ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.119  発行:2010.4.1


第238回4月読書会のお知らせ

4月読書会は、下記の要領で開きます。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。

月  日 : 2010年4月 10日(土)
             
場  所 : 東京芸術劇場小7会議室(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
                       
開  場 : 午後1時30分
 
開  始 : 午後2時00分 〜 4時50分
 
作  品 : 『カラマーゾフの兄弟』&『おとなしい女』
 
報 告 者 : 参加者(フリートーク)・作品感想報告
            
会  費 : 1000円(学生500円)

◎ 終了後は、二次会(懇親会)を予定しています。
会 場 : 予定「養老の瀧」JR池袋駅西口徒歩3分。
時 間 : 夜5時10分 〜 8時00分頃まで。お待ちしています。



4・10読書会について (編集室)

『カラマーゾフの兄弟』&『作家の日記』掲載作品

 『カラマゾフ』に入って一年になります。が、「まだ、議論し尽くされてはいないのでは」「『作家の日記』にある未読作品にも注目すべきだ」などの意見・要望が多数編集室に寄せられています。「カラマゾフ」離れがたくの感もあります。急ぐ旅ではありませんので、皆さんの声を汲んで4サイクルを、勝手ながらもうしばらくつづけます。ご了解ください。
 全作品読みは、凡そ10年1サイクルで回っています。逃すと10年後となります。そんなわけで、悔いのない報告・議論をしていただけたらと思います。
 今回は、『カラマゾフ』と併せて「おとなしい女」を取り上げました。社会批評の『作家の日記』に掲載された短編です。作者は、この作品で何を社会に訴えたかったのか。短編ですので、読んできていただければ幸いです。(次は「おかしな男」です)

「おとなしい女」とは何か

 この作品は1876年秋に書かれた。『作家の日記』11月号に「おとなしい女 ― 空想的な物語 ― 」として掲載されている。ちなみにこの年の1月号には「キリストのヨルカに召されし少年」や2月号には「百姓マレイ」などを発表している。
 この作品「おとなしい女」について作者は、作品冒頭で次のように述べている。

【米川訳『作家の日記』上巻より】11月 ドストエフスキー(55歳)
著者より
 わたしはまずもって読者諸君に、今度、いつもの形式をとった『日記』の代わりに、一編の小説のみを供することについて、お許しを願わねばならぬこととなった。しかしながら、事実一か月の大部分、わたしはこの小説にかかっていたのである。いずれにしても、わたしは読者の寛怨を乞う次第である。
 さて、これから、当の物語について一言する。わたし自身はこの物語を最高度に現実的なものと考えているくせに、「空想的」という傍観を冠した。しかし、この中にはまったく空想的なところがある。というのは、物語の形式自体なのであるが、この点、まえもって説明しておく必要があると思う。
 問題は、これが物語でもなければ、手記でもないという点にあるのである。まず一人の夫を想像していただきたい。その妻は数時間前に窓から身を投げて自殺し、遺骸がテーブルの上に安置されているのである。彼は動?してしまって、まだ自分の考えをまとめる暇がない。彼は部屋の中を歩きまわりながら、この出来事の意味を発見しよう、「自分の考えを一点に集中しょう」と努めているのだ。おまけに彼は、自分で自分を相手にしゃべるといったふうの、病い膏盲に入ったヒコポンデリー患者である。現に彼は自分の相手に話をして、事件のいきさつを物語り、それを自分に闡明しているのである。その話は一見順序だっているようだが、それにもかかわらず、彼は論理においても、感情においても、しょっちゅう自己撞着しているのである。いま自分を弁護して、彼女を責めているかと思えば、今度は無関係なよそごとの説明をはじめる。そこには思想と心情の粗野な面が現れたかと思うと、深遠な感情がうかがわれる。やがて次第次第に、彼は実際、事件を自分自身に闡明して、「思想を一点に」集中してくる。彼の幾多の追憶は、ついに否応なく彼を真実へ導いてくる。と、真実は必然的に彼の理性と心情を高めていく。終わりに近づくにしたがって、物語の調子までが無秩序な冒頭と比較して変わってくる。真理は不幸な男の眼前にかなりはっきり、決定的に展開されるのだ、少なくとも彼自身にとっては。
 これが主題である。もちろん、物語の過程はちぐはぐな形式をとって、と切れたり、間をおいたりしながら、数時間にわたってつづく。いま彼は、自分自身に話しかけているかと思うと、今度はまた目に見えない聴き手や、何か裁判官のようなものに話しかける、かのようなあんばいである。しかし、これは現実でもよくあることだ。もし速記者がその場に居合わせ、彼の言葉を聞いて、後から後から残らず書きつけることができたとすれば、その物語がここに提供したものよりも、いくらかでこぼこした、荒削りなものになったろうが、わたしの想像するかぎりでは、心理的順序はそらく同一のものであろう。このなにもかも書きつけた速記者という仮定(後でわたしがその書きつけたものを推敲したとして)これこそわたしがこの物語において、空想的と名づけるものである。とはいえ、多少これに類したことは、芸術においてすでに一再ならず行われているのである。例えば、ヴィクトル・ユーゴーのごときはその傑作『死刑囚の最後の日』で、ほとんど同様の手法を用いている。そして、速記者こそ持ち出さなかったけれど、それ以上の荒唐無稽を許して、死刑の宣告を受けたものが最後の一日どころか、最後の一時間、やかましくいえば、最後の一瞬まで手記をつづる(その時間を有する)ものと、仮定しているのである。しかし、かりに彼がこの空想をあえてしなかったら、作品そのもの、―― 彼によって書かれたものの中で最もリアリスチックな、最も真実味に富んだ作品は、存在しなかっただろう。(作品コピー入用な方は編集室まで。)
 作者、ドストエフスキーは、この作品についてこのように語り、以下の項目のように物語をわけて創作している。

第一章

1. わたしは何ものであったか、彼女は何ものであったか(妻は安置されている)
2. 結婚申込(「恩を受けるのはわたしで、あなたではない」)
3. 高潔無比な人、されどみずからは信ぜず(私は41だが、彼女は16)
4. なにもかも計画でもちきり(その時、私たちのうちだれが口火をつけたか ?)
5. おとなし女の叛逆(いさかいが始まった。彼女が急に自分勝手に金を貸そうという了見)
6. 恐ろしい思い出(ピストルはすでにわたしのこめかみのそばにあった)

第二章

1. 傲慢の夢(わたしの悪魔的な慢心を照らし出したのである。)
2. 突如幕は落ちた(まだひと月ばかり前に、彼女の異様なもの思いに気がついた)
3. あまりにわかる(いや、いや、彼女がもうちょっとの間、ほんのちょつぴり待って)
4. わずか5分の遅刻(彼女は冬の間に疲れたのだ、それなのだ…遅かった!!!


