ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.109  発行:2008.8.1



第228回8月読書会のお知らせ

8月読書会は、下記の要領で開きます。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。


月  日 : 2008年8月 9日(土)
             
場  所 : 東京芸術劇場小1会議室(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
                       
開  場 : 午後1時30分
 
開  始 : 午後2時00分 〜 4時50分
 
作  品 : 『悪霊』第4回(最終回)
 
報 告 者 : フリートーク「悪霊祭り」
   
テ ー マ: 「作品評価」「悪霊とは何か」「悪霊体験」 等
            
会  費 : 1000円(学生500円)

◎ 終了後は、親睦会を兼ねて暑気払い「カラオケ大会」も予定しています。

会 場 : 近くの居酒屋orカラオケ店 JR池袋駅西口周辺 
時 間 : 夜5時10分 〜 


8・9読書会について

 2008年の上半期は、3回の読書会で連続『悪霊』作品を取り上げてきました。8月は、暑気払い読書会でますが、総仕上げとして「『悪霊』祭り」を開催します。テーマは「『悪霊』作品の評価」「悪霊とは何か」「私の悪霊体験」です。フリートークで大いに語り合いましょう。
 なお、暑気払い読書会で計画していた高橋誠一郎氏の報告仮題「『悪霊』から『未成年』へ」は、2008年の締めとして12月読書会に行う予定です。

〜 これまでの報告 〜

2月読書会から6月読書会までの報告者と、主な報告内容は、以下の通りです。
☆『悪霊』第一回、2月23日開催
 報告者・菅原純子氏が「スタヴローギンはなぜこのような人間になってしまったのか」
☆『悪霊』第二回、4月12日開催
 報告者・山田芳夫氏が「トリビアリズムで読む『悪霊』」
☆『悪霊』第三回、6月14日開催
 報告者・金村 繁氏が「『悪霊』を読む」&「スタヴローギン私考」



T.『悪霊』作品の評価
  (編集室)

『悪霊』の読まれ方 「悪書 or 予見書」

 『悪霊』が世界文学のなかで最高峰に連なる名作であるかことは疑う余地はない。が、読まれ方は、様々である。好き嫌い両極の評価が目立つ。とくに思想、主義を理念とする国家、組織では悪書の筆頭にあげている。現在は、どうかは知らないが、かつては、読むことを禁じていた国もあった。また、予見書として読まれることもしばしばである。

『悪霊』作品に対する批判
 
 『悪霊』作品の悪評について、主なもので下記のような批判があった。(参考文献=論創社『ドストエフスキー写真と記録』代表編者V・ネチャーエワ、中村健之介訳、他)

■P・N・トカチョフ(1844-1868、ロシアの革命運動家、主にナロードニキの運動に影響を
 与えた)は、その著書『病める人々』のなかで、こう批判している。
「…彼(ドストエフスキー)は事実を取り違えたり嘘をでっち上げたりしながら、裁判記録を書き写し始めている。しかも彼は単純にも、自分は芸術作品をこしらえているのだ、と思っている…読者が見せられるのは、ある古い速記録を下手な手つきで人物化したものに過ぎない。それと、そこへ白い糸で縫いつけられた、作者自らの発明にかかる、得体の知れないナンセンスの飾りに過ぎない…。
 何やら不明瞭な神秘的な理論にすっかり頭がおかしくなってしまっているこれらの片輪者たちの病的な観念には、あの最良の、教養ある青年層の世界観は、明らかに微塵も反映していない。これらの片輪者たちもその青年層から出た者たちなのではあるが。…

■M・E・サルティコフ・シチェドリーン(1826-1889、ロシアの代表的な諷刺作家。ネクラ
 ーソフの『現代人』の共同編集者だったこともある)は、その論稿『スヴェトローフ。その
 考えと性格と仕事』において、こう書いている。
「…いわゆるニヒリズムに対する浅薄な嘲弄と、無秩序混乱(その原因はいつも解明されないままになっているが)に対する反感、そうしたものがドストエフスキー氏の作品のあちこちに斑点のように目だって見える。そうした斑点は氏の作品にとって本来的なものではないのだが、また、同じ嘲弄的態度と反感のために、優れた芸術的洞察力を示す多くの場面と並んで、社会活動とその現象をあまりに近視眼的表面的にしか理解していないと思われても仕方のないような場面がいくつも書かれることになる。
 このような深い矛盾はの原因はどこにあるのか?ちょつとしたはずみにあるのか?それとも、見た目には決して快くはない外面的な一種の陣痛(それは新しい現象の誕生にはつきものなのだが)と事の本質とを作者が区別したがらないという点にあるのか?いずれであるかは、時が示してくれるだろう。しかし、上に述べた内的な分裂が極めて陰鬱な印象を呼び起こしており、しかも作者の想像力の上にもまことに重大な影を落としているということは、認めないわけにはいかない。この作者の作品では、一方では生命力と真実に満たされた人物たちが現れるかと思うと、他方では、怒りに震える手で作られたのだろうか、あたかも夢を駆けめぐるマリオネットたちのような、何やら謎めいた人物たちが現れてくる…」

■V・D・ボンチ・ブルェヴィチ(1873-1955、革命家、ソ連の政治家)は、著書『書物と作
 家について語るレーニン』でこう疑問を投げかけている。
「…彼(レーニン)は、『悪霊』(『悪鬼ども』)に対しては強い否定の態度をとり、こう語った。〈この小説を読むにあたっては、ここに写し出されている事件が、S・ネチャーエフ1人ではなく、M・バクーニンも加わっていた活動と結びついていることを忘れてはならない。『悪霊』が書かれていたまさに同じときに、マルクスとエンゲルスは、バクーニンを相手に激烈な闘いを繰り広げていたのだ。この小説で何がネチャーエフと関係がなく、何がネチャーエフと関係があるのか、それを解明するのが、文芸批評家たちの仕事だ〉」

