ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.134  発行:2012.10.10


第253回10月読書会のお知らせ


10月読書会は、下記の要領で行います。
 
月 日 : 2012年10月27日(土)

場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7 (池袋西口徒歩3分)
開 場 : 午後1時30分 
開 始 : 午後2時00分 
作 品 : 『白夜』
報告者 : 土屋 正敏さん
会 費 :  1000円(学生500円)

二次会(近くの居酒屋) → 5時10分 〜
       
12月読書会は、東京芸術劇場の第1会議室です。

開催日:12月8日(土) 午後2時〜4時45分迄です




大阪「読書会」案内

ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪の第13回例会
10月13日(土)14時〜16時45分
ホテルグランヴィア大阪19階「ラウンジリバーヘッド」(JR大阪駅直結)
作品は『人妻とベットの下の夫』
「ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪」世話人小野 元裕
URL: http://www.bunkasozo.com 
〒581-0016 大阪府八尾市八尾木北3-137



10・27読書会について 


東京藝術劇場に帰ってきました。

 東京藝術劇場は、改修工事のため昨年平成23年4月1日から今年平成24年8月31日まで閉館していました。が、工事が無事完了9月1日から開館の運びとなりました。1年半のご無沙汰でしたがリニューアルした東京芸術劇場に習って読書会も気持ちを新たにスタートしたいと思います。今後、読書会会場は、従来通り東京芸術劇場小会議室です。なお、臨時会場として使用させていただいた、豊島区立勤労福祉会館様には厚く御礼申し上げます。また、何かの節はよろしくお願い申し上げます。

新スタート1作目は『白夜』報告者は、土屋正敏さん

 現在、読みはシベリア前夜の作品に入っています。今回は、逮捕の前年1848年12月に発表された『白夜』です。会場リニューアル記念に相応しい作品になりました。
報告者は、横浜の土屋正敏さんです。数年前に読書会参加、はじめての報告で楽しみにしています。以下はレジメです。




「白夜」に寄せて〜はかなきものたちへの愛惜


土屋 正敏


 「素晴らしい夜であった。それは、親愛なる読者諸君よ、われらが若き日にのみあり得るような夜だったのである。空には一面に星屑がこぼれて、その明るいことといったら、それを振り仰いだ人は思わずこう自問しないではいられなくなる―いったいこういう空の下にいろいろ怒りっぽい人や、気まぐれな人間どもが住むことができるのであろうか? これは親愛なる読者諸君よ、青くさい疑問である、ひどく青くさいものではあるが、わたしは神がしばしばこの疑問を諸君の心に呼び醒ますよう希望する!」(米川正夫訳、河出書房新社「愛蔵決定版 ドストエフスキー全集」第2巻)。

 これは「白夜」の有名な書き出しだが、皆さんはこの呼びかけにどう答えるだろうか。私がこの小説を初めて読んだのは、大学生だった22歳の夏。もうその内容は全く覚えていなかったのだが、今回再読して、読んだような記憶がおぼろげによみがえったものの、本当に読んだのか定かではないといった感覚だ。にもかかわらずこの書き出しの記憶は鮮やかで、当時、この呼びかけというか、問いかけに「その通り。怒りっぽい人や気まぐれな人間が住めるはずがない」と、こう心の中でつぶやきながら読み飛ばしていた自分を思い出す。もう35年以上も前のこと。私も若く、青春の真っただ中だった。

 だが、実際はどうだろうか。この世の中には「怒りっぽい人や、気まぐれな人間ども」ばかりか、意地の悪い人や、うそつき、卑劣漢、泥棒、詐欺師…、人殺しだっている。きっと、こうしたいけ好かない人間たちや犯罪者らが、実際にはこの池袋にも、私の暮らす横浜の空の下にも少なからず住んでいるのではないだろうか。だが、善良な人たちは無論のこと、彼らだって満天の星空を仰ぐことがあるに違いない。だからこそ、若きドストエフスキーは「神がしばしばこの疑問を諸君の心に呼び醒ますように…」と、この冒頭部分を締めくくり、星屑のこぼれる一面の夜空を見上げたときのあの胸躍る感動、青春期にしか味わえないような甘美な感覚を、それこそこの作品で呼び覚まそうとしたのではないだろうかと思う。
 
 ところで、手元の広辞苑で「白夜(はくや)」を調べると、「北極または南極に近い地方で、夏、日没から日の出までの間、散乱する太陽光のために薄明を呈すること。びゃくや」とあった。また、ドストエフスキーの処女作「貧しき人々」の解説(全集第1巻)の中に、米川正夫のこんな下りがある。「折しも時は五月、昼のように明るいペテルブルグの白夜で、ドストエフスキーは眠れぬまま開け放した窓辺に座って、そこはかとなきもの思いに耽っていた。その時、ベルがけたたましく鳴った。ドアを開けると、思いがけないグリゴローヴィチがネクラーソフと共に飛び込んできて、目に涙を浮かべながら彼を抱擁したのである」と。米川が、無名作家ドストエフスキーの処女作が批評家ベリンスキーに絶賛され、一瞬にして文壇の名声を得ることになる「伝説と化したエピソード」のプロローグに触れた一文だが、「昼のように明るいペテルブルグの白夜」に注意したい。白夜では、たぶん「空には一面に星屑がこぼれて」いない、のである。先月、あるロシア語初級の公開講座に参加した時、私は講師の女性に「ロシア人にとって、白夜とはどんなイメージですか。ご存じなら教えてください」と質問した。彼女は「ロシアの人に直接、印象を聞いたことがないので、はっきりとは分からないが…」と前置きしたうえで、「たぶん(冬が長いので)、短い夏を惜しむような感覚、魔法にかかったような一瞬、といったイメージではないか」と言い、「白夜は(緯度の低い)モスクワでは経験できません」とも話してくれた。

 では、ドストエフスキーは「白夜」に何を託し、表現しようとしたのだろうか。

 「白夜」が発表されたのは、1848年12月の「祖国雑誌」(クラエフスキー編集)誌上。「貧しき人々」が「ペテルブルグ文集」(ネクラーソフ編集)に発表された46年から約2年後で、作家は当時、主人公「わたし」と同じ26歳と思われる。「貧しき人々」の半分にも満たない中編だが、どこか詩情豊かで、「わたし」と美しいブリュネットの娘ナスチェンカとの出会い、そして別れを描いた4夜と、その翌朝までの物語。二人は互いに境遇などを熱く語り合いながら、生涯を共にしようという思いを結び合わそうとするが、4夜目になって一切が崩れ去り、彼女がこつ然と現れた元の間借り人だった恋人の男と一緒に姿を消してしまう。ストーリー展開、また4夜の冗長ともいえる会話のやりとり(ドストエフスキーならではとも言えるが…)の間に、わざわざ配置された「ナスチェンカの物語」の内容から二人の別離はある程度予想できたものの、この突然に訪れた瞬時の幕切れには、読者も一瞬、度肝を抜かれる。そして思うのだが、この刹那こそが、作者が「白夜」という作品と言葉に託し、描きたかった情景ではなかったか。

 この物語でも描かれ、言及されているが、ロシアのティーンエージャーら若い女性たちはことのほか美しいといわれる。しかも、その美しさが保たれる期間も同様に短く、はかないものである、と。ドストエフスキーがこの作品で描きたかった主題、それは、こうしたあらゆるはかなきものたちへの愛惜の情ではなかったか、と私は思う。野の花の美しさ、青春、恋、友情、誠実さ、一瞬のように過ぎ去る白夜…も、このはかなきものたちに含まれる。あるいはまた、この世では、あらゆること、どんなことでも起こり得るという残酷ともいえる、冷めた認識ではなかったか。「白夜」というタイトルも、そこにある意味を考えるより、むしろはかなきものたちの一つの比喩ととらえるのが妥当だと思う。

