ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.104  発行:2007.10.4


第223回 10月読書会のお知らせ

ご注意!! ☆10月読書会は、都合で夜6時からの開催です。お間違えのないようにお願いします!
今回のみ夜間の開催になります。お詫び申し上げます。

10月読書会は、下記の要領で開きます。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。


月  日 : 2007年10月13日(土)
             
場  所 : 東京芸術劇場小7会議室(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
                       
開  場 : 午後5時45分
 
開  始 : 午後6時00分 〜 8時50分
 
作  品 : 『永遠の夫』テキスト米川正夫訳(ドストエーフスキイ全集)
 
報 告 者 : 落合トア子氏
            
会  費 : 1000円(学生500円)

◎ 終了後は、懇親会(二次会)を開きます。
会 場 : 近くの居酒屋 JR池袋駅西口周辺 
時 間 : 夜9時00分 〜 




10・13読書会『永遠の夫』


 今回の報告者・落合トア子さんは、2006年4月8日(土)に開かれた亀山郁夫氏講演に出席された後、隔月の読書会に参加くださっています。ドストエフスキーの各作品については、丁寧な読みをされていて、毎回の感想に深さや新鮮さを感じます。また、日本文学では佐藤春夫が愛読書(特に『田園の憂鬱』)という玄人肌でもあります。報告が楽しみです。

レジュメ

妻を寝取られた男の物語    落合トア子

 しかし、寝取った男、ヴェリチャーニノフは、うつ病になりかかっている。それは帽子に喪章をつけた紳士を街で見かけた、いや帽子に喪章をつけた男に見られていると気づいた時から、悪夢まで見るようになる。
 その男が実はトルリーツキーであり、その妻ナターシャ・ヴァシーリェヴナを寝取ったのである。トルリーツキーはコキューと呼ばれる男であるが、妻を寝取った男ヴェリチャーニノフに今でも親友だと思っていると話しかける。
 この二人の男の友情は、ナターリャとの関係において成り立っている。ナターリャには、相手をひきつけ、奴隷にし、支配してしまう力が備わっている。そしてヴェルチャーニノフはナターリャに〈はき古したボロ靴〉のように放りだされたのである。
 トルリーツキーにはリーザという八歳ぐらいの娘がいる。トルリーツキーは妻を亡くしてから、リーザを苛めている。ヴェリチャーニノフはリーザが自分の娘だと気づく、だがトルリーツキーはそのことを知らないだろうと考えているのだが、実はトルリーツキーは、妻とヴェリチャーニノフのことも、リーザがヴェルチャーニノフのこどもであることも知っている。
 このふたりの男の心のさぐりあいが、この小説のおもしろいところなのではないかと思う。そして、ヴェリチャーニノフは女性に気に入られながら結婚はできない男であり、トルリーツキーは女性にからかわれながらも良い結婚ができる。しかし、トルリーツキーは二度とヴェリチャーニノフには妻を寝取られたくないと考えている。そして、このふたりの男の心の奥底には、不幸なリーザの存在がいつもあり、それはこの二人の男の罪と罰のような気がする。
 いったい寝取られた男コキューは、ほんとうに不幸なのか、それとも寝取った男の方がより不幸なのか、なかなか解けない問題をつきつけられているように思うが、どうでしょう。
 



『永遠の夫』or『永遠の良人』『永遠の亭主』etc・・・


『永遠の夫』について

 この作品は1870年、ドストエフスキー(49歳)が、ヨーロッパを転々としている最中に書かれた中編作品。『黎明』(『朝やけ』)1月〜2月号に発表された。
 発表までの近況(年譜)は、このようであった。『ドストエーフスキイ全集』から
1868年 47歳 
 1月、『ロシア報知』に『白痴』連載開始、長女ソフィア誕生、3月ゲルツェンと邂逅、5月12日、長女ソフィア肺炎で死亡。5月末、ジュネーヴからウェーべに移る。
 9月初頭、ウェーべからシムプロンを経てミラノに到る。11月フローレンスに移る。
 12月『白痴』完結。『無神論者』(『カラマーゾフの兄弟』の原型)着想。
1869年 48歳
 7月下旬、プラハで冬を越す予定でフローレンスを出立。ボローニャで1日、ヴェニスで4日滞在。ウィーンを経てプラハ着。  3日間逗留したのみで、ドレスデンに帰る。
 9月14日、次女リュボーフィ(エーメ)誕生。11月21日、ネチャーエフ事件、強い関心をいだく。12月、『偉大なる罪人の生涯』 (『無神論者』の発展)着想。
1870年 49歳
 『黎明』1月〜2月号に『永遠の夫』を発表。



