての民族に信仰、奉仕、施し、慈善への行動を呼びかけるものであった。パウロ自身「この世を去ってキリストと共にいたい。このほうがはるかに望ましい。(フィリピ書一24)」とさえ語っていたにも関わらず他人の為に命をかけて戦い続けた。結局パウロは殉教した。トルストイはパウロには批判的だったようだが、信仰に基づく民衆の救済、非暴力の実践という点では共通していると思う。 その精神はガンジー、キング牧師、マリア・テレサなどに受け継がれていった。
 ドストエフスキーのキリスト観は全く違うものであった。「真理とともにあるよりは、キリストとともにありたい」という有名なフォンヴィージナ夫人あての手紙は、オムスク監獄釈放直後に書かれたものである。このドストエフスキーの思いは、聖書の教条的解釈とは全く違うものである。少なくともトルストイや内村鑑三のようなキリスト者とは全く違う基盤に立つものである。E・H・カーも、ムイシュキンを通して示された倫理的理想は、「善良な人
間とは善行を積む人間である」という西欧的な考え方とは全く違うと述べている。善行より感情・意識を重視する聖書理解とキリスト信仰は、「死の家」の中での人間観察の中から生まれたといって間違いないであろう。

六、「死の家の記録」の復活の意味

 近田友一氏は「オムスクの監獄はドストエフスキーが一度“無”になった場所である。一切のものを「意味」から解放し、そこからまた新しい出発点を見出すこと、これが「死の家の記録」を書こうとした作家のモチーフであろう。(ドストエフスキー「死の家」から「地下室」へ)」と書いているが、私は”無“の視点とはキリストの視点ではなかったかと思う。無言で死の家の住人を見続けているキリスト、その目でゴリャンチコフも「死の家の住人」を見続けノートに細かく書き付けた。「不幸な人々」と共に在るキリストに囚人達は気付かなかった。キリストを発見したのは唯一人ゴリャンチコフだけであった。
 「そうだ、ご機嫌よう!自由、新しい生活、死からの復活……..なんと素晴らしい刹那であるか!」
 復活と何か? 死から復活・顕現した人間はイエス・キリスト以外誰もいない。一番弟子のペトロでさえ復活していない。人はイエス・キリストを知り新しい生を得たと感じたとき、
「復活した」と感嘆の声をあげるのだと誰かが語っていた。ゴリャンチコフは出獄後、キリスト教徒らしい行動は何一つしない。聖カチェリーナの日に必ず教会にいって誰かの供養を
営むぐらいであった。しかし彼はキリストに出会い、キリストの目で「不幸な人々」を見ようと努めていたのだと私は思う。
 この小説の末尾の言葉、自由と復活の喜びを告げるこの感嘆の言葉は、ドストエフスキーの言葉でもあると私は思う。この小説を書き上げた時、彼は自分の文学を取り戻すことができたのだ。文学者として再出発できるとの確信を掴んだのだ。「人間」を発見することによって、人間という善悪の彼岸にたつ存在の根源にあるものとは何か、人間の存在の意味とは何か、それを掴むことは可能か、その問いに取り組む自分の文学の課題、方向性を掴んだのだと思う。ドストエフスキーもこうして「復活」したのである。この作品以後倫理の根源、心理の深淵を求めてドストエフスキーの文学は一新する。
 芥川龍之介に「猿」(筑摩全集類聚 芥川龍之介全集1)という日本の「死の家」を描いた珠玉の小品がある。私は、芥川龍之介は「ドストエフスキーのキリスト」を熟知していると思った。





ドストエフスキー文献情報
  提供・≪ド翁文庫・佐藤徹夫≫

〈専載書〉

・『文学は〈人間学〉だ。』佐藤泰正、山崎むつみ著 笠間書院 2013.4.20 \1200+ 204p 18.8cm
S1 文学が人生に相渉る時 ―― 文学逍遥七五年を語る/佐藤泰正 p11-125
S2 カラマーゾフの〈人間学〉/山城むつみ p127-196
・『ミステリーとしての『カラマーゾフの兄弟』スメルジャコフは犯人か ? 』高野史緒著  東洋書店 2013.5.20  \800+ 63p  21p 〈ユーラシア・ブックレット no.181〉
・『偏愛記 ドストエフスキーをめぐる旅』亀山郁夫著 新潮社 2013.6.1 \550+ 294p 15.7cm 〈新潮文庫9715= か-69-1〉 ※解説/野崎歓(p289-294) ※初版:『ドストエフスキーとの59の旅』(日本経済新聞社 2010.6.21)

