ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.133  発行:2012.8.7


第252回8月読書会のお知らせ

第3土曜日・「豊島区立勤労福祉会館」第7会議室です

8月読書会は、下記の要領で行います。
 
月 日 : 2012年8月18日(土)

場 所 : 豊島区立勤労福祉会館第7会議室
(池袋西口徒歩5分).03-3980-3131                 
開 場 : 午後1時00分 

開 始 :  午後1時30分 暑気払い特別企画 

俳優座・斉藤深雪さん「かもめ」を語る
9月俳優座公演を前に(アルカージナ役) 下 哲也氏(制作部)同行

読書会 : 午後2時30分頃 〜 4時45分 迄

作 品 : 『クリスマスと結婚式』&『初恋』(原作『小さい英雄』)

報告者 : 口火役・江原あき子さん(『スティパンチコヴォ村』報告を前に)
       
会  費 → 1000円(学生500円)

二次会(近くの居酒屋) → 5時10分 〜

           
10月読書会の会場は、東京芸術劇場の第7会議室です。

開催日 :  10月27日(土) 午後2時〜4時45分迄です




8・18読書会について 

暑気払い特別企画 チェーホフ「かもめ」公演を前に

斉藤深雪さん(アルカージナ役)「かもめ」(訳小田島雄志)を語る

 8月読書会は、暑気払い特別企画があります。俳優座の女優・斉藤深雪さんが9月公演「かもめ」についてお話されます。制作部の下哲也さんも、ご一緒です。チェーホフファンの人、演劇好きな人、ぜひお来しください。(紹介者、石井郷二さん)
 ドストエフスキーとチェーホフは、約40歳ほどの年の差があります。(チェーホフ1860年ロシア暦1月17日生まれ、ドストエフスキー1821年10月30日生まれ)。ほとんど接点がなさそうな二人ですが、その実、間接的には強い絆があります。
 チェーホフといえばグリゴローヴィチ(1822-99)。グリゴローヴィチといえばドストエフスキー。その関係は、その人生の上でお互いなくてはならない存在です。1845年5月6日未明、ドストエフスキーの処女作を読み終えたグリゴローヴィチは、詩人ネクラーソフと共にドストエフスキーの下宿に駆けつけ「寝てる場合じやない」と、たたき起した。文豪ドストエフスキー誕生の瞬間を演出した作家。そして、1886年3月25日26歳のチェーホフは、ペテルブルグから1通の手紙を受け取った。さすらいの投稿者の才能を惜しむグリゴリーヴィチの名高い手紙。文豪チェーホフ目覚めの瞬間である。
不思議な因縁で結ばれる両文豪に思いを馳せて暑さを忘れましょう。ちなみに、来月公演の「かもめ」は、1895年初稿成る。1896年10月17日ペテルブルグのアレクサンドリア劇場にて初演。1899年5月1日モスクワ芸術座が上演。




読書会  
『クリスマスと結婚式』&『初恋』(原作『小さい英雄』)

 小講演の後、8月読書会を開催します。短編については、作品により複数作品をとりあげることもあります。今回は、2品の感想・批評などです。訳者・米川正夫による作品紹介は以下の通りです。『ドストエーフスキイ全集』2、5巻から

【『クリスマスと結婚式』】真夏に真冬の物語で涼を感じてください。
 この作品は、1848年9月に「祖国の記録」9月号で発表された。
「厚顔かつ無良心の打算家に対する風刺は、柔らかな叙述に包まれながらも、くっきりと鋭い線をなして一貫している。けだし、好個の小品ということができよう。」『ド全集2』

【『初恋』】 原作『小さな英雄』 1849年6月完成。8年後に陽の目を
 「この作品は、『白夜』と並んで、否それ以上に美しい詩的な物語である。ツルゲーネフの『初恋』と並んで双壁をなすものでがあるが、ツルゲーネフは抒情を主としているにたいして、これは心理が中枢となつている。ツルゲーネフの主人公は、すでに思春期に達した少年であるが、これは僅か11歳の少年の、はるか年長の貴婦人に対するそこはかとなき無意識の思慕であるが、それを描写するドストエーフスキイの筆はツルゲーネフに劣らぬ綿密さと美しさに満ちている。
 さらにこの作品に現れるブロンドの悪戯夫人は、ワキ役の地位にまわっているが、後年ドストエーフスキイが完成した愛情とサディズム、憐憫と残忍を一身に蔵した女性のプロトタイプとして興未がある。
 この作品は、ドストエーフスキイが、かのペトラシェーフスキイ事件のため捕縛されて、ペトロパヴロフスクの要塞に監禁されている間に書かれたものであるが(1849年)、初めて
陽の目を見たのは8年後の1857年、ドストエーフスキイがセミパラーチンスクに勤務中のことである。彼は、金に窮した結果、兄ミハイルにこの原稿を送り、発表を依頼した。なぜ彼が金に窮したかというと、イサーエフの寡婦マリヤ・ドミートリエヴナに求婚してその承諾をえ、挙式の費用を工面しなければならなかったからである。ドストエーフスキイは親友ヴランゲリ男爵にも、『少年物語』(『初恋』)発表に関して手紙を送り、協力を乞うている。
「・・・借金も返し、未来の生計も立てうる唯一の望は、ほかでもありません。もし発表が許されたら、というのです。・・・もし発表が一年間許可にならなかったら、わたしは破滅です。その時はむしろ生きていないほうがましです ! ・・・どうして私の少年物語は発表にならなかったのでしょう ? ・・・拒絶されたのではないでしょうか ? これを突きとめることはわたしにとってきわめて重大です。もちろん、わたしは永久に匿名でも或いはペンネームでも発表する覚悟です・・・」(1856年12月21日)
 こういう不安と焦燥の後、この作品は1857年8月の『祖国雑誌』にM-iの名で掲載のである。

