ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.121  発行:2010.8.3


 
8月は、暑気払い読書会として下記の要領で開きます。4サイクル最後の読書会となります。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。

『カラマーゾフの兄弟』祭り
 
月 日 : 2010年8月 14日(土)
場 所 : 東京芸術劇場小7会議室(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111                 

午前の部

時 間 : 午前10時00分 〜 正午まで
題 目 : 希望者によるカラマーゾフなんでもトーク(有志の方) 

午後の部(一)

時 間 :  1時30分 〜 3時00分

題 目 : 「カラマーゾフのこどもたち」『群像』7月号 山城むつみ氏評論をめぐって
報告者 : 福井 勝也さん
              
午後の部(二)

時 間 : 3時15分 〜 4時30分
題 目 : 「詩人田村隆一とミーチャ垂直的人間の系譜」
報告者 : 土屋 正敏さん

その他 : 4時00分 〜 4時45分(質疑応答・5サイクルお知らせなど)        


残暑お見舞い申し上げます
 連日、猛暑がつづいていますが、読書会の皆様には、いかがお過ごしでしょうか。今年は、世界的に異常気象のようです。暑気払い読書会で吹き飛ばしましょう!! 
8・14『カラマーゾフ』祭りについて
 今年の暑気払い読書会は、4サイクル最後の読書会となります。全作品読みは、10年1サイクルの期間で読了してきたので、まさに40年間読みつづけてきたことになります。
4サイクルは2000年からはじまったので、2010年ときりよい年に終了です。今回は、この節目にふさわしく賑やかに催したいと思います。多数の声を期待して午前開催より大勢の皆様の話を聞きたい。言い足らなかったところを補いたい等様々なから、開催時間を午前枠にひろげます。有志の方はふるってご参加ください。
午前9時30分開場です。従ってこの日は、朝からなら長丁場になります。都合のよい時間にお出かけください。
カラマーゾフ祭プログラムは以下の予定で行います。

『カラマーゾフの兄弟』祭プログラム
 
AM10:00  希望者による「カラマーゾフ」なんでもトーク
         これまでの読書会で言い足らなかったことを心置きなく話ましょう!
8月1日現在までに希望されている皆さん
         菅原純子さん「金石範『鴉の死』とドストエフスキーのとば口に立って」
         江原あき子さん「サブカルチャーで読む『カラマーゾフの兄弟』」、
         下原康子さん「アリョーシャとはだれか」
         
   0:00  昼食
PM01:30  「カラマーゾフのこどもたち」(山城むつみ評論『群像』7号)をめぐって  
         報告者=福井勝也さん
         
PM03:00  休憩
PM03:15  「詩人田村隆一とミーチャ垂直的人間の系譜」没後12年に想う
          発表者=土屋正敏さん
          
PM04:45   次回読書会について
          新企画、アサドク(午前朗読会)へのお誘い





サブカルチャーで読む『カラマーゾフの兄弟』

江原あき子

 ドストエフスキーはいつも近くて遠い人だった。スヴィドゥリガイロフに自分を重ね、ドゥーニャに憧れ、アリョーシャのひたむきさに心打たれる私ではあるが、これが“大審問官”ともなると、さっぱりわからない。以前は必死で評論や評伝を読み、なんとか理解しようとしたのだが、それももう、やめた。ただ、一番最初に読んだときの気持ちは今でも忘れない。決定的な違和感、しかし、なにか巨大で動かしがたいものに触れたという感覚。それはただの感覚であったのだが、この感覚は正直で、我ながら正しかったと思う。今年もジャパンフェスタがフランスで開催され、ヨーロッパ各国から、多くの人たちが日本のサブカルチャーに触れようとつめかけた。彼らの日本のアニメやコミックに対する憧れはハンパではなく、私はたびたび驚かされる。でもこれはドストエフスキーに対する自分の姿かもしれないと最近思う。今回はヨーロッパのコミックと日本のアニメを語りながら、私のドストエフスキーへの果てしない憧れを語ります。


菅原純子「金石範『鴉の死』とドストエフスキーのとば口に立って」

金石範(1925-)の作品は、大長編『火山島』全7巻におよぼしたいのですが、今回は時間がありませんので『鴉の死』についてだけをとりあげたいと思います。




下原康子「アリョーシャとはだれか?」

 かって私は「ケアの達人、わたしのアリョーシャ」論を発表し、そこで「ゾシマ長老はアリョーシャをケアのボランティアとして俗界に送り込んだ」と述べたが、その後にむくむくとわいてきた疑問について話したい。

福井勝也「山城むつみ『カラマーゾフの子供たち』」

 2010年7月号の『群像』は、ドストエフスキー特集です。井桁貞義訳の『やさしい女』と山城むつみ氏の評論『カラマーゾフのこどもたち』が掲載されています。長編なので図書館などで目を通してきていただければ幸いです。

土屋正敏「詩人田村隆一没後12周年に想う」

戦後詩を代表する詩人田村隆一をご存知でしょうか。東京都に生まれ、47歳以降の大半を鎌倉市内で過ごしましたが、1998(平成10)年8月26日に75歳で死去。市内の妙本寺に眠っています。ところで、田村の代表作の一つ「言葉のない世界」は次の一節で始まります。

「言葉のない世界は真昼の球体だ/おれは垂直的人間//言葉のない世界は正午の詩の世界だ/おれは水平的人間にとどまることはできない」ここにある「垂直的人間」に注目してください。私たちがよく知っているドミートリー・カラマーゾフの人間性を彷彿(ほうふつ)とさせる言葉、イメージではないでしょうか。実際、田村は10代後半で邦訳によるトーマス・マンやヴァレリーの作品に夢中になったそうですが、「カラマーゾフの兄弟」を読んだ後、あの作中の少年たちのように「万歳」を叫ぶほど興奮したと自ら書いています。 
 
