ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No125  発行:2011.4.15


第244回4月読書会のお知らせ


月 日 : 2011年4月23日(土)

場 所 : 豊島区立勤労福祉会館第2会議室
(池袋西口徒歩5分).03-3980-3131                 

開 場 : 午後1時30分 

開 催 : 午後2時00分 〜 4時45分

作 品 : 『分身』第二回目

報告者 : 下原康子さん        

会  費 → 1000円(学生500円)
二次会(近くのお店) → 5時10分 〜



お知らせ
 
3月11日の東日本大震災並びに原発避難で被災された方々には、心よりお見舞い申し上げると共に一日も早い復旧復興をお祈り申し上げます
東京芸術劇場が、施設の改修工事のため平成23年4月1日 〜 平成24年8月31日まで全面休館となります。このため会場と開催日が変則的になります。ご了承ください。
          
6月読書会の会場は「豊島区立勤労福祉会館」第7会議室です。
(東京芸術劇場の近くです。池袋警察署の隣り) 抽選で第3土曜日になりました。

開催日 :  6月25日(土) 午後2時〜5時迄です 





読書会開催の意義


 前号、この欄で「今年は、なにやら混迷の予感がします」と書きました。が、悪いことに正夢となってしまいました。3月11日午後2時46分に東北沖で発生した大地震は、大津波を起こして500キロに及ぶ沿岸の市町村を破壊し尽くした。そして、文明社会の拠り所である原発の安全神話をも打ち砕いてしまった。
 この未曾有の大災害に、私たちは人間の弱さ、科学文明の脆さを知った。終わらぬ悲しみと恐怖。この中に幸いを見つけるとすれば、花咲く春の訪れとアリョーシャ・カラマーゾフの魂の具現化だろう。被災者に共感する心は、いまや日本全土にとどまらず国境を越え、民族、宗教の垣根を超えて全世界に広がっている。たった一つでも楽しい思い出があれば人は救済される。多くの悲劇と、つづく余震、そして原発不安。暗黒は果てないが、アリョーシャの思いに微かな道標の光をみるのである。希望を託すのである。
それにしても自然の猛威と、文明社会を謳歌するために作りだした永久エネルギーの恐怖はいかばかりか。人類は開闢以来の難局にある。その中で我々は何をすべきか。
ドストエフスキーを愛読するある者は、あの光景を思い出すに違いない。30余年前、空爆で破壊されたテヘランの街のニュースである。ガレキの下に垣間見えた一冊の本の表紙。ズームされた映像にドストエフスキーの肖像が浮かび上がった。爆弾降る戦乱のさ中にもドストエフスキーを読んでいた人がいた。その事実に驚き、感動した。そして、それは多くの人々に勇気と希望を与えた。
読書会を開催すること。この活動は、災害下の非常時にあって、もしかしてちっぽけな地下室者たちの大いなる「我欲」かも知れない。だが、こうも思えるのです。この40年間の開催のなかで、今年ほど、開催することに「意義」を感じることはなかったか、とも。(編集室)




4月23日読書会 報告要旨

『分身』は自己像幻視の症例報告では? 
               
下原 康子

マホメット、ソクラテス、カエサル、パウロ、ジャンヌ・ダルク、ナポレオン、フローベル、ゴッホなどなど、てんかんであったとされる有名人は数多い。神秘体験を連想する人物が多いのに気づく。その中にあって、本人・医師・家族/友人が残した証言や記録から医学的にもてんかんと認められているのが南方熊楠とドストエフスキーである。

ちなみに米国立医学図書館がインターネットで無料公開している世界最大の医学データベースPubMedで、‘dostoevsky epilepsy’と入れてサーチすると現在28件がヒットする。病歴、鑑別診断などの医学的テーマが作家の作品との関連で論じられている。

中でも論争の的になっているのが、ムイシュキンとキリーロフに「全生涯を投げうってもよい」と言わしめたかの「歓喜の瞬間」が作家の創造か、はたまた現実に経験したてんかんの発作(前兆)であったのか、という点である。しかしながら近年「歓喜」を呈するてんかんの精神発作の症例がぽつりぽつりと報告されるようになり(日本にも1件ある)現在では「ドストエフスキーてんかん」は定説になりつつある。

