ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.138  発行:2013.6.20



第257回6月読書会のお知らせ


月 日 : 2013年6月29日(土)

場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)

開 場 : 午後1時30分 

開 始 : 午後2時00分 〜 4時45分

作 品 : 『死の家の記録』 第1回

報告者 : 菅原純子さん     
       
会  費 → 1000円(学生500円)

二次会はJR池袋駅西口付近の居酒屋 → 5時10分 〜 お茶会(喫茶店)

8月読書会は、東京芸術劇場の第7会議室です。

開催日 :  2013年8月17日(土) 午後2時〜4時45分迄です



大阪「読書会」案内 6・22
ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪の第18回例会は6月22日(土)14:00〜、
ホテルグランヴィア大阪19階「ラウンジリバーヘッド」(JR大阪駅直結)で開催。
作品は『虐げられし人々』です。(発行遅れで、開催日後になりお詫び申し上げます)
お問い合わせ・お申し込みはこちらへ  
URL: http://www.bunkasozo.com 
「ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪」世話人小野 元裕




6・29読書会について

作品は『死の家の記録』 2回に分けて行います

 2013年も、半分になりました。読書会は順風満帆に進んでいます。が、いよいよ、大作も近づいてきました。『死の家の記録』は前哨ともいえます。2回に分けて行います。

1回目の報告者は菅原純子さんです



『死の家の記録』における「不仕合わせな人たち」


菅原純子

 中上健次で小説家は終わった。柄谷行人で批評家は終わったということは、いともたやすいことである。折口信夫を論じている、安藤礼二がおり、小林秀雄を論じはじめた、大澤信亮がいる。ドストエフスキーに関しては、山城むつみが存在するのではないか。ここで先の三人を個別に論じることはなく、今、もっとも過激な佐々木中について少しふれてみたい。佐々木中は『切りとれ、あの祈る手を <本>と<革命>をめぐる五つの夜話』の中で、ルターを引き合いに出し、次のように述べている。

 テクストを、本を、読み、読み変え、書き、書き変え、――そしておそらくは語り、歌い、踊ること。これが革命の根源であるとすれば、どういうことになるか。どうしてもこうなります――文学こそが革命の根源である、と。ルターは文学者でした。言葉の人でした。だからこそ、史上最大の革命家だった。革命が文学的な夢想によって行われるなどということでは全くない。革命は「文学的」なのではありません。違う。断じて違う。文学こそが革命の本体なのです。革命は文学からしか起こらないし、文学を失った瞬間革命は死にます。
 また、最近は、文学は終わった藝術は終わったと騒ぎながら文学に携わっている人が多いようですね。
 哲学が終わったというのなら哲学科を辞めて頂きたい。文学が終わったというのなら文学に携わるのを辞めて頂きたい。無論文学部の教師も辞めて頂きたい。
 死語になった「革命」という言語、文学の終わりをつげるのなら、身を引いてくれ。確かに、佐々木中は一九七三年生まれであり、この本の出版が震災前であるため、強く過激的な態度をとることができたのではないかと思うが、私自身この著作を読んで、新しい批評家が出てきたと、そして本を読み本を読み変える、この思考が単純といえば、それですんでしまうが、共鳴するものがあった。
 
 ドストエフスキーについてもふれられている。
もっと「素敵」なのはロシアです。1850年、ロシア帝国の文盲率はどれくらいだったか。90パーセント、です。(中略)例えばあなたに友達が10人いて、そのなかで一人しか自分の書いたものが読めない。そういう状況です。しかも何しろ「全」文盲が九割ですから、そのたった一人の字が読める友人も、本が読めるかというと、極めてあやしい。

 では、この一八五〇年前後に誰が何を出版していたか。プーシキンが一八三六年に『大尉の娘』を出す。ゴーゴリが一八四二年に『死せる魂』を出す。ドストエフスキーが一八四六年にデビュー作『貧しき人びと』を。トルストイが一八五二年に『幼年時代』を。ツルゲーネフが一八五二年に『猟人日記』を。(中略)初のロシア人口調査が一八五一年におこなわれましたから。それによると、当時のロシア帝国の人口は四千万人です。大まけにまけて10パーセントの四百万人がドストエフスキーが読めていた・・・なんて思えないですよね。
 百万人しか自分のサインが書ける人がいないという無体な状況で、『罪と罰』とか次々と書くわけです。一体この連中は何を考えているのか。端的に九割以上読めないんですよ。ロシア語で文学なんてやったって無駄なんです。こんな破滅的な状況で、何故書くことができたのか。
 はっきり言いますよ。今や文学は危機を迎えていて、近代文学は死んだのであって、そもそも文学なんて終わりで、などという様悪しいことを一度でも公言したことがある人は、フョードル・ミハイロビッチ・ドストエフスキーという聖なる名を二度と口に出さないで頂きたい。不快です。
 
 こうまで言いきる佐々木中の存在は大きいのではないか。長々と引用してきたが、手にとる人も少ないであろう。本題にはいるのだが、『死の家の記録』を佐々木中のいうように、できるかぎり読み変えてみたいと思う。
 ドストエフスキーはシベリア流刑において、はじめて民衆をみつけたと流布されている問題であるが、米川正夫の『ドストエーフスキイ研究』によると、ドストエフスキーの父ミハイル・ドストエーフスキイは、一等軍医として軍隊に入り、一八一二年の祖国戦争にも従軍した。一八一九年、彼はモスクワの富裕な商人ネチャーエフの娘マリヤと結婚し、翌年長男のミハイルを設けた。さらにその翌年の春、モスクワのマリンスキイ病院(貧民のための官立施設)の医員に任命された。その年の秋、正確にいえば十月三十日(旧露暦)に、次男のフョードル、すなわちわが文豪ドストエーフスキイが生まれたのである。弟のアンドレイによると一八三七年の五月、父に伴われてモスクワからペテルブルグに移った時、兄のフョードルは十五年と七?月であり、わたしは十二歳あまりであった。幼少期よりドストエフスキーは、父の勤務するマリンスキイ病院で民衆とすでに接しているとおもわれる。ドストエーフスキイの最初の伝記者の一人であるオレスト・ミルレルは、
 「病院の庭では、病人も散歩していた。(中略)兄フョードルは、なんとかして隙をうかがって、こうした病人と話をするのが好きだった。もし子供に行き当たると、さらに熱心であった。しかし、それは厳しい法度で、父はそんなうわさが耳には入ると、ひどく不満の色を見せた」とあり、マリンスキイ病院での病人、貧民病院、慈善病院であるからして病人たちは民衆であろう。
 さらに加え、父ミハイルがダロヴォエ、続いて隣村のチェルマーシニャに領地を購入したことによりフョードルは初めて田園生活を知ることになった。田園生活はのどかなものであったのであろうか。アンドレイによると「百姓はだれもかれも、わたしたち、とくに兄フョードルをことのほか愛していた。(中略)百姓たちも兄とはいつも、進んで言葉を交わした。」とあり、農民、農奴においての接点がうかがわれる。
 ドストエフスキーは十歳のころから民衆とかかわりをもっていたので、流布されているシベリアでの民衆の初めての発見は、この時点ではないと推測できるのではないか。
 では、何を発見したのであるかといえば、父ミハイルは農奴によって殺害された。殺害される原因は父ミハイルの側にある。ドストエフスキーの父ミハイルは妻の死後、間もなく退職して、領地のダロヴォエへ隠遁した。元来、狷介な性格の持主で、癇癪が強く、家族の者に対しても専制君主のごとくふるまっていたが、妻が死んでからというものは、彼の日常生活はいよいよ放縦なものとなって、しかも飲酒の悪癖さえも加わった。領地の農夫にたいする態度も暴君的で、単なる気まぐれのために、彼らを笞刑に処することもしばしばであった。ドストエフスキーはシベリアにおいて、父ミハイルを殺したと同罪である囚人と、笞刑執行官を発見したのである。様々な囚人たちの中で、ここではペトロフに照準をあわせていきたい。
 