報告 初期作品は、全集以外に刊行物も少ないこともあり、人気はないようです。今回もフリートークやむなしでしたが、『スチェパンチコヴォ村』報告予定の江原あき子さんが火つけ役を引き受けてくれました。ドへの応援歌、ありがとうございました。
     



がんばれ! 青年ドストエフスキー


江原あき子

 苦しい時にはいつもドストエフスキーを読んできた。ドストエフスキーはいつも私をはげまし、救ってくれた。信仰も持たず、平和の中で批判精神すら持たなかった私が自らの価値観を育てることができたのは、ドストエフスキーのおかげだ。彼の作品の人間に対する執拗なまでの観察眼、それは時に残酷ですらあるが激しい共感も同時に呼び起こす。私が多様性を愛し、ひとつの価値観に統一させようとする力を最も嫌悪するのは、彼の作品を読み、人間の複雑さに触れ、自然にそのことに共感してきたせいだと思う。しかし今回読んだ初期作品には後の作品に感じるような共感を呼び起こさない。それはなぜか。
 『小さな英雄』は刑務所の中で書いた作品だという。しかしこの作品には緊張感や思想家としての決意のようなものは全く感じられない。私の個人の感想だが彼はこの時点で自分の立場を全く理解していないし、自らかかわった集団について本当に理解していたかどうかも、あやしい。
ドストエフスキーはあくまで作家であろうとし、憧れはあいかわらず“文壇の一員”たることだったように思う。
幸か不幸か、彼はここで憧れの文壇から遠く引き離される。彼がこれからどんな試練にあうのか、私たちは知っている。でも私は彼が文壇から引き離されたことがとても嬉しい。本人はつらかったろうが、私は嬉しい。彼がとりすました文壇の人間たちから離れて凶悪犯と暮らすことになるなんて、正直、「やっつた! 」という気持ちなのだ。
彼の作品は以降、輝き始める。作者が描こうとした文学に対する深遠なる理想は以降、形になり、肉体を持つようになる。
 私たちは今、ひとりの青年が苦しみ、偉大な作家に成長するのを見守っている。がんばれ!  青年ドストエフスキー!




6・16読書会報告 
               

梅雨の晴れ間、参加者13名

梅雨最中のこの時期、読書会参加も鈍りがちです。作品も、シベリヤ前の初期作品でぱっとしません。が、13名の参加者がありました。
 
福井勝也さん「ペトラシェフスキー事件」について語る

 初期作品も終盤。書かれた時代背景。ドが巻き込まれた金曜日の会。古代キリスト教から空想社会主義という理想の追求から生まれた組織。34名が逮捕され21名に死刑判決が下りた茶番劇。福井さんは、折からのオウム事件逃亡犯逮捕の出来事を重ねて話された。

深いのか浅いのか、奇妙な滑稽譚

 駄作とおもわれがちの短編だが、様々な感想、批評がでた。発言を拾ってみた。
「面白い話だった」「米川訳はむずかしくて」「前後が面白そうだ。ドストエフスキーもこんな作品画書けると認識」「深読みをすれば、深刻なものがあるはず」「退屈な作品」「妻は他人のもの、夫はベットの下」「女性のしたたかさ」「タイトルがへんだ」「漱石の『彼岸過ぎ』を連想」「トルストイ作品は深刻化していく」など。空色の帽子で議論。




「人妻と寝台の下の良人」ドストエフスキー

前島省吾
                                 
 1、 題名の謎  
 この題名「人妻と寝台の下の良人」あるいは、「他人の女房とベッドの下の亭主」は、「妻は他人のもの、良人はベッドの下」と訳してもいいのではないか、もっといえば、「良人はベッドにはいれない」としてもいいくらいだと言って、読書会のほとんど全員の失笑(嘲笑?)を買ってしまったが、本文の内容とこの日本語の題名はどうも一致しない。どうしても違和感を感じてしまう、というのが僕の率直な感想である。勿論 ロシア語の専門家が、Чужая женаを、「妻は他人」なんて訳せるわけはないだろうということは承知の上である。
当時はポール ド コックの小説が大流行で、それに類した翻訳物や翻案物、例えば、次のようなボードビル(戯曲)があったそうである。"Муж в камине, а жена в гостях"(良人は暖炉の中、妻は客に行っている) (1834) Ф. А. Кони, "Жена за столом, а муж под полом" (妻は食卓に、良人は床下に) (1841) и "Фортункин, или Муж с места, другой на место"(フォルトゥンキン。または、良人はその場を去り、別の男がその場へ)(1842) Д. Т. Ленского. (拙訳。)  だとすれば、この作品の題名もこんな生真面目なものではないもっと皮肉な訳しかたがあってもよいかなと思ったのである。 