さて、今回、『分身』はドストエフスキー自身の自己像幻視体験を描いた作品ではないだろうか、という大胆なアイディアを提案してみた。精神医学の分野において、自己像幻視は統合失調症やてんかんの症状として現れることがあるという。

『分身』を注意深く読めばわかることだが、新ゴリャートキンの姿が見えるのは、ゴリャートキン自身と読者だけである。新ゴリャートキンはゴリャートキンの自己像幻視ではないか。映画「シックス・センス」のネタ、「ビューティフル・マインド」の主人公の精神病理も幻視がモチーフになっている。

自己像幻視に関する医学論文を検索してみた。PubMedでは5件がヒットした。
[ドストエフスキー、てんかん]×[ 分身、自己(像)幻視、二重身(体験)、double、autoscopy] 

「自己像幻視の症例」はそもそも稀な症状なので、ドストエフスキーの限定をはずしても文献はそう多くはない。しかし、「歓喜発作の症例」よりは明らかに多かった。医学者よりもこの特異な現象(ドッペルゲンガーと呼ばれる)に注目したのは、古今東西の作家たちである。かれらの中には自らの体験として作品の中に自己像幻視を描いた作家もあったと思われる。(ホフマン,ポー,ドストエフスキー,芥川竜之介ら)

以下は、日本で『分身』をとりあげた唯一(と思われる)医学論文からの抜粋である。

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古川哲雄:自己幻視 <原典・古典の紹介> 神経内科53:566-571,2000 

自己幻視は古くより知られていたが、1891年Charles Fereにより医学の対象として取り上げられるようになった。人間の精神現象を考える上では極めて興味ある特異な幻視であるが、未だ文学のテーマではあっても医学が取り扱いかねている現象の一つである。

文学作品中に見られる自己幻視の代表格はドストエフスキーの『分身』であろう。この作品は、主人公のゴリャートキンが自己幻覚につきまとわれるものであり、自己幻覚そのものが主題になっている。
(中略)
この作品は発表された時は評論家ベリンスキーも失敗作であると断定したほど評判は悪く、現在でもそう読まれる作品ではない。この現象を経験したことのない人にとっては幻想的な駄作としか考えられないであろうが、経験した人にとっては興味深いものであろう。

ドストエフスキーがこれを自信をもって発表したのは彼自身この体験があったからではなかろうか?そうでなければこれほどの記載は不可能であろう。ついでながら、彼の記載はクローン人間を考える上で参考になる。筆者自身は幸か不幸かこの体験はなく、医学的な興味で読んでいるのである。

自己幻視は全身のこともあり、身体の一部、とくに顔面のこともある。その意味でゴーゴリの『鼻』も自己幻視を扱った文学の一つに入れるべきではなかろうか?

**************************************************

自己像幻視(二重身体験)の“発見”は、ドストエフスキーの他の作品の人物への連想へとつながった。
『罪と罰』のスヴィドリガイロフはラスコールニコフに「君は幽霊を見たことがあるか?」と聞き、自分は死んだ妻マルファを見たと話す。自殺の直前に遭遇した少女も幻視を思わせる。『悪霊』のスタブローギンの前に現れるマトリョーシャの姿や『未成年』の聖像を割るヴェルシーロフも二重身を連想させる。その中でも最高の表現は『カラマーゾフの兄弟』のイワンと悪魔だろう。
改めて一筋縄ではいかないドストエフスキー作品の深さを思い知らされた。注意深く繰り返し読み続けていきたい、あらためてそう思った。


付録:東日本大震災の翌月の報告であったため、以下のアイディアが浮かびました。


          てんかん発作と地震のアナロジー

てんかん発作

地 震

場 所

脳内

地球

エネルギー

脳内電気

地球が形成される際の衝突エネルギーによって蓄えられた熱地球の中心部分(コア)にある放射性元素の崩壊によるもの

太陽エネルギー

予 知

×

成 因

メカニズム

大脳ニューロンの過剰な放電

地下の断層のずれ

発 生

突然 

突然

頻 度

反復性

反復性

防 止

×

×

防 御

投薬 外科手術

防災対策

分 類

全般発作 部分発作

プレート間 プレート内 火山性 など

予 兆

前兆

前震(大きな地震でも1割程度)