 ことしは田村の十三回忌ですが、詩人に何度かお会いした思い出や生前の風貌(ふうぼう)をお話しし、「垂直的人間の系譜」についても、思いを巡らせることができたらと思います。  




6・12読書会報告

                 
6月読書会は、12日午後2時00分 第5会議室で開催。16名参加でした。出席の皆さん16名

宇宙の果てで「おかしな男」が見たものは何か、議論熱く!!
『おかしな男の夢』について議論最中に出た言葉のいくつか
「トルストイは白樺派的貴族」「ドストエフスキーは戦争賛歌」「戦争文学、動機『未成年』」
「黄金時代の夢」「西洋的理想の局地」「ハイネの詩」「正体がわかる」「なつかしい」「今回はじめて読んだ。面白かった」「自己中心的人間」「臨死体験」「キリスト的ではなく内的なもの」「宇宙体験」「メシアコンプレックス」「遊体離脱」「アウラ」「水晶の惑星」「1Q84」「伝導とは何か」「神はいない」「自伝色が濃い」「モチーフ小説」「夢、SF、新鮮、100年前、70年代のユートピア」「エデンに近い」「2001年宇宙の旅」「ゴーゴリの作品」「同時代の人たちへのメッセージ」「直接的に書かない」「風刺的、現実離れ」「世間、ダメ人間逆転」
 以上は、『おかしな男の夢』についての議論で発言された言葉のいくつかです。一つ一つには関連性を感じません。が、ネズっちだかネジっちだかの今流なら「おかしな男の夢」と掛けて「なになに」と解く形式になるかも知れません。なら作品や「おかしな男」を彷彿したり関連を感じたでしょうか。

 この7月24日に、この宇宙や人間の謎を追うSF作家が、また一人亡くなった。ジェイムズ・P・ホーガン(1941〜2010)である。コンピューター・セールスマンをしていた彼は、『星を継ぐもの』を書いて一躍人気SF作家となった。以下、物語の概略。
創元推理文庫 訳者・池 央耿(いけひろあき)  1980初版
ジェイムズ・ホーガン『星を継ぐもの』
【概略】月面調査隊が真紅の宇宙服をまとった死体を発見した。綿密な調査の結果、この死体は、何と死後5万年を経過していることがわかった。果たして現生人類とのつながりはいかなるものか・・・・・(創元推理文庫) 彼は、どこから来たのか。月面で何をしていたのか。喧々諤々の科学者、考古学者たち。彼らの進化過程は、遺跡の痕跡は。深まる謎。残された所持品から、5万年前の宇宙飛行士の正体が徐々に明らかになつていく。人類への警鐘。
人間の謎
 人間は、なぜ存在するのか。まずこの謎を解かなければはじまらない。
22億年前の地球凍結直後 酸素濃度上昇で高等生物誕生?東大・海洋研が仮説
(7月27日、日経新聞)



ドストエフスキー文献情報


― 最新ドスト情報(8・1)提供・【ド翁文庫】佐藤徹夫氏 ―

<作品翻訳>

・「悪霊 三部からなる長編小説 第三章 他人の不始末(承前)」
      ドストエフスキー 亀山郁夫訳
      「小説宝石」 43(7)(2010.6.22=July 2010) p226-238
      *解説:『悪霊』―道化芝居としての「革命」/亀山郁夫 p239-241
      *連載・最終回 
      *9月、<光文社古典新訳文庫>から、第1巻(全3巻)刊行予定
・「やさしい女」 ドストエフスキー 井桁貞義訳 p72-113
      「群像」 65(7)(2010.7.1)
・『白痴 1』 ドストエフスキー著 望月哲男訳 河出書房新社 2010年7月20日
      \750 395p 15cm <河出文庫・ト 8-1>
      *巻末」『白痴 1』解説/望月哲男 p379-395

<漫画>

・『カラマーゾフの兄弟 @』 ドストエフスキー、及川由美著 幻冬舎コミックス
      (発売:幻冬舎) 2010年3月24日 \667 252p 18.3cm
      <バーズコミックススペシャル>
・『マンガで読む名作 罪と罰』 ドストエフスキー原作 岩下博美漫画 日本文芸社
      2010年4月15日 \876 318p 14.9cm
<シナリオ>

・『台本 罪と罰』 原作ドストエフスキー、脚色Y.カリャーキン、Y.リュービモフ
      訳者桜井郁子 せせらぎ出版 2007年1月20日 \1200 126p 18.2cm
      *2006年俳優座公演作品 少々以前の出版だが珍しいので載録
<図書>

・講座・古典文学 1  ドストエフスキー『悪霊』 使嗾する神々/亀山郁夫 p79-121
      『表現 Human Contact 2』 京都精華大学表現研究機構編・刊
      (発売:ミネルヴァ書房) 2008年5月30日 \2000 E+163p 21cm
・ドストエーフスキーとルカーチ 長編小説論への序章/池田浩士 p267-285
      『ルカーチとこの時代』 池田浩士著 インパクト出版会 2009年8月15日
      \5200 407p 21.7cm <池田浩士コレクション・2>
・『シベリア文学論序説』 中西昭雄著 寒灯舎(発売:れんが書房新社)2010年1月25日
      \3000 368+Ep 19.5cm
      *初出:「リプレーザ」 2006/2007冬号〜2008/2009冬号
・第10冊 お笑い芸人で読み解く ドストエフスキーの「罪と罰」 p132-145
      『お厚いのがお好き?』小山薫堂企画 哲学監修:富増章成 扶桑社 2010年
      3月10日 \667 303p 15.2cm <扶桑社文庫・0558=こ 1-7>