 2、  「人妻(他人の妻)」の謎
 「人妻」という言葉は不倫関係を連想させる。 ところで「人妻」とは誰のことだろう? 第一話の登場人物は、洗い熊の毛皮の紳士、イワン・アンドレーイチと長外套の青年トヴォローゴフ、そして三階の住人ボヴィニーツインと浮気をしていたらしいイワンの妻グラフィーラである。グラフィーラの愛人と思われるトヴォローゴフは、どうやら通りで彼女と落ち合う約束をしていたようだが、「どうして彼女(あれは)でてこないのだろう?」とか「僕の女はこの家の三階の知人のところに来てるんでさあ」とかいうだけで、自分の相手が「人妻」であるか否かほとんど問題にしていない。
 「人妻」にこだわっているのは、イワン・アンドレーイチである。自分は独身で、友人に頼まれたのだと何度も言いはる。「それは、この友人の細君なんで、つまり人妻なんです。」「その男は不仕合せな奴ですよ。こんな苦杯を飲まされて」といいながら、彼は慟哭するのである。
 グラフィーラは、イワンの正妻である。彼が他人の前では自分は独身者だと言いはるのは、寝取られ亭主だと侮辱されるのが耐えられないからである。「寝取られた不幸な良人を何だって、そう意地悪く、いじめるんでしょう?」と、彼が思わず漏らした本音がそのことを証明している。
 ところが、グラフィーラは、浮気相手のボヴィニーツインと出てきたところで突如良人と出くわしたが、とっさに良人に、「ボヴィニーツインとは今会ったばかりだ」といい、今まで通りで待ちぼうけを食わされていたトヴォローゴフの目の前で、「トヴォローゴフは馬車から放り出された彼女を迎えに来てくれたのだ」と、当のトヴォローゴフさえ唖然とするような嘘をついて、あざやかに男達を煙にまいてしまう。グラフィーラが演じる良妻ぶりは見事としかいいようがない。 彼女の嘘によって、寝取られ亭主の屈辱から救われたイワンは、グラフィーラの愛人のトヴォローゴフに「知己の栄を得て、大いに愉快でした。」と語って、帰宅の途に着くのである。まるで「人妻の情事」などどこにもなかったかのように。
 果たして「友人の妻の情事」は、イワンの幻想であったのだろうか?決してそうではない。「人妻の情事」は幻想ではなく真実である。グラフィーラは、良人イワンのものであると同時に、ボヴィニーツインのものでもあり、トヴォローゴフのものでもある。まさに「妻は他人のもの」であったのである。

 3、  ベッドの下の良人の謎
 イワンが嫉妬深い男であることには謎はない。上の階から落ちてきた恋文がグラフィーラのものだとは誰も断定できない。だが「感情は絶対的なものであり、中でも嫉妬はこの世でもっとも絶対的なものである。」 筆者яのいうとおりである。「彼は五段までのすべての見物席が自分に対して陰謀を企んでいるような気がした。」イワンは嫉妬そのものになったのである。
 この男の謎は、人違いがはっきりわかった段階で、何故ベッドの下から出ていかなかったかである。これにも筆者の解説がある。「自分をドン・ジュアンだと自惚れていたからである。」寝取られ亭主の屈辱と嫉妬にまみれながら、ドンファンを気取る。 こうなると、第一話の友人の細君(人妻)の情事というイワンの幻想も、自分もドンファンの仲間入りをしたいという密かな願望の現われなのかと思ってしまう。
 イワンは、もうひとりの良人と顔を合わせるだけの勇気はなかった。自分の存在が相手を侮辱しはせぬかと恐れたので。 そのくせ経験によって、侮辱された世の良人たちが誰でも彼でも咬みつくものではないことを承知していた。 この言葉は、いかに良人たるものが、妻の不貞にさらされていたかということの証ではないだろうか?

 4、   ベッドの上の婦人 リーザの謎
 彼女 リーザはイワン・アンドレーイチと若い男が侵入してきて、ベッドの中に隠れたことを知りながら、帰ってきた良人アレクサンドル デミャーヌイチにそのことを隠すのである。婦人はそれに対してなにひとつ対抗策を講じなかった。(第二話では、女主人公は不思議にも、妻でもリーザでもなく、дама婦人である。)
 良人が帰ってきたとき、「ああ、どうしましょう。あれは旦那様だわ。」 婦人は着ている化粧着よりも更に真青になった。寝台の下の物音に気づいた良人に、「あれはきっと階上で何か音をさせたのだわ。」 奥様はびくびくもので言った。(このへんでやっと婦人は妻になる。)
 寝台の下から出てきた青年を見て、彼女はこう囁いた。「あら、あなたは一体どなたですの?わたしはまた、」 彼女はてっきり自分の愛人がベッドの下に隠れたと思い込んでいたのである。青年が逃げていった後、リーザはすっかり安堵したのであろう。這い出てきたイワン・アンドレーイチの告白に笑いこけるのである。その天真爛漫な妻の笑いに安心しきった良人アレクサンドル・デミャーヌイチは、妻の不貞に一滴の疑惑も抱くことなく、安んじてだまされるのである。
 第一話のイワン・アンドレーイチも、第二話のアレクサンドル・デミャーヌイチも、トヴォローゴフも、そして誰であれ、中老であっても、青年であっても、「賢明な妻、あるいは人妻」という存在
の前ではひとたまりもないのである。良人であっても妻を独り占めにはできない。何故なら女はすべてのもの、妻は他人のものだからである。



