ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.107  発行:2008.4.4


第226回4月読書会のお知らせ

 春爛漫の候、ドストエフスキー作品愛読者の皆様には、益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。4月読書会は、下記の要領で開催します。西口公園の桜見物を兼ねてお出かけください。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。

 
月  日 : 2008年4月12日(土)
             
場  所 : 東京芸術劇場小7会議室(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
         
開  場 : 午後1時30分
 
開  始 : 午後2時00分 〜 4時45分
 
作  品 : 『悪霊』第2回
 
報 告 者 : 山田 芳夫氏 報告資料一挙掲載!!
            
会  費 : 1000円(学生500円)

◎ 終了後は、親睦会(二次会)を開きます。
会 場 : 近くの居酒屋 JR池袋駅西口周辺 
時 間 : 夕5時10分 〜 
 ※ 二次会・会場は、西口メトロ前「養老の瀧」を予定 (連絡090-2764-6052 下原)


 4・12読書会 

『悪霊』2回目報告

【報告者:山田芳夫さん】 
 山田芳夫さんは、読書の他に絵画、骨董などの趣味を持つ。特に、絵画においては、造詣が深く一昨年「第39回 新美展」で芥川竜之介を描いた「地獄変」が芸術サロン賞を受賞するなど、活躍がある。これまでに以前、東京駅で開催された「小山田二郎展」に関する絵画評を本通信にも寄せている。海外勤務されてきただけに、グローバルな視点の端々に日本文化の再評価・再認識が感じられます。「悪霊」という内なる怪物。人類最大の敵。山田さんが、世界的視野からどう捉えるのか大いに興味もてるところです。


トリビアリズムで読む『悪霊』   
山田芳夫
 
 ドストエフスキー作品を語る場合、登場人物、思想的背景、比較文学等で論じられ、重厚で深刻な側面を論ずることが多い。そのような評論・解説の類は枚挙に暇が無く、本会員も数限りなく接してきたと思われる。
 今回、あえて瑣末な事柄(トリビア)にスポットライト当て、別の側面から「悪霊」を読んでみた。取上げたい項目は多々有るが、時間的制約から今回は下記の項目となった。しかしこの論法を進め、今後ともドストエフスキー作品のトリビア的雑学項目を増やして行きたいと考えている。

1. 題名

 「悪霊」(ロシア語でБесы)と言う題名は、英語では「The Possessed」、「The Devils」、または「Demons」と訳されている。翻訳すると、それぞれ「憑かれた人たち、狂人ども」、「悪鬼ども、極悪人ども」、「悪鬼ども、邪悪な人たち」となるだろうか。また「The Possessed」、「The Devils」は定冠詞Theが付いているので、特定な複数人物を指したネーミングであるが、「Demons」は定冠詞がないので不特定な複数人物を表している。
英語圏では一般的に「The Possessed」が用いられている。「The Possessed」とネーミングしたのは、英国のロシア文学翻訳家Constance Garnett(1861−1946)であると言われている。後のドストエフスキー学者は、オリジナルの翻訳が不正確であると言い、ロシア語Бесыは「憑かれた(Possessed)人たち」よりはむしろ、「憑かれている(Possessing)人たち」のほうがより正確であると言っている。
 ちなみに中文では「群魔」と翻訳され、「The Devils」「悪鬼ども」に近い。なおフョードル・ドストエフスキーは、英語ではFyodor Dostoevsky (Dostoyevsky, Dostoievsky, Dostojevskij, Dostoevskiなどのバリエーション有り)、中文では費奥多爾・陀思妥耶夫斯基(日本語読み;ヒオーダジ・ダシタヤフシキー)と書く。

<おまけ> 

1)「陀思妥耶夫斯基」構成漢字の意味 陀;斜めに延びた地形、思;おもう、妥;おだやか、耶;疑問の意を表す助詞、夫;おとこ、斯;ばらばらに切り離す、基;もとづく 
2)「陀思妥耶夫斯基」映像的解釈; 斜めに延びた坂に、一人の男が穏やかに思索している。自分に基づく疑問をばらばらにしながら。
3)著名人の中文表記
レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ/Lev Nikolayevich Tolstoy/列夫・尼古拉耶維奇・托爾斯泰(タクジシタイ)、
アルベルト・アインシュタイン/Albert Einstein/阿爾伯特・愛因斯坦(アインシタン)、
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン/Ludwig van Beethoven/路コ維希・凡・貝多芬(バイターフン)、
マリリン・モンロー/Marilyn Monroe/???・梦露(ボウロー)

2.死に逝く人達
  

「悪霊」は実に12人もの登場人物が、死んで逝く。これらの人々はどのような理由で死んでいくのか、下記リストにまとめてみた。

人 物 分 類 死 に 方
レビャートキン大尉(40歳前後) 他殺 喉をかき切られ、服をつけたまま長椅子の上で発見された。「牛でもバラしたように」おびただしい血が流れていた。犯人は証拠隠滅のため放火するが、完全には炭化せず目的を果たせなかった。
マリヤ・レビャートキナ(30歳) 他殺
体じゅうナイフで「めった突き」され戸口の床の上に転がっていた。殺される瞬間、目を覚まして犯人(フェージカ)と格闘したと思われる。死後放火に遭う。
レビャートキンの女中 他殺 犯人と格闘し、脳天をたたき割られた。死後放火に遭う。
リザヴェータ・ニコラエヴナ(22歳) 他殺 レビャートキン殺害後、マヴリーキーと一緒に一家を見に行き、そこで群衆に「スタヴローギンの情婦だ!」と言われ撲殺される。マヴリーキーは助かる。
フェージカ 他殺 ピョートルと別れた翌朝、町から7キロ離れた村道分岐点で他殺体として発見される。警察は、フェージカとフォームカが共謀してレビャートキン一家を惨殺し、その後仲間割れしたフォームカがフェージカを殺害したと疑っている。
シャートフ(27、28歳) 他殺 エルケリとトルカチェンコに押さえつけられ、ピョートルが額にピストルを発射した。死体の足と首に重さ8キロの石をそれぞれ縛りつけ、池に沈めた。(午後7時過ぎ)
キリーロフ(26、27歳) 自殺 ピョートルが仕掛けたピストル自殺。弾丸は右のこめかみから頭蓋骨を貫通して、左の上端から抜けていた。床は血と脳味噌のしぶきが散っていた。(午前2時過ぎ)
ステパン氏(53歳) 病死 聖書売りソフィアと旅の途中、ウスチエヴォ町で病気となる。臨終にワルワーラ夫人とダーリアが駆けつけ、看取られながら死ぬ。
マリイ・シャートワ(25、26歳) 病死 男児出産後精神不安定となったところに、キリーロフおよび夫の死のショックが重なり重体となる。3日後に死亡。
新生児イワン 病死 ニコライとマリイ・シャートワの間にできた男児。風邪をひいて、母親マリイより先に死ぬ。
ニコライ・スタヴローギン(25歳) 自殺 ダーリアに誘惑の手紙を送った後、スクヴォレーニシキの家の屋根裏部屋で首つり自殺。ワルワーラ夫人とダーリアが発見。
マトリョーシャ(12歳) 自殺 ニコライに凌辱された後、「神様を殺した」とうわごとを言うようになり、納屋で首つり自殺する。


 ニコライと関係があった6人の女性のうち、マリヤ・レビャートキナは斬殺、リザヴェータは撲殺、マリイ・シャートワは病死、マトリョーシャは自殺と、4人が死ぬ。その死に方もそれぞれ異なり、作者の犯罪や人間の凶悪性をいかに文学的に表現するか、執拗なこだわりが見えてくる。

3.アシスとガラテア

  下巻P312: ニコライがドレスデン美術館で見た「アシスとガラテア」が、ドイツ田舎町の旅館で見た夢に、「黄金時代」として出てくる。「・・・・私が夢見たものは、単なる実感にすぎなかった。けれど私が目覚めて、生涯に初めて涙に濡れた目を開いたとき、私はなおも目に浮かべていたのだ・・・・」(ニコライの台詞)

1) 作者; クロード・ロラン(Claude Lorrain、仏1600-1682)
作品: 「アシスとガラテア」(Landscape with Acis and Galatea)1657年作、100x135 cm、ドレスデン美術館蔵
クロード・ロランはシャンパーニュ地方出身。少年期からイタリアへ行き、生涯のほとんどをローマで過ごした。ニコラ・プッサンと同時代人。そして、プッサン同様、生涯のほとんどをローマで過ごし、フランス古典主義を成立させた。ロレーヌ地方出身だったので、「ロラン」という。本名はクロード・ジュレ。12歳のころ、両親を失う。プッサンよりずっと早くにローマに行き、菓子職人の見習いをしていた。プッサンとロランは、互いを尊敬しあい、仲がよかった。ロランは、スペイン国王をはじめ、ヨーロッパの君主などからの注文が入るようになり、名声が高くなった。すると、偽作が出回るようになってしまう。ロランは自分の作品の模写を作り、保存することにした。それは後に『真実の書』と名づけられた。

2)ギリシャ神話。 海のニンフのガラテアは、海神ネレウスの娘でネレイデスの1人。オウィディウスの『変身物語』によれば、ガラテアはシチリア島で川のニンフの息子である青年アシス(羊飼い)と恋に落ちた。しかし、かねてよりガラテアを恋慕していたキュクロプスの怪物ポリュフェモスがこれに嫉妬し、巨石を投げつけられ、アシスは殺される。死んだアシスの血はエトナ山のそばを流れる川となった。

3)「クロード・ロランと理想風景展」; 1998年9月15日から同年12月6日まで、国立西洋美術館で開催された特別企画展。絵画79点、素描25点、版画20点の計124点の出品で、日本で始めての大規模なクロード・ロラン展だった。彼の代表作である、「デロス島のアエネアス」、「上陸するシバの女王のいる風景」等が展示され、光に満ちた空気、永遠に屹立する建物、平凡で穏やかな人間や動物たち、正に理想郷を再現した風景がそこにあった。しかし「アシスとガラテア」は含まれていない。図版で見るとわかるのだが、右手の雲は光を遮り、断崖の怪物ポリュフェモスや海岸のニンフの視線は主人公を無視し、アシスとガラテアを覆うテントは彼らの運命を象徴するかのように力が無い。一言で表現すると、他の代表作と比べ全体的に暗く、不安要素に満ち、理想郷とは言い難い。
  ドストエフスキーは何故この絵に魅入られ、「黄金時代」と呼ぶのか。そう言えばホルバインの「死せるキリスト」も、画家の作品では異色の作であり、代表作に含まれないのが通説である。これらのことからドストエフスキーの絵画を見る姿勢、審美眼が窺い知れるような気がする。すなわち、美しく幸福に満ちたもの、正義や理想などの「神の世界」ではなく、むしろ心の弱さ、不安や嫉妬・邪悪など、「生身の人間」をテーマにした絵画により関心があったのではないか。
   キリコ、フリーダ・カーロ、マグリット、ダリ、福沢一郎など、20世紀シュルレアリストの絵画を見たら、きっと喜ぶに違いない。

 <おまけ>
ヘンデルは歌劇/オラトリオとして、モーツァルトはヘンデルのオラトリオを田園劇(K566)バージョンとして、それぞれ「アシスとガラテア」と言う曲を作曲している。

4.シスチィナのマドンナ

上巻P296: ユリア夫人の言葉。「・・・私、あの絵(シスチィナのマドンナ)の前に2時間も座っておりましたけれども、がっかりして引き揚げましたわ。何も判りませんでしたし、大変に驚かされましたの。カルマジーノフさんも、不可解な絵だとおっしゃっていますわ。いまでは、ロシア人もイギリス人も、みんな駄作だと申していますのね。あの絵をあれだけ褒め上げたのは、ご老人ばかりですわ。」
 ドストエフスキーは自身の書斎に「システィナのマドンナ」の複製を飾り、生涯これを愛でるほどの気に入りようだったので、ユリア夫人の言葉は作者の本心ではないことは明らかである。またさりげなくカルマジーノフ(=ツルゲーネフ)批判も行っている。
「白痴」ではムイシュキンがこの絵について賛美を表しているが、「悪霊」では批判している。物事を多面的に捉えるばかりか、相反する考えを同時に内包する作者の気質がここでも現れている。

5.ゼラニウム

 下巻P303; マトリョーシャの隣部屋の窓に、たくさん鉢植えで置いてある。
『一般的に「ゼラニウム(Geranium、和名;ゼニアオイ)」と呼び習わしている植物は、フウロソウ科(Geraniceae) ペラルゴニウム属(Pelargonium) のことです。なぜペラルゴニウムといわずにゼラニウムが通称として定着したかというと、以前はゼラニウム属(ゲンノショウコ属)に属していたからです。あとでペラルゴニウム属として独立したということですね。マーサ・スチュワート(Martha Stewart、米国、1941- )のゼラニウム特集を読むと、ヴィクトリア時代にかなり品種の改良がされてしまっていて、今現在それらを系統的に分類するのは実際難しい・・・と書いてありました。』(Website「香りのする花の庭へようこそ!」から引用)