 わたしはだんだんすこしずつ交際の範囲をひろめていった。とはいえ、自分のほうから知己を作ろうなどとは、考えていなかった。わたしは依然として落ちつかず、気むずかしくて、疑ぐり深かった。わたしの交際は自然に始まったのである。まず第一にわたしを訪問するようになったのは、ペトロフという囚人であった。(略)わたしたち二人の間には、なんの関係もなさそうに思われた。共通点などというものも断じてなかったし、またあるべきはずがなかった。ところが、ペトロフはわたしの入獄当初、ほとんど毎日のようにわたしの監房へ訪ねて来るか、休み時間に、わたしができるだけ人目を避けて、獄舎の裏手を歩きまわっているとき、わたしを呼びとめたりするのを、義務のように心得ているらしかった。はじめわたしはそれが不愉快であった。しかし、間もなく、その訪問を気晴らしのように感じるほどになった。どうしたものか、彼はうまくそんなふうに仕向けたのである。そのくせ、彼はけっしてとくにつき合い上手な、口数の多い人間ではなかったのだ。
 彼はいつもわたしに話をするとき、いっこうにこだわりのない態度を持し、完全に対等の立場をとっていた。つまり、きわめて申し分のない、細かい心づかいの行き届いた態度なのである。たとえば、わたしが孤独を求めていることに気がつくと、彼はものの二分ばかり話をすると、すぐに向こうへ行ってしまった。(略)面白いことには、こうした関係が最初の間ばかりでなく、数年の間ずっと続いたのである。しかも、彼が心からわたしに敬服しきっていたにもかかわらず、その関係はついぞこれ以上親しいものにはならなかった。
 
 ペトロフはМのいうところによると、多くの徒刑囚は彼に恐怖の念を植えつけた。ことに入獄の当初がそうであった、けれども、だれ一人として、あのガージンですらも、ペトロフほど彼に恐ろしい印象を与えたものはない、とのことであった。
 「あれは囚人全部の中で、いちばん思いきったことをやりかねない、いちばん恐ろしいやつです」とMはいった。「あいつはどんなことでもやっつけるたちの人間ですよ。もしやつの頭に何か気紛れが浮かんだら、何ものの前にも躊躇なんかしやしません。ひょいとそんな気が起ったら、あなただって殺してしまいますよ。しかも、眉ひとつ動かさないで平気で殺したうえ、後悔なんてすることじゃありません。わたしはあいつのことを、正気じゃないとさえ思っていますよ」
 もっとも、ここで断わっておくが、このペトロフは、例の体刑に呼び出されたとき要塞参謀を殺そうとした男で、そのとき少佐は刑の直前にその場を立ち去って、囚人の言葉をかりると、「奇蹟で命拾いをした」のである。おそらく彼はそれまでたびたびなぐられたに相違ないが、その時はどうにも我慢ができないで、白昼、整列した隊の面前で、公然と自分の連隊長を刺し殺したのである。
 ペトロフが囚人において、最大なる強者であるということは目に見えている。
 こういった人間は、その生涯のうちに、時として、たとえば、何か急激な民衆ぜんたいの運動とか、社会的事変とかが起こった場合、突如として大きくはっきり姿を現わし、人々の注目をひき、こうして一時にその活動力を名残りなく発揮することがある。彼らは文字や言葉の人ではないから、その事件の発頭人やおもな指導者にはなれない、がその重要な実行者となって、まず第一にことに着手する人々である。
 
 ペトロフという囚人を、シベリアで初めて発見したと述べたが、ここにおいてうたがわしさが出てくる。確かに『死の家の記録』はルポルタージュとして読まれてきた。はたしてルポルタージュといいきっていいものだろうか。『死の家の記録』はドストエフスキーの作品の中で、トルストイにもこの作品をおおいに評価されてきたゆえに、固定観念にしばられ、ペトロフをはじめ主な囚人たちを単に観察した人物として読んでいたにすぎないのではないか。という疑問が生じる。ドストエフスキーは貴族に対しては、囚人一同が仲間ぜんたいで彼を憎み、軽蔑するとある。実に次のペトロフの言葉によってそれは象徴されるのである。
 わたしは、たとえ自分がどんな恐ろしい囚人であろうと、正真正銘の無期徒刑囚であろうと、特別監の囚徒であろうと、けっして彼らの仲間に入れられることはないのだ、ということを悟ったのである。しかし、とくにこの瞬間、わたしの記憶に残ったのは、ペトロフの表情であった。「あんたがたがどうしてわっしたちの仲間なんですかい?」といった彼の質問の中には、じつに自然そのままの素朴さが、――いかにも単純な不審の調子が響いていたのである。
 
 ここまで読んでくると、ドストエフスキーは、ペトロフという人物を一分において観察してはいたが、創作したに違いはない。やはり『死の家の記録』はルポルタージュではない。
 ドストエフスキー全集の中には「シベリア・ノート」というものがある。松本賢信「シベリア・ノート」と『死の家の記録』には、ここで興味深いのは、物語の語り手であるゴリャンチコフを始め、小説中で中心的な存在となっている囚人たち、例えばアキム・アキームイチ,ペトロフといった主要人物の描写には「シベリア・ノート」起源の表現はほとんど利用されていないということである。
 松本賢信氏は『死の家の記録』という作品が、少なくともドストエフスキーが監獄における自己の体験をそのままの形で再現しようとしたドキュメンタリー小説ではなく、むしろ創作色の濃い芸術作品であることを語っているように思われると、述べられている。
 この件については賛否が分かれるところではあろうが、よくよく作品を読んでみると、つじつまがあまりにもあう点など、細部においてこだわりがみられる。
 
 表題を『死の家の記録』における「不仕合せな人たち」とつけたが、まだここにおいてふれてはいない。「シベリア・ノート」に書かれた人物は無名な囚人であるということだが、私自身ももっともこの作品において触発された囚人がいる。
 囚人に対して最も同情ぶかい人間は医者である。それはロシヤ全国のあらゆる囚人たちに知れ渡っている。彼らは、ほとんどすべての人が無意識にやるように、けっして囚人と常人との間に区別をつけない。ただ一般の民衆は例外で、たとえどんなに恐ろしい犯罪をしたにせよ、断じて囚人を責めるようなことをせず、彼らの受けた刑罰といっしょに、その不幸な境遇のために彼らをゆるすのである。ロシヤ全国の民衆が犯罪を不幸と名づけ、犯人を不仕合せな人たちと呼んでいるのは、あえて偶然でない。これは意味深長な定義なのである。
 先にも述べたが、この作品で一番不仕合せな人は誰かというと、アレクサンドラという、洗礼を受けたカルムイク人である。
 
