ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.139  発行:2013.8.7



第258回8月読書会のお知らせ

8月読書会は、下記の要領で行います。

月 日 : 2013年8月17日(土)

場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)

開 場 : 午後1時30分 

開 始  : 午後2時00分 〜 4時45分

作 品  : 『死の家の記録』2回目  米川正夫訳(河出書房新社)  他

報告者  : 小柳定治郎氏     
       
会  費 → 1000円(学生500円)

二次会はJR池袋駅西口付近の居酒屋 → 5時10分 〜 お茶会(喫茶店)

10月の読書会
開催日 :  2013年10月26日(土) 午後2時〜4時45分迄です




大阪「読書会」案内 

ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪の第18回例会は8月31日(土)13:00〜14:00、
大阪産業創造館1階カフェ―で開催。作品は『虐げられし人々』2回目です。
お問い合わせ・お申し込みはこちらへ  
〒581-0016 大阪府八尾市八尾木北3-137
「ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪」世話人小野 元裕
URL: http://www.bunkasozo.com 




残暑お見舞い申し上げます

 今年は、「記録的」、「これまでに経験したことがない」、「観測史上初」などなど、異常な枕言葉が多くつく気象です。夏は、はじまったばかりですが、皆様には、熱中症や豪雨に気をつけてお過ごし下さい。読書会の作品は、6月、8月とも『死の家の記録』です。熱帯夜でのこの作品、厳寒のシベリアを想像し、酷暑の涼としましょう。


8・17読書会

『死の家の記録』2回目

報告者は、小柳定治郎さんです

 『死の家の記録』は、その内容から2回に分けて行います。1回目は、前回6月読書会で菅原純子さんが、「『死の家の記録』における不仕合せな人たち」を報告されました。今回は、小柳定治郎さんが報告します。小柳さんは読書会には、今年4月からの参加です。が、4月、6月とも新鮮な感想を述べられています。どのような報告になるのか楽しみです。





無から有を生んだ、シベリアとは何か
 (編集室)

 1850年1月〜1854年2月迄の4年間、ドストエフスキーは、シベリアのオムスクで政治犯として懲役刑に服する。刑期を終えると、セミパラチンクスの第7守備大隊に一兵卒として配属され、1859年3月までの5年間、兵役に従う。――このシベリアの9年余りの歳月は、ドストエフスキーの沈黙の時代である。(即ち無の時代である)
 しかし、この28歳から38歳にかけての人生の盛りを、ドストエフスキーは徒に口を閉ざして過ごしたのではない。6月読書会と、今回8月読書会に報告される『死の家の記録』は、ペテルブルグへ帰ってきたドストエフスキーが書き著した監獄生活体験記であるがこの記録は、沈黙の4年間、彼が熱心に自分を鍛え、徐々に成長変貌していったさまを教えてくれる。
 それはまず肉体の鍛錬の時代だった。流刑前のペテルブルグのドストエフスキーは、昼と夜の逆転した不規則な生活が長く続いたためもあったのだろう、強い厭世感と死の接近感に襲われる「神経性の病気」に苦しんでいた。逮捕されてペテロ・パウロ要塞監獄の独房に拘留された8カ月の間に、病気は悪化して発狂の兆しも見えていた。
 それが、運命の大転換によって厳寒のシベリアへ旅立った日から、回復へ向かったのである。シベリアの澄みきった冬の空気の中を18日間オムスクへ向かって旅をつづけた。神経を病んでいた肉体は、めざましい勢いで活力を取り戻していった。
 オムスク監獄では、労役と食事と睡眠を強要される規則正しい生活。ドストエフスキーは、ここで「労働が私を救い、私の健康を、肉体を鍛えてくれる」のを感じて、すすんで労役に精を出し汗を流した。「この呪うべき生活のあらゆる不便を絶えぬくために、肉体の力が、精神力に劣らず、必要だった。しかも私は、出獄後もなお生きてゆきたかった」(『死の家の記録』)と彼は書いている。肉体の鍛錬と並ぶシベリア時代のもう一つの大きな収穫は、人間観察の実施訓練であった。人を見分けることが生死の分かれ目になる集団のなかでドストエフスキーは暮らしていた。シベリアで「人間が見分けられるようになった」と書いているが、その証明が、『死の家の記録』に描かれている囚人群像である。   





『死の家の記録』のころ


・1855年(34歳)2月ニコライ1世没す。『死の家の記録』起稿。8月イサーエフ死亡。
・1857年(36歳)2月15日マリヤと結婚。
・1859年(38歳)8月中旬『死の家の記録』執筆。
・1860年(39歳)週刊誌『ロシア世界』67号から連載

当時やその後のロシア知識人はどのような感想をもったのか

M・N・ゲルネスト(『帝政期監獄史』)
 …『死の家の記録』によって、F・M・ドストエフスキーは、ペンによって結ばれた自らの同志すべてに代わって、ツァーリ政府に対し恨みをはらしたのである。彼とその同志たちが処刑台に一時間立たされたとすれば、彼ドストエフスキーは、ロシアの無数の死の家の支配者たちを未来永劫にわたって晒し台に立たしめたのである。

