ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No123  発行:2010.12.16



第242回12月読書会のお知らせ

月 日 : 2010年12月 25日(土)
場 所 : 東京芸術劇場小7会議室(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111      
開 場 : 午後1時30分 
開 催 : 午後2時00分 〜 4時45分
作 品 : 『貧しき人々』第二回
報告者 : フリートーク        
会 費 : 1000円(学生500円)

第3回「アサドク」のお知らせ

月 日:2011年1月15日(土)
時 間:AM10:00〜正午 
昼食散会軽く昼飲みあります
会 場:東京芸術劇場小会議室7
作 品:『貧しき人々』訳者自由第3回目
会 費 :1000円(学生500円)




12月25日読書会について

『貧しき人々』1845年当時と2010年現在読みの比較

 12月25日の読書会は、『貧しき人々』2回目です。弟一回の10月読書会では、主にドストエフスキー作品群の中での位置や主人公たちの性格などが話題になりました。名作揃いの長編作品にあって、この作品は評価が低かった。
今回は、絶賛された当時の批評は、どうだったのかを鑑みて、現在の評を考えてみたい。1845年、この時代ロシアの「権威ある批評家」ベリンスキー(34)は、どう読んだのか。『貧しき人々』が掲載された『ペテルブルグ文集』の彼の批評をとりあげてみた。(抜粋)
 
V・G・ベリンスキー(ネクラーソフ刊)『ペテルブルグ文集』批評

「つぶされてしまった人間」は、大きな間違い

 『ペテルブルグ文集』に、ドストエフスキー氏の小説『貧しき人々』が発表された。この作者の名はまったく人に知られていない。新しい名前である。しかし、それは必ずやわが国の文学で重大な役割を演ずるであろうと思われる名である。・・・・・・・・・・・・
 作者は、ジェーヴシキンにおいて、知力も仕事の能力も生活によって押しひがれ、つぶされてしまった人間を描こうとしたのだ。そう考える読者は多いかもしれない。しかし、そのように考えるのは大きな間違いであろう。
一寸の虫にも「美しく、気高く、神聖なもの」
 作者の考えは遙かに深く、遙かに人間に対する感受性に富んでいる。作者がマカール・アレクセーヴィチにおいて我々に示したことは、極く極くちっぽけな頭の人間の天性の中に、どれほど多くの美しく、気高く、神聖なものがあるかということなのである。
ワーレンカの手記とジェーヴシキンの手紙比較
・・・ワーレンカという人物には、何となくまだ明確でないところがあり、仕上がってない感じがする、といってもよいだろうし、それは的外れではない・・・ワーレンカの手記は素晴らしい。しかし、叙述の技量においては、やはりジューヴシキンの手紙とは比べものにならない。
いま流行りのメロドラマ調物語なぞ何だろう!
 このような幅広いものを含む、力強い筆致で描かれたこの画面、この画面の前へ出したら、いま流行りのフランスのフェリエトン風小説の作者たちが書くメロドラマ調の悲惨な物語なぞ何だろう!この画面にあるのは、恐るべき単純さと真実だ!そして、これを物語っているのは誰か。知識とて持っておらず滑稽で嗤うべき男、マカール・アレクセーヴィチ・ジェーヴシキンなのである。

現代読み(2010年現在の「読書会」読み)は

1.当時の批評は「つぶされてしまった人間読みは間違い」とするが・・・
2.主人公に「美しく、気高く、神聖なもの」を感じるか。
3.ワーレンカの手記とジェーヴシキンの手紙の比較。
4.この小説は現在に影響を与えているか。

□独善的だが『貧しき人々』を彷彿したもの、映画「嘆きの天使」、小説『痴人の愛』、現代ものでは『容疑者Xの献身』などがある。(「編集室」読み)

ドキュメント『貧しき人々』U 

■1843年8月に中央工兵学校を卒業しペテルブルグ工兵団製図室に勤めることになったドストエーフスキイは、翌年9月、たった1年勤めただけで誰にも相談することなく役所を辞めてしまう。すべては『貧しき人々』を書くためであった。
■1844年・「辞表を出した理由といっても、出したから出したというまでのことで、つまりはっきり言って、もうこれ以上勤務することが出来なかったからです。/ぼ (9月30日兄宛)・くが退官することは誰も知りません。服をこしらえようにも1カペイカもないの
です。ぼくの退官許可は10月14日までには出ることになっています。」
■1844年・「ぼくは、期待をかけているものがあるんです。『ウージェニー・グランデ』 (9月30日兄宛)くらいの長さの小説を書きあげようとしているのです。」 「もう清書もしている段階で、14日までには間違いなく返事をもらえることになっている。」
 がしかし、すぐに作品を仕上げることはできなかった。その頃のドストエフスキーのことを友人のグリゴローヴィチは「彼は自分の書いているものについてはひとことも言わなかった。私が尋ねると、気乗りしないような短い返事が返ってきた。/私の見たのは、ただ、ドストエフスキーの手だとわかる字体で一面に書きつぶされたたくさんの紙であった。/根をつめた仕事と、いつもいつも家に閉じこもりきりであることのために、彼の健康は著しく損なわれた。若い頃、工兵学校時代に、すでに何度か現われていた病気が、そのために悪化したのだった。」(※病気とは、癲癇ではなくノイローゼではないかと云われている)  
 