 「なんでもかでも、むやみやたらに打たれどおしだったよ、おれは物心つき始めてからこのかた、十五年ばかりぶっとおしに、毎日、何度も何度も引っぱたかれていたものでさ。おれを打たなかったのは、ただその気のないものだけでね、とうとうしまいにゃ、すっかりもう慣れっこになっちまったよ」
 「おれあ今度こそ小っぴどい罰を受けるだろうと覚悟していたよ、ひょっとしたら、笞の下から生きちゃ出られねえかもしれめえと思った。いくらおれが笞に慣れてるからって、なにせ四千といったら、冗談じゃねえからな!それに役人連がみんな腹を立てちまったでなあ。そこでおれあ、こいつあただじゃすまねえ、笞の下から無事にゃ出られめえ、また出してもくれめえと覚悟した、ちゃんと覚悟を決めていたよ。おれあはじめ洗礼を受けてやろうと思い立ったんだ、もしかしたら、ゆるしてくれるかも知んねえと考えたもんでね。もっとも、仲間の連中はその時そういったもので、そんなことしたって、なんの役にもたちゃしねえ、ゆるしてくれるもんけえ、ってね。でもおれあ、とにかくやってみよう、なんてっても洗礼を受けた人間だと、役人のほうでもいくらかかわいそうと思ってくれるかもしんねえ、とそう思ったのさ。すると、ほんとうに洗礼を許してくれて、そんな時アレクサンドルって洗礼名をつけてくれたが、さあ、刑となると、それでもやっぱし笞は笞で、ただのひとつも減らしてくれやしねえ、おれあ癪にさわったくれえだよ。そこで腹ん中で考えたよ、待てよ、ひとつてめえたちをみんなだましてやるから、って。え、アレクサンドル・ペトローヴィチ、なんとお思いになりますね、まんまと一杯くわしてやりましたぜ。おれあ死人の真似をするのがとても上手なんでさ。といっても、すっかり死人になりきるのじゃなくって、今にももう息を引き取りそうなふうにして見せるんで。さて、刑に引っぱり出されて、まずはじめの千本をすましたが、背中が灼けるようで、大声あげてわめいたもんだ。次の千本をやられた時にゃ、ああ、もうこれでおれの一生もおしめえだと考えたね。歩いてても頭がぼうっとして、膝ががくがくするじゃねえか。おれあ地べたへどっと倒れちまった。目は死人みてえになって、顔は土気色をしてさ、息なんかもありゃしねえ、口のはたにゃ泡を吹いてるって始末なのさ。医者がそばへやって来て、『もうすぐだめになる』っていうんだ。おれは病院へ担がれて行ったが、すぐと息を吹き返したもんでさ。それから、また後で二度、刑に引っぱり出されたが、もうみんなおれに業を煮やして、かんかんに腹を立てていやがったよ。でも、おれあもう二度だまくらかしてやった。三千本めをやられた時、千だけで気い失った真似をしてやったよ。ところが、四千本めが始まった時は、ひと打ちごとに笞が刀みてえに、心の臓まで突き刺さるような思いでね、一本一本が三本分に当たるくれえ、そのひでえぶちようといったら!兵隊のやつらめ、おれを目の敵みてえに憎みやがったもんだでなあ、あのいまいましい一番あとの千と来たら(ちぇっ、くそ!・・・)はじめの三千みんなに手っぱるくれえだったよ。もしいよいよおしめえっていう時に死んだ真似をしなかったら(あとわずか二百というところだったので)、その場でぶち殺されていたに相違ねえ。ところが、どっこい、おれもむざむざそんな目にあわされていやしねえ。また気が遠くなったふりをして、一杯くわしてやった。そんな時もまたぞろほんとうにしやがった。またどうしてほんとうにしねえでいられるもんかね、医者でせえほんとうにしたくれえだからね。もっとも残りの二百の時は、あとで力かぎり根かぎりぶったのぶたないの、普通の時の二千よりつれえほどだったが、それだって、へん、どんなもんでえ、なぐり殺されやしなかったからな。どうしてなぐり殺されなかったかっていうと、それもやっぱり餓鬼の時分から笞の下で大きくなったからさ。それだからこそ、きょうまで命があったわけでさ。いやはや、おれは今までの間にどれだけぶたれたことやら!」
 「ねえ、アレクサンドル・ペトローヴィチ、なにしろおれあ今でもよる夢を見るてえと、かならずぶたれてる夢を見るんで、そのほかの夢ってものはねえくらいでがすよ」
 
 長々と引用したが、『死の家の記録』における不仕合わせな人たちは、現在の日本においても現出していることで、このような人々は、人類がなくならないかぎり、また、心なき病んだ時代、不安を生きつつある自分を発見できず、裏の社会に隠されていることにより、この現代性においては、まさしくドストエフスキーがわしたちに問いかけているものではないかと思う。





『死の家の記録』について


・1855年(34歳)2月ニコライ1世没す。『死の家の記録』起稿。8月イサーエフ死亡。
・1857年(36歳)2月15日マリヤと結婚。
・1859年(38歳)8月中旬『死の家の記録』執筆。
・1860年(39歳)週刊誌『ロシア世界』67号から連載

兄ミハイル宛 1859年10月9日    ドストエフスキー
 ・・・『死の家の記録』は、いまや、ぼくの頭の中で完全かつ明確なプランが出来上がりました・・・ぼくは人物としては消えます。これは無名氏の手記ということになります。しかし、面白さは請け合います。面白いことこれに優るものなしというものになるでしょう。ここには深刻なものも、陰惨なものも、ユーモラスなものもあります。また懲役囚に独特なニュアンスのこもった民衆の会話もあるし(ぼくが現場で書き留めた、そういう言い回しのうちのいくつかを、兄さんに読んで聞かせたでしょう)。これまでの文学では、かつて聞いたこともないというような人物たちの描写もあるし、人の心を打つようなものもあります・・・読者がこれを貪り読むであろうこと必定です。ぼくは自信を持っています。

ドストエフスキー宛 1862年1月7日       ツルゲーネフ
『時代』を二冊お送りくださり、まことに忝なく存じます。大変面白く拝見しております。中でも貴兄の『死の家の記録』は抜群です。風呂の場面は、まさにダンテに匹敵します。そして、貴兄の、さまざまな人物の性格描写には(たとえば、ペトロフ)、繊細で確かな心理把握が豊かにあります。
※ペトロフ=平民出身の囚人の一人。ドストエフスキーに対しては、気まぐれな忠僕のような態度をとっている。普段はおとなしいが、何かことがあると怖れを知らずに先頭を走るような性格の男。





プレイバック読書会

  
読書会感想記「死の家の記録」

下原 康子
 
 平成5年10月9日、秋晴れの一日の夕刻、参加者14名。レポーターは高橋由起子さん。A4用紙10枚に手書きでぎっしりのレポートを用意してこられ,その熱心でひたむきな取り組みにまず感銘を受けました。以下、レポート中の表現をつなぎあわせた独断的な印象に基づく要旨です。(高橋由紀子さんは、これから暫くして亡くなりました)

シベリア流刑は偉大な作家になるために与えられた「場」であった。そして,ドストがシベリアで見たもの、それは「人間」だった。その「人間」はそれまで住んでいた世界とは全く対極にいる人間であり、しかも彼らは民衆全体のうちでも、とりわけ才能ゆたかで力強い人間たちなのであった。いったい誰の罪でこの並外れた彼らが、そのいさましい力がいたずらに滅びてゆくのか...人間の悲惨と神の沈黙。
 記録者ゴリャンチコフの囚人への眼差しは暖かいが、実際のドストは気むずかしい好感をもたれない囚人だったようだ。彼は決して囚人の仲間に入れることはなかった...そもそも私たち人間というものは本当の意味で他人の悩み,苦しみに共感できるものだろうか(ドストと高橋さんを繋いでいでいるように思えるこの言葉に私も深い共感をおぼえます。神の問題もこれを抜きには考えられません)
報告の後半は登場する主要な囚人の紹介、社会抗議書として意味をもつと考えられるテーマ、「刑罰に関して」「血と権力」「刑吏の素質」の紹介がありました。その中の「刑吏の素質」に関しては、ヒューマニスティックな人物とも思えないのに囚人から絶大なる人気を勝ち得ていたスメカーロフ中尉という人物が私には印象的です。
最後に興味ある疑問の提出があって,報告後も話題になりました。つまり、記録者ゴリャンチコフ、刊行者たる私、そしてドストその人との関係。また、ゴリャンチコフとドストの相違(政治犯として4年の刑と妻殺しのかどで10年の刑)、それから高橋さんがとりわけこだわっておらるように見えた、出獄後の違い(終わってしまったゴリャンチコフとこれからが本番のドスト)。記録に入れられなかった4分の3に意味があるのではという示唆に富んだ指摘が印象に残ります。二次会では熱っぽく語られました...ドストは生きたかった,そして書きたかった。
 報告後,次のような感想や意見がありました。
・素材やテーマにもかかわらず作品から感じられる”明るさ”はどこから来るのか?
・オセロを連想した(ゴリャンチコフは嫉妬から妻を殺害)
・浮虜記,小話,人物図鑑としてのおもしろさがある。
・”明るさ”の正体は作家魂とその客観性にあるのでは?
・悲惨,苦しみ,忍耐等は言われたがなぜ悪いという意見が出てこないのか不思議。 彼らは罪を犯したのに...(内心拍手)
・獄中では福音書だけしか読まなかったというのが伝説的な定説だが,これは誤り。 食べ物その他も金しだいという面もあったらしい。
その他ご自身の体験に照らしての興味深いお話(保育園の一人一人異なる子供たち,身近につきあった犯罪者の知人)がありました。
最後に読書会への提案を一つ。これから大きな作品に入っていくと,報告の仕方もむずかしくなります。そこで一回ごとに報告者が特に興味をもつテーマにかぎってはどうでしょう。同じ作品を数回とりあげ,その時のテーマにそって言いたい放題の感想をのべあうのです。”報告”でなくても”テーマの提出”だけで十分かと思います。多様な参加者のユニークな感想を聞くのが毎回とても楽しみなのです。