 この短編は『地下室の手記』の「わたし」と同じ「死産児」タイプの中年男を取り上げたもので、形式も同じく主人公の告白である。・・・『地下室の手記』とこの『おとなしい女』を並べて、さらに『罪と罰』のラスコーリニコフや『悪霊』のスタヴローギンを繋いでみれば、ドストエフスキーがいかに長く同じテーマを、追い続けているかがわかる。ラスコーリニコフの場合は小説の最後にわたって暗から明への転生が実現するのであるが、この『おとなしい女』の「わたし」の場合は、ほのかに見えてきた明るい希望が一瞬にして冷たい暗鬱の力でかき消される不幸な結末になっている。  中村健之介著『人物事典』



『作家の日記』について
 (編集室)
 
 1871年7月8日、ドストエフスキー夫妻は放浪の外国生活に終止符をうって帰国した。4年3ヶ月ぶりだった。家族は、1歳10ヶ月の次女リュボーフィ(長女ソフィヤはジュネーヴで死ぬ。長男フョードルは帰国早々生まれた)4人家族となったが、無一文に近かった。で、作家は、メシチェルスキー公爵の発行する右派の週刊誌『市民』の編集長を引き受ける。このことでドストエフスキーは宮廷や皇室と親しくなった。が、これが要因となり後年ソ連の研究者たちから批判されるようになったといわれる。(作家には偏見はなかった。)
 作家は、この『市民』に時評として「作家の日記」を連載した。好評だったが、公爵と意見が合わないことから独立、1876年1月「作家の日記」を社会評論雑誌として刊行した。
 現在、この『作家の日記』の評価については、研究者たちのあいだで分かれるところだが、当時は「『作家の日記』がドストエフスキーの名を全ロシアに知らしめ、彼を社会の[教師]にした」とまで絶賛された。が、大半は駄文、独善とみられている。『ドストエフスキー伝』の著者アンリ・トロワイヤも「失笑を禁じえない」とかなり評価は低い。つまり文学的価値はほとんどない、といわれているのである。

 しかし、『ドストエフスキー写真と記録』(1972)の編者V・ネチャーエワ女史は「年代記10」のなかで、このように述べている。

・・・私たちは『作家の日記』の社会評論の全体を公平に見る必要がある。そうすれば、小説家ドストエフスキーが社会評論家ドストエフスキーと一体であることに気づくだろう。〈現代ロシアの家族〉〈過激派青年の心理〉〈無辜の幼児の苦しみ〉〈裁判への不信〉など、『作家の日記』で論じられている問題は、そのまま後期長編小説のテーマでもある。・・・


 日本でも『わがドストエフスキー』の著者河上徹太郎は、ドストエフスキー文学の謎を解く鍵は『作家の日記』にある、といって以下のエッセイを残している。これは昭和7年に書いたが、その後、米川訳を読み、昭和49年に改稿し発表したものである。

 私が時々引っ張り出しては心の儘に読むことを楽しみにしている書にドストエフスキーの『作家の日記』がある。この本は誤植と恐らく誤訳に満ちた実に読み悪い邦訳書であるだけで、それに内容からいっても決して我々を惹くだけの題材や筆遣いが見られないから、これを読了した人は極く少数であろう。然し彼の方法論に見られる自由な人物の駆使に興味を覚える人は、その種明かしとはゆかないまでも、彼が実生活上如何なる眼の使い方を以って人間や社会を見ているかが判るだけでも少なからぬ興味があるし、私にとって結局枕頭の書の一つに違いない。/この書の内容の大部分は政治問題であり次に市井の三面記事的出来事の批判である。そしてその態度は決して今日の操觚者流社会批評家や文明批評家の如く、どんな事件が出て来ても驚かない用意が出来てテキパキ片付けてゆくというふうなものではなく、冗長な訥弁を以って癲癇がかった感慨を述べている。だから一方所謂話し上手が世間話をするような聞き手の耳に快いものは全然なく、もっと息せき切った狂信的な調子が漲っている。

 河上徹太郎の『作家の日記』評と、そこにみる作家像。頷けるところ納得できるところは、多々ある。が、作家の謎解きは、まだまだのようだ。例えば、この作家の謎として、なぜ賭博にはまったのか。なぜその性格は好かれるか嫌われるかの二極しかないのか、などあるが、河上は、そんなことは「我々読者の知ったことじやない」と解明を投げ出している。
 ◆推測だが、1881年1月31日午前11時、作家の遺体が入った棺がグズネッツキイ横町5番の自宅からアレクサンドル・ネーフスキイ修道院に向かった。棺のあとには約3万人もの人々が従ったという。2月1日の葬儀にも無名の市民が多数参列し哀悼の意を示した。なぜ、そんなにも大勢の市民集まったのか。有名な作家だったから、『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』などの名作を残したから。はじめのうちそう思っていた。が、最近、そんなにも大勢の市民が参列したのは、もしかしたら『作家の日記』があったからでは、と、そのように思うようになった。新聞の片すみに載った小さな出来事や事件に関心を寄せた作家。人々は、そこに非凡人ではない自分たちと同じ人間の姿をみたのだと信じたい。



自殺について
 (編集室)

 当時のロシアの自殺者は統計的にはどれほどだったかは知らない。が、現在、世界の自殺者は毎年約100万人との調査結果(WHO)がでている。エミール・デュルケーム『自殺論』によると、自殺に至る要因は、次の5要因だという。
1. 社会要因  2. 個人環境要因  3. 個人要因  4. 医学要因 5. 生物学的要因
世界は、9月10日を「国際自殺防止デー」として、自殺要因の解決に取り組んでいる。
 日本では、自殺は深刻な社会問題となっている。1998年から3万人を超えたのである。1日85人〜95人、一か月には3千人近くが自殺で亡くなっているのだ。戦争でもないのに!人はなぜ自殺するのか。NHKテレビでよく特集をしている。最近、見たのは13歳の一人娘に飛び降り自殺された両親と、妹、夫に自殺された姉と妻の苦悩の映像だった。最愛の人を失った嘆き、勝手に死なれた憎しみ、生き残ったものの困難。自殺は、常に同情や憐れみがつきまとう。が、ドストエフスキーの目は、自殺者の心理を叙述した冗漫な空想だった。「身許や境遇を調べて薄幸な運命に泣く通俗作家の好奇心」ではなかった。
 余談だが、編集室知人にも、自殺者は何人かいる。高校の同級生に二人、大学のときのバイト仲間が一人である。高校の同級生は、美術クラブで一緒だった女性と、高1のとき気があってわりとよく話した男性。二人とも社会人になってからの自殺だった。原因は恋愛問題との風聞。大学のときの友人は、年配の男性と心中のような死に方だった。
 
 『おとなしい女』は自殺がテーマである。当時、ペテルブルグで青年の自殺が流行っていたといわれる。当然だがドストエフスキーはいつも「なぜ?」と疑問を抱いていた。そしてある報道と新聞記事で知った二つの自殺の謎を思った。(『作家の日記』「二つの自殺」)