ドストエフスキーは、この作品を何度も書き直した。そして、また春がきた・・・・。
■1845年・「・・・小説がまだ仕上がっていなかったのです。もう11月頃にすっかり書(3月24日兄宛) 、き終えたのですが、12月になって、全体を作り直そうという気になったのです。/3月半ばになって、これでよしとなり、満足がゆくものになりました。  
・ぼくは自分の小説に心から満足しています。
■1845年・「ぼくのこの小説からぼくはどうしても放免してもらえないでいるのですが、(5月4日兄宛)  しかし、もうこれでお終いです。手直しはこれが最後です。」 ついに、作品は仕上がった。だが、ドストエフスキーは文学関係の知人は友人のグリゴローヴィチただ一人だった。その朝、彼はグリゴローヴィチを自分の部屋に呼ぶと唐突に言った。「昨日清書を終えたばかりなんだ。読むから聴いてもらいたいんだ。」       
■1845年・5月のある朝、ドストエフスキーを訪ねたグリゴローヴィチは言った。「ネク ラーソフを紹介するよ。原稿を持ってきたまえ。」  
ドストエフスキーはネクラーソフに原稿を渡し握手してすぐに別れた。翌日の午前4時、昼のように明るい白夜であった。そんな早朝、突然、ベルが鳴ってグリゴローヴィチとネクラーソフが飛び込んできた。『貧しき人々』誕生の、そして文豪誕生の瞬間だった。

『貧しき人々』で知ったドストエフスキー体験     ドストエフスキーの読者のあいだでよく聞かれる質問がある。「作品のなかでどの作品が一番好きか?」という問である。別段、集計をとったわけではないが、一般的には『罪と罰』、二番目当たりに『白痴』か『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』、穴場で『地下室の手記』『二重人』といった作品だろうか。『貧しき人々』をあげる人は、あまりいない。作家のなかでも、見当らない。かなり昔になるが、宮本百合子が一番にあげていたような気がするが(定かではないが彼女の作品に『貧しき人々の群』がある)。それに、今年亡くなった井上ひさしさんも『貧しき人々』のファンだったらしい。
 とにかく名作ぞろいのドストエフスキー文学である。それも、たいていの作家が竜頭蛇尾
に終わるところをドストエフスキー作品はますますに磨きがかかっていく。それだけに
処女作を一番にあげるのは難しいところだ。他の作品が量、質、物語性ともにあまりに大き過ぎる。しかし、私にとって『貧しき人々』は、なにはともあれ一番に掲げなければならない作品なのである。推理小説的な面白さに夢中になった『罪と罰』、鬼気迫る情景が脳裏から離れなかった『白痴』、暗澹たる気持ちになりながらも読まずにはいられなかった『悪霊』。そして、人間のすばらしさも愚かさも混濁して流れてゆく大河『カラマーゾフの兄弟』。いずれの作品も捨てがたい。が、それでも私は『貧しき人々』なのだ。なぜか。 ドストエフスキー作品をどんなきっかけで読むことになったのか。これも人それぞれの出会いがあると思う。「偶然、手にした」「人にすすめられた」「研究書や評論がたくさんでているから」などなどさまざまな動機があるに違いない。
なかには「叱られて」といったこんな変わり種もある。読書会の会員の方で若い頃、学生運動で成田闘争に関わっていた人の話である。闘争運動が激しかった当時、成田周辺は警戒が相当に厳しく、空港内にはなかなか入れなかったらしい。唯一の侵入できる手段は、空港内で働く人たちの送迎バスだった。そこで、彼は従業員になりすまして、新宿駅西口からバスに乗り込んだという。だが、すぐに売店で働くオバちゃんに見破られ大声で一喝された。「ドストエフスキーを読みなさい!!」。彼は雷に打たれた気持ちだったという。
 私の場合、こんなに劇的でも衝撃的でもない。私は、ありきたりで平凡な方法でドストエフスキーを知り、貧しき人々』を読むことになった。きっかけは、椎名麟三だった。たしか「重き流れのなか」か「深夜の酒宴」の文庫本を読んでいた。なぜ椎名麟三かというと、これもよくわからない。たぶんそのころ石川達三をよく読んでいたので、ついでにといったところかも知れない。が、椎名文学は、私に不思議な感覚を味わわせてくれた。私は、この作家に興味を抱いた。それでこれまで「あとがき」など読んだことがないのに、はじめて読んでみた。そして、作家がドストエフスキーというロシアの文豪を崇拝していることを知った。が、ただそれだけだった。それだけではなんの動機にもならなかった。
 むしろ、主人持ちの作家か、と嫌な気もした。(他にこの作家は、共産主義やキリスト教を主人に持っているようだ)それで落胆の方が大きかった。だが、次の瞬間、私の関心を引き寄せたのは、文豪の処女作に関する解説だった。ネクラーソフという詩人で出版人が10ページ読むとやめられず、一気に読み、興奮のあまり作者に会いに行った、というくだりであった。私は、夜のしじまに頭をもたげて考えた。この世に、そんな文学作品があるのだろうか。まず最初に浮かんだのはその疑問だった。自慢ではないが血沸き、肉踊る面白い冒険小説なら、何冊も読んできた。しかし、作者に会ってみたいとまでは思わなかった。ネクラーソフという人は本当に面白かったのだろうか。物語の評価は古今東西普遍といえる。椎名文学はすっかり忘れたが、その疑問だけがひろがった。
ある日、眉唾を承知で『貧しき人々』読んだ。なんの変哲もない書簡小説。だが、しばらくすると一字一句読み進むのが惜しくなった。これほど面白い本に出会ったことがなかった。この一冊が私の世界を変えた。(編集室)



