ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.105 発行:2007.12.7
第224回12月読書会のお知らせ
ご注意!! ☆12月読書会は、都合で第三土曜日の開催です。時間は、通常の午後です。お間違えのないようにお願いします!
12月読書会は、下記の要領で開きます。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。
月 日 : 2007年12月15日(土)
場 所 : 東京芸術劇場小7会議室(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分
開 始 : 午後2時00分 〜 4時45分
演 題 : ドストエーフスキイ咬交円錐的世界(イェイツとバフチンから)
報告者 : 北岡 淳也氏
会 費 : 1000円(学生500円)
◎ 終了後は、親睦会(二次会)を開きます。
会 場 : 近くの居酒屋 JR池袋駅西口周辺
時 間 : 夜5時10分 〜
◎ 12月読書会の二次会は、2007年の忘年会を兼ねます。
12・15読書会について
12月読書会は、北岡淳氏によるドストエフスキー論の報告を行います。今年はじめの計画では、今年中に『悪霊』第1回目に入る予定でしたが、8月暑気払い読書会に通常の『白痴』3回目を行ったことから、今回はその繰り替えとして北岡氏の報告を組み込みました。2006年4月読書会で亀山郁夫氏が講演されましたが、それ以来の報告となります。北岡氏は、読書会に参加くださっている古くからの会員です。中国墨画、占星術など多趣味でもあります。この「読書会通信」にもラスコーリニコフのオノなど斬新な技法の画を掲載くださいました。広い知識を駆使しての報告。咬交円錐的世界とは何か。楽しみです。
ドストエーフスキイ、その咬交円錐的世界 ―― イェイツとバフチンから ――
北岡 淳也
(一)
三者のうち、イェイツについて簡単に述べておきたい。イェイツは1868年、ダブリン生まれのアイルランド詩人、私は彼の簡潔な詩が好きで時折読んでいたが、彼の「ヴィジョン」を手にしたのは退職する年の初め頃だった。冬の夜おそく、幾何学的な図形が出てくるページを眺め、「大輪車」の章にムイシュキンとドストエーフスキイの名前を見い出した。イェイツはムイシュキンを月暦の八相、ドストエーフスキイを月暦22相に割りふっていた。各月相には歴史的実在の人物が配置されているにもかかわらず、フィクションの主人公を一つの月相を代表する人物として配置している。もしフィクションのなかの人物をもちいるなら、典型的なハムレット、ドン・ファン、ファウストをも「大輪」でとりあげてもいい。あるいは、イワン・スタヴローギンを。
イェイツはドストエーフスキイとムイシュキンを重要なハーフ・ムーンの相に割りふっている。その垂直軸と交差する水平軸の左、第一相はスフィンクス、仏陀、第十五相はキリストである。それは新月と満月にあたるのだ。
22相
1相 15相
8相
8相は上弦、22相は下弦の月。ドストエーフスキイとムイシュキンにイェイツは何故か注目していた。占いめいた月暦についてはこの辺にとどめイェイツはドストエーフスキイと共通の文学的テーマとして、『分身』について秘教主義的に探求している。D・E・D・I(デモン・エスト・デウス・インウエルヌス)は「黄金の夜明け」結社におけるイェイツの名である。悪魔は転倒した神であるという意味で、イェイツ25歳、青年の気負いが見られるが、観念的に他者(反自我)をつくり出すことで、精神の運動が始まろうとしている。後に、彼の対話詩に登場する『分身』、マイケル・ロバーツとオーエン・アハーンである。
ところで、「黄金の夜明け」が1844年、ロンドンでウエスコット、ウッドマンによって結成されたとき、イェイツはメイザースらとともに入会している。「薔薇十字結社」の流れをひきつぐという主旨を掲げ、エリファス・レヴィの近代的秘教主義を研究する会であった。
エリファス・レヴィはその前身をルイ・コンスタンといい、カトリックの神学生であり革命家であった。ルイ・コンスタンは48年の革命挫折後、ユダヤ教に改宗し、名をエリファス・レヴィと改めたのだ。この人物の秘密主義体系(ヘルメス思想、グノーシス思想、カバラ、東方の異教)を研究し、その修業法、儀式を実践するのである。この分野は精神の腐敗、堕落に結びつく危険性があるのだが、イェイツは真剣に取りくんだといわれる。反、自我を設定することで自我に対話性を導入し、反自我(悪魔)によって「自我の仮面性」を暴くのである。
他方、ドストエーフスキイは48年の思想の影響から、「ペトラシェフスキー会」「ドゥーロフ会」でサン、シモン、フーリエ、カペーの著作に接した。ことによるとルイ・コンスタンの名前くらいは同時代人として聞き知っていたかもしれない。
このように移り変わる時代の思想はさておき、ドストエーフスキイが作家としては『分身』に没頭していたことが興味深い。『分身』に関しては多くの議論がなされているが、『分身』の内奥にひそむあるかたちについて射照した論考は皆無であるといえる。
ドストエーフスキイの『分身』、イェイツの「分身」(反自我)、そして記号論学者、バフケンの「分身」分析、作家、文芸学者の三人を並べて、何がわかったのか、何かがわかったから批評を書く気になったのだが、私のわかりかたについて書き添えておく。
一、全体を直観的に把握する。
二、部分にわけ、分析し、整理する。
誰でもそうだろうが、一は本質を捉える。二は現象を捉える。一は自分独自の素早いわかりかた、二は努力して読む者に対して説得力をもつ。
(二)
