ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No124  発行:2011.2.4



第243回2月読書会のお知らせ


月 日 : 2011年2月12日(土)
場 所 : 東京芸術劇場小7会議室(池袋西口徒歩3分)
開 場 : 午後1時30分 
開 催 : 午後2時00分 〜 4時45分
作 品 : 『分身』第一回
報告者 : 江原あき子さん        

会 費 → 1000円(学生500円)




お知らせ

会場の東京芸術劇場が、施設の改修工事並びにリニューアルオープン準備のため下記の期間全面休館となります。
      平成23年4月1日 〜 平成24年8月31日まで

このため、会場を他所に探します。都合で開催日が変則的になるかと思います。ご了承ください。なお、休館情報が遅れましたこと、お詫び申し上げます。
「読書会通信」編集室
4月読書会の会場は「豊島区立勤労福祉会館」第2会議室です。
(東京芸術劇場の近くです。池袋警察署の隣り) 抽選で第4土曜日になりました。

開催日 :  4月23日(土) 午後2時〜5時迄です 




2011年、本年もよろしくお願い申し上げます

 前頁でお知らせしたように、今年はなにやら混迷の予感がします。せっかくのうさぎ年ですが、駆けようにも行き先定まらぬ状態。順調に発進したアサドクも、まさかの落とし穴です。発足40年目の蹉跌。が、思えば、これまでが平穏無事、安穏過ぎた気かします。5サイクルは、1作目を終え、湾外に出たばかりなのに、海図なき航海となったようです。が、これも新たな試練。集う一人一人が、水先案内人となって、ドスト丸を進めましょう。その意味では、まさに新しい旅立ちといえます。


2月12日読書会

 今年最初の作品は、2作目の『分身』です。この作品をドストエフスキーは、自信を持って発表した。が、意外にも不評だった。ボロクソだった。天国から地獄とは、まさにこのこと。以後、ドストエフスキーは辛苦をなめることになる。作家にとってさんざんな作品だったが、後世、日本で、その評価が見直された。駄作か傑作か、賛否両論の作品、同一人だが愚者と賢者二人の主人公の物語。5サイクルいる読者は、どう読んでいくか楽しみです。
 今回の報告は、本通信で映画評を発表している江原あき子さんです。


2011年 〜 個人への旅 〜

江原あき子

 私はいつからハリウッド映画を観なくなったのだろう。昔涙した数々のハリウッド映画。今観ると、ひどく違和感を覚える。感じるのは異文化や、マイノリティーに対するあまりに無邪気な反応だろうか。9.11以降、異質なものに対する表現がどんどん萎縮するなか、ハリウッド映画からは民族が消え、民族の習慣が消え、マイノリティーたちの生活やその喜びと悲しみも消えた。今やハリウッド映画にひとりの“個人”を見つけることは非常に、むずかしくなった。
 私は小説も読まなくなった。理由はハリウッド映画を観なくなった理由と同じ。私が読みたいのは一個の個人、無意識まで踏み込むその感情の起伏、その個人の唯一無二の感情の表現。その表現がどんなに奇妙で排他的であろうとも、いや、むしろ奇妙で排他的であることこそが、その個人を他者から際立たせ、その作品を輝かせるのだ。こういった表現についてドストエフスキーの右に出る小説家はいない。そして残念ながらドストエフスキーはもう、二度と現われないだろう。19世紀は遠くなった。そして私にとってハリウッド映画も遠い存在になったのである。
 今回は1970年代から現在までの映画の様々な表現をご紹介しながら、ドストエフスキーの表現の魅力を『分身』の中からお話します。

ご紹介する映画のラインナップ

『狼たちの午後』(1975年 アメリカ)
『ディアハンター』(1978年 アメリカ)
『バクダッドカフェ』(1987年 アメリカ/ドイツ)
『デッドマンウォーキング』(1995年 アメリカ)
『戦場でワルツを』(2008年 イスラエル)
『スプリングフィーバー』(2009年 中国/フランス)





『分身』とは何か
   (編集室)

【『分身』に関する書簡】1846年2月1日 兄ミハイルへ(書簡抜粋)