4・23読書会報告 
               

4月読書会、20名で盛会
4月読書会は、20名の参加。はじめての方は2名。

 

報告者・冨田陽一郎さん
 
 レジメを基にした丁寧な報告でした。中村健之介氏の『ドストエフスキー人物事典』「おじさんの夢」を全文朗読、評論例の紹介とした。全体のまとめとしては、喜劇ではあるが、『白痴』の原型作品を感じるといった方向性を示唆した。ご苦労さまでした。

 参加者の、声を拾うと次ぎのような言葉があった(主なもの)

「上流階級への夢、脱出」「ジーナの心境がわからない」「ヴァーシャは、おどしの材料」「人間の汚い部分を感じた」「トルストイ『戦争と平和』」「ゴーゴリっぽい」「面白く読んだ」「母親と娘の問題」「1904年、クニッペル 演劇化された」「シェクスピア『真夏の夜の夢』」
「タイトルの問題」「沢山の女性がでてくる」「一般的に哀れな印象」「ジーナの人物像とは」





「伯父様の夢」 夢の実相 
         

前島省吾

 「伯父様の夢」の「夢」のロシア語は(сон ソーン)。「眠り」とも睡眠中に見る「夢」とも訳せる。
 フロイトによれば「夢(сон)」は無意識の所産であり、欲望の発露ということだが、必ずしもそうとばかりはいえない。現実と接触し交差する中で、意識と無意識の区別はあいまいになる。最近の学説では、睡眠と覚醒、夢と現実を区別する確かなしるしは無いということになっている。「夢」は覚めた後初めて「夢」になる。フーコーによれば、「夢でおのれ自身の世界に出会い、おのれの運命の相貌を認める」。「夢は各人の未来を示し、真理を告げる」。夢と現実があいまいになったというだけでなく、田中ランディは、「日常生活において、ひとは知らず知らずに何を見るかを選択し、固定観念によって錯覚する。つまり常に世界を編集しているのであって、その点夢と変わらない。夢と現実は相互乗り入れしている」という。メルロ・ポンティは、「覚醒状態にある我々の物との関係は、原理的に夢のような性格を持っている。我々にとって、他人との関係は夢のように現前している。誰でも自分の考えや感情、感覚はわかるが、他人の考えや感情は相手の表情や言葉を「編集」し、推測するしかない。すべてがわかっているわけではないが、わずかな特徴と過去の記憶、知識をとっさに編集して判断している。極端にいえば、すべては「夢」であり「現実」である。(参照:貫 成人 主体の破れ・夢の存在論――夢と哲学 「文学」 2012.11.27)
 
 マリア・アレクサンドロヴナやモズグリャコフ、ヴァーシャも「夢」を見ている。マリア・アレクサンドロヴナは、4000人の農奴を所有する公爵と娘のジーナを結婚させて上流階級の一員になり地方都市モルダーソフから首都のペテルブルグへ脱出することを「夢」見る。150人の農奴を所有するモズグリャコフと月給12ルーブルの教師ヴァーシャ、ふたりともジーナとの結婚を夢見ている。彼らの「夢」は、夢想、空想、憧れ、願望を意味する(мечта メチター)である。この「夢」は、意識の世界に侵入し想像力や構想力となったり、虚構フィクションの世界を彷徨する夢想家、詩人、芸術家あるいは相手の幸福を願う祈りに昇華していったりする反面、現実と交錯して悲哀、屈辱、絶望、苦悩を蒙った場合には心の葛藤を経て、計略、策略、陰謀、噂や虚偽、デマゴギーの伝播、呪詛、中傷、誹謗、あるいは復讐にまで転化していく要素を持つ。ドストエフスキーには「ペテルブルグの夢」という作品があるが、この「夢」(сновидение スノヴィジェーニエ)は、
ネヴァ河の幻想(видение ヴィジェーニエ)につながる。この単語の意味は、発音の違いによって(1、ヴィジェーニエ、幻、幻影、夢、イメージ、幽霊)(2、ヴィージェニエ、見ること、物の見方、ヴィジョン、洞察)となる。この幻影あるいは洞察は「弱い心」や「罪と罰」にも登場する。このように「夢」は多義的である。ドストエフスキーは、自分の分身を幻視したゴリャートキン、「女主人」「白夜」「おかしな男の夢」の夢想家、ラスコーリニコフの「馬殺しの夢」「砂漠の夢」、スヴィドーリガイロフの「マルファーの亡霊」、アルカージーの理想(イデア)、ムイシュキンの既視感、スタヴローギンの「黄金時代の夢とマトリョーシャの幻影」、アリョーシャの「カナの婚礼」、イヴァンの「悪魔」、その他多くの様々な「夢の実相」を追ってきた作家でもある。私は「伯父様の夢」も「ユーモア小説」としてではなく、これら一連の「夢の系譜」の中で捉えてみたい。

 この小説の舞台は農奴解放(1861年)前の地方都市モルダースである。この町の上流階級の貴婦人はことごとく金棒びき(噂好き、ゴシップ屋)である。噂もまた非現実と現実の狭間の虚構、メディアである。噂に酔うものは一種の「夢」の世界の住人である。真実の一部を針小棒大に拡大し、焦点化して世論を醸成して主従関係、規律、国家秩序を創造する。「夢」(虚構)は生権力の源である。この小説にはこのような「夢」の社会的構造が描かれていて、21世紀的ファンタジーとしても十分読める要素を持っている。マリア・アレクサンドロヴナは、この虚構の力を駆使して町の権威者になったのであるが、彼女はそれでは満足せず、首都の上流階級を目指す。