 ・・・自殺者は23、4歳。ある非常に有名なロシア亡命者の娘。・・・「彼女は綿をクロロホルムでしめらせし、それで顔を覆って寝台に横になり」・・・そのまま死んだのである。死んだことをよく確かめて、と遺言を残して。(あまりにも短絡的な死であるが・・・)もうひとつの死は、・・・ひと月ばかり前、ペテルブルグのありとあらゆる新聞に、ペテルブルグで行われたある自殺事件が、小さい活字で短く数行掲載された。裁縫女をしている若い貧しい娘が、「どうしても口すぎのための仕事が見つからなかったので」、4階の窓から飛び降りたのである。それに加えて、飛び降りて地面に墜ちた時には、両手に聖像をいだいていたとしてあった。この両手にいだいた聖像というのは、今まで自殺には聞かれなかった奇妙な特徴である!これはなんとなくつつましやかな、おとなしい自殺である。ここにはおそらくなんの不平も怨みもなかったらしい、―― ただ食えなくなって、「神様のお心に合わなくなった」ので、―お祈りして死んだのである。世の中には外見はいかに単純に見えても、長いあいだ考えやめられず、妙に念頭に閃き、おまけに、それが自分自身の責任のように思われる事柄があるものである。

 原因がかけ離れた二人の自殺。いったい二人の魂のうち、どちらが地上でより多く苦しみ、悩んだであろうか。作家は、究明と防止の為、周囲の人心の深淵を覗き込む。



4サイクルの軌跡
 

 4サイクルは2000年の10月読書会からスタートした。前号掲載の報告作品には、誤りがありました。改めて正確に回顧しました。ちなみに、3サイクル終わりの『カラマーゾフ』は、前年の2月読書会からでした。併せて紹介します。

【1999年】3サイクル完了と20世紀最後の年ということで多彩で盛会でした。

□ 2月13日 『カラマゾフ』前夜祭 フリートーク「作家と『カラマゾフ』について」
□ 4月10日 「村上春樹とドストエフスキー」横尾和博さん 前夜祭でミニ講演
□ 6月16日 劇団「昴」公演『罪と罰』水野龍司さん出演 読書会有志で観劇
□ 6月26日 「中上健次とドストエフスキー」福井勝也さん 前夜祭でミニ講演
□ 8月15日 「インターネットとドスト」堤崇弘さん 「20世紀とドスト」関連で
□ 9月11日 合宿(諏訪)「諏訪の土着信仰とドストエフスキー」金村繁さん
□10月 9日 「ガリラヤのカナ −死者を想起することー」熊谷暢芳さん
□11月21日 読書会ハイキング 紅葉の御岳山 ロックガーデン 8名参加 
□12月11日 「『カラマゾフ』最後の晩餐 −神なき国に神を求めて−」釘本秀雄さん
□12月11日 遠藤純子さんの小説「クレア、冬の音」第31回新潮新人賞受賞を祝う会

【2000年】引き続き『カラマーゾフの兄弟』報告

□ 2月12日 「無神論−イワン・カラマーゾフの〈罪と罰〉」野澤隆一さん
□ 4月 8日 「大審問官と現代日本人の神」金村繁さん
□ 6月10日 「『カラマゾフ』における作中作家と悪魔について」長瀬隆さん
□ 8月 5日 『作家の日記」から「少年犯罪とドスト」フリートーク
全作品読み3サイクル終了。最終年の全読書会活動でした。

【2000年10月】全作品4回読みスタート

□10月14日 作品『貧しき人々』一回目 報告者・菅原純子さん
□12月 9日 『貧しき人々』二回目 中谷光宏さん「ワルワーラについて」

【2001年】

□ 2月10日 作品『分身』一回目 フリートーク
□ 4月21日 『分身』二回目 報告者・秋山伸介さん「ゴリャードキン氏の冒険」
□ 6月 9日 『プロハルチン氏』 フリートーク
□ 8月11日 30周年記念シンポジュウム テーマ「ドストエフスキーと私」
□10月 7日 読書会ハイキング 初秋の西沢渓谷 滝めぐり 7名参加
□10月13日 作品『九通の手紙に盛られた小説』 報告者・藤本敦子さん
□12月 8日 作品『ペテルブルグ年代記』フリートーク

【2002年】

□ 2月16日 作品『主婦』、報告者・下原康子さん
□ 4月13日 作品『ボルズンコフ』、報告者・アンケート発表
□ 6月 8日 作品『人妻と寝台の下の夫』、報告者・熊谷暢芳さん 
□ 8月10日午前 作品『白夜』フリートーク
□ 8月10日午後 「『白夜』とその時代―ペトラシェフスキイ事件をめぐって」
        講演・高橋誠一郎さん、夜、カラオケ大会
□10月12日 作品『弱い心』、報告者・人見敏雄さん
□12月14日 作品『クリスマスと結婚式』フリートーク

【2003年】

□ 2月 8日 作品『正直な泥棒』フリートーク
□ 2月22日〜23日 読書会合宿・那須「白雲荘」報告・高橋由紀子さん
□ 4月12日 作品『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』一回目、報告・武富健治さん
□ 6月14日 『ネートチカ』二回目、報告者・福井勝也さん
□ 7月20日〜21日 読書会合宿・那須「白雲荘」報告者・金村繁さん
□ 8月 9日 『ネートチカ』三回目、フリートーク
□10月 2日 作品『初恋』フリートーク
□12月13日 作品『スチェパンチコヴォ村とその住人』一回目、岡田多恵子さん

【2004年】

□ 2月14日 『スチェパンチコヴォ村』二回目、報告者・岡田多恵子さん前回補足
□ 4月10日 作品『伯父様の夢』、報告者・平 哲夫さん
□ 6月19日 作品『死の家の記録』一回目、報告者・熊谷暢芳さん
□ 8月14日 作品『嫌な話』、報告者・池田和彦さん
□10月 9日 『死の家の記録』二回目、台風22号通が同時刻通過の為、中止
□12月20日 『死の家の記録』二回目、フリートーク

【2005年】

□ 2月12日 作品『虐げられし人々』一回目、報告者・近藤靖宏さん
□ 4月 9日 『虐げられし人々』二回目、報告者・平 哲夫さん
□ 6月11日 作品『夏象冬記』、報告者・金村繁さん
□ 8月13日 「小山田二郎とドストエフスキー」福井勝也さん
        &ロシア詩「プーシキン」他朗読・小林銀河さん
□10月 8日 作品『地下生活者の手記』一回目、寄稿感想発表・フリートーク
□12月17日 「『地下生活者』におけるサディズム・マゾヒズム」福井勝也さん

【2006年】

□ 2月11日 作品『地下生活者の手記』二回目、参加者17名でフリートーク
□ 4月 8日 講演・亀山郁夫さん「ドストエフスキーと『父殺し』の深層」
□ 6月10日 作品『罪と罰』一回目、報告者・江原あき子さん
□ 8月12日 『罪と罰』二回目、報告者・長野 正さん
□10月 8日 『罪と罰』三回目、報告者・岡野秀彦さん
□12月 9日 作品『賭博者』、報告者・近藤靖宏さん

【2007年】

□ 2月10日 作品『鰐』、報告者・新美しづ子さん
□ 4月14日 作品『白痴』一回目、報告者・長谷川研さん
□ 6月16日 『白痴』二回目、報告者・村野和子さん
□ 8月12日 『白痴』三回目、フリートーク 暑気払いカラオケ大会 NHK取材
□ 8月25日 NHKテレビ「おはよう日本」で読書会放映
□10月13日 作品『永遠の夫』、報告者・落合トア子さん
□12月15日 「ドストエーフスキイ咬交円錐的世界」報告者・北岡淳也さん