 ・・・・。今日ゴリャードキンが門出します。つい四日前までは書いていたのですがね。『祖国雑誌』で11台分しめることになります。ゴリャードキンは『貧しき人々』より十倍も上です。仲間の連中は『死せる魂』以来、ロシアにこれだけのものは何ひとつ現れなかった。これは天才的な作品だ、といっています。まだまだ彼らのいうことはこれどころじゃありません!まったくゴリャードキンはこのうえなく成功しました。あなたも気に入るでしょう。何がどうということはわかりませんがね!きっと『死せる魂』以上に気に入るでしょう。

◆シエクスピアを読み、バルザックを訳してきた彼が・・・・本当に『死せる魂』以上と思ったのか !? ドストエフスキー最初の謎といえる。

この作品について訳者米川正夫は、以下のように解説している。(全集抜粋)

【概略】ゴーゴリの『狂人日記』と同じ流れ

 処女作(『貧しき人々』)と同じ、この『分身』にもゴーゴリの影響が顕著である。まずテーマと筋においては『狂人日記』を踏襲している。『狂人日記』のボブリーシチンは上官のためにもっぱら鵞ペン削りをしている最下級の小役人であるが、その上官の令嬢に恋して、屈辱感と野望の相克のためついに誇大妄想狂におちいり、自分がスペイン王になったかのごとく思いこむのである。『分身』のゴリャードキンも、ほとんど同様の経路をたどって、最後は精神病院をもって終わる。

【文体】『貧しき人々』以上に模倣。しかし、問題はない。

 文体の模倣は、『貧しき人々』以上にはなはだしく、ゴーゴリの突発的なスタイル、咏嘆の頻発、疑問の濫用、沈黙の手法、等などが盛んに踏襲されている。
 しかしながら、文体の点に関しては、ドストエーフスキイはその後完全に模倣時代を脱し、自家独特のスタイルを完成したから、あえて問題にする必要もない。

【テーマについて】ゴーゴリのテーマを底の底まで掘り下げた。
 
 ・・・根本的テーマとして『貧しき人々』の自己分裂、二重人格が取り上げられているが、しかし、ジェーブシキンの関心は消極的な体面・名誉の保持であったが、ゴリャードキンは積極的に栄達、権勢を仰望し空想するのである。しかし、彼は元来、小心な引っ込み思案の孤独家であって、栄達に必要な資質をことごとく欠いている。

【訳者総評】訳者は絶賛 ! 発狂までの経路が驚嘆すべき正確さ。

 この小説は一見して、はなはだしく幻想的な作品のように感じられるが、その実、最高度に現実的なものであって、一人の人間が完全な発狂にまで進んでいく経路が、驚嘆すべき正確さをもって研究され、描破されているのである。・・・(ベリンスキイが評したように)才能の若さに起因する欠点や弱所は、いくらでも指摘することができるけれども、この分身(幻覚)の創造は真に天才的であって、晩年のイヴァン・カラマーゾフの幻覚(悪魔)に


匹敵する偉大さを有している。

◆手放しの絶賛、好批評である。訳者の賛辞はまだまだつづく。

 むろん、思想的深さにおいては一籌(いっちゅう)を輸するが、しかしまったく性質を異にする幻覚の創造として、ドストエーフスキイの作品の中でもユニークな位置を占むべきものである。彼自身もこの『分身』の価値を十分に自覚していたので、その後、十数年を経た1859年にも、この作品を書き直して、世人をして再認識せしめようという計画をたてた。兄ミハイルに宛てた書簡に「何がゆえにわたしはこの卓越した想いを、わたしの発見しわたしの宣伝した最も偉大な典型を失うわなければならぬでしょう ? 」とまで激語している。
 しかし、この計画はついに実現されなかった。

◆忙し過ぎたのである。後年、日本で、訳者に賛美された作品だが、当時は、どうだったか。ドストエフスキーの書簡には、このように書いてある。

【1846年4月1日】兄ミハイルへ

・・・この二月の間に、ぼくの勘定したところによると、いろんな刊行物でぼくのことをおよそ35回も月旦しました。あるものは天に持ち上げないばかりに讃め立てるし、あるものは例外つきで、またあるものはくそみそに罵倒しています。――― 仲間の連中が、ベリンスキイを初め、だれもかれも、ゴリャードキンでぼくに不満を抱いているのです。―― ゴリャードキンは実に退屈で、だらけていて、とても読んじゃあいられないほど冗漫だ、と決めつけてしまったのです。

