ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.118  発行:2010.2.2

第237回2月読書会のお知らせ


月 日 : 2010年2月 13日(土)
場 所 : 東京芸術劇場小7会議室(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分
開 始 : 午後2時00分 〜 4時50分
作 品 : 『カラマーゾフの兄弟』&フリートーク(未全作品回顧)
報告者  : 金村 繁氏 参加者
会 費 : 1000円(学生500円)

◎ 終了後は、二次会(懇親会)を予定しています。
会 場 : 予定「養老の瀧」JR池袋駅西口徒歩3分。
時 間 : 夜5時10分 〜 7時10分頃まで。お待ちしています。



2010年の読書会・作品計画(案)


本年も楽しい読書会を

 ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会は、ドストエフスキーの信条を重んじて組織に縛られない、型にはまらない、精神の自由を失くさないの理念を厳守して開催しています。2010年も、この心情で進めてゆきたいと思います。真意は、より多くの作品を俎上にあげ参加者全員の意見・感想を聞けたらと願うところです。従って、確かな予定はありません。その点ご理解、ご容赦いただきたくお願い申し上げます。

未報告作品を『カラマ』と並行して
 現在、読書会報告作品は、最終作品『カラマーゾフの兄弟』に入っている。いろんな意味で最高、最大に当たる作品なので、2009年は、この作品報告に終始した。が、まだまだ尽きないようである。が、昨年12月までで4回目を数えることから、本年は、視点を変えて取り組もうと思っています。『カラマゾフ』は、ドストエフスキー文学の集大成です。この作品には、全作品が含まれています。そこで、本年は、『カラマゾフ』と並行して、これまで俎上にあげてこなかった作品(『作家の日記』も含む)にも光をあててみようと思います。

4サイクルでとりあげたドストエフスキー全作品(主なもの)
『貧しき人々』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・読書会で報告
『分身』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・読書会で報告
『プロハルチン氏』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・読書会で報告
『主婦』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・読書会で報告
『弱い心』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・読書会で報告
『白夜』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・読書会で報告
『伯父様の夢』『スチェパンコヴォ村とその住人』・・・・・・・・読書会で報告
『虐げられし人々』『死の家の記録』・・・・・・・・・・・・・・読書会で報告
『夏象冬記』『地下生活者の手記』・・・・・・・・・・・・・・・読書会で報告
『罪と罰』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・読書会で報告
『白痴』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・読書会で報告
『悪霊』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・読書会で報告
『未成年』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・読書会で報告
『おとなしい女」『おかしな人間の夢』・・・・・・・・・・・・・未報告
『カラマーゾフの兄弟』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・読書会で報告中
他、『永遠の夫』『ネートチカ・ネズノフ』『賭博者』

未報告作品 まだ報告されていない作品(主なもの)

・『九通の手紙による小説』 1847・1雑誌「現代人」
・『ヨールカ祭と結婚式』 1848・9「祖国雑誌」 発表?
・『やきもちやきの夫』1848・12「祖国雑誌」
・『幼いヒーロー』1857・8「祖国雑誌」
・『いやらしい小噺』1862・12「時代12月号」
・『作家の日記』
・『ボルズンコフ』『正直な泥棒』『鰐』



2・13読書会について

 
 報告者の金村繁さんは、古くから参加されている会員のお一人です。既に、読書会では何回か、報告していただいています。が、『カラマーゾフの兄弟』については、今回がはじめてでは、と記憶しています。参加者の男性陣では、おそらく最長老になられます。以前は、二次会や合宿に積極的に出席されていました。現在は、読書会には、欠かさず出席されています。ドイツ哲学、特にハイデッカーに造詣が深い金村さんです。世界文学最高峰といわれる『カラマーゾフ』をどのように読み解いているか、大いに興味がわくところです。
 なお、時間あれば全作品を振り返って未報告作品をフリートークしましょう。

『カラマーゾフの兄弟』5回目
金村 繁

内容を「大審問官」で統一する予定だったが、下記の3テーマに分けることにした。

T.その後のアリョーシャ
  大別して「革命家説」と「聖者説」とになる。前者は当時の談話やソ連系の文学評論家
 に多く、後者は現代のロシアのサラスキナ説が代表的なようである。
  革命家説が多数意見のように見えるが私は聖者説をとりたい。

U.「大審問官伝説」について
  「大審問官」は、数多くの角度から見ることができる。そのそれぞれについて言及して
 総合的に考えてみる。
  問題は、現代(人)として考えてみた大審問官であろう。

V.日本人とキリスト教
  大きな問題設定となるが、日本人とドストエフスキーとも、私とキリスト教とも、私と
 ドストエフスキーとも考えられるといえる。
  その点は、なぜ日本人はキリスト教を拒否したのか、それにもかかわらず逆に、なぜド
 ストエフスキーが日本人に受容されたのが、その逆説についての私の考えを述べてみたい。

 論点が、はっきりしているので、興味深い報告になるかと期待します。(編集室)


T.の「その後のアリョーシャ」は、13年後が、あるのかないのか。既に読書会では、何度か論争されてきた論題ですが、10年のサイクル歳月での思考変化もあります。参加者、各人はどうみるのかがわかれば幸いです。
 課題・13年後は、「ある」「ない」「考えたことがない」どちらでしょう。
   「ある」「ない」とすれば、そのわけは。

U.大審問官的、発想、政治形態、思想は、現代の世界でもあるような気がします。
 課題・思い当たる指導者や、経営者、政治家はいるか。普天間問題の日本は当てはまるか。

V.ドストエフスキーの作品をキリスト教と結びつける読者もいれば、キリスト教は、たんに物語構成の材料で、作品の真理とはまったく関係ないと思う読者もいる。キリスト教的見地からみれば、ドスト作品を持って神社仏閣を参拝する日本人は奇妙と思うところか。

『おとなしい女』『おかしな人間の夢』をフリートークで
 時間に余裕があれば、『おとなしい女』か『おかしな男』にも光りを当てます。希望者はお話ください。但し、金村報告の後。可能なら両短編、読んできていただければ幸いです。




『カラマーゾフの兄弟』とは何か
 (編集室)