上記文章の「ヴィクトリア時代」、つまりヴィクトリア女王がイギリスを統治していた1837年から1901年に品種改良が盛んに行われていたとある。「悪霊」が出版されたのが1872年だから、ロシアにおいてもゼラニウムがポピュラーとなり、ドストエフスキーの身の回りでも良く見かける花だったことが判る。
ドストエフスキーが見たゼラニウムは、どんな品種で何色なのか定かでは無い。古くから親しまれ最も一般的なゾナール(Zonal)種とすれば、丸い葉に色の濃い輪のような帯状の模様が入り、花色は白から赤までのピンクのバリエーションが豊富な花である。しかしゾナール種は葉の香りが強く、その成分に虫を寄せ付けない栽培上の利点があることが知られている。だとしたらスタヴローギンが見た「赤い小さな蜘蛛」が這い回るゼラニウムは、ゾナール種ではなく別種(アイビーリーブド種、ファンシーリーブド種、etc.)なのかも知れない。

6.赤い蜘蛛

下巻P308: マトリョーシャ自殺完了までの15分間、ニコライが待機している時に、ゼラニウムの葉の上に見る。
クモの一般的印象は、その容姿から不気味な印象を与えることと、害虫(ハエ、ガ、ゴキブリなど)を退治する益虫であることで、善悪両面的な印象が付きまとう。(ドストエフスキー的節足動物!)
「赤くて小さな蜘蛛」から直ちに思い出されるのは、セアカゴケグモである。元来熱帯、亜熱帯地方で見かける毒グモであるが、1995年に大阪、神戸などの港湾都市で相次いで発見された。その後、越冬するのが確認され、寒冷地でも生息可能であることがわかった。
体長はメスが10mm、オスが3〜5mm程度と小さいが、神経作用の猛毒を持つ。「ゴケグモ」の名前の由来に関して、毒性が強いため、噛まれた時の死亡率が高く、奥さんが後家になる、という俗説が知られている。実際には、ゴケグモ類の英名「widow spider」 そのままの和訳で、ゴケグモ類はオスの体がメスに比べて非常に小さく、交尾後にオスがメスに共食いされることに由来する。
 落日の陽光の中で、ゼラニウムの葉に赤い蜘蛛を見たスタヴローギンには、赤=血・火事・混沌、蜘蛛=邪悪・忌み嫌われている己・生命への渇望・快楽、ゼラニウムの花=愛・美への憧れ、葉の緑=平和・静寂、落日=自殺・崩壊、陽光=神、などの錯綜するイメージが去来したことだろう。部屋の一隅の何気ない光景にも相反する事象が見られ、戦いとカオスが内包されている。しかし、それを見ている人物(スタヴローギン、読者)には調和が取れた静謐な光景であり、遥か昔から未来に渡って何百万回も繰り返される光景であることを確信している。このことは人間の営みを神の視点から見て、「そはよし」と言っていることに他ならない。
 「赤い蜘蛛」を眺めているスタヴローギンの場面は、彼を取り巻く問題やカオスに絶望・苦悶している人間としてのスタヴローギンと、永遠なる調和を見つめ「そはよし」と言っている神としてのスタヴローギンが、同時に描かれている。

7.ショパン「水の精」

下巻P94; 祭の日、カルマジーノフが朗読する物語に出てくる。「・・・・その時ふたたび霧が渦巻き、ホフマンが現れ、水の精がショパンの曲を口笛で吹く。・・・・・」
残念ながら水の精が吹いた曲は何であったかは判明しないが、ショパンには「水の精」という標題を持つ曲があるので、ここではこの曲について述べてみる。
 「水の精」とはショパン作曲バラード第3番変イ長調作品47(1841年完成)のことである。
この曲は他のバラードと同じくパリに住むポーランド人の詩人ミッキエヴィッチの詩に想を得たものである。ここで下敷きにされた詩は「水の精オンディーヌ(Ondine)」と言う詩で、それは「ある夜、湖のほとりで会った女に男が求愛するが、女は男の操なるものを信じようとせず、去ってしまう。次に女が現れたときは水の精の姿で男を誘惑した。男は惹きこまれるように彼女について行くが、追えども届かず、彼は果てしなく水の精を追い続けなければならない・・・」といった内容のものである。
 曲は女が男に愛の確認を求める動機に始まり、左手が男の声で愛を誓う。続いて男も女に同じように問い、女も同じように愛を誓う。第2主題では二人は手を取り合って歩んでいるようである。だがこの二人の上に展開部でドラマが起こり、解決は永遠の彼方に消えて行く。愛らしくも激しい一篇のドラマである。
 ショパンは1836年(26歳)マリア・ヴォジンスカヤに求婚するが、翌年ヴォジンスキー家から一方的に婚約が破棄される。1838年ジョルジュ・サンド(George Sand、当時34歳)との交際が始まり結核治療の目的で、マジョルカ島に2人で半年間滞在するが悪化する。1839年から、冬はパリ、夏はノアンのサンドの別荘で暮らすが、1847年(ショパン36歳、サンド44歳)交際が破局する。
 若い頃のドストエフスキーは、当時のロシア文学青年と同様にジョルジュ・サンドの熱烈なファンであり、サンドとショパンのロマンスも知っていただろう。またカルマジーノフ(=ツルゲーネフ)の朗読に、ショパンや「水の精」を登場させたのは、ツルゲーネフのロマン主義や子供のころ溺れかけたことがある事実を皮肉ったと思われる。
 ドストエフスキーは、ショパンのどの曲が好みなのかは判らない。レコードやCDが無い時代、音楽を聴くことはコンサートに出掛け、生演奏を聴くことにほかならない。当然聴く曲目や回数も限定されるので、音楽を聴く態度も思い入れも今とは比べ物にならないと想像される。「水の精」をどんな気持ちで聴き、「悪霊」に登場させたドストエフスキーの真意はいかばかりのものか。

<おまけ> 
下巻P88; レビャートキンの詩の中に、ジョルジュ・サンドの名前が2回出てくる。
 
8.オベール「フラ・ディアボロ」

 上巻P304; レンプケ(新知事)少年時代のおどけぶりとして、この曲の序曲を鼻だけで演奏したエピソードを披露している。
 「フラ・ディアボロ」とは、フランスの作曲家オベールの喜歌劇。オベール(Daniel Francois−Esprit Auber 1782〜1871)は、フランスの19世紀前半に活躍した作曲家で、オペラやオペレッタを50曲以上も作曲した。
今となっては、スッペ同様、いくつかの序曲がCDになっている程度しか知られていない。浅草オペラでは「フラ・ディアボロ」は公演回数こそ少なかったものの、「ディアボロの歌」は人気を博した。世界初演は1830年にパリで、日本初演は1919(大正8)年3月に旭歌劇団とオペラ座による日本館合同公演で行われた。徳山lの甘みのある歌い方に人気が有ったと言われている。

9.ルーブリ通貨

 物語に出てくるルーブリ通貨について、場面と金額について下記表にまとめてみた。1ルーブリの貨幣価値は明確には判らないが、生活用品や衣食住などから類推すると1ルーブリ=8,000円(1コペイカ=80円)程度と思われる。

金額 円換算 内容
400ルーブリ 320万円 ステパン氏領地の森林伐採権(未払い)。ベルリン旅行の小遣いに当てたいと思っている。
100ルーブリ 80万円 ワルワーラ夫人が匿名で、病後のシャートフに送ってやる。
200,000ルーブリ 16億円 リザヴェータ・ニコラエヴナ(22歳)名義の資産
15,000ルーブリ 1億2,000万円 ワルワーラ夫人がダーシャに与えようとしている結婚持参金。そのうち8,000ルーブリはステパン氏の借金返済に使用される
1,200ルーブリ 960万円 ワルワーラ夫人がステパン=ダーシャ夫妻に与える年間生活費
1,000ルーブリ 800万円 ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーの領地収入、しかし新制度になってからは500ルーブリに減少した。
15,000ルーブリ 1億2,000万円 ステパン氏所有の領地価値
15コペイカ 1,200円 レビャートキンがリプーチンに無心した金
300ルーブリ 240万円
レビャートキンがニコライからもらった金
100ルーブリ 80万円 米国にいたシャートフがロシアへ帰るため、ヨーロッパの友人(ワルワーラ夫人)から借りた金
15ルーブリ 12万円 レビャートキンの燕尾服の値段(自己評価)
4コペイカ 320円 マリヤ・レビャートキナが教会に駆け付けた馬車代
500ルーブリ 400万円 飢饉救済のために、ワルワーラ夫人が慈善団体に寄付
10ルーブリ 8万円 ワルワーラ夫人がマリヤ・レビャートキナに恵んでやる
20ルーブリ 16万円 レビャートキンがワルワーラ夫人の上記好意にお返しする
100ルーブリ 80万円 シャートフがスタヴローギンに借金返済を申し込む
3ルーブリ銀貨 (24,000円) フェージカがニコライに、レビャートキンとマリヤを殺す計画を提案。その手付金として無心する
偽50ルーブリ 40万円 レビャートキンがフランス製偽札をコロワーエフ(溺死)に渡す
12ルーブリ 9万6,000円 ニコライが泥のなかに撒き散らした金。フェージカが這いつくばって、これを拾う。
50ルーブリ 40万円 フェージカが教会荒らしを行い、振り香炉、鞍帯などを売却して得た金。
1,500ルーブリ 1,200万円 フェージカがニコライに提案する、レビャートキンとマリヤ殺人の報酬金。
15ルーブリ 12万円 新裁判制度; 貴族への侮辱罪で請求される罰金
13,000ルーブリ 1億400万円 レンプケ38歳の時、パン屋の叔父から相続した遺産
15ルーブリ 12万円 ユリヤ夫人取り巻き連中で、陸軍中尉夫人がトランプ賭博で負けた金額。
400ルーブリ 320万円 自殺した青年(19歳)の遺書にある理由。「蕩尽」した金額で、姉の嫁入り支度金も含まれる。
5ルーブリ金貨 (4万円) セミョーン聖人に追い払われる商人が寄進した賽銭。
3,000ルーブリ 2,400万円 ステパン氏がワルワーラ夫人から受け取る年収金額。内訳;年金=1200、住宅費+使用人費+生活費=1500、臨時費=300ルーブリ
80コペイカ 640円 ワルワーラ夫人曰く、今までステパン氏が貧しい人に恵んだ金額。
1,500〜2,000ルーブリ 1,200〜1,600万円 ピョートルがニコライから引き出そうとしている活動資金。ニコライは拒否する。
1,600〜1,800ルーブリ 1,280〜1,440万円 ニコライ曰く、ワルワーラ夫人がステパン氏に代わってピョートルに渡した金。
1,500ルーブリ 1,200万円 ニコライがフェージカに支払う予定の、レビャートキンとマリヤの殺人委託金で、この事実によりピョートルがニコライを征服しようと企んでいる。(ニコライがピョートルの謀略を暴く)
15ルーブリ 12万円 ドミートリ・ドミートリッチが、ステパン氏にトランプで負けた金で未払いになっている。
42ルーブリ 33万6,000円 ステパン氏が差押えられた後、彼が持っていた有り金。35ルーブリはチョッキの隠しポケット、7ルーブリは紙入れに入れた。
100,000ルーブリ 8億円 パリから招かれた有名女優の年収
40コペイカ 3,200円 シュピグリーン工場の労働者が、レンプケに要求する金額
20コペイカ 1,600円 養老院の婦人(タラプイギナ)が暴動を見て、「何てまあ恥知らずな!」と言って唾を吐いたために「笞刑」に処せられた。新聞がこれに抗議して募金を募り、筆者も行った金額。しかし後日タラプイギナと言う婦人は実在しないことが判明した。
3ルーブリ 2万4,000円 祭の入場券。シャンパン代も含まれる。
90ルーブリ 72万円 祭を企画する家庭教師達に渡す謝礼金。
300ルーブリ 240万円 ワルワーラ夫人が、祭の切符代として支払った金額。
約200ルーブリ 約160万円 レビャートキンが死の前日、酔っ払って見せびらかせた金。殺された時、賊に奪われる。
230ルーブリ 184万円 ピョートルが、レビャートキン殺害の前日に、リプーチンを介して彼に与えた金。ニコライの秘密を守るため、レビャートキン一家をペテルブルクへ送り出した。
1,500ルーブリ 1,200万円 フェージカが、彼に支払われるべき殺人委託金が未払いであることを、ピョートルに告げる。フェージカがピョートルの謀略を批判する。
2,000ルーブリ 1,600万円 フェージカがペテルブルクに着いたら支払う、とピョートルが約束する金。
35(=30+5)コペイカ 2,800円 マリイ・シャートワがシャートフの家に駆け付けた馬車代。マリイが30、シャートフが5コペイカ払う。
80コペイカ 6,400円 マリイ・シャートワの全財産。薪、お茶を買うためにシャートフに与える。
1ルーブリ 8,000円 シャートフがキリーロフから借りる。
15ルーブリ 12万円 シャートフがリャムシンから25ルーブリで買ったピストルを、10ルーブリ値引きして買い取らせようとした。(未だ一度も撃っていない)
7ルーブリ 5万6,000円 リャムシンがシャートフに用立てした金。
1コペイカ 80円 シャートフ殺害時の合図のため、リプーチンが買い求めた粘土細工の玩具の笛。
40ルーブリ 32万円 ステパン氏持参の全財産
50コペイカ 4,000円 ステパン氏がハトーヴォ村まで乗せてもらう馬車代
5コペイカ 400円 ステパン氏が百姓夫婦に注文するウオッカ代。
35コペイカ 2,800円 聖書売り(ソフィア・マトヴェーヴナ・ウリーチナ;34歳)が売っている聖書1冊の値段。
3ルーブリ 24,000円 ステパン氏が行こうとしているウスチエヴォまでの旅費(汽船代)
1万2,000ルーブリ 9,600万円 ニコライがスイス・ウイリ州に帰化し、ダーリアと暮らすために用意してある財産。
35ルーブリ 28万円 貧乏な小役人の月給でニコライが盗み、取巻き連中との酒盛り代になる。
5ルーブリ 4万円 ニコライが借家を引き上げるとき、家賃の他に主婦(マトリョーシャの母親)に与えるチップ。


