ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.137  発行:2013.4.10


第256回4月読書会のお知らせ


第3土曜日・「東京芸術劇場」小1会議室です

4月読書会は、下記の要領で行います。

月 日 : 2013年4月20日(土)

場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室1(池袋西口徒歩3分)
             
開 場 : 午後1時30分 

開 始 :  午後2時00分 〜 

作 品 : 『伯父様の夢』

報告者 : 冨田陽一郎さん     
       
会  費 → 1000円(学生500円)

二次会はJR池袋駅西口付近の居酒屋 → 5時10分 〜 お茶会(喫茶店)月読書会は、東京芸術劇場の第7会議室です。

 6月の開催日は 2013年6月29日(土) 




4・20読書会について


作品は『伯父様の夢』

 4月20日読書会の作品は『伯父様の夢』です。この作品は、1858年5月ドストエフスキー37歳の時に書かれ翌年発表された。ちなみに前回江原あき子さんが報告された『スチェパンチコヴォ村とその住人』は、同時期に執筆。
 『伯父様の夢』発表までの主なドストエフスキーの出来事は、以下のようであった。
1854年(33歳)2月中旬、刑期満了。
        3月セミパラチンスクの第7国境守備隊に編入される。
        ツルゲーネフの『猟人日記』、トルストイの『幼年時代』『少年時代』読む。
        税務官イサーエフの妻マリア夫人に恋する。ヴランゲリ男爵と親交を結ぶ。
1855年(34歳)ニコライ一世没す。アレクサンドル二世即位。『死の家の記録』起稿。
        8月イサーエフ死去。以後、マリアの援助。
1856年(35歳)ヴランゲリ、ドストエフスキーの軍務免除に奔走。
        3月クルミヤ戦争終結。
        10月下士官に昇進、少尉補となる。
        マリアとの結婚準備、資金調達。
1857年(36歳)2月1日第7シベリヤ国境守備隊司令官、ドストエフスキーの結婚を許可。
        2月15日マリヤとグズネックで挙式
        8月『祖国の記録』8月号に『小さい英雄』掲載。
1859年(38歳)3月『伯父様の夢』を『ロシアの言葉』で発表

1856年1月18日マイコフ宛の手紙でドストエフスキーは「喜劇的長編の執筆に従事している」と書いている。秋には兄ミハイルに「この大長編の断片、完全にできあがったいくつかのエピソードを、今すぐ発表したいと思っています。」と云っている。
 しかし、1873年9月14日M・P・フョードロフ宛の手紙でこのような感想を述べている。

鳩のごとく柔順で、無邪気な小説

「15年間、私は自分の中編小説『伯父様の夢』を読み返したことがありませんでした。今度読み返してみて、出来の悪いものだと思いました。あれを書いた当時、私はシベリヤにいて、懲役を終えて初めて、ただただ文学活動の再開をめざしていて、検閲をひどく恐れていました。そういうわけで、心ならずも、鳩のごとく柔順でまったく無邪気な小説を書いてしまったわけです。」

 この作品のレポーターは、冨田陽一郎さんです。冨田さんは、昨年5月19日(土)に原宿・千駄ヶ谷区民会館で開催された第209回例会で以下の論題を発表しています。
悪人論/バラムの騾馬―『カラマーゾフの兄弟手』における『スメルジャコフ』論





伯父様の夢 


冨田 陽一郎 (臥龍)

<主な登場人物> 
・マリヤ・アレクサンドロヴナ…やり手のおばさん。雄弁で相手をやりこめ、自分の描いたシナリオ通りに動かそうとする。身分や財産を手に入れる事で社会的な成功をおさめようとする現実主義者。
・ジーナ…若き美女。純真だがプライドが高く、傲慢なところがある。若き日に家庭教師に恋をした過去を持つ。
・モズグリャコフ…ジーナに言い寄る青年。K公爵の甥っ子。純朴に見えて、計算高い才知を裏に隠し持つ。
・K公爵…「伯父様」。白痴で馬鹿だが財産と身分がある。語尾を伸ばす癖があり、鬘やつけ髭が特徴。
・ヴァーシャ…以前の家庭教師。病弱。過去にシェイクスピアをジーナと読みあったりして、恋が芽生えた事があった。

<あらすじ>
 「伯父様の夢」は、前半のK公爵の描写と、中盤のマリヤ・アレクサンドロヴナとジーナが、K公爵を誑かして地位と財産を手に入れる為に形式だけでも結婚をしようと企む部分、そして終盤のバフチンの「ポリフォニーとカーニバル」理論を地で行くような群衆劇の、マリヤの企みがすべて露見して、K公爵が耄碌して夢と現実が混同し、無様なようすを露呈する表題にかかわる部分と、ジーナとモズグリャコフがそれぞれ今までの相互の企みをすべて自白し、告白する場面が主軸になって展開する。最後のエピローグとして、後日談的に、ジーナが辺境の有力貴族諸侯の夫のもとに嫁ぎ、マリヤもジーナも地位・財産共に高い地位に昇りつめる事、その二人にモズグリャコフが偶然出会う事で、話は閉じられる。

<読み>
・後期の長編大作作品群の一つ「白痴」の原型作品として把握するいろいろな読み方のできる作品であるが、まず気がつく事は、この作品が、後のドストエフスキーの五大長編の一つ、「白痴」の原型的なモチーフで構成されている事である。つまり、ムイシュキン公爵とK公爵、の並列性である。この両者は、どちらも「公爵」であり、貴族である事、財産を遺産の相続といった形で豊富に持っている事、精神障害で精神障害者収容施設とのかかわりがある事(ムイシュキンはスイスの精神病院で育ち、K公爵も「いくらか気がふれている」といわれている)、などである。
 だが、明確な違いも存在する。それは、@ムイシュキン公爵はたしかに「白痴で馬鹿」だが、その一方で「キリスト公爵」と呼ばれるような、思想性、宗教性、人間的な度量の大きさ、他の人間の苦悩を受けとめようとする人格的な成熟、を持っている。いわば特別な「白痴」であり、自己のスタイルというものを明確に持っている。人生に対して、積極的な、能動的な態度で接している人格である。これに対して、AK公爵は、いわば「ただの馬鹿であり白痴」であって、その耄碌や、人工的な容姿、そのしゃべりかたの癖など、けっして肯定的な特別な「何か」を持った「白痴」ではない。そこには思想性も宗教性もない。ただの「駄目になった人」でしかなく、崇高な要素がほとんど何もない。いわば、人生に対して消極的な、受動的な態度で接している人格である。この「違い」は、この両作品の本質的な違いに根ざしている。
 この作品は「ユーモア」が主軸であり、「白痴」のような、「トラジティ(悲劇)」ではなく、
「コメディ(喜劇)」である。この作品のコメディ性とトラジティ性は、「白痴」のちょうど裏返しのような部分がある。ドストエフスキーは、おそらくある時点で、自分の小説スタイルが、喜劇よりも悲劇に、短編よりも長編に、非思想性よりも思想性に、適性がある事を掴んだはずである。これを明確に掴んだのは、やはり「死の家の記録」「地下室の手記」を経て、「罪と罰」を書き始めたあたりだったのであろうと推測される。ドストエフスキーは、大悲劇を描きながらも、喜劇性やユーモアを隠し持つ点にその優位性があるが、その自己の優位を、この「伯父様の夢」を書く時点では、まだ萌芽的にしか自覚していないように感じられる。この作品は喜劇、短編、非思想性で構築されており、ドストエフスキーの文学スタイルの良さがまだ出ていないと言えるだろう。だが、部分部分では、後期長編大作作品群を彷彿とされる描写が出てきており、そういった部分は読ませる内容になっている。