 ところで「伯父様の夢」とはなんであろうか? 伯父様は公爵だがぜんまい仕掛けの死人同様の老人、義眼、入歯、義足、鬘、口髭、顎鬚、化粧、すべてが偽りで成り立っている。意識も朦朧としていて、夢うつつの区別もつかない。全財産を浪費した上で偶然莫大な遺産を相続したというように、彼の人生そのものが虚偽の人生である。伯父という言葉さえ、モズグリャコフの作り上げた虚構であった。その公爵が、主観的には夢うつつの状態であったとしても、マリアの前でジーナに結婚申し込みをしたのはまぎれもない客観的事実であった。ただ彼は意識朦朧の中で自分の好色の本能に従っただけなのである。その結婚は、マリアやジーナにとっては一定の社会的意味をもつ意識的行為であり決断であったが、公爵は結婚というものが有する現実的意味を全く自覚できなかった。その後公爵は正真正銘の「夢」を見た。それは「恐ろしい牛、検事、ナポレオンとの会話の夢」であって、「結婚申し込みの夢」ではなかった。だが、その「夢」の話をしている最中に、彼は突然「わしは今日結婚のもうーしこーみをしたのだ。」と叫び出す。「わしはどうも無考えなことをした。」と後悔の言葉を発する。ぼんやりとではあるが、結婚申し込みをした事実を現実の意識の世界で確認したのである。自分が結婚などできない立場であることを想起したのである。その立場とは何か?公爵は語らないが、モズグリャコフのいうように、「親戚の同意が得られない、気狂い扱いされる、公爵の世話をしているスチェパニーダの怒りを買う」等々公爵の社会的立場を脅かす状況があったのであろう。その不安が「夢」を呼び起こし、「夢」の中でおそろしい牛、検事、ナポレオンとなって現れ、彼の意識に「結婚の危険」を告げたのであった。まさに「夢の告知」である。伯父様はジーナとの結婚が社会的に許されないことを真に悟ったのである。「夢(сон)」は、「真理への通路」である。「夢」は真理を告げる。「夢」は実存であり、実存的決断を促す。「伯父様」は「夢」の力によって、「結婚できない無力の自分の実存」に目覚めたのである。その為「夢」を見た後、まるで賢者のように、「白痴の伯父様」から「公爵」に変身したが如く強い自分自身の意志を表わすことがで
きるようになったのである。彼は今までの朦朧とした意識から覚醒したかのように、町の有力者の夫人連からの「結婚なさいましよ。」という四方八方からの大合唱の中、毅然と明瞭に理路整然と「わしは結婚などする能力のない人間なので、今日こちらの奥さんのもてなしで、楽しく一晩を過ごさせていただいたら、明日はミサイル僧正を訪ねて、それからまっすぐ外国旅行にいきますよ。」と宣言し、結婚申し込みの事実を断固否認する。マリア・アレクサンドロヴナがいかに結婚申し込みは夢ではなく、現実の出来事だと説得しようと叫んでも、「結婚申し込み」自体が彼にとって「素晴ら
しい夢」であったと言い張るのであった。そして、ジーナにあらためて、「美しいお嬢さん、もしたってのおーのーぞみなら私もあんたと結婚するよ。」というのであった。公爵は言い逃れをしているのであろうか?姦計を労しているのであろうか? 私はそうとは思わない。 そもそも「伯父様」にそのような意識的行為は不可能である。夢から覚めても真の実存をとげないかぎりは、真に目覚めたことにはならない。彼の意識が朦朧としていることに変わりない。「伯父様」という夢うつつの状態を脱することはできない。「伯父様」は目覚めてもやはり偽者でしかない。偽者は「夢 ソーン)」の世界に入ることはできても、現実と非現実の接点、意識と無意識の境界に生じる「夢 メチター」も「洞察 ヴィージェニエ」も持ち得ないのである。彼は「白痴の伯父様」として死なざるを得なかった。彼が「伯父様」ではなく、「公爵」になったのは、死後本物の甥が現れてからである。

 この小説にはただひとり「夢」を見ない女性がいる。勿論人間だから「夢」を持たないわけではないであろうが、彼女は決して「夢」を語らない。その女性とはジーナである。ジーナが何故母親の説得に応じて「白痴」の公爵との結婚を決意したのか?彼女は母親の勧める公爵との結婚を「卑しい行為」だと認識している。その「卑しい行為」の罪滅ぼしに、公爵への自己犠牲的献身を誓うのである。当時の農奴制時代の階級制度の中では、地主・貴族の娘である自分と家庭教師のヴァーシャとの結婚が絶対に許されないという社会的制約から逃れられなかったという側面もあろう。また母親の言葉にある「嫌いな男との結婚よりは愛のない結婚のほうがよい。」つまり愛がなくとも経済的安定のほうが幸せだという今日でも通用する結婚観が作用した面もあろう。しかし 私はそれ以上にヴァーシャやモズグリャコフの「愛」に彼女は深く絶望していたからであろうと思う。
 マリアとジーナが公爵との結婚を画策していることを知って、復讐心に駆られてその噂をひろめると脅迫するモズグリャコフに、「才知はないにしても、善良なひとかもしれないから結婚してもかまわないと内心思っていた」と打ち明けたうえで、もう決して彼とは結婚しないと決意を語る。結婚が許されないと知ったヴァーシャもまたジーナの手紙を町中に広めるといって脅迫したらしい。果たしてその脅迫が真実か噂かマリアの思い過ごしかは判然としないが、人手に渡ったその手紙を、マリアは自分の首飾りを質入して作った銀200ルーブルで取り戻す。瀕死のヴァーシャは、手紙のことだけでなく、ジーナを不幸に導くことが必至の「許されない結婚」を「夢想」した自分の行為を懺悔する。その後ジーナとヴァーシャはお互いの愛を確認するが、時既に遅しである。モズグリャコフも自分の行為を後悔して、卑劣な自分への許しを請うが、これも時既に遅しであった。
 ヴァーシャの愛を拒絶して、公爵との自己犠牲的結婚を決断するジーナの心の中に、「愛への絶望」、「夢の不在」を観るべきか、「より高い愛への理想(イデア)」を見出すべきか? ドストエフスキーの筆は、ジーナの心の葛藤には全く触れない。ただ、ジーナがまぶしいばかりの舞踏服につつまれ、ダイアモンドを全身にちりばめた傲然と誇りかな総督夫人となったことを記すのみである。ジーナの輝きはプーシキンの「タチヤーナ」を髣髴させる。

 ドストエフスキーは過剰な自意識の追求や登場人物の対話を通じて形而上学的問いかけを行う作家だが、この小説では目に映ったものだけをありのままに純粋に描いている。チェーホフは「人間を自然の一存在物としてみること、ただ率直にみること、みたままを何の主観をまじえずに率直に描くこと」、「作家の仕事は誰がどういう風にいかなる環境のもとで神あるいはペシミズムについて話したかを描くだけです。登場人物の裁判官になるべきではなく、ただ公平な証人になるべきです。」

 「人々が食事をとる。この間にも彼らの幸福がつくりあげられ、また彼らの生活が崩れていく。」と語り、ドストエフスキーの文学を「傲慢で慎みがない」と評した(参照: 近田友一 ドストエフスキーとチェーホフ 法政大学学術機関リポトロジー)そうだが、この「伯父様の夢」では、作者は主人公たちの裁判官にも解説者にもなることなく、無私の描写に留めている。この作品の中には、プーシキンからゴーゴリ、ツルゲーネフを経て、ドストエフスキーの後の世代の作家チェーホフにまで連綿と続くロシア文学のリアリズムの伝統が息づいている。読了後私はユーモアというよりはチェーホ
フ的哀歓をさえ感じた。

 勇みたった馬、雪ぼこり、リンリンなる鈴、そこはかとない空想、「寝入ってしまったモズグリャコフは目を覚ましたとき、全く別な考えを頭に宿した、生き生きとした健康な一個の人間であった。」この最後のシーンは、チェーホフの「中二階の家」の結末の文章を想起させる。
 「中二階の家」の主人公は、恋人のジーニャが突然立ち去ってしまったのに、行く先を聞こうとも追って行こうともしない。ただこうつぶやくのであった。「わたしはそろそろ中二階のある家のことを忘れかけているが、.....あの夜更けの野に響き渡ったわたしの足音などを思い出すことがある。....何故か次第に向こうでもわたしを思い出し、待っていてくれ、そのうちにまた会えるにちがいないという気がしてくれることさえある。 ミシュス、君は今どこにいるのだ。」

 勿論モズグリャコフと「中二階の家」の主人公とは恋の過程も結末も全く違うが、二人とも深い悔恨や苦悩とは無縁である。二人に共通するのは、「人生とはこのようなものだ。」という健康的な諦観である。
「伯父様の夢」は劇化され、ドストエフスキー生存中の1878年モスクワのマールイ劇場で「魅惑的な夢」という題で上演された。その後、ペテルブルグ、キエフ、クイブイシェフ、クールクス、ノヴォシビリスク、ヤクーツク、ウラン・ウデなどロシア全土の都市で演じられた。特に大反響を呼んだのは、1929年にクニッペル・チェーホヴァがマリア・アレクサンドロヴナを演じたモスクワ芸術座での公演であった。(参照:アルヒーポヴァ 註釈「伯父様の夢」) 

              前号(137号)のつづきです。(紙面の都合で2回になりました)