■A・V・ルナチャルスキー(1875-1933、ソ連の文芸批評家、ロシア共和国初代教育人民委
 員)は、その著書『ドストエフスキーについて』でこのような激しい批判を展開した。
「…死刑の宣告を受け、その執行の場で助命され、懲役と流刑の苦しみに耐えたドストエフスキー、そのドストエフスキーは打ち砕かれた。あるいはねより正確に言えば、身を屈した。その壮大な内面的な仕事をしながら、ドストエフスキーは、ブルジョア精神に対する憎しみを抱きつづけたが、同時に、革命的精神に対する憎しみもまた自らの内にかきたてた。彼は二つのものを混ぜ合わせようと努めたのだ。彼は、革命家の姿の背後に、生活から切り離された知能の傲慢さばかりを見ようと努めた。犯罪という手段によって目的を達しようとする傾向を、情欲ばかりを見ようと努めた。一言で言えば、彼の命名法によれば、無信仰を、良心と愛の欠如を見ようと努めた。このような手術を受けて、革命家から、実際に悪霊が作られていったのだ…」

■A・M・ゴーリキー(1868-1936、ロシア・ソ連の作家。『どん底』、『母』)は、嫌悪感
 を持ってこう論じている。
「…ドストエフスキーの『悪霊』は、1870年代の革命的運動を中傷しようとする無数の試みのなかで、最も才能豊かな、最も悪質なものである。…」

※ これら、批判で共通するのは、ゴーリキーではないが「最も才能豊かな」と、『悪霊』の文学としての高さを認めざるをえない評者の悔しさである。


批判に対する作者の考え

「作者自らの発明にかかる、得体の知れないナンセンスの飾りに過ぎない」
「いわゆるニヒリズムに対する浅薄な嘲弄」
「近視眼的表面的にしか理解していない」
などなど、辛らつで手厳しい悪意に満ちた批評。こうした作品批判、作者非難に対してドストエフスキーは、どのように思っていたのか。
 たとえば、ドストエフスキーの書簡1879年5月10日付け、「N・A・リュビーモア」宛てのなかにこんな下りがあります。

 ・・・小生の主人公がこのうえもなく現実的なものであることは、承知しています。(『悪霊』の中には、空想的であるという非難を受けた人物がたくさん登場しましたが、後になってみると、どうでしょう。彼らはすべて現実によって裏書されました。つまり、小生は正確に推測したわけなのです。例えばK・P・ポベドノースツェフなども、逮捕された無政府主義者の二、三の場合を、小生に伝えてくれましたが、それらは小生が『悪霊』に描いた人物と、驚くばかり酷似しているのです)(『ドストエーフスキイ全集』書簡)

 1869年11月27日付『ロシア通報』で、読んだ「ネチャーエフ事件」。この事件に触発され予見と想像力を働かせて書いた『悪霊』作品。上記の手紙からドストエフスキーは、強い自信をもっていることがわかる。
 では、この揺るがぬ自信は、どこからきたものか。『悪霊』を想起し、書きながらパリ・コミューンを冷静に客観的に観察していたことにある、とみる。1871年3月18日、革命化を恐れたフランス政府軍は、最後の抵抗として国民軍の大砲奪取作戦を強行するが失敗。夕方にはヴェルサイユに逃亡した。これを受けてフランス国民軍中央委員会は、勝利宣言し28日、事実上「パリ・コミューン」が成立した。このすばらしい歴史的事件は「フランス革命に始まるパリの革命運動の頂点をなすとともに、今後、世界の革命や社会主義運動に多大な運動を起こすと見られている(『歴史新聞』解説)」と、世界各国の識者から絶賛された。むろん、ロシアにおいても同様である。友人のストラーホフは、こんな手紙を送っている。
■1871年5月4日 N・N・ストラーホフからドストエフスキーへ(中村訳)
 フランスの事変については、どうごらんになっているでしょうか?こちらでは例によって、数多くの熱烈なコミューン支持者が出現しました…今日、私は、サルセという、劇作家で、ほとんど芸術関係の仕事しかしてこなかった人物の手紙を見せられました。この男は、人生45歳になった今、一切を捨ててパリの蜂起の問題に夢中になっており、自分のそれまでの考え方をすっかり変えた、と言っています。どのようにお考えでしょう?新しい時代が始まりつつあるのではないでしょうか?来るべき時代の曙ではないでしょうか?

 世界の知識人・文化人が賛同し熱狂したパリ・コミューン。しかし、ドストエフスキーの見方は冷ややかだった。文豪からの手紙は水を差すものだった。

■1871年5月18日ドストエフスキーからストラーホフへ ドレスデン(中村訳)
 …パリを、コミューンをごらんなさい。まさか君までが、今度の失敗もまた人材不足だったからだ、気が熟していなかったからだという連中の仲間ではないでしょうね?19世紀を通じてこの運動は、地上の楽園(共産団=ファランステールから始まって)をただ夢見ているか、そうでなければ、実際行動に移るや否や(48、49年、現在)、たとえ僅かなりとも確実なものを具現するにかけては恥辱的なまでに無力である正体をさらけ出すか、そのどちらかなのです…連中は、盛んに首をちょん切っています。なぜ?それが容易だからという以外の何の理由もありません…パリの火事はグロテスクそのものです…こんなやり方で一個の社会が生み出されるものではないということ、こういう道は幸福へ通じるものではないということ、そのことを証明する事実が、これでもまだ足りないなどというのでしょうか…

復活する「地上の楽園」への道 (編集室)