・恋愛劇および群衆劇としてこの作品を把握する
 この作品における恋愛は、これも後期作品群と比較して、描き方が脆弱である。つまり、作品の縦軸に、大きな恋愛劇が入っていない。「白痴」の例で言えば、ムイシュキン公爵・ロゴージン・ナスターシャフィリポヴナ・アグラーヤの四角関係が恋愛劇として主軸に入っているが、この作品ではジーナとヴァーシャ、あるいはモズグリャコフとの恋愛劇の描き方が、主軸に入っていないので、それがこの作品の魅力を減じている。また、群衆劇としては、後半のマリヤの家での人々が集まってきて発生する「ポリフォニーとカーニバル」的世界は、ドストエフスキー文学の大きな特徴であり魅力であるが、まだその技量に熟達しているとは言えない。それは、群衆劇になってもそれぞれの個性を生かした群衆劇になっている後期作品群のそれと比較して、この「伯父様の夢」の群衆劇は、まだ個々人のモノローグが集まって発生している印象になっている。いわば群衆劇の描き方が平板で、立体的になっていない。その為、いろいろとドストエフスキー文学の特徴が顕わになっている作品ではあるが、まだ萌芽的で、完成度の高い作品とはなっていないと言えるだろう。

・この作品の本質にかかわる考察
 この作品が後期の「白痴」などと比較して弱い理由は、まずその「伯父様の夢」のネタそのものに由来する。これはつまり、耄碌した老人の夢の現実の混同が、現実そのものを逆に虚構化する、という、空想主義者ドストエフスキーならではの一種のユーモアでありギャグなのだが、これがそもそも外している。つまり受けないネタである。次に、K公爵のユーモラスさの描写、特徴、話の癖などによる笑いも、外している。つまり、狙いにいった笑いのツボが、みな外れているのである。これはギャグ作品としては致命傷である。このネタの陳腐さ故に、他の素材がみな殺されている。この作品の持つちぐはぐさは、おそらく、この作品のアイディアが、初期、つまりシベリア送り、オムスク監獄送りの前に着想され、その初期のネタを、後期へのスタートの人間描写やストーリー展開で描いているという、そういった点によるちぐはぐさであると考えられる。
 この作品は「ステパンチコヴォ村とその住人」と同時期に作られている。つまり、シベリア・オムスク監獄の後の最初期にあてはまる時期である。作品そのものの完成度は「ステパン〜」の方が上であるが、その意味合いは「伯父様〜」と「ステパン〜」は似ている。「ステパン〜」は「カラマーゾフの兄弟」の萌芽的習作、「伯父様〜」は「白痴」の萌芽的習作という印象を持っている。ドストエフスキーという作家は典型的な大器晩成型の作家で、無論初期にも傑作はあるが(「貧しき人々」「分身」「白夜」など)、他のいわばあまり成功しなかった習作も数多い。だが、こういった「あまり成功しなかった習作」をいわばリライトし、自己の弱点を抑え、長所を伸ばして大作に仕上げていく力量は、ドストエフスキーでしか成し得ない力技である。
 とはいえ、この「伯父様の夢」にも、良い点もある。K公爵のユーモラスな描き方、マリヤ・アレクサンドロヴナのやり手ぶり、このマリヤの他の人間を説得して自分の思うままに持っていく実力の描き方は、「悪霊」のステパノ氏の庇護者の女性の描き方にも似て、圧巻である。また、ジーナの美貌は、その若い女特有の恋愛、純真さ、そしてプライドの高さ、傲慢さの描写の妙を突いている。モズグリャコフとヴァーシャの描き方は、後期作品群にもある若い男性の描き方に近いが、やや影が薄い。成人男性と若い男性でももっと個性を出した人物を出せれば、もっと作品の魅力は増した筈である。

・おわりに
 この作品は、その表題からして、基本的には「ユーモア」を重視した「喜劇」である。だが、喜劇として成功しているとは言い難い。ドストエフスキーの場合、初期や中期の作品は、偉大な長編大作のいわば「素材」にすぎないという場合が多い。この作品もそうであって、いわばこれは「白痴」や後期長編大作群へのスケッチ・ノートであって、この作品単体での魅力はやはりやや薄いと言えるだろう。だが、この習作なくして、「白痴」はなかったのかもしれない。この作品は、はっきり言えばやや失敗作である。だが、多くの失敗作と多くの大成功作に二極化されるドストエフスキーの作品群で、多くの失敗作は、大成功作への捨て石だが布石として、生かされている。だから、後期大作作品群を知るには、こういった習作を良く知る必要がある。そう言えるだろう。(終)





2・23読書会報告
                

2013年最初の読書会、参加者17名で盛会

 2月読書会は、2013年最初の読書会なので、今年を占う読書会ともいえます。17名の参加者があり、まずまずのスタートとなりました。 
  
報告者・江原あき子さん、タチヤーナ・イワーノヴアについて大いに語る

 この日の読み作品は『スチェパンチコヴォ村』。報告者は、江原あき子さんでした。江原さんは、レジメにおいて「この作品で、真のヒロイン、と称されるひとりの女性が私の心を強く、とらえた。そしてこのヒロイン、タチヤーナ・イワーノヴナによってドストエフスキーの新たな世界が拓けた・・・・私が大好きなタチアーナについて、沢山語りたいと思います」と述べたように、タチアーナについて多くを報告された。