『スチェパンコヴォ村とその住人』 
「フォマーが一同の幸福の因になる」の意味するところ

                                    
前島省吾
         
 ドストエフスキーは、ゴーゴリのロシア正教会への帰依、専制皇帝礼賛、君主と民衆の愛の結合の説教などに激しい非難を浴びせるベリンスキーの思想には強い反発を感じながらも、この手紙を一種の熱狂をもって朗読したと思う。ベリンスキーの心の奥にキリストを見たからだ。「誰かが真理はキリストの外にあると証明したとしても、私はむしろ真理よりもキリストとともにある。(フォンヴィージン夫人への有名な書簡)」と書いたのは1854年だが、1849年頃のドストエフスキーもキリストを敬愛していた。ペトラシェフスキー会員だったにもかかわらず、このベリンスキーの手紙の中に、「真理の外のキリスト」を見出していたのだと、私は考える。

 一方 ドストエフスキーはゴーゴリをどう見ていたのであろうか?「我々は皆ゴーゴリの外套から生まれ出た。」とドストエフスキーが語った(ツルゲーネフ説もある)といわれるが、「そのドストエフスキーを含めすべてのロシア近代文学は、ゴーゴリの否定、ゴーゴリとの闘いの中で発展した」と、ローザノフは言う。(大審問官伝説について)「スチェパンチコヴォ村」は、明らかにゴーゴリ的なものの戯画化であり否定である。その否定の第一歩がこの作品であり、その結晶が「和解」の場面ではないだろうか?

 フォマーが、「これが自分の復讐ですぞ」と言って、ロスターネフとナスチェンカを結びつけたとき、村の一座は驚愕と歓喜の叫びをあげ、これがすべてフォマー・フォーミッチのわざであり、しかも確固として動かすべからず事実だと認識して大団円となったのだが、この大転換の原動力はロスターネフであった。フォマーが「私は全世界の陋劣醜悪を暴露するために天帝からこの世に遣わされた人間ですぞ。あなたは今迄純潔無垢だった処女を、淫奔無比な女にしてしまったのですぞ。」と言ってロスターネフを非難したとき、ロスターネフはそのナスチェンカの名誉を守ろうとして果敢な行動にでた。そのロスターネフの衝動的だが決然たる行動が、愛の告白が、結婚の表明が、そしてフォマーに対するナスチェンカへの謝罪の断固たる要求こそが「村」を変えたのである。フォマーの「高潔な精神」は、ロスターネフとナスチェンカの心情のぬくもりの前に、専制的、暴力的権力を失ったのである。それでもフォマーは変わらない。凝りに凝った気まぐれを考え出すのに、奔放な空想を駆使し続けたのである。フォマーが変わったのではなく、「村」自体が「精神病院」から「謙抑の宿(米川正夫)」に変わったのである。

 それでも、ドストエフスキーは、「フォマー・フォーミッチが一同の幸福の因になる」というタイトルをつけた。私は、そこにベリンスキーの手紙を読んで「それは誤解だ」と叫びながら狂死したゴーゴリへのドストエフスキーの鎮魂の思い、非難するだけで救えなかった大作家への痛切な愛惜の念がこめられていると感じるのである。ゴーゴリは1852年死去した。ドストエフスキー徒刑三年目であった。「ロスターネフとナスチェンカは、互いに幸福の絶頂に達していたので、(略)これでは神様の恵みが多すぎる(略)さまざまな十字架で自分の幸福を償わねばならないと取り越し苦労までする。(略)...ナスチェンカは、フォマーが彼女を叔父と結びつけたとき、フォマーのすべてを赦してしまったばかりでなく、『受難者』であり、もとの道化である人間から、あまり多くを求めるわけにはいかない、それどころか、むしろその魂を癒してやらなければならないという叔父(ロスターネフ)の思想に心底から共鳴したらしかった。」ゴーゴリの魂も癒してやらねばならない。ドストエフスキーはそう考えたに違いない。ゴーゴリに学びつつ、その作風、世界観に抵抗して、独自の人物創造と芸術世界を構築しようと再出発をかけたこの作品には、ベリンスキーとゴーゴリへの「肯定・否定」が共存する複雑な当時のドストエフスキーの心情が反映しているのではないかと私は思う。





評論・連載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像                       第47回 三島由紀夫の生と死、その運命の謎
小林秀雄没後30年(再論-2)

福井勝也

 前回は1月末に亡くなった安岡章太郎の『海辺の光景』(1959)と『流離譚』(1981)に触れながら小林秀雄の歴史認識について言及した。同時に、小林秀雄没後30年ということで、『新潮』特集「2013年の小林秀雄」(4月号)掲載の山城むつみ氏の「蘇州の空白から 小林秀雄の「戦後」」と題した長編論考を対照的に取り上げた。そこで問題を山城氏のデビュー評論「小林批評のクリティカル・ポイント」(1992)にまで遡及させながら、最新論考に対する当方の感想を表明させていただいた。今回、言い残した部分をもう少し再論してみたい。

 山城氏は、日支事変(1937)以後数回にわたる従軍記者としての体験(そこには軍の管理する「慰安所」での見聞も含まれる)から、小林は「加害」の痛切な思いを感得したと推論する。そこから、敗戦を挟んで戦後再論した氏のドストエフスキー論はその苦闘を滲ませる新たな創作であったと言う。その到達点が、「『罪と罰』についてU」(1948)の最終部で論じられた流刑地シベリアのラスコーリニコフで、そこには敗戦後の小林自身が投影されていたのだと。しかし山城氏は、小林には彼に寄り添うソーニャ(殺された「リザヴェタ」を想起させる)が現れなかったことを指摘して、結局「『罪と罰』についてU」(1948)の「綻び」がそこから生じ、「『白痴』についてU」(1952-53)の「破れ」(中断)に至ったのだとする。さらにその「綻び」によって、小林は『野火』の大岡昇平のように「加害者の位置から進んで脱落する」ことができなかったことを結論している。
 
 今回も「論考」を再読したが、やはり「後味の悪さ」を感じさせられた。それはどこから来るのか。率直に言って、山城氏のデビュー昨「小林批評のクリティカル・ポイント」からほぼ20年を経過して「楽屋裏」を見させられた思いがしたと言うところか。緻密な論証で、スリリングな展開に怜悧な批評精神を今まで好感してきただけに、これまでの「山城ドストエフスキー」との落差を感じさせられた。勿論、山城氏の大著『ドストエフスキー』(2010.11)の価値がこれで大きく変動するとも思わないが、ストイックに「言葉」に拘る姿勢を貫き、「批評」にそれ以前の理論的契機(政治的、宗教的契機他)を先行させることを細心に忌避してきた氏にとって今回の論の運び方は如何なものか。勿論、山城氏がどのような(政治的)信条をお持ちでも構わないわけだが、選りに選って小林秀雄の戦後ドストエフスキー論に、戦争責任からの平和憲法への希求を読み込むのは「強引な謎解き」か「批評のアクロバット」と言えないか。しかし例えば山城氏が引用(初出?)してくれた小林の以下の文章などは、今日読んでも貴重なものだと思う。問題はその読み取り方だ。

 「今日の新聞を見ると、日本の再武装の是非に就いて世論調査が行はれてゐるが、再武装を是とする人々の数も多い様である。日本国民は、先日自ら作つた憲法を忘れてゐる様な有様であるが、これは人間の誓言は、事実の前でいかにも弱いものであるかを語つている。敗戦という大事実の力がなければ、ああいふ憲法は出来上がつた筈はない。又、新しい事実が現れて、これを動揺させないとは、誰も保証出来ない。戦争放棄の宣言は、その中に日本人が置かれた事実の強制力で出来たもので、日本人の思想の創作ではなかつた。私は、敗戦の苦しみの中でそれを感じて苦しかつた。大多数の知識人は、これを日本人の反省の表現と認めて共鳴し、戦犯問題にうつつを抜かしていた。」 (「感想」/「大阪新聞」に掲載1951)