「ヴィジョン」には多くの図式がページごとに繰出されているが、その基本形はニコラス・クザーヌス(1401−1488)の咬交円錐である。二つの円錐の底辺を統一と他者性として、対立する他のすべてがそこに含まれ、上昇と下降、進化と退化はひとつであり、同一のものである。一方の前進は他方の後退を示している。
咬交円錐の形式によれば、神と空虚、光と闇、可能性と現実、普遍と特殊、男性と女性を議論しえるのだ。ニコラス・クザヌスはそれ故、ヘルメス思想に理論体系を与えたといわれている。この咬交円錐はベルガモンの数学者アポロニウスの二重円錐を神学に適用したものであるとはあきらかである。ともあれ、彼はルネッサンス期のフィチーノ、ブルーノ、ミランドラ、そしてベーメに影響を与えている。全体を捉えるには、両極を統合する考え方を編み出さなくてはならない。ニコラス、クザーヌスはヘーゲルに影響を与え、弁証法の発展に寄与している。
イェイツがもちいた咬交円錐形はその横断面であるが、統一性の側をプライマリーとしてキリスト教的規律と服従を、他者性の側をアンティセティカルとして、ギリシャ、自由を、前者に創造と運命を、後者に意志と仮面を充当する。ハーフ、ムーンにあたる8相では意志と運命によって力の発見を、22相では創造と仮面によって力の崩壊を見い出す。8相は闘い、22相は悲劇の相であり、前者は個性を発見しようとし、後者はそれを喪失しようとする。
ベルガモンのアポロニウス、ニコラス、クザーヌスの咬交円錐をもちいて、イェイツは黄道12宮と28月相を凸面鏡と凹面鏡に重ねあわせるように用いて、紀元前2000年から20世紀までの文明史、思想史、芸術史、人間類型学として語るのだが、この図式をドストエーフスキイの信仰信条に適用すると、他者性の側に「不信と懐疑の子」を割り振ることができる。
そこで主な作品に対して、その主人公達を分類すると、「分身」はゴリャートキンの「騎士である」という気位の高い人物に対し、きわめて狡知にたけた要領のいい人物、新ゴリャートキンを対蹠点に、対抗的(アンティセティカル)に配置する。『地下室の手記』の無名氏は対話化されたモノローグの内容から見て、あらゆるアンティセティカルな人物の光源というべき存在である。『罪と罰』のラスコルニコフは肉体をもつに至ったが生活をもたない。「非凡人」
の観念によって明確に反定立的人物である。その分身はルージン、レベジャトニコフ、スヴィドリガイリョフである。ソーニャとポリフィーリーはプライマリー(本源的)な人物に分類できる。『白痴』の主人公ムイシュキンはドン・キ・ホーテの血脈を受けついで、プライマリーである。ムイシュキンの反自我、分身はロゴージンだが、イッポリートもムイシュキンの自我に対するアンティセティカル(対抗性)である。
『悪霊』では対抗的人物としてスターヴローギンが登場する。この人物にはこれまでの主人公が統合されている。その多面性に対して、小ぶりな分身がくっきり対置されている。キリーロフ、シャートフ、ピョートルである。仮面のようなと形容されるその仮面には、あらゆる要素が集中している。チーホンはプライマリーである。
『カラマーゾフの兄弟』では、対抗性の人物の中心としてイワンが登場する。彼に対してラキーチン、スメルジャコフが分身としてあらわれる。ゾシマ、アリョーシャはプライマリーな人物といえるだろう。分身はプライマリーに対して対抗性としてあらわれるばかりではなく、対抗的な人物の傍らにこそ多くあらわれる。このことは円錐形を咬交させて描けば、二つの円錐体は四つの円錐としてあらわれることからも理解しえる。
対抗性の人物があたかも本源的な存在であるかのように錯覚させる場面、たとえばスターヴローギンと三人の分身の対話、イワンとスメルジャコフの対話などでは、作品世界はカオス状態、渦巻状の世界へ暗いひろがりを見せる。それに対して本源的な人物と対抗的な主人公との間には、明暗の均衡が見られる。本源的な人物と本源的な人物との対話では、全一性、球体の回復、永遠性、魂のユートピアがあらわれる。しかしそこでバフチンの言う対話は終わる。
(三)
バフチンは『ドストエーフスキイの詩学』で、古代古典文学における対話に関する特質を五つあげている。(P244〜248)それを列挙すると
シンクリシス(信仰対不信仰、謙譲対倨傲)
アナクリシス(撞着結合、思想家にして犯罪者、娼婦にして義人)
ディアトリベー(不在の話し相手との談話)
ソリロキウム(自己との対話、自己イメージの外皮を打ちくだく)
シンポシオン(宴席における対話、純粋にカーニバル的なジャンル)
思考法上の方法であるが、シンクリシス、アナクリシスは対話によって内なるものを外へ、ディアトリベー、ソリロキウムは内へ向かう対話に関係する。バフチンは古代古典文学のジャンル、メニツペアとカーニバルはドストエーフスキイの『ボボーグ』と『おかしな男の夢』にあたり、二つの短篇は彼の文学世界の基底をなしていると説く。
ところで私がバフチンの論考とイェイツの咬交円錐を結びつけたのは、『詩学』(P103)の以下の文に出会ったからである。
「主人公の現実のみではなく、彼を取り巻く外的世界や風俗も、この自意識のプロセスに導入され、作者の視野から主人公の視野へと移し換えられる。…中略…具象世界のすべてを自らに取り込む主人公の自意識と同じ平面にあって、それと並んで存在し得るものは別のもう一つの意識のみであり、彼の視野に対しては別のもうひとつの視野が、彼の世界への視点に対しては別のもう一つの視点が、それぞれ併置できるのみである。…略…」(傍線は筆者)そして、別の引用文、「ドストエーフスキイの長編ではあらゆるものが中心点としての対話へと、対話的対立へと収斂する。そこではすべてが手段であり、対話が目的なのである。一つの声は何も終わらせないし、何も解決しない。二つの声が生の最小単位であり、存在の最小単位なのだ。」(P528)対話、人物配置についてバフチンが析出した自我のかたちがニコラス・クザーヌスの咬交円錐と重なったのはこの指摘に出会った時だった。