 物語は、最後の朝を迎える。ナスチェンカからの手紙が「わたし」に届く。そこには、数時間前に別れたばかりの主人公に対する感謝、謝罪、愛に満ちた言葉がちりばめられている。「…あなたは生涯わたくしの親友です。わたくしの兄さんです…どうか私をお見かけになったら、お手を差し伸べてくださいまし。…わたくしは来週あの人と結婚します。…わたくしはあの人といっしょにあなたをお訪ねしたいんですの。…どうかわたしを許してください、お忘れのないように、愛してくださいまし。あなたのナスチェンカ」。そして、主人公は「わたしは長いことこの手紙を読み返していた。涙は瞼からあふれ出るのであった」(ともに米川訳)。「わたし」は耐えきれないほどの無力感に襲われながらも、ナスチェンカとその夫の将来にわたる最大限の幸福を願う。その誠実な思い、言葉がリフレインのように繰り返されながら結末を迎える。けだし、このエピローグも極めて小説的で、現実では容易に起こらない事柄だろう。

 「白夜」をもう少し読み解くために、当時のドストエフスキーがどのような精神的状態にあったかについても触れてみたい。ここに、小林秀雄著「ドストエフスキーの生活」(新潮社、全集第5巻)からの引用だが、興味深い記述がある。
「僕は相変わらず、クラエフスキーの借金を払っている。冬中働いて借金をきれいにするのが僕の目的です。ああ、いつになったら自由になれるか。ジャーナリズムの労働者になっているのは実にみじめです。みんな無くしてしまうのだ、才能も青春も希望も。仕事がたまらなくなる。作家どころか三文文士に成り下がるのが落ちです」(46年12月)、「貴方には信じられまい。文学の仕事を始めてもう3年になるが、僕は全く茫然自失しています。僕は生きてはいない、われに返る暇がない。暇がないので、僕には沈黙というものがない。怪しげな名声は得たが、この地獄がいつまで続くやら。文無しと注文仕事。ああ、休息がほしい」(47年4月)=ともに兄ミハイルに宛てた手紙。

 ここには、借金の返済と、そのための「注文仕事」に追われる地獄のような生活≠ノ対する作家自身の率直な思いが飾らない文章で吐露されている。作家として脚光を浴びた「貧しき人々」が「ペテルブルグ文集」に掲載されたのが46年1月だから、その年の暮れにはもう、こんな弱音ともいえる言葉(最初の手紙)を兄に書き送っていることになる。天にも昇るようなあのエピソード(45年5月)から数えても、たった一年半ほど後の手紙である。2通目の手紙はその翌年4月。翌48年の「祖国雑誌」に「白夜」が掲載されていることから考えると、この中編も、注文仕事の一環として、あるいはその合間に、馬車馬のようなスピードで書かれたであろうことが推測される。

 一方、当時のロシアは、皇帝ニコライ1世(1825年即位)が強権をほしいままにしていた時代。小林は「ドストエフスキーの生活」の中で次のように記しているが、言論が封殺される、まさに戦時下のような空気が立ちこめていたのである。「無論、刑事警察は以前からあったが、ニコライの治下において空前の発達をしたので、所謂『第三部』なる政治的スパイの広大な組織は、彼の治世のはじめに生まれたのである。この憲兵団は国家第一流の人物に宰領され、インテリゲンチャの生活はその不断の監視下にあった。『さらば、空色の軍服よ、汝ら、これに従順なる国民よ』とレルモントフが歌った、この制服こそ当時の治世の象徴であり、教養ある人々の、はけ口を禁止された憎悪の的であった。過酷な検閲官の認可なく、何一つ印刷することはできなかった。大学内の研究は監視され、公開講演のごときは革命的事件であった」。先の2通目の手紙からちょうど2年後の49年4月、ドストエフスキーはペトラシェフスキイ事件で検挙、収監されるが、その後の判決で明らかになった作家の罪は「ペトラシェフスキイの会合(毎週金曜日)でゴオゴリに宛てたベリンスキーの手紙を朗読した事実だけである」(「ドストエフスキーの生活」から引用)。ベリンスキーが時代をけん引していた批評家だとしても、彼が作家に宛てて書いた手紙を朗読しただけで罪に問われることは普通考えられない。帝政という過酷な時代の空気を映し出す象徴的な事例の一つではないだろうか。

 ところで、いかに偉大な作家といえども、当時はまだ20代半ばすぎの若者である。しかも、「貧しき人々」以降、中短編を矢継ぎ早に執筆しているものの、いずれの作品も、文壇のみならず一般読者の反応もいま一つ。こんな苦境の中、人間誰しも思い出すのが、忘れることのできない輝かしい瞬間ではないか。作家も例外ではなく、彼にとってそれは言うまでもなく、あの「伝説と化したエピソード」であり、それを惜しむ精神ではなかったろうか。先に引用した米川正夫の一文を思い出していただきたい。「折しも時は五月、昼のように明るいペテルブルグの白夜で、ドストエフスキーは眠れぬまま開け放した窓辺に座って、そこはかとなきもの思いに耽っていた。その時、ベルがけたたましく鳴った。ドアを開けると、思いがけないグリゴローヴィチがネクラーソフと共に飛び込んできて、目に涙を浮かべながら彼を抱擁したのである」―。白夜のまどろみに抱かれて、若き日のドストエフスキーが何を思い耽っていたのか、私たちには知るよしもない。だが、この処女作のこの上ない幸せな船出を予感させたこの瞬間は、友二人が熱く抱きしめてくれたその感触とともに、作家にとって生涯忘れられない出来事として胸に焼き付いたことだろう。

 「白夜」は、作家を襲ったさまざまな苦境と焦燥感の中で、若き日の祈りにも似た気持ちが書かせた、ドストエフスキーの生涯で唯一の、詩情豊かな珠玉の小品とも言えるのではなかろうか。

 なお、「白夜」のサブタイトル、「感傷的ロマン」と「空想家の追想より」については、「この作品の特色は二つの傍題によって、はっきりと暗示されている」とする米川正夫の解説に譲りたい。また、主人公とナスチェンカの会話のやりとりに「貧しき人々」の手紙の往復を連想しながら読み、第1夜の「わたし」、「わが未知の女性(ナスチェンカ)」、さらに「燕尾服の紳士」の場面設定に、「罪と罰」の一場面を彷彿としながら読んだことを付記しておきたい。




『白夜』発表の年
(ド全集・年譜)ドストエフスキー27歳

1月『ポルズンコフ』を『絵入り文集』に発表。『人妻』を『祖国の記録』1月号に。
2月『弱い心』を『祖国の記録』1月号に発表。
3月ベリンスキイ、『現代人』誌上で『主婦』に否定的評価。
4月『世馴れた男の話』(後『正直な泥棒』と改題)を『祖国の記録』4月号で発表。
5月ベリンスキイ死去。亨年37歳
9月『クリスマスと結婚式』を『祖国の記録』9月号に発表。
秋ドストエフスキー兄弟、ブレシチューエフ、金曜会とは別に「文学と音楽のサークル」企画。スペシネフ共鳴せず。尖鋭的な革命的な性格なサークルに改変することを意図し、巻き込む。
12月――『白夜』『やきもちやきの夫』(後で『人妻と寝台の下の夫』と改題)『祖国の記録に発表。


訳者・米川正夫の『白夜』所感(『全集』2巻)