 ※ゲルネスト(1874-1953)ソ連時代の刑法学者。『帝政期監獄史』は1951-56に刊行。

L・N・トルストイ(1828-1910)P・セルゲンコの書きとめた言葉
 ドストエフスキーが無造作に書いた一行は、今どきの作家たちの本の何巻にも値する。私は『復活』を書くために、最近『死の家の記録』を読んだ。これは、何ともはや驚嘆すべき作品だ !
※トルストイとドストエフスキーは同時代人だが、二人は対面することなく終わった。

A・I・ゲルツェン(1812-1870)『ロシア文学の新しい言葉』
 ニコライの時代は我々に一巻の恐ろしい書物を、一種(恐怖を与える歌)を残した。その書物は、暗欝のニコライ治世の出口の上に、これから常に毅然とそびえ立つことだろう。あたかも地獄の入口に書かれたダンテの言葉さながらに。その書物とは、ドストエフスキーの恐ろしい物語、『死の家』である。恐らく、この物語の著者は、自分の仲間であった懲役囚の群像を描く自分の縛められた手が、シベリアのある監獄暮らしの仕来りを描写するうちに、実はミケランジェロばりのフレスコ画を創造していることに気づいてはいないのだろうが。
※19世紀中葉のロシアの代表的革命思想家。1852年以来ロンドンに住みロシア語の週刊新
聞「鐘」を発行。ドストエフスキーはヨーロッパ旅行のとき、彼を訪ねた。

書簡 A・I・ゲルツェン から ツルゲーネフ宛 1862年5月21日付

 君の論証がぼくに負わせた傷に、君が本当に膏薬を貼ってくれるというのなら、どうか『死の家の記録』を送ってくれたまえ。

※ツルゲーネフ(1818-1886)『猟人日記』。生涯の大半をフランス、ドイツで過ごした。モーパッサンと友人。

P・A・クロポトキン(1842-1921)『ロシアとフランスの牢獄で』
 懲役とシベリア流刑の数々の辛酸をなめねばならなかった人々の中で、幾人かの人たちが自らの悲しい経験のもたらした事実を紙に書きつけた。長司祭アヴァクム(1620-82)もそれをした…ドストエフスキーの有名な『死の家の記録』は、監獄の暮らしの非常に優れた心理学的研究であるが、彼はこの作品のなかで、1848年からのオムスク要塞監獄の自分の入獄体験を語った。

※アヴァクム 17世紀ロシアの「分離派」指導者。最後は焚刑に処せられた。

V・D・ボンチ・ブルェヴィチ(1873-1955)
 ヴラヂーミル・イリーチ(レーニン)はこう語った。『死の家の記録』は、ロシアの文学、そして世界の文学の、卓越した作品である。この作品が非本な筆致をもって描き出したのは、ただ懲役のみではなく、ロマノフ家の歴代の皇帝たちの下でロシアの民衆が生きなければならなかった『死の家』でもあるのだ、と。※革命家、ソ連の政治家。

『死の家の記録』は大成功 !!
 ところが時を同じくして『死の家の記録』が大成功を博し、たちまち『虐げられた人々』の失敗は穴埋めされた。今度は批評家たちは口をそろえて、彼の作家としての計り知れない力量を認めざるをえなかった。…
 ペテルブルグの検閲委員会の官吏は、まず最初、彼の小説を改作させるべきだと考えた。
「読者は政府の監獄における人道的な処置を重罪の犯罪者にしては罪が軽すぎると考えないだろうか ? 1860年11月12日、ペテルブルグ検閲本部は委員会の指摘を無視して『死の家の記録』の出版許可を与えた。ただし「好ましからぬ語句は削除する」という条件で。
 …『虐げられた人々』と『死の家の記録』を連載したことによって、雑誌≪時代≫は多くの読者を獲得した。1861年、読者数は2300人だったのに1862年には、4302人に。
(アンリ・トロワイヤ『ドストエフスキー』村上香佳子訳から抜粋)





プレイバック読書会

第25回(1973)例会シンポジウム

 
 1973年4月20日(金)午後6時00分開催 厚生年金会館で、『死の家の記録』をめぐるシンポジウムが開かれました。司会は、新谷敬三郎先生。以下は、その時の報告です。傍聴記の筆者は、会発足からの会員の野田吉之助さん。
 ドストエーフスキイの会発足から3年、読書会は同年3月に第18回全作品を読む会で佐々木美代子さんが『死の家の記録』を報告したばかりということから、40年という歳月を経ても臨場感と活気あふれるシンポジウムの様子が伝わってくる。