事 後

後遺症

津波 余震

深刻度

難治度

マグニチュード

モニタリング

脳波 CT,MRI,PET など 

震度計 モニタリングシステム 






『分身』は「滅びていく心の解剖図」V・N・マイコフ

 ゴーゴリもドストエフスキー氏も現実のこの世の中を描いている。しかし、ゴーゴリはどちらかといえば社会的詩人であり、ドストエフスキー氏は断然心理学的詩人である。前者にとって個はある社会にとって個はある社会、もしくはあるある集団を代表する者として重要なのであり、後者にとっては、、社会そのものは、それが個の性格に及ぼす影響のゆえに興味あるものなのである・・・・・・・・・
 『分身』が諸君の眼前に展開してくれるのは、きちんと整っている社会の中で、自分の個人的な欲求が四方八方へ分裂してゆくという意識が因で滅びゆく心の解剖図である・・・
(1846年のロシアの文学についての数言)

「打ちのめされた人たち」N・A・ドブロリューボフ(批評家)

 彼は、打ちひしがれ、途方にくれ、個性を奪われてしまった人間の中にも、生き生きとした、断じて圧し殺されることのない、人間らしい本性への志向と欲求があることを明らかにし、そのことを我々に示してくれる。・・・・
 ゴリャートキンのような打ちひしがれた人々、実際にぼろきれみたいになってしまった人々。音も立てず、口答えもせず、といってやはりときどきは何かの拍子に存在を知らせる何やら人間らしいものの残骸を汚らしい皺の間にとどめているに過ぎない人たち…そういう人々の性格をこれ以上巧みにとらえることは出来ないように思う。




プレイバック読書会
      

40年前の読書会・1971年5月15日

『分身』      
報告者・湯浅武久

 第二回の読書会は、第一回の『貧しき人びと』につづいて、5月15日、『分身』をテキストにひらかれた。参加者は前回と同様12名。
 まず最初に、会報12号に載せられたヴァレリアン・マイコフの『分身』に対する見方が紹介され、それについての意見がもとめられた。前回の『貧しき人びと』の場合、その作品にみられる表現は、現在創作する立場からすれば、古めかしく参考にならないという感想が一部の人から述べられたが、今回の『分身』に関しては、“マイコフの見解がよく理解できる”いま読んでみても生々しい、という発現が多かった。私達はマイコフの見解を待つまでもなく、『分身』以後のドストエーフスキイの創作活動をみるとき、この作品の重要性を知りうるのだが、この作品のいたるところにあらわれる〈逃げ場のないやるせなさ〉が読んでいて自分のことのように、ひしひしと感じられるということだった。
 しかし、ゴリャートキンの分身があまりに独立した性格を持ちすぎているために、作品として失敗している。という意見が出されたのをきっかけに、この作品の「分身」解釈が別れ、新ゴリャートキンはあくまでゴリャートキンの内部の声と見る見方と、実際に新ゴリャートキン的な人物が存在していて、その人物に自己の分身を見出したのだという見方がだされた。それとともに、ゴリャートキンは実際に狂人になったのか否かという点で多少意見がわかれたが、そうした点で、ゴーゴリの『狂人日記』、チェーホフの『六号室』がこの作品と比較で語られた。
 つぎにドストエーフスキイの後期の作品との関係で『分身』をみるとき、『地下生活者の手記』の主人公が口にし、『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンの系譜にまでつながる、独立独歩の人間が、すでにこの作品の主人公ゴリャートキンの言葉の中に生まれていることが指摘され、それとともに、この小説の中に流れている四つの声、ゴリャートキンが他者に語りかける声、ゴリャートキンが自分に向かって言う声、ゴリャートキンの分身の声、語り手の声、が後期の作品においてはそれぞれ独立した人格を持ち、ホリフォニイ小説の完成へとむかっていく新谷氏の論が紹介された。
 たしかに『分身』はドストエーフスキイの作品の中で重要な位置を占めるものであり、そのことは、かれが、シベリア流刑以後においても、しばしば改作を志していることからみても明らかなのであるが、そうした「意味」をこの作品から掘りおこすという点では、今回の読書会はまだ不十分であったと言えるだろう。意見が多少散発ぎみであったこと、そのために個々の論点があいまいなままに残されたことなどが原因だが、もうひとつ今回の読書会では『貧しき人びと』とのつながりでこの作品を見る視点が欠けていたといえないだろうか。処女作と第二作との間にある小説構成その他の変化を、「僕にとって単純さは破滅だ」と語るドストエーフスキイの言葉などと関連させて、もう少し緻密に考察してゆけば、ゴリャートキの言う、仮面をかぶらない人間の背景に、ドストエーフスキイの創造の秘密に、さらには、前回から持ちこされた「虚構性」小説形式、の問題にも、あらたな証明をあたえることができるのではないかと思われる。