『地下室』を経て、ラスコーリニコフに発展すべき予感が

・・・この作品の特色は、『感傷的ロマン』及び『空想家の追憶』という二つの傍題によってはっきりと暗示されている。第一のサブタイトルは、若きドストエフスキーの詩人としての一面を、珍しくも名残りなく流露さしたことを示したもので、ものみな神秘めかしく美化するペテルブルグで、ゆきずりの男女がほとんど生涯の運命を結び合わそうとして、最後の刹那にいっさいがもろくも崩壊し、未知の女は忽然とあらわれた元の恋人とともに姿を消してしまう。このストーリーそれ自身が幽椀な詩情に充ちているうえに、叙述の筆も、対話も、モノローグも、何かしら隠れたリズムの波動にのっているのが感じられる。
 第二のサブタイトルは、ドストエフスキーが「空想家」なる典型にしっかと礎石をおいたことを語るものとして、軽々に見過ごすことのできないものである。空想家のタイプは、同じ年に発表された前作『主婦』にも原型がしめされたけれども、『白夜』においてはさらに深く掘り下げられて、それが『地下生活者』を経て、ラスコーリニコフにまで発展すべき将来が、早くも予感されるのである。
 ドストエフスキー的骨格が固定している。
 『白夜』の主人公の空想は今のところ、甘い感傷的な詩趣の範囲を飛翔しているにすぎないけれども、典型としてはすでにドストエーフスキイ骨格を固定している。…その空想はロマンチックな詩の境地からしだいに離れて、自我の問題、社会と自我の対立、それからさらに進んで宇宙における自我の位置、神と人、等々の哲学的、宗教学的の問題にまで達するのである。…ラスコーリニコフとなって殺人を犯すのである。




8・18読書会報告 
               

猛暑のなか、参加者18名

俳優座・下哲也氏、斉藤深雪氏ミニ講演

 暑気払い特別企画として俳優座の下哲也さんと斉藤深雪さんのお話を聞いた。制作部の下さんは、主に俳優座昭和19年発足からの歴史を、女優の斉藤さんは、9月公演の「かもめ」を中心に紹介されました。質疑応答は、活発で時間を過ぎるのも忘れました。




東山千栄子さん、アントン・チェーホフさん


新美しづ子

 この8月の読書会で俳優座の斉藤深雪さん、下哲也さんのお話があった。始めの方で昔のことを話されたそうなのに、少々遅刻した私は、それを聞き逃した。是非お聞きしたかったのに大変残念。ずっと後悔している。
 もう70年近く昔になる。一億一心、灯火管制のあの夜、ラジオの『桜の園』は本当に楽しみだった。東山千栄子さんはよかった。戦前は華族だけの学校であった学習院女子部の出身、『桜の園』の女主人公にぴつたりだった。懐かしいだけでなんにも覚えていない。桜の木が伐られている音がマイクの奥から遠く聞こえていたような、いないような、夢のようです。
 9月、「かもめ」公演を觀られなかったので近くの図書館から一冊借りてきた。筑摩書房の『チェーホフ』。『かもめ』、『桜の園』、『シベリヤの旅』、『六号室』、その他短編二、三読んで一応返却。『六号室』にはぐいぐいはまった。同じ本をもう一度借りてきてある。今度の3週間で『退屈な話』をきちんと読みたいと思っている。
 チェーホフさんは涙ぐましい。結核を病む体で極寒の地をかけ廻った。働く人達に寄り添い精いっぱい働いた。正義を愛した。医師だから自分の身体は充分解っているはず、もう沢山はないであろうこの世の持ち時間を自覚しながら、静かにものを書きつづけるその姿を想像する。44才、やっとそこまで達した短く一生懸命だったアントン・チェーホフさんの生涯を知りました。(新美さんは書道家、歌人でもあります)


傍らに母いまし夜のラジオには 東山千栄子さんの声”桜の園”の

銃声一発一同ドキリああ息子の自殺 かもめ四幕喜劇とあるなり

無意味という深奥をみし生涯も 或いは喜劇幾十幕

アントン・チェーホフ慕わしきかなわが父と 行年おなじ宿痾もおなじ





註釈『小さな英雄』
     V.D.ラック
(初出は雑誌「祖国雑記」(1857年、第8号)、作者名はM−ii)  
                             
抄訳 前島省吾

 
 この短編は、ペトロパヴロフスク要塞の中で審理終了と判決宣告までの間に執筆された。1849年7月拘留されていたペトラシェフスキー会員らに読むことと書くことの許可が出て、7月18日にドストエフスキーは兄のミハイルにこう書き送った。「僕は時間を無駄に失ったりしていません。中編三篇と長編二編を構想しました。今はそのうちの一篇を書いています。(中略)僕はこれまで、今ほど com.amore(熱中して)書いたことは一度もありません。」1849年12月22日の別れをつげる手紙から、彼から没収された書類の中に何らかの長編小説と戯曲の素描プランがあったこと、そのうち完成された作品はただ一点、彼の定義によれば「中編」の、『少年物語』であったことがわかっている。このようにこの作品は当初は長編として構想され、後に削除された雑誌版テキストの冒頭では、そのまま、「長編」と呼ばれていた(もっとも、「中編」というジャンルの定義と並んで、「長編」という呼び名がでてくるのだが)。
 ドストエフスキーが徒刑地に送られた後、原稿は兄に渡された。ドストエフスキーはその原稿のことを永年覚えていて、出獄して最初に書いた手紙(1854年1月30日から2月22日)の中で、兄に聞いた。「僕が要塞で書いた『少年物語』は受け取りましたか?もし手元にあるなら、それを使ったりしないでください、誰にも見せないで下さい。」その後の文通から判断できるのだが、原稿の使用禁止は、収監中にドストエフスキーの中で短編改作のプランが熟したことが、その原因だ。ドストエフスキーの作品発表の許可を求める請願書が提出された1856年の一連の手紙から見ても、彼がすべての自分の文学上の希望を新しい構想と結び付けていたことは明らかである。にもかかわらず、兄とヴランゲリから、『少年物語』の掲載を試みようとする二人の意向を知ると、その結果を今か今かと待ち、何度か、兄ミハイルへの手紙(1856年11月9日付)や友人ウランゲリへの手紙(1856年12月21日付、1857年3月9日付)で問い合わせている。(中略)「お兄さん、はっきりと言ってください。真剣に掲載を望んだのですか? 望んだなら、試してみましたか? 試さなかったとすれば、どうしてですか? どうか、すべて書いてください。このお願いは、僕の作品発表は禁止されていないというあなたの予測への答えになるものです。この小品『少年物語』の運命は僕にとって多くの面で興味深いのだということをお分かりください」。この最後のフレーズは、この作品の発表を知ることが彼にとって重要だったのは、ずっと以前に書いた自分の作品の運命に対する著者としての自然な心配のためというよりも、文学活動と出版に従事する権利を真に確認するためだったということを示している。兄から『小さな英雄』が掲載された「祖国雑記」の号が出たとの知らせを受けたドストエフスキーは、まだ雑誌の現物を所有しないまま、短編を『少年物語』と呼び続けた。(1858年3月1日付、兄M.M.ドストエフスキーあての手紙) 題名変更がドストエフスキーの同意を得ずに行われたこと、またその題名変更が、おそらく、当局が『少年物語』という名の作品の作者が誰かについての情報を得ている場合にそなえて、作者名を隠す必要があったために行われたことは明らかだ。この手紙で、「『少年物語』掲載の知らせはあまり愉快ではありませんでした。僕はまえから書き直すこと、十分に書き直すことを考えていました。第一に全く使いものにならない最初の部分をすべて削除したかったのです」と書いている。作品の仕上げは1860年の選集の準備の中で実現した。語り手がマーシェニカ某に呼びかける導入部の数節、それに応じて、別の箇所の、彼女に関係するフレーズがいくつか削除された。見落としで一フレーズが残ってしまったが。
 『少年物語』の執筆は、監獄での精神的肉体的抑圧状況に対するドストエフスキーの反応であり、何人かのペトラシェフスキー会員に生じた精神的崩壊に陥ることなく、彼が持ちこたえる支えになった。1874年3月、ドストエフスキーは、宮内大臣の許可が必要なのに、許可なしで雑誌「グラジダニン(市民)」に手記を掲載したためにセンナヤ広場の営倉に入っていたとき、彼を訪ねてきたソロヴィヨフにこう語った。「僕は要塞に入れられたとき、これで終わりだと思った。三日も耐えられないだろうと思った。そして突然、すっかり安堵した。そこで何をしたかって? 僕は、『小さな英雄』を書いたんだ。読んでくれ。果たしてその中に怒りや苦しみがあるだろうか?僕は、穏やかな、よい、幸せな夢を見たんだ(ソロヴィヨフ「ドストエフスキーの思い出」、「歴史報知」1881年、第3号、615ページ)。 《夢》という言葉は隠喩的に使われており、彼の最初の題名に反映している作品の性格を正確に伝えている。孤独の闇から作家は、物語めいた世界――アレクセーエフスキー半月堡から心に浮かんだはずの――祝祭的気分が支配し、すべてが、明るく喜ばしい安堵の色彩に照り映える、物語めいたこどもの世界にとび出した。この世界の幻想には、長時間の幽閉のあいだに囚人にまとわりついていた創造的ファンタジーと追憶から生まれ出た様々な形象が交錯していた。「僕は、勿論、空想からの一切の誘惑を追い払っていますが、時にはそれを処理しきれなくなり、以前の生活が心に満ち溢れ、過去がもう一度体験されるのです。」と、ドストエフスキーは1849年7月18日の手紙で、兄に伝えている。短編の風景は、ダーロヴォエや、ドストエフスキー家のトゥーラの屋敷、またもしかすると、モスクワ郊外のポクロフスコエにある、ドストエフスキー家の親戚クマーニン家の別荘での生活から残された様々な印象から生まれている。
 この物語にはドストエフスキーの過去の作品との類似点もある。すでに『貧しき人々』や『女主人』に、幼年時代の、心わずらうことのない喜びや美しさの中にある、子供の世界の何かよからぬ、不安な、歪んだものの無意識の感覚のモチーフが、ちらりと現れていた。『小さな英雄』では、そのモチーフが中心的なモチーフの一つになり、m-me Mとその夫の関係の子供の受け止め方の中にあらわれている。『ネートチカ ネズヴァーノヴァ』のいくつかのテーマがヴァリアントとしてこの物語の中にもある。子供の心のなかでの、献身的な愛、自己犠牲の愛の感情の誕生が考究されている。m-me Mとその夫は、アレクサンドラ・ミハイロヴナとその夫の続きになっているかのようである
       (注:『少年物語』は、「子供の話」とも訳せるが米川正夫訳に従った。)