10. ドストエフスキーが好きな数字

 上記「ルーブリ通貨」では、金額に関連する項目が57回書き表されている。作者がものの値段を決める際、具体的な値段がある場合はその値を付けるが、そうでない場合作者の好みが無意識に、数字に反映されると思われる。ドストエフスキーはどんな数字が好きなのかを、調べてみた。数字をグルーピングするため、例えば5、50、500、5000などは「5」として、0以外の数字を有効とし桁数は無視した。 数字は16種類あり、それぞれの出現回数は以下のようになる。

数字 出現回数 数字 出現回数
15 12回 2回
8回 1回
8回 1回
7回 13 1回
6回 16 1回
5回 18 1回
12 3回 23 1回
35 3回 42 1回


「1」や「5」が多く現れるのは常識的な選択であるが、「15」が最多数であること、ラッキー「7」が1回しか使用されないのは特異な選択である。作者はなぜ「15」が好きなのか、また「7」が嫌いなのか今後の課題としたい。

11. ピョートル・ヴェルホーベンスキーの風貌

  上巻P178:  「・・・それは年の頃27、8ないしそれ前後の、中背というにはやや背が高く、白っぽい感じの薄い髪を長めにのばした、口もとと顎にほとんど目に立たぬほどの縮れたひげ生やした青年であった。服装はこざっぱりして、流行にもかなっていたが、瀟洒な趣はなかった。ちょっと見たところ猫背でずんぐりした感じだったが、実際には猫背の気むずかし屋どころか、むしろさばけた男だった。人づきの悪い男のように見えながら、その実、後になって町の人たちみなが認めたように、彼の物腰はたいへん作法に適っていたし、話にも無駄がなかった。
 彼は醜男というのでは決してなかったが、その顔はだれにも好かれなかった。彼の頭は後頭部のほうに長く伸びていて、両側から押しつぶしたような恰好になっていたので、そのために顔がとがって見えた。額は突き出ていて狭かったが、顔の造作はちまちましていた。目は鋭く、鼻は小さくとがっていて、唇は長く薄かった。顔の表情には病的なところがあったが、それはそう見えるだけのことだった。両頬の頬骨のあたりに妙に干からびたような襞が走っていて、それが彼の顔つきに回復期の重病人のような感じを与えているのだった。しかし実際には、彼は健康そのもので、体力もあり、これまでに一度も病気をしたことがないほどだった。
 彼はひどくせわしそうに歩いたり動き回ったりしていたが、かといってどこへ急いでいるわけでもなかった。おそらく彼はものに動ずるということがなく、どんな事態に直面しても、どういう席に出ても、ふだんとまったく変わらないのだろう。たいそうな自信家だが、自分では少しもそれに気づいていないふうである。
 彼はまたひどく早口に、急きこんだ調子で話をするが、そのくせ自信たっぷりで、立板に水の話ぶりだった。態度がせかせかしているのと対照的に、彼の考えは平静で、明確なまとまりをもっており、この点がとくに目立った。物言いは驚くほど明晰で、彼の言葉は、選別されていつでも蒔けるようになっている粒ぞろいの種子のように、淀みなくすらすらとまき散らされていた。この話しぶりは、最初のうちは耳に快いのだが、そのうちに鼻についてくる。というのは、その物言いがあまり明晰なためと、彼の言葉がつねに用意のととのったビーズ玉のように思えるからである。しばらく聞いているうちに、彼の舌は何か特別な形をしているにちがいない、異常に細長く、色が真っ赤で、その先端は恐ろしくとがっているうえに、たえずひとりでにくるくると巻きあげられるのにちがいない、といった気持になってくるのである。・・・・」



『悪霊』etc・・・


年譜にみる『悪霊』執筆・発表の頃

 ドストエフスキーは『悪霊』をどのように執筆し発表していたのか、年譜を探ってみた。

 前号「読書会通信106」において、1869年〜1870年までを掲載した。この時期は、まだ外国放浪中だが、最悪状態から復活の兆し。長女ソフィアの死から立ち直りつつあった。賭博癖は、まだ無くならなかったが、創作意欲はでてきた。『偉大なる罪人の生涯』を構想中だった。モスクワで起きたネチャーエフ事件に興味を持ち『悪霊』のノートをとりはじめる。70年10月に『ロシア報知』編集部に冒頭部分を送付、まで。

1871年(50歳) いよいよ『悪霊』をロシア報知に連載開始
    1月『悪霊』をロシア報知に連載開始
    3月〜5月パリ・コミューン
    4月ルーレット熱、突然さめる。
    7月1日ネチャーエフ事件の審理開始。審理経過は『政府通報』にて公表。

ロシアへの帰国とネチャーエフ事件への興味

この時期、ドストエフスキーは、本事件の最も重要な政治文書『革命家問答教示書』を特にあらゆる角度から研究し、公表分のデテールとあわせて『悪霊』第二編、第三編に利用した。

 【6月末『白痴』『永遠の夫』『悪霊』原稿の焼却】
 出発の二日前に、ドストエフスキーは妻をよんで、ぎっしり書き込まれた大判の分厚い紙束を渡し、焼き捨てるように頼んだ。ロシアの国境で捜索されることがあらかじめ分かっているからだ。1849年に逮捕されたときのように、原稿類を没収される危険がある。アンナ・グリゴーリェヴナは、焼却するに忍びなかったが、暖炉をたいて原稿をくべてしまう。こうして『白痴』と『永遠の夫』それに『悪霊』の原本のヴァリエーションが、ぱっと燃えあがった火の粉となり、そのまま黒ずんだ灰と化した。(アンリ・トロワイヤ 村上香住子訳)

7月5日の夕刻、ドストエフスキー一家は、ドレスデンからベルリン経由で帰国の途につく。
「とうとうわたしたちは、ベルリンでロシア行きの汽車に乗りかえることにして、7月5日の夕方、ドレスデンをあとにすることができた。(アンナ・ドストエフスカヤ)」
  
4年間の外国放浪からの帰郷。ふたたびの祖国。喜び、希望、不安。そして作品『悪霊』への思い。そのときの情景を作家アンリ・トロワイヤは、感動をこめてこう描く。

 うす汚い車窓の向こうには、すでにロシアの大地が走り去っている。風に引き伸ばされ、すり切れた小さな雲の群れ、正真正銘のロシアの雲が流れていく・・・。
 ほそい村道が盛り土の上を横切り、野草のなかに消え、ずっと向こうの小さくみえる藁ぶき屋根のあばら家までつづいている。線路わきでひとりの田舎娘が、赤いハンカチを振っている。頭には汚らしいぼろ布をかぶって、白樺の樹皮で作った下げ袋をもっている。足にはなわで編んだどた靴をはいている。娘はなにか叫んでいるが、汽車の速度が速いので彼女の姿は煙の向こうにぱっと消えてしまう。果てしないロシアの大地はどこまでもつづく。夢にまでみたロシアの大地が!声高に激越したインテリども、革命家の手合い、そういった〈悪霊〉どものロシアではなく、大地、労働、信仰のロシアが!これこそ確実に魂を清めてくれるものだ。
 ドストエフスキーは、万感胸にせのる思いで妻や娘をみると、彼女たちは疲れ果てて、並んで腰掛けて眠りこけている。
 車窓には、緑色の屋根をした教会を囲むようにして、ぽつんと僻村がみえてくる。車内は腐っ
た油、汗、石炭、そういった匂いが混ざりあった絶えがたい臭気が充満している。だがフョードル・ミハイロヴィチは、そんなことは気にもかけていない。まるで二度目の出獄をするような浮き浮きした気分で、娑婆に戻れる、という実感に狂喜している。シベリアかの流刑地から戻ってきたときのように、永年の眠りからさめてみると、見ず知らずの町が自分を待ちうけていた、というようなことにならないだろうか?いや、今度は大丈夫だ。ロシアの新聞は欠かさず眼を通していたし、ロシア魂も失ってはいない。自分の小説がそれを証明してくれるだろう。事実『悪霊』という小説は、ルカ福音書に出てくる悪魔たちから、ロシアを守り抜こうという祖国愛の熱気に燃えたって書かれたものだった。

『悪霊』は、悪霊からロシアを守るために書かれた!!

「しかしこの山中に、おびただしき数の豚の群れ、飼われおり、悪霊ども、その豚に入ることを許せと願えり、イエス許したもう。悪霊ども、人より出でて豚に入り、その群れ崖より湖に駆け下りて溺れ果つ」(ルカ伝。第8章第32-33節)

7月8日 ペテルブルグに帰る。
「1871年7月8日、よく晴れた暑い日、わたしたちは四年間の外国生活ののちにペテルブルグにもどってきた。」(アンナ・ドストエフスカヤ)
7月16日 長男フョードル誕生。
11月 『悪霊』第二編完結(1月、2月、4月、7月、9月、10月、11月号に掲載)以後約1年にわたり発表中絶。
ドストエフスキー、事件現場を実地検証

12月末〜翌年1月 モスクワ滞在。
 ドストエフスキーは、モスクワのペトロフスコ・ラズームフスコエへおもむき、イヴアーノフ(シャートフ)殺害現場を実地検証した。

書簡で語る、事件 / ピョートル / スタヴローギン

M・N・カタコフ宛 ドレスデン、1870年10月8日(20日)から

 ネチャーエフ事件について小生の長編に描かれる最も大きな事件の一つは、モスクワで有名な、イヴァーノフを殺したネチャーエフの事件です。ここでお断りしておきますが、小生はネチャーエフも、イヴァーノフも、あの殺人事件の事情も、新聞で読んだ以外はぜんぜん知らなかったし、今でも何ひとつ知りません。またよしんば死っていたにせよ、模写などしなかったでしょう。小生はただ実際に生じた事実をとりあげただけです。小生の空想は、実際の事実と極度に相違するかもしれませんし、

 ピョートル像について 小生の描いたピョートル・ヴェルホーヴェンスキイは、いささかもネチャーエフに似ないのかもわかりません。しかし、あの事件で衝撃を受けた小生の頭には、あの凶行に相当する人物なり典型なりが、空想の力によって創りだされたような気がします。そういう人物を表現することが、あながち無益のわざでないのは、疑いをいれぬところです。しかし、小生を誘惑したのは彼一人だけではありません。小生の意見としては、ああいうみじめな不具者どもは、文学に値しません。小生の作品ではその人物が、半ば喜劇的になってきました。そういうわけで、この事件は長編の主要部分の一つを占めはしますが、それにもかかわらず、ほんとうにあの長編の主人公と呼ばれるもう一人の人物の付属物であり、道具立てとなるに過ぎません。