「詩学」(P105)では、〈夢想家〉〈地下室の人間〉〈偶然の家族〉の人々は、「肉としての存在になりきっていない、なりえない」人々であり、生活する人間としてではなく、意識と夢想の主体として存在している」と指摘している。「人間の内には、本人だけが自由な自意
識と言葉という行為をもって解明することのできる何ものかが存在しており、それは人間の外側だけを見た本人不在の定義ではけっして捉えきれないものである」というが、その捉えきれないものに挑むのが、ディアトリベーとソリロキウムであろう。不在のものへの問いかけ、あるいは「人間の内なる人間」、内なる自己へ向かう対話性である。『地下室の手記』にこの手法は顕著である。そしてこのような思考法はグノーシス主義の核心をなしている。
ところで、バフチンの注目すべき点は、主人公全員に、ムイシュキン、アリョーシャにも特徴的な二重思想を認めていることである。「詩学」(P517)では、「一方の思想、それは公然とした、発話の内容を規定する思想であり、もう一つの思想、それは隠然とした、それにもかかわらず発話の構造を想定し、そこに自分の影を投げかける思想である。」と説き、「詩学」(P538)では、「二つの分裂した声(少なくとも一つの声は分裂している)なのだ。一方の声の開かれた応答が、他方の声の隠された応答に答えているのである。一人の主人公に対して、それぞれ第一の主人公の内的対話の正反対の応答に結びついているような二人の主人公を対置させること」。
「詩学」(P180)で、「イデエとは、二つもしくはいくつかの意識が対話的に出会う一点で展開される。生々しい出来事である。イデエとは間個人的、間主観的である」と述べている。
バフチンの「対話」に対する考え方は、これまでの引用から充分捉えることができる。「対話」に入るとき、分身関係になるといってよいだろう。「対話」によって「人間の内なる人間」が射照され、「対話」によって生き生きとしたイデエに迫るということなのだ。何故このように「対話」へと向かうのかというと、A=Aでないということによる。つまり、シンクリシス、アナクリシスでいう矛盾撞着を解決しなくてはならないからだろう。
しかし、解決などあろうはずもなく、「対話」は未完結、未決着に終わるのだ。「我々は二つの存在で、こうして出会ったんです。無限の中で…この世で最終的にね。いつもの態度は捨てて、人間的な態度をとって下さいよ!せめて一度くらいは人間的な声で話して下さい」「詩学」(P357)(シャートフがスタヴローギンに言った言葉)ということになる。
(四)
バフチンは「他者の言葉」についてメタ言語学的に「詩学」(P401−402)で述べている。Uの一、二については一、一方向性の複声的な言葉、二、多方向性の複声的な言葉をあげ、客体性が低下すると、一については二つの声の融合、すなわち第一タイプの言葉につづく。二、客体性が低下し、他者の思想が活性化すると、内的に対話化され、第一タイプの二つの言葉(二つの声)に分裂する。
バフチンの分類では、「他者の声」とは、他者の言葉への志向性をもった言葉におけるVの三、能動的タイプ(投影された他者の言葉)にあたる。
a.隠された内的論争
b.論争的色彩を施された自伝、告白
c.他者の言葉を意識する言葉
d.対談の応答
e.隠された対話
棒線の部分はa−eの分類にあたるが、これは咬交円錐で捉えることができる。「他者の言葉」が発生する領域を視覚化すると、(別紙レジメ)
「小説の言葉」の「小説における話者」(P.170)で、バフチンは「他者の言葉」の理解にとって欠かせない解りやすい説明をしている。
「他者の言葉との鋭く緊張した相互作用は、彼の小説において二重の構造を持っている。まず、登場人物たちのことばにおいては、他者の言葉との解放され難い深い葛藤が、生活レヴェルにおいて(私についての他者の言葉)生活上の倫理のレヴェルにおいて(他者による裁定、他者による是認および否認)、そして最後にイデオロギー的レヴェルにおいて与えられる
(未完結であり、また完結されていない対話としての主人公たちの世界観)。ドストエーフス
キイの主人公たちの言表は、生活とイデオロギー的創造の全領域における他者の言葉との果し
ない闘争の舞台である」(棒線ー筆者)
一と二はとりわけ、『貧しき人々』『分身』において顕著である。三は後期の作品において、二とともに大きな比重を占める。『地下室の手記』は「他者の言葉」との全的な闘争の舞台である。無名氏の「私」に対して、「やつらはぐるになってきやがる」というわけだ。
「さらに念頭に置かねばならないのは、あらゆる奥深い散文形象の次のような特質である。すなわち作者の志向は形象の中を曲線に沿って変動し、言葉と諸志向との間の距離が絶えず変化する―屈折角が変化する―のである。つまり曲線の頂点では作者のその形象への完全な同化、両者の声の融合が可能であり、曲線の最下点では逆にイメージの完全な客体性と、それゆえ、その形象に対する奥深い対話性を持たない露骨なパロディーが可能になるという特質である。形象と作者の志向との融合と、形象の完全な客体性とは、作品の小部分の中でも、鋭く交替しうる(略)」(棒線ー筆者)「小説の言葉」(P.284)からの引用であるが、作者の志向と言葉の志向するところを分析し、頂点では両者の融合、最下点では客体的なイメージと露骨なパロディが可能と説いている。
アポロニウスは咬交円錐のなかに12種類の曲線を発見したと伝えられているが、この説明はバフチンが放物線を描いていると推測し得る。作者、ドストエーフスキイが、説話、パロディをもちいるとき、言葉のイメージ的機能の働きを考える上で注目すべきだろう。勿論、放物線は咬交円錐のなかに見い出せる。
私が理解する記号論の簡単な図式は次のようなものだ。
互いの解釈項が咬交することで対話は継続し、