※V・マイコフ:詩人アポロン・マイコフの弟。1847年24歳で水死した有能な批評家。『分身』以後の作品に否定的だったベリンスキイとは反対に、「秩序だてられた社会で、個人的利害のとりとめのなさを意識するあまりに破滅してしまったたましいをわれわれに解剖して見せる」もので時代の要求に最もかなっており、なかでも『分身』は『貧しき人々』を抜く作品であると評価した。「会報12号」





2・12読書会報告
                

個のなくなった映画と『分身』を語る・江原あき子さん

 報告者の江原あき子さんは、かって楽しんだ、時には感動した映画が今見るとつまらない、面白くなくなったと話された。理由は、ハリウッド映画に「ひとりの“個人”を見つけることは非常に、むずかしくなった」ためだという。『分身』から感じた差別意識が、どんどん浮き彫りにされてきた。とくに9・11以降とくに強くなった。小説もまた同じ、「個人の意識、無意識まで踏み込むその感情の起伏」を描ける作家がいない。故に、現代は「国家権力が働き、個人のモロさを感じる」社会と評した。結論として、徹頭徹尾個人の精神世界の闇をさらけ出した『分身』を読むことは、大いに意義のあることと結んだ。

『分身』の参加者全員の感想・批評

 江原報告と『分身』を読んで、どのような印象や感想をもったか。参加者一人一人が意見・感想・評を述べ合いました。以下は、印象に残った発言です。

・「差別意識を持ち易い」
・「モノローグのような小説。理解しずらい」
・「読むのは二度目。十数年前に種の会で読んだ。トルストイの『幼年時代』より劣るが、比較すると、この作品もなかなか」
・「切れ味は、情緒性。物語性は悪くないが、後期作品に比べ拙作」
・「差別と分身がどう繋がるか。『地下室の手記』っぽい人」
・「人間は追いつめられると差別意識がでる」ミッシュル『素粒子』を紹介
・「『貧しき人々』より面白かった」
・「4,5回読んだ。内的で攻撃的にならない。読後感は『貧しき人々』。妄想の世界か」
・「国家意識が出てくると個人の意識が鈍ってくる。嫌な人間は、自分に似ている」・「人と神、人と人との関係。ヘッセの『荒野の狼』を読んだ。救われている」
・「『分身』の方が面白い。」
・「症例報告の小説」
・「差別者ではない」
・「映画の力は強い」「精神患者のルポタージュ小説のようだ」




ドストエフスキー文献情報


最新ドスト情報(4・10) 提供・【ド翁文庫】佐藤徹夫さん

*図書

・『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』 フロイト著 中山元訳 光文社 2011.2.20
     \914 340p 15.3cm <光文社古典新訳文庫・K B 7 1-3>
     ・ドストエフスキーと父親殺し(一九二八年) p233-280
・『ドストエフスキーを読みつづけて』 下原敏彦、下原康子著 D文学研究所(発売:星雲社)
     2011.2.20 \2800 288p 21.6cm 付:栞
・『ドストエフスキイと日本文化 ―漱石・春樹、そして伊坂幸太郎まで』 井桁貞義著 教育
     評論社 2011.3.26 \2800 254p 19.5cm