10・16 読書会報告について
                 

5サイクルのスタートいつも通りに

 15名の参加者があった。読書週間がはじまる、読書の秋である。5サイクルという長丁場のスタートだが、いつも通り静かに熱く開催された。
以下、参加者(順不同・敬称略)
 
『貧しき人々』読みアンケート

 10・16読書会は、5サイクルのスタートということもあり、作品に対するアンケートを試みました。配布したアンケート内容は以下のもの。
1.今回で何回目の読みになるか。 →  はじめて   再読   
2.はじめて読んだ人。      →  予備知識なし    批評など読んでいた
3.予備知識なしで読んだ人。   →  退屈   面白かった  感動した
4.予備知識あって読んだ人。   →  予想通り  思った通り
5.再読(複数回)の人。     →  読むたびに変わる  変わらない

謎解けなかった『貧しき人々』の謎

 アンケートは、参加者の作品読みを把握するものであったが、もう一つ『貧しき人々』にまつわる謎を解きたいということもあった。「編集室」としては、後の試みが主体であった。1845年5月6日の奇跡の眞貨。あの日の未明、若き作家と詩人は、感動のあまり白夜の街に飛び出していった。この奇跡は、日本では、無視されてきた。名作の所以は古今東西共通である。とすれば彼ら二人の感動、ベリンスキーの絶賛は何だったのか。彼らと読みが違うのか。時代的・思想的差か。数多いドストエフスキー文学のなかで、最初に突き当たった謎だった。アンケート実施の目的は、まずこの謎を解きたい、だった。が、残念なことに、いまだ謎は強固・複雑怪奇であった。アンケートを踏まえての議論はこのようであった。

『貧しき人々』が最初だったらドストエフスキーは読まなかった

読書会では、上記のこんな衝撃的感想が相次いだ。はじめて読むと人(が多かった)も過去に読んだことのある人も、この作品に対する評価は低かった。ネクラーソフもグリゴローヴィチもベリンスキーもかた無しの結果である。ただ一つの光明は、複数回読みの人に、この作品は読むたびに変わる。磨けば光る金剛石のようだとの感想であったことである。
ともあれ、今後も読み続けられていくであろう、この作品の評価と謎。どのように変化し謎解けていくのか楽しみである。
読書会での声
「新訳で読むと現実的」「今回読んで、可哀そうに感じた」「夢想家」「40歳になっても結婚できない」「女性は就職できない」などなど。



第3回「アサドク」報告


【11月13日の読み】

第三回目 8月11日のジェーヴシキンの手紙から最後の「ただ書きたいから、少しでもたくさんきみに書きたいからかいているのです。」この最終まで。
 「わたしたちは二人とも破滅。迫害され、軽蔑され、笑いぐさにされた。ワルワーラとの仲をうわさされている事を気にするジェーヴシキン、逆にワルワーラから三十コペイカもらう。白髪の年寄りではない、自分はなんの役にも立たない人間、靴のかかとよりほんのすこしばかしましな人間、ワルワーラを知るまでは一人ぼっちで眠っているようなものだった、まったく世に生きていたものとはいわれません。自分は人間である、こんな人間でも生きていていいのだ。ワルワーラの黄金時代。だれだかもう一人、わたしといっしょに部屋の中にいて、なにやらわたしに話しているような気がしてならない、分身に繋がる部分。母親の胎内にいるときから運命の鳥に幸運を告げられる一方、養育院でこの世の光をみるのはなぜか。母親から書きつけを渡されて街頭にたち物乞いする男の子、ジェーヴシキンの自己卑下、ボタンが閣下の所に落ちる。閣下から百ルーブリのお金をちょうだいするより、手を親しく握ってくださったことのほうがずっとありがたい。ブイコフ、ペテルブルグへワルワーラに近づく。ゴルシコフの急逝、ブイコフの策略結婚話、ワルワーラ自身、貧困と欠乏と不幸から救ってくれるのは、ブイコフだという。しかしジェーヴシキンにはブイコフとの結婚をなぜか相談しない。これからの手紙のやりとりを気にするジェーヴシキン、ワルワーラの結婚じたくの買物に翻弄するジェーヴシキン。わたしはただあなただけのために生きてきた、ワルワーラはブイコフ氏のもとで死んでしまうだろう。だって、わたしの文章もこのごろ調子が整って来た。ただ書くために、ただすこしでも余計にあなたに書くために書いているのです。」
以上参考まで。
 お一人お一人お好きなところを朗読して下さい。





