ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No127  発行:2011.8.2


第246回8月読書会のお知らせ

第2土曜日・「豊島区立勤労福祉会館」第7会議室です

8月読書会は、下記の要領で行います。

月 日 : 2011年8月13日(土)

場 所 : 豊島区立勤労福祉会館第7会議室
(池袋西口徒歩5分).03-3980-3131

開 場 : 午後1時30分 

開 催 : 午後2時00分 〜 4時45分

作 品 : 『九通の手紙に盛られた小説』

報告者 : 山地 清乃 氏        

会  費 → 1000円(学生500円)

二次会(飲み会&カラオケ) → 5時10分 〜



お知らせ
 
3月11日の東日本大震災並びに原発避難で被災された方々には、心よりお見舞い申し上げると共に一日も早い復旧復興をお祈り申し上げます。     ドスト全作品を読む会読書会

東京芸術劇場が、施設の改修工事のため平成23年4月1日 〜 平成24年8月31日まで全面休館となります。このため会場と開催日が変則的になります。ご了承ください。
          
10月読書会の会場は「豊島区立勤労福祉会館」第7会議室です。
(東京芸術劇場の近くです。池袋警察・消防署隣り) 抽選で第4土曜日になりました。

開催日: 10月22日(土) 午後2時〜5時迄です 二次会は、PM5:00〜



8・13読書会について


残暑お見舞い申し上げます 一服の清涼となるか

5サイクルは、小短編作品も漏れなく読んでいきます。と、いうことで暑気払い読書会は短編『九通の手紙に盛られた小説』をとりあげます。二次会にカラオケなどのご希望もあります。お盆前の忙しい時期ですが、大勢の皆様のお来しをお待ちしています。
この時期のドストエフスキーは、『貧しき人々』の成功で絶頂期。だが、好事魔多しの運命が行く手に・・・。残暑の読書会、滑稽譚、一服の清涼となりますか。

報告者は山地清乃さん

報告者の山地清乃さんは、『分身』をくり返し読まれたという努力家です。また、大江健三郎講演など、多くの文学者講演やカルチャーセンターに積極的に足を運んでいる勉強家でもあります。読書会では、常に控え目ですが、求められれば的確な感想・批評を簡潔に述べられます。お笑いっぽい短編『九通――』には、どのような感想をもたれたでしょうか。報告、楽しみにしています。よろしくお願いします。

『九通の手紙に盛られた小説』とは何か

「作者の創作手法の見本」訳者
 
この作品について、訳者米川正夫は解説で以下のように述べている。
「実に、いきなり事件から始める手法〈この手法〉は、ドストエーフスキイの創作の個性的な特色をなしているのである。」として「この手法が最も成功しているのは『弱い心』より、むしろ」この作品『九通の手紙に盛られた小説』だという。それについても訳者米川は、次のように説明している。

「いきなり」、「突然」の手法はこの時から始まっている

「なぜなら、書簡は事件の発端を説明せず、ただちに進行中の事柄を報告するのが常態だからである。書簡はある程度まで、当事者同士のすでに了解している事柄を取扱っているから、第三者には注釈なしに真相を理解し難い場合が多い。この作品においても、ドストエーフスキイは書簡のこうした特質を利用して、いきなり読者を事件の中へ引き入れ、さまざまな謎をかけることによって、読者の興味を喚起しようとしている。通俗小説的要素をおのれの創作に取り入れるドストエーフスキイの手法は、すでにこの時から始まっているのである。

あらすじ

 この短編の筋は、二人のいかさまカルタ師が共謀して、一人の青年をお互いに家庭へ引き入れ、その金を搾っていたが、一人が儲けを独占したために、両人の間に軌轢が生じて、その結果、青年が両人の妻を自由にしていたことが暴露する、という。まったくの戯曲にすぎないが、ドストエーフスキイは、この短編について、兄ミハイルにこう書いている。
「で、金がないものだから、ぼくはネクラーソフのところへ寄りました。しばらくいるうちに『九通の手紙に盛られた小説』の想いが浮かんだので、家へ帰るとすぐ、一晩のうちにこの小説を書きあげました。…これはたとえばゴーゴリの『訴訟』に劣るでしょうか?」