対象 形象を描く。
バフチンがもちいる言葉で、二つの声(言葉)、
二つの存在、二重性、ペアという二つで一組の
解釈項 考え方は、咬交円錐をAとBとして咬交させると
き、Aのイメージ(形象)と意味、Bのイメージ
と意味が解釈項の頂点によってギリギリと裂か
表象 れ、相互に衝突、遮切りあいを繰り返す。その
緊張のなかで、AとBがもちいる他者の言葉が互いの解釈によって両極から両極へ揺れ動き、言葉に向けられた言葉についての言葉であるが、その言葉自体が自立性をもつ。それがいわば第三相としての「他者の言葉」であると私は解釈する。たとえば、説話というジャンルを作品のなかでパロディ的にもちいると、他者への語りかけの言葉である説話は言葉についての言葉というパロディの論理によって言葉の第三相、とりわけ第Vの奥深い対話性をもつに至る。
バフチンのメタ言語学については、バフチン自身、異なる分類法もあるだろうことを語っている。(P.400)TとUとVの一、二、三のUとVの間に第Wをおくことを提案したい。途述の言葉で対話へ向けられた言葉である。「第四の言葉」が秩序/カオスの均衡、球体と渦巻の両方に作用しているのだ。WはVへの飛躍、あるいは切り離しに不可欠なのだ。
バフチンは「他者」とゾシマにとっての「謎の客」、チーホンがスタヴローギンに指摘する「見知らぬ人、決して出会うことがないような人」(P.556)とするが、それらは《あらゆる他者》の代表者なのだ。対話者の自我の中心を極限とするなら、その両極をゆれ動く言葉は「他者の言葉」ということになろう。言葉、それが説話の言葉であろうが、パロディであろうが、文体模写であろうが、両極の自我によって解釈される言葉は《人間の中の人間》の言葉として、自立した言葉になる。
ところで、第Vの「他者の言葉」に対して、私は第Wの「他者の言葉」を仮定しておきたい。そうすることで、他者の言葉の自立性を強め《人間の中の人間》へ通路を複線化すること
が可能になるからだ。
それはさておきゾシマとの対話、大審問官(アリョーシャとの対話)、スメルジャコフとの対話、悪魔との対話の四つの対談から、イワンはドストエーフスキイが描いた最大最強のグノーシス主義者であり、四つの対話はイワン・カラマゾフのグノーシス神学であると捉える得る。
ゾシマとの対話で、イワンの教会を国家の上位におくというイワンの議論に対して、「ウルトラ・モンタヌス主義」と批判があるが元来モンタヌス派はヘレニズム期、キリストの再来を希求する終末論的熱狂の教義をもつグノーシス主義的なセクトで、235年に異端宣告をうけた。
善悪二元論的であり、「この世界への入場券をお返しする」というのも、反世界というグノーシス主義からすると当然のことである。大審問官とキリストの関係は、イワンとスメルジャコフの対話では父殺しとなる。知性が善悪の網目を突きぬけるものであること、それはイワンの父殺し教唆にあらわれているが、その自覚が悪魔の訪問にひきつがれるのだ。「デモン・エス
ト、デウス・インウェルスス」(悪魔は転倒した神である)という「ゴールデン・ドーン」におけるイェイツの名は、グノーシス主義者、イワンのもうひとつの名として与えても不思議ではない。
ドストエーフスキイ、イェイツ、バフチンの世界は咬交円錐という私のイメージ幾何学的図式によってその内奥まで照射可能となるだろう。 (完)
■イェイツ(1865−1939)アイルランドの詩人 ダブリンで生まれる。(編集室)
☆幻想『月の諸相』『エズラ・バウンドへ送る手紙』『マイケル・ロバーツとその友人の話』を合わせ、本論5章と結語から形成されている。本論の一章は「大輪」と題され、社会文明の展開を二つの組み合わされた円錐形で説明し歴史の回転を二八に区分された円によって示し、各区分に人間の発展、想像力の変化、社会現象の特色を分類して当てはめる。これを基礎にして、二章では肉体と精神の関係を、三章では生と死の問題を、四章ではヨーロッパの精神史を、五章では西暦の初めから1927年までの社会現象を説明しようとしている。こういった思想体系を統一した形にするためには、詩人は古今東西の思想史を参考にし、多大の努力を払った。しかし、個人的な偏見、特にその神秘主義的な発想はこの書の科学性を立証するものではない。その一方、詩人の後期の作品を決定する点では重要な文献である。(『世界文学小事典』)
■バフチン、ミハイル・ミハィロヴィチ 1859年11月17日オリョル市に生まれる。編集室
著書『ドストエフスキイの創作の諸問題』新谷敬三郎訳 冬樹社
本書「はしがき」紹介、以下
この研究はドストエフスキイの創作方法の諸問題を扱い、彼の創作をもっぱら、この観点の一角からのみ検討しているものである。
わたしはドストエフスキイを創作の形式の最も優れた革新者のひとりであると見なし、芸術的な思索の全く新しいタイプだと考える。そしてこのタイプをここで仮にポリフォニィと呼んでおいた。この芸術的思索はドストエフスキイの小説にその全貌を現しているが、その意義は小説の枠内のみ止まらず、ヨーロッパの美学の基礎的原理のいくつかにも相渉るものである。ドストエフスキイは世界の新しい創作の手本を創り出したが、それによって古い創作の形式はその基本を根本的に変革せざるをえなかったとさえいえよう。この研究の課題はドストエフスキイの原理的な革新性を文学理論に則って分析を行おうとする点にある。
ドストエフスキイに関するおびただしい文献のなかには、彼の創作方法の基本的な性格はもちろん指摘されていないわけではないが、その性格の根本的な新しさやドストエフスキイの創作の世界全体に渉る有機的な統一性の解明にはまだ程遠いのである。ー略ーこの本は最初1929年『ドストエフスキイの創作の諸問題』として出されたものの再版で、ー略ー。
10・13読書会報告
中秋の夜長にふさわしく盛会