【2008年】

□ 2月23日 作品『悪霊』一回目、報告者・菅原純子さん
□ 4月12日 『悪霊』二回目、報告者・山田芳夫さん 東京新聞社取材
□ 5月 1日 東京新聞東京版で読書会紹介される。
□ 6月14日 『悪霊』三回目、報告者・金村繁さん
□ 8月 9日 『悪霊』四回目、フリートーク、カラオケ大会
□10月11日 作品『未成年」一回目、報告者・平 哲夫さん
□12月20日 「『白痴』における虐げられた女性たちの考察」高橋誠一郎さん

【2009年】

□ 2月21日 作品『カラマーゾフの兄弟』一回目、報告者・長野 正さん
□ 4月18日 『未成年』から『カラマーゾフの兄弟』、報告者・長瀬 隆さん
□ 5月 4日 読書会・習志野「谷津干潟」散策&バードウオッチング 
□ 7月11日 『カラマーゾフの兄弟』二回目、報告者・菅原純子さん
□ 8月 8日 読書会カーニバル「ドストエーフスキイと私」
        報告者・新美しづ子さん、江原あき子さん、今井直子さん、鈴木寛子さん
        平 哲夫さん、土屋正敏さん、長谷川研さん
□10月17日 『カラマーゾフの兄弟』三回目、報告者・長谷川研さん
□11月23日 読書会ハイキング・紅葉の高尾山
□12月12日 『カラマーゾフの兄弟』「大審問官」四回目、報告者・北岡 淳さん

【複数回、報告作品】12作品 

1.『貧しき人々』 = 2回
2.『分身』 = 2回
3.『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』 = 3回
4.『スチェパンチコヴォ村とその住人』 = 2回
5. 『死の家の記録』 = 2回
6.『死の家の記録』 = 2回
7.『虐げられし人々』 = 2回
8.『地下生活者の手記』 = 2回
9.『罪と罰』 = 3回
10.『白痴』 = 3回
11.『悪霊』 = 4回
12.『カラマーゾフの兄弟』四回、継続中

【単数回、作品】16作品+2010年俎上作品
『プロハルチン氏』、『九通の手紙に盛られた小説』、『主婦』、『ボルズンコフ』、『白夜』
『人妻と寝台の下の夫』、『弱い心』、『クリスマスと結婚式』、『正直な泥棒』、『初恋』
『伯父様の夢』、『嫌な話』、『夏象冬記』、『賭博者』、『鰐』、『永遠の夫』



2・13 読書会報告                 

 2月読書会は、13日午後2時00分 第7会議室
 冬季五輪開会式の影響か 参加者17名
 2月読書会は、毎年、椅子を心配するほどだった。が、当日は、出足鈍く、17名といつもの半数。この日、昼前後からテレビ中継された冬季オリンピックの開会式。ドストより白銀の祭りかも。こんな日を開催日にしてしまったこと、お詫び申しあげます。
 


ドストエフスキー文献情報


最新ドスト情報(3・23) 提供・【ド翁文庫】佐藤徹夫さん

<翻訳>

・悪霊 三部からなる長編小説 第一部第二章 ハリー王子。縁談
     ドストエフスキー 亀山郁夫訳
     「小説宝石」 43(3)(2010.2.22=March 2010) p202-225
・悪霊 三部からなる長編小説 第一部第二章 ハリー王子。縁談(承前)
     ドストエフスキー 亀山郁夫訳
     「小説宝石」 43(4)(2010.3.22=April 2010) p148-163
     付:解説 "聖母"ダーシャの重さ p164-165
・チーホンの庵室で 『悪霊』第二部第九章
     ドストエフスキー 亀山郁夫訳・解説
     「現代思想」 38(4)(2010.3.15=4月臨時増刊) p34-67
     付:解説「スタヴローギンの告白」はどのように生まれたか? p68-79

<図書>

・『文学のプログラム』 山城むつみ著 講談社 2009年11月10日 \1400
     247p 15.2cm <講談社文芸文庫・や-N1>
     *小林批評のクリティカル・ポイント p7-67  初出:「群像」 1992.6
・『中条省平の「決定版!フランス映画200選」』 中条省平著 清流出版
     2010年2月10日 \2400 431p 18.8cm
     *5 個性的な」映画作家たち 44 白夜 p106-107
      (1970年 ロベール・ブレッソン監督・脚本)
・『黒澤明 全作品と全生涯』 都築政昭著 東京書籍 2010年3月5日
     \3000 491p 19.4cm
     *第四章 真に美しい人間 映画(三) 一九五〇〜一九五五
        『白痴』 1951年 p188-193
・『コワレフスカヤ ロシアの天才女性数学者』 前木祥子著 東洋書店
     2010年2月20日 \600 63p 21.1cm <ユーラシア・ブックレット 146>
     *一 ロシアに生まれて 少女時代最後の冬―ドストエフスキーと p20-22

<逐次刊行物>

・特集 I よみがえるユーラシア その光と影
     ・黙過―ドストエフスキーと現代/亀山郁夫 p2-10
・<知られざるユーラシア 19> スターラヤ・ルッサとドストエフスキイ/松本賢一 
  p64-66
     「ユーラシア研究」 41(2009.11.25=November 2009)
・<ドストエフスキイと十人の日本人 G 響き合う魂> ドストエフスキイと道元
     生死の中に仏あれば生死なし/芦川進一
     「福音と世界」 65(1)(2010.1.1) p10-13
・ドストエフスキーの預言 第九回 無神論者ゾシマ/佐藤優
     「文學界」 64(1)(2010.1.1) p242-254

・<ドストエフスキイと十人の日本人 10 響き合う魂> ドストエフスキイと芭蕉
     物の見えたる光/芦川進一
     「福音と世界」 65(3)(2010.3.1) p10-13
・ドストエフスキーの預言 第十一回 懐疑/佐藤優
     「文學界」 64(3)(2010.3.1) p180-191
・総特集:ドストエフスキー 亀山郁夫+望月哲男責任編集
     「現代思想」 38(4)(2010.3.15=4月臨時増刊) 全374p
     *内容の詳細は省略する
・<ドストエフスキイと十人の日本人 11(最終回) 響き合う魂> 
     ドストエフスキイと小出次雄/芦川進一
     「福音と世界」 65(4)(2010.4.1) p16-19

・<座談会> 没後百年 トルストイを復活させる/辻原登+沼野充義+山城むつみ
     p144-168
・ドストエフスキーの預言 第十二回 文明の自殺/佐藤優 p206-217
     「文學界」 64(4)(2010.4.1)