「ドストエーフスキイの会」情報

7月21日(土)第210回ドストエーフスキイの会例会が午後2時から千駄ヶ谷区民会館で開かれた。今回は、『広場』21号の合評会でした。




ドストエフスキー文献情報

提供・≪ド翁文庫・佐藤徹夫≫

<作品>

・≪人間への愛≫ 百姓マレイ/フョードル・ドストエフスキー、神西清訳 p87-102
     『世界の名作短編集』 アントレックス 2010.5.1 \580 175p 17.6cm
     <サプライズBOOK> *「青空文庫」からダウンロード

<書籍>

・『埴谷雄高『死霊』論―夢と虹』 小林孝吉著 御茶の水書房 2012.5.15 \3200
     E+290p 20.1cm
     ・第1章 カラマーゾフの兄弟と<神>―前期不可能性の文学 p21-51
・『ドストエフスキーとマルクス』 河原宏著 彩流者 2012.6.1 \2500 262p 19.5cm
     ・第一章 「神」をめぐるドストエフスキーとマルクス p17-77
     ・第二章 「ユダヤ人」をめぐるドストエフスキーとマルクス p79-106
     ・第三章 「自由」をめぐるドストエフスキーとマルクス p107-133
     ・第四章 「王様は裸だ!」―「子供の目」革命 p135-195
     ・第五章 現代に生きるドストエフスキーとマルクス p197-228
・『新釈 悪霊 神の姿をした人』 三田誠広著 作品社 2012.6.25 \4800 984p
     19.6cm
     *「小説によるドストエフスキー論」の三冊目
     *『新釈 罪と罰 スヴィドリガイロフの死』(2009)、『新釈 白痴 書かれざる物語』
      (2011)に続く作品
     *帯・背:神なき世界と暴走するエゴイズム 近代の病理を抉る稀代の本格小説
・『定義集』 大江健三郎著 朝日新聞出版 2012.7.30 \1600 299p 19.4cm
     ・しっかり憶えていましょう p78-81  *「カラマーゾフの兄弟」など
     *初出:「朝日新聞」 2006.4.18〜2012.3.21 月1回連載したもの

<逐次刊行物>

・<特派員メモ> サンクトペテルブルク(ロシア) 社会主義11番地/副島英樹
     「朝日新聞」 2012.7.3 夕刊 p10  *ホテル「カラマーゾフの兄弟」のこと
・<書評> 先人の軌跡に「信」を求めて ・ドストエフスキーとマルクス; ・秋の思想 河原宏著/
     保阪正康 「朝日新聞」 2012.7.22 p12



新 刊・近 刊


河原 宏著『ドストエフスキーとマルクス』彩流社・2625円

〈評〉保阪 正康(ノンフィクション作家) 2012年7月22日 朝日新聞 「読書」欄
 19世紀のこの2人が目指したものは何かを自らの感性で追い求める。決して狭義の政治学者のそれではない。意外な発見を読者に教える。マルクスの説いた疎外の説明は、実はドストエフスキーの作中の人物の台詞と驚くほど似ているとの指摘だ。これが無神論者の根拠となりえている。ドストエフスキーは神・人・物・無の連鎖がつくりだす「人神」を言い、マルクスの「人神」は金と神と崇めるブルジョアジーを指していると分析したうえで、著者は2人の無神論や革命論が、20世紀には悲劇に変わったと説く。 
 この辺りの文章の運びを具体的に確かめていくと、著者の死生観が色濃くあらわれていて、2人の思想家を再生させようとする意思が見てとれる。むろんマルクスの革命理論への共鳴ではなく、ドストエフスキーは神を、マルクスは革命を通じて「共に自分の信念を貫くことで人と人との間の『信』の回復を求めていた」との結語に、現代への問いかけが窺える。

清水正著『ドストエフスキー論全集』第6巻『悪霊』の世界
9月刊行 星雲社 発行 D文学研究会

第一部『悪霊』論ドストエフスキーの作品世界
第二部ドストエフスキー『悪霊』の世界
第三部『悪霊』論ドストエフスキー文学の深層
清水正著『世界文学の中の「ドラえもん」』
ドストエフスキーの『分身』『罪と罰』やソポクレスの『オイデイプス王』、宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』『どんぐりと山猫』などと関連づけながら、『ドラえもん』における死と復活、運命と自由などを自在に論じる。





連 載 


「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
                   
(第42回)三島由紀夫の生と死、その運命の謎 吉本隆明について(3)

福井勝也                              

(1)体が焼かれるような酷暑が続いている。8月は敗戦の月であり、死者が浄土から故郷に帰り来る月でもある。この2か月間も3月に亡くなった吉本隆明の文章を断片的に読み続けた。同時に、この時期恒例の「例会/合評会」(「広場21号」7/21)担当論文(「ドストエフスキーと鈴木正三における悪の認識」/森和朗氏)へのコメントを準備したり、家人が友人からお借りしたロシアTV放映版(2008)のビデオ大作「カラマーゾフの兄弟」(9時間)を何夜かにわたって鑑賞して、どうにか猛暑を凌いでいた。
 