10月読書会は都合で夜間となった。が、さすが読書の秋である。多数の参加者があり、秋の夜長『永遠の夫』を熱く語り合った。二次会は女性陣が多数出席、賑わいました。参加者21名
落合トア子さんが『永遠の夫』を報告
報告の後、提議されたもの「題名の訳の問題」、「理解しにくい人物」「筋立てが大切な作品」
「二番目の女の描写が面白い」「地下との共通項は」「初期作品との絡み」等
連載
日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー(続編)
−「ドストエフスキー体験」をめぐる群像−
(第13回)07年<ドストエフスキーブーム?>を振り返って
福井勝也
早くも年末ということで、ドストエフスキーブーム?の掛け声の聞こえた今年(2007)を振り返ってみたくなった。何と言っても、ここ何十年来「ドストエフスキー」がこんなに巷の話題になった年はなかったわけで、それだけに「何故今年、ドストエフスキーがこのように注目されたのか?」を考えてみたくなるのは私だけではないはずだ。
はっきりしていることがまずいくつかあげられる。第一は、立役者がはっきりしていたことだ。実は、昨年(2006.4)「読書会」でもご講演いただいた亀山郁夫氏(現在、東京外国語大学長)がその中心人物であることはだれも異論のないところだろう。氏にはここ数年来、ドストエフスキー関連の著作が目立ってきていたが、今夏(7月)に「カラマーゾフの兄弟」(光文社古典新訳文庫)全5巻の30年振りの新訳を完結され、その刊行(とそのPR)によって一気にブーム?がその後盛り上がったかたちだ。亀山氏の牽引力はなお基本的に続いていて、秋以降も「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」(光文社新書)の直ぐ後、「ドストエフスキー 謎とちから」(文春新書)が出版されたばかりだ。とにかく、あれよあれよと言う間に「新訳」の販売部数が現時点で40万部突破という話だから昨今の文芸書の出版事情から<快挙>との声があがってもおかしくない。何故、こんなことが起きたのか?この点で今年のドストエフスキーブーム?が出版社を含む各種メディアが後追い的に<騒ぎ>を増幅させた二つ目の事実も明らかだ。このメディアには、私たち「読書会」を取材し、何本かのドストエフスキー「特集」組んだNHKも勿論含まれる。しかしメディア・出版社が絡む成り行きとしては、例えば前回の70年前後の団塊世代がその受け皿の中心となった時には、河出書房から現在の米川訳全集確定新版の刊行・出版(PR)と重なっていた事実が思い出される。さらに遡って考えれば明治以降の何回かの「波」が海外文学の翻訳紹介等商業出版戦略が関与したことも明らかで、繰り返された「新訳」という成果も出版メディアなくしてはあり得ない文学史的事実であった。基本的には今回も同様の成り行きと考えられるが、しかしどうもメディアが絡むと言っても、本質的にその意味が違っているような中身が今回感じられた。言ってみれば、メディア自体がドストエフスキー文学(=「新訳」)とハレーションを起こした事態と言ったらどうか。もう少しこの点の内容を分析してみたい。
この点において、話題の亀山氏が興味深い発言をしていることが眼に止まった。それは、伝統ある「詩と批評」誌「ユリイカ」(11月号)がやはり30年振り(74年以来)に組んだ「ドストエフスキー特集」のなかの「アンケート」の氏の文章だ。編集氏の4つ目の問い「ドストエフスキーが現在注目されていることについて、お考えになることをお聞かせください。」に対して亀山氏は以下のように応答している。
「しかし、ほんとうにドストエフスキーが注目されているのだろうか。個人的な印象でいえば、メディアをあずかる何人かの人間たちのなかに巨大なドストエフスキー・コンプレックスがあって、それらが無意識のうちにネットワークを築き上げていったという印象を持つ。ヤフーのトップページに『カラマーゾフの兄弟』のニュースを見たときは、絶句し、世界が変わるかもしれない、との予感さえもった。しかし、何も変わらない。」
ここまででとりあえず回答を一度切っておく。ヤフーのトップページによる予感はさすがに一瞬だけのものだったと思うが、気になったのは、今回のメディアの渦中の人である亀山氏が発見・実感した<メディアをあずかる何人かの人間たちのなか(の)巨大なドストエフスキー・コンプレックス>の存在だ。この存在は、薄々自分も感じてきていたことだが、今回のブーム?の煽動者的張本人こそ、それ程数は多くはないが確実に機能した彼らの存在なのだろう。これには、とりあえず二種類の存在が考えられる。第一に、おそらく亀山氏と同世代かその前後、すなわち「団塊の世代」を含むその前後の年齢層の人びとで今日のメディアをあずかるその中核に存在している人びとだ。彼らは前回の70年前後のドストエフスキーブーム?に青春時代を過ごしている者達だ。彼らにとって、ドストエフスキーという存在は生涯?消去不能の<心理的な痕跡そのもの>(=<コンプレックス>)であって、今回のブーム?の潜在的共鳴者の立場からその「波」を増幅させていった経緯がある。しかし、むしろ亀山氏が注目しているのはもうひとつのタイプの媒介者で、こちらは年齢に関係なく<巨大なドストエフスキー・コンプレックス>を<メディア>という世界によって新たに付与され、その内実をどうしようもなく感覚化あるいは意識化して来ている人びとではなかったか。言ってみれば、今回事態の火付け役の真犯人はむしろこの後者にこそあると言うべきか。いずれにしても彼らは少数であってもそのメディア的背景を共有する多数者に感染してブーム?は広がりを見せたと考えられる。その背景に触れて、亀山氏は先の回答文の後に次のように語っている。