 『カラマーゾフの兄弟』とは何か。たくさんの評論や研究書はあります。が、独善的見方からすれば、やはり本家本元の米川正夫氏が最高峰です。忘れてしまった人、見逃している人の為にテキスト『ドストエーフスキイ全集 別巻 ドストエーフスキイ研究』から氏の解説を何回かに分けて転載します。但し、抜粋。詳細は全集をご照覧ください。

「ドストエーフスキイ研究」第十五章 E

父親フョードルについて=「歪められた近代人の一変態」

(116号の続き)ファウンやサチロスの単純素朴な性的本能は、フョードルにおいてはとくの昔に失われている。彼は自分が道化でもあるのみならず、道化であることを故意に誇示して、おのれの無恥を糊塗しようとする、歪められた近代人の一変態である。
 フョードルは単に自意識によって、素朴さを失ったファウンであるばかりでなく、長い世代にわたる宗教的伝統によって、意識的なシニズムにも徹することのできない、無力な分裂者であった。この厚顔無恥な道化も時として、数かぎりない自分の悪業や醜行にたいして、かすかな不安と恐怖を感じるようになった。彼がアリョーシャを相手にして、冗談まじりに洩らした言葉は、単に宗教性の潜在を
示すばかりでなく、なおその表現形式の点においても、きわめて性格的である。「・・・・わしが死んだときに、鬼どもがわしを鉤にかけて地獄に引っ張りこむのを、ちょっと忘れてくれるってなわけには、ゆかんものだろうか?・・・・・・・」
 フョードルはもちろん、神を信じていず、したがって地獄をも信じるはずがない。にもかかわらず、もし万一?という疑問が頭をのぞける瞬間がたびたびおとずれる。彼はそれをいつも道化の仮面のもとに隠しつづけるが、純真そのものであるアリョーシャの前には、ふとその疑念をうち明けたい衝動にかられる。しかし、それもやはり素直な告白の形にはなりえず、不まじめな駄洒落に落ちてしまう。なぜなら、告白しょうとする瞬間に、その気持を自嘲せずにはいられないからである。とまれ、フョードルが長い生涯の間に重ねてきた悪業醜行の数々のために、地獄を考えずにいられないということは、彼の背後になにか不吉な死の影がかぶさっていることを感じさせる。作者は早くも第一編において、彼の非業の最後を巧みに暗示しているのである。 (次号へ)

この作品の報告続行・多様性について
  読書会での 『カラマーゾフの兄弟』報告は、今回で五回目になる。この作品に対する報告希望は、また゛つづく。世界最高峰の作品といえばそれまでだが、読者は、なぜこの作品に、執着するのか。なぜ、この作品はかくも読者の考察意欲をそそるのか。 この謎について、中村健之介氏は、著書『ドストエフスキー人物事典』(朝日選書399)の冒頭でこのように述べている。

 『カラマーゾフの兄弟』は複雑な構成を持つドストエフスキーの長編小説の中でもとりわけ枝葉の豊かな小説である。そして、それぞれの枝葉にまた山あり谷ありもあって、「大審問官」、ゾシマの回想、少年イリューシャの死など、それだけ取り出して読んでも読みごたえのある劇中劇がいくつもちりばめられている。そういう豊かな内容と独立性のある話でこの長編小説は成り立っている。だから、『カラマーゾフの兄弟』をめぐる議論が一般に小説全体を統一的に論じようとするよりは、読者の引きこまれたそれぞれの山や谷についての情熱のこもった部分的考察となるのは、むしろ自然なのである。
 と、同時に、この小説の中心には、全体を貫いて多くの部分を引きつけている、強烈な実在感を持つ劇が置かれている。それが、カラマーゾフ(黒く塗られた者たち)家の父親と息子たちの葛藤である。この家族の生々しい愛憎の劇があるからこそ、小説『カラマーゾフの兄弟』の多くの宗教的哲学的なことばは、美しい箴言と化してしまうことなく、現実性をもって汚れた人間の、とりわけ親子兄弟の愛と恨みの関係の中にこそ熱い血の通った深い真理が生きて働いているという事実を語ることができたのだと言える。



『カラマーゾフの兄弟』 etc… (編集室)

『カラマーゾフの兄弟』と現代の事件(幼児虐待)

 『カラマーゾフの兄弟』の多様性のなかには、時間を超えた現実がある。舞台は19世紀末という遠い時代だが、現代でも、よくこの作品を感じたり彷彿したりする。その一つに幼児虐待がある。無垢な弱いものを徹底的に虐待する人間の行為。この忌むべき非道行為は、戦争と同じ、人類発生時から続けられている。なぜ、なんのために、謎である。

・・・ロシアでは、人をなぐっていじめるのが、歴史的、先天的、直接的快楽になっている。・・・知識階級に属するりっぱな紳士とその細君が、やっと七歳になったばかりの生みの娘を小枝のむちで折檻している、・・・五つになるちっちゃな女の子が、両親に憎まれた例もある。この両親は『名誉ある官吏で、教養ある紳士淑女』なんだ。・・・多くの人間には一種特別な性質がある。それは子供の虐待だ。・・・ほかの有象無象にたいするときは、最も冷酷な虐待者も、博愛心に満ちた教養あるヨーロッパ人でございますと言うような顔をして、慇懃謙遜な態度を示すが、そのくせ子供をいじることが好きで・・・・で、その五つになる女の子を教養ある両親は、ありとあらゆる拷問にかけるんだ。自分でもなんのためやらわからないで、ただ無性にぶつ、たたく、ける、しまいにはいたいけな子供のからだが一めん紫ばれになってしまった。・・・それにもあきて・・・凍てつくような極寒の時節に、その子をひと晩じゅう便所のなかへ閉じ込めるのだ。それもただその子が夜中にうんこを知らせなかったから、というだけなんだ。・・・・そうして、もらしたうんこをその子の顔に塗りつけたり、むりやり食べさせたりするのだ。・・・・・・・・・・(『全集』米川正夫訳)

 イワンは、アリョーシャに問いかける「この不合理な話が、説明できるかい」と。しかし、この問題は、なんの説明もつかないまま(説明がついても、なす術もなく)いまなおつづいている。以下の新聞報道をみれば一目瞭然である。
子供虐待の新聞記事 現代においても、子供虐待のニュースは後を絶たない。