 銀河の辺境の惑星に巣食う人間。彼らは、個の自由を求めながらも個では生きられない、社会という集団のなかでしか生きられない面倒で悲しき生き物。それ故に彼らは、彼らが生きた時代の中で常に「幸福への道」を模索してきた。しかし、歴史を振り返るまでもないが、いつのときも辿りつくのは、圧政、搾取、粛清、ジェノサイド、隷属、貧富格差、差別だった。
 「地上の楽園」への道。原始共同体も、空想社会主義も、宗教も、なんの役にも立たなかった。そんななかで唯一、人類に希望の光りをみせたのは、1848年2月にロンドンで刊行された『共産党宣言』だった。為政者、権力者にとっては、まさに「ヨーロッパに妖怪が出現」した、である。この書によって、これまで夢でしかなかった自由主義・国民主義運動が実現可能に思えた。実際、ロシアでは、そんな実験国家ができあがった。世界の識者は、こぞって絶賛した。多くの世界人類が革命国家を望んだ。しかし、ロシアにできた水晶宮は70年で木っ端微塵となった。日本においては浅間山荘で終焉を迎えた。試みた東欧諸国、北朝鮮などは醜い独裁者・1党独裁国家へと変貌していった。「地上の楽園」への道のりを明確に示したマルクスの書は、以後、単なるまやかし。そんな評価でクズ紙同然となった。が、最近、そうでもないらしい。失敗は、めざした人間が悪かった。案内書は、決して間違っていない。そんな見方が広がってきている。以下は、そうした情報の一つである。


マルクス再評価の兆し人と環境視点に光
2008年6月14日、朝日新聞(夕刊) 山之内 靖(東京外語大名誉教授)

 グローバリゼーションの進行と共に福祉国家制度は解体し、格差問題が深刻化している。こうした事態を背景としてカール・マルクスへの関心が復活の兆しを見せている。その動きは彼の主著『資本論』をめぐるテーマにとどまらない。かつてアルチュセールによって「マルクスから最も遠いマルクス」と烙印を押され排除された初期の著作『経済学・哲学草稿』が、エコロジーの危機と共に復権しはじめているからである。
 しかも、関心が向けられているのは、かつて注目の的となったこともある第一草稿「疎外された労働」の部分ではない。最近邦訳が出た『夢の世界とカタストロフィ』(岩波書店)も示すように、正確に読まれることがないままに放置されてきた末尾の第三稿、「受苦的存在」としての人間を語ったフォイエルバツハ由来の主題のほうであろう。…「労働がすべての富の源泉である」という思想は社会主義者のものではなく、ブルジョワ思想である。

的場昭弘著『マルクスだったら こう考える』
光文社新書2004・12

…マルクスが現在の日本で目の当たりにしたマルクス主義の衰退とは、19世紀から20世紀末まで続いたマルクス主義の衰退だったともいえます。
 その意味でいえば21世紀の現在におりてきたマルクスは、自分のグローバルな理論が当たっていることにむしろ驚いているのかもしれません。世間では一般に、「マルクスはもう古い」といわれています。たしかにその通りです。なぜなら、この「マルクス主義」は、マルクス自身にとっても古いからです。…(本文から)

予見書としての読み方

 『悪霊』を予見の書とした場合、筆頭にあげられるのは、やはり1922年モスクワで開かれたドストエフスキー生誕百年祭での、ペレヴェルゼフの記念講演「ドストエフスキーと革命」である。革命の嵐が吹き荒ぶなかでペレヴェルゼフは『悪霊』実現の懸念を訴えた。

ドストエフスキーと革命(長瀬 隆訳)
…私たちは、偉大な革命的激動の時期、生命を終えた古い世界の壊滅的崩壊と新しい世界の建設の時期に迎えることとなった。年代的に言えば、ドストエフスキーが属しているのは、もちろん古い世界である。…しかし私たちが過去の偉大な人物に敬意を表するのは、すぐにとってかえして、今日の生活、その大なる要求と緊急な課題に向わんがためなのである。このことは、プーシキンとゴーゴリに始まりとルストイにいたる、全古典作家についてあてはまることである。しかしながらドストエフスキーの場合には事情が異なる。…彼は別格なのである。…ドストエフスキーはスタイルと精神において、20世紀のもっともポビュラーな作家たちに近接している。…ドストエフスキーは依然として現在の作家であり、この作家の創作のなかで展開されている諸問題は今日まだ解決を見ておらず、したがって、ドストエフスキーについ語るということは、依然として、今日の生活のもっとも痛切にして申告な諸問題について語るということになるのだ。偉大な革命の竜巻にわしづかみにされ、それによって提起された諸課題の渦中で奔走し、情熱的かつ痛切に革命の悲劇の全変転に対処しつつ、私たちはドストエフスキーのうちに自分自身を見いだすのであり、彼のうちに、あたかも作家が私たちとともに革命の雷鳴を聞いているかのように、革命の峻烈な問題の提起を認めるのである。ドストエフスキーの作家的相貌のこの特徴は、すでに一度ならず最新の批評のうちで指摘されてきた。
 「ロシア革命の予言者」という言葉を、メレジコフスキーはドストエフスキーにかんする批評文のひとつの表題に選んだ。予言者であろうがなかろうが、
 ドストエフスキーが革命の心理的世界を深く知っていたこと、彼が生きていた当時はむろん、いな、革命の日々においても多くの者が予想だにしなかったことを、革命に先立って彼がそのうちに鮮明に見ていたこと…これは議論の余地のない事実である。・・・
 
 以上のように、『悪霊』作品は、「地上の楽園」建設に水さす悪書として読んだ人もいれば、崇高な理念にある陥穽を教え警鐘する書として読んだ人もいる。新世紀の現代においては、どのような感想があるだろうか。


フリートーク・提案 (1)