*「福音と世界」と「文學界」の1月号は、前回収録漏れの為に採録した。



『現代思想』4月臨時増刊号 青土社 2010 vol.384
総特集=ドストエフスキー
 亀山郁夫+望月哲男 責任編集
         
☆エッセイ、評論などさまざまな角度から、日本・ロシアや世界のドストエフスキー研究者・作家・批評家たちの分析と読み解きがここに結集されている。読書会からは、「ドストエフスキーをめぐる言葉2」に福井勝也さんが執筆!
 ・福井勝也編「古今東西のドストエフスキー 日本編」
 ・福井勝也「日本のドストエフスキー」
 ・清水正と清水孝純氏の、両清水氏が評論を執筆。
 ・清水正「『罪と罰』の深層構造 批評の醍醐味はテキストの解体と再構築にこそある」
 ・清水孝純「ドストエフスキーと自殺 『悪霊』に見るその様相」

希望者は読書会で定価1900円のところを、読書会受付で減額します。
10冊と冊数が限られていますのでご希望の方は、早めにお申し出ください。



連載       

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
第28回 大岡昇平の『野火』から『武蔵野夫人』へ
 
福井勝也
 
 今回は、再度大岡昇平に戻って、『野火』とほぼ同時期(s.25年前後)に書かれた『武蔵野夫人』を問題としてみたい。『武蔵野夫人』が「群像」に連載され単行本になったのは昭和25年、『野火』の単行本化が昭和27年なので「作品」としては『武蔵野夫人』の方が『野火』より先行している。しかし、作品化の経緯を確認してみると実は両者がほぼ同時並行して執筆されていたことが分かる。そのことは、深く結びついた両小説の内容からも説明できる。『武蔵野夫人』は、戦場から帰還した青年(勉)と、その従姉(道子)との禁欲的な恋愛(あるいは姦通)を描いたもので、言わば「復員兵」の物語である。『野火』は田村一等兵のフィリピンでの戦場体験を「東京郊外の精神病院」の一室で、戦場での記憶を辿る六年後の「復員兵」の手記のかたちをとっている(37狂人日記)。この点で、両者が「復員兵」を問題としながら、何故か「戦場体験」と「恋愛物語」(=「姦通」)が同時に主題化されたことになる。両者の話をあえて関係させれば、『武蔵野夫人』は復員した「勉」ならぬ「田村」が「武蔵野」という東京郊外で戦後社会への復帰を試みる『野火』の後日箪、別バージョンの物語と読めなくもない。さらに両作品の主題を考えるとき、その描かれた土地、場所の問題がクローズアップされてくる。すなわち『野火』の舞台となるフィリピン原野と『武蔵野夫人』の背景としての武蔵野台地は、作者によって単に描き分けられる対象として存在するばかりでなく、各々の「風景」が物語りと深く関係してトポス化される。そこでは、フィリピンの南国的地形である山野・河川・海湖を彷徨する兵士の<歩行>と「ハケ」の源流を求めて野川を遡行しながら武蔵野台地を散策する復員兵の<歩行>とが連続した視点から<描写>されている。つまり作者大岡の眼がフィリピンの風景と武蔵野の風景とを<串刺し>にしていると思えるのだ。結局、その連続した歩行は『野火』で描かれる「戦争体験」がもたらした「視線」によって貫かれている。このように『野火』と『武蔵野夫人』を一連の作品として見る時、その作品を支える文学的主体が明らかにそれまでの日本近代文学的主体を脱して新たな変貌を遂げていたことに気づかされる。この点では例えば、作家武田泰淳の『野火』解説文が参考になる。
 『野火』の「私」の、このめざましくも執念ぶかい倨傲は、『暗夜行路』の「私」の恵まれた潔癖とは、かなり異なっている。『暗夜行路』の「私」が、このような倨傲さで、このような戦場に生き残り、かつ『野火』的作品を書こうとは、想像できない。『野火』の「私」のこの個人的エネルギイは、庶民の愚劣さを蔑視する意味では、『暗夜行路』の「私」の、他をかえり見ずして特権を保有するていの、貴族趣味と通じ合っている。だが、この新しい文学的エネルギイの奇怪さは、その点にはない。(角川文庫、昭和30年)
 さらにこの武田の批評文を承継したように読める興味深い対談(「座談会昭和文学史・四」、井上ひさし・小森陽一編著、2003年)の一節をさらに引用してみよう。小説家の奥泉光氏と近代文学者の小森陽一氏の発言の個所である。

 奥泉  大岡は徹底的に見ようとする主人公を書いていますね。ここに批評性の根本があるように思います。『野火』もそうですが、大岡昇平の小説は「見る」ことが絶えず中心にある。『武蔵野夫人』では、勉と道子が散歩をして恋ヶ窪にたどりつく場面がありますが、それは野川の水源を「見に」行くところで起こる。勉が武蔵野の林の中を散歩するシーンでも、彼は対象を徹底的に見ようとするがゆえに、そこに戦地だった「ビルマの叢林」が見えてくる。国木田独歩の『武蔵野』は見るのではなく、目に映るものを書いている。これは大きな違いです。 <中略>
  僕は日本の近代小説、自然主義リアリズムの根本は、「目に映る」ことだと考えています。そこに共同的な感性があり、小森さんがおっしゃった言語的モードがある。
 小森  志賀直哉の『城の崎にて』(大正6年5月『白樺』)に代表されるような小説ですね。誰が見ても同じ風景が見えるはずだ、とする世界ですから。
 この後の井上ひさし氏、樋口覚氏を交えた座談では、小森氏の言語的モードは「日本近代文学モード」と言い換えられている。そして大岡作品の「風景」がそれまでの日本近代文学が描いてきたそれ(例えば、独歩の「武蔵野」、直哉の「城の崎)の風景)とは決定的に異なるものとしてあり、その意味で「日本近代文学モード」を打破する画期的な文体として登場したことが語られてゆく。そしてこの問題の中心に、文体を支える大岡の視線の独自性が指摘される。具体的には、『野火』の「たえず誰かに見られているという感覚」、『武蔵野夫人』の「徹底的に見ようとするがゆえに見返される視線の構図」あるいは「見られずに見る」といった「視線」のありかたの問題である。
 