 引用は1951.1月号の「群像」に世界の著名な文学者から寄せられた憲法9条へのアンケートへの小林の感想文の一部だが、山城氏はこの文面から、小林が戦後ドストエフスキー論を書くことで、その日本人が創作できなかった「戦争の放棄の宣言」に匹敵する「思想の創作」を産み落とそうと苦しんでいたのだと語る。さらには、保田與重郎の『絶対平和論』における「これ(非戦条項)は政治上の権利でなく、人文上の権利です」との言を小林も肯定的に直覚したはずと指摘する。敗戦後、保田と小林が戦後体制をどう考えていたかはそれ自体興味深いテーマだが、小林が保田の反近代、アジア主義の『絶対平和論』(1950)にどこまで共感していたかは不明であって確かな根拠はない。
 むしろ上記引用文は、戦後憲法を日本人が自ら獲得したものでないことに歴史的な苦しみを感じ、敗戦の過酷さを述べていると読むのが素直だろう。同時にこの文章では、最後の大多数の怠惰な知識人批判の方に主眼があるに違いない。山城氏は、それを小林の戦後ドストエフスキー論に結びつけようとするわけで、議論の飛躍というか牽強付会の感が否めない。
 そしてここでの表現は、別箇所で山城氏も引用されている、やや有名に成りすぎた小林の言葉と響き合っていると思う。すなわち「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。<中略>この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起こったか、それさえなければ、起こらなかった。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省などしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。」(「コメディ・リテレール」1946.2)ここにも小林が嫌った「戦後の利巧な知識人」が得意とした「反省」という言葉が二度も語られていて、上記引用文と同じ文脈の表現として理解できる。そしてこちらの文言も、これ以上素直に読むしかない率直な内容としてある。この箇所の引用でも、残念ながら山城氏には「素直さ」が読み取れない。
 
 さらに気になる大岡との関係で小林には「加害者の位置から進んで脱落する」という契機が最後まで与えられなかったという結論的表現の問題だ。そもそも小林秀雄と大岡昇平をこのようなかたちで比較し、小林を批判する意味がわからない。
 考えてみれば、敗戦の翌年大岡は復員を果たしての挨拶回りで旧知の文学的諸先輩の筆頭として小林を訪ねている。その際に後の大岡のデビュー昨『俘虜記』(1948)を書くことをすすめたのが他ならぬ小林であった。大岡はこの時の模様を後に「再会」(1951)という小説に書いている。この場面は、意味深で大事な意味を含むと思うので引用してみる。小林はこの時、鎌倉を留守にしていて、作品「モーツァルト」を執筆中で伊東の旅館にあった。

 「君、一つ従軍記を書いてくれないかな」
 と待望の話になった。「従軍記」には私は思わず吹き出した。私は本物の兵隊として行ったのであったので、報道班員のように「従軍」したのではない。しかしX先生(注、小林のこと)がそういうのも一理ないこともない。私はてんで戦う気はなかったのであるから、事実上従軍みたいなものである。
 「ああ、Bからちょっと聞いた。でもねぇ・・・」 と勿体をつける。
 「いやなのかい」
 「いやじゃないけどね。戦場の出来事なんて、その場で過ぎてしまうもので、書き留める値打があるかどうかわかんないんだよ。ただ俘虜の生活なら書ける。人間は何処まで堕落出来るかってことが、そうだな、三百枚は書けそうだ。だけど日本が敗けちゃって、国中がっかりしてる時に、そいつを書くのは可哀そうだな。もっとも今は共産党とかなんとかいってるけれど、そのうちきっと反動が来ると思います。その時書いてもいいですな」
 
 私はただてれているにすぎなかった。それがX先生に見破られないはずはない。先生は長口舌を払う私の顔を憐れむように見ていたが、
 「復員者の癖になまいうもんじゃねえ。何でもいい、書きなせえ。書きなせえ。ただ三百枚は長すぎるな。百枚に圧縮しなせえ。他人の事なんかかまわねぇで、あんたの魂のことを書くんだよ。描写するんじゃねぇぞ」》
             (引用は『小林秀雄の思ひ出』から、郡司勝義著・1993)

 戦後の小林と大岡の文学的関係はここから再出発したと言ってもよい。最後のセリフなど小林の歯に衣着せぬ、江戸弁の小気味良い直言になっている。それに対し、大岡は自分の心底に蠢く文学的野心を見破られて、案外素直な気持ちが吐露されていると思う。しかし問題は、「従軍(記)」と「復員者」という言葉だろう。大岡には、生涯戦場で兵として戦った自負があったはずだ。文学のいや、人生の師とも考えていたはずの小林秀雄に対して、ここだけは譲れぬ、兵としての戦争体験が自分にはあると考えていたはずだ。その中身を「従軍記」を書けと言われて「吹き出した」のも無理もない。しかし興味深いのは、その後大岡自身が、自分には実は戦う気もなく「従軍」とも言えなくはないと考え直しているところか。
 『俘虜記』には、フィリピンの戦場で米兵と間近に接近した時、結局撃たずに殺人を回避する有名な場面がある。山城氏の言う「加害者の位置から進んで脱落する」とは、本来この場面を対象にしてよいはずなのに、山城は『野火』の主人公がフィリピン女を殺した後、男を射殺しようとする瞬間「ドストエフスキーの描いたリーザとの著しい類似」を想起した場面を問題にしている。これが「シベリア(戦後)の小林」には、ソーニャ(殺された「リザヴェタ」を想起させる)が現れなかったという結末を導くうえで対照的に利用される。しかし実は、『野火』の当該箇所(19 塩)を子細に読めば分かるように、大岡はこの場面で「ドストエフスキーの描いたリーザとの著しい類似が、さらに私を駆った」と表現していて、むしろリーザは主人公を二度目の殺人に駆り立てているのだ。リーザは「加害者の位置から進んで脱落する」どころか、とにかく「進んで加害者に駆り立てる」存在として描かれている。この直後に男を射殺しないで済むのは、銃の不発という偶然による結果でしかなかった(ここでの問題は、かつて当方が論じた「大岡昇平とドストエフスキー」「広場」19号・2010を参照)
 
 さらにおかしいのは、山城は、この後の結末部で「緻密な外観にもかかわらず「『罪と罰』について」はこの一点から綻びる。次の「『白痴』について」で破れはさらに大きくなる。小林は迷走した挙げ句、記述を突然、切断するのだ。『野火』の主人公のように「静かに銃をさし上げるにはついに至らない。武器を放棄して「加害者の位置から進んで脱落する」には至らないのだ」と結語する。この斜線イタリック体の部分は明らかに、今度は作品『野火』を対象に論じられている。しかし実は、『野火』の主人公は先述の島の女の他に、人肉喰いをした二人の日本兵を銃殺したことを最終章(39 死者の書)で告白していて、やっていないのは、「殺人」ではなくて「人肉喰い」なのだと言っている(もしかすると後者もやっている?)。結局、山城氏がどこの箇所を指してこのように表現しているのか不明で、むしろ『俘虜記』の有名な場面に引きずられて安易なイメージで書いているのではないかと疑念が持たれる。そこでは、先行する理論的(政治的?)契機が先行しての批評文と勘ぐられても仕方ないのではないか。「後味の悪さ」の原因はこの辺にありそうだ。
 今回最後に、大岡が昭和46年11月に推挙された芸術院会員を辞退するという事態の問題に触れておこうと思う。「元捕虜が、今さら栄誉でも・・」と新聞は大きく報道し、「ほかの人には納得してもらえないでしょう。自分しかわからないことなのです。・・捕虜になったことは自分でも不可抗力だとは思う。でもねえ、戦わないで捕虜になったのだから、はずかしくて天皇陛下の前に出られないんです、ね」と大岡はこの時語ったという。
 小林秀雄は、この記事のことを聞いて、憮然として次のように言い放ったという。