「スチェパンコヴォ村とその住人」 
 ‘フォマーが一同の幸福の因になる’の意味するところ

                                   
 前島省吾
         
 主人公フォマーは、「虐げられた道化」であったが、迫害者、暴君に変身する。そして「かつて真実のために苦悩した」正義の闘士、理論家、道徳的で知的な権威者の役を演じることで、自己肯定欲求を満たす。「フォマーは、いかなる実際的目的もなく、どんな結果を望んでいるのかもわからない悪意の暴君、迫害者であり、迫害の過程自身を楽しむ。無用なものを必要とする、無用な残忍性、そして際限の無い自尊心を持つドストエフスキーの作り上げた古典的心理学的典型である。(N.K.ミハイロフスキー論文「残酷な才能」)」「(ロスターネフ大佐の提供する金を受け取らなかった)フォマーの中には、『一切の美しいことや高尚なこと』のあらゆる微妙な点が意識できるそのまさにその瞬間にまるでわざとのように醜い行為をする破目に陥る」地下生活者と同じ非合理的人間の本性がある。(ローザノフ(大審問官の伝説について)。」しかし、非合理的人間はフォマーだけではないと私は考える。フォマーは勿論、ロスターネフもこの手記の書き手セルゲイも含めて村の住民全員が無知無学の非合理的人間であり「精神病院」の住民であった。しかも自己肯定欲求を持っているのも、フォマーだけではない。自尊心という言葉が作品中に氾濫している。ロスターネフ一家の人々も家僕含め登場人物全員が強い自尊心を持って、それぞれがフォマーに抵抗しながら、自分なりの理屈をつけて屈従している。(注:カッコ内は引用でなく、私の補足)    
 ドブロリューボフは、「ドストエフスキーは、自分の時代の多くの病的なアブノーマルな現象を描いている。ナスターシャの例外的な不自然な愛の描写を描くことができた」(のに、それを発展させることなく)ただその諸関係のアブノーマルさを再現しただけで、自己の世界観の全一性の中で再製することをしていない(打ちのめされた人々)」と批判したが、果たして本当にこの小説にはドストエフスキーの世界観は反映していないのか?たしかに筆者の無名氏ことセルゲイ・アレクサンドロヴィッチはアブノーマルな現象を自分の批評をそえて書いた。この手記はまさに村の住民の諸関係の再現である。 しかし私は、結末近くの「フォマー一同の幸福の因となる」(米川正夫訳」(直訳:フォマーは皆の幸福を創り出す。)という章のタイトルには、単に語り手の個人的感想とは違う、作者ドストエフスキーのなんらかの意図を感じる。これはドストエフスキーの世界観、思想、読者へのメッセージではないのか?私の最大の疑問はそこにある。いくつか解説書を読んだが、誰もこの疑問に答えてはくれない。
 この結末について、清水正氏は、「フォマーとロスターネフの和解は真実の解決ではなかった。」「ドストエフスキーにとって、人間の世界は徹底してグロテスクで奇妙で滑稽な一遍の喜劇のように見え始めているのではないか。(ドストエフスキー初期作品の世界)」といい、冷牟田幸子氏も、この作品に「ドストエフスキーの喜劇的才能(喜劇性)の源を見たような気がした(ドストエフスキー広場No.20)」として笑いの手法分析に絞った読解を行っている。ドストエフスキー自身、1873年に「この短編は、私が強制労働から解放された後、シベリアで書いたものだが、再び文壇に復帰したいとそればかり願いながらも、それでいて検閲の目を非常に怖れていた。そんな事情から知らず知らずのうちに、こみいったテーマは避け、極端に天真爛漫なものを書いたのであった。(アンリ・トロワイヤ ドストエフスキー伝)」といったそうだから、専門家がこの作品を滑稽劇とみなして、パロデイ性や笑いや道化の心理分析に終始したのは無理もないし、そのように読むべきなのかもしれないが、私は冷牟田氏のように滑稽譚として哂うことも、米川正夫氏のように「明朗健康、ホメロス的爆笑(ドストエフスキー全集3 解説)」として笑うこともできない。(「滑稽」とは純粋知性の産物、心情のぬくもりの欠如である。(ベルグソン)――「哂い」は、登場人物を「嘲笑」すること、「笑い」は観客を高め浄化することで、登場人物たちをも照らし浄化する「芸術の光」である。(ニコライ・ゴーゴリ 青山太郎))」「スチェパンチコヴォ村」はそのどちらも当てはまらない。強いて言えば「胸苦しくなるような自虐的笑い「21世紀ドストエフスキーがやってくる」浦雅春」である。 
 フォマーは、ベリンスキーやゴーゴリのパロデイだといわれている。ベリンスキー説を採っているのは、アンリ・トロワイヤ(ドストエフスキー伝)である。確かにベリンスキーは雄弁家であり、「作家の日記」にも「いつも無条件に感激しているタイプであった。」と書かれている。ゴンチャーロフはベリンスキーの雄弁には「激昂」「予断」「拡大解釈」「矛盾」があるが、それは古いものを打破し、新しいものを獲得するために絶対不可欠な彼の個性であったと肯定的評価をしている(ゴンチャーロフの小論文「ベリンスキーの個性について」)。当時の人々はフォマーの長広舌にベリンスキーの姿を見たのかもしれない。
 ユーリー・トゥイニャーノフ「ドストエフスキーとゴーゴリ」によれば、フォマーの言説の殆どがゴーゴリの「往復書簡」に書かれている文章そっくりだし、フォマーの振る舞いのあらゆるこまごましたデティールにゴーゴリの生活が反映しているとのことである。専門家が誰も言わないけれど、ゴーゴリの「ヴィイ」の主人公はフォマーであり、「デカーニカ近郊夜話」にもフォマーが登場する。ドストエフスキーはフォーミッチという父称(父親の名前がフォマー)をつけることによって、ゴーゴリを暗示したのではないか、オピースキンは、オピサーチ(叙述する)の派生語で、「作家」の寓意である。フォマーがゴーゴリだとすると、ベリンスキーが批判した旧体制の擁護者が「幸福の因」になるとはどういう意味か?ベリンスキーの「ゴーゴリへの手紙」を朗読した罪でシベリア徒刑となったドストエフスキーが、「スチェパンチコヴォ村」を書いたのはまだ流刑中の1859年であった。ゴーゴリの名もベリンスキーの名もペトラシェフスキー事件の記憶と共に深く傷跡として脳裏に刻まれていたその時期、ドストエフスキーはベリンスキーを否定し、ゴーゴリこそが「全体幸福」をもたらすものと訴えたかったのであろうか?
 亀山郁夫氏は、ロスターネフをロシア皇帝、フォマーを道化たるドストエフスキー自身だとみなす。そしてこの作品にはドストエフスキーの「権力への嫌悪と権力へのノスタルジー」が反映していると解釈する。(ドストエフスキー 父殺しの文学 上)難解な文章だが、ゴーゴリとベリンスキーとの関連で考えると、権力に反抗したベリンスキー(権力への嫌悪)と権力におもねようとしたゴーゴリ(権力へのノスタルジー)が両方ともドストエフスキーの心の中に存在していたが、結局は慈悲深いロシア皇帝の寛大さの中に幸福を見出したというのが、ロスターネフとフォマーの和解の意味だということらしい。当時ドストエフスキーは首都への帰還を求めて嘆願書を皇帝に提出していたし、検閲を考慮していたことも事実だが、私は偉大な作家は決して自分の意志に反して二枚舌は使わないと思うので、信念を曲げてまで皇帝におもねるためにこの作品をハッピーエンドにしたのだといわんばかりの亀山氏の政治的解釈には賛成できない。ドストエフスキーが描こうとしているものは、もっと本源的、形而上学的な世界であったと考えている。
 「ゴーゴリへの手紙」を朗読したことについて、「私の見解はベリンスキーの見解と根源的に対立するものでした。(中略)私はこの評論をまさに文学的記念碑として朗読したのである。」と裁判記録の中で語っている。「自分には市民たる権利があると心の奥に感じ、祖国に善を望む権利があると感ずる人間ならだれでも自由主義者と名づけ得るのと全く同じ意味で、私もまた自由主義者であります。」そして繰り返しベリンスキーとの見解の違い、西欧の革命運動への反対、ロシア皇帝による改革への期待を表明する。その率直誠実な言葉からみて二枚舌で諂らっているとは思えない。自由主義・社会主義思想への共感も、ギリシャ正教賛美もどちらも彼の信念であった。彼にとってペトラシェフスキー会は一流知識人達の交流の場であった。ゴーゴリもベリンスキーも素晴らしい人物として尊敬していた28歳の駆け出しの作家が知識階層の一員としてのステータスを確立しようとして、権威ある大御所の先進的文書を朗読したいという欲求に忠実に従ったのであり、キリストを敬愛する自由主義者の自分が有罪となるとは露ほども思わなかった。
 「作家の日記」にこんな逸話が書かれている。ベリンスキーはドストエフスキーを指差して言った。「いつもこんなふうにキリストの名を口にだすたびに、この人は顔色をすっかり変えて、まるで泣きださんばかりなんですからね。(中略)よく聞きたまえ、君の有難がるキリストなんか、
もし現代に生まれていたら、それこそ誰の目にも立たない平々凡々な人間に相違ないです。現代
の科学と現代の人類の指導者の光に圧されて、他愛なく姿を消したに違いない。」ある人が「いや違う。もしキリストが現代に現れたら、きっと我々の運動に参加してその先頭に立ったはずだ。」というと、ベリンスキーは相槌をうって、「そう、そう、キリストはまったく社会主義者の群れに投じてその後に従ったであろうよ。」と語った。
 「スチェパンチコヴォ村」第一部「発端」。フォマーが哀れな百姓を侮辱しきった目つきで言う場面。「『そんなことを聞いて、なんになるんだい。唐変木! いったいなんだってそんな面をつきだすんだい。唾でもひっかけてくれというのか?』 フォマー・フォーミッチはいつもこういう調子で、『賢いロシアの百姓』と話をするのだった。」(米川正夫訳) A・V・アルフィーポヴァ(スチェパンコヴォ村註釈)によれば これは、ベリンスキーの「ゴーゴリへの手紙」の次の文章を意識して書かれたものである。ベリンスキーは、ゴーゴリが農民に言った言葉「やい、貴様、洗わざる面め!」を引用して、「その表現はなにごとであるか。百姓たちの利益と教化に役立つ偉大な発見として、あなたは一体これを(どこから)盗み出したのか。百姓たちはそれでなくてさえ、自分の主人たちのいうことを信じ、自分で自分を人間とは考えない故に顔も洗わないではないか。『正しきものも罪あるものも共に鞭打つべし。』という馬鹿げた諺の中に(あなたは理想を見出した。)笞の説教者、蒙昧の使徒 非開花主義と迷妄の擁護者、タタール的習俗の賛美者―あなたは何をするのか!自分の足下を見よ。あなたは深淵の縁に立っているのではないか。あなたがこのような教えの拠り所を正教会に求めること、それはまだ解る。何故なら正教会は常に笞の支持者であり、暴政の追従者であった。しかしキリストを何故あなたは巻き添えにしたのか?あなたはキリストとろくでもない教会、ましてや正教会などとの間にどんな共通点を見出したのか?キリストは初めて人々に自由と平等と博愛の教えを伝え、自分の教えの正しさを受難によって確証し、強固なものにした。そしてその教えはそれがまだ教会として組織されず、正教の原理をその基礎と採り入れなかった間だけは、人々の救いであった。(中略)わが国の僧侶の多くは逆にいつでも肥え太った腹、スコラチックなペダンチズム、そして粗野な無教養だけを特徴としていた。宗教心が発揮されたのはわが国ではただ分離派の宗派だけである。他人の苦しみを見て苦しむことのできる人、他人の迫害されている光景が自分にとって苦しい人――そのひとは自分の胸にキリストを持っているのであり、その人にとっては徒歩でエルサレムに行く必要は毫もないのである。(和久利誓一訳)