1845年(24歳)のドストエフスキー

 『九通の手紙に盛られた小説』を書いた頃のドストエフスキーは、どんな暮らしをしていたのか。年譜と書簡から探ってみた。
 2月、『貧しき人々』を3たび斧正。
 3月、『貧しき人々』書きあげる。
 4月、『貧しき人々』細部、最終チェック。
 5月、グリゴローヴィチ、ネクラーソフ、原稿を読み感動。未明、ドストエフスキー宅へ。
    原稿ベリンスキイの手に渡る。
 夏 、レーヴェルの兄の家で『分身』起稿。
10月、ネクラーソフの企画した風刺新聞「あざ笑う人」の共同編集人となる。
11月、ツルゲーネフと知り合う。一晩で『九通の手紙に盛られた小説』を書く。この作品を 
ツルゲーネフの夜会で朗読。パナーエフのサロンに出席、夫人に恋情をいだく。
12月、ベリンスキイ宅の文学の夕べで『分身』の数章を朗読。
   ユートピア社会主義の観点からカトリシズム批判を行ったJ・サンドの小説『スピリ
ディオン』もこの頃朗読され、社会主義かキリスト教かの問題を提起。ドストエーフ
スキイ、深い関心を抱く。

1845年のドストエフスキーは、まさに極楽トンボ状態でした。が・・・・

九通の手紙に盛られた小説

最初の手紙   ピョートル・イヴァーヴィチより
イヴァン・ペトローヴィチへ
「…双手を拡げてかの若者を…いずれにしても、今晩くわしくご相談しましょう。…。」

2回目の手紙  イヴァン・ペトローヴィチより
ピョートル・イヴァーヴィチへ
「またもや貴兄に鼻をあかされました。…現金がどれほどあるかぞんじません。」

3回目の手紙     ピョートル・イヴァーヴィチより
イヴァン・ペトローヴィチへ

4回目の手紙  イヴァン・ペトローヴィチより
ピョートル・イヴァーヴィチへ

5回目の手紙  ピョートル・イヴァーヴィチより
イヴァン・ペトローヴィチへ

6回目の手紙  イヴァン・ペトローヴィチより
ピョートル・イヴァーヴィチへ



6・25読書会報告
                

16名参加(2名が二次会から)
 この日は、16名の参加があった。立川から来られた新しい人、ひさしぶりの人、二次会からの人、様々でした。いつもより少なめの人数でしたが、活気ある読書会でした
 

プロハルチン氏とは何者か

 ドストエフスキーの小説の主人公は、たいていは主人公足り得ない人物である。この作品も、ケチな小役人。だが、読者には、様々な想念を植えつけているようだ。フリートークで出た印象的な感想をいくつか拾ってみた。
・「自由主義者」というレッテルは嫌だ。世の中との接点(自由主義者になった)
・好ましい人間ではない。
・分身で大成功しなかったことが・・・(災いした ?)
・印象のない人間、身近にいる感じ。
・(他の作品に比べ)迫力が落ちる。が、大作品の基礎を感じる。
・アパートの住人は、人間的で温かみがある。自由主義、昔、あの人はアカと指さされた感じに似ている。
・実際に一億円貯めていた人がいた。
・自由の念をまっとうした。死んで幸せになれた。

アンケート 

当日配布のアンケートにお答えのあつた分です。ご協力ありがとうございました。
Q&A
Q.『プロハルチン氏』をどのように読みましたか → A.興味深く読んだ
A.『未成年』に節約によって蓄財することを理想とする主人公が登場するが、そのルーツとしてプロハルチン氏の蓄財をとらえることはできないか、という問題意識で読んでみました。
A.『貧しき人々』『分身』と比べ、短編作家としてのまとまりがでてきたような気がする。
Q.『プロハルチン氏』と当時の社会との関係はあるのか(検閲されたことから)
A.あると思う。『貧しき人々』以来、初期作品の随所に自由主義という単語が登場する。これが(この作品を読み解く)キーワードとなるだろう。
Q.『プロハルチン氏』とナポレオンの比較をどう読んだか。
A.それほどナポレオンに意味を見いだせなかった。「靴の裏皮」「釘男」等、様々な悪口のうちの一つとしてとらえました。当時のロシア人は私達ほどナポレオンを対象化できていなかったのではないでしょうか。





連載
「ドストエフスキー体験」をめぐる群像                       (第36回)三島由紀夫の生と死、その運命の謎(2)

