ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No126 発行:2011.6.15


第245回6月読書会のお知らせ

第4土曜日・「豊島区立勤労福祉会館」第7会議室です

6月読書会は、下記の要領で行います。

月 日 : 2011年6月25日(土)

場 所 : 豊島区立勤労福祉会館第7会議室
(池袋西口徒歩5分).03-3980-3131                 

開 場 : 午後1時30分 

開 催 : 午後2時00分 〜 4時45分

作 品 : 『プロハルチン氏』

報告者 : 参加者全員トーク        

会  費 → 1000円(学生500円)

二次会(近くのお店) → 5時10分 〜




お知らせ
 
3月11日の東日本大震災並びに原発避難で被災された方々には、心よりお見舞い申し上げると共に一日も早い復旧復興をお祈り申し上げます。     

東京芸術劇場が、施設の改修工事のため平成23年4月1日 〜 平成24年8月31日まで全面休館となります。このため会場と開催日が変則的になります。ご了承ください。
          
8月読書会の会場は「豊島区立勤労福祉会館」第7会議室です。
(東京芸術劇場の近くです。池袋警察署隣り) 抽選で第2土曜日になりました。

開催日: 8月13日(土) 午後2時〜5時迄です。


6・25読書会について

抽選運強し
4月以来会場が心配だったが、このところ抽選運にはめぐまれている。6月につづいて8月予約も勤労福祉会館の会議室を確保することができた。この運が来年夏、東京芸術劇場オープンまでつづいてくれることを祈っています。           



『プロハルチン氏』とは何か

この作品に対する作者ドストエフスキーの思いや、この作品を読んだ批評家たちの評価は、このようであった。

V・G・ベリンスキー「1846年のロシア文学瞥見」から

『祖国雑報』第10号にドストエフスキー氏の第3作である中編『プロハルチン氏』が載っている。この作品はドストエフスキー氏の才能を崇拝していた者たちを一人残らず不快な驚きへ突きやった。そこには大いなる才能の存在を示す火花がきらめいてはいるが、そのきらめきは実に濃い闇に包まれているので、その光では読者は何一つはっきり見分けられないのである・・・我々に想像のつく限りでは、この奇妙な小説を生みだしたものは、インスピレーションでも、自由で素朴な創造力でもなく、何と言ったらよいのか、小賢しさともつかず、衒いともつかぬ何かである・・・ひょっとすると我々は間違っているかもしれない。しかし、それなら、どうしてこの作品はこんなわざとらしい、気どった、わけのわからぬものにならねばならなかったのか・・・

1846年9月17日兄ミハイル宛の手紙「自分の小説ではない!」
『プロハルチン氏』は、例の所(検閲)でひどい片輪にされてしまいました。例の所の旦那ときたら「官吏」という言葉まで禁止してしまいました。一体何のためにそんなことをしたのか、全然見当もつきません。そのままにしておいてもおよそ罪なき代物なのに、あらゆる個所でその言葉を削ってしまいました。残ったのは、ぼくが前にあなたに読んできかせたものの骨と皮ばかりです。これが自分の小説だとは認めたくはありません。

N・A・ドブロリューホフ『打ちのめされた人々』

この男(『プロハルチン氏』)の性格は、打ちひしがれた人たちはすべてそうであるが、臆病ということである。この男はおのが哲学は易々と崩れるものではないと固く信じている。しかし、実際の世の中では、病気、火災、上司の意向による思いがけない解職といったさまざまな不慮の災難が起るということも、この男は見て知っている・・・自分の境遇が不安定で、保障されていないという考えが、この貧しい男の頭にこびりついて離れなくなっていくのである・・・
プロハルチン氏は、事実、本物の自由思想家になったのだ。彼は単に自分の地位の安定を信じなくなったばかりではない。彼は、自分自身の従順な性格が変わらぬものであるということも信じなくなったのだ。




プロハルチン氏とは何か


1.作者は、なぜ、こんな男(プロハルチン氏)の小説を書こうと思ったのか。

訳者・米川正夫は、この謎に対しこのような解釈をしている。

父親をイメージしたのか?