◆一転、天国から真っ逆さま。ベリンスキーの批評は

【V・S・ベリンスキー『ペテルブルグ文集』】

 今はまだ、ドストエフスキー氏の才能の特質がどこにあるか。いわば彼の才能の全体的特性と個性がどこにあるか、はっきり規定することは難しい。だが、彼がそれを十分持っているということには何の疑いもない。『貧しき人々』から判断して、我々は、ユーモラスな要素と融け合ったところの、深く人間的な、強く感情に訴える要素が彼の才能の特徴的性格を成している、との結論を下しかけた。ところが『分身』を読み終えて、そのような結論を下すことはあまりに性急であるということに気がついたのである。

ユーモアの仮面を被っている

 確かに『分身』には、非常に強く人の感情に訴える、極めて悲劇的な色彩と音調が存在しており、…しかし、その色彩と音調は、『分身』においては、ちょうどゴーゴリの『狂人日記』におけるように、いわばユーモアの陰に隠れているのである。モアの仮面をかぶっているのである…。全般的にいって、ドストエフスキー氏の才能は、まことに大きなものではあるのだが、まだ極めて若いので、全貌を現すことが、はっきりと自己を発現することが、出来ないでいるのである。・・・・

◆『貧しき人々』の感動と興奮が過ぎた後、ベリンスキーは、冷静さをとりもどした。
◆いつの時代もそうですが、デビュー2作目のジンクスというものがあります。『分身』はどうでしょうか。読書会での感想に期待。




12・25 読書会報告 
                

活気あふれた降誕祭の午後

 25日開催、暮れの、それもクリスマスの午後である。参加者が気になったが、18名の出席があった。若い人たちの参加で活気ある読書会となった。
『貧しき人々』の感想

『貧しき人々』を読んで、どのような印象や感想をもったか。

・「登場人物が多い」「続編を感じた」「書かざる話がある」
・「読みなおした」「一回目は、ワルワ―ラが嫌な女に。二回目は好意的イメージ」
 「川端康成の『山の音』を彷彿」
・「まさしくドストエフスキーの作品」「解説的潜入感」
・「手紙と手紙の間の行動がわからない」
・「生命力がなくなった男に対する若い女の考えはどうか」
・「この作品を二回で終えるのは惜しい」「ワルワ―らの立場から」
・「もう一度読みたくなった」
・「ワルワ―ラの視点で」
・「評価の仕方の問題」「青臭い作品」・「弱っているときに読んでいる」
・「ワルワ―らは長生きしない」「薄幸で終わる」
・「ブイコフは変わらない」

この作品は恋愛小説か

 読書会では、いろいろな感想があった。が、恋愛小説の見方は少なかった。24歳の娘と、47歳のさえないオッサンの恋。当時のロシアでは、どの程度、現実的であったのか。(ドストエフスキー自身は、アンナ夫人との年齢差を乗り越えて結婚しているが)、恋愛成立に否定的意見が多かった。ある参加者は、体験談として「若いときなんとなく誘われたことがあった。が、恋愛には発展しない。絶対にそんな気持ちにはならなかった」と一笑に付した。
 世界名作のなかに恋愛小説と呼ばれる本は、多々ある。終盤の1行の告白で涙を誘う。たとえばオースチンの『高慢と偏見』は、最後の一行でこの長編物語をハッピーエンドで締めくくる。が、反対にバルザックの長編書簡小説『谷間の百合』は、後半、これもほんの数行で世界文学最高峰の悲恋物語を知らしめる。『椿姫』『マノンレスコー』『カルメン』どれも捨てがたい。これらの物語は、たとえ悲恋に終わっても相思相愛なのである。『貧しき人々』は、どうか。女は、無情に去っていく。片想い物語である。が、アサドクで福井さんが最後のジェーヴシキンの手紙を感情をこめて朗読するのを聞いていたら、やはりこの作品は、立派な悲恋小説かなとも思った。(編集室)