ドストエフスキー文献情報
  提供・≪ド翁文庫・佐藤徹夫≫

<作品>
・『死の家の記録』 ドストエフスキー 望月哲男訳 光文社 2013.2.20 \1505+
     741p 15.3cm <光文社古典新訳文庫 K Aト 1-15>
     巻末:読書ガイド;年譜;付録
・『新訳 地下室の記録』 ドストエフスキー 亀山郁夫訳 集英社 2013.3.31 \1500+
     268p 19.2cm
     巻末:革命か、マゾヒズムか/亀山郁夫(p234-268)
     初出:「すばる」 2012.2月号;5月号;9月号

<専載書>
・『ドストエフスキーの創作の問題 付:より大胆に可能性を利用せよ』 ミハイル・バフチン
     桑野隆訳 平凡社 2013.3.8 \1500+ 382p 16cm
     <平凡社ライブラリー は-7-2>

<図書>
・『世界歴史の旅 ロシア―モスクワ・サンクトペテルブルク・キエフ』 中村喜和・和田春樹著
山川出版社 2013.1.15 \2800+ 179p 21cm
     ・第II部 サンクトペテルブルク 7 サンクトペテルブルクの明暗―コロムナ区と
        センナヤ広場周辺 ・ドストエフスキーとグリボエードフ運河(p128-130)
・『名作うしろ読み』 斎藤美奈子著 中央公論新社 2013.1.25 \1500+ 297p 19.7cm
     ・7 家族の行方 ・『カラマーゾフの兄弟』 ドストエフスキー(p278-279)
     *初出:「読売新聞」 2009.4.30〜2011.12.16 *未確認
・『精神科医が読み解く名作の中の病』 岩波明著 新潮社 2013.2.20 \1300+
     207p 19.2cm
     ・III 精神世界への彷徨 ・カルテ 38 文豪とギャンブル依存 フョードル・
        ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『賭博者』(p128-130)
     *初出:「東京新聞 夕刊」 1912.1〜3 *未確認
・『チェーホフの短篇小説はいかに読まれてきたか』 井桁貞義・井上健編 世界思想社
     2013.2.20 \2200+ 239p 18.7cm
     *2007.6.16 北海道大学で開催された日本比較文学会第69回全国大会の
      ワークショップ II を基にしている
     ・第三部 日本近代文学におけるチェーホフ 第10章 チェーホフと村上春樹
       3 トルストイ、ドストエフスキーとチェーホフ(p219-222)
・『東京大学で世界文学を学ぶ』 辻原登著 集英社 2013.3.25 \780+ 415p
     15.2cm <集英社文庫 つ-18-3>
     *初版:2010.11.10
     ・第七講義 燃えつきる小説―近代の三大長篇小説を読む 3 ドストエフスキー
       『白痴』(p309-340)

<逐次刊行物>
・<対談> 「主人公」の運命と自由/辻原登+亀山郁夫
     「すばる」 35(3)(2013.2.6=2013・3月号) p204-217
・<書評> 「病」の記録としての文学史―岩波明『精神科医が読み解く名作の中の病』/
       田中和生
     「波」 47(3)=519(2013.2.27=2013・3月号) p40-41
・ドストエフスキーへの挑戦 ドラマ「カラマーゾフの兄弟」 「父殺し」「金めぐる狂気」の
     主題にい迫る/亀山郁夫
     「朝日新聞」 2013.3.4 p34
     *フジテレビのドラマ「カラマーゾフの兄弟」 公開中の紹介小論は省略した