 最近の、新聞記事を拾ってみた
2009年(平成21年)12月11日(金曜日)夕刊 読売新聞
3歳虐待容疑母親逮捕 投げ飛ばされて骨折、死亡
3歳11か月の次男を投げ飛ばすなどの虐待をしたとして、埼玉県警は、母親(33)を逮捕した。次男は病院で死亡した。母親は、(子供が)「トイレでなくオムツに便を洩らしたため、イライラしてやってしまった」と供述した。
 この家族は、夫(33)、息子2人、娘2人の6人家族だった。

2009年(平成21年)12月22日 火曜日 朝日新聞
2歳児に針42本刺す ブラジル「秘術」継父ら逮捕
【サンパウロ=平山亜里】ブラジル北東部バイア州で、2歳男児の全身に42本の針を刺したとして継父(30)愛人ら3人が逮捕された。愛人はアフリカ系の「秘術師」。継父は「この子の母親が憎く、この子を殺したかった」

2009年(平成21年)12月22日 火曜日 読売新聞
2歳虐待父を一転起訴 「不起訴不当」受け在宅で
 2006年、長男(当時2歳)を殴り重傷を負わせた父親が在宅起訴された。長男は2006年4月、外傷性脳損傷を原因とする肺炎で死亡している。会社員の父親(28)は「しつけと称して日常的に虐待を繰り返していた」

2010年(平成22年)1月25日 月曜日 読売新聞
両親が暴行 7歳死亡 「食べるの遅い」あざ複数
 小学一年生の長男に暴行を加えたとして、小岩署は、継父(31)と母親(22)を逮捕した。二人は、「ご飯を食べるのが遅い」と言って正座させ、顔面をなぐるなど約1時間にわたって暴行し、死に至らしめた。子供が通っていた小学校では、子供の顔に暴行を受けた形跡が見られたため、校長・副校長・担任が家庭訪問し、両親に「子供に手をあげてはいけない」と諭した。両親は約束した。その後、病院にも連れていったと連絡があったので相談所に通報しなかった。

続報「虐待死小1両親かばう」 1月27日 読売新聞
  先日、両親になぐり殺された小1の男の子は、学校や周囲の大人たちには「パパはいじめないよ」と話していた。

2010年(平成22年)1月27日 水曜日 読売新聞
幼い娘の裸 売る母親 携帯で撮影「罪悪感なかった」
  幼い娘の裸の写真を携帯電話で送信したり、いかがわしい行為をされると知りながら男に引き合わせたりしたとして、大阪、宮城、神奈川など8都府県の母親ら13人が昨年6月以降、相次いで摘発された。背景には、児童ポルノの低年齢化に加え、小遣い稼ぎに目がくらんで間隔が麻痺した母親らの姿があった。(東北総局・奥林千尋)

  おそらく、こうして事件になって報道されるのは氷山の一角に違いない。日本といわず世界には、大勢の可哀そうな子供たちが今現在も助けを待っている。
  このような不幸な子供の新聞記事を読むと思い浮かぶ光景がある。ドストエフスキーが訪問した「幼き犯罪者の部落」のことだ。あの部落にいた不幸な子供たちは「人間らしいところも、社会生活の一員としての資質も、消滅しつくしているような恐ろしい暗黒な特殊な人間」によって作り出された。排便の仕方も教えない陰鬱な人間たち。
  虐待をする親たちは、彼らのように子供にたいして「畜生同然の無関心」ではない。たいていは躾けが過ぎてという。が、子供を殺してしまうのだから、たいした違いはない。どちらでも子供にとっては、悪魔のような存在。虐待される子は、無垢のまま死んでいくので、余計に哀れである。
  
 それにしても、虐待死は、いっこうになくならない。親は小1の男の子を可愛がっているふうにみせていた。が、近所の人は知っていたし、学校も知っていた。学校は、校長、副校長、担任が家庭訪問して、親を諭したという。まったく想像力も推理力もない、腹の立つ話だ。こうした無策というか無能の対処を、何度繰り返すのだろう。何人殺されたら気がつくのか。彼らがしたことは、アル中患者に、酒をやめなさいと説教したようなものである。虐待疑惑の親とは、話し合いの必要はない。これが鉄則である。防ぐには、問答無用、子供と親を引き離す。この一手しかない。もし、それができなければ、徹底して24時間、その疑惑家庭を観察することである。安易な判断、早急な結論が、いつも悲劇を招く。悪魔との対決には時間がかかるのだ。   (編集室)
 



詩人と『カラマーゾフの兄弟』 多くの芸術家が魅了され詠み語った


初めて「カラマゾフ」兄弟を讀んだ晩のこと
室生犀星

   私はふと心をすまして  その晩も椎の實が屋根の上に
   時を置いて撥かれる音をきいた  まるで礫を遠くから打ったように
   詫しく雨戸を叩くことがあった


      郊外の夜は靄が深く  しめりを帯びた庭の土の上に
      かなり重い静かな音をたてて  椎の實は
      ぽつりぽつりと落ちてきた  それは誰でも彼の實のおちる音を
      かって聞いたものがお互ひに感じるように  
      まるで人間の微かな足音のやうに  温かい静かなしかも内気な歩みで
      あたりに忍んで来るもののやうであった


    私は書物を閉じて  雨戸を繰って庭の靄を眺めた
    温かい晩の靄は一つの生きもののように
    その濡れた地と梢とにかかっていた  自分は彼の愛すべき孤独な小さな音響が
    實に自然に、 寂然として  目の前におちるのをきいた


        都会のはづれにある町の
        しかも奥深い百姓家の離れの一室に  私は父を亡って
        遠く郷里から帰って座っていた
        あたかも自らがその生涯の央に立って  しかも「苦しんだ芸術」に
        あとの生涯をゆだねつくさうと心に決めた
        深い晩のことであった
                    (『日本詩集』大正8年4月)


文豪が愛した人たち  武者小路実篤

・・それからついでに一寸云うが、ドストエフスキーは誰でも人間を愛していると思っている人があればまちがひだ。ドストエフスキーにも愛することの出来ない人がある。それは俗人だ。金の為にはどんな賎しいことも平気でやる、他人のことはまるで考えない人間だ。
ドストエフスキーは、世間から軽蔑され賤しめられている人間は愛し尊敬する癖があるが、心の賎しい、金にキタナイ、ずるく、こびへつらう、思いやりのない世渡りのうまい人間は愛していない。云うまでもないことだが。(「手帳の内」より 1917年11月29日)