第4回「アサドク」報告

若い参加者参加で、活気

 20代の参加者2名の参加で、活気あるアサドクとなった。『貧しき人々』の読みは、後半をしまいまで各人、気にいったところを朗読した。最後のジェーヴシキンの手紙は、福井さんが、ジェーヴシキンになりかわって熱弁熱しました。



大阪「読書会」

第3回 大阪読書会開催の案内

日 時 2011年2月27日(日)14時〜16時25分
会 場 ドニエプル出版編集室




最新ドストエフスキー文献情報 (1・30)

提供・【ド翁文庫】佐藤徹夫さん



<翻訳>

・正直な泥棒 ドストエフスキー 小沼文彦訳 p6-67
     『心 ドストエフスキー・芥川龍之介・プレヴォー』 ポプラ社 2010.10.20 \750
     <百年文庫・6>

<図書>

・第1章 ロシア的屁理屈の考察 ・ダスタエフスキーと麗人 p38-41
     『やってくれるね、ロシア人! 不思議ワールドとのつきあい方』 亀山哲郎著
      日本放送出版協会(NHK出版) 2009.2.15 \1300
・第5章 ドストエフスキーが苦手 ・ドストエフスキーが苦手 p266-268
     『ロシア語の余白』 黒田龍之助著 現代書館 \2200 2007
・カラマーゾフと神 p102-105;・カラマーゾフと性 p106-109
     『本に遇う U 夜ごと、言葉に灯がともる』 河合史夫著 彩流社 2010.12.25 \2200
・『新釈 白痴 書かれざる物語』 三田誠広著 作品社 2011.1.15 \2800 567p
      19.5cm カバー・帯
・『悪霊』(ドストエフスキー) もしも世界が一編の美しい文章なら p50-73
     『強く生きるために読む古典』 岡敦著 集英社 2011.1.19 \720
      <集英社新書・0575C>

<逐次刊行物>

・<書評> ドストエフスキー 山城むつみ著  人間と言葉の関係 根本から問い直す/
      奥泉光
     「朝日新聞」 2011.1.23 p14
・ドストエフスキーの預言 第二十一回 対話/佐藤優
     「文學界」 65(2)(2011.2.1) p242-253





ロシア文学者・昇 曙夢  提供者:印鑑工房『愛幸堂』(豊島高士氏)

昇 曙夢(のぼりしょむ)のドストエーフスキイ観 (12)
 
 昇 曙夢(1878―1958)は、著書『ロシア・ソヴェト文学史』(1955河出書房)のなかでドストエーフスキイとその作品について、このように述べている。(抜粋)