テキスト『全集』にみる作品解説・感想
 
 この作品への評論・感想は少ない。全集においても僅かに訳者米川正夫の解説・感想があるばかりである。が、「傑作の一つに数えられている」という。以下、紹介。

  『永遠の夫』(1869)はドストエーフスキイの作中でも、『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』などのような、彼の巨大な逞しい芸術思想の生長と飛躍を跡づける力作の系列から遠く離れて、つつましい存在を保っている一中編にすぎない。一見して顛末な家常茶飯事を取って題材とし、これを軽いユーモアの調子で仕上げたもの。そこには厳めしい神の探求やその否定に関する神学上の問題もなければ、ロシア国民の使命に対する熱烈な主張もなく、社会問題の論議もなければ徹底した個人主義の唱道もない。一変の主題は、妻に裏切られたみすぼらしい一凡人の滑稽な煩悶であり、小説の舞台に登場するのは点景的人物を計算外に置けば、おめでたき夫と情夫の二人で終始一貫した。きわめて小規模の作品である。が、それにもかかわらず、『永遠の夫』は、無限に深く大きいドストエーフスキイの独自な世界を圧縮凝集し、しかもそれに芸術的に渾然と整美した形式を与えたもので、この文豪の傑作の一つに数えられているのである。
 主人公トルソーツキイに具現された汚辱に甘んずる卑屈な忍従心と根深い復讐心、限りなき信頼と烈しい反抗、宏大な愛と獣的な憎悪の、境をわかち難いまでに相交錯し混淆した心持は、ドストエーフスキイのすべての作中人物に共通のものであると同時に、全人生に向かって無限大にまで、拡大されうる一つの心理的胚子である。ドストエーフスキイは、この心理の微妙なはたらきを、主人公の意識と無意識の境を潜りつつ、虚々実々の間にあやしく捕らえてみせている。読者は主人公の滑稽でみじめな道化芝居に笑いを呼び起こさせながら、忽然として笑いの底から不思議な鬼気が盛りあがってくるのに慄然とする。かと思えば、物狂おしい憤怒の叫喚の中に、人間的な真情の歔欷を聞き取って愕然とさせられる。すべてこの一変においては、笑い、涙、呪詛、感激、そのおのおのがいずこに始まっていずこに終わるのかを明らかに定めることは不可能である。しかも、舞台が蒸し暑い白夜のペテルブルグの裏町であるがゆえのに、
 現実はしばしば夢幻に似、夢幻が時に現実以上に現実性を帯びてくるので、一つ一つのページに「ドストエーフスキイ的なるもの」の匂いが濃厚に浸み出ているのである。読者は、この物語が醜い善良で臆病な小官吏の悲喜劇であることを忘れ、卑近な生活環境から、時に忽如として、人間心理の無限世界へ飛躍するおもいをいだかされるものである。
 しかし、それにしても、この優れた作品がいかなる状態で書かれたかを一応知っておく必要がある。ドストエーフスキイは1867年から70年へかけて、二度目の妻アンナ・グリコーリェヴナと外国生活をつづけて、その間に二つの大作『白痴』と『悪霊』を完成したが、『永遠の夫』はこの二大長編の間に、作者としては哲学的・倫理的探究の烈しい緊張からようやく介抱されたような、やや軽い息抜きといった気持ちで執筆されたもので、1879年の秋のドレスデンの旅寓で二ヶ月余りの日子を費やして書き上げられたのである。折から彼の妻アンナは次女リュボフィを出産して、前年長女ソフィヤを失ってその悲しみを忘れかねていた夫に尽きせぬよろこびを与えたが、同時に、終生ドストエーフスキイにつきまとっていた金策の心配も、常に倍して必要となったわけである。彼は『ロシア報知』に予約してあった『悪霊』の執筆に先だち、取りあえず『永遠の夫』を創刊早々の雑誌『曙』に贈ることとしたが、その稿料が容易にドストエーフスキイの手に入らなかった。この問題につき、彼が親友のアポロ・マイコフに宛てて書いた一連の手紙は、当時のドストエーフスキイ夫妻の生活の生ける挿画で、句々血の滲むような呻吟となって響いている。

1869年10月16日(28日)マイコフ宛
「…いったい…!小生が飢えに瀕して、電報料の2ターレルを手に入れるために、ズボンを質においているのに、どうして創作などができるものですか!わたしは餓死したってかまわない!けれど、妻は子供に乳をやっているのです。さて、もし彼女が自分の着物、冬の毛皮を質に入れに行くことになったらいったいどうしますか!ここでは昨日から雪がふりつづいているのですよ。わたしが恥を忍んでいっさいを打ち明けているのに、それでも彼(雑誌筆主)はわかってくれないのでしょうか?しかも、これがすべてではない、もっと恥ずかしいことがある。わたしたちはまだ今日まで産婆にも家の主婦にも払いがしてないのです。・・・妻が産をしてからずっとひと月この有様です!わたしが妻の困っていることを書いた以上、彼がわたしにこういう投げやりな仕方をするのは、単にわたしに対してだけでなく、妻に対してひどい侮辱を加えることになる、それを彼はわかってくれないのでしょうか?」
 これはほんの一例にすぎない。そのうえドストエーフスキイはドレスデンに移って以来、持病の癲癇の発作にも頻繁に悩まされつづけていたのである。こうした重苦しい状態に置かれたにもかかわらず、構図は小さいながら真理の深みにおいて無限の広がりを持つ、彼自身の言葉をかりていえば「十分に独創的な」この名品を生み出した彼の偉大な創作的精神には、ただただ驚嘆のほかはない。(米川正夫)