「グローバル化の時代、すべての人間が、インターネットによって恐ろしい罪を抱え持つにいたった。これほどに恐ろしい時代はなく、人間の幼い脳に蓄積された情報は、いまや臨界点に達し、次々と鬱を生み出している。本能の氾濫を抑え込もうとして、人間はいま必死に戦い続けている。彼らは、みな、ドストエフスキー的な脳の持ち主になろうとしているのだ。<中略>状況はもはや悲劇的というしかない。ともあれ、ドストエフスキーを高貴な教養としてではなく、みずからの人生を同化できるまで、日本人は成熟したということだ。ドストエフスキーはもはや神話ではなくなったのだ。裏返せば、ふつうに面白いと言えるテクストに成り下がったのである。」
どうも、この辺の言葉の感覚を共有できるかどうかが、「亀山・ドストエフスキー」の理解者になりうるかどうかの瀬戸際ではないかと思う。いずれにしても、今回のブーム?の渦中の人である亀山氏とそれに同調したメディアの意識的少数者が実はその仕掛け人であって、それを支えたメディア絡みの不安が広く共有されたという推測ができる。
さらに別の観点から、同じ「ユリイカ」の「特集」で自分が注目したもう一人の書き手がいた。かつて「ドストエフスキイと日本人」(75年)を書いて日本近代におけるドストエフスキー受容史・精神史を草分け的に跡づけた松本健一氏のことだが、32年を経過してかねてからドストエフスキーについての近時の所見を聞きたいと思っていたので、今回の機会は自分にとって思いがけぬ収穫であった。今回、松本健一氏は、「ドストエフスキイに憑かれる日本人」という文章を発表していて、現時点までを見通すかたちでかつての持論の延長を図っている。年齢的には亀山氏とさほど変わらない二つ上の47年生まれだが、先述の亀山氏のメディア認識に比較するとき興味深い対照が可能になる。そのことが、「その後のドストエフスキー受容史」としてはっきりと語られるのは、亀山氏の師匠筋に当たる江川卓氏の著作に触れた件あたりからである。
「1986年に出た江川卓の『謎解き「罪と罰」』(新潮社)のコンセプトは、<明るく楽しいドストエフスキー>だった。わたしは同書によって、『罪と罰』に出てくるマルメラードフの名がマーマレイドつまり<甘ちゃん>に由来することを教えられたが、それだけのことだった。『謎解き「罪と罰」』は、むろん読んでいて楽しい。しかし、それは江川卓探偵が『罪と罰』の謎をとく、いわば推理小説的手法にすぎず、とどのつまり都市生活を送る現代人の趣味に堕してしまっている。探偵のスリリングな推理には脱帽しなくもないが、読者の心にひびいてくる文学のための導入となっているわけではない。
それが近代小説の脱構築の手法だ、というひとがいるなら、そんな脱構築とは所詮<お遊び>にすぎない。とはいえ、土俗から切れて都市に浮遊するようになった現代人には、この種の<趣味>が必要となるのである。そのことは認めなければならない。そして、そのとき、ドストエフスキイ文学の本来的意味は忘れ去られるのである。」
やや長くなっているが、興味深い指摘が続くのでもう少し続ける。「松本・ドストエフスキー」の視線の在処は以前から一貫しているが、この後具体的に問題とされるのが、都市生活を送る現代人の趣味を描いたとされる「村上春樹の文学」についてであった。その「ハルキ文学」の背景に<ドストエフスキー体験>があるか否かの議論がつぎに取りあげられた。ここでの松本氏の立場もはっきりしている。
「だが、これは(村上の自分が文学的影響を受けたのがドストエフスキーを含む19世紀のヨーロッパ小説であったと語っている部分―筆者)村上春樹の文学的<教養体験>であって、それ以上のものではない。<中略>文学というのは、<教養体験>ではない。そのひとの存在の根底をゆるがし、規定するほどの世界体験とでもいったらよいか。そしてそのような衝撃を与える作品が、<世界文学>たりうるのである。<中略>だから、村上春樹がじぶんの<教養体験>にドストエフスキイをあげているとはいっても、それがかれの文学の本質に関わっているかどうかは、もう少し慎重に検討してみなければならない。」
そして結局、松本は、「わたしがここでいいたいことは、何か。それは、日本の<近代の最終過程>に都市小説を創造したともいえる村上春樹の<近縁性>は、ドストエフスキイではなくて、やはり1920年代のスコット・フィッツジェラルドに見出すべきだろう、ということである。」「翻っていえば、村上春樹のなかにドストエフスキイとの<近縁性>を見出すのは、場ちがい、なのである」と結論している。
何故か、今回のドストエフスキー・小ブームの由来を考えてゆくうちに「村上春樹の文学」の問題が語られる経緯に辿り着いてしまった。それは、すでに今シリーズでは三浦雅士氏の『青春の終焉』に触れた件の引用を通じて考えてきたことでもあった。そしてこの点では、村上文学のドストエフスキーとの<近縁性>の有無の問題よりも、21世紀の今日に生きる我々が「ハルキ文学」以降、その延長に「ドストエフスキー文学」と出会い直すような不可避的事態を迎えていることの方が切実だと言うことだろう。この点では、やはり、亀山氏の語った「ドストエフスキーはもはや神話ではなくなったのだ。裏返せば、ふつうに面白いと言えるテクストに成り下がったのである。」と言う表現に強いリアリティを感じる。これは、今回のドストエフスキー・小ブームの根幹にあるのは先述したメディアの中心から同心円的に広がりを見せた、正体知れぬ<メデイァ的不安>とドストエフスキー文学との<近縁性>を触覚する新たな事態と係わっているのだと思う。
松本健一氏は、今回の文章の末尾の方で、「ドストエフスキイ」を「もう一つの近代日本文学」として「憑かれたように読む体験」の可能性の<再来>について語ってやや曖昧に文章を閉じている。しかしこの点では、松本氏が拘る「ドストエフスキイ体験」とは日本近代化のなかの歴史的な刻印なのであって、それはすでに「終焉」を迎えた「近代日本文学」とともに終わっているのではないか。とすればその意味の<再来>はないだろう。