      *初版:フジテレビ出版 2004.6.10
・再び『罪と罰』を疑う 最早ドストエフスキーは“古い”/松本道介 p348-369
    『極楽鳥の愁い―“ない”の発見 視点W』松本道介著 鳥影社2010年3月15日
      \1900 383p 19.5cm <季刊文科コレクション>
      *初出:「季刊文科」 34〜36  因みに「視点、第一回 『罪と罰』を疑う」
・「罪と罰」について p8-50;ドストエフスキイ七十五周年祭に於ける講演 
p50-74/小林秀雄
    『日本人の知性3 小林秀雄』小林秀雄著 学術出版会(発売:日本図書センター)
      2010年3月20日 \4800 277p 21.7cm
      *初出:『現代知性全集 42 小林秀雄集』 日本書房 昭和35年5月15日刊
・『内村剛介著作集 第4巻 ロシア・インテリゲンチャとは何か』 内村剛介著 陶山幾朗
  編集・構成 恵雅堂出版 2010年3月30日 \5000 612p 21.6cm
      *講談社刊<人類の知的遺産・51>『ドストエフスキー』(1978年)を始め、
内村剛介の「ドストエフスキー論」の全容を収載  詳細は省略
・<下級官吏>という主人公 ゴーゴリとドストエフスキーそして「車善六」/林淑美 
p189-207
     『批評の人間性 中野重治』林淑美著 平凡社2010年4月4日 \3400 356p
  19.4cm *初出:「群像」 49(9)(1994.9)<特集:没後十五年、中野重治の現在>
・エロティックな欲望 3 鍔を吐いて堕落すること p195-205; 恋愛の背理 
4 「汝殺すなかれ」p260-269/竹田青嗣
      『恋愛論』 竹田青嗣著 筑摩書房 2010年5月10日 \1100 303p 14.8cm
      <ちくま学芸文庫 タ-1-5>  *初出:1993.6 作品社刊
・『ドストエフスキイ『罪と罰』論 人は神と悪魔のいずれに依り頼むべきか』 
上田滋著 近代文藝社 2010年5月20日 \2000 222p 19.4cm
・Q ドストエフスキーと「癲癇」 死の極限状態から編み出された魂を揺さぶる珠玉の作
品群/池永達夫 p142-148
 『病にも克った! もう一つの「偉人・英雄」列伝 逆境は飛躍へのバネに』池永達夫著
      コスモトゥーワン 2010年5月21日 \1300 159p 18.8cm
・『甦るドストエフスキーの世紀 現代日本への警鐘』 勝田吉太郎著 
ミネルヴァ書房 2010年 5月30日 \3000 viii+288p 19.5cm
・第二章 戦後イタリア映画の名作 
・ドストエフスキーの短篇「ペテルスブルグも白夜」の映画化
    「白夜」と演出者ヴィスコンティ/植草甚一 p102-112
    『植草甚一WORKS6 イタリア映画の新しさを伝えたい』 植草甚一著 近代映画社
      2010年6月10日 \1800 190p 21.1cm  <SCREEN Library 006>
・5 『悪霊』 ドストエフスキーとキルケゴールを濫読する/木田元 p111-133
  『私の読書遍歴 猿飛佐助からハイデガーへ』木田元著 岩波書店 2010年6月16日
      \920 I+254+11p 14.8cm  <岩波現代文庫/社会 203>
      *初版:『猿飛佐助からハイデガー』 岩波書店 2003.9刊
・第二章 Life露西亜の小説/大木昭男 p24-31
      『漱石と「露西亜の小説」』 大木昭男著 東洋書店 2010年6月20日 \600
      63p 21.1cm  <ユーラシア・ブックレット No.151>
・『ドストエフスキーとの59の旅』 亀山郁夫著 日本経済新聞社 2010年6月21日 \1900
      286p 19.4cm  *初出:「日本経済新聞」 日曜・朝刊 2009.1.4〜12.27

<逐次刊行物>

・カラマーゾフのこどもたち/山城むつみ p114-174
      「群像」 65(7)(2010.7.1)  *山城論文の完結篇
・ドストエフスキーの予言 第十五回 外部/佐藤優
      「文學界」 64(7)(2010.7.1) p202-214
      *8月号は休載
・裁かれた虚空 高村薫とドストエフスキー/亀山郁夫
      「新潮」 107(8)=1267(2010.7.7=August 2010) p182-203
<DVD>

・『白痴 IDIOT』 ロシア国営テレビ 2003年作品 515分(5枚組) IVC社 \14910
      *未入手・未確認 amazonで廉価版あり




はるか読書会を離れて、が、ドストエフスキーはいつも心に 
― 山形県酒田市で再会を喜ぶ ―  (編集室)

 上記の「ドストエフスキー情報」の〈DVD〉で思いだしたことがある。さる7月19日、急きょ、山形県の酒田市に旅することになった。酒田と聞いて、とっさに頭に浮かんだのは、米山裕之さんのことである。全国の通信愛読者に「読書会通信」を郵送している。毎回、宛名を貼っているから、無意識のうちに所がインプットされている。米山さんは、本社が東京にある新聞社の記者で2年前、山形支局から酒田支局に移っていた。もう数年前になろうか、学生だった彼は、よく筑波から読書会に参加していた。二次会にも参加した。たしか、そのころ読書会は夕方6時開催だった。で、宴席の散会は11時近くなる。いまは、秋葉原から直通電車が走っているが、当時はなかった。それでどうするのかと心配して聞いたら、深夜バスに乗って帰るのだという。当節はロシア文学をやっていても読まない学生が多い。彼は経済が専攻の学生だったが、熱心な読者だった。根っからドストエフスキーが好きで参加していたのだ。それで、妙に懐かしくなり連絡すると、喜んでくれて仕事帰りに宿の方に顔をみせるという。何年ぶりだろうか。楽しみだった。
 余談だが、酒田市について、少し触れたい。名前は何かで聞いて知っていたが、どこにあるのか、さっぱりわからなかった。新幹線で行くので、山形の手前と思っていた。ところが終点の新庄から二両の在来線に乗ることになった。車窓は、さくらんぼかサフランか、そんな名産木々の畑がつづく。遠くに山が見えるだけの、なんとものんびりした退屈な風景。12時に東京駅を発って着いたのは5時だった。酒田がこんなに遠かったことと、こんなにも交通が不便だとはじめて知った。まさに陸の孤島。しかし、なぜか酒田の町は有名だ。電車を降りるとすぐそのわけがわかった。映画『おくりびと』の舞台となった町だ。楽器を抱えた主役男優の大ポスターが、目に飛び込んできた。宿までのタクシーで、途中、黒板の倉庫棟と、欅の大樹並木がある山居倉庫を見学した。江戸時代は北前舟で栄えた町らしい。
 その夜、彼は見えなかった。翌朝、隣接の土門拳記念館で再会した。バラバラ殺人事件の遺体の一部が発見された。それで昨夜は多忙だったようだ。数年前と少しも変わっていなかった。静かな記念館のなかで談笑した。「めったに事件はないんです。だからドも読めます」苦笑しながら、最近、ロシア版のDVDで『白痴』を見たといった。案内してもらい昼を一緒にとり、読書会での再会を誓って別れた。懐かしい時間に不思議な因縁を思う。