『死の家の記録』をめぐるシンポジウム

野田吉之助

 これまでは、主として、研究者の意見発表の場であった例会に、初めてシンポジウム形式が試みられた。始める前は、果たして、2時間あまりを討論のみでもたせることができるかどうか、多少の心配はあったけれど。幸いそれは杞憂に終わり、最初から最後まで、熱心な質問が間断なく続いて、会場借用の時間切れで、やむなく会を閉じる盛況だった。テーマには、ドストエーフスキイの会の会員同志でつくっている読書会で、前回読んだ『死の家の記録』が取り上げられた。読書会で出た意見や問題点を、一層広い参加者の中で再検討し、発展させるというのが、その狙いであった。
 新谷敬三郎氏が司会に立ち、まず佐々木美代子氏から、討論のきっかけをつくる意味で、前回の読書会での討論内容が報告された。

【佐々木美代子氏の報告要旨】

@【死の家の記録』の執筆から発表までの外的経過。(省略)
Aまず、作者自身の深刻な体験記ということで、読む者に強い感動を与える。ドストエーフスキイが、自己の体験とか、現実の事件とかを、巧みに作品の中に生かしていることは有名だが、それらは、いずれも完全にフィクションナイズされている。その点、記録性の弱いこの作品は、彼の文学における実体験と創造の関わりを考える上で、他の作品では得られない特殊な材料を提供する。
Bそのことと関連して、この作品に、語り手としてゴリャンチコフ、すなわちドストエーフスキイという見方もできる。けれどもこの人物の設定には、作品の構成上、ぬきさしならぬ必然性があったように思える。ドストエーフスキイには、貴族と民衆の対比を読者に強く印象づけるには、政治犯としての彼自身の肉声よりも、ナイーヴなゴリャンチコフの声の方が、より効果的である、という文学上の計算があったのではないか。
 又、ゴリャンチコフを設定した別の理由として、彼自身の精神内部の動揺が考えられる。いわゆるシベリヤ体験は、もはや、彼に、以前の思想、心情によって思考することを許さなくなっていたのではないか。それと同時に、新たな信念、新たな信仰も、まだ彼のうちにあって、確固としたものになっていなかった。要するに、当時のドストエーフスキイは精神的な迷いのうちにあり、その迷いが、この記録文学の一編を、彼の肉声で書かすことをためらわせたもののと、推察できる。
Cドストエーフスキイは、この作品の中で囚人たちにあらわれる〈自由な意思〉または〈意思の自由〉について、繰り返し言及している。勿論、ここでの自由の渇望は、まだ自分たちの日常生活を拘束するものへの反撥とか、反逆の形であらわれるに過ぎないけれど、やがて、この自由への渇望は、次第に成長して、『地下室の手記』では、人間の本性そのものの問題として、又、『カラマーゾフの兄弟』の〈大審問官〉の章では、人類の歴史とその運命の問題として、われわれの前にあらわれることになる。
D彼のシベリヤ体験で、最も貴重な収穫は、ロシア民衆についての認識の転換である。この転換の事実を明確にに示すものとして、『作家の日記』の中の「百姓マレイ」がある。その中で、彼は、少年時代の一齣(ひとこま)を追憶し、無知で粗野なロシア農奴の中に、いかに深い人間性が秘められているか、を語り、更に、その追憶が、彼の精神に或る覚醒を与え、彼が獄中において、同囚の人々を全く別な目で眺めるに至ることを感慨深げに記している。『死の家の記録』一篇は、貴族出の一囚徒が、その獄中生活を通して、ロシア民衆の真の姿を、次第に把握していく物語と見ることもできる。