<DVD>
・「罪と罰」 ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督 ピーター・ローレ主演
     1935年 アメリカ制作 モノクロ 84分 日本語字幕 *日本公開:1936.2
     *「朝日新聞」掲載の「映像と音の友社」の広告に見つけた「映画で楽しむ
      名作文学 2」の1枚がこの作品。10枚組で1600円。他に「嵐が丘」など9作品。
      韓国製(コスミック出版)であるが、映像はむしろ美しくなっている。
      蛇足ながら言えば、こんな作品(この時代の)を見ることができることに感心している。
*落合尚之のアクションコミック「罪と罰」を土台とする映像(DVD)が発売されている。*未入手
     漫画「罪と罰」 A Falsified Romance は現在10冊が単行本化されている。
     東京カルチャーセンターの通販で入手できます。
     出演:高良健吾、水川あさみ、橋本愛、染谷将太、萬田久子、田中哲司、伊武雅刀 他





連載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像                       (第46回三島由紀夫の生と死、その運命の謎
小林秀雄没後30年にあたって(再論)

福井勝也

 前回は話の流れで安岡章太郎(1920-2013)の『海辺の光景』(1959)と江藤淳(1932-1999)の『成熟と喪失−母の崩壊』(1967)に触れることになった。今回は安岡、江藤とも各々が深い文学的縁を結んだ小林秀雄(1902-1983)について、その没後30年ということもあって再論する。
安岡が1月末に亡くなって文芸誌の「特集」も組まれ、安岡文学評価が改めてなされている。当方この間に安岡の死を挟んで、後記の代表作とされる『流離譚』(1981)を『海辺の光景』に先行して読んできた。そんなことから作家の死に接して、安岡の長い時間をかけた「成熟」は、この二作品の辿った道筋ではなかったかと感じた。すなわち安岡は、日本の敗戦という歴史体験に重なる自身の戦後家族(係累)の問題を、ほぼ20年後に、自らのルーツの基点を高知(土佐)に定め、時間的には幕末から明治維新を経て自由民権運動あたりまで遡行して『流離譚』を完成させた。その端緒とも考えられる『海辺の光景』も、母の死をきっかけに戦後10数年という年代を、やはり高知(の精神病院)という基点から、その戦後的時間の記憶を主人公に遡及的に語らせたものだ。そこでの家族的無意識を戦後に通底する時代意識として明らかにしたのが、前回論じた江藤淳『成熟と喪失』であった。
 さらに、この二作品に通底する主題は「係累・家族」ということであるが、そこに浮上して来るのは「日本近代」を生きた日本人の「歴史・時間・記憶」ということだろう。そのことを安岡は歴史資料を基礎にして、身近な者たち(自身を含め)に語らせる<声>の文体として完成させた。そして安岡章太郎は、その課題をより確かなものにする過程を通じて、日本の作家には稀な「成熟」に到達した。この点で、同じ課題に取り組みながら、「成熟」を拒否したかそれに至らなかった、三島由紀夫や江藤淳(無論、彼らなりの「成熟」はあるはずだが)とは明らかに異なっていた。その差異に拘ることで導かれる議論にも興味もあるが、今回はそのことには触れない。
 この点で、安岡章太郎の「成熟」を促した大きな存在が、親交のあった小林秀雄であったと思えるのだ。そのことは、小林秀雄が戦前戦後を通じて、近代作家のなかで堂々と「成熟」を遂げた稀有の先達であったからに違いない。このことを今回気付かせたのが、安岡が『流離譚』を完結させた後、小林秀雄が『新潮』(1982.1月号)に書いた「「流離譚」を読む」という文章であった。小林は、この後ほぼ一年して亡くなるが、歴史小説としての『流離譚』が開拓した安岡の新手法、すなわち資料との争いとも言える緊張した対話が強いリズムとなって読者の心を捕らえる語り口を高く評価した。(この点では、ほぼ同じ題材の歴史小説として書かれ、安岡の『流離譚』執筆に示唆を与えたとされる大岡昇平の『天誅組』(1974)への小林の評価は如何なるものであったのかが気になるところだ。)
 例えば小林はこの感想で、幕末の天誅組の吉村虎太郎という歴史的人物が死ぬ間際に語った<声>を60年後に甦らせる、庄七という老人の心事に触れた箇所がある。その引用の前に、合わせてどうしても併記しておきたい一文がある。戦前、昭和14年『ドストエフスキイの生活』に「序(歴史について)」として付した「前書き」である。ドストエフスキーの伝記を語り始める直前、小林は次のように記した。その一節を掲げてみたい。
 「僕は一定の方法に従って歴史を書こうとは思わぬ。過去が生き生きと蘇る時、人間は自分の裡の互に異る或は互に矛盾するあらゆる能力を一杯に使っている事を、日常の経験が教えているからである。あらゆる資料は生きていた人物の蛻の殻に過ぎぬ。<中略>立還るところは、やはり、ささやかな遺品と深い悲しみとさえあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術より他にはない」。
 そして小林は、『ドストエフスキイの生活』から40数年を経過し次のように書き継いだ。それは前掲箇所で吉村が死に際に語った「辛抱せよ、辛抱せよ、辛抱を押したら世は代わる、それを楽しめ」という<声>の行方に触れて、小林は「この際、(庄七)老人には、消え去ってもはや無い声を、現在聞こえて来る声として、己の心中に甦らせるという心の働きがなくて適うまい。<中略>そして、彼は、今も猶、わが心を領するあの声の絶対的な力に直面する。という事は、一体あの声は何処から聞こえてくるのかと、われとわが心に問うことに他ならないではないか。歴史とは何かという難題は、永い間、私を苦しめて来た。今も変りない。何故かと言われるなら、人生無常という言葉は、歴史家にとって死んだ言葉かも知れないが、歴史の中に生き、歴史に養われている私達の尋常な歴史感情の裡には生きている。これを否定する事は出来ないからだと言って置けば、私としては充分だ」と。このすぐ後で、小林は「歴史感情」と言う言葉を何度か持ち出して、その涵養とそれを確固たる充実したものに仕上げようとする努力について、遺言のように独り言を呟いている。
 小林の戦前と戦後を跨いだ二つの文章にある言葉を対比してみるとき、そこに感じられるのは歴史に対する一貫した思いとそれを深化、成熟させていった批評家としてのみずみずしい感性である。僕はここに、小林秀雄という批評家の原初的な文学的情熱の発露とその前提になった人間性の厚みを感じる。同時にそこから、戦前と戦後を跨いで死ぬまで「成熟」を目指した近代日本人のあっぱれな営為を見る。
 小林と安岡の親交は、1963年に当時のソ連作家同盟の招待で長期のロシア旅行に同行したことがきっかけのようだが、安岡は『流離譚』を書き上げることで、小林の説く「歴史感情」を自身のものとして、小説の根幹に据えることで成熟を遂げた。安岡は後年、自分がキリスト教に入信する行方さえ、小林がこの文章で「予言」していたと語った。それはともかく、安岡という小説家の「成熟」は小林に見守られながら達成されたとも言える。
  今回小林没後30年ということで、『新潮』(4月号)が「2013年の小林秀雄」を特集して