第三回 アサドク『貧しき人々』三回目によせて
  菅原純子

 人間が過去形に生きるのか、現在形に生きるのかは、人それぞれであろう。しかし、過去においてふれ合いのあった人々とかわした言葉の中には、忘れられないものがあるということは確かなことだ。
 ドストエフスキー全作品を読む会が、まだ豊島区勤労福祉会館でおこなわれた時のことである。大学時代に一度だけ顔を出し、怯んでしまった私は、再度挑戦しようと思い、大学の先輩の方に電話をかけた。先輩は、下原康子さんに連絡してあるから大丈夫よとの電話があり、その時参加した作品は『夏象冬記』であった。確か3サイクル目で芦川進一先生の報告であったと思う。河出書房の全集にびっしりと線がひかれてあったのを今でも記憶している。
 と同時に、もっとも古い会員の方である、田中幸治氏に「あなたは、ドストエフスキーの作品の中で、何が一番好きですか。」と急に問いかけられた。一瞬答えにとまどったが、『貧しき人々』ですと言うと、田中幸治氏は四大長編の名前も出さず、処女作の作品名の名をあげたことに、首をふとかしげた。しかし、その直後田中幸治氏は「処女作には、全てが書かれているからね。」と言われた。この時点でまだ私は、継続して参加していなかった。私が参加するようになったのは3サイクル目の『悪霊』のあたりからである。
 田中幸治氏の言葉を、何故思い出したかというと、江川卓著『ドストエフスキー』岩波新書評伝選を読みかえした時である。

 「処女作には作家のすべてがある、とよく言われる。やはりこれは一つの真理に相違ない。ところが、ことドストエフスキーに関しては、この「真理」が声高にされることがめったにない。「真のドストエフスキー」は『地下室の手記』にはじまるというのが、かなり流布した通説である。『貧しき人々』は、どちらかと言えば、軽い作品とみなされる。(中略)しかし、果たしてそうなのであろうか。」と疑問をなげかけている。アサドク『貧しき人々』は二回目を終わり、1月15日には三回目にはいる。読書会は一回をおえた。その会の中で、やはり『貧しき人々』は軽い作品であり、『貧しき人々』を最初に読んでいたら、ドストエフスキーの後の作品は読まなかったであろうという人、『貧しき人々』があまりにも不評であるという発言が目立っていた。
 私たちはすでに『カラマーゾフの兄弟』を読んでしまった読者である。それからにして、作品のスケールが違いすぎることを知ってしまっているのだ。しかし、もう一度考えてみようではないか。それは頭をまっ白にし、『貧しき人々』を読むことは可能か不可能かにつながることではあるが、ドストエフスキー自身は処女作を何度も何度も推敲して、まんをじして作品を世に出した。時にして24歳のドストエフスキーが47歳のジェーヴシキンを生み出したのであり、そこにドストエフスキーの創造力のすごさがある。がドストエフスキーはジェーヴシキンが自分自身であると読者にとらえられることをおそれた。一八四六年二月一日の兄ミハイル宛ての手紙で次のように書いている。
 《わが国の大衆は、すべての群衆と同様に、直覚を持っていますが、教養がありません。どうしてああいう文章で書くことができるか理解できないんですね。彼らはすべての作品に作者の面をみることに馴れている。ところが、ぼくは自分の面を見せなかったというわけです。あれはぼくではなく、ジェーヴシキンがしゃべっているので、ジェーヴシキンはあれよりほかの話し方ができないのだってことを、夢にも悟らないんですからね。人はあの小説を冗長だといいますが、あの中にはひとことも余分な言葉はないのです》
 ジェーヴシキンはドストエフスキー自身であり、第二作『分身』では、いっそうその色を濃くしていく。
 アサドク『貧しき人々』第一回、第二回目が終わった時点で、参加された方々のお声をお聞かせすることにする。難しいのは話が前後したり、羅列に終わってしまうかもしれないがその点はお許し願いたい。

『貧しき人々』登場人物
マカール・ジェーヴシキン → 世間から見下されている小役人。
ワルワーラ・ドブロショーロワ(別名:ワーレンカ)→ 田舎で暮らす乙女。
アンナ・フョードロヴナ→金持ちの女、ワルワーラの従妹サーシャの面倒を見ている。
サーシャ → ワルワーラの従妹。
エルモラーエフ → ジェーヴシキンの同僚で役所の書記。
ラタジャーエフ → 文筆家。
エメリヤン・イリイッチ → 仕事を首になった元役人。
ゴルシコーフ → ジェーヴシキンと同じアパートに住んでいる。
父ポクロフスキー → 大学生ポクロフスキーの父親
子ポクロフスキー → 貧しい元大学生だが語学や歴史に堪能。
フェドーラ → ワーレンカに仕えている小間使い。
ブイコフ → 大地主で、父ポクロフスキーの知人。大学生ポクロフスキーを引き取って養っていた。






ドストエフスキー文献情報


最新ドスト情報(12・12) 提供・【ド翁文庫】佐藤徹夫さん


<図書>

・『ドストエフスキーの言葉』 小沼文彦編訳 ユナイテッド・ブックス 2010年10月5日 \1200
 229p 18.8cm
 *巻頭に亀山郁夫氏の序文「永遠の予言者・ドストエフスキー」を収録
 *初版及びその新装版:弥生書房 1969.2.25; 1997.5.30 の新装・改編版

<逐次刊行物>

・ドストエフスキーの預言 第十八回 エマヌエル・ラードル/佐藤優
    「文學界」 64(11)(2010.11.1) p232-243
<翻訳>

・正直な泥棒/小沼文彦訳 p6-67
     『心 ドストエフスキー・芥川龍之介・プレヴォー』 ポプラ社 2010年10月20日
      \750 153p 18.7cm <百年文庫・6>
・『ドストエフスキーの言葉』 小沼文彦編訳 ユナイテッド・ブックス 2010年10月5日
      \1200 229p 18.8cm