いったいこの吝嗇のテーマが、どうしてドストエーフスキイの頭に浮かんだのだろう?もしこんな想像が許されるとすれば、彼は、自分の父親のことを念頭においていたのではあるまいか?彼の父親がはたして吝嗇漢であったかどうか明らかでないが、ドストエーフスキイ自身がそう感じていたことは、間違いなさそうである。

プーシキンの『吝嗇の騎士』剽窃か

プーシキンの詩劇『吝嗇の騎士』も、この際、重要な役割をつとめていることは、疑いをいれない。

『吝嗇の騎士』とプロハルチン氏との違い

老騎士とプロハルチンの根本的な相違は、前者が「われはこれにて足ろうなり」という、明確に意識されたモチーフの上に、傲然と立っているのに反して、後者の富の蓄積の動機が、ゆえ知らぬ不安から発していることである。

プロハルチン氏の罪

自分以外の存在は眼中になく、またしたがって、他人に対する愛などという感情は、みじんも持ち合わせていない。
 
プロハルチン氏とナポレオンの謎

訳者は、この作品で最も重要なこととして下宿人の一人であるマルクの言ったことに注目している。それは、この哀れな乞食同然のプロハルチン氏を、英雄ナポレオンに譬えたことである。
「いったいぜんたいあんたは何者なんだね?ふん、無一文の裸一貫だあ。いったい何かね。あんたはこの世に一人で生きているのかね?いったいこの世はあんたのためにつくられたのかね?いったいあんたはナポレオンか何かでもあるのかね?さあ、あんたは何者だ?だれだ?ナポレオンなのかね?ナポレオンか、そうでないのか、さあ、いいなさい。ナポレオンか、そうでないのか?」
訳者は、述べている。
「この取るにも足らぬ小役人とナポレオンとの間に、そもそもどんな関連があるのだろう?」
 訳者・米川正夫は、これについてこう推測している。
「この場合ドストエーフスキイは、他人など眼中になく、ただ自己中心の生き方をしているという意味で、ナポレオンという言葉を持ち出したものと想像される」

課題  →  ケチな小役人と稀代の英雄。両者をどう比較考察するか。




4・23読書会報告
                


読書会参加者17名 開催前・黙祷を捧ぐ

東日本大震災から1カ月半過ぎようとしているが、被災地の復旧は遅々として進んでいないようだ。加えて福島の原発事故は日増しに悪化の様相を呈している。こんな折りに、こんな折りだからこそ、と躊躇しながら開いた読書会。はたして、何名の参加者があるか、まったく予想がつかなかった。が、17名(後で1名駆けつけた)の参加者があった。今回から会場が変更になったことで、辿りつくまでに大変だった人が何人かいたようである。掲載地図に不備がありましたら、お詫び申し上げます。お疲れさまでした。
読書会開催の前、福井さんの提案で、1万数千人近い震災の死者・不明者に黙祷を捧げました。
『分身』は、作者の体験から書かれたのか

 三回目となった『分身』読書会は、下原康子さんが病理学からみた「『分身』は自己像幻視の症例報告である」を報告。関連の医学症例報告から物語は、ドストエフスキー自身の体験ではないかと検証した。※症例資料を配布
参加者の感想
「ジキルとハイド博士」「鼻」「六号室」を彷彿。「思想性のタネがある」「現実の話と思った」「新ゴリャートキンは人間の願望」「分裂者の悲劇は文学でしか書けない」など。




連 載  

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像                       35回:三島由紀夫の生と死、その運命の謎(1)
                          
福井勝也
 
序 論

 三島由紀夫は、1970年(昭和45年)11月25日午後零時10分過ぎ、陸上自衛隊市ヶ谷
駐屯地東部方面総監部総監室(益田兼利)で割腹自殺(享年満45歳10か月11日余)を遂げた。それから現在(2011年5月)までに、40年を越す年月が経過した。三島の死は、この間日本人に何を問うて来たのか。それに我々はどう応えてきたのか。現時点で私にその思考の反芻を促したものは、この時間の果てに伏在していた千年に一度という巨大地震・津波という出来事(東日本大震災)であった。今春の、その時(平成23年3.月11日午後2時46分)以来、なお併発した福島原発事故という一大事もあって、今までの時間の流れが断ち切られるような感覚に身が沈んだ。その感触に耐えながら、その底を探って行ったら、その果てに三島由紀夫が横たわっていたと言ったらどうか。そんな時空の結ぼれ方のなかで、三島由紀夫のことを想起し、自分の三島への思いを少しでも記しておきたい衝動に駆られた。同時に、今まで気が付かなかった三島が大切にした言葉が「天降り」(「あもり」)する偶然にも促された。その言葉を冒頭に掲げて今回の三島由紀夫論を始めたい。