12・12 読書会報告                 

12月読書会は、12日午後2時00分 第7会議室で開催。26名参加でした。(編集室) 出席は26名
 
「大審問官」(ゾシマ、キリストで)議論沸騰!忘年会も盛会

 2009年、最後の読書会は、北岡さんが「大審問官」をめぐる歴史について報告しました。 「大審問官」は、読者によっては好き嫌いが分かれるところですが、この日の読書会では、多くの多彩な感想や見方があった。熱気は忘年会に。17名参加賑やかでした。



2009年、読書会報告記録

 2月21日 小7会場『カラマーゾフの兄弟』一回目 報告者・長野 正 28名
        題名「『カラマーゾフの兄弟』の魅力」

 4月18日 小7会場「『未成年』〜『カラマーゾフ』」 報告者・長瀬 隆 27名
         題名「一本の赤い糸 『未成年』→『カラマーゾフ』」

 5月 4日 読書会レクレーション「谷津干潟散策」 参加者10名
  

 7月11日 小7会場『カラマーゾフの兄弟』二回目 報告者・菅原純子 24名
         題名「アリョーシャ像の人物像とはいったい何か」

 8月 8日 小7会場 暑気払い『カラマゾーフ』又は「ドと私」報告者7名 20名
         
10月17日 小7会場 『カラマーゾフの兄弟』三回目 報告者・長谷川研 26名 
         題名「スメルジャコフとアリョーシャの時代」

11月23日 読書会レクレーション「紅葉の高尾山ハイキング」 参加者5名
        
12月12日 小7会議室『カラマーゾフ』「大審問官」報告者・北岡 淳 26名
         題名「『大審問官』とヴィジョンの世界」

□ 2009年は『カラマーゾフの兄弟』の一年でした。2010年も、カラマーゾフ熱まだまだ続きそうです。が、未報告作品も俎上します。4サイクルまだまだです。



ドストエフスキー文献情報


最新ドスト情報(1・28) 提供・【ド翁文庫】佐藤徹夫さん

<翻 訳>

・悪霊 三部からなる長編小説 ドストエフスキー 亀山郁夫訳 *[第一部]
   「小説宝石」 43(2)(平成22年1月22日=February 2010) p244-274
           *本編に出てくる人物名 p274-275
           *解説:『悪霊』―怒りと絶望の書/亀山郁夫 p276-279
<図 書>

・『代表質問 16のインタビュー』 柴田元幸ほか著 新書館 2009年7月10日 \1800
     181+1p 18.8cm
・III 日本でいろんな人たちと...・・・
     沼野充義 トランス・アトランティック・ドウストエフスキー p228-263
  *初出:「ユリイカ」 39(13)(2007.11.1)p40-60 対談:管巻く言葉の渦から
・『ベストセラーの風景』 塩澤実信著 展望社 2009年11月7日 \2300 342p 19.4cm
・4 古典の周辺『カラキョー』の驚異 p148-153
・『ドストエフスキイの<世界意識> その文学・人間・思想・社会観の小宇宙』立石伯著
     深夜叢書社 2009年11月11日 \2800 349p 21.7cm
     *深夜叢書社創立46周年記念出版
・『映画と祖国と人生と...』アンジェイ・ワイダ著 西野常夫監訳 凱風社 
    2009年12月5日 \2600 467p 18.8cm
・第11章 良心の劇 ドストエフスキー p245-280
・『手紙、栞を添えて』辻邦生、水村美苗著 筑摩書房<ちくま文庫・み-25-3>
   2009年12月10日 \740 266p 14.8cm
     *初出:「朝日新聞」 1996.4.7〜1997.7.27
     単行書:朝日新聞社 1998.3.1刊;文庫版:2001.6.1 <朝日文庫・つ-1-9>
・ドストエフスキーの苦悩/辻 p144-147
・ドストエフスキーの啓示/水村 p145-151
・『翻訳家列伝101』小谷野敦編著 新書館 2009年12月10日 \1800 289p 21cm
・3 ロシヤ文学の翻訳家 p75-103(昇曙夢;中村白葉;米川正夫;神西清;木村浩;江
  川卓;池田健太郎;原卓也;亀山郁夫;その他)
・『ロシア文学 名作と主人公』 水野忠夫編 自由国民社 <知の系譜 明快案内シリー
  ズ>2009年12月10日 \1600 269p 21cm
・U黄金期 トルストイとドストエフスキー p71-116(『罪と罰』 p91-95;
  『地下室の手記』 p96-99;白痴 p100-103;悪霊 p104-107;未成年 p108-111;
  カラマーゾフの兄弟 p112-116)
・『トンデモ偉人伝 天才編 special edition』 山口智司著 彩図社 
  2009年12月18日 \524  223p 18.2cm
・自意識過剰な文学者 ドストエフスキー p122-127
・『最も危険な名作案内 あなたの成熟を問う34冊の嗜み』 福田和也著 ワニ・プラス(発
  売:ワニブックス) <ワニブックス 【PLUS】新書 011> 2009年12月25日 \760 
  220p 17.2cm  *初出:「ダ・ヴィンチ」 2000.7〜2002.1
*初版:『成熟への名作案内 大人になるための34冊』(PHP研究所 2002年11月27日)
・第四章「賭博」による転生 『賭博者』ドストエフスキーと『新麻雀放浪記』阿佐田哲也
      p53-62