〈収載書〉

・『D・H・ロレンスの作品と時代背景 Works and Social Context D.H.Lawrence』倉持三郎著 彩通社 2005.1.10 \8000+ 590p 22.5cm
・第V部 キリスト教と異教 ―― 牧師批判と聖書の読み直し
・第3章 ドストエフスキーとキリスト教 ―― 全体は部分より大である p239-246
・『佐々木基一全集 Z 新編・映像論』佐々木基一著 河出書房新社 2013.1.3 \3500 + 549p 21.6p
・T 映画リアリズム論 ・ヴィスコンティのリアリズム 『白夜』P96-102 ※初出:「映画評論」1958.3月号
・『ロシア社会思想史 インテリゲンツィヤによる個人主義のための闘い 下巻』イヴァーノコ=ラズームニク著 佐野努・佐野洋子訳 成文社 2013.3.27 \7000+ 582p 21.6p  ※上下巻同時発行 上巻(614p \7400+)・第21章トルストイとドストエフスキー  p125-216
・『ニーチェを知る事典 その深淵と多面的世界』渡邊二郎/西尾幹二編 筑摩書房 2013.4.10 \2000+ 778p  14.9p 〈ちくま学芸文庫7-3-6〉 ※初版:『ニーチェ物語 その深淵と多面的世界』(有斐閣 1980.12.5)〈有斐 閣ブックス〉
・U ニーチェの精神史的系譜 34 ドストエフスキー/吉澤慶一 p269-272
・『楕円幻想 ―― 初期ドストエフスキイ・漱石と賢治・初期古井由吉について』武田秀夫著 現代書館 2013.5.5  \3800+ 491p19.5p
・第1章 楕円を描く ・ドストエフスキイを焦点として p51-60
・第2章 初期ドストエフスキイについて p69-200 (貧しき人々 ; 分身 ; 弱い心 ; 主婦 ; 白夜)
・『考えるヒント 3 』新装版 小林秀雄著 文芸春秋 2013.5.10 \629+ 350p 15.3cm 〈文春文庫 こ−1−10〉 ※旧版;1976.6.25 〈文春文庫 こ-1-3〉
・ドストエフスキイ十五年祭に於ける講演 p80-126
・『早稲田1968 団塊の世代に生まれて』三田誠広著 廣済堂出版 2013.6.1 \800+ 270p 17.2cm 〈廣済堂新書・031〉
・第六章われらの希望の最後の年
・ドストエフスキーが予言した世界 p224-226 ※他の個所でも
・『唐木順三ライブラリー T 現代史への試み 喪失の時代』唐木順三著中央公論新社  2013.6.10  \2300+ 492p 19.1cm〈中公選書・014〉  増補 現代史への試み・ドストイエフスキイ―三人称世界から二人称世界へ―  p59-110
・『「シベリアに独立を ! 」諸民族の祖国をとりもどす』田中克彦著岩波書店  2013.6.18 \2100+ 242+6p 18.8cm 〈岩波現代全書;003〉 ・第2章 ポターニン  6 セミョーノフ、流刑地のドストエフスキーに会う(p43-44); 7 ドストエフスキーの恋と結婚(p45-50); 9 ドストエフスキーのワリハーノフへの手紙(p53-54)
・第4章 逮捕と獄中生活 逮捕と獄中生活 12 ドストエフスキーが見たポーランド人流刑囚(p125-128)
・『文学と映画のあいだ』野崎歓編 東京大学出版会2013.6.24 \2800+ 214+14p 21p
・文学から映画へ、映画から文学へ/野崎歓 p1-21
・アヴァンギャルドと古典の間の巨大な振幅――ここでしか教えてもらえない、ロシア文芸絵てがを観る五つの効用/沼野充義 p107-128
・『ニコライ 価値があるのは、他を憐れむ心だけだ』中村健之介著 ミネルヴァ書店 2013.7.10 \4000+ 464+11p 19.4p〈ミネルヴァ日本評伝選〉
・第八章 第二回ロシア一時帰国 ・2 ロシア人支援者たちと交流、そして主教となって日本へ ドストエフスキー  p132-136
・『ナボコフのロシア文学講義 2 』ウラジミール・ナボコフ著小笠原豊樹訳 河出書房新社 2013.7.20  \1200+ 311p 15p 〈河出文庫ナ―2―3〉※初版:TBSブリタニカ刊(1982、1992〈新装版〉)文庫化に当り改題し、分冊とする。
・フョードル・ドストエフスキー(一八二一〜一八八一)p223-304
・『代表質問 16のインタビュー』柴田元幸著 朝日新聞出版 2013.7.30 \980+ 413p 14.8p 〈朝日文庫・L-24-4〉
・V 日本でいろんな人たちと ・沼野充義 トランス・アトランティック・ドストエフスキー p241-27 ※初出:「ユリイカ」2007-11月号  p40-60