あなたは『悪霊』をどう読んだのか 革命に水を差す悪書か、予見の書としてか

 先日、読書会の会員の長野さんからアンジェイ・ワイダー監督の映画『悪霊』のDVDを送っていただいた。ワイダーは『地下水道】『灰とダイヤモンド』などでお馴染みの世界映画界の巨匠である。『悪霊』は、亡命中にフランスで作られたという。まだ観ていなかっただけに、この場を借りて厚くお礼もうしあげます。ありがとうございました。
 ドストエフスキー作品の映画化は、あくまで私見だが、たいていというか、ほとんどが、作品から受けるイメージとは違うものだ。『白夜』もそうだが、たとえどんなに有名な大監督が作っても、必ずしも、映画化成功とはいえない。黒澤明監督の『白痴』は、数少ないよくできた作品である。だが、あれとてムイシュキン公爵の物語かというと、どうもそうは思えない。登場人物や話のすじは作品と同じだが、感覚というか頭のなかにある原作とは、何かが違う。ワイダーの『悪霊」は、成功か失敗作かは知らぬところだが、この映画化も例にもれず、ドストエフスキーの『悪霊』を彷彿するまでにはいかなかった。それより、より「悪霊」を感じるのは、この監督が最近作ったという『カチンの森』である。第二次世界大戦中にスターリンが行ったポーランドのカチンの森での1万人とも2万人ともいえるポーランド軍の将校たちの虐殺である。監督自身の父親もその一人だという。
 皮肉なことに作品の『悪霊』を感じたのは、映画化した「悪霊」ではなく、まだ観ていない、予告と監督自身のBSのドキュメントからであった。
 「悪霊」とは何か。編集室では、おどろおどろしい人間の悪とみる。この悪は、どんな人間の心にもある。アリョーシャのような心優しき人間にも、神の子イエスにもないとはいえない。「人間は、どんなこともできる。どんなことにも慣れる」と、ドストエフスキーは言う。天使のような赤ん坊の微笑み。だが、その微笑みも戦争という舞台を借りれば、容赦なくちぎりとってしまうのだ。自分は、決してそんなことはしない。平和な生活のなかで、どんなに高らかにそう宣言しても、ひとたび戦場に放り込まれれば人間はなんでもする。強盗殺人もすれば、強姦もする。赤子を串刺しにだってできる。そうして、たった一個の爆弾で何十万人の市民を焼き殺すことだってできたのだ。げに恐ろしきかな人間の悪。ドストエフスキーは、この悪を白日のもとに曝した。そうして、こう呼びかけている。人間よ、おまえたちは、この悪と向き合えるのか。戦えるのか。残念ながら、人間は、いまだ向き合っていない。 (編集室)

フリートーク・提案 (2) 

あなたにとって「悪霊」とは何か。「悪霊」をイメージするものをあげてください。
 
 映画『ホテル・ルアンダ』
 『キリングフィールド』
 『ダーウィンの悪夢』     他
 
現在、日本に蔓延る「悪霊」は、なんといっても無差別殺傷事件を起こす犯人たちの心に潜むものと想像する。以下は、今年、起こした悪霊たちの事件とみる。

■3月22日 茨城県土浦市のJR荒川沖駅で、24歳が通行人8名殺傷。
■3月25日 岡山県のJR岡山駅構内で18歳が人を背後から線路に突き落とし轢死させる。
■4月22日 鹿児島県で19歳がタクシー運転手を刺殺。
■6月8日 東京秋葉原で25歳が17人を殺傷。
■7月22日 八王子の駅ビル書店で33歳男が2人殺傷。
■7月28日 JR平塚駅で34才女が6人に切りつける。

 犯人たちは年齢も犯行場所も違うが、動機は皆同じ「誰でもよかった」「死刑になりたかった」。犯人たちに共通するのは他者を可哀そうと思う気持が微塵もない、ということだ。戦争という異常事態なら、そんな気持になっても不思議はないが、戦場でもないのに、なぜ、彼らはそうした気持ちを持つことができないのか。平和な国、日本だが、どこかに悪霊を行動に駆り立てるものがあるのか。次なる不幸を防ぐには、まずその解明にあると思う。

フリートーク・提案 (3)

あなたの「悪霊」体験 

 「悪霊」体験は、どんな時代の人にもあると想像する。編集室がたまたま団塊世代なので、ここでは例として団塊世代が感じた「悪霊」体験をあげてみることにする。
 団塊世代の「悪霊」体験といえば、おそらく「連合赤軍・浅間山荘事件」だろう。学園紛争からはじまった学生運動(全共闘)について当初、大方の一般市民は、共感をもって見守っていた。ところが、その運動は、いつの間にか悪霊に乗っ取られていた。しかし、だれもそのことには気づかなかった。悪霊は、ものすごいスピードで成長しモンスターとなって、ある日、突然にその凶暴な姿を人々の前に現し、日本中を震撼させた。
 以下は、団塊世代がみた「悪霊」発覚までのドキュメントである。(編集室私見含む)

■1968年(昭和43年)日大20億円使途不明事件・東大医学部登録医師制問題及び不当処分問題に端を発した大学紛争は、瞬く間に日本全土の大学に燃え広がった。実に116校もの大学で不正、不当、民主化、自治についての学園紛争が起きた。運動は、はじめフランスデモだったが、しだいにエスカレートしていった。運動も学園紛争からベトナム戦争反対、パレスチナ問題、成田空港反対と政治色が強くなった。行動も投石、火炎瓶と、過激になっていった。機動隊もより装備し訓練された。軍隊よりも強い警察集団。7月2日に東大安田講堂が封鎖されてから、東大安田講堂は全共闘系の闘争拠点となる。 
■1969年(昭和44年)1月18日、前日、東大当局は警察力導入を決定、早朝から実力占拠解除作戦を開始した。戦力8500余名の警察官、警備車700台、ヘリコプター3機、ハシゴ車10台、P型催涙弾5000発など。19日午後5時4分本丸「安田砦」陥落。逮捕学生631名。ここに全共闘運動は、壊滅した。だが、悪霊の雛を持ったピョートルたちは、狡猾に四散し地下に潜った。そうして、そこで悪霊を育てたのだ。だが、そのことにメディアも市民も気がつかなかった。とくに一部の識者・文化人は、エールを送っていた。
 11月5日早朝、警視庁は山梨県警と合同で、大菩薩峠のアジトを奇襲した。共産主義者同盟赤軍派が、大菩薩周辺でテロ訓練しているという情報を得ての作戦だった。「福ちゃん荘」にいた彼らは不意をつかれて53名が逮捕された。この事件の報をきいても、暗い印象はなかった。なかなかやる。まだ世間は、警察権力よりも彼らにシンパシィを持っていた。
■1970年3月31日、午前7時21分羽田発福岡行日航ボーイング727「よど」号が、富士山上空でハイジャックされる。乗員7名、乗客131名、犯人は田宮高廣以下9名。警察の手から狡猾に逃げ延びたピョートルたちだった。悪霊を抱えた犯人たちは、国全体が悪霊に覆われた謎の国に向った。そうして、その地で彼らは、人さらいの手先に変貌していった。当時、この事件について多くの識者、文化人がコメントしたが、概して厳しい非難はなかった。
「はじめてこのニュースを聞いたとき、妙なことをした、実に面白いことをした、しかし、もう一度考えてみるとつまらぬことをした(犯罪の昭和史)」と言ったものが多かった。
 作家の三島由紀夫は著書『行動学入門』のなかで「今度の日航機「よど号」ハイジャック事件で、最も驚くべきことだと思われたのは、犯人によって法律が乗り越えられる状態を大衆がやすやす認めたことであった。」と述べている。8ヶ月後に、この作家は自らも、同様な事件を起こすことになる。作家のうちなる心に棲む悪霊は、このとき飛ぶ用意をしていたのか。
■1972年(昭和47年)は、四散したピョートルたちの悪霊が、成長し一斉に殻を破って躍り出た年でもある。5月30日、日本から遠く離れたイスラエルのテルアビブ空港。午後10時、到着したエール・フランス機から降りた三人の日本の若者。彼らは通関ホールで手荷物を受け取ると、いきなり中から自動小銃と手榴弾を取り出し、狂ったように乱射し爆発させた。死者26名、重軽傷者73名をだした。これより3ヶ月前、2月19日連合赤軍を追う警官隊は、メンバー5人を軽井沢にある河合楽器保養施設「浅間山荘」に追いつめた。彼らは管理人の妻君を人質に籠城した。以後、1週間にも及ぶ銃撃戦での攻防が始まる。