 吉本には、少しづつ後で触れることにして、まずはビデオの感想を書き記して置こう。第一に、原作をかなり忠実に描いた「カラマーゾフの兄弟」であったと思う。原作に忠実という意味は、単にストーリー展開のことを言っているわけではなく、見終わった後に、確かに原作ではこのように描かれていたのだと逆に気づかされる細部描写にもとづく。そのうえで印象的だったのが、「ドミトリー(ミーチャ)・カラマーゾフ」のロシア人としての圧倒的な存在感か。原作においても、物語の主人公は彼ではなかったかと思わされたほどだ。その延長で言えば、次ぎに存在感を感じたのが「スメルジャコフ」であり、その後が「フョードル」であったと言ったらどうか。残念ながら「イワン」は「アリョーシャ」よりもましであったが、(但し、「悪魔」との対話場面は出色)彼らよりも「グルーシェニカ、カテリーナそしてリーザ」など女達にずっと魅きつけられるものがあった。これは近時の作品読み直しの傾向の当方への影響もある。しかしそれだけではないだろう。誤解を承知で言えば、「翻訳文学」として接してきた「カラマーゾフの兄弟」には、近代日本人が創り上げた「ロシア文学」というバイアスがかかっていたということか。それは、例えばこの話が「父殺し」の物語である以上に、題名通り「兄弟物語」(勿論スメルジャコフを含む)なのだと素直に感じられたことにも逆説的に表れていよう。とにかく、現代ロシア人が原作に忠実に映像化した本作品は日本のドストエフスキー・ファンにこそ必見なのかもしれない。
 
 そして、そんなドミトリー(ミーチャ)を映像で見ていて不思議に甦ってきたのが三島由紀夫の『仮面の告白』(1949)の冒頭を飾るエピグラフの言葉であった。物語第一部、第三編の三、「熱烈なる心の懺悔―詩」の作中詩の「(神は)虫けらには好色をさずけ・・」の字句に拘りながら、ミーチャはアリューシャに「おれたちカラマーゾフ家の全員が、じつはそういう虫けらだったんだ」と語る。それに続くミーチャの言葉が三島によって切り取られていたのだ。
 「美 ―― 美という奴は恐ろしいおっかないもんだよ!つまり、杓子定規に決めることが出来ないから、それで恐ろしいのだ。なぜって、神様は人間に謎ばかりかけていらっしゃるもんなあ。―中略―ああ美か!その上俺がどうしても我慢できないのは、美しい心と優れた理性を持った立派な人間までが、往々聖母(マドンナ)の理想を懐いて踏みだしながら、結局悪行(ソドム)の理想をもって終るという事なんだ。いや、まだ恐ろしいことがある。つまり悪行(ソドム)の理想を心に懐いている人間が、同時に聖母(マドンナ)の理想をも否定しないでまるで純潔な青年時代のように、真底から美しい理想の憧憬を心に燃やしているのだ。いや実に人間の心は広い、あまり広すぎるくらいだ。俺は出来ることなら少し縮めてみたいよ。ええ畜生、何が何だか分かりゃしない、本当に!理性の目で汚辱と見えるものが、感情の目には立派な美と見えるんだからなあ。一体悪行(ソドム)の中に美があるのかしらん?・・・・・しかし、人間て奴は自分の痛いことばかり話したがるものだよ。」(新潮文庫版、平成19年3月5日138版)

 三島が何故ドストエフスキーのドミトリーに着目し、それが『仮面の告白』という小説と関連づけられたのか。それらは別途『仮面の告白』論に譲るとして、ここでエピグラフを引用したのは、ここ数回にわたって吉本の指摘している「ドストエフスキーが自分の作品の世界に、眼にみえないロシアのアジア的古代的な感性や思想性の枠組みを施しているという仮定」がまさにここに、ドミトリーの「美の観念」として語られていると思えるからだ。エピグラフではキリストの存在、ロシア正教的宗教観念以前に存在した(アジア的?)「美」が、「善と悪/マドンナとソドム」を包み込む<混沌>としてありえたことが宣言されている。このドミトリーの言葉こそ、すでに引用した「ドストエフスキーの美の観念は、少なくともギリシャ的ではない。私は、(直感的にだが)アジア的な生の指示を感ずる。そこには、ヨーロッパ人にとって不断の脅威であるところのアジア的混沌の風土がありはしないか?」(「美について」三島由紀夫/1949「近代文学」)という三島の言葉の根拠にもなっているはずだ。