「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
 
第30回:山城むつみ氏の「カラマーゾフのこどもたち」について                                           
福井勝也            

 今回は「夏企画読書会」特番に合わせて、標記山城むつみ氏の最新評論を導入的資料として取りあげたい。読書会4サイクル目の最後の巡り合わせにふさわしい『カラマーゾフの兄弟』を対象とした画期的な評論(『群像』7月号、60頁掲載)が最近掲載されたことによる。今までもこの欄で山城氏のドストエフスキー論を紹介(「通信」98号・113号ほか)してきた。その近年の内容を振り返れば、『罪と罰』『悪霊』『白痴』『地下室の手記』『おとなしい女』を論じた『文学界』(04年~07年、計5回)での連載、その後『白痴』(08年)『未成年』『おとなしい女』(09年)そして今回の『カラマーゾフの兄弟』(10年)を論じた『群像』での連続評論ということになる。おそらく今までの「作品論」をまとめた単行本が年内にも発刊されるのではないかと期待される。
そもそも山城氏の文学界デビュウは小林秀雄の文藝批評におけるドストエフスキー論の位置づけを問題とした「小林批評のクリティカルポイント」(92年6月号『群像』掲載で第35回群像新人文学賞受賞、講談社文芸文庫『文学のプログラム』所収、09年)であった。昨秋刊行された文庫版「あとがき」では、受賞後18年以上が経過して、その初期評論をやや等閑視するような表現も読み取れて興味深く読んだ。その文章のなかで眼に着いた、小林批評を氏が注目するに至った言葉を引用しておこう。
私が心底、驚いたのは、小林がただ<読む>ことだけで、いわばサシで、また丸腰でドストエフスキーの本文とわたり合っていたからだ。―中略―どんな高度な理論を参照している場合でも、ドストエフスキーをただ読む読み方で読み通すという原則を崩していなかった。これはあたりまえのことのようで実は容易なことではない。ただ読んで驚嘆したところを<書く>ためには尋常でない集中力と愛情で熟読を繰り返さねばならないからだ。
小林秀雄については、米原万里、井上ひさし、小森陽一との座談会「座談会昭和文学史(25)小林秀雄――その伝説と魔力」(『すばる』03年、4月号)におけるゲスト発言でも同趣旨の小林理解を氏が率直に語っていたのが印象に残っている。これまでの経過のなかで、山城氏自身が文芸批評家として小林の<ただ読む読み方で読み通すという原則>を誠実に自身のものにしてきたことを今回改めて感じさせられた。この点では、鋭い視点から小林批評の<臨界点=クリティカルポイント>に切り込んだ処女評論から氏が着実に批評家としての成長を遂げて来たことが理解される。それを可能にしたのは、小林が切り開いた文藝批評の根本姿勢に深くコミットし続けて来たからだろう。以前にもやや触れたことだが、山城むつみという批評家の個性が魅力的なのは、新奇な議論とは全く無縁に、小林秀雄あるいはバフチン等が構築した批評言語を方法的原理にまで遡及させて言葉を選ぶその徹底性にある。その結果産まれてくる「読み」の透徹生が読者に深く響いてくるのだ。
それでは、今回の山城氏の批評文「カラマーゾフのこどもたち」についてその概略に触れながら、そのポイントをとりあえず導入的に語ってみたいと思う。まずは60頁におよぶ今回の「批評」の目次を列挙してみよう。

序章  左右の差異 ―― アリョーシャとスメルジャコフ
(1)こどもたちの創造
(2)スメルジャコフの創造

第1章 「兄弟」になること ―― スメルジャコフを愛せるか
1A 事前の対話:スメルジャコフの影
1Aa 「あまいもの」と「ばかげたこと」
間奏  ムカデの考え ―― ミーチャ、恥辱の原点
     1Ab 左目による連帯関係 
     1B 事後の対話:左右の「あなたじゃない」 
     1Ba 物質化する兄弟愛 ―― 貨幣ならざる札束
     1Bb 血縁を断ち切る兄弟愛 ―― 神の遣いと癲癇病み
 第2章  「こども」になること ―― イリューシャは復活するか
    2A ジューチカの場合
     2Aa スメルジャコフの側で ――  ジューチカとの邂逅
     2Ab アリョーシャの側で  ――  ペレズヴォンによる復活
   間奏  ヨブ的問いと腐臭の問題
    2B イリューシャの場合
     2Ba 死んだこの子が「わが子」であるのはなぜなのか
     2Bb 「こどもたち」というルーレット