*逐次刊行物

・<本> 二元論のねじれ 『ドストエフスキー』―山城むつみ/亀山郁夫
     「新潮」 108(3)=1274(2011.2.7=2011.3月号) p252-253
・ドストエフスキーの預言 第二十二回 ヤン・ドゥス/佐藤優 p242-253
・<文學界図書室> 「ドストエフスキー」山城むつみ  奇蹟、または賜物としての「合意」に
     向けて―ドストエフスキー批評の新地平/沼野充義 p268-269
     「文學界」 65(3)(2011.3.1)
・<記念講演> 「黙過」から「共苦」へ ―ドストエフスキーと現代―/亀山郁夫
     「平成22年度 第96回 全国図書館大会奈良大会記録」(同委員会編・刊 2011.
      3.3 273p 29.8cm) p31-49
     *概要は、既に「週刊読書人」の2863(2010.11.5)号に掲載された。
・<特集 読書> 私は成熟した/亀山郁夫 *「悪霊」翻訳の周辺
     「學鐙」 108(1)(2011.3.5) p10-13
・ドストエフスキーの預言 第二十三回 ゲルハルト・バサラーク/佐藤優
     「文學界」 65(4)(2011.4.1) p242-253
・<対談> 『ドストエフスキー』の出発点/富岡幸一郎+山城むつみ
     「群像」 66(5)(2011.5.1) p118-133
・ドストエフスキーの預言 第二十四回 ほんものの無神論/佐藤優
     「文學界」 65(5)(2011.5.1) p238-249
*DVD

・罪と罰 ドストエフスキー原作 2007年・ロシア作品
     アイ・ヴィー・シー IVCF-5434 (4枚組) \12000





連載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像  
34回 東日本大震災について(特別稿)
                            
福井勝也
 
 桜の開花が都内でも満開を迎えているが、強風も時折吹いたりして何か申し訳なさそうに早々と散り始めている。3月11日の午後2時46分に東北三陸沖海底を震源とした巨大地震(M9)は、まもなく大津波を誘発して日本列島東北太平洋岸を一気に襲った。被災者は一ヶ月を過ぎた本日現在、死亡13,013人と安否不明14,608人、さらに16万人以上の人々が岩手、宮城、福島の3県を中心に全47都道府県に及んで避難生活を続けている(4/11付朝日朝刊)。今回の大災害は「東日本大震災」と正式に名称が付されたが、その被害の全容は未だ確定されず、なお現在進行形の歴史的大惨事となっている。その事態を危機的にしているのが、地震・津波に連動して起きた東京電力福島第一原子力発電所の原発事故だ。ダメージを受けた複数の原子炉から高濃度の放射能が漏れ続け、汚染水を仕方なく?海に放出する事態にまで至っている。先例として79年のスリーマイル島事故(米)と86年のチェルノブイリ事故(旧ソ連)との比較がなされてきた。当初の期待を裏切るように、炉心溶融・水素爆発・放射能漏出から近隣住民の避難・待避命令まで辿った現在、事故発生後12日で放射能漏出が止まり避難解除となったスリーマイル島型から、より深刻な放射能被害を広範囲に拡散させたチェルノブイリ型に近づきつつあるようでまったく予断を許さない。
 
 今後、現在の事態がどう沈静化するにしても、単なる一過性の天災としてやり過ごすことのできない未経験の危機に私たちは長期間晒されるに違いない。それは、これから日本人にさまざまな選択を強いるものになるだろう。その意味では、143年前の明治維新、66年前の敗戦とも比較可能な「国難」と日々向き合っていると言える。それは、今回の大惨事が地震・津波という自然災害の他に、あってはならない原発事故という歴史的人災を重ねてしまったからだ。しかし考えてみれば、今回の事態は日本国がこれまで採ってきた歴史的選択の結果であって、それは日本人全体が引き受けねばならない「罪過」として生じた。しかし短兵急に、その責任の所在=スケープゴートを見つけ出して一件落着させてはならない。この事と問われねばならない当事者の東電、政府関係機関等の法的・道義的責任とは別問題であって、とにかく「罪過」は生きている日本人皆の問題だ。
 