「やまと歌」は「力をも入れずして天地(あめつち)を動かし」
(古今集序/紀貫之)

三島がこの言葉の真意を最初に問題にしたのは「古今集と新古今集」(s.42.1.1)という文章においてだが、自決に至る直前にもう一度取り上げる運びとなった。それは『日本文学小史』(『懐風藻と古今和歌集』「群像」s.45年6月号がその初出)という著作となったが、元々は「古今和歌集」まで執筆し、それがあたかも遺言のように中絶し未完のままになった連載文であった。それが死後そのまま単行本化された(s.47.11)かたちだ。論じられることが今までそれ程多くないが、三島由紀夫の文学理念を鮮明にした作品として重要であり、「古今集」をその文学的人生の究極に帰るべきところとして称揚した文章も注目すべきものだと思う。そのことは、武人としての死を選択した三島の最期と一見矛盾して見えるが、実はそうではないことも分かってくる。『日本文学小史』は、三島の生と死を考えるうえで十分に考察されてよい重要な遺著であることに今回気付かされた。

三島がその晩年十年位に抱いた危機感とは何であったのか。それこそ、戦後日本が辿り着いた混沌とした現実的な無秩序であった。その無秩序とは、単なる社会的あるいは文化的なものである以上に、作家である三島にとって詩的言語秩序の混乱としてあったはずだ。そして、「古今集」の文脈から大切なことは「力による領略ではなくて、詩的秩序による無秩序の領略」であって、そこに歌を詠む行為、すなわち「力をも入れずして天地(あめつち)を動かす」瞬間が生起して来る。三島にとっての「天皇」という問題もここを繋ぐ重要な要となって現出する。三島が『日本文学小史』巻頭でその「方法論」を論じた後、最初に取り上げたのが「古事記」であった。その後「万葉集」「懐風藻」そして「古今集」と取り上げてゆき、次の「源氏物語」を予告したところで中絶した。そしてこの「古事記」の最初から、統治者としての天皇(景行天皇)と祭祀者としての天皇(倭建命)の二者分離という日本歴史の根本問題が早々と説き明かされた。さらに、その二元的分裂を望ましいかたち(=「みやび」
による荒魂との文化的調和)で包み込むために編まれたのが、本邦初の勅撰和歌集である『古今和歌集』であった。ここに日本文学史はある頂点を迎えるに至った。そこに現れた力強い文化意思こそ紀貫之の古今集序の言葉であった。三島は最後に自分が帰るべきところとして『古今和歌集』に、そして紀貫之の古今集序の文章に心を寄せて運命を生きようとしたのだ。三島由紀夫は日本歴史の文字通りの「王道」を守ろうとしたことになる。そして、この守るべき「古今集」に代表される詩的言語秩序の「そのやうな究極の無力の力といふものを護るためならば、そのやうな脆い絶対の美を護るためならば、もののふが命を捨てる行動も当然であり、そこに私も命を賭けることができるやうな気がする」(「古今集と新古今集」)と語るに至った。彼が晩年説いた「文化防衛論」も「祭祀的、文化的天皇論」もそこから流れ出て来たものと理解できる。そして『日本文学小史』を書き遺した後、その言葉通り、もののふとしての実行に及んだのがまさに三島の最期の行為であったのだ。