 今回の氏の批評文は今までの作品論に比して、その論点が大変構成的に語られていることが特徴的で、それは『カラマーゾフの兄弟』という小説構造を明解に浮上させるものになっている。そしてその出発点を『白痴』のムイシュキン公爵のスイス時代、彼が一緒に過ごしたこどもたちと肺病の娘マリイとの物語に求めていることが重要だ。そこから『白痴』で積み残したこどもたちのことをどう積み出すかという問題が継続してくる。そしてムイシュキン公爵という主人公から病的なものを取り去って生み出されたのがアリョーシャという存在であり、逆に結果残った病的なもの(癲癇、「白痴」、性的不能)を一手に引き受けるように創造されたのがスメルジャコフであるという人物像の関係性が語られる。そしてさらに二人が、ムイシュキンの半身として左右一対をなしているというのが、今回の『カラマーゾフの兄弟』読み解きのアルファでありオメガになっている。そしてそのような山城氏の指摘が、単に突飛な評者の思いつきでなく、作品を<ただ読む読み方で読み通すという原則>、先述の小林批評の原理の実践になりえていることが大事なのだと思う。そのことが読者の目を素直に作品に向かって開かせてくれることになるのだ。序章で山城氏は次のように語り始めて本論に入ってゆく。
  『カラマーゾフの兄弟』に沁として残るのは《スメルジャコフを愛せるか》という問いだ。一対であると頭で分かっても、アリョーシャを愛するようにスメルジャコフを愛することはほとんど不可能なのだ。両者はたしかに左右一対であり、この対称性において彼らの明暗の差異は解消している。にもかかわらず、左右の差異はやはり解消されないのだ。
  このように、アリョーシャとスメルジャコフの左右対称性が『カラマーゾフの兄弟』の構造を決定づけている。本稿では、つねに一方の極にアリョーシャを、他方の極にスメルジャコフを置きながら、そのあいだで、「兄弟」(第1章)と「こども」(第2章)という主題について考えたい。特徴的なことに、アリョーシャとスメルジャコフの会話は本編中、たった一度しかない(「ギターを抱えたスメルジャコフ」)。にもかかわらず、彼らの左右対称性ゆえに、対話らしい対話はそこに生じない。本人どうしの会話ではかえつて左右の差異が見えない。むしろ、その後に継起するアリョーシャとイワンの対話、スメルジャコフとイワンの対話において左右の差異は露呈する。イワンを挟んで左右に立っているアリョーシャとスメルジャコフとに引き裂かれてゆくイワンの分裂に左右の差異が端的に露出するのだ。それをまず注視しよう。こどもたちはそこから浮かび上がってくるだろう。
見事な導入であり、『カラマーゾフの兄弟』について本来語られるべき画期的論点が一挙に開けて行くような予感に捕らわれる。そこに開かれたパースペクティブに刺激されて氏の批評の言葉を追いかけることを読者は促される。今回、この欄では山城氏の批評を解説することが目的ではないし、それは余り意味あることとも思えない。是非、やや長い文章にご自分であたってみていただければと思う。ただ本文に当たれない方のことを考えて、資料として自分が気になったフレ−ズを以下勝手に列挙しておく。今回、さらに蛇足的話題を一つ付け加えておこうと思う。村上春樹氏が最近、新著『1Q84』を語るインタビュー(「特集村上春樹ロングインタビュー」『考える人』新潮社、2010年夏号)のなかで、ドストエフスキーの作品では『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフに強く惹かれたことを告白し、『カラマーゾフの兄弟』(と『悪霊』)という作品こそ小説家としての自分が到達点とすべき北極星のような存在だと明言したことだ。当代きっての<小説家と批評家>がドストエフスキーの、『カラマーゾフの兄弟』の、それもスメルジャコフに注目している現在の偶然は何を意味しているのだろうか。そんな巡り合わせも次回「読書会」で話題にできたらと思う。それでは、以下目に着いたところを引用してみる。気になった文章が一つでもあったら近くの図書館で『群像』7月号の本文に是非あたって欲しい。
・ スメルジャコフを愛することができなければ、ドストエフスキーが「わが主人公」と明記したアリョーシャを理解することはできない。スメルジャコフの苦しみに全幅の共振ができて初めてカラマーゾフの全スペクトルを理解したと言えるのだろう。 (序章)
・ 『カラマーゾフの兄弟』はありとあらゆる矛盾と対立物を砂糖で煮込んだ巨大なコンポートだ。ここでは「信仰の人」と「無神論者」の分割線が引けないところでアリョーシャを信仰の人として描こうとしているのだ。「信仰の人」か「無神論者」かという問いは読者を貧しくしかしない。むしろ、両者の識別を不可能にする「あまいもの」に注意しよう。                               (1Aa)
・ ここで断っておこう。《もし神/不死がなければ、すべてが赦される》という言葉は  作中でも作外でも独り歩きして勝手に有名になってしまったが、この公式をイワンが作中で積極的に力説したところは一ケ所もないのだ。この公式がつねにイワン以外の登場人物(ミウーソフ、ドミトリィ、ゾシマ、スメルジャコフ、悪魔)から間接的に会話にのぼせられるのには作者の周到な配慮がある。                        (1Aa)
・ 父殺しはスメルジャコフとイワンのあいだに生じた「連帯関係」すなわち無意識の兄弟愛に起因する。父殺しという無意識の欲望がイワン(あるいはスメルジャコフ)に予め内在していたのではないのだ。そもそも、おぞましい無意識の欲望が個人の《潜在意識》に抑圧されていて、それが思いがけず顔を出した、云々という《深層心理》は事柄を事後からわかりやすく説明するために作られたストーリーにすぎない。現実は、事前から見れば、オイディプスの時代からつねに「一寸先は闇」であり、無意識とはその闇にほかならないのだ。イワンの《深層心理》などというありもしない深淵を覗き込もうとするのはやめて、―中略―言葉の一寸先にはりついている闇こそ見るべきなのだ。イワン自身、目を逸らそうとしているが、彼とスメルジャコフとのあいだに生じている暗くて彼の感情を害する「連帯関係」を見ることがスメルジャコフを理解するというそのことなのである。                           (1Ab)
・ どんなに倒錯的に見えようと、彼(=スメルジャコフ)はただイワンとの無意識の兄弟愛を確認するただそれだけのために《父》を殺したのである。      (1Ba)
・ イワンの不幸はスメルジャコフと関わったことにあるのではない。この下男ときちんと関わることができなかったことにあるのだ。イワンが向き合うべき問いは《親父を殺ったのは事実上、俺なのか》ではない。《スメルジャコフを弟として愛せるか》なのだ。アリョーシャが「あなたじゃない」という言葉によってイワンにつきつけているのは究極的にはこの問いなのだ。スメルジャコフの呪縛から解放されるとは彼からの糸を断ち切ることではないのだ。                        (1Bb)
・ 『カラマーゾフの兄弟』が、そのスペクトルの両端をなすアリョーシャとスメルジャコフのあいだにイワンを置いて問うているのは血縁の有無にかかわらない兄弟愛なのだ。この長編の力点はタイトルどおり「兄弟」にある。父子にはない。父殺しが問題になるのは、血縁の有無にかかわらない「兄弟」間のヨコの関係(無意識/盲目性)においてなのだ。血縁のある父子間のタテの愛憎(深層心理/潜在意識)においてではない。そのことは「兄弟」という第一主題が長編の後半で「こどもたち」という第二主題に変奏されるときに明らかになる。アリョーシャとスメルジャコフという両端のあいだに今度は、イリューシャというひとりの少年を置いてみよう。         (1Bb)
・ イリューシャとスメルジャコフとの関係は、スメルジャコフとイワンとの関係に類比的だ。したがって、スメルジャコフとの関係におけるイリューシャの苦しみは、イワンとの関係において見えなかったスメルジャコフの苦しみを照らし出してくれる。スメルジャコフの裡に隠れていた「こども」は、フョードル殺害後、イリューシャのように苦しんでいたのだ。森有正がイリューシャについて指摘していたとおり、それは良心の呵責から来る苦しみではない。―中略―森有正が消滅しない罪について書いたとき、彼はこの「絶望」のことを書いていたのだ。たしかに、番犬ジューチカとの関係においては「イリューシャにだけそれがおこって、スメルジャコフにはおこらない」。しかしフョードル殺害に関しては、イリューシャに生じた苦しみがそのままスメルジャコフに生じるのだ。                               (2Aa)
・ 真に重要な問題は、イリューシャの死後にも彼にとって存在し続ける「駆けながら鳴いているヂューチカ」(絶望/罪)が「この世界で」解消するかどうかなのである。イリューシャの場合、それを可能にする邂逅が起こった。平行線は交わる。それが「復活」なのだ。―中略―ジューチカがペレズヴォンであるという事実が生じた瞬間、ジューチカはイリューシャにとって「復活」したのだ。―中略―「地獄」への転落同様、「復活」も邂逅によって起こるのだ。ユークリッド的思考にはただの確率的問題にすぎないこの場所において答えを期待することなく「なぜ」を問い続けるとき、そこに露呈するものの手触りが重要なのである。                     (2Ab)