 明治維新で近代国家を目指した時から、あるいは敗戦からの復興という新たな国造りに梶を切った時から今日まで、この国の国是が近代化の推進という道筋からそれたことは一度もなかった。「近代化」の歴史的な代名詞は「鉄と電力」であったが、その総力を注いで戦われた世界戦争であれだけの犠牲(広島、長崎の原爆被害等)を払いながらも、私たちは「ひるまず」この国の更なる「近代化」を推進してきた。その行き着いた先で引き寄せたのが、今回の自然災害に誘発された人的災害としての原発事故であった。本来、手を染めてはならない神(あるいは悪魔)の領域に踏み込んでしまって、暴れ出した「業火」を制御する困難に我々は今苦しんでいる。何より今日取り組むべきことは、起こっている事の徹底した情報公開のもとに、日本人の英知を結集して(世界にも働きかけて)原発事故の沈静化を図ることに違いない。しかしさらに困難な課題はむしろその後に控えている。今回許されない禁じ手こそ、ある意味で日本人的な「喉元過ぎれば〜」の二の舞を絶対に踏まないことだ。その事こそ肝に命ずるべき時だろう。この災害の機会を、日本という国のあり方を根本から見直す天から与えられた千載一遇の「好機」とする必要がある。そのような回路こそが、今回の犠牲者に対する未来へ向けた真率な供養であるはずだ。はっきり言おう。私たちにとって「3.11」とは、明治維新以降の近代化路線を終わらせ、新たな初めの一歩、それは単に原発中止に止まらない、日本人の生活環境・生き方全般の見直しを図る仕切直しにしなければならない。

その前提として、日本人全体がその「精神的再生」を遂げるための深い「内省力」を取り戻すことが今こそ求められていると思う。そのためにこそ、文学・思想における言葉の力と日本人が自前で培ってきた信仰心(「大和心」)の力を改めて目覚めさせなければならない。
 ここでもう少し具体的に考えるために、東日本大震災発生以降語られた幾つかの言説を問題にしたいと思う。まずは、東京都知事で4期目当選を果たした作家石原慎太郎の「天罰」発言について触れる。結局、発言後まもなく、余りにも被災者への配慮を欠いた「暴言」ということで陳謝の意が表明されたが、結果的には選挙にそれ程の影響を及ぼさなかったようだ。明治維新以降、日本の、またその首都である東京の享楽的なまでの「繁栄」が、例えば福島原発や今回被災地の中心である東北地方のさまざまな「犠牲」のうえに成り立ってきた歴史事実は明らかだ。そのうえで、今回の計画停電すら免除された東京中心区のトップの発言であってみれば、まあ、いかにも軽々な発言であったとの謗りを免れまい。しかし石原発言をこのレベルで批判するだけでは「勿体ない」とも思うのだ。「天罰」という言葉には、その言葉を受けた者(=日本人)に真の「内省」を迫る語彙としての言葉の力が込められている。不用意な作家石原慎太郎の言説には、この「天罰」という言葉の<言霊>が働いたのであって、近代化至上主義がもたらした日本人の「倨傲」(石原氏の「我意」)を討つ言葉としては真っ当に発せられたのではなかったか。
 