<マンガ>

・『カラマーゾフの兄弟』 ドストエフスキー原作 岩下博美漫画 日本文芸社 2010年
      11月25日 \876 318p 14.9cm? <マンガで読む名作>

<図書>

・第三章 読書雑記 ・色褪せることのないスタヴローギン p221-226
      『ピアノを弾くニーチェ』 木田元著 新書館 2009年9月10日 \1800 284p
       19.4cm 
・ドストエフスキーの父親殺し/石田雄一訳 p289-311
      『フロイト全集 19 1925-28年』 加藤敏、石田雄一、大宮勘一郎訳
       岩波書店 2010年6月25日 \4400 384p 21.8cm
      *付録:月報・16 「「父親殺し」と現代/亀山郁夫」 p10-16
・原典資料・16 内田魯庵「原文の印象と訳文の趣致」(一九〇九年) p171-175
 解題・16 内田魯庵「原文の印象と訳文の趣致」/コックリル浩子 p176-180
      『日本の翻訳論 アンソロジーと解題』 柳生章ほか編 法政大学出版局
       2010年9月10日 \3300 344p 21cm
・幻視者の手紙(想像力による復権;現世の永遠の生命;可能性または不可能性と
 してのムイシュキンの深淵) p29-37
      『襲いかかる聖書』 小川国夫著 岩波書店 2010年9月28日 \2300
       203p 19.4cm
・第十一章 なぜロシア文学? トルストイとドストエフスキー p211-231
      『世界文学を読めば何が変わる? 古典の豊かな森へ』 ヘンリー・ヒッチングス
       田中京子訳 みすず書房 2010年10月19日 \3800 302p 19.5cm
・第一章 若き司馬遼太郎と方法の生成 ・トルストイのドストエフスキー観と司馬遼太郎
       p13-15
      『司馬遼太郎とロシア』 高橋誠一郎著 東洋書店 2010年10月20日 \600
       63p 21.1cm <ユーラシア・ブックレット No.156>
・第二章 二・二六事件―「ドストエフスキイの生活」 p45-73
      『小林秀雄の昭和』 神山睦美著 思潮社 2010年10月25日 \3000 278p
       19.6cm
・2章「計画犯罪」の死角 ・5 ドストエフスキー『罪と罰』 ラスコーリニコフは、本当は死刑!?
       p54-64
      『あなたが裁く!「罪と罰」から「1Q84」まで 名作で学ぶ裁判』 森炎著 日本
       経済新聞出版社 2010年11月5日 \1500 253p 18.9cm
・第七講義 ・燃えつきる小説―近代の三大長篇小説を読む 3 ドストエフスキー 『白痴』
       p268-295
      『東京大学で世界文学を学ぶ』 辻原登著 集英社 2010年11月10日 \1600
       357p 18.9cm
・5 スイスの」「白痴」―ドストエフスキーによるエクフランス p143-177
      『絵画をいかに味わうか』 ヴィクトル・I・ストイキツァ 岡田温司監訳 平凡社 2010年
       11月22日 \2800 339p 19.5cm
・『ドストエフスキー』 山城むつみ著 講談社 2010年11月25日 \3600 549p 19.4cm
      *7年間に渡り「文学界」・「群像」誌上に展開した長篇評論をまとめたもの

<逐次刊行物>

・<ちきゅう遊山> 文豪見つめる地下鉄駅/副島英樹
      「朝日新聞」 2010.10.18 p4 
       *モスクワの地下鉄開設75周年の今年6月、新しい路線にできたドストエフスキー駅  
・ドストエフスキーの預言 第十八回 エマヌエル・ラードル/佐藤優
      「文學界」 64(11)(2010.11.1) p232-243
・亀山郁夫氏が語るドストエフスキーと現代
      「週刊読書人」 2863(2010.11.5) p1-2、10
       *第96回全国図書館大会奈良大会・記念講演「『黙過』から『共苦』へ」を載録
・ドストエフスキーの預言 第十九回 隙間/佐藤優
      「文學界」 64(12)(2010.12.1) p228-239
・ドストエフスキーに出てくる深夜/ドン・デリーロ、都甲幸治訳
      「新潮」 108(1)=1272(2010.12.7=2011.1月号) p200-218
・ドストエフスキーの預言 第二十回 ベルジャーエフ/佐藤優
      「文學界」 65(1)(2011.11.1) p242-252

<DVD>

・白痴 IDIOT
      IVC IVCF-5384(5枚組) 510min. 2003年・ロシア作品
・カラマーゾフの兄弟 Brat’ia Karamazobu
      IVC IVCF-5423(6枚組) 527min. 2008年・ロシア作品




連載  

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像  第32回  2010年の終わり「危機的な師走」にあって思うこと
                             