今回、『野火』から『武蔵野夫人』まで含めてこの時期の大岡の作品に拘っているのは、勿論、ドストエフスキー文学との関連を考えてのものだが実はこの大岡独自の「視線」のありようとドストエフスキー文学とのそれが共通しているところがあると思うからなのだ。この「視線」の問題は後々論ずるとして、まず今回は、先日の「例会」(第197回、高橋誠一郎氏発表3.13)でとりあげられた、黒澤明監督の映画『白痴』の話をしようと思う。考えてみれば、大岡の『武蔵野夫人』と『野火』が刊行された丁度間の年(昭和26年)に黒澤の『白痴』が放映されていた事実がある。この映画で自分がまず注目したのは、ムイシュキン役の森雅之とラゴ−ジン役の三船敏郎の二人ともが「復員兵」であるという設定の問題であった。ムイシュキンたる亀田欽次は沖縄戦の戦犯として死刑宣告を受け、銃殺寸前で刑執行が取り止めになったという。丁度ペテルブルグに戻ってくる汽車のなかで二人が遭遇するように、黒沢の『白痴』では復員船の中でうなされて悲鳴をあげる亀田に話しかける赤間伝吉(=ラゴ−ジン)との出逢いから物語りは開始される。しかし死の世界からの生還物語(=戦後社会への復帰)は結局挫折し結果として悲劇的結末、死の世界への帰還という物語となって終わる。そして、この映画のストーリー展開こそ、実は大岡昇平の『野火』から『武蔵野夫人』へという物語展開でもあったことに気付かされた。そしてさらに、大岡がこの二つの小説でテーマとした「戦場体験」=「臨死体験」と「恋愛物語」の顛末こそ実は『白痴』の中心テーマそのものであったと思うのだ。何故この時期に、そのような物語が戦後日本社会で需要(受容)されたのか。占領軍の検閲もあり、東西冷戦が開始され始めた敗戦後のこの時期、作家大岡昇平と監督黒沢明がドストエフスキーの『白痴』に同じ視線を注いでいたか否かの事実は別として、少なくとも小説『白痴』の本質的悲劇を未曾有の敗戦体験で傷を負った当時の日本人が我が心理とした真実を両氏が鋭敏に感得していたことだけは確かであったと思うのだ。この時点で、日本人はドストエフスキーの宗教的問題、すなわち人間の生死の問題をドストエフスキーと同じレベルで共有したのだと思う。おおげさに言えば、ここに日本におけるドストエフスキー文学受容はある頂点すら迎えたのではなかったか。黒沢の原版『白痴』は現在残されているフィルムの倍以上の長さであったことが伝えられているが、たとえ現在版でもロシアをはじめ極めて高い評価を世界的に受けている事実があるらしいが、それは日本人が悲劇的世界戦争を内面化しうる契機をこの二人の作家によって得ることができたからだと思う。そしてその前提にドストエフスキーの『白痴』という小説があったということを確認すべきだろう。個人的にこの『白痴』の映画で思い出すのは、赤間伝吉(=ラゴ−ジン)の奥暗い家の仏間の大きな仏壇の側に坐り、赤間伝吉と亀田欽次に優しく微笑む母親の表情である。この「痴呆(ユロージブィ?)」として描かれた母親には、生死の境を越えて戦争から帰ってきた息子達を愛おしむ慈愛の表情が溢れていたと思う。小説『白痴』にこのような母親の姿がどこかに描かれていたと思うのだが・・・、やや黒沢の話が長くなりすぎた。
 話を『武蔵野夫人』に戻すならば、この「『野火』と『武蔵野夫人』」を合わせて論じた解説文をあの埴谷雄高氏が書いている。岩波版「大岡昇平集3」の巻末の文章である。「<復員者>である勉は、いってみれば、『野火』からの直接の侵入者」であるという直截な指摘にハッとさせられたばかりか、圧巻だと感じさせられたのは次の件に始まる恋愛論であった。今回はその冒頭を引用して次ぎに繋げたいと思うのだ。
  この作品の最後の焦点が「はけ」に集って登場人物が揃うと、やがてそこから、嘗て私が「恋愛の平行四辺形」と名づけた構図が現れてくる。私が嘗てドストエフスキイ自身の生活においても、その諸作品においても、恋愛の「平行四辺形」と名づけたものの典型は、『白痴』におけるムィシュキンとナスターシャとアグラーヤとラゴ−ジンの四人によって描き出される構図であるが、『武蔵野夫人』における恋愛の「平行四辺形」のそれは、仏文学者の秋山とその妻道子と親類の一員である富子と勉の四人が描き出した構図である。 (2010.3.25)

福井勝也著『日本近代文学の〈終焉〉とドストエフスキー』のべる出版企画 2008 1400円
福井勝也著 『ドストエフスキーとポストモダン―現代における文学の可能性をめぐって―』のべる出版企画 2001 1400円
※ ご希望の方は、書店か著者、または「本通信」編集室まで連絡ください。