さらにこの言葉の背景には、「日本人が日本の文化が培ってきた自然の持つ力には逆らえないという諦観」(ドナルド・キーン発言、4/6朝日新聞夕刊)も潜在していると思う。外国メディアによって被災地の状況が世界各国に報道され、危機的状態にあっても取り乱すことなく、他人を労る日本人の姿がさまざまに紹介され賞賛されもした。実は、この日本人の態度こそ我々が先祖から受け継いだ尊い宗教的心性(=自然への畏敬・崇拝と共苦する同胞への憐憫)の発露であって、決して自然災害に遭遇しての消極的な諦め意味だけに尽きるものではない。今回の事態は深いところで、この日本人本来の心のあり方を被災者のみならず多くの日本人に甦らせた。それこそ天の恵みであったのだと思う。そのことを大変率直に、被災者と国民を結ぶかたちで、ビデオ・メッセージ(3/16放送)で語りかけられたのが他ならぬ天皇陛下であった。昭和天皇の玉音放送以来と言われる国民への直接のお言葉は、平易ながらも日本人が今とるべき行動とその持つべき心の持ち方の急所に触れた真のやさしさに溢れるものであった。自主停電を率先実施されているという姿勢にも頭が下がる。是非全文のお言葉をインターネット等で視聴していただきたい。

 さらに、朝日新聞記事の見出し「危機に挽回 国民の良心 内村鑑三、関東大震災に記
す」(4/4、夕刊)を見て、無教会主義のキリスト教伝道者として知られる内村鑑三(1861〜1930)が、関東大震災に遭遇した時の記述が紹介されていて、その語気の強さに惹き付けられ今回の事態に通ずる内容だと感じた。

 「新日本の建設はここに始まらんとしています。私は帝都の荒廃を目撃しながら涙の内に日本万歳を唱えます」「国民全体の罪を贖わんために死んだのであります」「しかし挽回したものは国民の良心であります」

 中程の引用文は、石原発言以上に戸惑いを喚起する言葉にも聞こえるが、この内村の記述が紹介された会(内村生誕150周年記念講演会・3/19)の主催者?の補足的説明も念のため併せて記しておこう。「彼が説いたのは滅亡のための滅亡ではない。日本、人類、自然環境を危機から救い出してほしいという神への祈り」であるということだ。この当時の内村の思いは、今日の私たちの思いと共通している。さらに原発事故という終末的危機状況に遭遇している今日こそ、その神(天)への祈りはより切迫している。

 実は、今回地震発生以前に前田英樹氏の近著『信徒 内村鑑三』(2011.2/河出ブックス)を読み終えたばかりであった。明治人内村鑑三というと、教科書的な説明(無教会主義のキリスト者)だけで思考停止してしまいがちだが、その実像を平易な言葉で魅力十分に紹介する好著で、その宗教者・思想家としての生涯を深く理解させていただいた。何よりも彼の熱烈なキリストへの思いが、日本人が営々と培った信仰心(例えば、鎌倉新仏教の開祖達、本居宣長等の江戸期国学者他、それらに導かれた時々の民衆)に接ぎ木され顕現した「純信仰」であることを教えられた。この脈々と続く日本人の精神性の系譜への着目こそ、多神教的アニミズム=日本人無宗教説の浅薄さを明らかにするものであって、日本人固有の信仰の強度を気付かせてくれる。今回の大災害に対応する日本人の行動原理こそ、この深いところで眠っていた信仰心が覚醒されたものであるに違いない。その点で今回タイムリーな読書だと思った。なお読みながら、しきりに「ドストエフスキーにおけるキリスト」という問題が重ねて思い起こされた。両者の単独者としての、教会とかドグマを離れてキリストそのものと向かい合う「内省力」の強力な発露である「作品」と「伝道」。その背景にあるロシア人と日本人の信仰。深刻な原発事故が何故、ロシアとこの日本を見舞ったのか、その「選ばれた偶然」について考え込まされた。もう一冊、前田氏の近著『日本人の信仰心』(2010.12/筑摩選書)についても触れたいが紙数が尽きた。 (2011.4.11)




第245回6月読書会
 
 月 日 : 2011年・平成23年6月 25 日(土)
 時 間 : 午後2時00分〜4時45分
 会 場 : 豊島区勤労福祉会館第7会議室
 作 品 : 『分身』or『プロハルチン氏』(発表順)
 報告者 : 未定

ドストエーフスキイの会第203回例会

 月 日 : 2011年・平成23年5月14日(土)
 時 間 : 午後1時30〜5時00分
 会 場 : 千駄ヶ谷区民会館 JR原宿駅徒歩7分 
 報告者 : 近藤靖宏氏




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