福井勝也

三島由紀夫の死とスキャンダリズム

この40年間、作家三島由紀夫の衝撃的な最期をめぐっては、さまざまな角度から数多の考察がなされてきた。その不意打ちの死が日本人へ大きな謎となって突きつけられた、その謎の大きさの分、作家三島由紀夫の悲劇的結末に至る人生が隈無く詮索され続けた。それは作家三島由紀夫のみならず、当然人間平岡公威も対象とされ、さらに親兄弟・祖父母、それぞれの家系、そして配偶者である瑤子夫人にも及んだ。この瑤子未亡人が、三島死後の実質的な利害関係者として出版問題にも実権をふるい、その幾つかに干渉し訴訟にも発展した。この間暴露された三島のプライバシーは、その死を含めて、生育環境を含む個人的な性格・資質に還元され、その病理が心理学的、精神分析的に抉り出された。端的には、三島の芸術表現におけるエロチシズムから派生して、三島の実人生での「同性愛」あるいは「男色」が恰好の話題にされ、三島の最期を「情死」とする説まで現れた。そこでは、隠された三島の精神の秘密がスキャンダリズムすれすれに流布された。同時に、三島事件は現実の刑事裁判を通じて事件の首謀者である平岡公威(=三島由紀夫)の精神鑑定(責任能力)が問題となる事例であったが、被告人死亡で現実に鑑定は行われず、実定法規の枠内で審理され結審した。三島は、この裁判を、その事件の意図を社会に恢弘し後世に残す貴重な機会と捉え、事件直前に3人の隊員に生き残って法廷陳述を命令して逝った。事件の犠牲者を極力少なくしようとした三島の親心とも言える(これが森田との「情死説」を誘導することにもなった)が、裁判過程でどの程度その目的が達せられたかは余り語られていない。(『裁判記録「三島由紀夫事件』伊達宗克著、s47、講談社)
この後今日まで、時代環境は微妙な変遷を遂げてきたが、この間に三島由紀夫にどのような評価がくだされてきたのか。まず高度経済成長期には、反時代的な「異物」としてスポイルされその存在は大筋から忘却された。さらに「ポストモダン」が叫ばれた時代になって、何故か三島はキッチュな「ミシマ」とカタカナ語で呼ばれるようになった。さらにバブル期を挟んで以降今日まで、作家であるよりは過去の特異なパフォーマーとして情報処理された。結果今日、三島由紀夫は右翼的存在として政治的に神格化されるか、性的にアブノーマルな表現者、その最後の「腹切り」だけが強調される忌避的存在に止まっている。確かに、三島に等身大の実像を求める困難性があるにしても、余りにも歪んだ三島像ではないか。三島像を正確にイメージできないのは、三島自身の問題もさることながら、三島が死によって拒絶したこの間の日本という国のかたちの歪みの問題でもある。三島はこの国にとって、実は「鏡」のような存在で、その<逆像>が明らかに浮かび上がった時、この国のかたちもしっかりと立ち上がってくるのではないか。そして思うのは、今回の「原発震災」が、「日本の滅亡」という事態すら招来させかねない歴史的「国難」になりつつあることだ。その国の歪みを糾すべき危機的局面に気が付くべきだ。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうことを危惧、予言して(「私の中の25年」/「産経新聞」1970.7.7)死んだ三島由紀夫の存在を、今こそ日本人は想起すべきではないか。

小林秀雄と江藤淳、三島由紀夫の死をめぐって

思えば、今日の三島像は事件直後、当時の佐藤栄作総理の「正気とは思えない」という評価から始まったのではなかったか。発言を覚えている世代も少なくなってきたが、その発言の社会的(政治的)効果は案外に大きかったのかもしれない。その証拠に、以降流布された「三島狂人説」は日本人の中に意外に深く浸透して今日に及んでいるのではないか。
この点で是非触れておきたい対談(s.46.7月号「諸君」)を次に紹介しておこうと思う。それは三島由紀夫の死をめぐっての文学者同士のやりとりで、弟子筋の江藤淳が師匠筋の小林秀雄に叱声を浴びせられた厳しい内容のものであった。当時、この対談がどの程度話題になったのかは不明であるが、今日読んでみて改めて再読すべきものと感じた。