翻 訳 論 争 へ の 提 言
       
長 野  正                                                                  
                             
 最初に断っておきますが、わたし自身はロシア語で会話することも、ロシア文学を原書で読むこともできない、一介のロシア文学ファンにすぎません。読書会は本来、文芸作品に関して淡々と語り合う場なのかもしれませんが、昨今の『カラマーゾフの兄弟』の新訳
をめぐる「翻訳論争」を見聞きするうちに自分の意見を述べたくなりました。
ロシア文学との縁は大学進学後、『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』、『アンナ・カレーニナ』を読み漁り、『戦争と平和』を読み耽ったことに始まります。大学教授兼牧師の佐古純一郎先生の「ドストエフスキーの世界」と題された連続講座を受講したこともあります。ジョージ・ステイナーの『トルストイかドストエフスキーか』という表題ではありませんが、わたしには「トルストイもドストエフスキーも」という思考が定着していきました。5年前に「ドストエフスキー全作品を読む会」に入会し、その2年後に「日本トルストイ協会」にも入会することで、安心立命の境地にたどり着いたような気がしています。
 社会人になった年の暮れごろ、『文藝春秋』に「火の国のトルストイアン」という記事が載り、戦前、トルストイの教えに従って徴兵を忌避し、戦後は九州山中で農業に従事しながらトルストイの著作の翻訳を続けている北御門二郎という人の存在を知り、1979年の大型連休にわたしは熊本県球磨郡水上村を訪れ、伝説的なこの人に会ってみました。
わたしが北御門に注目したのは、1938(昭和13)年に平和主義の貫徹のために徴兵忌避を行なったことよりも、1960年ごろからロシア文学御三家(米川正夫・中村白葉・原久一郎)を相手取り、誤訳指摘者として文芸誌や新聞で「翻訳論争」を展開したことのほうでした。具体的に指摘されたのは中村白葉訳の『アンナ・カレーニナ』で、「中村訳には七百数十箇所の誤訳ないし改訳したいところがある」と書いたそうです。これを受けて米川正夫は、「中村氏の訳も理想的とは言えないけれど、北御門の正訳と称する訳も一種の誤訳である。誤訳指摘などということは、誰でもあらを捜す気になれば何か発見できるものである。要は、その指摘者が完全な訳を発表して世の批判に問わなければ、何の意味もない」と応酬しました。因みに、米川正夫は5年後の1965年に物故されました。
 北御門は農業のかたわら翻訳にいそしみ、1978年以降、東海大学出版会からトルストイ長編三部作の『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』が上梓される運びに至りましたが、「翻訳論争」はこれで終わりません。その翌年、原卓也が北御門訳の『戦争と平和』について言文密着主義の立場から批判しました。北御門訳は意訳が多く、原訳は逐語訳が多いそうです。北御門が起こした「翻訳論争」について、文芸評論家の本多秋五が全面的な支持を表明しました。小林秀雄は、北御門の山家を訪れた折、庭に落ちる水を見ながら「お前は世界一の幸福者だ」と呻いたそうです。いずれにせよ、ロシア語の専門教育を受けていない、独学者による、予想外の健闘ぶりではなかったかと思います。
 最近、わが国の『カラマーゾフの兄弟』の受容について、インターネットを使って邦訳一覧を検索してみました。三浦関造、作家の森田草平、広津和郎の重訳が先鞭を付けましたが、ロシア語からの直接訳は1917(大正6)年刊行の新潮社版『ドストエフスキー全集』の米川正夫訳が最初で、その訳文は今日でも岩波文庫で読むことができます。1934(昭和9)年の左翼弾圧によってプロレタリア文学が崩壊し、一方で1935年の三笠書房版『ドストエフスキー全集』の刊行がドストエフスキー文学の台頭を生み、その状況が小林秀雄を一連のドストエフスキー論や『ドストエフスキーの生活』の執筆に赴かせ、一躍、評論家としての地歩を固めるに至った経緯は、「ドストエフスキーの会」第196回例会の報告で知ることができました。三笠書房版『カラマーゾフの兄弟』の名訳は中山省三郎によるものです。
 米川は河出書房新社版『ドストエフスキー全集』で再度、『カラマーゾフの兄弟』を訳出しました。その後、原久一郎、小沼文彦、江川卓、池田健太郎、北垣信行、箕浦達二、原卓也と続き、2006年刊行開始の亀山郁夫の新訳に至っています。
わたしは1992年の冬にロシアへ旅行し、モスクワ市では「トルストイの家博物館」を見学し、サンクト・ペテルブルク市ではドストエフスキーの墓参りをすることができました。そして2008年の秋に、トルストイを主題にした、ロシア文学者の法橋和彦先生に随行する企画でロシアへ再訪することができました。旅行説明会が催されたとき、自己紹介の際にわたしが北御門二郎のことを話題にすると、すかさず「北御門さんはわたしの仲間ですよ」と言うほど、法橋先生はトルストイアンでした。
 旅先で、わたしは法橋先生に、ロシア文学と翻訳の問題について質問する機会を窺いました。北御門が米川正夫や原卓也に起こした「翻訳論争」に触れつつ、『カラマーゾフの兄弟』をめぐる「翻訳論争」をわたしが話題にすると、先生の口から出てきたのが「翻訳に誤訳は避けられません。北御門さんの訳にも誤訳はありますよ」という言葉でした。そして旅行中、専用車のなかで法橋先生はトルストイの講義で熱弁をふるい、先生ご自身が訳したトルストイの短編小説のコピーを参加者に配られました。
 昨年、「日本トルストイ協会」の元会長・藤沼貴先生は、『トルストイ』という評伝を著わしました。トルストイ家の始祖やトルストイの兄弟姉妹、家出に関する諸事情、そしてトルストイ文学の精緻な評論もあって、すっかり感嘆させられました。実証的な分析がじつに豊富で、もし、この書物が明治か大正の御代に出版されていたら、徳富蘆花、武者小路実篤、北御門二郎らのトルストイアンは動揺や変節を余儀なくされたのではないかと思ったほどでした。
 昨年の9月、わたしは昭和女子大学内で開催された「日本トルストイ協会」の総会に出席し、その懇親会の際に藤沼先生にお酌をしながら近づき、評伝『トルストイ』のことを話題にしました。その余勢を駆って、『カラマーゾフの兄弟』をめぐる「翻訳論争」を話題にすると、「あの新訳は良いと思っています。翻訳には独自の解釈があるべきです。音楽の世界では、一つの楽譜をめぐって指揮者ごとの解釈がなされています。欧米の翻訳では独自の解釈が許されているのに、日本ではなかなか許されません。わたしも今回の『カラマーゾフの兄弟』のような翻訳をやりたいのですが、日本ではすぐに叩かれるので、直訳でやらざるを得ません」と率直に心境を語られました。因みに、藤沼貴訳の『幼年時代』や『戦争と平和』は岩波文庫に収録されています。
 わたし自身の『カラマーゾフの兄弟』の各翻訳との関わりを申し上げると、大学進学後に最初に読んだのが、新潮文庫に収録されていた原久一郎訳でした。その後、その嫡男の原卓也訳が出版されて、その平易な訳文と、付された割り注に親しみを覚え、何回となく読み返しました。40歳のころ、プロテスタントの文学集団「たねの会」主催のドストエフスキーの読書会との関わりで小沼文彦訳を読みましたが、『カラマーゾフの兄弟』が訳文によっては詰まらなく感じることを初めて知りました。その原因として、小沼訳が逐語訳であることを示唆する人がいました。読書会通信に「ドストエフスキー論は、本家本元の米川正夫氏が最高峰です」と銘打たれていますが、この評価は新谷敬三郎によるものだそうです。一昨年、わたしは米川訳を河出書房新社版で初めて読みましたが、原卓也訳のような親しみは抱かず、小沼訳のような隔たりも感じないが、平均的すぎて印象の乏しい訳文だと思いました。わたしは昨年の2月、読書会で『カラマーゾフの兄弟』の報告を担当しましたが、その直前にようやく亀山郁夫訳を読みました。米川訳を読んでから日が浅かったわけですが、『カラマーゾフの兄弟』を初めて読んだような気がしました。訳語の新鮮さや感性のみずみずしさなど、理由はいろいろ挙げられると思います。巻末の参考資料も理解の手助けになります。そしてこの新訳に接することで、わたしはやっとカラマーゾフ家の玄関の軒先に立つことができたのではないかと思っています。
 西洋文学にはキリスト教がバックボーンである作品が多く、トルストイやドストエフスキーの文学はその要素が濃いため、そのことが作品理解の壁のように立ちはだかっています。わたしの場合、佐古先生の「ドストエフスキーの世界」の講座を受講したことで、キリスト教の偏見から抜け出すことができました。「たねの会」主催の読書会に出席したことで、文学と信仰の関わりについて認識を深めることができました。ロシア正教の異端の問題については、中村嘉和の『聖なるロシアを求めて』に詳述されていますが、昨年の6月からわたしは、東京・神田のニコライ堂の伝道会に出席しております。東方正教会の教義には、十字の切り方から飲食の制限に至るまで細かな斎戒があることを知り、このような規定が異端を生む原因につながったのではないかと思いました。
 最後に、『カラマーゾフの兄弟』の新訳をめぐって「翻訳論争」を展開されている先生たちに提言したいのは、北御門二郎を引き合いに出すまでもなく、誤訳指摘者ご自身が翻訳を発表して世の批判に問うべきではないかということです。観客席で批判し続けるのではなく、同じ競技場で勝負して欲しいとわたしは思います。ロシア文学御三家を批判した北御門はのちに自身も翻訳し、その北御門訳に対して原卓也が批判するというような展開がありました。今回の「翻訳論争」が一過性のものに終わらせないためにも、先生たちご自身も同じ競技場に出場して、勝負に挑まれることを望んでやみません。
※ 表記はドストエフスキーに統一し、敬称は略させていただきました。



米川氏の翻訳について(ロシア文学者『ドストエーフスキイ全集』月報から抜粋)
池田健太郎
 
米川正夫氏の、たくさんある翻訳のなかでは、やはりドストエーフスキイ全集が、名実ともにすぐれている。/わたしは自分でドストエーフスキイの小説を翻訳したことがあるから、よく知っている。/わたしが米川正夫氏のドストエーフスキイ翻訳を望見して、まっ先に感歎するのは、これだけの分量の翻訳をみごとにこなしきった意志と体力である。わたしはありきたりの賛辞を並べているのではない。そう取ってもらっては困る。/私がまだ学生だったころ、何かの折に神西清が米川正夫氏のドストエーフスキイ翻訳をほめて、世界のドストエーフスキイ翻訳のうちでいちばんいいものだろうと言ったことがあった。/国語の持つ、非論理性、非文法性、何とない曖昧さを幅いっぱい使って、それがロシア語とドストエーフスキイの言語的、表現的特性に近づいている。/私が米川正夫氏のドストエーフスキイ翻訳に、みずから及ばざるものありと心中畏敬の思いを禁じえないでいるのはそのゆえでもあるからである。