福井勝也

 いよいよ師走に入り平成22年も残り少なくなってきた。ここで今年を振り返り一応の締めくくりをつけたいところだが、この機会に言及しておきたいことがある。不景気が恒常化した年末の巷の雰囲気に余り変化はないが、個人的には何か切迫感が募る年末になっている。いやそう思うのは、ここ数ヶ月日本を襲ってきた隣国からの理不尽な圧力への憤りと無策な日本政府への怒りが自分のなかでずっと醸成されて来たからだ。
 勿論、その発端は9月7日に起きた中国漁船と海上保安庁の巡視船との衝突事件にある。事件後間もなく、政府ではない検察当局による中国人船長の無条件釈放がなされ、さらに何故か政府が秘匿し続けようとした衝突現場のビデオが某海上保安官によって突然流出した。そして当該保安官の不逮捕放免釈放へと急展開した。その後も尖閣諸島沖合では同様の衝突事件が発生しかねない中国船の出没が挑発的に繰り返されている。
 さらに領土問題で日本へ揺さぶりをかけて来たのは中国だけではなかった。このタイミングを狙ったかのように、ロシアのメドベージェフ大統領が突如の国後島訪問を強行した(11/1)。日本政府の対抗措置としては、在モスクワ大使の一時帰国以外手立てもないまま、北方領土返還という日本人の悲願に冷水が浴びせられた結果になった。
そしてさらには中国の尖閣諸島への侵攻に同調したように、北朝鮮が韓国領域の大延坪島へ集中砲撃に及ぶという戦闘行為を引き起こした(11/23)。この北朝鮮の暴挙は朝鮮半島が今なお戦争状態であるという現実を改めて我々に突きつけた。民間人の死傷者まで出て、朝鮮半島は一挙に緊張が高まった。米韓・米日(自衛隊)の合同軍事(?)演習後、引き続き韓国が問題領域での射撃訓練を再開したが、同時に各国の外交交渉も活発化してきている。ここに来て東アジア地域に潜在する軍事的暴発の危険性が従来にない程増大している。われわれは「危機的な師走」の今を生きている。

ソ連邦消滅(1991.12)によって、冷戦構造が崩壊しイデオロギーの対立が終焉したように感じたのも遠い過去の記憶のようだ。それから丁度10年目の2001年9.11にニューヨークで起きたツインタワー爆破テロ事件は、21世紀の新たな危機の在処を世界中に一瞬のうちに刻印することになった。それからさらに9年が経過して、いよいよ自分たちの極東アジアが世界紛争の引き金となる事態に直面しつつある。59年前の朝鮮戦争(1951-1953)が米・中ソ戦争の代理戦争でもあったように、今回も韓国対北朝鮮の背後に米・中の対立軸が浮上しつつある。前回と違うのは、資本主義的発展による共産中国の国力増大が顕著なことそして韓国も同様の高度成長を遂げたのに対して、拉致事件を繰り返して来た北朝鮮は疲弊と国際的孤立化のなかで指導者の権力世襲を必死に維持しようとしている。その結果国内的には食糧不足等から常に暴発の危機を孕んでいる。さらにソ連も体制が崩壊しロシアに逆戻りしたが、一時の経済的疲弊と混乱は克服され、中朝寄りのスタンスを微妙に確保しながら大国としての影響力を周辺国に行使している現状がある。そしてアメリカという国家が、朝鮮戦争以後もベトナム戦争、アフガン戦争、湾岸戦争、イラク戦争等一貫した膨張主義的戦争国家として常に紛争の当事者であり続けていることも認識すべきか。

ここで日本という国のあり方を考えてみたい。この点で現況の事態を中国との関係で120年程前の日清戦争前夜との歴史的類似を指摘していたのは、佐藤優氏との対談(「危機の時代
のキリスト教」2010.11.15)における柄谷行人氏であった。あるいは、満州事変前夜、1930年頃の状況との類似を指摘する近代史の専門家(加藤陽子氏)もいる。いずれにしても、日本という国のかたちが戦前とは明らかに違っているわけで、単純に歴史は繰り返すとは言えないのは当然だが、歴史符号の妙な一致は「比喩」としても気になる。
それでは朝鮮戦争時点(1951-1953)以降の周辺各国と比較して日本の特徴とは何か。朝鮮戦争特需の余勢を駆って中国・韓国に先駆けて高度経済成長を成し遂げた点がまず指摘できる。それは自民党支配の長期安定政権によって政治的変動が抑止されたことと結びついていた。そしてその権力の正当性を、平和憲法と日米安保体制&自衛隊とのねじれ構造が隠蔽的に担保したのだった。しかし実は、そのことが日本の国のかたちと国民の心を歪めて来たのであって、その病理が日本の安全保障が政治課題となった60年と70年前後に危機的に噴出した。日本人の心の有り様はこの60年近くで<宿痾化>して、いつのまにかその慢性疾患をだれも気に留めないでその日暮らしを享受して来たのかもしれない。この点でその結節点にあって敏感にその事に反応したのが三島由紀夫であったのだろう。その最終的帰結が40年前の自決(1970.11.25)であったが、その数ヶ月前に三島が真正直に吐露した言葉がある。しかし当時、その側近のだれもその言葉へ込めた三島の思い・現状認識を理解できなかった。三島由紀夫の絶望的孤独、その遺言とも読み取れる言葉(文章の「冒頭」と「末尾」、原文ママ旧かな)をここであえて紹介しておく。日本人は今、この予言的でもある言葉を三島の命とともに負債として受け取り直す時期に来ていないか。