『白痴』・『悪霊』における作者の感想

【『白痴』について】
 この小説は、何らの結構を持っていないということができる。作者は、人間心理の描写における写実的真実についてはほとんど考慮していない。彼は混とんたる精神の根本を描いている。しかもそれを意識的に気違いじみた特質をもって描いている。なぜなら、そういう描写によってのみ初めて見ゆる世界の謎、美の謎およびその美によって誘発される欲望の謎を描き出すことができるからである。この作には幾多の根本的矛盾が取り扱われている。たとえば神と悪魔、世界的根源と個人的根源、超感覚的真実と感覚的の美、幻想的・悪魔的な傲慢と悩めるエンゼルのような謙遜、こうした矛盾が衝突する場合、この衝突から大きな混乱が起り、大きな思想上の嵐が起る。そして作中の人物は皆この嵐に捉われ、永久に痙攣的に疾駆している。一人も一か所にじっと止まっている事が出来ない。山の上に駆け上がったかと思うと谷底へ駆け下りる。倒れたかと思うとまた起き上がるというふうで、なかには山の絶頂をきわめて無我夢中にもがいているのもある。これは予言者的・病的天才が或る発作の瞬間に、人間の歴史的過程を徹底的に体験した結果でなければならぬ。
【『悪霊』について】
 『悪霊』(1872年)はドストエーフスキイの作品の中でも特に独創的である。本来この作は当時の有名な無政府主義者ネチャーエフ党が、1865年11月、党員の1人の学生イワーノフを殺害した、いわゆる「ネチャーエフ事件」を取扱ったものと言われているが、この事件はたまたまこの作の端緒となったに過ぎない。作者の構想から言っても、この事件はその中心的地位を占めているのではなく、単に時社会のエピソードとしての特質しか持っていない。
 1873年、皇太子アレキサンドル大公から、『悪霊』の作者は自分の作をどう見ているのかとの質問に対して、作者はこの小説を「ほとんど歴史的素描」だと言い、「父より子へ代々発展してきた思想の伝統性と継承関係とを表現する意図」であったと答えている。
 つまり19世紀の3、40年代の理想主義者の時代から60年代の虚無主義者の時代に至る思想発展の伝統的推移を狙ったものである。しかし同時に作者は、ネチャーエフ主義(虚無主義)の如き現象が、如何にしてロシヤの社会に生起し発展し実現されたかを示そうとしたのである。ネチャーエフ主義はドストエーフスキイにとって単なる偶然事でなく、革命の所産であったから、彼はこのエピソードを捉えて革命の道徳的本質を暴露しながら、直接その心臓に打撃を加えようとしたのである。「社会」が風刺の対象になっているのは、一般社会が悪魔に憑かれたように、革命思想に浸潤していたからである。従ってこの作は手に笞を持って、意地悪く、無遠慮に痛烈に書かれている。少しも青年に気兼ねすることなく、却って毒々しい暴露と嘲笑と譴責(けんせき)とで彼等の眼を開きながら書かれている。

※ 昇曙夢(のぼりしょむ)、本名は直隆(なおたか) 雅号の〈曙夢〉は、内村鑑三纂訳の詩集『愛吟』(警醒社、明治30年7月25日)にそえられたアルファンソー・ラマーティンの詩句「詩は英雄の朝の夢なり」に由来する。




連 載  

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像  33回

大岡昇平の『ながい旅』ついて
                            
福井勝也


 年が明けてすでに一月が終わろうとしている。本欄では昨年、主に大岡昇平の小説を論じてきた。現在、多摩の某所で大岡の作品を読み続けていることによるが、一昨年の『野火』『俘虜記』から始まって、昨年が『武蔵野夫人』『花影』から『事件』と読み進み、現在は『ながい旅』にかかっている。すでに前々回の本欄でも少し触れたが、その内容はB級戦犯として処刑された陸軍中将岡田資についての裁判記録をもとにしたノンフィクションと言える。大岡は昭和末、1988年12月25日に脳梗塞で79歳で死去しているので、本作品は生前それ程話題にならなかった地味な晩作(1982.5)という位置づけか。氏のノンフィクションの代表作と言えば『レイテ戦記』(1971)であって、死ぬまで作品の補筆訂正を重ねたライフワークとして余りにも有名だ。今まで、この二作品が並べて論じられることはあまりなかったはずだ。これは『レイテ戦記』が有名過ぎるから当然とも言えるが、考えてゆくと面白い比較が可能なことが分かってくる。

 『ながい旅』は4年程前(2007)『明日への遺言』というタイトルで映画化されて急に話題になったが、そもそも大岡によって作品化が考えられたのは、本人の言によれば昭和43年(1968)とのことで、意外に年代を遡ることになる。『レイテ戦記』が「中央公論」に連載開始されたのが昭和42年(1967)であって、ほぼ同時期であったことは要注意だと思う。とにかく、この作品が誕生するにはいくつかの段階が必要であったらしい。まずは昭和40年に集英社版「昭和戦争文学全集」の編集に参加して元陸軍中将岡田資に関する遺稿文と追悼文集『巣鴨の十三階段』を読み、感銘を受けたことが岡田資との最初の出会いであったらしい(手元の角川文庫版、冒頭の言葉−08年第4版)。その中将の遺稿から、大岡は昭和48年(1973)1月に、「私の中の日本人」(『波』)で次の文章を紹介することになる。