 2月28日、警察はクレーン車を使って三階部分を破壊、突入して5人を捕獲した。この間、警察官2名と、民間人1名が撃たれて死亡した。催涙弾1000発、実弾15発、放水100dを使っての逮捕だった。

※ 長い長い銃撃戦での攻防。日本中が釘付けになった一週間だった。私は、当時、業界紙で役所周りをしていた。が、取材の先々で喫茶店に入り事件の推移を見守った。一日中、テレビにかじりついている仲間もいた。攻防戦が長引くにつれ、私たちのあいだで、ある疑問がわきあがった。「なぜ、彼らは、あんなにも頑強に抵抗を試みるのか」援軍がくるというなら別だが、人質までとって、いつまでも立て籠もる理由とは何か。メリットはあるのか。まだ、このころになっても彼らに対してシンパシィを抱いている人は少なくなかった。
 しかし、ほどなくして日本中が震撼することになった。私たちは、いきなり彼らの正体を見せられたのだ。もはやそこには革命というものに感じるある種のロマンチックなものなど微塵も感じることはできなかった。彼らは、なぜ頑強に抵抗していたのか。彼らは、アジトの山で、そのときすでに14名もの仲間を「総括」という名のもとに粛清していたのだ。それ故に、その真実が明かされるのが嫌で、最後の最後まで戦っていたのだ。リンチ、凍死放置で。彼らは、革命家でも理想主義者でもなんでもなかった。悪霊という名の殺人集団だったのだ。それがわかったとき、日本において、革命という名の悪霊は終焉を迎えた。組織のなかで育つ悪霊はオウムまで途絶える。かわりに悪霊たちは、家庭のなかに潜りこんでいった。
 しかし、遠く海を渡ったインドシナのジャングルでは、サルという温厚な元小学教師のなかにポルポトと名乗る恐ろしい悪霊が育ちはじめていた。

私の個人的「悪霊体験」 (下原敏彦)

 上記で紹介した「連合赤軍・浅間山荘事件」は、団塊世代にとって確かに『悪霊』を彷彿するものだった。確か、当時、作家でそんなことを言った人もいた。
 だが、私が真に「悪霊」を感じ恐ろしく思えたのは、その後だった。赤軍派メンバーは社会にでるのをやめて内ゲバ闘争に明け暮れるようになった。粛清ごっこである。浅間山荘事件のあった二年後ほどだろうか。私は、母の看病のためしばらく郷里に帰っていた。そのときどこの新聞かは忘れたが、地元版に大きな見出しで(これもはっきり記憶していないが)「・・・君、内ゲバで殺害される」といった記事が掲載されていた。記事を読むと、この・・・君は、地元、伊那市の出身で学生運動に加わっていたが、連合赤軍のリンチ殺人に嫌気がさして、運動組織と縁をきることを手紙で母親に知らせてきていた。そうして、今後は小説家を目指して頑張るつもりだと書いてあったという。このとき、私自身も、小説を書くために会社を辞めたので、わが身と重なった。この学生運動家は千葉県の市川に下宿していた。大家の話によると、ある日、3人の若者が訪ねてきて、彼らと一緒に出て行って、それっきり帰ってこなかった。後で逮捕された3人の若者の自供から、彼は、見せしめのため殺害され埋められた。まるでシャートフの話を地でいく事件。私は慄然とした。新聞を読んだあと、下宿から連れ出されていく光景が浮かんで仕方なかった。



年譜にみる『悪霊』
 (編集室)

 ドストエフスキーは、どのような生活環境のなかで『悪霊』を書きすすめたのか。また、その時代はどんな出来事があったのか、着手と、翻訳されるまでの時代背景を年譜で追ってみた。(前号に追加)