・ すでにイワンとイリューシャの差異において一瞥したように、いやな臭いのリザヴェータ、腐臭をあげるゾシマ、いやな臭いのパーヴェル、すなわちスメルジャコフを愛せるかが『カラマーゾフの兄弟』の問いなのである。フョードルは、いやな臭いのリザヴェータを「愛した」。アリョーシャは腐臭に包まれたゾシマを愛した。では、イワンはスメルジャコフを愛せるか。その困難が『カラマーゾフの兄弟』の最奥の石である。じっさいには、イワンはアリョーシャさえ、愛そうとして愛せなかった。しかし、もしスメルジャコフを愛せていたら『カラマーゾフの兄弟』は「爆発してこの世界にある他のすべての本を破壊してしまうだろう」(ウィトゲンシュタイン)。(間奏
ヨブ的問いと腐臭の問題)
・ イワンは、神が創ったこの世界の「ばかばかしさ」を訴えた。だが、この世の摂理の不条理ならスネギリョフのほうがイワンよりもっと切実に具体的に感じている。重要なのは、この「ばかばかしい」世界のなかでなお《なぜ》と問わずにいられないような他者との「邂逅」があるかどうかなのだ。イワンには、それがなかった。ところが、スネギリョフは《イリューシャがなぜイリューシャなのか》という問いにおいてイリューシャと「邂逅」しているのだ。彼の涙の中で震えていたのはこの問いだ。彼はヨブ同様、無意味で詮無いこの「なぜ」の反響において何かが露呈するのを感じていなかったか。(2Ba)
・ ドストエフスキー作品における時間が濃厚で高密度なのは、ドストエフスキーの時間がこどもの時間だからだ。ドストエフスキーは小説の中にこども時代を描いたのではない。こどもの時間を生きているのだ。こどもに濃厚な時間が流れるのは、こどもの生にはどんな目的/終わりも設定されていないからだ。だが、こどもにかぎらず、そもそも生にはどんな目的も終わりもないのではないか。アリョーシャの「演説」には彼自身幼年時代の記憶を斜めに貫いていたあのドストエフスキー的な遮光が射している。(2Bb)
                                    
・ アリョーシャは今、こどもたちという、カラマーゾフ的「兄弟」の可能性の中心にいる。ルーレットは彼を中心に激しく回転している。こどもたちが、「カラマーゾフ万歳!」
と叫んだのは、ほかでもない彼らに囲まれていたからこそ開花したアレクセイ・カラマーゾフの僥倖としての善良さに対してだ。したがって、この「カラマーゾフ」には左右反転陰画であるスメルジャコフも含まれる。こどもたちは、アリョーシャの善良さをそのありえない幸運さにおいて言祝ぐようにスメルジャコフの邪悪さをそのありえない不運さにおいて憐れむのだ。彼らはアリョーシャとスメルジャコフを両端とする「カラマーゾフ」の全スペクトル(ゾシマ、ドミートリィ、イワン、フョードル、グルーシェンカ、カチェリーナ、等)に対して「万歳!」と絶叫したのだ。それは「大交響楽のどんづまりのピアノのキーの一打ち」(武田泰淳「カラマーゾフ的世界ばんざい!」)のように響いている。 (2Bb)
 