〈逐次刊行物〉

・「江古田文学」82=VoI.32No.3(2013 Winter)
・読集:ドストエフスキーin21世紀 批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて※詳細は省略

〈書評〉

・出世作に挑んだ新訳 フョードル・ドストエフスキー亀山郁夫訳「すばる」『新訳 地下室の記録』/鹿島田真希「すばる」35(5)(2013.4.6)p416
・「ドストエ-フスキイ広場」No.22(2013.4.13) 全158p 詳細は省略
・「むうざ 研究と資料」28(2013.6.1)
・Л.А.オレーホワ教授の論文『Ф.М.ドストエフスキイの愛人アポリナーリヤ・スースロワ=ローザノフに関する新旧神話』 著者と論文の紹介 杉野ゆり  p55-59
・詳細省略 p60-73
・〈書評〉オリガ・グロスマン著『ドレスデンにおけるロシア世界 歴史的名所散策 』―サンクト・ペテルブルグ、NHK2010/出版齋杉直人p155-188※バクーニン、ドストエフスキー、ステパンについて、を含む 〈研究ノート〉『悪霊』第3部第5章における鞄の語について/千頭敏史 p189-202

〈参考〉

・『屍者の帝國』伊藤計劃×円城塔著Prject Itoh×Enjoe Toh 河出書房新社 2012.8.30\1800+ 459+2p 19.5p ※第33回日本SF大賞特別賞受賞 ※p66 「アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフ。それが、屍者の一団を引き連れ連れて軍事顧問団を離れ、アフガニスタン北方に屍者を臣民とする新王国を築こうとしている男の名前だ。・・・カラマーゾフ王国を目指す。・・・」p69 カラマーゾフ家の家系を語る。
・『虐殺器官』伊藤計劃著 2010.2.15 早川書房  \720+ 「ベストSF2009」第一位
世界から一向に戦争は無くならない。多くの国が民主主義国を目指す。しかし、あのアラブの春にみるように戦火と混乱は深まるばかりだ。平和になりそうになると必ず現れる白人の男。彼の行くところ、独裁と泥沼の内戦がはじまる。彼は何者。早世した作者が送る現代の『罪と罰』の世界。





連載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像                       (第49回)三島由紀夫の生と死、その運命の謎
 小林秀雄没後30年(再論-4)