 ニコライ・スタヴローギンについて そのもう一人の人物、ニコライ・スタヴローギンは、同様に陰鬱な人物であって、同様に悪人です。しかし、小生の感ずるところでは、これは悲劇的人物です。もっとも、多くの人は読後、「これはいったいなんのことだ?」というに相違ありませんが。小生がこの人物に関する叙事詩に着手したのは、あまりに久しい以前から、この人物を描きたかったからです。小生の考えによると、それはロシア的な、典型的な人物です。もしこれが成功しなかったら、小生は、とても憂鬱なことでしょう。もし万一、これは通俗的な人物だという宣告を受けたら、さらに憂鬱なことでしょう。小生はこれを自分の心の中からつかみだしたのです。もちろん、それは完全な典型としては、めったに現れない性格ですが、しかし、これはロシア的性格です(ある社会層に属する)。・・・お前はこの性格をこなすことができると、何かしらささやく声がするのです。いまは詳細にわたって説明しないことにします。見当はずれのことをいいそうな気がして、心配です。・・・、小生はこの性格を理知判断でなく、場面と行動で、残らずスケッチしているのです。して見ると、生きた人間が、できあがる望みがあるわけです。

 物語について 長編の発端は、長いことうまくいきませんでした。小生は幾度も書き直しました。もっとも、あの長編では、今までかつてなかった事態が生じたのです。小生は数週間、初めの方の仕事を止めて、終わりの方から書きました。しかし、なお、そのほかに、発端そのものを、もっと生き生きとしたものに、すればすることができたのじゃないかと、心配しています。印刷して五台半も書いたのに(お送りした分)ようやく葛藤の端緒をこしらえたかどうかです。もっとも、葛藤は、事件は、突如として展開し、ひろがっていきます。これから先の小説的興味は保証いたします。今のようないきかたのほうが、かえっていいような気がしてきました。

 登場人物について しかし、だれもかれもが陰惨な人物ばかりではありません。明るい人物も出てきます。概して小生の力に余ることがたくさんあるのではないかと心配です。例えば、今まであまり文学によって触れられなかった一連の人物に、初めて接触して見たいと思っているのです。そうした人物の理想として、チーホン・ザドンスキイを取り上げるつもりです。それは僧院で行い澄ましている長老です。この長老と小説の主人公を対照させ、一時ひきあわせようと思っています。とても心配です。こんな試みは一度もしたことがないのですから。しかし、この世界のことは小生も何やかや知っています。

 この時の生活状況 ・・・小生は極度の貧困に陥ったので・・・・貴下(カタコフ)にご無心せずにはいられません!小生はまったくたつきのしろがなくなってしまいました。しかも、小生には妻子があるのです。妻は健康がすぐれないのに、ひと月まえ赤ん坊を乳ばなれさせたので、今は、一息つくどころか、毎晩ろくろく眠っていません。小生の宅には保母はおろか、女中さえいないのです。これは小生にとって身を切るような思いです。仕事は時として気を紛らわしてくれますが、こういう状態では、時につらいこともあります。
・・・・今回五百ルーブルだけ無心させてください。・・・・・・・・・



プレイバック読書会


1988年5月21日発行「ドストエーフスキイの会 会報」から

『悪霊』と様々な私  志岐孝之

 昨年後半の池袋での読書会で、私は『悪霊』のうち第1部及び第3部の報告者となった。そのために何度かこの作品を読み返し、自分なりの納得を得ようとして精読することになった。そこに約半年の間があり、私の読書の興味は読むたびに前後左右、あっちこっちに大きく揺れ動いた。半年という比較的短期間でさえそう感じたのだから、数年、十年、あるいは数十年経ってから読み返す場合には、その変動のいかなるかを容易に想像することができる。ドストエフスキーの作品には知覚的であり、思惟的であり、社会的であり、身体的なものが一杯に詰まっているようだ。
 『悪霊』の様々な登場人物に興味を抱いた。私には、その何れもが私の分身のようにさえ感じられた。いうまでもなく、私の分身は良いことばかりというものではない。常に没し常に流転せる罪悪生死の凡夫のそれである。弱さ、醜さで一杯であり、血騒ぐこともある。そしてその逆もあるのだ。今ある私のあっちこっちで自在に、勝手にあの人物、この人物が動き回るのである。勿論、私という人間は一人しかいない。私の眼・耳・口・手・足等と同じように、それぞれが勝手気ままに動いているようだ。そして一つに集まって私という一つの身体を形作っている。私の各部も全体も時間的・空間的にそれぞれの経験をしているのだろう。しかしながら時の経過は必ずしも各部分及び全体の発展・発達を意味するものではない。生まれ出で、成長し、やがて衰えていく。私の眼も足も不自由になるのだ。全体としての私といっても様々な面をもっている。仕事をしている私、家庭に社会にいる私、読書会に喫茶店にいる私、歩いている運動している私、テレビで野球・相撲を観ている私、酒を呑んでいる私、外国語を学んでいる私、・・・・そしてそれがまた一つとしての私ということでもあるのだ。確実なのは私の肉体が変化することである。当然各部での反応も相応して変わる。己と環境との関り方も変わり、その環境自体も変化する。私も汝も彼も変わるのだ。変化している私が生きているこの世界もまた、変化している。私の各部分と全体はそれ自身が刻々変化する現実に一瞬一瞬対応しているのだろう。昔の私ではもはや対応することはできない。現代の冷たさも暖かさも今の私自身の肌で知るのだ。具体的現実に触れるのは今ある私である。そうでなければ、抽象的・観念的私になってしまう。過去・未来でなく現在が私にとって具体的であり、過去・未来は現在との関わりの中で具体的なものになる。その今ある現在は過程的でも、今日的的でもなく、一刻一刻独自に変動していく。私はその最中にいるのだ。
 私はここ5・6年の間に『悪霊』を何度か読んでいる。その度に私の興味は内容・個所・人物それぞれ移り変わってきたと言える。以前には何の興味もなく読み過ごしていて、その時初めてでくわしたかのように気が付いて、驚く個所も毎度のことである。個々の、その部分部分の、それぞれの場における「”声一般”ではない”個々の声”」(先日の新谷先生の言)を、私ながらのものとして感ずるのである。だからこそ、作品が面白くなり、何度も読み返すことができるのではないか。その”声”は一点に固定しているのではなく、動いているのだ。一点一点が躍動し、創造的であり、新鮮である。
 数年前のドストエフスキー会で高橋誠一郎さんの「『罪と罰』における時間の構造」という題の話を聞いた。その時初めてドストエフスキーには「突然」とか「衝動的に」という表現が多出するということを知った。その時は、その意味するところを呑み込めないままであり、ただその研究を奇異に感じ、驚き、そして私の読書の底浅さを思い知らされ、恥じ入った。今では、自分ながらの納得を得たような気でいる。
 私にとってドストエフスキーの魅力の一つは、隙間だらけのいわゆる「科学的・合理的」解釈一方では推し測り尽くしえない奥深さを持つ人間を、その変幻極まりない様々な人間の生き様を通して、自在に創造的に、しかも徹底的に描いていく点にあるのではないかと思う。19世紀のドストエフスキーの作品は場面こそ違え、今いる私の現実そのままとして迫ってくるのだ。そこにはドストエフスキーではなく、私自身がいるかのようである。
 私の中にはステパン氏もいるし、ピョートルもスタヴローギンもいるようである。ワルワーラ夫人に「あんなマドンナは何の役にもたたないが、このコップは有益なものです」と貶されるステパン氏に同情すると共に「街道には思想がある」と「「偉大なる旗「を掲げて家を出たステパン氏の気持の中にも私がいることを知る。「自分の意志を完全に統御している」というニコライ・スタヴローギンも「あの姿・・・あの一瞬・・・」、小さな拳を振りあげている幽霊に取り憑かれているのを知ってほっとして安心もする。また彼は、諸国民を組織し、動かしている力について、「その起源は不明であり、説明不明である。この力はあくことなく究極に到達しようとする願望の力であると同時に、この究極を否定する力でもある」とも言う。その意味は、いまひとつ良く解らない。しかし、この表現は私の興味をそそるに十分であり、今後更に多くの人の意見を聞いて確かめていきたい。
 また、キリーロフもシャートフもエルケリもいる。その他にも多くの登場人物が私の中にいるようだ。そしてチホン僧正でさえ私自身のように思える時もあるのだ。チホン僧正は言う、「信じていただけますかな、私は世間の人というより、むしろ自分に照らして判断したのです」と。これはかくあれかししという私の中に存在する願望のようでもある。
 読書するその時々の私が絶えず分裂変化しているものだから、それに応じて私の興味も動いていくのだろう。それでは変幻極まりない現実に刻一刻対応して生きているこの人間とは、私とは、いったい何なのだ。残念ながら、私にはこの問いに面と向って理路整然と正しく答える力がない。ただ朧おぼろに、自分勝手に考えるだけである。
 人間の生き様そのものは現在でも、ドストエフスキーの時代や二千年前とそれほど進展していないのではないか。人間にとっての動かざる世界というものに思いが到り、変と不変、有限と無限、有と無・・・と表現される世界が私の眼前に現れてくる。私は飛躍して脈絡も外れ、辻褄が合わなくなったかもしれない。空を駆け巡る自信過剰の孫悟空も仏の無限性の掌中から一歩たりとも飛び出しえない有限の存在であることを思い知らされる。
 家出したステパン氏は最後に叫ぶ、「・・・人間から限りなく偉大なものを・・・」と。これとは表現は全く異なっているが、キリーロフの神についての話の中で、「いや地上の永遠の生ですよ。そういう瞬間がある、その瞬間まで行きつくと、突然時間が静止して永遠になるのです」という場面がある。池袋の会では、この部分には人気が集まらなく否定的な反応しかなかった。あれは単なる癲癇の一症状に過ぎないのではないかとのことであった。わたしには、今なお、何かがあるのではないかと思われてならないのだが、はっきりしない。これは私にとっては先へ持ち越しである。間をおいて再度読んでみよう。ステパン氏が死に瀕している時に、「人生の一刻一刻、一刹那一刹那が人間にとって至福の時とならなければならないのです」という。その場面にも永遠性と今、現在が絡んでいるという点で通じるものがあるのではないかとも思うのだ。西田幾多郎はその諸論文の中で「各瞬間が永遠の今に接する」と繰り返し表現している。人の人生観とも関る味わい深いものをそこに予感している。その他にも、私の興味をひく個所は多いが、この辺で止める。
 池袋に集まるのはせいぜい7、8人である。その一人ひとりがそれぞれの接し方でドストエフスキーに対している。その中から私なりの対応が生ずるいうまでもなく、私の読書レベルは極めて低く、他の参加者の足手まといになっているのかもしれない。しかし、そこが私を表現する一つの場になりうるのではないかと勝手に思いこんで、ずうずうしくも出席するのだ。私のフェージカは主張するではないか、「でも、あっしにしたって火曜日、水曜日はばかでも木曜にゃひょつとして、ちょっとは・・・」と。
※ 当時、読書会は池袋東口にある名曲喫茶で開催されていました。参加者十人前後でした。





『悪霊』クイズ

出題者・下原康子

謎の人物スタヴローギン、登場人物は彼をさまざまになぞらえました。さて、以下のように呼んだのは誰でしょう。線で結んでください。

  ・ハリー皇子                    ・ピョートル

  ・ハムレット                    ・ステパン

  ・坊ちゃん                     ・ワルワーラ

  ・公爵                        ・シャートフ

  ・鷹                          ・キリーロフ

  ・みみずく                       ・マリヤ

  ・僭称者                        ・世間

  ・イワン皇子                     ・マリー

  ・ぼくらのアメリカ                  ・フェージカ

  ・変態貴族                      ・レビャートキン

  ・悪党                        ・リプーチン

  ・仮面                        ・リーズ

  ・無為になずんだ大いなる力              ・カルガーノフ

  ・ただ一人の人                    ・レンプケ

  ・色魔                        ・チホン



机竜之介とスタヴローギン
(編集室)