ロシア民衆の真の姿を、次第に把握していく物語

 佐々木氏の報告のあと、参加者の間の自由討論に移った。ドストエーフスキイの会は、素人と専門家の集まりなので、、例会などで出される意見も、その構成を反映して、二つの傾向に大別される。素人側の人々が、主として、ドストエーフスキイ自身あるいは、作中人物の思想や生き方に関心をもつのに対し、専門側の人々は、主として、ドストエーフスキイの文学史的位置とか、時代思想との関係とか、創作方法とかに問題意識をもつ。本来、この両者は、文学研究にとって、切り離せないはずのものであるにも拘わらず、時に、素人側と専門家側の意見がかみ合わないものにしていることも事実である。
 その点、今回の例会は、『死の家の記録』がもっている記録文学というある種の単純性のためか、出される問題ごとに、多くの者の関心が集中し、バラエテイーに富んだ意見が次々に出された。勿論、その学問的水準とか斬新性いかん、ということになると、筆者にその判定を下す資格がないので、なんともいえないが、少なくとも、素人も専門家も、共通の土俵上で、充分意見を述べ合った、という印象を受けた。
 行われた討論のうちから、印象に残っている2,3の発言について記してみたい。
 ドストエーフスキイは、いわゆるシベリヤ体験で、自分の持つ民衆観を転換した、という佐々木氏の報告に関連し、彼はシベリヤで〈何か〉を見た、すなわち真の信仰を得たのではないか、とする意見が出された。
 ドストエーフスキイは、シベリヤの獄中で、ロシア民衆に直に接することによって、人間の本質を深く知ることができた。又、獄中、唯一の書物であった聖書の熟読は、彼のキリスト観に決定的な影響を与えた。彼の民衆観の転換は、人間観の転換であり、人間観の転換は、信仰の力なくして行われ得なかった筈である。彼の信仰を示す証拠物件として、フォン=ヴィージン夫人宛の手紙が挙げられる。この手紙は、ただ、彼の信仰告白を証するばかりでなく、一体、信仰とは何か、という問いに対しても、含蓄ある暗示を与えている。懐疑か、信仰かが問題なのではない。迷いつつ信ずることこそ信仰の真の姿なのである。
 この見解に対し、次のような反論が出た。
 ドストエーフスキイが、政治的急進グループに接近したことも、キリストによる救いを真剣に考えたことも事実であろう。しかし、それは、彼の精神の振幅を示すものであっても、彼の本質の変転を物語るものではない。彼の文学の偉大な特質は、どんな極端と思われる心理でも、思想でも、勿ち相対化してしまう巨大な精神の巾ではないか。そのような彼に、一遊星上の、一生物の、一時期にあらわれた、一思想や一宗教に、己の全精神をゆだねる、という事態が起こり得ようか。彼の文学の登場人物の思想や行為を、キリスト的とか、アンチ・キリスト的とかいう分類で規定することはあまり興味がない。
 もう一つ。主人公のゴリャンチコフが出獄に際して、あれほど、未来の生活に希望を託していたのに、手記の最初の描写によれば、極端な厭人家として登場してきている。主人公のこの心理の変化をど捉えるべきか、という問題提起があったこれに対し、ゴリャンチコフは、出獄後、厭人家になったのではなく、出獄に際して、すでに厭人家であったのではないだろうか。例えば、手記の最後の寸前になって、〈逃亡〉という章が、意味ありげに出てくるし、又、出獄を前にした主人公に、「わたしは自分がまったく冷淡に、無関心になったような気がした。という謎めいた言葉を語らせている。――という意見が出ました。




6・29読書会報告                

参加者20名で盛会

報告者・菅原純子さん『死の家の記録』における「不仕合せな人たち」

現代性を問いかけている物語
 
 丁寧なレジメに沿った報告でした。現代日本文学評論を導入に、この作品を「できるかぎり読み変えたい」して作家とロシア民衆とのかかわりに着目した。とくにペトロフに着目して、その人物観から作品の創作性に触れ「やはり『死の家』はルポタージュではない」との感想を得ていた。全体的には、『死の家』の住人たちを「不仕合せな人たち」とみながらも、彼らは、19世紀のシベリアの監獄だけに止まるものでもなく、こうした人たちは「現在の日本においても現出している」「人類がなくならないかぎり」存在しつづけるものであるとその普遍性を指摘し、報告を結んだ。
 
報告から記録か、ルポタージュか、物語小説か――を読み解く。

創作か記録かで議論白熱

交わされた意見、感想、つぶやき、批評は、このようでした。

・「トルストイは、シベリヤに行ったことがない。『死の家』を参考にしたのでは」
・「パンドラの箱」太宰とトルストイ。『復活』について。
・「人間辞典を手にした感じ。現在の犯罪をイメージした」
・「蜻蛉的な人間」「現在の犯罪をイメージ」
・「後から小説として書いた」
・「読みづらかった。苦手な作品」
・「創作方法を更地にしたような作品」
・「小林秀雄の話」「スメルジャコフはペトロフ」