いずれにしても、今年という年はドストエフスキー文学を考えることが、確実に大きな広がりをみせた希有な年であったと思う。その僥倖に巡り会えたことを率直に喜びたい。そしてこのドストエフスキー・小ブームが、来年以降どのような展開をみせるのか、「読書会」の諸氏とともに楽しみに見守ってゆきたいと思う。最後に、この欄をお借りして書き継いできた文章を今回途中までまとめることができ、以前の文章と合わせて新著を近々に刊行する運びとなった。タイトルは本連載と基本的に同様で、「日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー」で、副題として−「ドストエフスキー体験」という問題に触れて−となっている。改めてこの場をお借りして、下原氏ご夫妻並びに読書会の皆様のお陰であると感謝したい。この連載も紆余曲折しつつ継続してゆく予定です。来るべき年もよろしくお願い致します。みなさまどうぞ良い年をお迎えください。 (2007.11.27)
ドストエフスキー書誌
提供:【ド翁文庫・佐藤】佐藤徹夫氏から(前号分に追加、10・31〜)
今年は凄い!「ドストの時代」を象徴する。
<図書>
・『文字の都市 世界の文学・文化の現在10講』柴田元幸編著
東京大学出版会 2007.8.30 228p 19.4cm ¥2800
・4 「意見しないでよ」 愚痴と文学/野中進(p63−84)
*2 愚痴と文学 の 「ロシア文学と愚痴」の後半、ラスコーリニコフ、
マルメラードフ、ムイシュキン公爵、アリョーシャが登場
・『惑星の思考 <9・11>以後を生きる』宮内勝典著 岩波書店
2007.9.5 287p 19.4cm ¥2600
・ついに戦争が始まった のうち ブータン王国と、イラク人からの手紙
の中で、サダム・フセインと『罪と罰』 を論じている
・『千年紀のベスト100作品を選ぶ』丸谷才一、三浦雅士、鹿島茂選
光文社 2007.10.20 390p 15.2cm ¥914 <光文社知恵の
森文庫・t ま 1-2> *初出:講談社 2001.5.30刊
・10位 『悪霊』 ドストエフスキー(ロシア)/奥泉光(p204-205)
・『「新しい人」の方へ』大江健三郎著 朝日新聞社 2007.10.30
212p 14.8cm ¥600 <朝日文庫・お-40-4>
*初出:2003.9 朝日新聞社刊
・子供のためのカラマーゾフ(p34-46)
<逐次刊行物(新聞・雑誌)>
・<書評> 『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する 亀山郁夫著
少年たちの13年後を詳細に/由里幸子
「朝日新聞」2007.10.14 p13
・<秋の読書特集> 翻訳新世紀 ・「カラマーゾフ万歳!」の心、世界へ
/亀山郁夫
「朝日新聞」2007.10.26 p23
・特集:ドストエフスキー
「ユリイカ 詩と批評」 39(13)=542(2007.11.1) p39-208
*内容詳細は省略
・<迷いが晴れる「歴史・古典」入門> 一番しんどいとき「カラマーゾフの
兄弟」を読む/佐藤優
「プレジデント PRESIDENT」 45(23)=656(2007.11.12) p90-95
*「ユリイカ」の特集は、1974年6月号以来33年ぶり
*「江古田文学」秋号も特集号となる
*「朝日新聞」9月14日の広告頁「21世紀の視点で読み直す『カラマーゾフ
の兄弟』」(光文社古典新訳文庫)が、9月月間賞
*新刊予告 文藝春秋 <文春文庫>11月20日発売 『謎解きドストエ
フスキー(仮)』亀山郁夫著 予価767円
「朝日新聞」2007年9月1日 p34
・<顔> 東京外国語大学長に就任したロシア文学者 亀山郁夫さん
「『罪と罰』翻訳が息抜き」/松本良一
「読売新聞」2007年9月4日 p2
・<標点> ドストエフスキー再来 新訳本がベストセラーに/加藤義久
「山梨日日新聞」2007年9月8日 p15
・21世紀の視点で読み直す『カラマーゾフの兄弟』 光文社古典新訳文庫・
トークセッション in 東京ミッドタウン/島田雅彦、亀山郁夫
「朝日新聞」2007年9月14日 p20−21 *全面広告頁
・<図書館だより> 話題の新訳「カラマーゾフの兄弟」/中山明子
「日本とユーラシア」 1364(2007.9.15) p6
・<定義集> 【しっかり憶えていましょう】 自立し闘う力を養う気育/大江
健三郎
「朝日新聞」2007年9月18日 p23
・『カラマーゾフの兄弟』完訳記念対談 現代に生きるドストエフスキー/沼野
充義、亀山郁夫 *東京大学文学部本郷キャンパスにて
「本が好き!」(光文社) 2(10)=16(2007.10.1) p04−08
<作品翻訳・漫画化>
・『罪と罰』 ドストエフスキー原作 バラエティ・アートワークス企画・漫画
イースト・プレス 2007年10月1日 ¥552 190p 14.8cm
<まんがで読破>
*2008年1月16日 『カラマーゾフの兄弟(上・下)』発売予定
・『大審問官 自由なき楽園の支配者』 ドストエフスキー著 秋津太郎訳
文遊社 2007年10月25日 ¥1700 96p 18.6cm
*巻末:大審問官の大問題/松岡正剛(p67-91);「自由」の行方
/秋津太郎(p92-94);ドストエフスキー略年譜(p95-96);ロシア語
原文(p@−xxxii)
・『鰐 ドストエフスキー ユーモア小説集』 ドストエフスキー著 沼野充義編
講談社 2007年11月10日 ¥1400 344p 15.2cm
<講談社文芸文庫・ト-A-1>
*内容:九通の手紙からなる小説/小沼文彦訳(p7-35);他人の