この三島由紀夫の「古今集」の問題については、すでに何人かの批評家(虫明亜呂無、加藤典洋)が指摘し論じているのだが、今回自分が直接に触発を受けたのは、松本徹氏の著作『あめつちを動かす――三島由紀夫論集』(H.17)であった。そのなかで、氏は「三島は、文学の本質的働きをそういうところまで突き詰めた。そして、自らの文学をはじめ日本の文学を、その在り方をとる方向へと押しやろうとしたのである。三島は文学と行動とを対立的に言い、最後には文学を棄て、行動に走ったかのようだが、じつはその行動は<中略>日本の社会体制を、文学がその本質的働きをなし得るものとすべく、採ったものだったのである」と断言している。またその少し前段では、「文学は、現実世界で直接働く「力」と言うべきものをまったく持たないのである。そして、現実に直接働く「力」を持たず、現実とは直接係わり得ないところで、「力をも入れずしてあめつちを動かす」途が開けるのである」と語り、「その秘密は、<中略>文学の言語が、その国の正統的な文化秩序を形成し、かつ、その秩序を生き生きと働かせるところに潜む。そうするとき、人間の心や自然界を秩序づけ、美しくも雅やかな在り方を顕現させる。それはこの世界の在り方そのものを正すことだ。<中略>そして、このことが「あめつち」を「動かす」ことに繋がる」のだとその言葉の由来を明らかにしている。そして三島の心が「古今集」まで到達するには、終戦末期の<神風>飛来への祈念と絶望から、ただ無心に飛び立った<特攻隊>がその内心で一篇の詩として捉え直される、戦後の長い時間を費やした三島の心の転回(「新古今」から「古今」へ)が重要な事実として横たわっていた道筋にも言及されていた。

三島の文学的人生とその武人としての最期の行為をどう矛盾せずに理解すべきなのか、その謎を解かずして三島由紀夫の問題は理解不能であると考えていた自分に松本氏の著作は天恵であった。そして今回、おそらくそれだけではない偶然が作用した。松本氏の言葉の力もさることながら、今回実際に天変地異に遭遇させられて、三島がこれまで仕掛けておいた<時限装置>に触れた思いがした。文学の力、言葉の力の無力さを痛感しなければ一歩も前に進めない今日、やっと我々はあの最期に三島が感じた痛切な無力感に近づいているのではないか。圧倒的な自然の力と明治維新以降宿痾と化した近代西欧文明の終末的災厄によって、この日本は文字通り天地(あめつち)の秩序が揺らぎ、決定的な危機に瀕している。先祖が土地神に米を捧げるために耕し守り続けて来た国土を、日本人が自らの手で致命的なまでに穢してしまった。この国の政治(=政事「まつりごと」)の混迷は今や地を這うような体たらくに陥っている。今、何が求められているのか。日本語のちからではないか。日本人が培った詩的言語秩序(=「歌」)こそ呼び覚ます必要があるのではないか。三島は『日本文学小史』第五章、古今和歌集の項末尾近くで次のようにも語っていた。


「詩的統治に服しないのは、自然の罪でなければならない。かくて歌は、抒情から出て告発の形をとる。あるひは、告発のかたちをとることによつて、かうした公的な非難を自然に浴びせることによつて、はじめて抒情的真実の表現を可能にするのである。これが古今集の抒情を生む心理的パターンだとすれば、自然が不如意であればあるほど抒情が高まるという法則が成立つであろう。」

これ程自然に対峙する苛烈な言葉に出会ったためしがなかった。守るべきは、究極の力の源泉としての大和言葉の秩序であった。問題はそれをどう護り、それをどのように行使するのかにかかっている。無力故に「あめつち」を「動かす」言葉(あるいは「歌」)の力を守るために死を賭した三島を明確に捉え直してこそ、今回の国難を鎮めることが出来るのではないか。そう思い至った時、三島由紀夫の死姿が判然としたような気がした。この感触の意味を確かめようと畏れず筆を執ることにした。

前回からの流れを受けて、三島由紀夫論に突入する経過になった。実は、そのきっかけがドストエフスキーの『未成年』と関係していたことも一言しておく。『未成年』の主題が「偶然の家族」の主題を通じて、あの時代に決定的になったロシアの「型なし」(「ベズオーブラズヌイ」)という問題であった。三島が日本であの時期、命をかけて守ろうとした行為も、<日本のかたち>を「型なし」から救う捨て身の戦いとしてあったのだ。(2011.6.3)