「私の中の二十五年間(1945−70、筆者注)を考へると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。」
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。」(「産経新聞」1970.7.7)
今年の師走は戦後65年を経て、日本を取り巻く情況とそれを迎え撃つ現体制(態勢)において、最大の危機が訪れているというのが率直な自分の実感だ。しかし、年初来解決どころか混迷を深くしている沖縄基地問題一つにしても、その前提にある日米安全保障体制、自衛隊、そして平和憲法というこの国のかたち(「領土」も含む)の根幹を国民が問い直す以外解決がないことにまず気づくべきだろう。「沖縄」ということに言及すれば、ヤマトンチューである日本人は「琉球」の歴史と文化に頬被りを決め込んで侵略と差別をし続けて来たという自己反省が先決だ。日本にとっての最大の危機は、「危機」を「危機」として感得しえない政治家や指導者の神経麻痺の問題もあるが、結局はひとりひとりの国民の心の問題に帰着するしかない。我々自身の心に巣くった今に続く戦後体制の偽善・欺瞞を直視しそれを糾す以外にここを突破する道はあり得ないと思う。三島由紀夫は、40年前にそのことを文字通り命賭けで真っ当に訴えて死んで逝った。三島由紀夫は作家でありながら、最期は武人としての死を選んだ。これはまた日本の歴史・文化と深く関係していることであって、我々は現在改めてその三島総体を検証し受け止める必要があるのだと思う。

 今号は本欄のテーマを離れて話を終始しているようだが、ドストエフスキーという作家、そしてその文学も今回意識されるような「危機の時代」にこそ蘇る力が潜んでいると思っている。すなわち、ドストエフスキーの偉大さとは徹底的にロシアという国のかたち、ロシア人の心のかたち(それは「言葉」でもある)への拘りから発しているのであって、無色透明なインターナショナリズム、ましてや現代世界を席巻している資本主義的グローバリズムとは真逆な関係にある。その淵源にこそ作家の力が孕まれている。この点でドストエフスキーに比せられる日本の小説家こそ、総体としての作家三島由紀夫であると直感している。両者は本質的に「危機の時代」に召喚される、「よみがえりの作家」である。この点では、本年も二年越しで、三島ではなく大岡昇平についてドストエフスキーと関連させて論じて来た。実は、自分の頭の中では、三島由紀夫と大岡昇平という二人の作家は、かなり近似的な類縁的作家同士だと直感している。政治的なイデオロギーや文壇的党派での色分けは表面的なもので、せいぜい一時的な文学史的分類に奉仕するものでしかない。歴史的に言えば、敗戦後の混乱期に三島も大岡もその各々全く違う戦中の「記憶」(「心的外傷」)をそれまで身につけた文学体験(古典現代、洋の東西を問わず)をシャッフルし直す中で、自身の言葉・文体として一挙に再構築した(『仮面の告白』と『野火』)文学者であった。さらに、朝鮮戦争から安保闘争を経てベトナム戦争の時代にあっても、二人は確かに別々の世界に向かって表現を試みたが、その根っこには拭い去れない戦中の「記憶」、それは端的には戦争で死んだ者達の魂の問題があったと思う(『英霊の聲』と『レイテ戦記』)。二人とも結局終生そこから離れることはなかった。二人は、日本人が世界戦争に荷担して未曾有の犠牲を払わねばならなかった昭和という時代の生き証人であるが、戦後を生き延びた生者の側ではなく、戦中に死んだ死者とともに生きた作家同志であった。その生き様の違いも案外に紙(神)一重だと言ったら、乱暴な議論だと誹りを受けるかもしれない。だが三島亡き後を18年を生きて、昭和の御代が終わる直前まで生きた大岡(1988.12没)は、昭和天皇が倒れて容態重篤になった時「おいたわしい」という言葉を吐いて結局天皇崩御の直前に逝った。一方、三島は必ずしも昭和天皇に帰依していたわけではなく、その歴史的過ちを小説(『憂国』・『英霊の聲』)的主題としたことは明白だ。二人の作家は世に流布されているほど単純な比較形容では済まされないということだ。
 