青土社 2010 vol.384
雑誌 『現代思想』4月臨時増刊号
総特集=ドストエフスキー
亀山郁夫+望月哲男 責任編集
・福井勝也編「古今東西のドストエフスキー 日本編」
・福井勝也「日本のドストエフスキー」

 



『作家の日記』と現代社会面に想う
 (編集室)

 記録的な酷暑である。いや、世界では雪も降るところもある、大洪水もあるというから地球規模の異常気象である。なぜ、こんなことになっているのか。科学者は、文明の進み過ぎ、道徳家は、人間のだらしなさ、そして、宗教家は、神の気まぐれを原因にあげるかも知れない。どれも、当たっている気もする。が、もうどうでもいい気持ちでもある。
こんな、ただでさえ、うっとおしい、暑苦しい今夏、社会では連日のように不幸な、嫌な出来事が起きている。それもほとんどが「事実は小説より奇なり」と思われる事件である。大阪で起きた育児放棄事件。児童虐待報道に慣れてしまった昨今ではあるが、この事件のニュースをみるたびに暗澹とした気持になる。この事件は、23歳の風俗店勤務の母親が、3歳の娘と1歳の長男を育児放棄の末、飢え死にか暑さかで死なせた、殺したというものだった。
この暑さのなかで食べる物も、水もなく、ゴミの中で死んでいった、それも周囲の大人たちは、その状況を知り過ぎるほど知っていたにもかかわらずである。2人の幼い子供が、あまりにも哀れだ。いや、哀れどころではない悲惨で酷すぎる死だ。裸で亡くなっていたと聞いて、母親の眼の前で猟犬のなかに子供を裸にして放り投げた将軍の話を思いだした。あのアリョーシャでさえ「将軍を銃殺刑に」と叫ばせた残虐。
しかし、いまのマスメディアは、こんな出来事に慣れてしまったのか、無感覚になってしまったのか、相変わらずである。識者、法律家ものコメントは、「法律的には」「救うには限界が」「昔はよかった」である。そして、舌の根も乾かぬうちに、政治の話、料理の話、趣味の話をはじめているのだ。ドストエフスキーなら、どう感じ捉えただろうか。
「わたしはこういうことがほんとうに起こり得るような気持ちがたえずしていて、そんな幻想が目さきにちらついているのだ」(『作家の日記』「キリストのヨルカに召されし少年」)として創作するだろうか。おそらく、母親の異常より、法律や個人情報を金科玉条として、ただ神のように傍観していた大人たちの異常に目を向けるに違いない。そうして、こうつぶやくかも「法律も規則も、子供の命と比べたらなんの値打ちもないのだ」と。
それにしても、この事件の悲惨さをいっそう浮き立たせたのは、同時期に放映された、豪華な結婚式の話題だった。豪華絢爛の式場に集う大勢の人たち。政治家もいれば経済人も文化人もいる。日本の著名人が揃ったすばらしい華燭風景。だが、同じ時間、異臭漂うゴミの中で腐敗していた幼い2人の遺体。同じ社会体制の中で同時に存在するこの光と影。この落差に戦慄するしかない。「野育ち」にもなれなかった幼い2人の子供。ドストエフスキーは、こんな日本人観を抱くかも知れない。
育児放棄の母親、遺体となった2人の子供。「こう考えてみると、彼らの接触してきた人間が、いかなる種類のものであるか、その連中が彼らの存在に対して、どれだけ畜生同然の無関心を示していたか、想像にかたくない!」
 他に、この暑さを一層蒸し暑くさせたニュースは、100歳を超えた老人たちの失踪である。高齢を祝おうとしたら、30年前に死んでいた。まるでゴーゴリの『死せる魂』のような話である。母親の生死も居場所もわからない。別れた肉親を捜すのが、ふつうだが、どこにいるかも知らないとの話に戸惑うばかりである。思わず『百歳の老婆』(『作家の日記』)を読み返してみた。老人問題が、他人事ではなくなった昨今である。(編集室)
 ― 嘉納治五郎とドストエフスキー ―   千帆閣の海   土壌館・下原
紙面の都合でA・フェノロサと嘉納治五郎については次回にします。柔道理念・自他共栄の精神の原点・源泉は、フーリェ主義か。フェノロサとの出会いがその一歩とみる。




広 場

書道展 今年はドストエフスキーを書いてみました。前田民子さん
第23回 秀門社展  後援 東京新聞
会 期 平成22年8月17日(火) 〜 8月22日(日)
会 場 東京銀座・鳩居堂画廊4F 中央区銀座5-7-4
※ 水曜日はPM3:00迄  土曜日はPM7:00迄

講 演 第2回 新教・新学セミナー 芦川進一さん
 芦川進一さんは、7月26日(月)中野にある日本基督教団中野桃園協会で講演された。
演題は、「ドストエフスキイと日本人」― 聖書理解との関わりで、でした。

芦川さんは、昨年6月から『福音と世界』(新教出版社)に「ドストエフスキイと十人の日本人」を連載してきた。今年4月で終了したことで、この連載が単行本化されることになった。今回の講演は、その出版に先駆けてのもの。
芦川進一著『ドストエフスキイと十人の日本人』(新教出版社)

論 文 第28号『文明研究』(東海大学文明学会2009)高橋誠一郎さん
長編小説『白痴』におけるロゴージンの形象(「情報」と「殺人」の考察)
黒澤明監督の『白痴』




伊藤計劃『虐殺器官』(早川書房・2007)を読む 
(編集室)