 以下 この作品の演劇的要素の考察がなされているが省略します。原文は以下を参照下さい。http://az.lib.ru/d/dostoewskij_f_m/text_0250.shtml Комментарии: (В. Д. Рак)
「註釈」の筆者V.D.ラック(В.Д.Рак)について
フルネームは、Вадим Дмитриевич Рак。ペテルブルグの「ロシア文学研究所(プーシキン館)」所属の文学研究者。文学博士、主任研究員。プーシキン、ドストエフスキー、18世紀ロシア文学史などが、主たる研究領域。全30巻ドストエフスキー全集の、第22、23、24、25巻の註釈を担当。ドストエフスキーグループのコーデイネーターでもある。

誤訳の指摘やご意見を前島までいただければ幸いです。





ドストエフスキー文献情報  
提供・≪ド翁文庫・佐藤徹夫≫

<作品>

・「新訳 地下室の記録(第二部・後)」 フョードル・ドストエフスキー 亀山郁夫訳・解説
     「すばる」 34(9)(2012.8.6=9月号) p138-192 (註 p191-192)
     *解説 アポロンと一匹鼠 p192-198

<図書>

・『ドストエフスキー 白夜の詩魂 ―我執と自由の渦圏―』 柳澤勝夫著 創英社/
     三省堂書店 2012.7.30 ¥3700+ 592p 19.6cm
     *初出:「春秋通信」 86-96(2007-2011) *未確認
・『名作がくれた勇気 戦後読書ブームと日本人』 藤井淑禎著 平凡社 2012.8.1
     ¥1800+ 230p 18.9cm
     ・III章 何でも純愛ものにしてしまう時代 ・『罪と罰』―ソーニャの愛はラスコーリ
       ニコフを救ったか p104-112
・『カラマーゾフの妹』 高野史緒著 講談社 2012.8.1 ¥1500+ 312+1+11p 19.4cm
     *第58回江戸川乱歩賞受賞作品 *紹介・書評は<逐次刊行物>欄参照
・『知の百家言』 中村雄二郎著 講談社 2012.8.9 ¥1100 347p 14.9cm
     <講談社学術文庫・2124>
     ・2 ドストエフスキー p21-23
     *初版:『人類知抄 百家言』 朝日新聞社 1996.9.1 ¥1600
・『謎とき『悪霊』』 亀山郁夫著 新潮社 2012.8.25 ¥1700+ 446p 19.1cm
・『清水正・ドストエフスキー論全集 6 『悪霊』の世界』 清水正著 D文学研究会
     (発売:星雲社) 2012.9.30 ¥3500+ 608p 21.6cm
     *第一部 『悪霊』論 ―ドストエフスキーの作品世界― p3-177
     *第二部 ドストエフスキー『悪霊』の世界 p179-486
     *第三部 『悪霊』の謎 ―ドストエフスキー文学の深層― p487-495

<逐次刊行物>

・<今週の本棚> カラマーゾフの妹 高野史緒著(講談社・1575円) 原作の「謎」
     鮮やかに解き尽くす本格推理“続編”/沼野充義
     「毎日新聞」 2012.8.5 p12
・<書評> 「謎とき」だけに留まらぬ、文学の戦慄 亀山郁夫『謎とき「悪霊」』 <新潮選書>    中村文則 「波」 46(9)=513(2012.8.28=9月号) p40
・<Review> カラマーゾフの妹 高野史緒/(純)
     「週刊東洋経済」 6411(2012.9.1) p135
・<エンジョイ読書> カラマーゾフの妹 原作を元に娯楽ミステリー/野崎六助
     「日本経済新聞」 2012.8.29 夕刊 p13
・江戸川乱歩賞の高野史緒 カラマーゾフ「続編」、遊び心満載/中村真理子
     「朝日新聞」 2012.9.11 夕刊 p3
・<読書日和> 高野史緒さん 名作の続編ミステリーとして描き乱歩賞受賞/内藤麻里子
     「毎日新聞」 2012.9.18 夕刊 p3
・<書評> 高野史緒著 カラマーゾフの妹 <書かれなかった第二部> 複合的なエンタテインメント性を持つ文学遊戯/福井健太 「週刊読書人」 2959(2012.10.5) p5
・<HMM Book Review> ・高野史緒 『カラマーゾフの妹』/小池啓介
     「ハヤカワ ミステリマガジン」 57(11)=681(2012.11.1=21012年11月号) p245





連 載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
第43回 三島由紀夫の生と死、その運命の謎
 尖閣竹島問題(特別稿)

福井勝也

 尖閣諸島・竹島の領有権をめぐる中国・韓国と日本との摩擦が、日本が従来維持してきた東アジアでの政治外交上のスタンスを根本から揺さぶっている。半ば当局に仕組まれたものらしいが、火が着いた中国各地の反日デモは、明治維新以降脱亜入欧に舵を切り、結局はアジアとの統一連帯の夢を破った日本の対アジア戦略の因果とその顛末だと感じた。そしてこの事態の歴史的因果が何時、どこから開始されたのかを突きとめたいと改めて思った。そこで前回までの吉本論を後回しにして、今回は長引く酷暑を一層加熱させた領土問題の背景について触れてみる。しかし当方の議論は、すでに識者が流布しているような政治外交上の時勢論の類ではない。それは、ここ数回ドストエフスキーの文学を語るうえで吉本隆明が語ろうとした「アジア的古代性」という表現ともどこかで絡んでいると思っている。そしてこの連続稿の<副題>に掲げた作家三島由紀夫が42年前に文字通り命をかけて日本人に問うた預言が顕在化するなかで事態が生起していることを意識せざるを得なかった。そんなタイミングで、柄谷行人の下記の文章を読んで考えたことを書いてみる。