 大分話題を延長してしまったので、以後の三島論は来年に送ることにして、もう少しだけ触れて今年の書き納めとしたい。今夏の8月「特番」の際にも予告させていただいた山城むつみ氏が6年がかりのドストエフスキー論を刊行された。11月25日付、講談社刊『ドストエフスキー』で大冊(549頁)である。待望の単行本なので再読して感想など報告できればと思う。所収最後の評論「カラマーゾフのこどもたち」については今夏も取り上げたが、スメルジャコフに焦点があてられていて『カラマーゾフの兄弟』のあらたな構造分析が前提になっている。奇しくも、例会での木下豊房氏の発表「父親殺しにおけるアリョーシャ・カラマーゾフ」(11/27)でもスメルジャコフに焦点があてられた。当日司会でありながら、山城氏の論が頭にあって勝手な感想を述べさせていただいた。来年以降も「スメルジャコフ論」は新たなドストエフスキー論の一つの核になるのではないか。まずは「今、何故スメルジャコフなのか」という議論が必要だと思うが、考えてみれば、読書会ではいち早く菅原純子さんが同じ主題を論究している(2009.6)。この点でわが読書会はすでに予習済みであった。さらに、山城氏の今回のドストエフスキー論で柱になる作品が、『作家の日記』所収の「おとなしい女」であることも要注意であろう。今夏、同作品を井桁貞義氏が新訳されたが(『白夜』含む、講談社文芸文庫)、この後書きに山城氏が一文を寄せていてこれも見落とせない。考えてみれば、こちらも今年の読書会(4月)で話題になった作品で、僕自身も「連載」で大岡昇平作品に関連して言及した。こちらも、新たなドストエフスキー論の要注意作品としてマークしたい。いずれにしても、是非、山城氏の単行本を手にとって再考してもらえればと思う。そしてもう一人、「ドストエフスキーの預言」を『文學界』で連載し続けている佐藤優氏にも注目を続けたい。とにかく現代日本に強いインパクトを与えている豪腕な論客で、その精力的な活躍の一部がドストエフスキーにも注がれているわけで大いに期待したい。こちらも来年の単行本化が待ち遠しい。さらに翻訳としては亀山郁夫氏の新訳『悪霊』1(光文社新古典新訳文庫)、望月哲男氏の新訳『白痴』全3巻(河出文庫)も発表された。また亀山氏の日経新聞に連載されたエッセーが『ドストエフスキーとの59の旅』としてまとめられた。さらに亀山、望月両氏責任編集で『現代思想』ドストエフスキー特集号(4月号)も組まれ一部執筆させていただいた。本年の収穫は多種多様であった。危機迫る今日、ドストエフスキー文学を諸氏と熟読することで乗り切りたいと切に思う。来年も実り多い一年であることを期待しつつ筆を置く。 (2010.12.8)



                       
追 悼 

 去る11月6日、ある写真家が亡くなった。101歳だった。岩波写真文庫『一年生』で写真界に金字塔をたてた熊谷元一である。熊谷は、1938年、朝日新聞社『会地村』の刊行を皮切りに写真活動を開始。アマチュア写真家ながら高い評価を得てきた。とくに1955年の第一回毎日写真賞では、土門拳、木村伊衛兵といった名だたる写真家候補をおさえての受賞は伝説となっている。生涯一教員だったが、日本の写真家40人に堂々名を連ねる鬼才である。他の主な写真集『なつかしの一年生』(河出書房)、『写しつづけて69年』など。童画『二ほんの柿の木』は30年間で100万部のロングセラーとなっている。
 以下は、地元紙「南信州新聞」に掲載された追悼文です。 (2010年12月1日)

追悼・熊谷元一先生と四足のわらじ    下原敏彦
 
熊谷先生は、ご自分の人生を「三足のわらじを履いた人生」にたとえられていた。三足とは、童画家、写真家、教師の人生である。昭和28年、村の小学校に入学した私たち一年生は、幸運にもこの三足の恩恵を受けることができた。
童画家としての先生からは、自由に描く楽しさを教わった。先生の絵画指導で、多くの子が賞状を手にする栄誉を得た。私もその一人だった。新聞社が主催した「第一回版画コンクール」では、共同制作の作品紙版画「どうぶつえん」が全国第一位になった。写真家としての先生からは、貧しかった時代にあって、本当に多くの写真を残していただいた。1955年出版の岩波写真文庫『一年生』は、ひろく世に知られ私たちの一生の宝物となった。
教師としての先生からは、人生の糧となることを学んだ。叱るより褒める教育だった。「ほう、面白いじゃないか」寡黙だが、その一言に自信がもてた。先生の教育は学校に止まらなかった。退職後の人生そのものが教育だった。一つのことをつづけること、観察することの大切さ。いくつになっても目標を持つことの大事さ。継続は力、その実践教育は、還暦を過ぎた今日まで、私たちを励まし、勇気と希望を与えてくれた。
今年の夏だった。記念文集『還暦になった一年生』の刊行を終えほっとしていると、先生から電話があった。「おもしれいことを思いついたんだ」先生は、うれしそうにおっしゃつた。なんと、またしても新しい写真集の企画が浮かんだというのだ。101歳を過ぎたというのに、尽きぬ興味と意欲に驚いた。周囲の人たちの困惑を思って苦笑した。が、なにか新しい力をもらったようで元気がわいた。「はい、手伝います!」私は、思わず返事した。
思えば、それが先生との会話の最後になった。先生の訃報を知ったのは病院のベッドの上だった。脊椎手術で身動き不自由な体だった。葬儀の日、無念な思いで病室の窓の秋空をながめたていたら、重大なことを思いだした。先生との約束である。先の貞子奥様の葬儀のとき、先生から「わしの葬式のときバンザイで送ってくれ」と頼まれた。皆には断られたらしい。「おまえさんが是非やってくれ」ユーモアのある先生だが冗談は言わない。私は、笑ってあいまいにうなずくほかなかった。だれかやってくれただろうか。葬儀が終わる時刻、私は、天高くひろがる西空に、小さくバンザイを告げた。
後日、先生の最期の言葉を伝え聞いた。見舞った曾孫さんに「わしはいくつだ」と尋ね「101さいだよ」といわれて「そうか、そんなに生きたのか」と、しみじみつぶやかれたという。先生は三足のわらじの他に、人を楽しませる、思いやるわらじも履いていた。先生は四足のわらじを履いていたのだ。
退院の日、小春日和の日差しの中で、ふとそんなことを想った。そうして、四足のわらじに改めて感謝したい気持ちになった。
先生、本当にありがとうございました。



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