 前回の読書会で菅原純子さん報告・江原あき子さんアシストの「スタヴローギンはなぜこのような人間になったのか」では、多くの熱い意見、感想があった。『罪と罰』のスヴィドリガイロフ同様、『悪霊』では、このスタヴローギンが、どうしても解けぬ謎として残る。
「スタヴローギンとは何か」この謎を考えたとき、いつも頭に浮かぶ人物がいる。もう10年も前になるが、読書会ハイキングで山梨県の西川渓谷(?)に行ったときのことである。最寄り駅のJR「塩山」駅で下車したとき、「大菩薩峠」の案内看板が目についた。右手に行けば、そのコースである。その日は、目的通り左手の渓谷コースに向ったが、今度は是非に大菩薩峠に登ってみよう。そんな気持になったものだ。それというのも、そのころ読書会は3サイクルの読みで、『悪霊』に入っていて、やはりスタヴローギンの存在について議論されていたからである。あんな人間は現存するのだろうか。いつも、そこで議論は途絶えてしまう。
しかし、いつも気になる人物を彷彿する。小説の主人公だが、孤高の剣士机竜之介である。もう知らない若い人も多くなっていると思うが、中里介山の大長編時代小説『大菩薩峠』である。この作品は、これまでの勧善懲悪ヒーローの物語世界に、悪人ヒーローを活躍させるという大革新の小説として知られている。いつだったか、新聞か雑誌で、ある作家が入院したとき、きちんと読んでいなかったからと『大菩薩峠』を病室で読んだことが書いてあった。いまも変わらぬ面白さと考えさせられるものがあったと書いてあった。映画化も何回かされているが、40年近く前、市川雷蔵主演を5本つづけて深夜映画で観たことがある。
時代は幕末、大菩薩峠で、一人の老人が斬殺される場面からはじまる。老人は、孫娘と巡礼の最中で、休んでいたところだった。下手人は、この地のニヒルな美男剣士机竜之介。殺人動機は、たまたま斬りたくなったから。剣の達人である主人公は、次に人妻を犯し、その夫を惨殺し、江戸へでるが、その人妻も切り捨てる。とにかく剣が強くて女にもてる。幕末の動乱の中で斬って斬ってきりまくり、事故で盲目となっても辻斬りとなって人を殺める。なんともひどいアンチヒーローなのだが、なぜか、この未完の大長編を支えるだけの魅力を持っている。いったい、作者、中里介山は、どうしてこんなヒーローをつくりだしたのか。『悪霊』を読んで、スタヴローギンに感化されたとしか思いようがない。スタヴローギンに剣をもたせたら、こんな人物ができあがるのかも知れない。未完
※小説は四散した登場人物全員の旅路を詳細に描いていく。数多の登場人物は慶応3年秋の日本各地をいつまでもいつまでも彷徨い続ける。
 いったい作者・中里介山はどんな人なのか。本名は、中里弥之助。1885年(明治18年)生まれ。1944年(昭和19)逝去。多摩(現・羽村市)の農家の次男。幸徳秋水や内村鑑三と親交を結び「平民新聞」に寄稿。1906年(明治39年)に『都新聞』に入社、次々と小説を発表。
 1910年(明治43年)大逆事件で、多数の友人の逮捕者・刑死者を出したことで精神に深い傷跡を残す。新聞に連載の「高野の義人」や「島原城」に影響がみられる。そして、そのニヒリズムや厭世的破戒主義は大長編『大菩薩峠』にあらわれる。
★中里介山に関する主な参考文献
・尾崎秀樹「社会主義詩人介山」『文学』1970 『峠の人 中里介山』1980 新潮社
・中村文雄『中里介山と大逆事件ーその人と思想』三一書房1983
・松本健一『中里介山』朝日新聞1978 『中里介山ー辺境を旅する人』風人社1993
・柳 富子「中里介山の二つのトルストイ論」早稲田大学『比較文学年誌』
・高橋敏夫『理由なき殺人の物語ー「大菩薩峠」をめぐって』廣済堂2001



2・23読書会報告 

30名の参加者(初参加者8名)!!

 2月開催の読書会参加者は、なんとこれまで(講演除く)最高の30名でした。まさにドストエフスキーブーム到来の感あります。この現象は、昨今の亀山氏の宣伝効果でしょうか。賛否はありますが、いずれにせよ、多くの人たちがドストエフスキーの名を知り、興味を持つようになったのは事実です。世界は、いま、環境も社会も暗澹とした方向に流れている。昨今の新聞記事からそうした危惧を禁じえません。そうしたなかでドストエフスキー読者が一人でも増えることは、希望の光明に少しでも明るさを与える、そう信じます。
 二次会は、19名の出席者。喫茶店での三次会も初参加者が多数出席され、盛会でした。



第185回例会報告 

 「ドストエーフスキイの会」第185回例会は、2008年3月15日(土)午後2時〜5時00分まで原宿・千駄ヶ谷区民会館で開催された。57名の参加者がありこれまでにない盛会ぶりでした。参加者の半数以上が、芦川氏の十年来の教え子でした。このことは氏が、いかに優れた教育者だったか、図らずも知らしめることになった。
 芦川進一氏が報告されたのは、聖書のこの章における疑問と考察でした。

【マルコ伝十六章1-8】1さて、安息日が終わり、マグダラの女マリヤとヤコブのマリヤとサロメは、イエスに塗油を施しに行こうとして香料を買った。2そして週の初めの日、朝、たいへん早く、日の昇る頃、彼女たちは墓へ行く。3そこでお互いに言い続けた、「誰が私たちのために、墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょう」。しかし目を上げてみると、なんとその石がすでに転がしてあるのが見える。というのも、「その石は」ひどく大きかったのである。
 5そして墓の中に入ると、彼女たちは白い長衣をまとった一人の若者が右側に座っているのを見、ひどく肝をつぶした。6すると彼は彼女たちに言う、「そのように肝をつぶしてはならない。あなたたちは十字架につけられた者、ナザレ人イエスを探している。彼は起こされた、ここにはいない。見よ、ここが彼の納められた場所だ。7むしろ行って、彼の弟子たちとペテロに言え、『彼はあなたたちより先にガリラヤへ行く。そこでこそ、あなたたちは彼に出会うだろう』と。彼が、〈かねて〉あなたたちに語った通りである。
 8しかし、彼女たちは外に出るや、墓から逃げ出してしまった。震え上がり、正気を失ってしまったからである。そして、誰にもひとことも言わなかった。恐ろしかったである。
 二次会は、20名の出席者で賑わいました。