<逐次刊行物>

・<文化> 「ドストエフスキーの現代」講演 東京外語大学長 亀山郁夫 秋葉原殺傷事件
  にみる「罪」
・「山梨日日新聞」 2009.11.28 p15
・<保守人権派宣言 10 国権と人権のはざまで> ドストエフスキーの「国民精神」/三
  浦小太郎
・「表現者」 28(2010.1.1) p20-21
・<ドストエフスキイと日本人 H 響き合う魂> ドストエフスキイと親鸞 阿彌陀佛、
    超越性感受の条件/芦川進一「福音と世界」 65(2)(2002.2.1) p10-13
・<新春特別対談> カタストロフィ後の文学 世界と対峙する長篇小説/高村薫×亀山郁
   夫p100-123ドストエフスキーの預言 第十回 悪臭と悪魔/佐藤優 p220-231
     「文學界」 64(2)(2020.2.1)
*連載 ドストエフスキーとの旅/亀山郁夫 「日本経済新聞」日曜版
    48 「変節者」の後めたさ 2009.11.29 p24
    49 続編を空想する責任 2009.12.6 p24
    50 罪なきものの死    2009.12.13 p24
    51 遺伝子が定めた運命 2009.12.20 p22
    52 運命の罪を引き受ける 2009.12.27 p22 *完
・『ドストエフスキー曼荼羅 3号』(編者・清水 正 2009年12月20日発行)
  ドストエフスキー研究者の寄稿・大学院生のエッセイ




<連 載>
       
「ドストエフスキー体験」をめぐる群像 
第27回(前回の続き)佐藤優氏の「ゾシマ論」

福井勝也


 前回は、『野火』における<人肉喰>というテ−マから「大審問官」(=人間が共に喰い合う極限状態を回避する人間的制度)の問題について考えてみた。それは大岡が問題とした「ドストエフスキイと共に日本に輸入された文学的な神」の要点であるが、小説の「怪しげな神学」の帰結とも関連していた。すなわち、大岡は食人とミサと結びつけることで、戦場で主人公が遂に<狂兵>(=偽キリスト)の肉を食うことが、キリストによる救済(=解放)になるとの異端解釈を『野火』の最後に導き出した。この解釈が「冒涜」(=「涜神」)でもあることを後に大岡自身語っているが、元々は救済観念としてのキリスト像の極端なかたちの探求であったはずだ。だからこそ、この『野火』は戦後世界文学としてキリスト教国を含む世界各国で翻訳され高い評価を得た。しかし大岡はそのことを単純に喜ばずに敗戦国民の悲哀からと感じたとその本音を語っていた。
そして「大審問官」も本質的に脆弱な人間を現実的に救済するためのキリスト像の「究極のネガ」としてある。それをドストエフスキーはカトリックとりわけイエズス会批判というかたちでイワンに語らせた。ここでのイエズス会は、カトリックの異端宗派であるプロテスタントに対抗する戦士集団としてカトリック(内)批判者として生まれて来た経緯がある。言わば、イエズス会は、この点で二重の異端派とも言える。そしてさらにそれを否定するドストエフスキーの立場がゾシマ長老の宗教哲学であった。前回は、佐藤優氏が語るマサリクの「大審問官」と結びついた「ゾシマ論」であった。
この点で佐藤氏(=マサリク)は、ゾシマが<罪のある人間を愛しなさい>という説教によって<大審問官>の出現を正当化しているとする。そしてこの前提に、罪を「神の似姿」の範疇に取り込むことによって、ゾシマは汎神論ではなく汎悪魔論によってこの世を解釈していると説明する。そこから、悪によって悪を制することが是認され、<罪のある人間を愛しなさい>という<大審問官>の倫理的指針が導き出されるとした。前回、この文脈の最後の解釈の当否については、当方は判断を保留しておいた。今回ここまで辿ってみて、まず第一に、大岡の『野火』でのキリスト解釈もドストエフスキーの「大審問官物語」も、さらに「ゾシマ」の宗教哲学もキリスト教教義の異端の系譜に連なるものだと改めて理解した。そして今回さらに、保留した佐藤氏の議論について考えたいと思った。しかしそれが意外な方向から後押しされる結果になった。すなわちこれまでの説明の前提にあるゾシマの言葉の翻訳の問題として浮上してきたのだ。

「兄弟たちよ、人々の罪を恐れてはいけない。罪のある人間を愛しなさい。なぜならそれは神の愛の似姿であり、この地上における愛の究極だからだ。−下線筆者」

実は今回、この前提の亀山訳が不正確な訳でそれに基づく佐藤氏の説も誤解釈であるとの指摘が当方に寄せられた。それは前回読書会参加氏が指摘された当方の亀山訳の引用ミス「神の愛の姿」(→「神の愛の似姿」)は別にして、「神の愛の似姿」と訳している個所は「神の愛に似たもの」と訳すべきで、それは「罪のある人間を愛すること」を受けているという木下豊房氏からの指摘であった。同時に先行訳との比較対照の必要性を木下氏は合わせて説かれた。この点で、例えば江川訳では「罪のある人間を愛すること」を受けて「なぜなら、それこそが神の愛に近い形であり」となっていることがわかった。この限りで確かに文法的字義解釈では木下氏の指摘が正しいように感じた。と同時に全体の「文脈」の読み取り方の難しさを思った。
 
 すなわち、厳密な言い方で亀山訳が「誤訳」とは言えないとも感じたからだ。それは「似姿」が「罪のある人間」を指すのではなく、「その行為」まで含むと考えられるからである。さらに、江川訳の「神の愛に近い形」という言葉と「似姿」は意外に近い表現に読み取れる。また文脈として亀山訳の全体を読むとき、必ずしも間違った読み取り方をすることにはならない感触を持った。そして、文法的にはともかく「似姿」という言葉の方が江川氏の「近い形」よりもこなれた表現に読めた。おそらく、亀山氏は旧約聖書の創世記、天地創造の個所(26.27.28)に戻って「神の愛の似姿」という言葉を選択したと推定される。ここは、人間存在を他の被造物への支配権すら与えられた自由意思主体ととらえること(同聖書注解)からする人間的「自由」の根本問題が問われる個所としてある。
この点で、この「罪のある人間」を「神の似姿」として読み取り、ゾシマは汎神論ならぬ汎悪魔論によってこの世を解釈する異端主義であると論じた佐藤氏の所説は、単なる「読み違い」による「行き過ぎ」と考えられるべきなのか。この点で紛らわしい訳文に依拠した、「早とちり」の推論だと木下氏は指摘する。さらに、前回の「イワンとゾシマ長老との類似性の根拠として自然宗教的な「神」存在を見つけだすことができる」との当方の自説も同様の「誤訳から発した誤解釈の延長であってテクストから離れたあらぬ方向の議論」ということになるらしい。しかし、結局この問題は訳文の言葉が誘発した事態であるが、実は一翻訳語の問題以上の内容を孕んでいるのではないかというのが当方の問題意識である。その意味でも佐藤氏の「ゾシマ論」を注意深く読むべきだろう。