 ビデオを見ながら思うことがもう一つあった。それは物語最後の陪審員裁判の場面を見ながら考えたテーマであった。当時ロシアに西欧近代化の重要な指標として導入された裁判制度が、その裁判的真実の追及や司法の民主化という当時の最先端の西欧思想に倣いながら、結局はその目的が裏切られてゆくロシア的過程で明らかになる人間的真実の問題だ。このことは、ドストエフスキーがペトラシェフスキー裁判を体験し、シベリア流刑後に世界文学の水準を達成した『罪と罰』以来の課題、ロシアおける<法と倫理>という問題でもあった。それは、西欧の司法制度がロシアに無理矢理移入されたことで齟齬を来したロシア人の心の葛藤の表現でもある。例えばこの「カラマーゾフの兄弟」では、ドミトリー(ミーチャ)が語った一見矛盾した意味に取れる「自分が<泥棒>になることは許せないが、<卑怯者>になることなら許せる」という言葉に凝縮されている。ドラマ展開で鍵になる3000ルーブルという金、ミーチャの首に香袋に最後まで隠されていた1500ルーブルという金額が、この物語を最後まで引っ張ってゆく。裁判では最後にその真相に到達したアリョーシャが、ドミトリーの内心の真実(「羞恥心」)を証言するが結局は同じロシア人の法執行人にも、就中ロシア民衆である陪審員にもそれが通じない。印象的だったのは、最後まで眠りこけている陪審員の一人を映像が何度か写し出していたことか(ここにドラマのディテールがある)。この問題をもう少し深めたいが、別の機会に譲る。

(2)次に「合評会」での森論文言及について、この欄でもポイントを絞って触れておきたい。当方の論評の内容は、森氏が取り上げた鈴木正三という近世武士(禅僧ともされる)における悪の認識をドストエフスキーにそれに同定してゆく結論に異論を加えたものであった。ここで、数ヶ月読んできた吉本隆明の批評を援用させていただいた。その大前提は、先述のドストエフスキー作品の世界に、ロシアのアジア的古代的な感性や思想性の枠組みを仮定したものであった。そのうえで、今回自分がドストエフスキーの叙述から読み取ろうとしたのは、森氏が鈴木正三に見た禅的な自力本願による救済(煩悩からの解脱、涅槃)とは真逆のもので、吉本の批評が最後に到達した『最後の親鸞』(1981)における絶対他力によるものであった。すなわち救済されるべきは、知者も非知者あるいは善人も悪人の区別もなく、いやむしろ作為的修行あるいは造悪的な行為ともまったく無縁な、非知者・悪人こそが絶対他力による救済(浄土との「往
相」・「還相」)の対象となるという考え(=「悪人正機」)であった。ここには、煩悩の自力
的滅却によらず、<相対的>人間関係を基礎に<絶対的>神(仏)の慈悲(救済)の究極の訪れだけが希求になる。そして森氏に「ドストエフスキー砦の三悪人」に指名されたスゥ゙ィドリガイロフ(『罪と罰』)、スタヴローギン(『悪霊』)、スメルジャコフ(『カラマーゾフの兄弟』)にも、その真相の「ナイーブで純真さ」から各々の「救済」の可能性が語られる。しかし、その結論にはやや飛躍があると思う。問題の所在は、救済に至る回路としての「自力」がドストエフスキーの悪の認識の回路としては首肯しえないものだからだろう。「合評会」では触れなかったが、この点でのポイントになりうる箇所を森氏の文章から改めて指摘してみたい。「ドストエフスキー砦の三悪人」のうちの一人スメルジャコフに触れた件であった。
 「 スメルジャコフは、カラマーゾフ家の好色漢の父親が乞食女に孕ませたもので、彼は母の胎内で自殺しなかったことを悔やんでいた。その母親のスメルジャーシチャヤ(悪臭のする)・リザヴェータというのは、自分の罪深さを自覚していて身悶えしながらこう叫んだ。「わたしは救われたくないないのです、やさしいお方。地獄へ行きたいのです、愛しいお方。あの悪魔どものところへ行きたいのです。」 おまえはなぜ救われたくないのか、と僧から問われると、彼女は「年がら年じゅう『聖なるかな、聖なるかな』と叫んで悪魔どもをうんざりさせてやります」と答えた。スメルジャコフは、この母親から悪臭ばかりでなく、神への呪いも遺伝されていたのである。」(下線、筆者)
(「広場21号」p43、なおリザヴェータの以上の言葉は、『未成年』ノートからの引用同注)

 この森氏の最後の一節を読む限り、リザヴェータ・スメルジャーシチャヤの救済もスメルジャコフ同様に絶望的なものに見える。自力救済を説く限り、その救いを拒否している者にその道は閉ざされているとしか言いようがないためだろう。しかし絶対他力によれば、自分の罪深さを自覚しながら、救済を拒否し自らの地獄行きを臨んでいるリザヴェータこそ救済に値するものと言えなくてだれが救済されると言えるのか。ここで何より必要なことは、リザヴェータの表面的な言葉の裏に、その絶望の深さから出る叫び声を聞くことの耳を持つことだろう。それは、先述のドミトリーの一見矛盾した言葉「自分が<泥棒>になることは許せないが、<卑怯者>になることなら許せる」という言い方の奥にあるドミトリー(ミーチャ)の屈折した「羞恥心」を読み取らねばならないことに似ている。ここで、山城むつみ氏の『未成年』論の中に、丁度森氏引用のリザヴェータの言葉に触れた件があったので引用してみる。
 「『カラマーゾフの兄弟』に登場するリザヴェータ・スメルジャーシチャヤの形象は、すでに『未成年』の創作ノートに間欠的に書き込まれているのだが、自分を誰よりも罪深いと考える彼女は、地獄に落ちて業火の苦しみを一身に負うことを望み、地獄の底からキリストを讃えて地獄の一切を赦そうとする。この悪臭を放つ女は、オーブラズ(@)を激しく渇望するベズオーブラズヌィ(A)な人々の象徴になっている。『未成年』に眼を通したツルゲーネフがその混沌に鼻をつまみ「何とすえた病気の臭いだろう、誰にも必要のないつぶやき、それに心理的詮索!」と顔を背けたのは彼がまだ顔を背けることのできる「ニユートラルな場所」にいたからにすぎない。泥は眼前に渦巻いていたのだ。彼もそこに顔を突っ込めば、自分もその泥の一部であると知っただろう。そうすれば、「誰にも必要のないつぶやき」「心理的詮索」以上の声が彼にも聞こえたはずである。すえた悪臭のうちに精神(ドゥーフ)を嗅ぎ取る勇気がなければドストエフスキーは読めないのである。」(「逆遠近法的切り返し−『未成年』」p372、『ドストエフスキー』講談社、2010所収、以下@A(前著、p364)は筆者注)
(@A 山城氏の『未成年』論のキーワードで、氏によれば、端的には姿形のこと、転じて聖像、イコンのことだが、ここではオーブラズがないということを醜悪と感ずるわけだから、ここでのオーブラズは、それを欠いていると醜くなってしまうような、美醜の判断にかかわる「精神の型」のことである。オーブラズがないとは、それがないこと、つまりブザマなこと。と説明している。別の箇所では、オーブラズを「生きた生活」ともベズオーブラズヌィを「型なし」とも言い替えている。)