『悪霊』第一回報告

 ―スタヴローギンはなぜこのような人間になったのか―
 
                                 菅原純子

 雷雲が厚く空を被い、太陽に背を向け、養分の足りないまま大きくなり、雷で引き裂かれた肌をし、それでもなお、少しでも日の光を浴びようと一方に傾いて立っている木。その木は荒野を吹きすさぶ乾いた北風に洗われ、丸裸になってしまっている。陰鬱で荒れ果てた野にひとりの謎の男が立っている。大地は、土の暖かさをみじんにも感じさせず、今にも霜が降りるかのように堅く、凍ってしまいそうである。
 男は、人里はなれ、人間がよりつかないような荒野になぜ一人立ち、何を考えているのであろう。男はぽつりと一人で立っているが、周囲の風景を見渡し、どちらに向って歩いていこうか思案しているのではない、いやそうであるかもしれないが、暗い洞窟のようなその場所で、自分の肉体から脱け出てきた何ものかわからない影の存在と、ぶつぶつと会話をしているのである。『悪霊』の主人公スタヴローギンは、このような孤立無縁な無機的存在である。
 『悪霊』がネチャーエフ事件に発想をえていることは後に述べるとする。そもそも、ネチャーエフによるイワノフ殺害事件を、滞在していたドレスデンにおいて、新聞を読み衝撃を受け、モデルにピョートルをネチャーエフに見立て、シャートフをイワノフに見立てたとしても、ドストエフスキーが次のように、 「わたしの小説の最大の事件の一つは、モスクワで評判になっているネチャーエフによるイワノフ殺害事件です。(略)わたしはネチャーエフも、イワノフも、この殺人事件の事情も知りませんし、いまでも新聞による以外はまったく知りません。たとえ知っていたところで、それの引きうつしなど始めはしなかったでしょう。実際に起こったことを取りあげているだけです。わたしの想像は、事実とはなはだしく相違しているかもしれませんし、わたしのピョートル・ヴェルホヴェンスキーは、ネチャーエフとはいささかも似ていないかもしれません。」というように、着想においてのものだけにすぎず、今までの『悪霊』の読み方が、この事件を中心とした、作品でいう所の第三部を重視した傾向が強かった結果によるのではないかと思う。
 このようなわけで『悪霊』を再度読み直してみると、ドストエフスキーが書きたかったものは、人間の本質、人間の本質にせまる探求ではないかと思った。
 前置はさておき、冒頭で述べた孤立無援の無機的存在スタヴローギンを生み出したのは、ステパン先生であるといっても過言ではないだろう。スタヴローギンの父であるスタヴローギン中将は1855年の春死去しており、ワルワーラ夫人は夫との性格の不一致により、その四年ほど前から別居生活を送っていた。ニコライは父を幼なくして亡くしているだけではなく、その思い出さえもない。母であるワルワーラ夫人も、夫に対する愛情のかけらすらもなかった。そのワルワーラ夫人は、スタヴローギンの養育を一切放棄し、居候であるステパン氏に、一人息子であるスタヴローギンの高級教育係兼親友として預け頼んだのである。このステパン氏だが、初婚の相手はパリで亡くなり、彼女も死ぬ前三年ほど別居していたが、彼女との間に五歳になる男の子がいる。この男の子がピョートルであり、どこかの片田舎に住む遠縁の伯母さんにずっと育てられた。ステパン氏は息子に、生まれた時と、ペテルブルグで大学の受験勉強にはげんでいた時のたった二回だけしか会わなかった。ワルワーラ夫人といい、ステパン先生といい、二人とも自分の子供を人にあずけっぱなしである。つまり二人とも養育放棄をしたのである。
 ステパン先生は、赤ちゃん、子供と称されワルワーラ夫人の息子同然、彼女の創造物、発明品という立場になりおおせていたのである。ステパン先生が、スタヴローギンの教育係兼親友となりえたのは、彼が子供だからであるという。ステパン先生は、まだ10歳か11歳にしかならないスタヴローギン少年を自分の親友に仕立てあげ、自分の傷つけられた感情を涙ながらに訴えたり、家庭内の秘密を打明けたりするためだけに揺り起こしたりすることも再三あり、二人は、おたがいひしと抱き合って涙にくれたとある。このようにひしと抱き会って涙にくれたのは、家庭内の?末なエピソードだけが原因ではなかった。ステパン氏は、少年の心の奥底の琴線をかき鳴らして、まだ漠とした感覚のようなものでしかないが、人類永遠のかの聖なる憂愁の最初の芽生えを少年の心に呼びさますことができたとある。ステパン先生が、スタヴローギン少年にした行為が、後の彼の人格形成に影響を及ぼしたのではないだろうか。
ステパン先生には、スタヴローギン以外にも教え子がいる。子供のころのシャートフ、その妹のダーシャ、ドロズドワ夫人の娘リーザ、ここで重要なのは、ステパン先生に教育をうけたスタヴローギン、シャートフの後の論理の一端が、ステパン先生から発しているということである。ドストエフスキーが、第一部で、ステパン先生から稿をおろしたということは大事な意味があり、第一部の重要性がここにあるのではないだろうか。
 もう一点、第一部においてみておきたいことは、ワルワーラ夫人とスタヴローギンとの関係である。この関係については、森有正の『ドストエフスキー覚書』、清水正氏の教えにこうたところであるが、少年は、母親が自分を溺愛していることを知っていたが、彼自身はそれほど母親を好いてはいなかった。夫人はあまり息子とは口を利かなかったし、めったに自由をしばるようなこともなかったが、それでも少年は、たえず自分をじっと見守っている母親の視線を病的なくらい、いつも肌で感じていた。沈黙病、視線恐怖はここからきているのであり、ペテルブルグの上流社交界での息子の成功が、彼女の関心の的であった。前途有為のこの富裕な青年将校は、彼女にできなかったことをどんどんやりとげていった。夫人がもう夢に見ることもあきらめていたような人たちとの交際も復活し、どこでも大歓迎をうけていた。ワルワーラ夫人の多大なる期待に押しひしがれるようにして、スタヴローギンの自我は崩壊していったのではないだろうか。自我による押しつぶされたゆえの自我の崩壊である。
 しかし、この後に転回するスタヴローギンの行動、気違いじみた放蕩、二つの決闘で、一人を即死させ、もう一人を片輪にする事件、ペテルブルグの住人の屑みたいな連中と付き合ってみたり、足の悪いユロージヴァヤ、マリヤ・レビャートキナとの結婚、様々な奇行を、ワルワーラ夫人、母親一人の責に帰すことはできないであろう。ここで司会者をかってでていただいた江原さんが今回の読書会でテーマとして提案した、スタヴローギンはなぜこのような人間になったのかを、参加者の方々に大いに考え、論じていただきたいと思う。このようなとは少し抽象的だが、読者一人一人のスタヴローギンに対するとらえ所として考えていただければよいのではないかと思う。
 再度、母親との関係にもどすこととする。スタヴローギンの告白のなかでチーホンは、「あなたを拝見していますと、ご母堂のお顔立ちを思い出しますな。外見は似ておられないが、内面的には、精神的にはよく似ておられる」という。
 スタヴローギンは強く否定するが、ワルワーラ夫人の性格はもともと生一本で鷹揚なところがあり、がむしゃらな感じで、陰にまわってこそこそ言われるのが何よりきらいで、いっそ公然たる衝突のほうを好み、他人が自分を見下していることに感づいたが最後、たちまち傲慢な自尊心の悪魔に取りつかれずにはいられない性分であるということを見れば、チーホンの見方もまんざらではないのではないか。
 もう一点だけ付け加えさせていただくと、ステパン先生が、ニコライをハムレットに称する場面でワルワーラ夫人は、おそらくあの子は、生涯あの子をさいなみつづけた憂鬱な、そして『発作的な皮肉の悪魔』からもうとっくに救われていたにちがいありません。でもニコラスには、ホレーショもオフェリアもいたためしがありませんでした。あの子についていたのは母親ひとりで、しかもあんなことになってしまったら、いったい何ができたでしょう?このワルワーラ夫人の母親としての言葉も重い発言である。
 何故、執拗にワルワーラ夫人との関係をみるかというと、前述した事だけではなく、『悪霊』という作品の救いようもない結末、スタヴローギンの縊死した姿を発見するのが、母親であるワルワーラ夫人ということにもよる。
 次に、スタヴローギンとシャートフ、キリーロフとの関係をみてみるとする。シャートフのロシア・メシアニズムは、シャートフに言わせると、 「これはあなたの言った言葉そのままで、ぼくの言葉じゃないんです。ぼくらの話の結論であるどころか、あなた自身の言葉なんです。だいたい《ぼくらの》話なんてありもしなかった。偉大な言葉を語る教師と、死者からよみがえった弟子がいただけですよ。ぼくがその弟子で、あなたが教師だったんです」シャートフが主張するものは、すべてスタヴローギンのものだったということを明かす。
 キリーロフの人神論も、 「きみがぼくの人生にどんな意味をもつ存在だったか、思い出してください、スタヴローギン」すべてスタヴローギンの論であるが、スタヴローギンは、もうここにいたっては、二人の論に関心はない。ただ退屈しているだけである。
 一点だけシャートフとの関係に疑問をもつ所がある。それはスタヴローギンの次の言葉「ぼくはきみを愛することができなくて、残念です、シャートフ君」この言葉を額面どおりうけ取ってしまっていいのだろうか。スタヴローギンはシャートフの所に来て、あなたは殺されるかもしれないという。シャートフの身にせまる危険を知らせにきた。またシャートフのスタヴローギンに対する熱烈なものを語った後の言葉である。ピョートルが、シャートフを密告者とし、その殺害をほのめかした時スタヴローギンは、「ぼくはシャートフをきみに渡しやしないよ」と言う。これからにしても、シャートフに対する愛情のかけらはあったのではないか。
 ペテン師ピョートルとの論に移させてもらう。ここにいたってはマリヤ殺しにもかかわってくるところであるが、ピョートルは、組織の頭としてニコライをおこうとした。
 「きみはまさしく打ってつけの人物なんだな。ぼくに、ぼくに必要なのは、ほかでもない、きみのような人間なんですよ。きみのほかには、ぼくはそういう人をだれも知りません。きみは頭領です、きみは太陽です、ぼくなんかきみの蛆虫ですよ。」ピョートルがスタヴローギンにかけていたのは、はたからみれば滑稽な悲願であり、実際ニコライにはその力がない。それを見破ったのがマリヤである。
 「いえ、いえ、鷹が梟になってしまうなんて、そんなことのあろうはずがない。わたしの公爵はこんな人じゃない!」僭称者だともいう。スタヴローギンの本質を見破ったのはマリヤの見方の方がたしかであり、ペテン師ピョートルの言葉は、なんらの意味をもつものではないかもしれない。
 スタヴローギンを僭称者呼ばわりしたマリヤは殺害されるのであるが、ここにはピョートルの存在が大きい。実行犯は脱獄囚フェージカであるが、 「ところがきみはぼくをそそのかして、千五百の金をレビャートキンに渡させ、それでフェージカに彼を殺させる機会をつくらせようとねらっている。ぼくがそのついでに女房も殺したがっているなどときみが考えていることも、ぼくにはわかっているんです。」
 マリヤ殺しは、ニコライ→ピョートル→フェージカ、ピョートル→ニコライ→フェージカ、そそのかしたのは誰かによって意見が別れる所であろう。だが、ニコライはダーシャに、 「いいかい、ダーシャ、ぼくはこのごろよく幻覚を見るんだよ。きのうも小さな悪魔めが、橋の上で、レビャートキンとマリヤを殺して、正式の結婚になんぞけりをつけてしまえ、後ぐされのないようにしろ、とぼくに勧めるのさ」マリヤ殺しは、ニコライの中に真実味をおびていたのである。
 スタヴローギンに係る女性は、マリヤ、マリヤは子供がいたといっているが処女であり、正式な妻である。リーザは、ダーシャが私は最後までスタヴローギンの側に看護婦としていたいというのに対して、私は看護婦なんてごめんこうむるわときっぱり言う。シャートフの妻マリイ・シャトーヴアはパリでスタヴローギンと関係をもち男の子まで作った。
 スタヴローギンのダーシャへの手紙には、素直な気持ちを表わしているものである。ワルワーラ夫人は、スタヴローギンがダーシャに最後は救ってもらいたいという気持ちを先取りしていた。ステパン先生にダーシャとの結婚を押しつけるのは、スタヴローギンとダーシャの仲を裂こうとする意図があったと読めなくもない。 「付添い看護婦か!ふむ!……もっとも、おれに必要なのはそれなのかもしれん」
 ダーシャは言う、 「最後にはわたし一人があなたのおそばにのこることになるのがわかっていますから……それを待っているんです。」
ダーシャのスタヴローギンに対する愛情の方が勝っていたかもしれない。
 スタヴローギンの告白の中で、
 「ぼくは自分の心にだれを呼び入れようとも思わないし、だれを必要とも感じていません、ぼくひとりでやっていけるんです。」とあるが、ダーシャだけは別格だったのではないか。少なくとも、ダーシャに救いを見いだしたのではないか。チーホンに対してはどうかというと、ここでは決めかねる。
 スタヴローギンは自分に重荷をかしていた。「どうしてみなはぼくから、ほかのだれにも期待できないようなことを期待するんです?なんのためにぼくだけが、ほかの人間には耐えられぬようなことに耐え、ほかの人間には背負いきれないような重荷を背負わなければならないんです?」
 キリーロフは「ぼくは、きみが自分から重荷を求めているのだと思っていましたよ」という。
 シャートフにせめて生涯一度なりと人間の声で話してください。といわれたり、ワルワーラ夫人の目には魂のない?人形と映ったスタヴローギンだが、自分に重荷を課していた。この言葉は弱い言葉ではあるが、一つの肉声ではないだろうか。しかし、なぜ、また何にスタヴローギンが重荷をかしていたのかは、理解不十分である。スタヴローギンという名前は、ギリシャ語で「十字架」を意味するスタヴロフに由来しているという。単に十字架と照らし合わせたのではないが、重荷を背負うとはどういう意味をもっているのだろうか。
 『悪霊』のテーマ、ドストエフスキーは『悪霊』という作品の中で何がいいたかったのかという問題であるが、第三部の第七章ステパン氏の最後の放浪の中にある。
 「これはわがロシアそのままじゃありませんか。病人から出て豚にはいった悪霊ども―これは、何百年、何世紀もの間に、わが偉大な、愛すべき病人、つまりわがロシアに積りたまったあらゆる疾病、あらゆる病毒、あらゆる不浄、あらゆる悪霊、小鬼どもです!ソウ、コレコソ・ボクガ・ツネニアイシタ・ろしあデス。しかし偉大な思想と偉大な意志は、かの悪霊に憑かれて狂った男と同様、わがロシアをも覆い包むことでしょう。するとそれらの悪霊や、不浄や、上つらの膿みただれた汚らわしいものは・・自分から豚の中に入れてくれと懇願するようになるのです。いや、もうはいってしまったのかもしれません!それがわれわれです、われわれと、あの連中、それからぺトルーシャです・・ソレト・カレノ・ドウルイタチ。そしてぼくは、ひょっとしたら、その先頭を行く親玉かも知れない。そしてぼくらは、気が狂い、悪霊に憑かれて、崖から海へ飛びこみ、みんな溺れ死んでしまうのです。それがぼくらの行くべき道なんですよ。なぜって、ぼくらのできることといえば、せいぜいそれくらいだから。けれど病人は癒えて、《イエスの足もとにすわる》

 これを言いたいがために、ピョートルを筆頭とした五人組、リプーチン、ヴィルギンスキー、リャムシキン、トルカチェンコ、5人組ではないがエルケリによるシャートフ殺害事件を描いたのである。これはシガリョフ主義とともに、今のロシアにおいても現存する。ピョートルだけ逃げ、生き残ったが、後の歴史にみるようにピョートルは粛清されたのではないであろうか。
 スタヴローギンの肉声が響いてくるのは、ダーシャへの手紙とスタヴローギンの告白である。ダーシャへの手紙の中に、 「私はいまもって、いや、以前も常にそうだったのだが、善をなしたいという欲望をいだくことができ、そのことに満足感をおぼえる。と並んで悪をなしたいという欲望をもいだき、そのことにも満足感をおぼえる。」これはスタヴローギンのいつわざるをえない気持ちであろう。また、大地とのつながりを失った者は、自身の神をも失う、つまり、自身の目的のすべてを失うという。告白の中には、生きていくのが気が狂いそうなほど退屈なことであったといい、生きながら死んでいる、空虚な存在としての自我像が浮びあがってくる。
 ダーシャへの手紙、スタヴローギンの告白の中での文書、これは先に肉声と述べたが、二つとも活字になっているものである。真のスタヴローギンの肉声はチーホンとの対話の中にある。チーホンの所へ行けといったのはシャートフであり、チーホンはすでに彼がなんのためにやってきたかを予知していた。スタヴローギンは、夜になると、ある種の幻覚に悩まされ、時おり自分のそばに何か悪意に充ちた、嘲笑的な、しかも「理性をもった」存在を見たり、感じたりすることがある、それは「顔つきも性格もいろいろだが、正体はいつも同じで、それを見るとぼくはいつもいらいらする」とチーホンに告白し、「医者のところへ行ってみますよ」というように、スタヴローギンは自分の狂気をなおそうとしようとしたところがみえる。
 相反するようで、相反しないチーホンとスタヴローギンは、「実はですね、ぼく、あなたが大好きなんです」「私もあなたが好きですな」はたしてチーホンに救いをもとめに行ったのであろうか。
 マトリョーシャの問題であるが、マトリョーシャ凌辱においてはスタヴローギンに罪がなく、マトリョーシャが納屋で縊死する現場に立ちすぐんでいたことに対しては、悪の行為以外のなにものでもない。
 スタヴローギンの文書の基本思想は――罰を受けたいという恐ろしいばかりの、いつわらぬ心の欲求であり、十字架を負い、万人の眼前で罰を受けたいという欲求なのである。しかも、この十字架の欲求が生まれたのが、ほかでもない十字架を信じない人間のうちにであったこと。この思想を真に引き受けなければ『悪霊』の読者の救いもない。
 ペトラシェフスキー事件とネチャーエフ事件との関連については省いてしまったが、「読書会通信」において下原さんが、ネチャーエフについては細部にわたり掲載していただいた。ドストエフスキー自身は、1873年の「作家の日記」「現代的欺瞞の一つ」で、「いったいどうしてあなたがたは、ペトラシェフスキー主義者たちはネチャーエフ主義者になりえないと知っていられるのだろう。つまり、事態がそんなふうに進んだ場合、『ネチャーエフ的な』道をとることがありえないと、どうして知っていられるのだろう……。自分自身のことだけを語らせていただきたいが、わたしはネチャーエフには、たぶん、決してなれなかったにちがいない。だが、ネチャーエフ党の一員にならなかったとは保証できない……。わたしの青年時代だったら、大いにありえたかもしれない」と書いている。
 また、ドストエフスキーはポベドノースツェフの斡旋により、当時の皇太子、後のアレクサンドル三世に『悪霊』この作品を献呈している。皇太子は読後、作者はこの小説をどのような意図によって書いたのかという質問をしたのに対して、ドストエフスキーが1873年二月、その質問に答えた皇太子あての手紙があるという事実だけを記すことにとどめておくとする。