いるが、着目したのは、山城むつみ氏の「蘇州の空白から 小林秀雄の「戦後」」と題した長編論考(180枚)であった。山城氏については、『ドストエフスキー』(2010.11)という大著を数年前に刊行し、ロシア語に堪能なロシア文学を専攻した文芸批評家として当方も大分以前から注目してきた。その批評文は、バフチンや小林秀雄をとにかく深く読み込んでいて、そのうえにブレッソンの映像論や現代哲学(デリダ)や精神分析学(ラカン)にも及ぶもので、おそらく現代ドストエフスキー批評の先端を走っている。しかし当方、評価すべき点はそんな現代性ではなく、むしろ頑固な批評原理を保持していることにあると思って来た。例えばそれは、ロシアの専門研究者の論考と言えども、作品(テキスト)以前の批評理論(宗教・哲学・心理学等)が先行するような徴候が少しでも見えたなら、それがどんなに精緻なものであっても認めないと公言し、また新奇なアクロバットな「謎解き」は文学批評ではないと言い切っていることなどだ(前著『白痴』論参照)。そして考えてみれば、このような姿勢こそ、実は小林秀雄がドストエフスキー批評の核としたもので、注意深い一読者になって、作品の言葉を唯一の手がかりに読みに徹したものであった(「ドストエフスキイのこと」1946.11)。実は山城氏は、批評家として自立する過程でそんな小林秀雄の批評スタイルと「邂逅」(森有正)して来た。当方もそんな山城氏に大きな期待と好感を抱いて来たのだった。
 しかし同時に今回の最新論考を読んで、山城氏の小林に対する姿勢がそれ程単純でないことを改めて考えさせられた。そのことは結局、山城氏のテビューを飾った批評文「小林批評のク
リティカル・ポイント」(1992)に戻って論ずることになる。この批評で、山城氏が小林最後のドストエフスキーエッセイと言われる「『白痴』についてU」に着目した意図は元々明瞭であった。すなわち山城氏は、戦後「『罪と罰』についてU」(1948)を引き継ぐように書かれた「『白痴』についてU」(1952-53)が何故か中断されたまま放置され、その後10年以上経って唯一の単行本『「白痴」について』(1964)として出版されたその意味の真相に迫ろうとした。そしてこの時期に、小林のパラドキシカルな批評精神の中性化、ボルテージの下がった内向きの批評傾向が兆し、その衰退を読み取ったのだ。ここに小林批評の転回点(「クリティカル・ポイント」)があるとして批判の矢を放った。その批判は、実はこの転回点を経ることによって、その翌年(1965)に最終作の「本居宣長」を書き始めることができたのだとする転倒した結論とセットになっていた。そこから、「『白痴』について」の出版は、小林の最も先鋭的な形であらわれていた「批評」=「創作」を自分の手で封印するものであり、あるいは祓いの儀式であったとまで言い切ることになる(同論考p61『文学のプログラム』所収講談社文芸文庫)。
 簡単に言えば、山城氏は小林の最終作の『本居宣長』(1977)を小林の「批評」=「創作」と認めていない。それでは、山城氏は小林のどこから、何を継承しようと言うのか。この点、本論考最終頁(同文庫p65)で語られるのは、小林が描いた放物線の頂点から出発することを説いているのだが。そこで気になるのは、小林が描いた放物線の軌跡を終了してしまった「物語」「歴史」と呼んで否定的にしか語っていないことだ。ことは、『本居宣長』の評価にも関係してくるのは確かだろう。そして同時にここで、小林が前段の『流離譚』に触れて「歴史」というものに込めた言葉を改めて反芻すべきではないかと思う。
 話がデビュー作「小林批評のクリティカル・ポイント」に止まってなかなか先に進まないが、ここで批評家として20年程を経過した山城氏の最新批評「蘇州の空白から 小林秀雄の「戦後」」をとりあげてみる。長篇論考ということでかなり材料も多岐に亘り、あまり単純化することもいけないわけだが、とにかく乱暴を承知で簡単に述べてみよう。要は、小林秀雄が戦後書き続けた「『罪と罰』についてU」(1948)は、日本国憲法の戦争放棄条項(第9条)を日本国民が加害者の側から真に受け取ることをしなかったことへの、小林のかたちを変えた再出発の文章であるということ。そしてそれは、日支事変後に何度か訪れた従軍記者としての体験(そこには軍の管理する「慰安所」での見聞も含まれる)によってもたらされたものであるということ。この体験で小林は「加害」の側に身を置いたこと。それらのことが言えるのは、「ドストエフスキイのこと」という戦後語り始めたドストエフスキー・エッセーが、1946.11.3という日本国憲法発布の日であって、普段は日付を記さない小林が何故かこの文章に限って日付を付したこと。結論(あるいは骨格)だけ言えば、そんな内容であろうか?勿論、当代きってのドストエフスキー批評家の山城氏は、大変緻密に資料(特に、戦前発禁処分となった従軍記者時代の報告記事の伏せ字等の徹底した探索を試みる。それだけでなかなかの読み物になっている)も検討し、小林の戦争放棄のアンケートに触れた「感想」と題した大阪新聞の記事も発掘している。さらに小林秀雄とは違う角度で戦争体験をした石原吉郎/鹿野武一、大岡昇平などの「加害」の問題を傍証的に引用している。そして『罪と罰』のシベリアのラスコーリニコフに敗戦後の荒廃した地平に流刑されたひとりの「戦争責任者」としての小林秀雄自身を重ねてみせる。小林もまた「そこ」でリザヴエータを「殺した」ことがあったはずであると。ここに大岡昇平の『野火』(1952)に出てくるリザヴエータからソーニャへの遡及的邂逅において、大岡が成し遂げた「加害の側からの脱落」が小林に訪れないことを指摘している。そしてここ一点から、「『罪と罰』についてU」が綻び、それが「『白痴』についてU」の破れになるとする。ここで問題は、デビュー作の転回点(「クリティカル・ポイント」)の問題に接続してゆくのだろう。その意味では、今回の論考は小林批評の転回点の淵源を明示的に語ったことになる。しかしそうだとすると、この論述は山城氏の批評理論による「批評」の裁断を回避してきた根本姿勢と矛盾するのではないか。それ以前に、小林が戦前の加害体験から戦後に平和主義者として再出発したという議論を文学論として語るのは飛躍に過ぎないか。
 小林秀雄がどれだけ戦争という歴史事件に苦しんだかは、戦後に到らずとも、昭和14年にすでに『ドストエフスキイの生活』に「序(歴史について)」で触れた「母親の死児への思い」をこの時期に書き込んだことを考えれば解る。それは「歴史」という「必然」に対する人間の「抵抗」であって、小林はそのことを人生の終わりに、安岡の『流離譚』の一節を借りて再述したのではなかったか。「歴史とは何かという難題は、永い間、私を苦しめて来た。今も変りない。何故かと言われるなら、人生無常という言葉は、歴史家にとって死んだ言葉かも知れないが、歴史の中に生き、歴史に養われている私達の尋常な歴史感情の裡には生きている。これを否定する事は出来ないからだと言って置けば、私としては充分だ」
 今回、まだ言い足らぬことがあるような気がするが、小林秀雄という批評家を論ずることはそれ程容易ではない。『罪と罰』エピローグの解釈がその解釈者のレベルをあぶり出すと言ったのは小林だが、小林を安易に論ずる者も同様の愚を犯す危険があるだろう。(2013.4.5)