 話がやや遠回りになるが、本連載(第40回)で吉本隆明の海難事故に触れた際に語った中上健次の「熊野大学」が今夏も開催された。早くも没後20年を迎えた今年、中上を生前から顕彰し続けてきた柄谷行人が久方ぶりに新宮まで出向いたらしい。その講演草稿が、評論「秋幸または幸徳秋水」(「文學界」10月号)として掲載されている。柄谷は「近代文学の終焉」というフレーズとともに文学批評から暫く遠ざかっていたが、ここで近作『世界史の構造』(2010)を踏まえての文学論を再開した模様だ。評論の要点は、表題にもあるように中上の『枯木灘』などの主人公の<秋幸>とは、大逆事件(1910、明治43年)で死罪になった<幸徳秋水>が<路地>に再帰した者であったとの指摘か。言わば、中上は同郷の作家佐藤春夫があえて見なかった(隠蔽した?)大逆事件と大逆事件後に差別視された新宮(さらにその被差別地域)の現実を見ようとしたのであって、それを自己の文学表現に根本的に導入したと言うことだ。柄谷は今まで語った「日本近代文学の起源」にも興味深い言及を加えつつ(北村透谷・石川啄木vs坪内逍遙・国木田独歩・佐藤春夫という対立的な文学的系譜の指摘、そして前者の後裔に中上を後者のそれに村上春樹を位置付けている)、さらに中上が最後に『異族』(1991)という小説(未完)でアジアという問題に「収斂」しながら、同時に世界へ「拡散」していった、その作家の晩年における内実(道筋)を新たに総括している。

 「路地の再開発は実際にあったことです。それは路地だけではないし、新宮だけでもない。日本中でなされた。その結果、日本中がバブルに沸き立つようになったのです。それは旧来の慣習、差別、特権などを一掃するように見えます。しかし、それはあらゆる質的差異を冨の格差に還元することです。路地の再開発は、日本で新自由主義(新帝国主義)が制覇することの前触れでした。では、誰がこれに対抗できるか。秋幸、つまり再帰した幸徳秋水です。」

 ここで語られる「新自由主義(新帝国主義)」という言葉は、当評論の最初から論じられてきた中心的文脈に位置している。実は、この論考を今回取りあげたのは、現在過熱している日本の対中国(台湾を含む)・韓国の領土問題を考えるうえでの出発点、その歴史的契機とその道筋を考えるうえで示唆的だと感じたからである。しかし誤解されないように先に断っておけば、柄谷の指摘が領土問題を踏まえた政治評論の類では全くないことだ。記憶を辿れば、それは、東日本大震災以後半年位過ぎた頃の講演ですでに語っていた歴史循環論であった。柄谷が着目にするのは「明治20年代」、西暦でいうと1890年代の「世紀末」で、この時期に帝国主義が全面的になり、日本でも日清戦争(1894)が起こり、次ぎに日露戦争(1904)へと進んで行った。そして柄谷は、この頃が日本近代文学の確立期とも重複し、そこから改めて日本近代文学の起源(例えば、透谷に対する逍遙の『小説神髄』、「没理想」の意味)を世界史の文脈から再検証をしている。この際特徴的なことは、柄谷が帝国主義を、19世紀後半自由主義の後に生じた一段階であると考えずに、「自由主義的」段階と「帝国主義的」段階が循環的に反復するものだと考えていることだ。そしてその二つの段階が交互に続くというかたちをとり、それらがそれぞれ約60年周期、近代世界史では120年ごとに類似してくるという「発見的仮説」の有効性を説いていることだろう(なお何故か、この循環論は干支によって歴史循環説を称えるアジア的な易学的運命論とも一致しているのだが)。この柄谷の論法から次ぎのような言説が導かれることになる。

 「明治20年代、つまり、1890年代は、昔の話ではありません。現在の東アジアの地政学的な構造は、この時期に形成されたものです。たとえば、東アジアには、中国、台湾、日本、そしてアメリカとロシアが存在しますが、それらは日清戦争の前後にできた状態です。第一に、日清戦争のころの中国は、もともと大国である上に、アヘン戦争以後の軍近代化を経て、日本には大変な脅威でした。つぎに、日清戦争の直接の原因は、朝鮮王朝における、日本側に立って開国しようとする派と、清朝側にたって鎖国を維持する派の対立です。つぎに台湾は、日清戦争のあと、清朝が賠償として日本に与えたものです。それらに加えて、この時期、ハワイ王国を滅ぼし、太平洋を越えて東アジアに登場した米国を見落としてはなりません。米国は日本と手を結んでいました。たとえば、日露戦争には、日本が朝鮮を領有し米国がフィリピンを領有するという秘密協定がなされていたのです。

 以上の点で、現在の東アジアの地政学構造が反復的であることは明らかです。われわれは今、東アジアにおいて、日清戦争の前夜に近い状況にあります。日本では、中国、北朝鮮、韓国との対立を煽り立てるメディアの風潮が強いですが、現在の状況が明治20年代に類似することを知っておくべきです。それは、日米が対立し、中国が植民地化されて分裂していた第二次世界大戦の状況とはまるで違います。第二次世界大戦と比べていたのでは、現状を理解できません。もちろん過去も理解できない。たとえば、司馬遼太郎史観のようなものに立って考えるかぎり、明治20年代についても、現在の状況についても理解できません。」(下線は筆者)

 今回の「特別稿」は最初に触れた通り、東アジアでの日本に対する今日的軋轢が何時から、何故に開始されたのかを突きとめたいと思ったからであった。この点で柄谷行人の歴史循環論による説明は、かなり現状分析にも届いた説得的な内容のものだと感じた。この柄谷の講演草稿の内容は、主に明治維新期の20年代、日本の帝国主義化が現実化した時代に照準をあてたものであった。そのことが柄谷文脈では、日本近代文学の岐路と重ねられ、日清戦争の開始直前に自殺した北村透谷から、日清戦争の従軍記者として活躍しナショナリズム昂揚の中で人気を博した国木田独歩へと転轍される文学史的事実として語られることになった。この内容も、柄谷のこれまでの「日本近代文学の起源」をフォローしてきた者として興味深いものであった。

 しかしこれだけでは、先述の本稿の執筆動機(欲望)は十分に満たされなかった。端的に言えば、何故日本が日清・日露の帝国主義戦争に突き進まねばならなかったのか、その歴史的前提が不分明のままだと思うからである。そのことは、柄谷流には、世界史的な帝国主義展開の潮流自体にその原因が帰せられるということか。しかしそれでは同義反復ではないか。そこから世界史的歴史に解消しきれない、言えば西暦ならぬ元号的な思考の必要が再度出てくると思うのだ。ここから問題は、明治20年代以前の明治10年代に遡るべきことになる。このことは、明治14年の政変(10年後の帝国議会開設の約束)を機に後退終息する明治維新期の自由民権運動の歴史的意味を問うことでもある。柄谷も自由民権運動に触れていないわけではない。すなわち、北村透谷が自由民権運動の闘士(土佐藩)であって、実は彼がこの明治14年頃の運動の後退期に自由党左派による爆弾闘争が始まった時点で、そこから脱落した人であったと注釈しているのだ。と同時に、透谷に始まると文学史的流布された「内面性」がイロニーや逃避ではなく、自由民権運動の形を変えた継続だったとも説明している。ここで、この欄がドストエフスキー読書家の紙面であることを考えれば、北村透谷の『罪と罰』への深い関心と理解が日本人のドストエフスキー体験の嚆矢(明冶25、1892年)であったことを記しておきたい。二葉亭四迷とも比較した、北村透谷とドストエフスキーという問題がここにある。柄谷がさらに触れているのは、自由民権運動の理論的支柱であった中江兆民が後年(20年代か)に運動をふり返っての言説だ。兆民は、自由民権は古い理論かもしれないが、まだ実行されていない以上新鮮であって、それは実行されて古くなったものではなく、それが古く見えるのは、その実行が妨害されたからなのだと(「一年有半附録」)。そして柄谷はこの中江兆民の弟子として教えを受けたのが、中上の小説に「秋幸」として導入された、幸徳秋水(土佐出身)であったと繋いでいる。柄谷は、兆民の知己としてもう一人、足尾鉱毒事件で天皇に直訴(明冶35、1902年)した田中正造もあげているが、実はこの直訴状を書いたのが幸徳秋水であったことにも触れている。そして大事だと思うのは、この時期、幸徳はアナキストではなく、天皇を肯定し議会を肯定していたのであって、だから直訴状が書けたのだと説明していることだろう。後に大逆事件(明冶43、1910年)という明治政府の強権的天皇制完成のためにでっちあげられた事件によって刑死させられた幸徳秋水は、日露戦争(1904-5)という帝国主義戦争が遂行された後、第一次ロシア革命(1905)から爆弾闘争・テロリズムの影響を受けたことによって、アナキスト・社会主義者に晩年変貌していったことになる。ここにロシアが日本近代史に露出してくる。前々回の読書会では、シベリア流刑の前提になったペトラシェフスキー事件(1849)で死刑宣告を受けたドストエフスキーがどこまで事件に関与したかという問題をコメントさせていただいた。今回、柄谷の文章を読みながら大逆事件とペトラシェフスキー事件との歴史的類似点とその根本的差異(日本天皇とロシア皇帝という存在の歴史的相異)についても痛感させられたのだったが。