そのことは、結局佐藤氏の論考全体を理解する必要に迫られる。実は、佐藤氏は現在(2010.1月末)「ドストエフスキーの預言」(『文學界』)で10回目までの連載を終えている。前回もコメントしたがなかなか読み応えがある内容になっている。何より期待しているのは、その豊富な神学的知識から、今までのドストエフスキー論で埋められなかったキリスト教関連の部分に新たな照明があてられることだ。今回の「ゾシマ論」も、第6回「カトリシズム」、第9回「無神論者ゾシマ」、第10回「悪臭と悪魔」等で繰り返し触れられてきている。その際、佐藤氏の所説がマサリクのドストエフスキー論に依拠していることをまず注目すべきだろう。これは、佐藤氏の神学研究の対象がチェコの神学者フロマ−トカであったことと関係があるのだろう。それとドストエフスキーという存在を考えるうえで、マサリクという歴史的人物の視点もさることながら、東欧のチェコという歴史的・地政学的位置からのドストエフスキー理解には新たな側面からの解析が期待できる。実際にそのような角度からの論考にあって、神学研究者でもある氏が、<罪のある人間を愛しなさい>と説くゾシマの宗教的姿勢を汎神論ならぬ汎悪魔論とする議論は、単に「神の似姿」という翻訳語からの一推論によるだけではなく、ゾシマをとりまく種々の言葉の解釈からより広範囲に読み解くべきだろう。この点で、佐藤氏の「ゾシマ論」を特徴づける文章をいくつかを引用してみようと思う。

「 神学的基礎訓練を受けた者ならば、ゾシマの説教にある反キリスト教的要素にすぐに気づく。例えば、以下の動物崇拝の記述だ。― 中略 ― <どんな草も、甲虫も蟻も、金色の蜜蜂も、生きとし生けるものが、およそ知恵などというものをもたず、驚くばかりに自分の道をわきまえ、神の奥義を証明し、倦むことなくその成就につとめている。><なにもかもすばらしい。荘厳だね。― 中略 ― あの動物たちにどんな罪もない、そう知るだけでなにか胸に迫ってくるよね。だって万物は完全なんだし、人間をのぞけば罪がなくて、動物たちには、ぼくらよりも先にキリストさまがついておられるんだから― 中略 ―生きとし生けるもののために神の言葉はあるのだし、すべての創造物、すべての生き物は、木の葉っぱ一枚にいたるまで神の言葉をめざし、神を誉めたたえ、キリストさまのために泣き、自分でも気づかぬまま、罪のない生活の神秘によってこれを営んでいるんだもの>」

(第9回「無神論者ゾシマ」p243~244、訳文は亀山郁夫訳、『文學界』2010.1月号)
「 ゾシマ ― ドストエフスキーは、あまりに直接聖書に依拠して、教会の伝統に十分な
注意を払わないので、それによって彼の教義の中には、非常に多くの非正統的要素 ― プラトン主義、プロテスタント風の聖パウロ主義とアウグスティヌス主義 ― が浸透して、既に見たように、フォイエルバッハにも敬意が払われる。ほとんど教会全体が、アレゴリ−とシンボルの中に埋没する。」 (同、p245)

 「 大審問官、ゾシマ長老、イワン・カラマ−ゾフは、同じ事柄を別の言葉で説明しているにすぎない。そこで通底しているのは、ニヒリズムに基づく無神論だ。この人たちは、いずれも神を信じることができないのである。」 (同、p247)

 「 ゾシマ長老は、フォイエルバッハ流の無神論者である。フォイエルバッハは、疎外されていない本来の人間を措定する。その人間は、自然の一部である。この考えに立ったならば、ゾシマの動物崇拝のよびかけの意味がわかる。動物を崇拝せよということは、自然に対する信仰によって裏づけられているのだ。マサリクの理解では、『カラマ−ゾフの兄弟』におけるゾシマ長老の役割を、『悪霊』ではチーホンが果たしている。」 (同、p251)

 「 <ウラース>(ロシアの聖人伝説の人、ネクラーソフが詩を書き、ドストエフスキーが「作家の日記)でコメントしそれをマサリクが問題にしていることを佐藤氏が触れている−筆者注)のような、極端な転換をドストエフスキーは高く評価する。」         (同、p252)
「 ペテルブルグに住む貴族、官僚、インテリゲンチアではなく、ウラースのような、回心した大地と結びついた農民がロシアを根源から変革することを、ドストエフスキーは望んでいるようにみえる。」                  (同、p252)
 「 ロシア正教会は正餐について、実体変質説をとる。従って、パンは真のキリストの身体に変化する。そのパンを拳銃で撃つということだ。キリスト殺しに荷担せよということだ。ドストエフスキーは、神聖冒涜から真の信仰に至る回路を是認する。」(同、p253)