日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー(続編)
−「ドストエフスキー体験」をめぐる群像− 

(第15回)芦川進一著『「罪と罰」における復活』について
                                  
 福井勝也
 
 先日(3/15)の例会はこのところなかった程の盛況で、入場者のために臨時の椅子がいくつも追加される事態になってびっくりさせられた。その理由は、発表終了後に当日の報告者、芦川進一氏を取り囲んだ(縁者の)方々の人数でほぼはっきりしたが、全体の参加者数には昨年来の「ドストエフスキー・ブーム」の影響もあったのだろう。折から教育テレビでは、亀山郁夫氏の「悲劇のロシア」というドストエフスキーのシリーズが好評のうちに放映されていた。前回の読書会でも感じたことだが、今年になってからもおそらく「ブーム」は継続し広がりをみせている。
 そんな中での、芦川氏の発表は真に時宜を得た内容のものだったと思う。それは、別に近時の活況とタイミングが合ったから言うのではない。むしろ逆の意味で、地道にここ10年以上を費やされた研鑽が、近著の『「罪と罰」における復活―ドストエフスキーと聖書』(07.12/河合文化研究所)に結実し、その誠実で精緻な取り組みの成果を今回の報告で垣間見させてくださったことによる。氏の発表は、「ドストエフスキーとキリスト教―「復活」というテーマに如何にアプローチするか―」というもので、上記『罪と罰』論(全364頁)の著者の研究スタイルの一端を明らかにしてくださった。そのスタンスは、実に40年近く一貫したもので、キリスト教(聖書)研究と聖書を介してのドストエフスキー研究の両者を結びつける内容としておそらく他に類例がないものだろう。勿論、ドストエフスキーとキリスト教というテーマ設定自体はそれ程珍しくはないが、芦川氏のそれは「聖書」と同時に「ドストエフスキーの作品」を厳密に読む姿勢が<二つのテキスト>へのごまかしの無い方法(意識)によって貫かれていて、それがドストエフスキーの作品解釈の確実な成果となって現れて来ている。思うに「聖書研究」自体には、キリスト教文化圏で厳密に練り上げられた伝統的なメソッドがあって、おそらく近代以降の文学テキスト論も、結局はそこから派生した一分野なのだろう。その意味では、芦川氏のドストエフスキー研究の姿勢に含まれるある種厳密さは、文字通りオーソドックスな研究スタイルの流れにあるものかもしれない。しかし氏のめざすところが、一方で「聖書研究」のドクマティズムから従来的な聖書読みをドストエフスキー研究によって解放・更新するとともに、他方では教養主義的か信仰者の独善的な読みに傾斜しがちなドストエフスキーのキリスト教的作品解釈を文字通り聖書に即して正しく読み直してゆこうとする革新性にある点も見逃してはならない。このように考えると芦川氏の試みは、先人(例えば、小林秀雄)が試みつつ成し遂げなかったものでもあって、そのパイオニア的な研究を現代の日本人として実現しつつあることは注目すべき文化的事態のように思えてくる。
 その具体的成果である今回の『罪と罰』論の特徴は、ひとつには、『夏象冬記』から顕在化すると氏の説くドストエフスキーのキリスト教を『罪と罰』という作品のなかに厳密にあとづけてみせるものであった。その際、福音書のヨハネ黙示録が重要視されるのだが、そこからドストエフスキーのキリスト教思想家・黙示録的預言者としてのあり方とも真正面から向かい合ってゆくことになる。さらに新しい視点として、ラスコーリニコフの人間像をその物語前史としての婚約時代に遡って捉え直すことで、そのナポレオン思想を生みだすシルレル的側面とは別なものとして、彼の深層的人格像を「善きサマリア人」として解き明かしている。この辺は、ここ10年程の氏の研究の蓄積が集約的に現れてきている部分だろう。さらには、ドストエフスキーが『夏象冬記』において激しく開始した西欧文明に対する終末論的・黙示録的・預言者的批判の姿勢がラスコーリニコフの辿る精神のドラマの中にも深く嵌め込まれていることも合わせて指摘されてゆく。ここでは一見して学究的でスタティックな本著の内容が、9.11テロ事件への氏の熱い言及(「おわりに」)と隣合わせになっていて、バ−ル神の支配がいよいよグロ−バリズム化して世界を覆う危機的な世界状況への鋭い現代的告発を孕んでいることも理解される。この点で芦川氏の「ドストエフスキー論」は、その方法のある種ストイックな厳密さとそれを導き出しているラディカルさが踵を接している現代性にも注意を払うべきだろう。これはもしかすると、「聖書」が根本的に孕む過剰さ(「ラディカリズム」)であって、それがドストエフスキーのテキストにも流れ込んでいて、芦川氏はそのことに忠実に反応しているのかもしれない。さらに氏の『罪と罰』論で注目させられたのは、そのテキスト解釈の骨格を支える説明根拠に江川卓氏の著作から引用されてくる<ヴェルテップ>劇という演劇的仕掛けの問題だ。これはまず、ラスコーリニコフのトータルな精神の説明概念として利用され、同時に『罪と罰』と言う小説全体を聖書との関連で解き明かす説明装置(キイワード)として本著にあって重要な機能を果たしている。以下その部分に触れた件を引用しておく。
 「ロシア、特にウクライナには上下二段に設けられた舞台で<聖>と<俗>の両面からドラマを同時進行させる、いわゆる<ヴェルテップ>劇と呼ばれる人形芝居が存在していた(『ドストエフスキー』江川卓、岩波新書、1984)。ラスコーリニコフのドラマもまた、この<ヴェルテップ>劇の二重構造の視点から眺める時、そこにドストエフスキイが込めた<聖>と<俗>の重層的な在り方が明瞭になるであろう。」 ―中略―
 「ラスコーリニコフの辿る精神のドラマは、その当人が自覚的に演じるドラマと共にそれと平行して深く聖書的磁場を宿しつつ進行している。我々はこの二重に進行するドラマに着目して初めてドストエフスキイが『罪と罰』で描こうとしたことの全貌と距離感をもってアプローチすることが出来るであろう。」(同著、第3章、p106)
 芦川氏の今回の『罪と罰』論は、そのタイトルの通り、第2部の第4章の「ラザロの復活」とソーニャ、第5章のスヴィドリガイロフ、第6章のラスコーリニコフでそれぞれに語られる結局はその「復活」に焦点があてられてゆく。ここでは、「いかさまカルタ師」と呼ばれるスヴィドリガイロフにその裁きとともにその「復活」が語られてゆくことも特筆すべきだろう。しかし何よりもソーニャの信仰の在り方の問題を焦点にしながら、ラスコーリニコフがソーニャとの関係で「ラザロの復活」の章を経て、エピローグの最後に至る過程で(二人が)どのように「復活」を遂げてゆくのかがポイントとなってくる。この点では、当日司会を務めさせていただきながら、自らあえて途中<愚問>を呈することになった。それは、芦川氏が著書のなかで否定しておられる、ラスコーリニコフを「悔恨のない復活者」として規定する立場からの質問であった。芦川氏も本著で指摘するとおり、ラスコーリニコフが枕元に置かれたソーニャの福音書を手にしようとするのは、小説の最後の一頁のところであった。これまでの多くのテキスト解釈(理解)からしても、「福音書」にやっと向かい始めたラスコーリニコフに<罪を悔いる感情>をこの小説内で期待するのは無理な話ではないかと考えたからであった。ラスコーリニコフ像としても、「悔恨のない復活者」という理解の仕方の方がより現代的なものではないかと考えるがどうかという意味を込めていた。この点で、芦川氏はまず著書において次のように答えている。
 「ラスコーリニコフを<悔恨のない復活者>として規定する立場は、悔恨とか復活というものを必要以上に固定化し、あるいは理想化しすぎていると言えないだろうか。―中略―そして悔恨も復活も生きた時間の中にある。その時間に人が自らを曝し託しきることのできるところに悔恨も復活もあるのであろう。腫瘍の例を再び用いるならば、腫瘍は見事に摘出された。しかし肉体と精神の完全な癒しが訪れ、人が再び立ち上がるまではなお相当な時間が必要なのだ」(同著、第6章 ラスコーリニコフ、p283)。
  さらにまた、当日の自分の<愚問>に対しては先に触れた『罪と罰』という小説の<ヴェルテップ>劇の二重構造を根拠に応答された。すなわち、ラスコーリニコフ自身が自覚的に演じるドラマの次元では解きえない部分はそれと平行して深く進行している<聖書的磁場>に置いて考えることで別な解釈が可能になってくるだろうと。ここから先の解釈にあたっては、読者にその先が委ねられていることが著書でも指摘されている。そしてその解釈の導き手となるものが、「ヨハネ黙示録」「ラザロの復」「荒野の問答」等に現れたラスコーリニコフにおける<聖書的磁場>ということになる。この限りで、芦川氏はラスコーリニコフを「悔恨のない復活者」として断定する立場を否定し、ゆるやかな意味での<悔恨>とか<復活>がラスコーリニコフに開始されていると考える立場を取っておられるものと理解した。かつて自著(『ドストエフスキーとポストモダン』01.1)でも、この点に触れた箇所があり、『罪と罰』論に止まらぬ現代のドストエフスキー論の一つの試金石となる重要な議論だと思われる。もう少し、別な角度から議論をとりあげてみたいと思う。
 ただし今回は紙面が尽きたのでここで止めるが、実はこのラスコーリニコフの復活論をめぐっての議論を材料に、もう少し広く現代のドストエフスキー論を系譜について考えてみたいと思い始めている。その流れの出発点が芦川氏もその『罪と罰』論で引用した<ヴェルテップ>劇を最初に指摘した江川卓氏であることは明らかだろう。いわば氏の「謎解き『罪と罰』」(1986.2)に始まる<江川ドストエフスキー論>の在り方とどういうスタンスをとるかによって現在の論者の姿勢も微妙に変わってきているように思える。折から、清水正が「鼎談ドストエフスキー」を復刻(『ドストエフスキー曼荼羅』別冊、08.1.20)され、「謎解き『罪と罰』」発刊の同年秋に行われた小沼文彦氏を含む鼎談(86.11)を紹介されている。読ませて頂いて貴重な資料だと感じたが、芦川進一氏も今回の報告途中で、江川卓氏のことを自分の(聖書研究の立場からの)ドストエフスキー論のきっかけを与えてくれた師の一人として言及されたのが耳に残った。しかしながら、芦川氏が至った現在の聖書解釈をベースとするドストエフスキー論が、江川氏の「謎解き」のスタイルとは明らかに異なる地点にあることも明らかだろう。この点では、「反面教師」という言葉すら頭に浮かんでくる。さらには、例えば清水正氏の『ウラ読みドストエフスキー』(06.6)(この著作は『ドストエフスキーの暗号』(94.4)が絶版のため再録されたものであるが)を、芦川氏の近著とほぼ同時期に併読する機会を得たのだが、清水氏が間違いなく江川氏の系譜の研究者だと再確認させられた。またその際『ウラ読みドストエフスキー』という著書が、芦川氏のそれとは明らかに異なる意味でだが、そのレベルの高さに改めて感心させられた。ここに、今話題の亀山郁夫氏というドストエフスキー論者の近著(「悲劇のロシア−ドストエフスキーからショスターコヴィチへ−)(08.2)を関係させてみたら何が見えてくるだろう。例えば、三人が三様にラスコーリニコフの復活について語っているわけだが、そこに江川卓氏の影も微妙に見えていることも指摘できよう。亀山郁夫氏の研究スタイルもおそらく、江川卓氏の(直系的な)流れのなかに位置づけられよう。何も自分はここで、研究者(学者)の流派論を展開しようとするつもりはさらさらない。むしろ、蛸壺的な感が無きにしもあらずの現在のドストエフスキー論に少しでも風通しの良い雰囲気を作る必要性を昨今感じているからでもある。「文学論」とは元来そのようなものであって然るべきで、大いに議論をすべきところはオープンにやるべきだろう。元来我々の「会」は、そのような世界とは無縁であるわけであってみれば、今更に無用なことを書いているような気もしてくるが。何か変な物言いの最後なってしまったが、次の連載にどうにか繋げたいと思う。 (2008.3.30)