 さて紙面も残り少なくなってきた。今回の内容を締め括りたいのだが、実は先述の通り、今年は中上健次没後20年ということで、今夏、中上特集号の別冊『太陽』(平凡社)が発刊された。その巻頭言をやはり柄谷行人が書いている。内容はかなりゴシップ的なもので、三島由紀夫と中上健次そして村上春樹までが串刺しされるように語られている。簡単に言えば、中上が80年代後半のバブル期に<右翼>的になった際に、柄谷は<左翼>に傾いたらしい。しかしその後、1990年以降湾岸戦争の反戦広告を出すことを熱心に呼びかけたのが中上で急に<左翼>に戻ったということだった。この事柄に見合うのが、三島由紀夫と安部公房という二人の作家が当時の中国の文化大革命の文化的破壊に抗議して出したニューヨーク・タイムスでの意見広告であったと。さらに近時の村上春樹の海外での活動等のあり方を注目しながら、柄谷はここで「謎解き」を試みる。その解答は「ノーベル賞狙い」ということらしい。勿論<左翼>的なことがノーベル賞の条件というわけではなくて、柄谷流に言えば、ドメスティックならぬグローバルなこと外部的であることを意識することが<左翼>的な内実ということになのだろう。ノーベル賞を貰いたければ、グローバルに外部的にならねばならないと。そしてこの議論から結局、三島は川端康成がノーベル賞を受賞したことで、自分にその可能性がなくなった1968年以降あからさまに<右翼>になったのだと、中上も長生きして大江がノーベル賞を受賞したことを知ったらまた<右翼>に戻ったかもしれないと言うのだ。いずれにしても中上は死ぬべき時を誤ることなく正しい時期に死んだと。
 ゴシップとしては面白い内容だが、どうも後味の悪い文章だと感じた。第一、三島がノーベル賞を逸したのは、何度かノミネイトされながら現地アカデミー担当者から三島が左翼的作家と誤解されたからだと本人が苦笑しながら語っていた事実がある。それに結局は、川端というかなりドメスティックな作家が受賞した経緯が柄谷流の謎解きでは説明できない。問題は柄谷の言う<左翼>も<右翼>も大した意味はないということだろう。状況次第で右往左往するその程度のものだという話になる。
 
 いよいよやや拡散気味な本稿を締め括ろうと思う。実はここ数年、多摩の読書会で大岡昇平の『天誅組』(1974)と安岡章太郎の『流離譚』(1981)を読み続けてきた。当然幕末から明治維新期の歴史的な動きについて色々と調べながら考える機会を得た。そのなかで、日本の明治維新期前後から日清・日露戦争に至る過程で、日本という国が「尊皇攘夷」から「尊皇開国」へ、そして「脱亜入欧」に舵を切って帝国主義的植民地国家へと変貌を遂げてゆく道筋に重要な歴史的転換点が複数あることに気が付いた。そして前述の明治10年代の自由民権運動がそれを担う重要な地点としてあったことが分かった。またその内実が、戊申戦争という国民的内乱に敗北し権力から遠ざけられた敗者の闘いであって、この運動を基本的に支えたのが、幕末の尊皇攘夷、勤皇派の理想であり、明治維新の現実化=歪曲化に抗して見果てぬ夢を実現しようとする試みであったことも理解した。北村透谷から石川啄木の文学的苦闘も、実はこの夢の実現化の一つのかたちだったということだろう。実は、ロシア文学、とりわけドストエフスキーはここにも深く影響している。
 そしてその転換点として、征韓論に敗れて薩摩に戻った西郷隆盛という明治維新最大の功労者が中心となった西南戦争(明治10年)は、その最大かつ重要なものであった。この戦いは、流布された不平氏族の反乱という進歩的歴史観からの理解では到底総括できない内実を孕んでいて、まさに見果てぬ夢の最終戦としてあった。この西郷隆盛という人物の傑出性は例えば内村鑑三の『代表的日本人』(1894)の冒頭にも活写されている。実は、現在の東アジアにおける領土問題も、この時期に戻って考える時に見えてくるものがある。

 例えば、「征韓論」というと後の「韓国併合」を連想し侵略的な軍事力を連想させられるように流布されてきたが、実は西郷は礼を尽くすかたちで、丸腰で死を覚悟して韓国に赴こうとしていた。ここには「脱亜入欧」とは真逆な、言えば岡倉天心がその東洋的理想を説いた大アジア主義の夢さえ潜んでいたと思う。西郷は、この転換点に時の若年の明治天皇を含む政府権力者を諫めようとして西南戦争を戦う必然を黙々と引き受けたのだ。西郷隆盛が深く民衆に浸透し、さまざまなかたちをとって庶民に今なお愛されている所以でもある。また、三島由紀夫の遺作となった四部作『豊饒の海』(1971)は、第一部「春の雪」の冒頭の日露戦争の戦没兵士のモニュメントのシーンから始まる。そして第二部「奔馬」では昭和維新を唱える主人公が綴る、西南戦争とほぼ同時期(明治9年)に起きた熊本の「神風連の乱」へ遡行する。三島は西南戦争のより純化した精神性を「神風連の乱」に書き込むことで、その後日本歴史が辿った荒廃の開始点に楔を打ち込んだ。その荒廃の到達点を「路地」の再開発として描いたのが中上健次であった。そしてそれを救うものが幸徳秋水モデルの「秋幸」であるにしても、その内実がアナキストで社会主義者の彼であるのか、それ以前の天皇に直訴状を書きえた自由民権の勤皇の志士であるかは明らかではない。しかし<左翼>でも<右翼>でもないということだけは確かだと思うのだ。 (2012.10.6)





連 載   

「罪と罰」読書ノート
【1】老婆の殺害(2)