 引用が長くなって恐縮だが、是非『文學界』のバックナンバーの幾つかにあたって関係の部分を読んで欲しい。今回の佐藤氏の論術は、これまでの無神論者イワンの語る「大審問官」対ロシア正教内の修道院的真実としてのキリスト教信仰を語るゾシマという従前の二分法的解釈に揺さぶりをかけ、新たな「ゾシマ像」を提示しようとしている。何と、大審問官、ゾシマ、イワンをニヒリズムに基づく無神論として括ろうとしている。この時、佐藤氏が問題とする「神」とは、厳密なキリスト教の(教義上の)「神」である。ゾシマの語る動物崇拝が汎神論的自然信仰の一種であることにおいて、すでに無「神」論となる。さらにそれが、フォイエルバッハ流の疎外を免れた自然の一部としての人間を中心とする無神論でもあるとする。しかしドストエフスキーは敬虔なキリスト教を偽装した懐疑主義者という意味で本質的ニヒリストであり、彼が描いた大審問官、ゾシマ長老、イワンも、皆が同じ事柄を別の言葉で説明しているだけの本来的に「神」を必要としないニヒリストだと断ずることになる。この点でフォイエルバッハは、人間を礼賛する無神論、宗教批判を展開することで、真実の神の姿を明らかにした無神論者であっても、ニヒリストではない点で異なると説明している。この佐藤氏の議論が、マサリクが考えるドストエフスキーの世界観をなぞるように語られているのが特徴的なのだが、この背後には氏が研究し学んだチェコのフロマートカの神学が控えていることが予想できる。連載の途中で迂闊なことは言えないが、おそらくそれはマルクス主義との接点を探りながら、歴史的にロシア革命が生み出した無神論国家(=ソ連邦)とドストエフスキーの宗教哲学との関係が明らかにされてゆく期待が持たされる。やや話が延長し過ぎてきたが、今回の「ゾシマ論」に戻れば、その宗教的姿勢が汎神論ならぬ汎悪魔論まで語られる由縁が、一翻訳語の「神の似姿」の「誤解釈」から演繹されたのではなく、事態はむしろ逆であって、佐藤氏の考える本質的ゾシマ像が出発点となっていたことを指摘したい。そして論述は現在進行形であれば、慎重にその論の行く末を見守るべきだと考えるのだ。
 最後に、大岡の『野火』に戻れば、佐藤(=マサリク)の指摘するロシアの聖人<ウラース>の「極端な転換」、ドストエフスキーが是認する神聖冒涜から真の信仰に至る回路こそ、主人公が最後に幻視した食人とミサを結びつけたところで現出したキリスト像ではなかったか。その前段にはゾシマ的汎悪魔主義も胚胎していたということか。 (2010.1.31)

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『日本近代文学の〈終焉〉とドストエフスキー』
※ ご希望の方は、書店か著者、または「本通信」編集室まで連絡ください。

旧刊紹介   福井勝也著(2001・1・25 のべる出版企画)定価1400円
『ドストエフスキーとポストモダン』
―現代における文学の可能性をめぐって―




広 場

<映画批評>  

映画 『トリコロール赤の愛』について
江原あき子

 運命はどんな姿をしているのだろうか。運命は、そもそも見えるものなのだろうか。誰もが運命について考える。でも、誰もそれを具体的に説明することはできない。でもこの映画はその姿を見せてくれる。『トリコロール赤の愛』は、ポーランドの監督、キェシロフスキの最後の作品。トリコロール三部作の中の一作である。―パリに住み、モデルをしているヴァランティーヌはある日、車で帰る途中、犬を轢く。犬を病院に連れて行き、首輪に書かれていた住所をたずねると、そこには一人の初老の男が住んでいた。彼は元判事のジョゼフ。彼には盗聴癖があり、ヴァランティーヌはそれをとがめる。しかし、やがて彼の過去とヴァランティーヌの未来が不思議な符号で結ばれていることが明らかになる―
 轢かれた犬や、ヴァランティーヌの車の前を横切る男や、大当たりが出るスロット。絶えず得体の知れない予感が観る者を襲い、不安にさせる。しかしその不安は決して不快ではなく、むしろうっとりと甘美な気持ちにさせる。まるで“トリスタン和音”をずっと聴き続けているように。それは多分、この映画を貫いている静けさのせいだろう。スロットで大当たりが出た時、店の男が事も無げに「悪い前兆だな」と言う。「当たるなんて不気味」とヴァランティーヌも静かに答える。ファッションショーが終わった暗く、静かな会場でヴァランティーヌはジョゼフから自分の未来についての重大な告白を聞かされる。その時突然の嵐が会場の窓を叩く。窓は開き、白く長いカーテンがはためく。少しもあわてることなく、むしろ緩慢な動作でヴァランティーヌは次々と窓を閉める。カメラは引いて、その姿をじっと見つめている。その後姿はまるで儀式を行っているように美しい。“窓を閉める”というありふれた動作を、まるでかけがえのない、特別な風景のようにていねいに、撮るのだ。キェシロフスキの出世作ともなった『ふたりのベロニカ』も、この『赤の愛』も、誰もが見たことがあるような風景を時間をかけて、ていねいに撮っている(窓のほかには、たとえば、ゴミを捨てようとする老人など)見ているわたしたちは最初戸惑うが、長々と見せられるその映像に目が慣れ、やがてその風景を“大事な風景”であると認識するようになる。 監督の言葉を紹介する。“私は、偶然のめぐり逢いが好きなんだ。人生は偶然のめぐり逢いに満ちていて、毎日、それと知ることなく、大切な人とすれ違ってゆく。そして、もう二度と出逢うこともない。たとえ再び出逢っても、初めて出逢ったのだと信じて疑わないんだ”それは、こうとも言えないだろうか。私たちは日常大切な、かけがえのない風景にたびたび出会っているのだ。私たちはそれに気がつかないのだ。今、あなたは愛する人と同じ時、同じ空間に生きている。愛する人は笑ったり、お茶を飲んだり、窓を閉めたりする。窓を閉めるその後姿。それこそが、あなたの大切な、運命の風景、運命の姿だ。キェシロフスキの作品は私たちに、そのことを気づかせてくれる。日常の中には、大切なものが沢山潜んでいる事を。最後に、ヴァランティーヌはジョゼフの予言のとおりに運命の人とめぐり逢う。ラストシーン、私は映画館の片隅で拍手したかった。ブラヴォー、キェシロフスキ!




テレビ番組観察 (編集室)

「ベストハウス123 実録超常現象」(2010・1・20 8チャンネル21時)