 「大岡もまた妙なことを言いやがって・・・。要するに天皇陛下を否定したいんだろう?」
 「なにしろ『レイテ戦記』は、小説ぢゃないからね。あれは従軍記だろう?」
 (ここの引用も、前出『小林秀雄の思ひ出』による。郡司勝義著・1993)

 残りスペースがわずかになって、今回も言い足りない感じがしてきている。ここでは何も小林秀雄と大岡昇平という二人の辿った戦後的道筋を単純に対立的に捉えようと思っているわけではない。むしろそのように図式的に捉える先入観が山城氏のような結論を導いているのではないかと思える。しかし、『レイテ戦記』まで小林が拘って「従軍記」だと断ずるその言葉の意味は何なのか。もう少し続けて考えてみたいと思うのだが。 (2013.6.6)






読書会・あの頃  全作品を読む会の思い出


コンサートホールのころ

下原 康子

 全作品を読む会のスタートは1971.4月である。この年はドストエーフスキー生誕150周年にあたっていて、発足3年目を迎えていたドストエーフスキーの会は最高の盛り上がりをみせた。この年開催された文芸講演会(ロシア手帖の会共催)や延々8時間にも及んだシンポジウムのことは、今でも語り草になっている。現在の会のメンバーもみんな若くすごい熱気だった。こんな時に全作品を読破しようという読書会が生まれ,現在にいたるまで、脈脈と続いているわけである。
私はスタートから参加していたが,連絡係をしていたせいもあって、コンサートホールのころがなつかしい。
池袋にあったクラシック喫茶でここの3階の一角を1975.2〜1979.2ごろまでの約4年間会場にしていた。誰のお世話で決まったか記憶にないのだが,ここがみんな気に入っていたようだ。ラスコーリニコフの屋根裏部屋か地下室を思わせるような雰囲気がとても居心地がよく、くつろげたものだ。コンサートホールでの最初の読書会は「罪と罰第3回」だった。ついでに言えば第1回は草津温泉の天狗山ペンションで泊まり掛けの読書会をしている。会報34(1974.12.7)にその時の伊東さんの報告があるが、米川正夫先生の北軽井沢の別荘を訪ねる機会にもめぐまれ、思い出深い読書会旅行だった。
 会報37(1975.7.5)に新谷先生が「白痴」の読書会報告の冒頭に書かれた一文がこのころの会の雰囲気をよく伝えている。
「白痴は1975.4.15と5.30と2回にわたって読書会をした。それぞれこの会の常連とたまに顔を出す方、新しく出てくる方など11、2名が集まって結局とりとめのないおしべゃり。何かそういう習慣がついて、特に報告者がいるわけでもなく、といって話をまとめていくつかの問題にしぼるわけでもない。
ムダな時間といえばムダな時間なので、時間をつぶしたくないと考える人は自然足が遠のいていくのだろう」
スタート当初大隈会館で開催していたころはアカデミックで折り目正しい読書会だったように記憶しているが、このころは、かなり無節操な状態に陥っていたようである。連絡係はじめ常連のメンバーの人柄もあったかもしれないが,会場のせいも相当あると思う。なにしろとりとめのない、いいかげんな気分を誘う場所だったのである。
1サイクル目の読書会は1978に終了し2サイクル目が同じ年の5月に始まっている。私事だが,この年長男が生まれ、その後しばらくご無沙汰することになった。連絡係は国松さんと寺田さん(後に伊東さん)にバトンタッチした。次の年の1979にコンサートホール時代は終わっている。今までずっと知らずにいたのだが,会場が変更になった理由を会報57(1979.5.22)の事務局だよりの中でみつけた。なんと最後の名曲喫茶と呼ばれたコンサートホールも時代の波には勝てずインベーダーハウスになってしまったのであつた。その後しばらくは会場さがしに苦労したようで、会報63(1980.7.24)には高田馬場の「アイン」という会場に駆けつけたところ、なんと「アイン」は消失していて、しょう然として帰途についたという報告者になれなかった安達さんの愉快な報告が載っている。ついでに言えば、例会の会場が変わったのもこのころで、48回例会(1978.1.18)から現在の千駄ヶ谷区民会館になった。
その後について言えば,会報76(1983.2.25)に読書会への招待の一文(伊東さん)がある。このころには,2サイクル目も「土地主義宣言」まで読み進んでいて,会場も池袋の「喫茶滝沢」に定着していた。私はまだご無沙汰続きだったが,当時のメンバーの中に藤倉さん,横尾さんがみえていたと記憶している。
「場:会報の復刻版」をめくりながら,読書会の記憶をたどっていると,今ではもう会えなくなった人たちの姿が次々とうかんできて、なつかしさに時の経つのを忘れ、思い出にひたってしまった。文字どおり私の青春時代であった。
(1990年代に書いたものです)





事件再読       

 「透明な存在」の行方 

下原 敏彦  

 毎年、梅雨はじまりの鬱とおしいこの季節になると、あの陰惨な事件を思い出す。そうして、あの存在のことが気になり漠然とした不安に駆られたりする。(最近の新聞報道では、あの存在は、完全に消え去ったように書いてあったが…)
 あの事件とは――― 1997年5月27日未明、神戸市内。新聞配達人は、いつもと同じようにまだ暗闇のなかをオートバイで新聞配達していた。友が丘中学校の前を横切ったとき校門の下に何か置いてあるのを見つけた。黒いビニールの袋で、何かが入っているようだ。
「何だろう」配達人は、気になって引き返し、手にとった。ずっしり重かった。彼は、オ―バイから降りて、恐る恐る中をのぞきこんだ。次の瞬間、息もできないほど驚天した。
 日本中を震撼させ、恐怖のどん底に突き落とした、陰惨な猟奇事件のはじまりだった。入っていたのは、三日前行方不明になっていた小六児童の頭部だった。傷つけられた口に警察への挑戦状を咥えさせていた。「さあゲームの始まりです 愚鈍な警察諸君 ボクを止めてみたまえ ボクは殺しが愉快でたまらない ・・・」こんな内容の手紙だった。人間業とは思えない犯行。如何なる凶悪犯が…日本中が凍りついた。あざ笑うように犯行声明文が地元新聞社に送られてきた。犯人は気の狂った悪魔か。しかし、6月28日逮捕されたのは14歳の中学三年生少年Aだった。彼は、二カ月前にも、公園で小学三年の女児を襲い一人を殺し、一人に重傷を負わせていた。妄想にとり憑かれたのか、とり憑かれたふりをしているのか、Aの供述は、自分の心の中に棲む「透明な存在」の仕業だという。しかし、14歳の少年の犯罪ということで当時(もいまも)マスメディアは、この犯罪を謎とした。「なぜ14歳が」「なぜ普通の中学生が」「なぜ平凡で幸せな家庭の子が」などである。
 
 しかし、最近、疑問に思った。本当に謎なのだろうか。もしかしてそんな報道に惑わされているだけかも。そんな疑念からもう一度事件に関する文献を読んでみた。すると当時はただ驚きでみえなかったが、十す年の歳月で少年Aの人物像が、少し見えた気がした。
 彼は、普通の中学生でも、平凡な少年でもなかった。犯罪を犯すべくして犯した人間。謎は、少しも感じないのである。Aは、中学では、変質的・病的ワルとして要注意人物だった。教師も相談所の職員もサジを投げるほどの問題人間。猫を何匹も殺し、その舌を塩漬けにして、それを見せて喜ぶ異常性格者だった。
 彼を知る誰もが最初の事件発覚直後から少年が犯人と確信していた。学校も家族も児童相談所も疑っていた。つまり「透明な存在」というより、彼自身が犯行者の存在だったのだ。(最近の児童虐待死もそうだが)周囲が、真剣に対処していたらあの悲劇の事件は防げたかも知れない。心の闇の解明より、その人間の観察が重要といえる。そう思うと歴史に「たら」「ねば」はないが、悔やまれるのである。

資料 再読『「少年A」14歳の肖像』高山文彦著 『この子を生んで』犯人の両親著など



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