 ご贔屓の山城氏の評論、その『未成年』論は今回「合評会」でも近藤氏の論文の議論の際推薦させていただいた出色なものである。それは小林秀雄の「「未成年」の独創性について」(1933)を引き継ぐもので、その作品の現代性に鋭く切り込んでいる。しかしその批評の価値は、引用のリザヴェータ・スメルジャーシチャヤの救済の問題を真っ直ぐに見据える眼力に支えられていることを指摘すべきだろう。勿論、山城氏は、吉本隆明の『最後の親鸞』にも、「絶対他力」にも一言も触れていない。ドストエフスキーをひたすら「愛読」しただけだろう。しかしそこには、「日本人」として「愛読」したことの経験が裏打ちされていると考えたい。ここにドストエフスキーに繋がる深い縁が、吉本流に言うならば「関係の絶対性」(「マチウ書試論」1954)が顕現しているのだと思う。指摘した幾つかの点は以後できれば再論したい。(2012/7.31)




「罪と罰」読書ノート 

【1】 老婆の殺害(1)

坂根 武

「七月の初め、途方もなく暑い夕方近く、一人の青年が、借家人からまた借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思いきり悪そうにのろのろとK橋の方へ足を向けた」
 長編小説はこんな具合に始まるのだが、通りへ出た青年は、まるで謎かけのように、こんなことを呟く。
「いったいあれが俺にできるのだろうか?そもそもあれが真面目な話だろうか?なんの、真面目な話どころかただの空想のための空想で、自慰にすぎないのだ。玩具だ!そう、玩具というのが本当らしいな!」
 読者はすぐに、あれが金貸しの老婆の殺害計画らしいと知るのだが、なぜ人殺しの計画が空想の玩具なのか問う余裕もないままに、私達はラスコーリニコフの不気味な心理の渦中に投げ込まれるのである。一つ一つ出来事がまるで申し合せたかのように、ラスコーリニコフを暗い興奮性の心理の渦巻の中へ巻き込んでいくさまを、読者はただ息をつめて見守しかない。家族思いの善良な酔漢との予言的な出会いも、情愛にあふれた母の手紙も、彼の気持ちを切り替えて、現実に前向きに向かわせることはできない。たとえば、次の場面では、私たちは思わず寒気を覚えるのである。
 酔ったマルメラードフを家まで送っていったラスコーリニコフは、その貧しい家族が、娘ソーニャが体を売ってかせぐ金でその日をしのいでいるに同情しながらも、結局不幸と悲惨にすぐ慣れっこになってしまう人間の卑劣を思う。「なんといういい井戸を掘りあてたもんだ!しかも、ぬくぬくとそれを利用している!」
 こうしたシニカルな思いは、若者に通例かもしれぬ。だがこれに続くラスコーリニコフの心の動きはすでに異様である。
「『だが持てよ、もし俺が間違っているとしたら』彼はわれともなく不意にこう叫んだ。『もしほんとうに人間が、人間が全体に、つまり一般人類が卑劣漢でないとしたら、ほかのことはすべて偏見だ。付け焼刃の恐怖だ。そしてもういかなる障害もない。それは当然そうあるべきはずだ!』」
 もし人間が本性上卑劣な存在ならば、何をしようと卑劣から逃れられまい、何をしようと無駄であろう。しかし、もしそうでないならば、もし人類が未来に向かって前進すべき運命であるならば、こんな社会の片隅の貧困や、虫けらにも等しい老婆の命など踏み潰して進むのは当然許されているはずではないか。一体そこに何の躊躇がいるというのか。・・・これは自分の哲学に都合の良い論理の短絡でなくてなんであろうか、これは悪魔の誘惑ではないか。凝り固まった暗い興奮に捕らえられたラスコーリニコフの心は、もう自由ではないのである。
その発端は何であったのか。
 ある日、質草を持ってはじめて高利貸しの老婆を訪れた時、青年は初対面の老婆に抑えきれない嫌悪を感じる。わずかの金を受け取って帰る途中、安料理屋に立ち寄ると茶を命じた。
「と、奇怪な想念が、まるで卵からかえる雛のように彼の脳底をつつきまわり、彼はたちまちその虜になってしまった」
 そのとき、不思議なことにすぐ隣のテーブルで、大学生が友人に老婆の噂をしているのが耳に入った。大学生はこんなことを言った。老婆を殺して金を奪う、ただしその金を社会のために使うのだ。ただ死を待っているだけのいじわる婆の命に何の価値があるのだ、一個の些細な犯罪は、数千の善行で償えるではないか。人類は現実を修正し、よりよき未来を志向しているではないのか、云々‥・。