エクソシスト完全記録 悪魔が取りついた少女

 最近のBSドキュメンタリー番組は、いい加減なもの不誠実なものが目につく。作り手の受け狙いが先行し過ぎるところに原因があるとみる。BSがそうなのだから民放のバラエティー番組は何をかいわんやではある。1月20日の夜、たまたま見た番組もその類のものだった。外から帰ってテレビをつけたら、ちょうど「エクソシスト完全記録 悪魔が取りついた少女」という番組だった。この手の話の信憑性は、どのくらいかは知らないが、証拠のテープがあるというので、つい見てしまった。話は、ヨーロッパのキリスト教圏に実際にあった出来事として紹介。普通の家庭の19歳になる娘が、ある日、突然、悪魔に乗り移られたというのである。途方に暮れた両親。美人の娘さんの写真が映された。病状は、食事をしなくなり、悪魔になぐられたという痣が顔や体にでき、ときどき奇声を発する。彼女は日に日に衰弱していく。困り果てた両親は、いくつもの大病院、おおぜいの精神科医に診せた。が、診断結果はみな同じ「わからない」だった。映画『エクソシスト』を見た人ならわかりは早いと思うが、簡単に言えばあんな話である。両親は、最後の望みの綱として宗教に救いを求めた。キリスト教の教会に頼みこんだのである。教会は、病状を悪魔に乗り移られたと判断した。本当かどうかは知らないがバチカンには、実際、悪魔祓いする神父がいてエクソシストと呼ばれているという。法王庁は、ただちに二人の悪魔祓い師を派遣した。彼らは、娘の中に悪魔が5匹いると宣言し、さっそく悪魔祓いにかかる。昔の回虫を思い出して可笑しくなった。悪魔は、イエスを裏切ったユダ、キリスト教徒を迫害したネロ、ホロコーストのヒットラーらだという。このへんで、この話の真実味は吹き飛んでしまうのだが、悪魔の声を録音した証拠のテープがあるというので、なおも見つづけた。
 悪魔は、二人の悪魔祓い師の祈りと説教により1匹づつ娘の体から抜け出た。最後の大悪魔は、かなり抵抗したが、それでもやっと追い払った。とたん、娘の明るい声と表情。テープは、あきらかに悪魔がいたときとは別人の声だ。彼女は、元気になった。
 が、数日たつと、喜ぶ両親に彼女は、突然、奇妙なことを言った。散歩から帰ったときだった。「野原に、マリアさまが現れた」と話した。彼女が言うには、マリア様は「悪魔が、あなたから抜け出したために、多くの娘さんが、不幸になる。あなたが、もう一度、悪魔を受け入れれば、多くの娘さんが救われる」と言った。両親は、驚いて説得するが、彼女は、自分が犠牲になることを選ぶといってきかない。彼女は、再び苦しみのうめき声をあげる。テープの声も、彼女が発した声とは別人。奇声や、怒号も多くなる。両親は、二人の悪魔祓い師に連絡。駆けつけた二人は、必死で説得と祈りを繰り返す。が、両親の願いむなしく、彼女は19年の短い生涯を閉じる。キリスト教的には、皆を救う為に悪魔に身を捧げた美談。まさか、嘘だろう。おもわず声をあげた。西洋医学は、何なのだと憤慨しかかったが、次のナレーションで、ほっとした。当局は、過失致死罪で、両親と教会の悪魔祓い師を逮捕したという。しかし、懲役1年、執行猶予3年は、あまりに軽すぎる。やはりキリスト教の国だからだろうか。先日、日本でも宗教で赤ん坊を飢え死にさせた両親が逮捕されたが、宗教を信じすぎる人間の不思議を思う。同時にいまだ、この話が超現象として配信されていることに驚く。なぜ精神科医は抗議しないのか。彼女の死因は、やせ細った結果である。食事をとらなかったせいで、飢えて死んだのである。彼女は、「思春期やせ症」つまり拒食症だと推理する。この病気は、痩せて魂だけになりたいというと嗜癖の奇病である。彼女たちは、痩せるためなら何でもする。自分の体を傷つけ。体を売るのも厭わない。自分のなかに悪魔が棲んだと騙すなど、朝飯前である。宗教の名のもとにおおぜいの人たちが振り回され、彼女自身も死んだ。これほど医学が進歩しているのに残念である。では、どうしたら彼女を救えたか。両親が医者に頼らず、宗教に頼らず、娘の近くで辛抱強く忍耐強く観察する。アリョーシャのように。それしかこの奇病(悪魔)に打ち勝つ道はない。 (編集室)



新刊紹介      
出版おめでとうございます。

『蕗のとうを摘む子供等』― 長沢 佑 作品集 ―
編集・渡辺好明 長沢佑著 発行・渡邉好明 2010・2・17 1600(送料込み)

 『原郷の奄美』ロシア文学者 昇曙夢とその時代
田代俊一郎著 書肆侃侃房(しょしかんかんぽう) 2009・11・3 本体1800円
提供者=豊島高士氏(印鑑工房『愛幸堂』=「読書会通信」印刷所)

『山脈(やまなみ)はるかに』 下原敏彦著
椋鳩十記念第8回伊那谷童話大賞特別賞 D文学会 2010・2・22 
近日刊行予定 
        

紅葉の高尾山を詠む

 昨年11月23日、読書会はレクレーションの一環として高尾山ハイキングを実施しました。
その折、新美しづ子さんが詠んでくださいました。
また、それに応じて長谷川研さんが返答歌をくださいました。ありがとうございます。


紅葉の高尾   

新美しづ子    2009・11・23

あきつしま紅葉の山に今日はきぬアフガンの悲惨終わる日はいつ

あきつしま紅葉の山にゆきあえりすらり黒衣のイスラムのひと

さまざまにゆきあう今日の高尾山おじいさんに抱かれて登る犬にも

足もとについばむ二羽の鳩がいて山間(あい)此処唯今ケータイ不通

この山にも神々います山門をくぐり左右の掌あわせてはゆく

土に還る日までいくばく陽に映えて花より赤き頭上のもみじ

山頂マーク石に愛らしそのそばに新聞紙拡げる五人の昼餉

一瞬 物語のなか木の枝透かし見おろす下界 民家が一軒

琥珀いろしてビールは卓上くだり来し高尾の麓紅葉も暮れぬ

シルバーシートにまどろめり今日の息子たちイワン、アリョーシャ、メニイサンクス

卵焼まずまず合格本命の おはぎ甘過ぎ悔いは深しも


返答歌   長谷川 研

 母よりも歳のまされる君が歌初々しきよ若葉のごとし


編集室

年6回発行の「読書会通信」は、皆様のご支援でつづいております。発行にご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です)
郵便口座名・「読書会通信」    口座番号・00160-0-48024 
2009年12月8日〜2010年2月1日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりまして厚くお礼申し上げます。

通信は、直接希望された方は、むろんですが、もしかして興味をもってくださるのではないか、そんな推量から、少しでも出席された方にもお送りしています。が、時が過ぎドスト熱も冷めた方もいらっしゃるかと思います。直ちに止めますので、お知らせくだされば幸いです。

「読書会通信」編集室:〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方 

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