福井勝也
 
 没後30年に、小林秀雄が論じたドストエフスキーについて考える機会を与えられていることがうれしい。当方の関心のある事柄が、周囲からも聞こえてくる時さらにその気持ちが強くなる。前回例会(第217回)の発表、「『白痴』を流れるキリスト教思想とは何か−ヨハネ福音書とヨハネ黙示録−」もそのような内容として聴かせていただいた。ここに小林の問題を中心に、発表の周辺的事柄から「感想」を記してゆきたい。
 発表者は東大博士課程在学中の才媛・原口美早紀氏で、途中小林についての言及が数度あり、内容と深く切り結ばれていると感じた。その前に発表者の指導教官が、ここ数年ドストエフスキーの新訳(『貧しき人々』・『地下室の手記』)も出されている安岡治子氏だとお聞きして嬉しくなった。今年逝去された父君安岡章太郎氏については、本欄でも小林と関係して言及してきた。7月末には、章太郎晩年の文章を集めた『文士の友情』(新潮社)という遺著も刊行され、治子氏が締め括くくりの「あとがき」を書かれ印象深い好著となっている。
 また治子氏がロシア文学を専門とされたきっかけが、1963年に小林秀雄とともに作家同盟の招待でソ連(当時)各地を巡った章太郎の旅行であったとのインタビュー記事(産経新聞9/4付)に注目した。さらに章太郎は晩年にカトリックに入信(1988年、68歳)するが、そのきっかけが同時期に父娘が別々に患った重い病気によるもので、遠藤周作の導きによる家族全員(母君と三人)の入信も、実は父親章太郎が真っ先に言い出したものだったという新事実も本著で知らされた。その際本欄(「通信」137号)でも取り上げた小林の『流離譚』感想の最後の言葉、安岡の六年後の受洗を見抜いていたかの批評文も紹介されていた。何もここで、その小林の慧眼をさらに賞賛するつもりはない。むしろ小林自身の問題として、「遺文」になった文章(「『流離譚』を読む」1982.1発表、翌年3月逝去)で、安岡家の幕末維新期係累でキリスト教に入信した女達の辛い人生に思いを巡らせ、作者の行く末を語るくだりに、小林の生涯の関心事(キリストの教え、信仰心)に改めて気付かされる思いがした。前置きが長くなっているが、周辺的事柄をもう少し続ける。
 発表者原口氏のもう一人の師、導き手が「会」の古くからのメンバーで、聖書・福音書の精密な理解から独自のドストエフスキーのテキスト読解を切り開いている芦川進一氏だと伺って、こちらも嬉しくなった。芦川氏は、現在「カラマーゾフ論」に取り組んでおられるとお聞きした。氏の近著には、木下豊房氏が書評(「広場」No.21)された『ゴルゴダへの道−ドストエフスキーと十人の日本人』(2011)があり、その「日本人」には当然に小林秀雄が入っている。木下氏も指摘しているが、西田幾多郎(「内在的超越のキリスト」)やその弟子の宗教学者小出次雄が到達した「キリスト像」を論ずる芦川氏は、それを小林の「キリスト理解」と重ねて肯定的に論じておられる。またこちらも木下書評とも関係するが、ドストエフスキーのキリスト像の極北がソーニャ像を通して浮かび上がる十字架上のキリストであるという芦川氏の洞察は、小林が戦後の『白痴』論を書きあぐね、何故その地点(1952-53、1964)でドストエフスキー論から撤退したかという問題と関係していると思う。そのことは、小林の「僕は聖書が好きで、よく読んでゐたし、あそこに現れるキリストも好きだ、しかしキリスト教がよくわからない、といふことに気が附いたため、結局は、ドストエフスキー論を放棄してしまったといふことになるんだな」と言う言葉の意味を探ることでもある。
 この点で、今年は小林没後30年にあたり、実はこの問題の発言を含む対談が未公開音源とともに再録公表された。(『考える人』春季号/新潮社、生誕111年・没後30年記念特集、小林秀雄最後の日々、小林秀雄×河上徹太郎「歴史について」)おもしろいタイミングを感じた。今日でも意味深いやりとりと思うので、該当箇所を少し長目に引用してみる。(なお、下線部は筆者、途中の注は原則として対談「特集」のもの、一部筆者注も)
 小林 君の「近代史幻想」(河上徹太郎の評論集、s.49年刊行、対談注)では、やっぱり、ドストエフスキイ論(評論集に収められた<ドストエフスキーの70年代>のこと、対談注)だ。僕は「罪と罰」を再論しようとして、はっきりわかった。ドストエフスキイの作は、これでお終いなのだ。乱暴な言葉だが、そういう決定的な感じがあったわけだ。