小林 宣長と徂徠とは見かけはまるで違った仕事をしたのですが、その思想家としての徹底性と純粋性では実によく似た気性をもった人なのだね。そして二人とも外国の人には大変わかりにくい思想家なのだ。日本人には実にわかりやすいものがある。三島君の悲劇も日本にしか起きえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう。
江藤 そうでしょうか。三島事件は三島さんに早い老年がきた、というようなものじゃ
   ないんですか。
小林 いや、それは違うでしょう。
江藤 じゃなんですか。老年といってあたらなければ、一種の病気でしょう。
小林 あなたは病気というけどな、日本の歴史を病気というか。
江藤 日本の歴史を病気とは、もちろん言いませんけれども、三島さんのあれは病気じゃないですか。病気じゃなくて、もっとほかに意味があるんですか。
小林 いやァ、そんなことを言うけどな、それなら吉田松陰は病気か。
江藤 吉田松陰と三島由紀夫は違うじゃありませんか。
小林 日本的事件という意味では同じだ。僕はそう思うんだ。堺事件にしたってそうです。
江藤 ちょっと、そこがよくわからないんですが。吉田松陰はわかるつもりです。堺事件も、それなりにわかるような気がしますけれども・・・。
小林 合理的なものはなんにもありません。ああいうことがあそこで起こったということですよ。
江藤 僕の印象を申し上げますと、三島事件はむしろ非常に合理的、かつ人工的な感じが強くて、今にいたるまであまりリアリティが感じられません。吉田松陰とはだいぶちがうと思います。大した歴史の事件だなどと思えないし、いわんや歴史を進展させているなどとはまったく思えませんね。
小林 いえ。ぜんぜんそうではない。三島はずいぶん希望したでしょう。松陰もいっぱい希望して、最後、ああなるとは、絶対思わなかったですね。
    三島の場合はあのときに、よしッ、と、みな立ったかもしれません。そしてあいつは腹を切るの、よしたかもしれません。それはわかりません。
江藤 立とうが、立つまいが・・・?         (以上、下線部分は筆者)

三島は病気であったとの江藤淳の言は、三島が「気が違った」と言っているのと同じ意であろう。小林秀雄は、これを正面から否定して、三島の死を日本の歴史そのものの問題に位置付ける。それは日本という国柄が生み出した悲劇で、三島はそのことを一身に背負う仕方なさに殉じたのだと。いや、殉じる直前まで希望する強い意志を持ち続けたのだとも語っている。この時、江藤は38歳(三島との年齢差7歳)小林秀雄は69歳。壮年にかかり、小林の後継者と目されつつあった江藤であったが、その師匠に「お前はそんなことも分からないのか」と一喝された恰好か。ことは文学者同士の対談である。しかしこの時の江藤の目線は、政治家あるいは凡庸なジャーナリストのそれと何ら変わりない。江藤は元々、三島の「楯の会」を「軍隊ごっこ」(全共闘運動を「革命ごっこ」と称した)と揶揄してきた経緯があり、三島自刃の直後も事件への冷淡な評価を語った。晩年にその評価が変わったとする意見もあるようだが、はっきりしない。病苦と妻に先立たれた孤独から、最後は自らを処断すべき「形骸」とみなし、三島同様自刃(99.7.21、66歳没)して果てた。この最後に至って、三島の死は江藤にどう映じていたのか。江藤は三島と反時代的に生きる指向性を戦後に共有しながら、「保守」同士のライバル意識の故か、やがてすれ違い反目していった。その反目はどこまで乖離し、あるいは最後江藤の意識のなかで最後どう近接したのか。いずれにしても同じ自刃という最期でありながら、その中身の違いは歴然としている。しかし、三島が日本の行く末を予言し、その中で生きることを拒否した「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国」(「私の中の25年」三島由紀夫/「産経新聞」1970.7.7)をほぼ30年生き延びた江藤が、三島が嫌悪した「形骸」となって果てたのだとしたら、やはり、二人の運命は皮肉なかたちで絡まっていたというべきか。
前回から開始した三島論だが、先日会員の新美さんにとんでもないプレゼントを頂いた。三島が事件を起こす直前に、当時三島文学の深い理解者で翻訳者のドナルド・キーン氏に宛てた遺書であった。それは、生前の厚誼に感謝しつつ、最後に遺作『豊饒の海』の完訳についてキーン氏の尽力を要請する礼を尽くした文章であった。三島由紀夫の署名も見慣れたもので、和紙に薄墨で書かれた達筆なものであった。書き出しは最後のユーモアのつもりか、キーン氏が三島由紀夫を訓読して魅死魔幽鬼夫と呼んだことがそのとおりになってしまったと記されていた。同時に、武人として死ぬ決意を固めた三島が小説『豊饒の海』が世界で読まれることを希望して外国人にその全訳刊行への尽力を懇請するものであった。それは、文人三島の孤独な最後の願いとして聞こえてくる。すでに三島の作品は、当時の日本文壇からは正当に評価を与えられず不遇だった。このことは、今日どこまで改善されたと言えるだろう。三島の死は、確かに日本の歴史のなかに位置づけられるべき特異なものであるが、やはりその人生は日本語を何より大切にした文人のものであった。今日、遺作の四部作『豊饒の海』を日本人として改めて読み返すべき時かもしれない。平岡公威、三島由紀夫(魅死魔幽鬼夫)、彰武院文鑑公威居士として生き死んだ者の遺書本体として。
なお、実は書家でもある新美さんから頂いた「遺書」は、その活字になった三島の文章をご本人が模写(≒写経)したものであったことを後で知らされた。何人かの親しい知人に、すでにお披露目を済ませた後の祭りであったが。それはともかく、ここで新美さんには改めて感謝するともに、この「遺書」を家宝にと思っている次第だ。 (2011.7.26)