読書感想
  
高橋誠一郎著『「竜馬」という日本人』(人文書館) によせて(編集室)

 もう十数年前になるが、高校のPTA役員をしていたときのことだ。卒業式に、祝辞を述べなければならなくなった。いまどきの高校生は、どんな話だったら耳を傾けるのか。皆目見当がつかなかった。思いつかないので、いまは薄れてしまったが、私が彼等と同じ年頃に読んで感動した小説の終わりの文章を卒業生への餞の言葉にすることにした。3分足らずの祝辞だったが、読み上げたので生徒たちの反応はわからなかった。
 卒業式が終わって部屋に戻ってきたとき、来賓の一人から「よいお話でした。生徒たちが、いっせいに顔をあげて、聞き入っていましたよ」と言われた。その人は県下の高校演劇界の高齢の指導者だったので世辞ではないと思ってうれしかった。
 私が、祝辞の締めくくりに、とりあげたのは『竜馬がゆく』の最後の「若者はその歴史の扉を」の文章だった。当時でも30余年以上も前のベストセラーである。いくら時代小説として人気があるとはいえ、高校生がそんなに興味を示すとは考えもしなかった。それだけに、改めて司馬遼太郎という作家の読者層の広さ、時代の長さを知ったのである。
 いまや国民文学の代表は、『竜馬がゆく』といっても過言ではないだろう。それほど根強く幅広い年代層に支持されている司馬遼太郎と坂本竜馬だが、なぜか、これまでこの作家と作品をきちんと批評し、論ずる研究者はいなかったような気がする。本書の竜馬論は、作者が作中で余談とする、歴史出来事のさらなる検証と闡明がなされ、それによって竜馬と作者の考をより立体的人物に甦らせている。創作から切り離して見ることができる。
 それにしても、ドストエフスキー研究者が、なぜまた歴史大衆ものを、という疑問もある。その点について高橋氏は、このように自身の読書体験を語っている。
 『竜馬がゆく』をはじめて読んだときに私は、世界的な名作とされる『罪と罰』と同じように、この作品でも「自己」と「他者」との関係性について哲学的ともいえるような深い考察がなされていると感じたのである。

 司馬遼太郎は、ドストエフスキーについてあまり言及していない。が、そのジャーナリズム的小説手法は、ドストエフスキー作品と類似する。両作品の考察の通低。はたして非凡人は世界を救えるのか。その疑問に竜馬英雄伝説が火をつけた故かも知れない。
 ところでNHKが大河ドラマで放映している「竜馬伝」は、重苦しい作品だ。司馬の竜馬伝は楽天的だが、それがない。毎回、勤皇だの攘夷だのの大言壮語の怒鳴りあい。雰囲気的には、まるで中東の原理主義者かアフガンのタリバンのドラマをみるようである。それに、早くもモチーフが読めてきた。そんな気がするのである。坂本竜馬といえば、最大のなぞは暗殺である。だれが竜馬を殺したか。この脚本の流れからいけば土佐の後藤象二郎が黒幕ということになりそうだ。動機は嫉妬らしい。みみっちい話になった。この予見、はずれてくれることを願うばかりだ。国民文学なら『宮本武蔵』と比較すると面白そうだ。編集室




映画批評

『ヤング@ハート』
 江原あき子

 私はもうすぐ50歳だが、今でも夢中になれる何かを捜している。そんな自分がちょっと恥ずかしい。もう、いい加減にしとけよ、などと自分で自分に突っ込んでみたりもする。でもちょっと待って。いつまでも若々しくいるのは素晴らしいことなんじゃないか?夢中になれる何かを探すことは大事なんじゃないのか?でも勘違いしてはいけない。その何かは必ず困難と、不可能の先にあるのだ。老害、などと後ろ指をさされないためのただひとつの方法、それは困難に挑戦することなのだ。
 アメリカ、マサチューセッツ。ヤング@ハートと呼ばれるコーラス隊がある。隊員の平均年齢は80歳。じゃあ、歌うのはきっと、サウンドオブミュージック?それともフォスターの歌曲?いえいえ、彼らのレパートリーはジミ・ヘンドリックス、ボブディラン、クラッシュ、ラモーンズ、コールドプレイ。オルタナ系あり、パンクあり、グラムありの最先端のレパートリーなのだ。でもこれは、たとえば、私にケツメイシや、フアンキーモンキーベイビーズを歌え、と言っているのと同じこと。私だったら「無理です」と即、お断りするだろう。しかし、ヤング@ハートの皆さん、誰も諦めない。指導者のボブ・シルマンの選曲に最初は驚き、とまどいながらも、せっせとレッスンに通う。そんな彼らにボブの容赦ない声がとぶ。「どうしてリズムにのれないんだ!」「歌詞をどうして覚えられないんだ!」(年寄りだからじゃない、と観ている私は思ったんですが)しかしこの声に隊員たちの情熱はメラメラと燃えた。休暇も返上、家に引きこもって、ひたすらレッスン。しかし年齢は年齢、持病のある人も多い。中には癌を告知され、再発を4回も繰り返し、医者が止め、家族が泣くのも振り切って海外公演に行った隊員がいる。集中治療室でも歌い続け、医師を呆然とさせた隊員もいる。私は思うのだが、癌は4回再発したのではなく、4回克服したのである。歌うことで、自らの生命を勝ち取ったのである。人生は戦いだ。今の若い人は大変だと日本でもよく言われる。20代、30代の人たち、皆、社会と戦っている。年を重ねて、その戦いを放棄することは、残念ながら老害への近道である。人は、挑戦することを義務づけられているし、このコーラス隊のような素晴らしいキッカケがあれば、皆、喜んで自らの限界に挑戦するだろう。この映画の撮影中、2人の隊員が亡くなった。そういう時でも残された隊員は歌い続ける。歌で故人をしのび、皆で涙する。身体は年とともに蝕まれる。でも、戦い続けたい。80歳なら、80歳の、90歳なら90歳の、戦いは必ずあるはずだから。最後は、ショーの大舞台で皆が歌う。圧巻は、ジェームス・ブラウンの『アイ・フィール・グッド』、コールドプレイの『フィクス・ユー』だ。会場はノリにノった。そして涙した。コールドプレイの曲の意味が初めてわかった。コールドプレイのCDを聴いてもわからない、訳詩をみてもわからない。歌の本当の意味がこの時わかった。コールドプレイは人生を歌っていたんだ、と。
 『ヤング@ハート』は、渋谷ユーロスペースにて、4月下旬ごろまで上映の予定でしたが、打ち切りになりました。私が観た時も観客は10人ぐらいでした。とても感動した映画だったのに残念です。DVDが出たらお貸しします。(レンタルは絶対ありません)



編集室

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