河上 それは正しいのだ。
小林 「白痴」をやってみるとね、頭ができない、トルソ(頭と手足を持たない胴体だけの彫像、対談注)になってしまうんだな。「頭」は「罪と罰」にあることが、はっきりしてしまったんだな。「白痴」はシベリアから還ってきたんだよ。(小林は戦前の「『罪と罰』についてT」を「(『白痴』の主人公)ムイシュキンはスイスから還ったのではない、シベリアから還ったのである」と結んでいる、対談注。なおこの比喩を文字通りに読むテキスト理解があるが、この箇所に比喩の意味が明らかにされており、それ以上の議論の余地はないと思う、筆者注)
河上 そりゃ、わかっている。
小林 君の「ドストエフスキーの70年代」はおもしろい。とくに、「作家の日記」にある四つの短篇論がいいと思った。西洋の批評家は、君のような言い方はしないな。できないな。くどくど言っている。
河上 くどいのは、ドストエフスキイのほうだよ。
小林 いや、君はそれに素直に調子をあわせて、ドストエフスキー的主題を上手に煮詰めているよ。「おとなしい女」の自殺で終りになるところがいい。
河上 そこまで言ってくれれば、ありがたい。
小林 煮詰めると歴史問題はどうなります?エモーション((英)感情、感動、対談注)の問題になるだろう。
河上 なんだい、エモーションって・・・。
小林 歴史の魂はエモーショナルにしか掴めない、という大変むつかしい真理さ。君はそれを言ってるんだ。くどくどと。
河上 くどいのは、ドストエフスキイだよ。
小林 どちらでもよろしい。すくなくとも君はマサリックの「ロシア思想史」を、僕よりはるかに綿密に読んでいるよ。
河上 歴史をエモーショナルに掴む、と君は言うが、歴史の「おそろしさ」を知り抜いた上での発言と解していいのだな。
小林 まさしく、そうだよ。歴史に向かってはこれとエモーショナルに合体できる道は開けている、と僕は信じている。それは合理的な道ではない。端的に、美的な道だと言っていいのだ。
河上 同感だ。

 対談は、1979年(二人ともに77歳)の夏に行われた。河上が翌年亡くなるので、両雄最後の対談であり(小林は、このことをはっきり予感していたことが随所に聴き取れる)、小林もこの後4年足らずで亡くなり、生涯最後の対談になった。その主題が「歴史について」であり、対談最後の部分、引用箇所の小見出しが「ドストエフスキイと歴史の魂」というもので意味深長だと思う。ドストエフスキーという終生のテーマをお互いの間に置いて、60年(府立一中からの)の文学的交友を続けてきた者同士の掉尾を飾るにふさわしい内容と言えよう。また二人のドストエフスキーに向かう精神のかたちの違いもここに明らかにされ、河上が最晩年<70年代・作家の日記>で着目したドストエフスキーの問題は、小林のそれまでのドストエフスキー論を相補うかたちになっていると思う。河上ドストエフスキーも再度読み直されるべきだろう。とにかく二人はドストエフスキーから終生撤退することはなかった。それにしても、相手の言葉を補いつつ対談をリードする小林の声には、河上を労るやさしさが伝わってきて貴重な音源として聴いた。
 同時にここで語られたことは、先述問題にした小林の戦後のドストエフスキー論が、端的に披瀝されたものであって重要な「遺言」のように受けとれる。冒頭の引用下線部分は、小林が到達したドストエフスキー読みの到達点で、そこに「臨界点」も潜んでいたのではないか。しかしその「臨界点」こそ、むしろこの後に続くドストエフスキーの読者への問いでもあった。