ドストエフスキーの理念  3月11日のラスコーリニコフ

                            
江原あき子

真っ暗な道。行けども行けども誰もいない。遠くに明かりが見える。そこは駅らしいが、なかなかそこに、たどり着けない。―これは、私が精神的に不安定な時に見る夢である。3月14日の夜、私はこの夢を見た。原子力発電所が爆発を起こし、街では買占めが始まっていた。続く余震と停電。高齢者を抱える私は、どこへも出かけられず、今まで気軽に“日常”と呼んでいたものが、いかに多くの犠牲をはらって得たものであったのか、その時初めて、知ったのだった。これらが、私の悪夢の原因だ。人間には時々、精神やら、意識やらでは制御できないことが起こる。悪夢はそのひとつで、これはドストエフスキーが教えてくれたことだ。「頭が病的な状態にある時に見る夢は、しばしば特色として不思議な立体性と、鮮明さと、現実に対する異常な類似とを持つものである。どうかすると、奇怪な場面の現れることもあるが、その場合にも、場面の配置や過程ぜんたいは、いかにも微妙な、突飛な、それでいて場面の内容を充実させる上でいかにもよく芸術的に調和した詳細を持つもので、この点ばかりは、当の夢見る人が、かりにプーシキンとかツルゲーネフとかいうような芸術家であったとしても、現実ではとうてい考えつくこともできないだろうと思われるくらいである。そしてこうした夢、病的な夢は、必ず長いこと記憶に残って、調子が乱れて興奮しきっている人間の組織に、強烈な印象を与えるものである。」(『罪と罰』第1編より)ラスコーリニコフは殺人を犯す直前にソーニャはその殺人の告白をうけた直後にスヴィドゥリガイロフは自殺の直前に、それぞれ悪夢を見る。ソーニャの夢の記述はない。しかし殺人の告白を受けて彼女がどんな悪夢にうなされたのか、だいたいの想像はつく。スヴィドゥリガイロフの夢は、これは彼が人生の最後に得た、唯一の真実であったのだろう。助けを求めている幼い少女。しかしスヴィドゥリガイロフがいざ、助けの手をさしのべると、精神の未熟さとは裏腹に、性的な成熟ぶりを見せつけて助けた人間をぞっとさせる。これはスヴィドウリガイロフの姿そのままだ。彼とドゥーニャとの関係もこんなふうに、おぞましいものであったのだ。現実との類似、というのにはあまりに残酷だ。しかもこれが、彼が最後に見た夢であったとは。

そしてラスコーリニコフの夢。彼が7歳の時やせ馬が虐待されるのを見た、その時の夢。死んだ馬にとりすがって泣いた7歳のラスコーリニコフ。大人になった彼が出会った女性、ソーニャ。彼女は娼婦をして、一家を支えている。継母は、彼女を冷遇している。その継母は死の直前にソーニャの名を呼び、こう言う。「さようなら、不幸なひと! 皆でやせ馬を乗りつぶしたのだ! 」ラスコーリニコフが幼い時、心から同情の涙を流したやせ馬は、ソーニャという不幸な女性の姿となってもう一度現れた。ポルフィーリーはラスコーリニコフにこう言う。「あなたは、われわれを離れては、どうすることもできやしませんよ」ラスコーリニコフは決してわれわれ人間(の苦しみ)から離れることができないのだ。悪夢は、彼にそう、告げた。今、『罪と罰』を読んで思うのはラスコーリニコフに感じる深い共感だ。ラスコーリニコフが犯罪を犯す以前に貧しい大学生を助けたことや、火事から子供を助けたくだりを読みながら、彼が“太陽の人”として、もう一度復活することを心から願った。時代などなんだろう。物欲にまみれた文明社会は、彼を歪んだ正義に導き、本来の彼の姿から彼自身を遠ざけた。彼の本当の姿、それはいつでも人々の苦しみとともにありたい、と願う姿である。私が最初に冒頭の悪夢を見たのは、福島で、だった。苦しみの中で私はドストエフスキーに出会った。東北の乾いた空気の中でむさぼるようにドストエフスキーを読む自分の姿を今、思い出す。3月14日、夢は私が新たな苦しみに出会ってしまったことを、私自身に告げた。でも今私は苦しみとともにあろう、と思っている。もう、とうがたっている私は太陽として人々に仰ぎ見てもらえるのなら、苦しむことも少しは怖くない、と思った。だって、お金持ちになるより、権力を得ることより、苦しみとともにある人の方が、人々の敬愛を受けるのだということを、3月11日のことで私たちは知ってしまったではないか。また悪夢を見てしまったとしてもドストエフスキーを読みながら心の中でこう、叫ぼう。「苦しみの中にこそ理想がある! 」




編集室

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