『スチェパンチコヴォ村とその住人』 A「フォマーが一同の幸福の因になる」の意味するところ

 前島省吾

★前々号(137号)のつづきです。紙面の都合で遅くなりました。お詫びします。
 
 ドストエフスキーは、ゴーゴリのロシア正教会への帰依、専制皇帝礼賛、君主と民衆の愛の結合の説教などに激しい非難を浴びせるベリンスキーの思想には強い反発を感じながらも、この手紙を一種の熱狂をもって朗読したと思う。ベリンスキーの心の奥にキリストを見たからだ。「誰かが真理はキリストの外にあると証明したとしても、私はむしろ真理よりもキリストとともにある。(フォンヴィージン夫人への有名な書簡)」と書いたのは1854年だが、1849年頃のドストエフスキーもキリストを敬愛していた。ペトラシェフスキー会員だったにもかかわらず、このベリンスキーの手紙の中に、「真理の外のキリスト」を見出していたのだと、私は考える。
 一方 ドストエフスキーはゴーゴリをどう見ていたのであろうか?「我々は皆ゴーゴリの外套から生まれ出た。」とドストエフスキーが語った(ツルゲーネフ説もある)といわれるが、「そのドストエフスキーを含めすべてのロシア近代文学は、ゴーゴリの否定、ゴーゴリとの闘いの中で発展した」と、ローザノフは言う。(大審問官伝説について)「スチェパンチコヴォ村」は、明らかにゴーゴリ的なものの戯画化であり否定である。その否定の第一歩がこの作品であり、その結晶が「和解」の場面ではないだろうか?
 フォマーが、「これが自分の復讐ですぞ」と言って、ロスターネフとナスチェンカを結びつけたとき、村の一座は驚愕と歓喜の叫びをあげ、これがすべてフォマー・フォーミッチのわざであり、しかも確固として動かすべからず事実だと認識して大団円となったのだが、この大転換の原動力はロスターネフであった。フォマーが「私は全世界の陋劣醜悪を暴露するために天帝からこの世に遣わされた人間ですぞ。あなたは今迄純潔無垢だった処女を、淫奔無比な女にしてしまったのですぞ。」と言ってロスターネフを非難したとき、ロスターネフはそのナスチェンカの名誉を守ろうとして果敢な行動にでた。そのロスターネフの衝動的だが決然たる行動が、愛の告白が、結婚の表明が、そしてフォマーに対するナスチェンカへの謝罪の断固たる要求こそが「村」を変えたのである。フォマーの「高潔な精神」は、ロスターネフとナスチェンカの心情のぬくもりの前に、専制的、暴力的権力を失ったのである。それでもフォマーは変わらない。凝りに凝った気まぐれを考え出すのに、奔放な空想を駆使し続けたのである。フォマーが変わったのではなく、「村」自体が「精神病院」から「謙抑の宿(米川正夫)」に変わったのである。
 それでも、ドストエフスキーは、「フォマー・フォーミッチが一同の幸福の因になる」というタイトルをつけた。私は、そこにベリンスキーの手紙を読んで「それは誤解だ」と叫びながら狂死したゴーゴリへのドストエフスキーの鎮魂の思い、非難するだけで救えなかった大作家への痛切な愛惜の念がこめられていると感じるのである。ゴーゴリは1852年死去した。ドストエフスキー徒刑三年目であった。「ロスターネフとナスチェンカは、互いに幸福の絶頂に達していたので、(略)これでは神様の恵みが多すぎる(略)さまざまな十字架で自分の幸福を償わねばならないと取り越し苦労までする。(略)...ナスチェンカは、フォマーが彼女を叔父と結びつけたとき、フォマーのすべてを赦してしまったばかりでなく、『受難者』であり、もとの道化である人間から、あまり多くを求めるわけにはいかない、それどころか、むしろその魂を癒してやらなければならないという叔父(ロスターネフ)の思想に心底から共鳴したらしかった。」ゴーゴリの魂も癒してやらねばならない。ドストエフスキーはそう考えたに違いない。ゴーゴリに学びつつ、その作風、世界観に抵抗して、独自の人物創造と芸術世界を構築しようと再出発をかけたこの作品には、ベリンスキーとゴーゴリへの「肯定・否定」が共存する複雑な当時のドストエフスキーの心情が反映しているのではないかと私は思う。





ドストエフスキー文献情報
  提供・≪ド翁文庫・佐藤徹夫≫

〈専載書〉
・『文学は〈人間学〉だ。』佐藤泰正、山崎むつみ著 笠間書院
    2013.4.20 \1200+ 204p 18.8cm
S1 文学が人生に相渉る時 ―― 文学逍遥七五年を語る/佐藤泰正 p11-125
S2 カラマーゾフの〈人間学〉/山城むつみ p127-196
・『ミステリーとしての『カラマーゾフの兄弟』スメルジャコフは犯人か ? 』
  高野史緒著  東洋書店 2013.5.20  \800+ 63p
21p 〈ユーラシア・ブックレット no.181〉
・『偏愛記 ドストエフスキーをめぐる旅』亀山郁夫著 新潮社
    2013.6.1 \550+ 294p 15.7cm 〈新潮文庫9715= か-69-1〉
※解説/野崎歓(p289-294)
※初版:『ドストエフスキーとの59の旅』(日本経済新聞社 2010.6.21)

〈収載書〉
・『D・H・ロレンスの作品と時代背景 Works and Social Context D.H.Lawrence』
    倉持三郎著 彩通社 2005.1.10 \8000+ 590p 22.5cm
    ・第V部 キリスト教と異教 ―― 牧師批判と聖書の読み直し
    ・第3章 ドストエフスキーとキリスト教 ―― 全体は部分より大である 
―― p239-246
・『佐々木基一全集 Z 新編・映像論』佐々木基一著 河出書房新社 2013.1.3
     \3500 + 549p 21.6p
    ・T 映画リアリズム論 ・ヴィスコンティのリアリズム 『白夜』
     P96-102 ※初出:「映画評論」1958.3月号
・『ロシア社会史 インテリゲンツィヤによる個人主義のための闘い 下巻』
     イヴァーノコ=ラズームニク著 佐野努・佐野洋子訳 成文社 2013.3.27
\7000+ 582p 21.6p  ※上下巻同時発行 上巻(614p \7400+)
・第21章トルストイとドストエフスキー  p125-216




連載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像                       第48回 三島由紀夫の生と死、その運命の謎 
小林秀雄没後30年(再論-3)