「罪と罰」読書ノート

[3]ソーニャとラスコーリニコフ(3)

坂根 武


 ラスコーリニコフは、昨日の約束を果たすためにソーニャの下宿先へと向かっている。彼は、老婆の殺害を、人間の言葉で人に語ることが出来るだろうか。作者の描く、水も漏らさない告白劇をできるだけ忠実に追ってみよう。
 「カペルナウモフの住まいまで来ると、彼は不意に力抜けがして、心に恐怖を覚えた。彼は『誰がリザヴェータを殺したか、是非言わなければならないのだろうか?』という奇怪な疑問を抱きつつ、物思わしげにドアの前に立ちどまった。この疑問はげにも奇怪なものであった。なぜなら、彼はそれと同時に、単に言わずにいられないのみならず、この瞬間を延ばすことさえ不可能なのをはっきりと感じたからである。しかし、彼はまだなぜに不可能なのか知らなかった。ただそう感じただけである。そして、この必然に対して自分が無力であるという悩ましい意識が、ほとんど彼を圧倒しつくすばかりであった」
 過去を人に語るとは、それを追体験することである。あの事件を告白するためにソーニャのもとへ向かうラスコーリニコフに、事件の亡霊が取りついたのだ。私達は、犯行を目前にした彼に、どんなことが生じたか覚えているはずである。
 「彼は死刑を宣告された者のように自分の部屋に入った。何一つ考えなかったし、また考えることもできなかった。ただ突然、自己の全存在を以て自分にはもう理知の自由も意思もない、すべてがふいに最後の決定を見たのだ、ということを直覚した」
 ソーニャのもとへ向かうラスコーリニコフに、犯行と同じ有無を言わさぬ死霊がとり憑いたのである。では、彼にとってあの事件を告白するとは、もう一度人を殺すことなのか。まさにその通りなのである。それを予感しているからこそ、ソーニャの下宿まで来た時、「ふいに力抜けがして、心に恐怖を覚えた」のだ。
 部屋に入って椅子に腰を下ろしたとき、彼は言葉がまるで用をなさないのを知る。彼は首を垂れる・・・・・
 「と不意に、ソーニャに対する、刺すような怪しい憎悪の念が、思いがけなく彼の心を走り流れた。彼はこの感情にわれながら驚き脅えたかのように、突然頭をあげて彼女の顔をひたと見つめた。けれども彼は、自分の上に注がれている不安な、悩ましいほど心ずかいに満ちた視線に出会った。そこには愛があった。彼の憎悪は幻のごとく消え失せた。あれはそうではなかった。ある一つの感情をほかのものと取り違えたのだ。それはつまり、あの瞬間が来たことを意味したにすぎないのだ」
 あの瞬間とは、老婆に、否、自分の命にオノを振り下ろした瞬間である。彼は、それを再び自分に強要するソーニャに「刺すような怪しい憎悪の念」を感じる。しかし彼は間違っていた。彼は己の思想の亡霊を、一瞬ソーニャと勘違いしたのだ。
 「彼は再び両手で顔を覆い、頭を低く垂れた。と、ふいにさっと青くなって、椅子から立ち上がり、ソーニャをちらっと見やったが、何も言わず、機械的に彼女のベッドに座り直した。この瞬間は、ラスコーリニコフの感覚の中で、彼が老婆の後ろに立ち、オノを輪から外しながら、『もう一分も猶予できない』と感じた瞬間に、恐ろしいほど似かよっているのであった」
 彼は、ソーニャに告白しようとして言葉がまるで用をなさないのを知る。というより告白という人間的行為が、まるきり成り立たないのを感じる。彼はソーニャに何か言おうとするのだが、唇は力なくゆがむだけである。彼はまるで夢にうなされている人のように、無意味な言葉を吐くしかない。
 「ぼくは、その男と仲のいい友達なんだよ・・・・知っている以上はね」
 「その男はあのリザヴェーダを・・・殺そうとは思わなかったんだ…その男はあれを・・・ほんのはずみで殺したのだ・・・・その男は婆だけを殺そうと思ったのだ…婆が一人きりの時に・・・そして、出かけて行ったのだ・・・」
 ソーニャはほとんど聞いてはいない。ただ恐怖のあまり身を固くして、魅入られたようにその男の顔を凝視している。ソーニャはそこに恐ろしい人殺しの証拠を見た。彼女がラスコーリニコフの顔に見た動かしがたい証拠とは何か。
 ソーニャがそこに見たのは、およそ人間的な意味での何物かの存在ではなかった。そこには、憎悪も欲望も意思も、悔恨すらなかった。彼女が見たのは、一切の人間的表情の不在だった。そこには、深淵からこちらを覗きこむような沈黙、背筋の凍るような死の無表情があった。それは社会で生きるのを許されなかった思想の放つ腐臭であった。「希望はなかった。疑惑はいささかも残らなかった。すべてはその通りであった」とソーニャが思う時、読者は同じようにラスコーリニコフの顔に見入らなければならない。ソーニャが目撃した、彼の奇怪な顔を思い描かねばならない。つぎの場面も目と耳を使って読まねばならない。
 「『なんだってあなたは、なんだってあなたは自分に対して、そんなことをなさったのです!』と絶望したように彼女は叫んだ。そして急に躍り上がりざま、彼の首へ飛びついて、両手で堅く堅く抱きしめた」「『いいえ、いま世界中であなたより不幸な人は、ひとりもありませんわ!』彼の注意など耳にも入れず、彼女は興奮の極に達したかのように叫んだ。と不意に、ヒステリイでも起こしたかのように、しゃくりあげて泣き出した」
 この瞬間、ソーニャは自分が不幸なのか幸福なのか理解できなかったに違いない。これはソーニャという女性を考える上で大切なことだが、彼女の心の動きは、常に行動を起点にしているのである。彼女には、行動を伴わない同情は無意味なのである。彼女は、そうした愛情の機会に飢えているような女性だった。この場面のヒステリックな涙の意味は、こういうことである。『ああ、私は不幸な女です!なぜ私はもっと早く、あなたを知らなかったのでしょう!』・・・・もっと早く知っていたら、あなたをこの恐ろしい罪から、救うことが出来たでしょうに。これがソーニャの嘆きであった。  つづく