■1869年(48歳)
 7月下旬、フローレンス出立、ボローニャ1日、ベニス4日滞在。サン・マルコ寺院見物。
 8月初頭、ウィーンを経てプラハ( 3日逗留)からドレスデンに帰る。
 9月14日(26日)、次女リュボーフィ(エーメ)誕生。前年5月に長女ソフィヤを肺炎で亡くしている。
 11月21日、ネチャーエフ事件起きる。「ロシア通報」11月27日付けに掲載。
 12月、旧友ドゥロフ、ポルトヴァのパリム宅で死去。『偉大なる罪人の生涯』を構想(『無神論者』の発展)、別に『悪霊』のノートをとりはじめる。
■1870年(49歳)
 1月〜2月、『永遠の夫』を『黎明』に発表。『悪霊』起稿。
  7月、仏独戦争。ナポレオン三世プロイセンに降伏。アルザス、ロレーヌを割譲。パリ市民敗戦に怒って暴動、フランス再び共和制に。
 10月『ロシア報知』編集部に『悪霊』の冒頭部分を送付。
■1871年(50歳) いよいよ『悪霊』をロシア報知に連載開始
    1月『悪霊』をロシア報知に連載開始
    3月〜5月パリ・コミューン
    4月ルーレット熱、突然さめる。
    7月1日ネチャーエフ事件の審理開始。審理経過は『政府通報』にて公表。
    8月16日 長男フョードル誕生
    11月 『悪霊』第二編完結 以後約1年間にわたり発表中止。
    12月末〜 モスクワ滞在、ペトロフスコ・ラズームフスコエへおもむき、イヴァーノフ(シャートフ)殺害現場を実地検証。
■1872年(51歳)スターラヤ・ルッサに旅行。以後、夏をこの地で送る。
    9月初旬 イズマイロフスキイ連隊第二中隊の兵営敷地内の二階建の傍屋に移り住む。以後の作品はすべてここで執筆。
   11月 『悪霊』第三篇前半を『ロシア報知』11月号に発表。
   12月 週刊新聞『市民』の編集長を受諾。同新聞に『作家の日記』を執筆。
      『悪霊』第三編を『ロシア報知12月号』に発表。物語は完結。
■1873年(52歳)ミハイローフスキイ『祖国の記録』誌で『作家の日記』、『悪霊』を批判。『悪霊』をかなりの部分にわたって改訂、単行本とする。ペテルブルグ刑務所の青少年犯罪者収容所を訪れ、浮浪児の精神状態についての資料を蒐集。
■1919年(大正8年)米川正夫訳『悪霊』新潮社(前年9月に翻訳依頼を受ける)
■1948年(昭和23年)米川正夫訳『悪霊創作ノート』

【米川訳者の感想】スタヴローギンは、ドストエーフスキイの最も力強き創造の一つ。マリヤから想起されるのは「『ファウスト』のマルガレーテである。彼女もやはり聖母マリヤに罪のゆるしを祈り、幼児のことを空想している。こう考えてみると、スタヴローギンはまさにロシアのファウストである。しかも、そのファウストにはメフィストフェレス、――ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーがついている。



6・14読書会報告 

  6月読書会は、うつとおしい梅雨空のなか、18名の参加者がありました。はじめて見えられた方は4名いました。懇親会には15名の出席者。

報告者・金村 繁氏 司会進行・江原あき子さん
 
 6月読書会は、金村繁氏が報告。司会進行は、ピンチヒッターとして江原あき子さんが福井さんの代役を務められた。金村氏は、これまで読書会や合宿において多彩な作品論・ドストエフスキー論を報告されている。今回の『悪霊』作品においても、ご自身の軍隊生活を交えた考察を資料項目に添って話された。
 質疑応答では、活発な議論があった。「告白はマルコの影響」「ワルワーラ夫人は見抜いていた」「ステパン先生はホモではなく小児愛」といった意見・感想がだされた。 