東電OL殺害事件とドストエフスキー
 (編集室)

 7月20日水曜日の夕刊各紙の一面に大見出しで「東電OL殺害別人DNA」のニュースが報道された。14年も前になるが当時を知る人は、「ああ、あの事件か」と忌まわしい記憶を呼び起こしたに違いない。(関係はないが、今年は東電の社名は厄年のようだ)
この事件については、読書会でも、福井さんがとりあげたことで、記憶にある人も多いと思う。が、なにせ事件が起きたのは1997年。時間の流れの早い現代人にとって、はるか昔の事件簿である。犯人も逮捕され、無期懲役の判決が下りている。そんなことから、今回、冤罪の可能性がでてきたと報道されても、容疑者には気の毒だが人々の関心は、当時ほどではないようだ。現に半月過ぎたいま、新聞に関連記事を探すのは難しい。
しかし、この事件はドストエフスキーを想起する。そのように想像する「通信」編集室では、見過ごすわけにはいかない。そんなわけで、今一度この事件を考察してみた。
はじめに東電OL殺害事件とは何か。1997年3月19日、若者の街、渋谷の空きアパートの一室で発見された死後10日以上経過した娼婦らしい遺体。犯罪都市東京では当初、たいして注目されることはなかった。マスメディアは、遠くペルーで起きている「ペルー日本大使公邸人質事件」や、国内のエイズ裁判、O157とカイワレ大根。3月10日に亡くなった俳優の萬屋錦之助さん(64)などの出来事を話題にしていた。神戸では、3月24日、通り魔に襲われた小学女子二人のうち重体の山下彩花ちゃんが亡くなったニュースを流していた。(二ヶ月後日本中を震撼させた、少年Aの存在と「透明な存在」は、まだ誰も知らなかった)
娼婦らしい被害者は、実は有名私大卒のエリートOLだった。このことがわかるや否やマスメディアはこぞってこの事件にとびついた。週刊誌、テレビのワイドショーなどなど連日、報道された。専門家やコメンティターは勝手な推理を金棒引きした。一ヶ月後、被害者のプライバシーが問われるようになり、過激記事は沈静化していった。かわりに逮捕された彼女の最後の客ネパール人の判決の行方が注目されるようになった。一件落着した。