 敗戦直後の世相を見るに言語道断、何も彼も悪いことは皆敗戦国が負ふのか?何故堂々と世界監視の内に国家の正義を説き、国際情勢、民衆の要求、さては戦勝国の圧迫も、亦重大なる戦因なりし事を明らかにしようとしないのか?要人にして徒に勇気を欠きて死を急ぎ、或いは健軍の本義を忘れて徒に責任の所在を弁明するに汲々として、武人の嗜みを棄て生に執着する等、真に暗然たらしめらるるものがある。

 そして大岡は、この岡田資を「私の中の日本人」とした理由として以下のようなコメントを付した。「戦後一般の 虚脱状態のなかで、判断力と気力に衰えを見せず、主張すべき点を堂々と主張したところに、私は日本人を認めたい。少なくとも、そういう日本人のほか私には興味がない。

 この文章を書いてからすぐに『ながい旅』の執筆に入ったわけではなく、実はもうワンクッションの条件整備が必要であった。それは戦後36年が経過してアメリカ国立公文書館所蔵の裁判記録が公開(昭和56年)されたことに助けられた。大岡には、すでに『事件』(昭和52年)という裁判小説(かつ推理小説)を書いた実績があり、法律専門家からも高い評価がなされたことはすでに本欄で取り上げた。大岡の明晰な論理的思考、厳密な資料解釈能力は裁判小説と相性が良かったのかもしれない。この点では、勿論ドストエフスキーともニュアンスは異なるが、東大法科で法律を学び、法論理的思考と創作方法との関係が指摘される三島由紀夫が自分には連想される。とにかく『ながい旅』では、公開されたばかりの裁判記録を<戦利品>のように利用して、占領下のB級戦犯法廷を作品化した。それが、昭和24年9月17日に絞首刑になった岡田資中将裁判事例であった。奇しくも岡田の33回忌にあたる、昭和56年の9月10日から名古屋中日新聞と東京新聞に百回の予定で連載が開始された。
 ここで大岡は『レイテ戦記』との関係に触れながら、『ながい旅』執筆に至る経緯を次のように語っている。

  私は『レイテ戦記』で、昭和19〜20年の南方の戦場の実情を伝えたつもりであるが、内地の被爆状況と降伏に到るまでの経験はなく、従ってその経過を書いたことはない。また戦記では、戦闘の事実の記述に追われて、戦う人間の内部へ深く入る余裕がなかった。若手参謀の心理は描いたが、司令官まで遡れなかった。それが何となく心残りであった。その時、私は法廷闘争を勇敢に戦った日蓮宗信者岡田資中将のことを思い出した。
  『レイテ戦記』を執筆中の昭和43年夏、裁判の経過を書くことにきめ、47年から文芸雑誌「新潮」編集部の坂本忠雄君の助けをかりて、調査をはじめた。 (角川文庫p.11)
 
  私は昭和43年『レイテ戦記』執筆中、軍人は上級になるほど政治的になり、ずるくなるが、軍司令官クラスには立派な人物がいることを知った。レイテの戦闘を指揮した三十五軍司令官鈴木宗作中将もその一人だが、十八軍司令官安達二十三中将がいる。(同文庫p8)

 ここで大岡が語ろうとしていることは、実は『ながい旅』という作品が『レイテ戦記』という質・量ともに大岡のライフワークとして評価されるべき文字通りの代表作でありながら、そこからもれてしまった「戦争」の実相を捉えようとした作品としてあるということだ。その意味では、『レイテ戦記』に比較して確かに「小品」ではあるが、見方によっては大岡昇平という作家をトータルに考えるうえでも意外に重要な作品ということになる。

 「戦争」の実相のとらえ方では、まず戦場としての外地(=フィリピン)と内地(=本土)の違いがある。そして<総力戦>という特徴的な戦争のかたちとして<無差別爆撃>と無辜の市民の<大量殺戮>という20世紀的戦争の現実がある。そしてその本土防衛のために必死に戦った司令官がB級戦犯という<戦争犯罪人>として絞首刑に処せられた<裁判過程>が対象となる。そこでは、軍律違反かどうか統帥権に絡んでの法的判断の問題があった。そして、それらを支える、極東軍事裁判全体の手続き的<正当性>と<法的根拠>の問題も問われることになった。