連載

日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー 
「ドストエフスキー体験」をめぐる群像−

第17回:「合評会」(7/26)小林銀河氏の論文をめぐって

福井勝也                                 


                                  
 小林論文、「ドストエフスキーにおける<自我>をめぐる二つの概念」を興味深く読んだ。氏の論点ははっきりしている。産業資本主義の進展とともに、従来のロシア的農村共同体から切り離された市民社会的「個人」が前面に出てくる19世紀近代化プロセスでの言語状況の問題だ。ドストエフスキーは、そのような「時代」と真率に向き合った作家であって、当時の西欧的言語の影響を受けた言葉(「自我」や「個性」・「人格」等)の活用を通じて近代ロシア語の形成に寄与しながら、個々の言葉に独自の理想・ニュアンスを付与する独自の言語活動を行った。今回の小林氏の論文は、そのような作家表現の「キイワード」の足跡を明らかにするもので、具体的な文脈を通して、個別の言語の用法を丁寧に跡づけている。その論述は専門ロシア語に熟達した研究者らしい手堅いもので、一見地味にも見えるが、そのロシア原語の微細な部分に着眼し、作家のデリケートな言葉使いを追跡する論旨展開は見事なものだと感心した。読み直すうちに氏の作家への積年の情熱が伝わってきた。論文で明らかになったのは、単純な「西欧個人主義批判」には回収されない作家の言葉の独自な用法であって、近代化による言語的影響が単純な一方向的なものでなく、それを受け止める側の言語操作が明らかにされた。そのことを小林氏は、作家の表現のなかに再発見している。その際に、ドストエフスキーという作家が求めたロシア的・キリスト教的理想が大きく寄与していることを実感させられた。
 氏が具体的に問題とされたのは、語義的には「個性」「人格」「個人」等、結果的に日本語では同じように訳されることになる、「ЛИЧНОСТЪ(リースノスチ)」や「ИНДИВИДУаЛЪНОСТЪ(インヂヴィドゥアーリノスチ)」、「ИНДИВИДУУМ(インヂヴィドゥーム)」等の語群である。
結局、今回の小林論文の意義は、その日本語(=翻訳言語)の元となるロシア語源と西欧語との影響関係を作家ドストエフスキ-の言語表現の特質を通じて明らかにするものであった。その前提に、まず「ЛИЧНОСТЪ(リースノスチ)」が語源的に「ЛИКЪ(リーク)」(=「顔」)に由来するロシア古来の言葉でありながら、フランス語の「personnalite」の影響(意味的翻訳借用語)によって19世紀になってその近代語的意味が新に形成された言語例としてとりあげられた。それに対して「ИНДИВИДУаЛЪНОСТЪ(インヂヴィドアーリノスチ)は、ギリシャ・ラテン語起源の本来的な外来語で、英語で言えば「individuality」(=「分割不可能」、「アトム」)の意味であって、ロシア社会で「個人」が前面に出てくる19世紀における西欧からの借用言語の例であると説明された。
 ここで私見を差し挟めば、日本人である自分としては、明治維新期すなわち日本の19世紀に押し寄せてきた当時の日本の言語状況について連想させられた。後進的近代国家ロシアとの基本的共通性もあるが、同時に大きな違いもある。それは江戸期を通じて言語文化的にある爛熟すら経験してきている日本的言語状況、それは中国を中心とした東アジア漢字文化圏の持つ数千年の言語的地層の存在とも言えるものだろう。すなわち、この時期の日本ではロシアと違って西欧近代国家の言語移入にあたっては、そのすべてが本来的な外来語であって、そのために根本的に文化的位相の異なる新漢字語彙として多くの「造語」が発明されてきた経緯がある。この点は、日本の近代化の特質を考えるうえで見逃せない事実であり、以後の日本人の思考回路に決定的な影響を及ぼして来ている。そのような観点から、実は小林氏の本論の例会発表時点から気になっていたことがある。それは元来、問題のロシア原語を対象とした本論がその「翻訳語」としての漢字表記(「概念」)を媒介利用して語られねばならない「発表スタイル」の不可避的なあり方だ。換言すれば、「ЛИЧНОСТЪ(リースノスチ)」という言葉の問題を、「人格」とか「個性」の漢字概念(=翻訳表記)を前提に論旨展開することが、ドストエフスキーを捉えた言語問題を論ずる事とどう関係してくるのかどうなのか。またこれは「翻訳」の問題そのものであって、それは近代ヨーロッパ言語の影響を受けた近代ロシアの変容言語をどう「漢字」表現に「翻訳」できるのかという問題としてある。このことは、本発表の「タイトル」が順次変更をされてきたこととも関係してはいないか。すなわち本論文は最初、大学研究機関での博士論文として書かれたもので、それが一般市民を中心とした本会の例会発表となり、結果としてそれが「広場」という機関誌での文字表現となった経緯がある。その事情を前提に、当初は「ドストエフスキーにおける《ЛИЧНОСТЪ》と《ИНДИВИДУаЛЪНОСТЪ》の用法」というタイトルによって、ロシア原語がそのまま分析の対象として問題化されている。それが例会発表段階で、「ドストエフスキーにおける《personality》と《individuality》」と問題の対象語が英語に置き換えられ、最後の本「論文」段階で、「ドストエフスキーにおける<自我>をめぐる二つの概念」となって、対象語が<自我>という新たな漢字標記の中に埋没される経緯を辿った。以上の経過については、発表の場・状況・その対象が違うからだと言ってしまえばそれまでだが、問題の根っこはそれ程単純ではないように思えるのだ。実はこの問題の背景には「漢字」概念によるヨーロッパ言語の説明(不)可能性というぎりぎりの問題が潜在していないか。さらにこのことは、実は先行の長瀬論文の主題であるдвОЙНИК(「ドヴォイニ−ク」)というロシア語を「分身」と翻訳・理解すべきではなく、「二重体(身)」とすべきではないかというテーマとも通じている。そして長瀬氏が論文の最後で投げかけた、米川正夫氏の「分身」という翻訳語が孕む今日的可能性の問題とも触れあっていよう。小林氏は、「漢字」という元来「外来語」でもある「国語」を利用して、文化伝統の異なる西洋言語の、そのまたその近代的変容語のロシア原語と格闘させられている事実を改めて指摘しておきたい。もしかしたら、この問題はこんなふうにも言い換えられるか。例えば、小林氏は専門研究者としてロシア語にロシア人研究者並みに通じているとすれば、この論文をロシア語で書くことは十分可能だったろう。あるいは、国際的研究会にも参加してきている小林にしてみれば、これを英語標記のタイトルに合わせて英文で論文化することもあり得る選択枝であったろう。そのような想定をしたとき、日本語表記に比しよりクリアーな内容として当該読者は論文を読み取りうるのではないか(勿論、その場合読者にそれぞれの語学能力が要求されるが)。本論文に触発されてここまで考えてきた時、今回、自分は小林氏の論文を日本語で読むことができた(正直、それ以外の選択肢は現在の自分にはないのだか)結果をとにかく良かったと唐突に感じさせられた。その理由は、不思議なことに実はこの論文の内容でとりあげられたドストエフスキーの言語表現の用例が教えてくれていることに思い着いた。
 そのことの一例が、『夏象冬記』――「ЛИЧНОСТЪ(リースノスチ)」の(用法の)最高の発展段階(p25-26)で語られている箇所である。ここでは、単なるフランス語の「personnalite」の影響(意味的翻訳借用語)語としての「ЛИЧНОСТЪ(リースノスチ)」のロシア原語への浸食的影響のレベルを越えて、「自由意志に基づく自己犠牲」すなわちキリストや殉教者の姿にこそ「ЛИЧНОСТЪ(リースノスチ)」の最高の発展段階があるというドストエフスキーの言葉が紹介なされている(p26)。この点を僕なりに言い直せば、作家ドストエフスキーは、鋭敏な言葉の感覚をフル回転させて、言語という近代化の根幹を支えるイデオロギー的等価物を相対化し、そこに自分の理想を孕む言語の生成・飛躍を試みていると言いたい。さらに、この『夏象冬記』(1863)を発表した翌年、ドストエフスキーはマリヤ・イサーエワの死の翌日に、ここでの指摘とほぼ同内容の<メモ>を残している。この場では内村剛介氏の「ЛИЧНОСТЪ(リースノスチ)」という原語を残した「翻訳」文を後掲しておく。それは今回の小林論文の指摘する事態をより鮮明に記述していると思えると同時にドストエフスキーの言語表現として重要な文章だと思えるからだ。但しこれは小林論文を読んだ功徳とも言えるもので、さらに下手な翻訳(=「漢字概念への変換」)よりも原語をそのままにして、「カタカナ」表記する場合の好ましい例としたいとも思ったからでもある。そしてここには、先述してきた外国語の「翻訳」の問題が露呈している。
 そのことをさらに明らかにしたのが「ИНДИВИДУаЛЪНОСТЪ(インヂヴィドゥアーリノスチ)」と「ИНДИВИДУУМ(インヂヴィドゥーム)」の用法の箇所であって、特に『ウジェニー・グランデ』のロシア語訳(p27-30)で小林氏に指摘されたドストエフスキーの翻訳の中身に根本的に表現されている。ドストエフスキーは生涯「作家」であったが、この時期作家を取り巻く先進西欧諸国の近代言語と母語であるロシア語との言語的相克は、彼を「文豪」にする前提条件として一流の「翻訳家」にも鍛え上げたのではなかったか(これは、あくまで小説家としての業績の前提問題として実質的に指摘したい)。小林氏がこの部分で指摘していることは、ドストエフスキーは、一見「誤訳」とも勘違いされかねない言葉の選択に、いかにもドストエフスキーらしい独自の意図を滑り込ませている事実である。これから以降作家は表現者として、一方的な近代化による言語的侵略を回避しつつ、巧みな言語的闘争を展開してゆくことになった。これらの作家の生きた言葉の例証は、我々の今日の言語状況を考えるうえでもやはり貴重な指針を与えてくれていると感じさせられた。ドストエフスキーは、近代という時代が強いる「二項対立」(=これは、まさに長瀬隆氏が指摘しているдвОЙНИК(「ドヴォイニ−ク」・「ダブル」)の問題でもある。なお併せて、今回氏が、『ドストエフスキーとは何か』全446ページを成文社−2008.7.26−より刊行されたことを祝辞とともにここに記しておきたいと思う)を生み出した言語システムと言説のあり方を崩壊させるまで批判する、近代文学の装置なのだと改めて感じさせられた(この言葉は、拙著『日本近代文学の終焉とドストエフスキー』の巻頭に寄せられた小森陽一氏の言葉である。)。以下、参考に小林論文の最後の件と先述のマリヤ・イサーエワの死の翌日作家の<メモ>を引用してこの項を終わる。