妻とベッドの下の夫/小沼文彦訳(p37-138);いまわしい話/工藤
精一郎訳(p139-305);鰐/原卓也訳(p237-305)
*巻末:解説 ドストエフスキーはユーモア作家だった!/沼野充義
(p306-329);年譜/小椋彩(p330-341);翻訳作品/小椋彩
(p342-344)
<図書>
・『空間・人・移動 文学からの視線』 伊藤進、郡伸哉、栂正行著
勁草書房 2006年2月10日 ¥3300 171p 21.7cm
<中京大学文化科学叢書・7>
*第四章 死刑囚の歩みと<意志をこえた力> ドストエフスキー
『罪と罰』/郡伸哉(p85−117)
・『道化の鼻』 小田島雄志著 白水社 2006年8月10日 ¥2400
238p 19.4cm
*『ナスターシャ』(p82−83) *初出:「ミセス」1989.5
・『ドストエフスキー 謎とちから』 亀山郁夫著 文藝春秋 2007年11月20日
262p 17.3cm <文春新書・604>
*内容・省略
・『新聞記者 疋田桂一郎とその仕事』 柴田鉄治、外岡秀俊編
朝日新聞社 2007年11月25日 ¥1200 293p 18.9cm
<朝日選書・833>
*革命までの七百三十歩 世界名作の旅・ロシア
罪と罰 フョードル・ドストエフスキー(p63−70)
*初出:「朝日新聞」1965.3.14 日曜版
<逐次刊行物>
・<文化・学問> ドストエフスキーとマンガ 知らない間に親しんだ文豪の世界
/越野剛
「しんぶん 赤旗」 2007.10.16 p9
・第61回毎日出版文化賞特別賞(「カラマーゾフの兄弟」全5巻 ドストエフス
キー著 亀山郁夫訳 光文社) 読みやすく 斬新な訳/松本健一
「毎日新聞」 2007.11.3 p19
・<毎日出版文化賞の人々 下> 出版文化賞特別賞 亀山郁夫さん(58)
原作の疾走感取り戻す/斉藤希史子
「毎日新聞」 2007.11.13 夕刊 p4
・<注目の翻訳書> 『カラマーゾフの兄弟』全5巻 光文社古典新訳文庫
悩み多き現代人へ。ドストエフスキーの人間学を いま、生きている
言葉で/亀山郁夫(インタビュー)
「本のとびら」(読売新聞東京本社広告局) 10(2007.11.16)p10−11
・<07年、出版界最新事情 読まれる本の作り方> 新訳『カラマーゾフの
兄弟』が空前の大ブーム/駒井稔、若井孝太、亀山郁夫
「ダカーポ Dacapo」 27(21)=618(2007.11.21) p49-51
・<対談> <マリコのゲストコレクション・391> 亀山郁夫・東京外国語大学
学長 『カラマーゾフの兄弟』の奥には、仕掛けが隠されているんだす。
/林真理子
「週刊朝日」 112(59)=4851(2007.11.30) p50−54
・<21世紀の仕掛け人> 現代が求めたドストエフスキー/亀山郁夫、(取材
・構成)松本良一
「Voice ボイス」 360(2007.12.1) p30−39
・<ずいひつ「波音」> ドストエフスキーの蝶/亀山郁夫
「潮」 586(2007.12.1) p52−53
・<本> 完全な真空か、偉大なる虚か? 『カラマーゾフの兄弟』続編を空想
する』 亀山郁夫/沼野充義
「新潮」 104(12)=1235(2007.12.1) p208−209
・<名作アサドク読みどころ・39> 罪と罰 (下) ドストエフスキー著
/村上政彦
「灯台」 567(2007.12.1) p38−41
・<文學界図書室 著者インタビュー> 亀山郁夫 『「カラマーゾフの兄弟」
続編を空想する』
「文學界」 61(12)(2007.12.1) p298−299
・<書評・新書 『ドストエフスキー 謎とちから』> "自己閉塞した現実"を
超越する「ちから」/佐藤優
「本の話」 13(12)=151(2007.12.1) p14-19
・<文学のこども E> お父さんとお散歩/野崎歓
「春秋」 494(2007.11.25=2007・12) p22-24
*亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』について
・『地下室の批評家』 ルネ・ジラール 織田年和訳 新装版 白水社
2007年12月10日 ¥3400 299p 19.4cm
*初版:1984年6月20日刊
*内容:ドストエフスキー 分身から統一へ p49-157
*『江古田文学』の「ドストエフスキー特集」も近刊予定。
広 場
新 刊
★『日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー』 ー「ドストエフスキー体験」という問題に触れてー
福井勝也著 のべる出版企画 2008.1.10 定価1400
福井さんは2001年にのべる出版から、「現代における文学の可能性をめぐって」と題した『ドストエフスキーとポストモダン』
を出版されています。
★ドストエフスキー特集 : ドストエーフスキイの会&読書会会員多数寄稿
『江古田文学』2007年 秋号
編集室
年6回発行の「読書会通信」は、皆様のご支援でつづいております。ご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です)郵便口座名・「読書会通信」 口座番号・00160-0-48024
2007年10月1日〜12月5日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりまして厚くお礼申し上げます。
ドストエーフスキイ作品の感想、評論、自著の宣伝、映画、演劇評、自身のドストエスキー体験など、原稿をお送りください。
「読書会通信」編集室:
〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方