福井勝也
 
 今回は、「例会/合評会」(8/3)で発表する木下論文(「広場No.22」掲載)についての当方論評を掲載しておきたい。木下氏の「商品としてのドストエフスキー」は二葉亭以来の日本におけるドストエフスキー受容、その「作家像」の変遷を辿るもので圧巻であった。しかしその「作家像」を論ずる視点が商業主義・マスメディアによる問題に傾き、その内実に迫る切り口にやや違和感を覚えた。そこで別の観点から、それは「ドストエーフスキイの会」を創始した頃の故新谷敬三郎氏並びに木下氏ご自身の業績辺りに着目し、その時期(「ポストモダン」)以降の「作家像の変遷」として論じてみたいと思った。そしてこの観点は、連載中の没後30年の小林秀雄のドストエフスキーと交差するものと考えている。なおこの議論については、すでに発表の拙論「日本のドストエフスキー」「古今東西のドストエフスキー 日本編」(『現代思想』2010.4、総特集=ドストエフスキー 所収)を併せて参照していただきたい。以下は当日配布の発表資料である。

 担当論文については、すでに例会発表(2012.11/23)後の「傍聴記」(NL.114号)で報告(別添)をさせていただいた。発表内容の概括、感想についてはそこで記した通りである。今回改めて木下論文を読んで、その後現時点で考えていることに言及してみたい。
 今回も注目したことは、二葉亭四迷に始まる「作家像に関する表現の歴史」が丁寧に辿られていた点であった。それは、日本におけるドストエフスキー受容史を考えるうえで重要な資料であり、再認識を促すきっかけとなるものだと思った。その中でも例えば、D.リハチョフと小林秀雄のドストエフスキーの小説の語り手の位置における共通性の指摘などは、その間にミハイル・バフチンの議論を併せ考える時、単なる小説の語り手の問題のみならず、ドストエフスキーの創作が人間存在の<パラダイム転換>を企図していたものであったことを改めて示唆された。この点からさらに目に止まったのが、寺田透氏の「作家像」であった。

 ひとは他者のはたらきかけの下に相対的にしか自己を現すことは出来ないものだ。そのためにひとの味はう生の苦渋は人間にとってほとんど本来的なものと言つていい。人間はいつも歪められた存在としてしか自己を意識できず、従ってバルザック流にいつもそのひと自身であるやうな全的な表現のしかたで人間を描く作家には、一種のうとましさが感じられる。さういう物の考え方をしがちな精神状況に対する応答として、コロスに答える役者(ヒュポクリテース)としてドストエフスキーが登場した。
(『ドストエフスキーを讀む』筑摩書房1978 年、333頁)

 寺田透という批評家は、小林秀雄との比較を含めもう少し考究されてもよい存在だと思うが、引用文の著作が刊行された時期が、木下氏の指摘する「潮目が変わった80年代」直前の1978年であることが気になった。木下氏の文脈では、寺田氏に師事した中村健之介や「謎解き」というキャッチフレーズで「売り出した」江川卓両氏との連続性が否定されているが、当方にはどうも寺田氏あたりがその「潮目の変わり目」を繋いだ「影のキーパーソン」のように思えた。これは、今回の木下論文が「ドストエフスキーの商品化」という視点から概観しているために別様の総括がなされていることもあるが、むしろこの時期は、単なる「流行」に止まらぬ「ポストモダニズム」の観点(近代西欧の資本主義的市民社会が理想とした個人という抽象的人格あるいは統一的自我の分裂・崩壊)からの「ドストエフスキー理解・受容」が社会的レベルで深化した<転換期>として理解すべきではないかと改めて考えた。そしてこのことは、この時期に突如浮上したものではなく、例えば小林秀雄の文壇登場のデビュー作となった「様々なる意匠」(1929年、s4)から始まるその後の「ドストエフスキー論」、そして奇しくも同年に刊行されたミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの創作の問題』辺りから各々別の回路で、そして同時に主に言語論、言葉の問題を共有して開始された。バフチンにおいては、その後『ドストエフスキーの詩学の問題』増補改訂版(1963年)に引き継がれ、その本邦初訳が新谷敬三郎氏によって1968年に刊行される経緯を辿った。「バフチン以後」として本邦で語られるのはこの年以降であるが、実は昭和10年(1935年)前後に「私小説論」(小林)・「純粋小説論」(横光)によって同様の問題が先駆的に議論(「第四人称」他)されていた経緯も覚えておきたい。しかし結局は、ドストエフスキー理解が当時の「転向」問題等の政治社会状況に絡め取られ、さらに以後の戦中戦後体制に巻き込まれるなかで、その話題も忘れられた。しかしその後、戦後25年を経て転換期を迎えた70年代前後に、この議論がバフチンのドストエフスキー論と関係して論じられるタイミングが廻ってくる。そのきっかけが1968年の『ドストエフスキーの詩学の問題』の新谷敬三郎氏の本邦初訳で、この問題の先駆的解明に取り組まれたのが、「ドストエフスキー文学と昭和10年前後」(ヨーロッパ文学研究第15号)での木下豊房氏であった。その論考発表も1968年という時期に重なっている。同時に、新谷氏も批評文「不断の歯痛」(70年)や著作『ドストエフスキイと日本文学』(76年)を通じてこの問題を明らかにしていった。ここで新谷氏の小林秀雄に言及した「作家像」を引用しておこう。焦点は、小林のドストエフスキー像に向けられていた。
 