被害者の謎

3・11以後、(株)東電は、醜態を曝している。が、3・11前は一流中の一流、たとえ木の葉が沈み、太陽が西から昇ろうが、なんら心配ない超優良企業だった。そんな会社の管理職のエリート女子社員が巻き込まれた殺人事件。被害者の私生活が報道されたことで事件は好奇の眼に曝されマスメディアの恰好の餌食となった。
事件そのものは、単純な殺人事件である。春を売る女が金銭トラブルで殺されるのは、珍しいことではない。よくある事件。世間に注目されたのは、被害者女性の身分と行動に多くの謎があったからだ。一流大学出身で一流企業の管理職、亡くなった父親も役員だったという。彼女の容姿も、スマートで美人だったとのスポ記事、週刊誌記事。つまり、だれもが羨む経歴。今流に言えば「下流の宴」ならぬ「上流の宴」に属する家のお嬢様だったからというところか。謎は、そんな名家の地位も教養もある女性が、何故に夜な夜な渋谷で春を売っていたのか。常連の客の話では、金銭はかなりシビアだったという。ということは、彼女は淫欲でも男漁りでもなく本気で春を売っていたのだ。金に困ってもいないのになぜ…。
ここに謎を解くヒントがある、と編集室は推理する。この事件には、実際の犯人の他に彼女を死に至らしめるようしむけた「使嗾者」がいる。奴こそが真犯人(イワンのような)とみている。「使嗾者」とは何か。悪魔は黒と誰が決めたのかは知らないが、奴は透明である。それ故、長い人類の歴史の中で誰にも見られることはなかった。古今東西、いつの時代にも奴は、この惑星に棲んで無敵な生き物人間をいたぶってきた。正体不明のわけのわからない的。人類は、科学という武器で挑んできたが、最後はいつもエクソシストかシャーマン頼みだった。だが、ついに奴の尻尾は目撃された。心の中に妙な存在がいる。(そう、そいつは人間の心を棲み家とするのだ)目撃者は19世紀末のロシアの少年だった。彼の名は、F・ドストエフスキー。後に、そいつの存在を指摘した人間となった。だが、そのとき少年は、まだ知らない。その正体も、そいつが自分の心の中に入ってこようとしているのも。
彼女は、なぜ殺されたのか。いろいろな動機はあると思う。が、編集室が注目するのは、人間同士のやりとりではない。彼女が殺される状態に至ったこと理由である。彼女は、街で春さえ売っていなければ殺されることはなかった。では、なぜ春を売りはじめたのか。
ここで思い浮かぶのはドストエフスキーの父親ミハイルのことである。気むずかしい厳格な性格ながらも下町の慈善病院の医師として貧しい人たちのために尽くした人間だった。やさしい母親の夫でもあり、子供たちに勉強をすすめ、自身も教養あった父親である。そんな人が、なぜ無残な殺され方をしなければならなかったのか。領地の村人に好かれていれば、淫蕩でなければ、死なずにすんだ。そう断言できる。が、ミハイルは豹変した。横暴になった。淫蕩になった。ケチになった。村人から恐れられ憎まれることを愉しむようになった。なぜか、少年ドストエフスキーが、しかと視たのは、奴のしっぽだった。大発見といえる。
人間観察者ドストエフスキーは、子供ながら不安にかられた。そして、こんな手紙を兄に書いている。1838年10月31日の兄への書簡である
「ぼくはお父さんが気の毒でたまりません!不思議な性格!どれくらい不幸を忍んでこられたでしょう!…50年も世の中に暮らしてきながら、人間観は30年前のまま固執していらっしゃるんですからね。幸福なる無知よ。…」
少年ドストエフスキーは、父親の中に、尋常でないものが棲んでいるのを知った。そいつが村民を苦しめている。だが、自分に何ができるのか。このときから存在宇宙の調和を賭けたドストエフスキーと透明な存在との戦いがはじまった。後年、ドストエフスキーは自分の心に棲みついたそいつを追いだし、継子殺人未遂事件を起こした若妻の心にもその存在を見つけ、彼女をシベリア送りから救った。そうして人類に警鐘を鳴らして逝った。
東電OLを死なせたものは何か。当時、エスカレートされた報道合戦のなかで、あるスポーツ紙は、真偽のほどはわからないが彼女の全裸写真を掲載していた。撮られた後ろ姿は見るからに痩せて背骨が浮き出ていた。これが本当の写真なら、彼女は、摂食障害者という推測がつく。食をコントロールし、その人間を死なないまでに痩せ細らす。その依存にとり憑かれた人間は極端に吝嗇化の症状をみせる特質がある。この依存こそ「透明の存在」という名の悪魔といえる。かつて少年ドストエフスキーが目撃した存在である。彼女の死は、たった一人でその存在と戦った末に、不運にも犯罪に巻き込まれたに違いない。
その存在が棲みつくと「…人間の悲惨な状態です。その個体は、彼女自身以下の何ものかになってしまうのです。」アーサー・H・クリブス『思春期やせ症の世界』
東電OL殺害事件から2カ月の後、5月18日の早朝、神戸市内のある小学校の校門前を過ぎようとした新聞配達員は、校門前に置いてあるものに不審を感じ、オートバイを停め近づいた。日本中を恐怖のどん底にたたき落とした大事件のはじまりだった。1997年、この年、透明の存在は、ラスコーリニコフが見たせんもう虫のように、各地で蠢きだしたのだ。

以下は、当時の週刊誌見出し
1997年3月25日付新聞広告
週間朝日 「殺された慶大出エリートOLの夜の顔」
■ 1997年3月27日付新聞広告
週間新潮 「渋谷円山町で殺された慶大卒<東電>OL退社後売春」
週間文春 「4年前から渋谷ホテトル嬢だった東電エリート女子社員。恋人が激白 彼女はいつ死んでもいいと言っていた。」



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