(参考)

「訳者ドストエフスキーは、「ИНДИВИДУУМ(インヂヴィドゥーム)」という概念に西欧個人主義批判という否定的意味合いだけをこめたわけではないのである。むしろ「ИНДИВИДУУМ(インヂヴィドゥーム)」の中に人間の「広大無辺な」可能性が単なるエゴイズムに堕さないような行き方を追求し続けた。批判しつつも、肯定的な可能性をも認めるという、ロシアの作家ドストエフスキーの西欧に対する複雑な態度が、この「ИНДИВИДУУМ(インヂヴィドゥーム)」という訳語の使用される場面において、知らず知らずのうちに顕れ出たという風に捉えることが可能なのである。『作家の日記』では、ロシア民族が「ヨーロッパの個性のそれぞれに宿る真実を、たとえその多くに賛成できないとしても、開示し発見する」(二十三、47)能力をもっていることが説かれているが、この言葉はまさにこの翻訳の場面を言い表すのにふさわしいものでなかろうか。」(小林「論文」p29-31)

「4月16日。マーシャが死んだ。彼女ともう一度相見ることがあるだろうか?キリストの教えどおりに自分と同じようにひとを愛するなんてのは不可能だ。この地上におけるリースノスチ(ベルゾン)の法則が邪魔する。ヤー(自我)が妨げる・・・。ただキリストのみがそれをなし得た。キリストは永遠から永遠に伝わる理想だ。ところで肉を帯びた(生身の)人間の理想としてキリストがあらわれてからというもの太陽のように明らかになったことは<・・・>リースノスチの最高度の発達は、まさに人がおのれの『ヤー』を滅却してそれを完全無差別無制限に万人に捧げるに至るまで進まなければならぬということであり、これこそ至福の幸福だということである。理想へ向かう精進の法則を人間が履行せず、また人々もしくは他のリースノスチに向けて愛を持っておのれの『ヤー』を犠牲に捧げることがないとき(わたしとマーシャがそうだ)、人は苦痛を感じてそれを罪と名づける」
(内村剛介訳、『ドストエフスキー』−講談社、但し直接の引用は、板坂剛著『真説三島由紀夫』p175に基づく。太字下線は筆者による。)                                      (2008.7.27)



広 場 

新 刊 

『ドストエフスキーとは何か』
長瀬隆著 成文社 2008・7・26 定価4200+税

二重人と分身の両義を有するдвойник(ドヴォイニーク)登場人物たちは小市民の二重性に起因する二重人
であり、二極分裂が激化するとき、温順な一方に我意の他方が敵対的分身として幻視される。
 この現象は作中作家を配置することによってのみ描きえた。ただしその最初の試みには失敗、挫折する。
 27年後、この語は「未成年」において15回にわたって再登場、「精神的変調の兆し」と定義される。これにより「カラマーゾフの兄弟」への道が開け、「悪魔。イワンの悪夢」の章において唯一絶対神の有無を問う西欧精神の極限の描出がなされる。
その近代的。世界的意味は、仏教に淵源する苦肉の邦訳語――分身にあきらかである。

同人誌

羽鳥善行作「離婚届」
2008『小説芸術47』

妻の不倫相手は高校の同級生だった。寝取られ亭主は、離婚書類に関する法的手続きを駆使して阻止を試みるが・・・
離婚という深刻な話題ではあるが、どこか夫の冷静さが気になる作品。『永遠の夫』を彷彿した。



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★2008年6月1日〜7月28日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりまして厚くお礼申し上げます。
○ 付録「2006〜2007年ドストエフスキー書誌一覧」ご希望の方は、お申し出ください。
○ ドストエーフスキイ作品の感想、評論、自著の宣伝、映画、演劇評、自身のドストエ
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