坂根 武

 魔性の声に誘われて殺人の下見にやってきながら、まるで肝心の目的も自分も見失ったかのように、老婆の前に佇立するラスコーリニコフ。記憶力と理性を研ぎ澄ますべき時に、夕陽の映える窓のカーテンにひとときの幻想を追うラスコーリニコフに狂気の影が追っているのだろうか。この文明社会に、個人的な殺人を正当化する理屈などあるはずもない。が、悪魔の誘惑であったか、天の啓示であったか、ある日、ラスコーリニコフには周囲の人間どもが皆痴愚にみえてきたのだ。運命を変える種子がすぐ足元にころがっているのに、誰一人目にとめようともしないで通り過ぎていくではないか。彼らは白痴だ、いやそれ以上だ、歩く屍だ。お前はそうではない証を立てねばならぬ。こんな声が彼を衝いたのである。
 ラスコーリニコフはかって、ある雑誌に奇妙な文章を書いた。あるとき、彼はその内容に言及してこんなことを言う。自然のいかなる摂理によるのか知らぬが、人類は大略二つの部類に分けられている。一つは人類を新しい運命に導く選ばれた人々であり、他方は彼らの材料となる下級集団である。一方は新しい未来を建設するために、法を踏み越え、必要とあれば血を流すことさえ自己の良心に許す権利があるが、他方は服従を旨とし、もっぱら生殖によって同類を増やすのが使命である。一方は現在の破壊者、未来世界の建設者であり、他方は既存秩序を維持する保守主義者である、云々・・。これを横で聞いていたラズーミヒンは、友情の洞察力でその核心を見抜く。「これは別に新しいものじゃない。我々が何度も読んだり聞いたりしたものに似たり寄ったりだ。しかしその中で本当の創見、まぎれもなく君ひとりに属している点は、恐ろしいことだが、とにかく君が良心に照らして血を許していることだ。失敬だが、そこには狂信的なところさえある」
 おそらくラズーミヒンは、友人の言葉以上にその声の不気味な響きに驚いたのであろう、この男には、何かに魅入られたような痛ましい孤独の影がある、と。そのとおりなのだ。読者はこの小説が、ラスコーリニコフの奇妙な独り言で始まったのを覚えているはずである。
『いったいあれが俺にできるのだろうか?そもそもあれが真面目な話だろうか?なんの、真面目な話どころか、ただ空想のための空想で、自慰にすぎないのだ。玩具だ!そう、玩具というのがほんとうらしいな!』
 読者は、この玩具がどれほど危険な凶器になったかすでに知っている。ここで私たちは、ラスコーリニコフの物語が動機小説であることをしっかりと心に留めておきたい。私が言いたいのは、この青年は自分が抱懐した思想を、人々と共有し社会に生かすべく努めるのはなく、それを潔癖なまでに拒絶し、動機を執拗に個人的に純化しようとする、その異常な決意である。しかし、他人を一切締め出した自分との際限のない問答は狂気への道ではないか。いかなる思想も社会の土壌に根を下ろさなければ、不毛のあだ花にすぎないのではないか。ラスコーリニコフは、人間社会に刃向う、このような果てしなき夜道の危険と孤独を予感していたのではなかったか。彼は言うだろう、そうかもしれぬ、しかしそこに山があったのだ、その山が俺を招いたのだ、その山に登るのに、ただその時しかなかったのだ、と。そして彼を招いたこの運命的な冒険を、だれよりも明瞭に意識した点にラスコーリニコフの独創があったのであり、その運命にだれよりも忠実であろうとしたところに、彼の悲劇が生まれたのである。無心の心でラスコーリニコフを見る人には、凶悪な犯罪の奥に、精神の冒険に青春を賭けた、彼の殉教的精神ともいうべきものが見えてくるのである。
 それにしても、この心優しい青年に人殺しができるのか。なにか異常な出来事、意識を一時的にでも麻痺させぬような衝撃でも降りかからない限り、彼に最後の一線を踏み越えさせるのは不可能であったにちがいない。事件は起きた。もっともそれは事件と呼ぶにはあまりにも巧妙に企まれた目立たぬワナであったが。天才の仕組んだ残酷な心理劇を辿ってみよう。 
「大事なロージャ、お前は私たちのすべてです。私たちの希望です」
 こんな手紙を読んだラスコーリニコフの心は、すでに母親の希望と愛情に正面から向き合えないほど病んでいた。彼は、まるで母親の手紙に追い立てられるかのように、下宿から遁走する。通りをさまよい歩くラスコーリニコフには、途中で出会う出来事や人は、夢の中の風景以上の意味はない。空腹をおぼえて、ピローグを食って、ウオートカを一杯あおると、たちまちに酔いがまわってきた。道端の茂みの中に倒れこむと、恐ろしい夢が訪れる。それは実に鮮やかな夢だった。だがそれは果たして夢だったか。目覚めている意識こそ、悪魔の呪縛に眠らされていたのではないか。殴り殺されたやせ馬の夢で、恐ろしい己の正体に目覚めたということではなかったのか。
 夢から覚めると彼は、さながら憑き物が落ちたかのように、ネヴァ河に沈みゆく太陽を静かに眺めた。夢に告げられて、彼はやっと殺人の魔力から解放されたと感じたのである。
「それは心臓の中で一カ月も化膿していた腫物が、急につぶれたような思いだった。自由、自由 ! 今こそ彼は、ああした魅力から、魔法から、妖力から、悪魔の誘惑から解放されたのである」
 ところが、これに続いて、疲れ切って下宿へと帰路についたラスコーリニコフについて、作者は実に不思議な描写をはじめるのである。彼は全く無用な遠回り、センナヤ広場を歩いていた。
「彼は後になって、いつも自問するのであった――どうしてあんなに重大な、彼の全運動を決定するような、と同時にごくごく偶然なセンナヤ(しかも行くべき用もなかった)における遭遇が、ちょうどおりもおり彼の生涯のこういう時、こういう瞬間に、そのうえ、特に彼の気分がああした状態になっていた時に、ことさらやってきたのだろう ? しかも、その時の状況は、この遭遇が彼の運命に断固たる影響を及ぼすのに、唯、無二ともいうべき場合だったではないか ? それは、まるでこの遭遇が、ここでことさら待ち伏せていたかのようである ! 」
 ラスコーリニコフが夢から覚めて、ひとときの解放感に浸っている心の状態に、作者がしっこいほど読者の注意を向けようとしているのが伝わってくる。彼はどんな心理にあったのか。明らかにこの時、ラスコーリニコフは、新しい現実の上にしっかりと両足を踏みしめていたのではなかった。片足はまだ古い世界に残したままの、いわば半覚半睡の、不安定で無防備の状態にあった。これに或る衝撃を加えれば、ひとたまりもなく脆弱なバランスは崩れさるだろう。あの老婆のただひとりの同居人、リザヴェータとの偶然の出会い・・・彼女は通りで町人夫婦と立ち話をしていたのだ。
「ラスコーリニコフがふと彼女を見たとき、この邂逅に別段何の不思議もなかったにもかかわらず、突然ある深い驚愕に似た奇妙な感じが彼の全幅を領したのである」
 ラスコーリニコフはいったい何を見たのか。彼の心の奥の方から、まだ完全には姿を消していない悪魔の片目が、リザヴェータの肩越しに、ただひとりで部屋に佇んでいる老婆の姿をじっと見ているのだ、無防衛の獲物に狙いをつけるように。
 「彼は偶然、全く思いがけなく知った――明日の晩きっかり七時に、老婆の唯一の同棲者である妹のリザヴェータが家にいない。したがって、老婆は晩の正七時には必ずひとりきり家に残るということを、思いもよらず聞き込んだのである。彼の下宿にはわずか数歩を余すのみだった。彼は死刑を宣告された者のように自分の部屋へ入った。何一つ考えなかったし、また考えることもできなかった。ただ突然、自己の全存在をもって、自分にはもう理知の自由も意思もない、すべてがふいに最後の決定を見たのだ、ということを直感した」
 悪夢から覚めたばかりの不安定な彼の心は、こんな不意打ちに耐えられなかったのである。こんなことを彼は全く予期していなかった。彼が賭けたのは理性に主導された自由意思による決断だった。ところがこんなことになってしまった。そして、明晩7時に婆さんを手にかけねばならぬという死刑執行の指令が、彼自身の自由思想と命をしめ殺していくのである。
「彼は食欲なしにほんの少しばかり、三さじか四さじ、機械的に食べた。頭痛は少しうすらいだ。食事を終ると、また長椅子の上に長くなったが、もう眠ることはできず、うつぶせに顔をまくらに突っ込んだまま、身動きもしないで横になっていた。彼の目には絶えず幻が見えた。それがみな実に奇妙な夢だった。いちばんよく見えたのは、どこかアフリカかエジプトの、オアシスめいたところにいる夢だった。隊商が休息して、らくだがおとなしく寝そべっている。あたりにはやしがびっしり円くなって茂っている。みんなは食事しているのに、彼はそばをさらさら流れている小川にいきなり口をつけて、絶えず水をがぶかぶ飲んでいる。何ともいえないほど涼しい。そして、すばらしいコバルト色をした冷たい水は、色さまざまな石や、金をちりばめた清らかな砂の上を走っている・・・ふいに、時計の打つのがはっきりと聞こえた。彼は身震いして我に返った。頭を持ち上げて、窓を見ながら時刻を考え合わせた。と、すっかり正気づいて、まるで誰かにひきむしられたかのように、いきなり長いすからはね起きた」
 これは痛ましい姿だ。食欲どころではない死刑執行人、いや本当のところは死刑囚が、つかのまの幻覚の中で心地よさげに水を飲んでいる。人殺しの強迫にに心身の自由を奪われたこの青年は、夢の中でしか命の水を飲むことを許されないのか。だがもう時間だ。何の時間だ。ラスコーリニコフは、はっきりとは知らないのである。彼の心身の麻痺は凶行の間も続くのだ。
「彼はオノを引き出すと、はっきりした意識もなく、両手で振り上げた。そして、ほとんど力を入れず機械的に、老婆の頭上へオノのみねを打ちおろした」
 まるで夢遊病者である。たしかに血は流れた。しかしその血は人の肉体に流れている温かい血であったか。まったく感情移入のない物体が流す血に、ぬくもりがあるのだろうか。このまったく非人間的な冷たい血の記憶が、ラスコーリニコフの後々の恐怖の中心をなすのだが、今は次の重要な点を特に指摘しておきたい。
 読者は、この物語の主人公が情愛深い青年として描かれているのに随所で気がつく。彼自身、小説の終わり近く、警察に自首しに行く直前、いみじくも独語する。
「もし俺が一人ぼっちで誰一人として愛してくれるものもなく、またおれ自身も誰も愛していなかったら、その時はこんなことは決して起こらなかっただろう」
 これは非常に深い思想である。もしラスコーリニコフが人間愛に希薄で、人の世界に関心が薄い青年であったとして、その彼が同じような犯罪を起こしたとしたらどうであったろうか。その時は、彼の犯罪は思想の仮面をかぶった冷酷な知能犯であっただろう。彼は何らためらうことなく、論理の命ずるままに、前提から結論へ、結論から計画へ、計画から実行へと沈着に沈滞なく進んでいったことだろう。その時は、ここに描かれたような不可思議なまわりくどい経緯は起こらなかっただろう。その時は、ペトローフスキイ島のやぶの中で見た夢の衝撃が引き起こした、心の動揺の一瞬の隙に乗じて、センナヤ広場での女との遭遇の一偶然事が、ラスコーリニコフに決死的な影響を下すというような劇的な心理劇は、決して生じなかっただろう。この青年が、人間の精神と思想の力を信じ、それに自分の青春を賭けたがゆえに、まさにそのために、やぶの中で見た夢が暴きだした自分の心の、思いもよらぬ恐ろしい姿に慄然としたのである。彼の心を襲ったこの激震こそが、夢から覚めたラスコーリニコフが陥った一時的な放心の原因であった。それゆえ、〈この放心につけ入った一偶然事による反抗の機械的決定は、実はラスコーリニコフの深い人間性の象徴的表現にほかならないのである。  (つづく)