 彼(=小林秀雄、引用者)の仕事の動機は、「様々なる意匠」以来、一貫して実は言葉の問題、表現論なのである。例の「社会化した<私>」という不用意な言葉にしても、彼自身の<個人性と社会性との各々に相対的な量を規定する変換式>によって解かれねばならぬはずで、イデオロギーや芸術と実生活との関連という公式からは解答不能であろう。             「不断の歯痛 ―小林秀雄とドストエフスキー― 」(70年)
 彼(=小林秀雄、引用者)の現代文学への最大の貢献は、文学を《私》の理念あるいは理念化した《私》の表現としてではなく、いわば構造化した《私》、それを批評家は「社会化した<私>」といったが、その表現の体系(言葉)として捉え、批評を思想と心理の独白から解放し、それを文学的《私》の自己意識の表現とした点にある。不幸にして、その後この批評の精神は十分に展開されることがなかった。批評は依然として、小林秀雄が虞れていた<政治の文学的部分>か<文学の政治的部分>であることを止めなかった。そして、この批評により多く依存してきたわが国の近代文学の研究も、思想と心理の解明、そのための見せかけの実証に終始してきたかに見える。が一方で、この数年新しい芽が諸所の苗床でうまれつつあるのを見ることができる。『ドストエフスキイと日本文学』あとがき(75.12/12)

 新谷氏は新たなドストエフスキーの「作家像」が、小林秀雄という批評家が切り開いた自己意識を表現する文学的《私》あるいは構造化した《私》の問題にあることをズバリ指摘している。そして最後の一文で、この時期(70年代半ば)にやっとその共通理解への道筋が見えてきたことに触れていたのだった。今回、木下氏の発表も新たな人間像として「地下室人」の本質的なあり方を強調されていたが、引用の寺田透氏もそれまでのバルザック流の人間観では捕捉不能な人間のタイプ(「地下室人」?)の発見者としての「作家像」を説いていた。
 実は今回、木下論文の「作家像に関する表現の歴史」において、このミハイル・バフチンの方法意識からの「作家像」への言及が余りに自明なせいか、明白には言及なされなかったのが気になった。これは今回の議論が「ドストエフスキーの商品化」に焦点が置かれたためであるにしても、また確かに「作家像」の問題が商業出版とマスメディアによって偏向を被るにせよ、それ以前に時代が切り開いた人間観によって規定されてゆくものであろうと思う。

 その観点から、例えば江川卓氏の「謎解き」の手法も、一概に商業主義のみで説明できるものでなく、今まで述べてきた転換期の「作家像」に見合う、それを具体化する一つの「方便」ではなかったか。さらには、木下氏が江川氏の表現で問題にした「作者を超えた超越的存在」を他ならぬ「論者」であると断定したのは如何か。江川氏の議論は一義的には、この時期から論じ始められた「テキスト論」における作者と読者の関係論(「読者論」)であって、その前提には、バフチンや小林や横光が、そして新谷、木下両氏の影響下(?)寺田氏も指摘した不確定な、分裂した「作家像」から派生した「作者を超える超越的な存在」ではなかったか。この点から考えれば、江川氏の「謎解き」の方法も、新谷・木下両氏経由で流れてきたものであったろう。あるいは、この時期当方が拘ったユングの「集合的無意識」を援用したドストエフスキー像も、同様の問題意識と影響に沿うものだったことになる。

ここで、この<転換期>に関連しての文学・社会事象を自分なりに列挙してみる。
1963(s.38)バフチン『ドストエフスキーの詩学の問題』(増補改訂版、旧版1929)を旧ソ連で刊行
1964(s.39)小林秀雄、終章を加えた『「白痴」について』を角川書店から刊行
1965(s.40)小林秀雄、一月から「本居宣長」執筆開始、『本居宣長』刊行は77年(52)
       三島由紀夫、『豊穣の海』(4部作)の第1部「春の雪」を執筆開始、
1968(s.43)新谷敬三郎氏、『ドストエフスキーの詩学の問題』(バフチン)の本邦初訳を刊行
       “大学解体”をスローガンに全国で大学紛争が勃発、三島“楯の会”を結成
       木下豊房氏、「ドストエフスキー文学と昭和10年前後」(ヨーロッパ文学研究)発表
1969(s.44)「ドストエーフスキイの会」発足(2月)
1970(s.45)新谷敬三郎氏、「不断の歯痛」―小林秀雄とドストエフスキー―(比較文学年記)
       三島由紀夫『豊穣の海』完結の日、市ヶ谷自衛隊駐屯地で割腹自殺(11.25)
1974(s.49)新谷敬三郎氏、『ドストエフスキーの方法』(海燕書房)刊行(6月)、さらに(8月)
『ドストエフスキー論 創作方法の諸問題』(バフチン)の改訂版(冬樹社)刊行
1975(s.50)松本健一氏、『ドストエフスキーと日本人』(朝日選書)刊行
1976(s.51)新谷敬三郎氏、『ドストエフスキーと日本文学』(海燕書房)刊行
1978(s.53)寺田透氏、『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)刊行
1979(s.54)村上春樹氏、『風の歌を聴け』刊行、ドストエフスキーへの言及始まる。
       新谷敬三郎氏、「『白痴』を読む」(白水叢書)刊行(12月)
1981(s.56)「死後100年祭シンポジウム」2月(ロシア手帖の会主催)大江・後藤・埴谷・吉本、
参加各氏の講演録を『現代のドストエフスキー』(新潮社)として刊行(12月)
三浦雅士氏、『私という現象 同時代を読む』(冬樹社)刊行(1月)
1982(s.57)三浦雅士氏、『幻のもうひとり』(冬樹社)『主体の変容』(中央公論社)
1982(s.57村上春樹氏、『羊をめぐる冒険』刊行
1984(s.59)ドストエーフスキイの会、『ドストエーフスキイ研究』創刊号「深層心理」特集刊行(2月)
       江川卓氏、『ドストエフスキー』(岩波新書)刊行
1985(s.60)村上春樹氏、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』刊行
1986(s.61)江川卓氏、『謎解き「罪と罰」』(新潮選書)刊行