「君は今熱弁をふるったが、自分で婆を殺すかどうだ」「勿論否だ!僕は正義のために・‥あえて僕に関係したことじゃないよ」「だが僕にいわせりゃ、君みずから決行しないのなら正義も何もありやしないよ」
 この二人の若者の、何気ない平凡な言葉のやり取りの奥に隠れた恐るべき真実を、このときのラスコーリニコフほど深く理解した者は、おそらく世界中に一人としていなかっただろう。二人の若者は、ある平凡な理屈をもてあそんでいた。しかし、ラスコーリニコフは、そこに逃げてはならない啓示を見たのである。真理とはなんと単純なものであろう、それは道端に転がっているのに、誰一人拾い上げようとしない、決意を持って目を向けようとしない、ただそれだけのことではないか。
 この俺も真理を横目に見て素通りする腑抜け者、意気地なしなのか。
老婆との邂逅で彼が得たのは理屈ではなかった。ほとんど外的な衝撃と形容してよい直覚的な疑問だった。いってみれば、不条理が老婆の姿を取って、多感な青年の心を刺しぬいたのだ。
 ところが、まことに奇妙なことが起こったのである。理性が研ぎ澄まされて論理の正当性が明らかになればなるほど、ラスコーリニコフにはその実行が醜悪にみえてくるのをどうしようもなかった。氷のように研ぎ澄まされた論理の明証性と、実行の不可能性の間隙をどう埋めたらいいか分からなかったのである。
 このジレンマの苦悩が、第一編の主題であるばかりではなく、この小説の全編を通じて、あたかも地下水のように絶え間なく流れている旋律となっている。というのも、凶行までの、なぜ殺してはいけないのかという論理と良心との執拗な葛藤が、凶行後には、なにゆえに殺したのかという答えのない悩ましい意識となって彼を苦しめるのである。それがどんなに矛盾をはらんでいようとも、読者はラスコーリニコフと素直に、この意識をあるがままに、共有しなければならない。そうしないと、この物語は喜劇となってしまうだろう。実人生と同じく、大小説でも喜劇と悲劇はほんの紙一重なのだ。
 さて、心の葛藤に倦んだラスコーリニコフは、計画の瀬踏みをするために、何者かに誘われるかのように屋根裏部屋から出ていく。「彼は心臓の痺れるような感じと神経性の戦慄を覚えながら」老婆のアパートヘ近づく。「かれは下宿から何歩あるか知っていた。きっかり七百三十歩。いつだったか空想に熱中していた時数えてみたのだ」こんな子供らしい、それだけに刺激性の強い予行演習は彼を現実の舞台へ近づけただろうか。確かなことは、深淵に見入る者はそれに魅入られるようになるように、ある魔的な存在が次第に彼の心の中に地歩を占めていったことである。
 さて、今ラスコーリニコフは質草をもって老婆の前に立っている。部屋の窓のカーテンが、夕陽を受けて火のように燃えている。「『その時もきっとこのように陽がさしこむにちがいない』どうしたわけか、突然こんな考えがラスコーリニコフの頭に閃いた」
 夕陽に映えるカーテンを見ているのはラスコーリニコフだけではない。彼の心に住みついたある魔的な存在もそれを見ているのだ。彼はこの瞬間、自分が二つの人格に分裂しているような不思議な感触の中にいたに違いない。
 「彼はじっと老婆を見つめながら、まだ何か言うことかすることでもあるように、急いで帰ろうともしなかった。最もそれが何なのか自分でも知らないような様子だった・‥。『ことによるとね、アリョーナ・イヴァーノヴナ、近いうちにもう一品持ってくるかもしれませんよ・・銀の・・立派な・・巻タバコ入れ・・今に友達から取り返したら・・』彼はへどもどして口をつぐんだ」

 近いうちに一品持ってくるとは、お前を殺しに来るというごとだ。ラスコーリニコフは老婆を安心させる布石のつもりでこんなことを言ってみたのだが、自分の発した言葉が空疎な響きとなって空中に消えてしまうのを見て戸惑う。彼はじっと老婆を見つめるが、目の前に立っているその人が、自分が命を奪おうとしている当の相手だという実感がまるでわいてこない。愛憎でもない、物欲でもない、一切の人間的感情を欠いた殺人とはなにか。思想犯罪の闇はなんという深さであろうか。
 ラスコーリニコフはその暗夜の中で行動の対象を失う。窓のカーテンに緋色に映える夕陽の炎だけが、彼をあざ笑うかのように不思議な現実感をたたえているだけである。 (つづく)




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