ハイデッガーとダスタィエーフスキィ
                    
後藤基明

 ギリシャ語のフュシス(自然)は、動詞フュエスタイから派生したものであり、これは、なる・生える・生じる・生成するという意味をもつ。ギリシャの古い時代の思想家たち(前六―五世紀)が、もの皆すべてをフュシスとして見たのは、万物が自分のうちに生成の原理をもち、生き生きとした命とともに自ずから生成し、自ずから消えてゆくという見方をしていたからだ。その場合、「ある」ということは「なる」の意味に捉えていた。つまり、存在=生成として。そこで彼らにとっての思索はまさにこの存在がなんであるかを究めることに向けられていて、すべての存在者をそのようにあらしめている存在のことが問題なのであった。従って、物質的自然の構成の探求といった稚拙な自然科学的研究に没頭していたわけではなかった。 
 時代はかわり、イデヤ論をとなえる学者があらわれた。イデヤとはなにか。それは生成もしなければ消滅もしない、変化もしなければ運動もしない、不成・不滅・不変・不動のものであり、現実を超えたところにあるもので、超自然的な原理であった。これはまさしく生々流転する自然を超えてたてられた超自然的、つまり形而上学的原理にほかならない。そうなると、自然はイデヤに由来するエイドス(形相)によって形成される単なる素材、つまりそれ自身のうちにはいかなる生成の力ももたない無機的なヒユレー(資料)に貶められた。ギリシヤ語のヒユレーはラテン語ではマテーリアと訳された。つまり、フユシスが単なる質料としての物・物質となってしまう。形而上学的思考は、物質的自然観と連動していたのだ。ここでは、「ある」ということは「つくられてある」ということになる。
 蓋し、時代が経ってもこのイデヤ論は一貫して次々と受け継がれていった。即ち二番手はそれを純粋形相として、中世のキリスト教神学では人格神として、更に近代に入ると、理性(「我々日本人が考えるものとは、まるっきり異なるもので、それは神の派出所みたいなもの」とは、今を時めく画期的な学者の弁)などというものに。
 呼び名は変わっても、その思考形式だけは引き継がれていったのだ。そしてその思考形式の下では、いやがうえにも物質的・無機質的自然観が付き纏う。結局、こういう自然観の上に立って少なくとも近代以降の西欧文化が形成されてきたのである。このように説くのが、当の二十世紀最大の思想家だ。彼はこうした物質文明を生み出した西欧文化、そしてそれがますます肥大化し、行き詰まりを呈している現状に対して、これは元々どこかが間違っていたのではないのか、どこかがおかしい、という批判、反省がなされたのであった。
 このことはまた、当の思想家よりも四十五歳上の先輩である著名な古典文献学者が、先見の目をもって、あのフユシス観、つまり生成するものとして見る自然観の復権を試みていたことに目を付け、それを足場にして形而上学的思考様式やそれに連動する物質的自然観を克服しょうと一層試みたのであった。彼はこのことを<存在の回想>と述べている。つまり、形而上学的思考によって蔽い隠された原初の<存在>へ想いを返そうするものであった。 
 扠、当の思想家としては、フュシス観として考察されるが、我々の奥が深く、読み尽くせない作家については、やはり私も<自然感>ということで一考してみたい。 
 先ず、著書から生の自然感として挙げられるもの。例えば、斜めにさす夕日の光、静かな墓場の空気や緑の木立、茸や野いちごのある森、驢馬の啼き声などである。これらは、生の歓びから隔絶された者が蘇生を求めて、いのちの源である自然に憬れてやまないものである。一方、死の自然感としては、耐え難い虚無感を押し付けてくる生命のない巨大な機械としての自然。無意味に永劫に反復し続ける自然といったものである。しかし、一方が一方に分けられるというわけでもなく、両者が同一人物のなかで、交じり合い、交錯しあい入れ替わるということがしばしば見られる。
 さらに特異な例としては、あの横たわるキリストの死体の絵画を観て、「自然の法則はかくも強力なものだとすれば、どうしてそれに打ち勝てることができようか」と叫ばずにはおれなかった、あの二週間の命と宣告されたTBの青年だろう。
 ここには、奇妙に見えるほどに、自然科学の示す世界像・宇宙像を嫌悪し、正確な法則によって運行される宇宙のメカニズムを恐れ、死からの復活、あのキリストの復活を身に帯びて感じることを切に願わずにおれなかった我々の作家の態度が窺われる。(このことについては別の稿で改めて述べてみたい)
 更にまた、小英雄としての少年のことが思い出される。彼はモスクワ河の対岸の村や森を眺めているうちに、何か甘美な静けさのようなものの中へ吸い込まれてゆき、目から涙をこぼす。少年は目映い自然との合一の歓びを体験する。自然が自分の本性とつらなりうるものであるならば、暗い独房から脱することができるというのだ。これと全く対称的なのは、あの弱い心の若者がネワ河の向こうに拡がる町と空を見つめているうちに、どうしたことか、わなわなと震え出し、すっかり陰気な人間にかわってしまったというものだ。
 我々の作家の著書から、登場人物たちが自然に対して、ただ観念的ではなく、鋭敏で濃厚な感覚、感情、気分といったものをもって、主体的にかかわる多くの例は、読者にある暗示を与えているのではないのか。
 さらに、作家が科学万能主義、あるいは唯物的科学的世界観とそれに伴い著しく発展する工業文明を悪、怪獣とみなして嫌ったことは、今にして思えば現代の科学技術の発達によって、一段と齎される自然破壊・環境破壊に繋がることを既に百数十年も前に指摘していたのではなかったか、と思う。
 冒頭で「存在者(もの皆すべて)を存在者あらしめている存在」と述べた。ところで存在とはなにか。存在とは存在者では決してない。存在者を存在者あらしめるものであるから、それ自体一個の存在者であるわけがない。従って、存在を存在者のなかに探し求めても徒労に終わってしまう。「存在忘却や故郷喪失」という言葉を思い起こす。当の思想家は、次のように指摘している。「存在忘却は、存在者に対する存在の区別の忘却であり、これは決して思索の忘れっぽさではなく、存在の忘却はこの忘却そのものによって包み隠されている」と。
 ともあれ、存在とは先に述べたフュスタイ、つまり例えば植物を芽生えさせ、花咲かせ、生成させる目には見えない、はかりしれない大いなるもの力、働きといったものであるとしか言いようがない。このように、存在についての思索は、「蒸発する煙」を掴むように無理難題なことだ。(だから「存在と時間」の著書は未完に終わったのだろう)そこで、当の思想家は、思索(デンケン)とともに詩作(ディヒテン)の活動を進めたのだ。詩作とは必ずしも詩を作ることではなく、存在に応答する生き方を指す。存在者としての人間は木や石、鳥などと同様に自然のなかに組み入れられてはいるが、現存在(人間)だけが存在に向うことができ、関わることができ、現にすることができるからだ。
 我々の作家は、ある書簡の中で「私は哲学は駄目だった云々」と語っているが、それでいいのだ。というのも、思弁的ではなく、感じるにかけては強さと広さと深さをもっており、イメージで考え、観念をそれぞれの個体によって生かし、いのちを与える作家としての力量は侮りがたいものをもっているからだ。ある種の心眼をもった芸術家とも言えるだろう。といって、別にやたらと崇め奉るつもりはないが。 
 例えば、自然との感応同交や入我我入をはかるためには、当の思想家の自然観とともに我々の作家の自然感もぜひとも必要なのだ。作家と弛まず取り組まねばならない。




2008年ドストエフスキー書誌


提供者からのお願い 

 ドストエフスキーに関する情報は、現在、「朝日新聞」「北海道新聞」「山梨日日新聞」「しんぶん赤旗」「週刊読書人」「図書新聞」などから入手しています。が、これ以外の新聞・雑誌などで気付いた方は、是非お知らせください。ドストエフスキー関連記事をマスメディアにおいて全てを網羅するのは困難になってきています。よろしくお願いします。【ド翁文庫・佐藤徹夫】(連絡先は「編集室」からお知らせします) 

<作品・翻訳>

・鰐 パッサージュにおける突拍子もない出来事/米川正夫訳
    『諸国物語 Stories from the World』 ポプラクリエイティブ
     ネットワーク編 ポプラ社 2008年2月5日 ¥6600
     1149+2p 22.6cm: p449−531

<研究論文>

・ドストエフスキー 1821?1881 p183−193
    『人生論からのメッセージ いかに生きるべきか、真理とは何か』
     金森誠也著 PHP研究所 2007年11月29日 ¥1400
     275+2p 19cm
・第4章 人が活かされ、成果が出る「仕事の哲学」 
     19 <近ごろの若者>につけるクスリ 『地下室の手記』
       ドストエフスキー p154−159
    『名著の底ヂカラ たった10分で、ビジネス・人生に効く!』
     本田有明著 幸福の科学出版 2007年12月27日 ¥1400
     261p 18.8cm
・『日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー 「ドストエフスキー体験
  という問題に触れて』 福井勝也著 のべる出版(発売:コスモヒルズ)
  2008年2月10日 ¥1400 179p 19.5cm
・補講 II 私が決める世界十大小説
    その八 『罪と罰』 ドストエフスキー著 一八六六年 p131−134
    『早わかり世界の文学 パスティーシュ読書術』 清水義範著
     筑摩書房 2008年3月10日 ¥680 197p 17.3cm
     <ちくま新書・712>
*さし絵: 「罪と罰」 ドストエフスキー p50−51
    『ヘッセの夜 カミュの朝』 ささめやゆき著 集英社 2008年3月10日
     ¥3000 85+1p 22.6cm
     *初出:「すばる」1998.1月号〜2005.12月号の表紙絵

<新聞>

・<文化> 『カラマーゾフの兄弟』と『赤と黒』をめぐって 亀山郁夫・野崎歓
  両氏が語り合う 来月8日、東京・毎日ホールで
    「毎日新聞」 2008年1月19日 夕刊 p4
・<今週の本棚> この人・この3冊 中村文則選
  ドストエフスキー @地下室の手記 A悪霊 上下 Bカラマーゾフの兄弟 上中下
    「毎日新聞」 2008年3月9日 p9



広 場

★読売・日本テレビ文化センター春の講座 「涙と笑いの名作劇場」宮沢賢治から大江健三郎まで
会期:2008年4月〜6月
会場:北千住駅ビル9階「ルミネ」第1・3金曜日10:30〜12:00 
会費:3ヶ月14490円
4月4日〜1日体験可(2570円、要予約) 03-3870-2061

プログラム
4/4 「ドストエフスキー、人間の心の中は神と悪魔の戦場だ」講師・清水正(日芸教授)
4/18 「世界級の不思議作家、天才か変人か」講師・清水正(日芸教授)
5/16 「夏目漱石、坊ちゃんは女嫌い?」講師・山下聖美(日芸専任講師)
5/30(第5)「本当はしたたかだった明治の女」講師・山下聖美(日芸専任講師)
6/6 「小林秀雄、色男の苦悩、三角関係の果てに」講師・山崎行太郎(日芸講師)
6/20「大江健三郎、ノーベル賞作家の知られざる真実」講師・山崎行太郎(日芸講師)


★文芸漫談 いとうせいこう × 奥泉光「ドストエフスキー『地下室の手記』」
日時:2008年4月26日(土)18:30開場 19:00開演 2000円
会場・「北沢タウンホール」小田急線・京王井の頭線「下北沢」駅南口下車徒歩5分
03-5478-8006 チケット予約は、K・企画 03-3419-6318



近 刊

『日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー』
福井勝也著   のべる出版企画 2008.1.10  定価1400

『「罪と罰」における復活』―ドストエフスキイと聖書―
芦川進一著  河合文化教育研究所・河合出版  2007.12.5 定価4500+税

『鈴木先生4』
武富健治画・文
第11回文化庁メディア芸術祭優秀賞受賞!


掲示板

★レポーター募集
 2008年もひきつづき大作をとりあげます。レポーターを希望される方は、お申し出ください。作品は『未成年』『カラマーゾフの兄弟』などです。これまでに申し込まれている方は以下の通りです。
○高橋誠一郎さんが8月読書会の暑気払い講演で「『悪霊』について」が決まっています。
○長野 正さんが『カラマーゾフの兄弟』第一回目報告を予定。
これら作品は2〜4回の報告を計画しています。奮ってお申し込みください。
4サイクル残作品=長編『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』。『作家の日記』の中の短篇作品も。

★『広場』販売
○ドストエーフスキイの会の最新会誌「ドストエーフスキイ広場No.16」が発売中です。ご希望の方は「読書会通信」編集室まで 定価1000円 バックナンバーもあります。
○『江古田文学』66号「団塊世代が読むドストエフスキー」800円
○『江古田文学』62号「チェーホフの現在」800円
※『鼎談ドストエフスキー』『ドストエフスキー曼荼羅』(清水正編集)は無料
            
○ 年6回発行の「読書会通信」は、皆様のご支援でつづいております。ご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です)
郵便口座名・「読書会通信」    口座番号・00160-0-48024 
  
○2008年1月1日〜3月31日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりまして厚くお礼申し上げます。

○付録「2006〜2007年ドストエフスキー書誌一覧」ご希望の方は、お申し出ください。

○ドストエーフスキイ作品の感想、評論、自著の宣伝、映画、演劇評、自身のドストエフスキー体験など、かまいません原稿をお送りください。
「読書会通信」編集室:〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方