 年表の事柄を恣意的に並べてみて思うのは、二葉亭四迷以降始まるドストエフスキーの本格的な受容の顛末、その「作家像」がこの時期に深く「大衆化」されたという実感である。やや誤解を受けそうな言い方を補足すれば、この時期以降、シェストフ流の哲学的人間像として論じられてきた「地下室人」がそれ以前とは異質な等身大の自己自身として、読者一般に共有され実感されるようになったということか。木下氏に言わせれば、それが商業主義の波にさらわれたまま雲散霧消して現在に至っていて、低俗な「作家像」だけがロシア本国も含めて横行しているということなのかもしれない。しかし、いずれにしても「ポストモダン」の曲がり角を通過してしまったことは確実で、むしろ事の本質はそちらにあるように思うのだ。そう考えた時、好悪は別として、この時期に三島由紀夫から(やや間を置いて)バトンタッチするように現れた村上春樹という作家は時代のメルクマール的存在であり続けていると思う。もしかしたら、両作家のドストエフスキー像に本質的な差異はないのかもしれない。それを三島は当代の「貴族」として理解し、ハルキはわれわれと同時代の「大衆」として感受してきたというだけではなかったか。そして三島の遺作『豊穣の海』(70)のすごさは、その最終部「天人五衰」でその時代の転換後の顛末まで書き写してしまっていたことであった。だから三島自身は滅びるしかなかったわけだが、この際に「ドストエフスキー的自己像」(例えば「地下室人」の変容した「キリーロフ」)が彼に手助けしたかもしれないと思えるのだ。

 小林秀雄はその批評家デビューを「様々なる意匠」(1929)で飾ったが、その文章を今回読み直してみて、やはりさすがだと思った。もう一度木下氏が拘った「商品」について考えさせられた。小林は、「現代を支配するものはマルクス唯物史観における「物」ではない、彼が明瞭に指定した商品という物である」と断言する。そのすぐ後で、「人間喜劇」を書いたバルザックの人間理解における理論と実践の齟齬に触れてゆく。そこで小林は、マルクスとバルザックに課された時代の要請の同質性と限界にも触れる。この時点で小林には、新たな人間像探求のリアリズムを表現したドストエフスキーに赴く道筋が見えていたはずだ。その前に矛先は、まずマルクス主義文芸批評家に向けられる。「諸君の脳中においてマルクス主義観念学なるものは、理論に貫かれた実践でもなく、実践に貫かれた理論でもなくなっているではないか。まさに商品の一形態となって商品の魔術をふるっているではないか」と。そして数年後、小林は「マルクスの悟達」(1931)で次のように書き継いで行く「マルクスは社会の自己理解から始めて、己れの自己理解を貫いた。例えばドストエフスキイはその逆を行ったと言える。私の眼には、いつもこういう二人の達人の典型が交錯してみえる」。小林が本格的にドストエフスキーに向かうのは、この後間もなくだが(1935)、その方向性はすでにこの時期に決定していたとように見える。   (2013.7.31)





広  場

文豪の母親マリヤの消息判明 !! 会代表・木下豊房氏報告

 不明だったドストエフスキーの母親マリヤ・フョードロヴナの消息が、このたび判明した。
 先月、ロシア旅行から帰国した「ドストエーフスキイの会」代表・木下豊房氏が、帰国報告で明らかにした。文面は以下の通り。
 「ドストエフスキー の母親の遺骸の消息が判明しました。現在ザライスクの預言者ヨハネ寺院に安置中で、この先、父親ミハイルの墓がある、ダラヴォエの近くの現在修復中のモノガロヴォ教会の墓地のミハイルの傍らに埋葬される」


★雑 誌 『江古田文学 82:特集 ドストエフスキー in 21世紀 』 2013年3月25日発行
  批評家・清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて 




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