映 画 


岩井俊二監督 新作『ニューヨーク、アイラブユー』に『罪と罰』を投影。
 
 先日、ある会場で「花は咲く」の作詞で知られる新進気鋭の映画監督岩井俊二氏にお会いした。その折り、現在ニューヨークでつくっている新作に『罪と罰』のエピソードが入っているとお聞きした。(以下、HPから)

 11人の監督がさまざまな愛の形を描いたアンサンブル映画『ニューヨーク、アイラブユー』に、日本から岩井俊二監督が参加。近頃は、『ハルフウェイ』や『BANDAGE バンデイジ』など、プロデューサーとしての活躍が多い彼にとって、3年ぶりの監督作となった本作。岩井作品の魅力である繊細な空気感と映像センスは健在で、顔の知らない男女の交流がロマンチックに描かれる。
 映画作曲家のデイヴィッド(オーランド・ブルーム)のもとに、会ったことのない監督アシスタントのカミーユ(クリスティーナ・リッチ)から電話が入る。『ドストエフスキーの小説を読んで曲を作れ』という監督からの指示を聞いた彼は、巨編小説を手に、カミーユと会話を重ねる。主な作品「Love Letter」「花とアリス」「リリイ・ジュジュのすべ」など

『鈴木先生』映画化に 武富健治さん原作
2013年1月12日(土)公開決定 ! DVD人気

主演・長谷川博巳  監督・河合勇人  脚本・古沢良太  制作・ロボット

「ドストエフスキーの読者なら鈴木先生を日本版アリョーシャ・カラマーゾフと見るかもしれない。いずれにしても、この『鈴木先生』は今後、とりあげる問題いかんによっては、壮大なる長編マンガへと成長していくことになるだろう。『鈴木先生』6巻」清水正日芸教授




編 集 室 

桑和潮著『粤、港に挽歌は流れて』にみる日中問題

 昨今の急激な日中関係の悪化。日本の政治家や国際アナリストは誰一人として、この情勢を予測できなかった。しかし9年前、2003年、香港の週刊香港社が刊行した推理小説)『粤、港に挽歌は流れて』(粤のえつは、広東省、港のこうは香港の意、1927年12月に中国広州で起きた革命武装蜂起を背景としたサスペンス)のなかには、すでに今日の日中関係の現状を的確に見据えた会話がちりばめられている。その視点は、日本人、中国人の域を離れた俯瞰的歴史観でもある。その観察眼が、現在の状況をあまりに正確に捉えているので紹介する。
 物語に突然登場する米国の華僑と名乗る初老の男は、日本と中国のこれからをこうみる。
「今後の尖閣諸島の海域はこれまでにない緊張状態が生まれるでしょう。経済格差や民族問
題、汚職といった中国の国内問題とどう絡むかによって違ってきますが、尖閣諸島問題は、日中関係が今までにない緊張状態に発展する・・・日本政府は国際裁判機構にその判断を任せようとするでしょうが、中国は〈中国は世界の中心〉とする中華思想が根強く、第三国や国際機関で解決を図ろうとする考えには、非常に消極的です。・・・日本人は気が付きませんが、中国も旧ソビエトも『自国と太平洋の間に堤防のように横たわる目ざわりな日本』・・・中国のGDPですが、ちなみに日本は2009年から2011年までには中国に抜かれます。これは比較的近い将来なので間違いありません。・・・」などなど。
 まるで現在進行形をみるようにつづく両国の関係分析は、圧巻である。が、物語は、日本人女性社員転落死から陰謀と欲望がうずまく連続殺人事件へと発展する。しだいにあぶり出されていく歴史の闇。中国、香港、台湾、そして日本を繋ぐものの謎。だが、すべての謎は解決され大団円に終わる。そして再び日本人も中国人もない、共に働く日常に戻る。
 作者は、長年中国に住んでいる。中国の実情を懸念しながらも、彼の地に骨を埋める気概だとも聞く。たとえ歴史に何があろうとそこに暮らす人々は、平凡な生活があるだけ、日本人も、中国人も、台湾人もない。作者は、この作品でそれを言いたかったのかも知れない。その心情にかつて岡倉天心が唱えた「アジアは一つ」を彷彿とする。そこに、今日、両国が陥っている領土問題解決への希望を託したい。(編集室)





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