 よくドストエフスキー作品には予見性があるといわれる。遠からずかも知れないが、愛読者としては、ドストエフスキー文学の本質は普遍性だと思いたい。が、先の読書会でとりあげた「おかしな人間の夢」などを読むと、SF的なものを感じてしまうのも人情である。
 そんな(SFへの)拘りがあったせいか、先ごろ書店の店頭でこんなサブタイトルの本が目に入った。現代における罪と罰――伊藤計劃(いとうけいかく)という作家が書いた本で早川書房出版。「ハヤカワ文庫」である。題名は『虐殺器官』。なんともおぞましいタイトルである。が、小見出しに「ゼロ年最高のフィクション。ゼロ年代ベストSF第1位」などのうたい文句が踊っている。昨年35歳の若さで早世した作家である。
 ところで、ここで気にかかるのがサブタイトルにある「罪と罰」とは何かである。よく週刊誌の見出しにある「だれそれの罪と罰」といった誹謗中傷の類か。それともドストエフスキーの『罪と罰』にモチーフを重ねたものか。この言葉は、なにかと使われる。そんなこんなで、あれこれ思いめぐらせたが、結局、「ベストSF第1位」につられて読むことにした。生来SF作品は嫌いではない。ベルヌを皮切りにウェルズからハミルトン、ブラッドベリ、クラークと読みついできた。ちなみに、一番にドストエフスキーを感じたのは、ウェルズだった。ヒトラーの第二次大戦、第九条の日本国憲法、生態実験そして未来。何でもある。
 さて、つい買ってしまった『虐殺器官』だが、サブタイトルの「現代における罪と罰」の「罪と罰」は、はたして何を意味してか。ドストエフスキーの『罪と罰』か。そんこんだを思いめぐらしながら読みすすめた。「結論から言えばラスコーリニコフの非凡人思想を拡大解釈した器官」というタイトルから、医療系SF作品かとも思った。が、まつたく違った。アメリカ合衆国陸軍の情報軍特殊部隊に所属する情報大尉が主人公のハードボイルド。植物人間の母親を安楽死させてしてしまったトラウマを持つこの大尉の任務は、世界の紛争地帯に潜入して、暴動を扇動する指導者や自国民や他民族、他宗教の人たちを虐殺している独裁者を暗殺すること。
 物語は、主人公が新たな任務を帯びて中央アジアの内乱国家に足を踏み入れたところからはじまる。「泥に深く穿たれたトラックの轍に、ちいさな女の子が顔を突っこんでいるのが見えた。まるでアリスのように、轍のなかに広がる不思議の国へ入っていこうとしているようにも見えたけれど、その後頭部はぱっくりと紅く花ひらいて、頭蓋の中身を空に曝している」冒頭から凄惨な光景がひろがっていく。大尉の視界に次々、入ってくる無数の死体。子供、女、老人、男。まさにいま大虐殺が行われている町。民族浄化作戦をつづける政府軍。屠殺される家畜のように黙々と歩く市民の列。交戦すれば、、少しはこの市民を救うことができるかも知れない。しかし、大尉は、引き金をひかない。彼の今回の任務は、政府軍の顧問として虐殺を扇動する一人のアメリカ人を暗殺することだった。世界の警察官を自任する米合衆国は、なぜ彼を標的にするのか。それは、そのアメリカ人が行くところ必ず大虐殺が起こるからだ。彼が顧問とする不安定国家。一時は平和への兆しを見せながら大虐殺や暴動国家へと転落していく。標的は、なんのために。またそれは事実か。
いったいどこが「7月はじめの酷暑のころのある日の夕暮れ近く、一人の青年が、小部屋を借りているS横町のある建物の門をふらりと出て、…のろのろとK橋のほうへ歩き出した」こんな場面からはじまる『罪と罰』とモチーフを同じくするのか。この疑問に愛するものを(先進諸国を)守るために標的は、大虐殺を扇動する。開発途上国を内乱させつづけるのだ。と作者は紛争止まぬ現在の世界構図を指摘する。




5サイクル記念  ド作品午前朗読会(アサドク)のお誘い
ドストエフスキー全作品を音読しませんか

 よりド作品に親しむ為に全作品読書会は、いよいよ今秋から5サイクルがスタートします。凡そ10年1サイクルの期間で読了してきたので、50周年目になります。この節目を記念して、よりドストエフスキー作品に親しむことを目的として、有志の皆さんでドストエフスキー全作品「朗読会」開催を企画しました。興味ある方は、奮ってご参加ください。
なお、全作品朗読会は、午前中の爽やかな時間帯にということで、通称「アサドク」とします。朗読会の趣旨は、以下の通りです。
参加者 : 純粋に作品を朗読したい人。
作 品 : 読書会でとりあげる作品。
朗読会 : ほとんどが長編なので、自分の好きな個所、重要個所、告白個所などを読む。
時 間 : 奇数月第二土曜日午前中(AM9:00〜正午)変更の場合あり
会 場 : 東京芸術劇場小会議室(午前中は、借りやすいのが利点)又は合宿地
規 定 : ドストエフスキーの作品・書簡・論文
「作品は朗読しないのですか」はじめて読書会に参加された若い人から、しばしば受ける質問です。40年前、読書会が発足した頃は、ドストエフスキーは一人で読むもの、そう相場が決まっていました。故に、作品を皆で朗読し合うなどということは考えてもみなかった。
しかし、新世紀も、早10年。『カラマーゾフの兄弟』が100万部も売れるご時世です。この現象は、もはやドストエフスキーは一人地下室で読む作品ではなくなった、との顕われでもある。連帯や組織の強かった時代は、孤独が必要だった。しかし、現代は違います。児童虐待、老人失踪、動機なき犯罪。人々は人間の繋がりを求め彷徨っています。
新世紀10年。世界は、人類は、ドストエフスキーを欲している。その思いを強く感じます。それ故に読書会を開催します。1845年5月6日未明、若き詩人ネクラーソフと作家グリゴローヴィチが交代で声をあげて読みあった。あの瞬間こそがド作品のすべてのはじまりです。いまこそ、あの原点に帰ろうではありませんか。



編集室

年6回発行の「読書会通信」は、皆様のご支援でつづいております。発行にご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です)
2010年3月1日〜2010年6月1日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりて厚くお礼申し上げます。
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