 ここには大岡が体験したフィリピン戦線では描けなかった世界戦争の実相が確かに露出している。そしてその戦いは、敗戦後、文字通りの「戦後」において、岡田資の「法戦」というかたちで堂々と戦われた(果たして、「東京裁判」はどうであったのか)。

 大岡がここで語ろうとしたのは、戦争を生き延びた戦後社会の日本人の生き方の問題に直結し、現在(大岡が『ながい旅』を書いた時点、そしてさらに今日)まで引き続く課題としてあり続けている。だからこそ大岡は一方で『レイテ戦記』を書きながら、この作品を昭和43年に書くことを決意し、そして48年に岡田資中将という主人公を「私の中の日本人」として称揚する言葉を書き記したのだろう。実は、この五年間の丁度中間に三島事件(昭和45年)が起きていることは注目すべき事実だろう。この「小品」には、『レイテ戦記』ではどうしても書き得なかった大切なものに焦点があてられている。それこそ三島由紀夫が追い求めた「影」のような存在と地続きのものとしてあったはずだ。それは、この国のかたちを守るために堂々と死んだ武人達(その最後の武人が『ながい旅』の主人公、岡田資中将であったはずだが、必ずしも「軍人」には限らないと思う)の魂であったかもしれない。大岡が、岡田資中将の「武人の嗜みを棄て生に執着する等、真に暗然たらしめらるるものがある」という遺稿文を引用し、岡田のような「日本人のほか私には興味がない。」と言い切った大岡の言葉には、前回引用した昭和45年の三島の遺言と響きあうものを感じさせられる。

 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。 (「産経新聞」1970.7.7、下線筆者)

三島はこれらの言葉で当時の日本人に絶望しつつ、自ら武人として死を選択することで、
岡田資中将のように部下の責任を犠牲的に引き受けながら、その希望をこれからの日本人に託したのだと思う。大岡昇平も『ながい旅』という作品においては、三島と共通した地続きの地点から日本人への希望を語ろうとしたのではないだろうか。   (2011.1.31)





大阪読書会年賀にドストエフスキー実践をみた ! (編集室)

 大晦日は河内長野の勝光寺(井本全海住職/大阪中央区相談役)へ学生と一緒に行き、就活祈願祭に参加しました。座禅、瀧行……。就職の困難さを改めて見せつけられました。
大晦日の夜から元旦の朝にかけては岸和田の土生神社(阪井健二宮司)で手伝いをしました。これは、毎年恒例になりました。
 家族模様が窺え、勉強になります。寒さは昨年の方がきつかったように思われます。しかし、景気は昨年よりもかなり厳しくなったと実感しました。
 さて、いよいよ2011年。今年の抱負は「雇用を生み出す」です。微力ながら、実現したいと存じます。本年ももよろしくお願い申し上げます。

◇大阪読書会(小野元裕氏)のメール年賀にドストエフスキーを読む意味を学びました。ドストエフスキーを実践する心意気を感じました。ありがとうございました。

背中を押したのは誰か
 昨年末、なんの覚悟もなく民生委員・児童委員を引き受けた。12月1日から活動に入った。が、意外と多忙。後悔先に立たず、だったが、大阪読書会の小野氏の年賀をみて覚醒した。ドストの作品や作家の日記に書かれてあることは、すべていま日本で起きている問題。無縁社会、孤独死、児童虐待。あのとき引き受けさせたのは、ドストエフスキーが背中を押した。そんな気がする今日このごろである。        




新刊案内

『ドストエフスキーを読みつづけて』
下原敏彦・下原康子共著&カット・MOMO  D文学研究会 2011.2

『司馬遼太郎とロシア』
高橋誠一郎著 東洋書店 2010・10・20
    
『甦る自由の思想家 鈴木正三』
森和朗著 鳥影社 2010.9

         


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郵便口座名・「読書会通信」    口座番号・00160-0-48024 

2010年12月14日〜2011年2月1日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりて厚くお礼申し上げます。

「読書会通信」編集室:〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方