映画評

グロスマン『人生と運命』について
 
江原あき子

 最近、不安でしかたがない。放射能汚染が怖いし、戦争が始まるかもしれないと思うと、それも怖い。命を落とすことが怖いのではない。その時の恐怖、その時自分がどんなにみじめな、見るに耐えない態度をとるのだろうと想像すると、とても不安になる。
 その、自分が試される日はいつ来るのだろうか、近いうちに来るのだろうか、などと考え、ひとり暗い気持ちになっている。
 この小説の舞台になっている時代、第二次世界大戦のさなかのソヴィエト。それは困難な、残酷な時代だった。スターリングラードはドイツ軍に占領されていた。スターリン体制のもと、粛清の嵐が吹き荒れていた。人々は空爆に怯え、夜中に訪れるかもしれない秘密警察の影に怯えていた。この小説の中の登場人物の半数は、かろうじて日常を送っている。あとの半数は非日常の生活を送る、束縛された人々である。捕虜収容所で、ラーゲリで、そしてユダヤ人収容所で、人々はいつも死と隣り合わせの生活を送っていた。そして日常を送る人々もいつも粛清の影に怯えていた。
 そのひとり、科学者のヴィクトルは、反ユダヤキャンペーンの時に提出した論文を跳ねのけられ、職場まで追われそうになる。次々と起こるヴィクトルを陥れる出来事。ユダヤ人であるヴィクトルはラーゲリ行きになることを想像し始め、精神を病みはじめた。ひとりの平凡な人間がいかにして、反国家を掲げる犯罪者に仕立て上げられていくのか、グロスマンは同時代を生き抜いた人間のひとりとして、圧倒的なリアリティーでこの恐怖の時代を描いてみせる。(グロスマンは一度、反ユダヤ主義者たちによる捏造事件に加担する署名をしたことがあり、そのことを生涯、後悔していたという)
 ヴィクトルはやがて、運命を受け入れる覚悟をし、自分の主義は曲げないことを決心する。情が通わなくなった妻と反抗的な娘は、その時、ヴィクトルに共感し、家族は久しぶりに心をひとつにする。そのひとつに結ばれたはずの家族も、突然のスターリンからの電話でヴィクトルが一転、英雄になった時にまた、バラバラになってしまう。運命は皮肉である。そして、人の心のなんという、移ろいやすさ。作者はこう、書く。
 “(ラーゲリでの)取調べの仕事がつねに思い通りに進行する鍵は、人間の肉体と精神が表裏一体をなしていることにあった。心と肉体はいわば連通管なのである。人間の肉体的な防御を破壊し制圧することで、攻撃側はその突破口に機動部隊を繰り出すことにつねに成功し、
心を支配し、人間を無条件降伏へと追い込んだ。”
 ここで言われる“人間の肉体的防御の破壊”とは、ただ単にメガネをとりあげる、とかボタンを取る、とか、そういうことなので十分なのだと作者は言う。“人間であるという自らの権利に固執し続けるものは、弱気そのものになる。”
 精神、などというものは肉体からの影響で絶えず移ろい、ぐらつき、くじけてしまう、そんなモノでしかない。この文章はこのところ落ち込んでいる私をさらに落ち込ませた。
 一方、ドイツ軍の捕虜収容所で、聖痴愚者、と呼ばれているロシア人捕虜のイコンニコフは紙切れにこんな文章をつづっていた。
 “初期キリスト教徒にとって全人類のものであった善は、キリスト教徒だけの善にとって代わられ、それと並んでイスラムの善、ユダヤ人の善があることになった。しかし、何世紀
かが過ぎると、キリスト教徒の善も分裂し、カトリックとプロテスタントの善、正教の善となった。そして、正教の善の中に旧教派と新教派の善が生まれた。それと並んで、裕福な者たちの善と貧しい者たちの善があることになり、それと並んで、黄色人、黒人、白人の善が生まれた。そうやって、すべてが細分化に細分化を重ね、すでに分派や人種、階級の仲間内に善が生まれ、閉鎖曲線の外側にいる者はみな、善の輪の内には入ってこないことになった。そして人々は、悪意に満ちた小さな善のせいで、その善が悪とみなすすべてのものと善との闘いの名の下に多くの血が流されるのを見た。ときには、そうした善の観念そのものが命を鞭打つ鞭、悪よりも大きな悪になった。そうした善は、大事な中身の穀粒が抜け落ちてなくなってしまった穀物の殻である。誰が失われた穀粒を人類に返してくれるのだろうか。”
 イコンニコフは絶滅収容所を建設する作業を拒否したために、銃殺される。こんなにももろく、しかも大事なものを失ってしまい殺し合う人類に、尊厳などあるはずもない。じゃあ、私たちに残されたものは一体、何なのだろう。
 しかし、作者は最後にこう、書く。
 “恐ろしい時代には、人間は鍛冶屋のようにして自らの幸福をつくり上げることができず、特赦を与えたり処刑したり、栄光を与えたり、貧しさの中に沈めたり、ラーゲリの塵にしたりする権利が世界の運命に与えられていることを彼らは知っている。けれども、世界の運命にも歴史の宿命にも、国家の怒りという不幸な運命にも、戦いの栄光にも屈辱にも、人間と呼ばれる者たちを変える権利は与えられておらず、なされた労苦に対して待っているものが栄光であれ、孤独、絶望と貧窮、ラーゲリと処刑であれ、彼らは人間として生き、人間として死ぬのであり、死んだものたちは人間として死ぬことができたのだということ―そこに、世の中にこれまでもあったし、これからもある、やってきては過ぎ去っていく、あらゆる尊大なものや非人間的なものに対する彼らの悲しい人間的な永遠の勝利があるのだ”
 私は何度もこの文章を読んだ。私も人間である。人間として死ぬのだ。そこに人間の尊厳やら、権利やら、そんなものはなくてもいい。運命は時に悲しく、残酷である。でも人間はいつも人間として生きる。生きている間には希望を持ち続ける。その希望を支えるものは政治でもイデオロギーでも、尊厳でもなんでもない。希望は平凡な、生活の中にあり、生活者の中にあるのだ。瀕死のドイツ兵を助けようとするロシア人女性。痩せこけたドイツ人捕虜になけなしの食べ物を与える女性(それは主に女性なのだ)。これこそ希望でなくてなんだろう。
 「私は人間として死ぬ。どんな時にも人間として死ぬ」この言葉を今、私は何度も心の中で繰り返す。日々の暮らしの中にこそ希望があると信じて。
(グロスマン著『人生と運命』全3巻 みすず書房刊)





読売新聞「ポケットに1冊」(抜粋) 2013・2・17

正宗白鳥著『文壇五十年』
自然主義文学の作家、正宗白鳥(1879-1862)は、文壇の生き字引だった。/ 明治36年、読売新聞に入社し、文学、演劇、美術を担当した頃から筆を起こし、大戦後までの文壇を回顧する。/ 「トルストイは気六カしい爺さん、ドストエフスキーは人のいい爺さん、ツルゲーネフは甘い人間」と語った憂国の士、二葉亭四迷の思い出など事実の面白さは序の口。〈?外漱石藤村などのような勿体振った人々の理想、社会批判だって、有りふれた凡庸のものではなかったか〉といった辛辣な批評が随所で躍動する。
〈人生を追究していったすぐれた文学ほど未解決の人生を表現している〉。小林秀雄が敬愛した作家の寸言が光る。(中央文庫、800円)(飼)


雑 誌 
『江古田文学 82 』 2013年3月25日発行
特集 ドストエフスキー in 21世紀
批評家・清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて
                



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