 ここでやっと本題の原口美早紀氏の例会発表について触れたい。今回の原口氏の発表は、聖書精読、その柱として福音書のヨハネ福音書とヨハネ黙示録から小説『白痴』を読み解こうとする試みであった。これこそ、小林が戦後『白痴』論でやろうとして、力尽きた?課題ではなかったか。原口氏は発表冒頭に『白痴』の意図に触れて、有名なドストエフスキーの書簡(1868.1.1)を引用された。「長編の主要な思想はー完全に美しい人間を描くことです。−中略(筆者)−この世には完全に美しい人間が一人だけいますーキリストです。だから、この計り知れぬほど限りなく美しい人物の出現は、限りない奇跡なのです(ヨハネ福音書全体がこの意味なのです。ヨハネは、ただ美しい者の具現化にのみ、その出現にのみ、奇跡の全てを見出しています)。」 (当日配布のレジュメより、本文イタリックで、下線は発表者)

 括弧書きの下線部表現から、原口氏は『白痴』の意図がドストエフスキーにとって、ヨハネ福音書で語られるキリストの具現化にあったことを指摘する。このことは、有名な書簡でよく引用される箇所でありながら、括弧部分が見落とされがちであった点が強調されたことになる。
 ここで、小林の「『白痴』についてU」を参照してみると、小林も括弧部分をきちんと引用している。それどころか括弧以降の文章まで引用している。そこではキリスト教文学における先例としてドン・キホーテが引き合いに出され、それは喜劇的なキリスト像であり、しかしそれと違うのが『白痴』の主人公だと強調している。そしてそれ故の作品の失敗の可能性まで危惧しているのだ。さらに指摘すれば、原口氏の下線箇所の訳文が、小林の引用文とは違っていて、ややニュアンスも異なっているように読める。小林の訳文では、「(ヨハネ福音書全体は、そういう思想(「美は理想」だとする考え、筆者注)で満ち満ちている。ヨハネは『化身』(インカネーション)(本文注があり、プロテスタントでの「受肉」)の不思議を、美が眼のあたりに出現するのを見ている)が、立ち入った説明は止める。」となっていて、その後ドン・キホーテが引き合いに出されてくるのだ。
 この箇所を小林はトータルにどう読んだのかという問題が残る。しかしここでは、当方原口氏の引用の仕方に疑義を差し挟むものでないことをお断りしておく。むしろその方向性は、小林が目指した作品の読みを実践するものであったと思う。それは、ヨハネ黙示録と『白痴』との関係を問題とした発表後半で、小林が「『白痴』についてU」で独創的に着目した副人物、レーベジェフやイッポリートとイヴォルギン将軍等に焦点を当てた時には「してやったり」と感じた位だ。小林はこれらの副人物を丁寧に描くことで、主人公ムイシュキンの主題を別ななかたちで表現している。小林の『白痴』はその意味でトルソーとして「完結」している。それは原口流には、『白痴』の世界がヨハネ福音書とヨハネ黙示録によって貫かれているということかもしれない。ここで読者として心がけるべきなのは、「キリスト公爵」という言葉から安易な観念化した読みを避けることであろう。

 今回の発表を聴いて感じたことは、批評家小林秀雄は、勿論専門研究者ではなかったが、だれよりも「注意深い読者」として小説表現のみならず、聖書にも書簡等にも細密な読みを実践したということであった。原口氏の主人公ムイシュキンのキリスト性理解も、ヨハネ福音書と厳密に対照しながら作品(テキスト)を読み込むもので、第四部七章のムイシュキンの「歓喜」の場面にそれが集中して顕現していることを指摘された。ムイシュキンの「憐れみ」の源泉への洞察も「7歳で両親を亡くし、孤児となり、預けられた先で虐待されたという同じ過去」を持つナスターシャだけに向けられたものである事実をずばり語られた。「唯物論者」(マテリアリスト)ムイシュキンという表現も「復活」に触れて取り上げられた。これらは小林の問題でもあったと思う。原口氏にとって、小林の批評は単なる先行研究の一つであるかもしれないが、是非参照を継続して頂きたいと思った。論じるべきところが置き去りにされた「感想」だが、とりあえずスペースが尽きた。別の機会に繋げたいと思う。示唆に富んだ発表であった。 (2013.9.28)




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