作品検索

この作品は、「良人」、「夫」、「亭主」と訳されている。

1938年 米川正夫訳『永遠の夫』(岩波書店)
1952年 神西 清訳『永遠の夫』(岩波書店)
1951年 米川正夫訳『永遠の良人』(角川書店)
1955年 米川正夫訳『永遠の良人』(新潮文庫)
・『永遠の夫』(新潮文庫の千種堅の新訳、小沼文彦訳、米川正夫訳(全集の分、新潮文庫の1938
 年〜1955年の版の分)) 
 ← 『永遠の良人』(新潮文庫の米川正夫の訳(1955年〜79年の版の分、角川文庫(1951年  初版)の分)、
      大正6年の「全集」の原白光訳、昭和11年の「全集」の神西清訳)
              ― 『永遠の亭主』(中村健之介訳) 



『永遠の夫』概略

中村健之介(『ドストエフスキー人物事典「永遠の亭主』から抜粋)

 『永遠の亭主』には主人公が二人いる。一人はアレクセイ・ヴェリチャニーノフといい、遺産で暮らす、40歳近い高等遊民。なかなかの男前で女あそびの経験も豊かである。もう一人はパーヴェル・トルソツキー。こちらは、ある地方都市の官吏で、風采の上がらない中年男。この男は、強い人や立派なお方の指図、命令を仰がないと、贈り物一つ選ぶこともできないという性格である。かれの妻ナターリヤは、なかなか魅力的な女性であるが、専制君主的性格で、夫トルソツキーを完全に尻に敷いている。もちろんトルソツキーは喜んでその強い妻に仕えている。
  ヴェリチャーノフは30代の初め、一時期官庁に勤めたことがあり、首都ペテルブルグから、トルソツキーの住むその地方都市へ出向していた。そのときかれはナターリヤと深い関係にあった。ツルゲーネフの『田舎婦人』そっくりの、こういう人物関係を背景に置いて、この『永遠の亭主』という物語は展開してゆく。
 トルソツキーは、押し出しが立派で趣味もいい都会っ子のヴェリチャニーノフを心から敬愛し、しょつちゅう自宅へ招いて夫婦で歓待していた。トルソツキーは、自分の妻とヴェリチャニーノフがそんな関係になっているとは、露思いもしなかったのである
 ヴェリチャニーノフは、ナターリヤから、「妊娠したようだから、もう家へは近づかないで」ときつく言いわたされて、未練たっぷりだったが、ペテルブルグへ帰る。そして、生来の遊び好きのヴェリチャニーノフは、次々と新しい楽しみを見つけだして、いつのまにかナターリヤのこともトルソツキーのことも忘れてしまう。
 ここまでが、「九年前」のこととして、小説のいわば前置きになっている。
 そして今年の夏、ヴェリチャニーノフは、憂鬱症とでもいうの、これといった理由もないのに、気が滅入ってしかたがない。社交界の連中とつきあう気にもなれず、ただカフェの椅子に腰かけてぼんやり通りを眺めて日を送っている。
 すると、どうしたわけか、山高帽子の、喪章をつけた小柄な紳士の姿がヴェリチャニーノフの視界を何度もよぎる。その紳士に見覚えはないのだが、その姿が目に入る度に、悪いことをした記憶のしっぽにでもふれたような、不快な感じになる。この原因不明の罪悪感のような気分は、日とともに強まってゆく。
 六月のペテルブルグは白夜であるが、ある夜、ふと窓の外を見ると、例の喪章の紳士がヴェリチャニーノフのアパートへ抜き足差し足で近づいて来る。ヴェリチャニーノフはドアのところへ走っていって、鍵を外して、息を殺して待ち受ける。ドアのノブが外側からそっと回る。
 その瞬間、こちらからパッとドアを開けた。よろけた喪章の紳士が立ち直って、二人の顔が合ったとたん、ヴェリチャニーノフの頭に、九年前の情事の記憶がよみがえった。小柄な紳士は完全にアル中患者の顔になっているが、ナターリヤの亭主、トルソツキーであった。ヴェリチャニーノフが自分を思い出したのを見てとって、トルソツキーはニヤリと笑う。ヴェリチャニーノフは彼を部屋の中へ入れる。
 そこで、ヴェリチャニーノフは、トルソツキーの話からいろいろなことを知る。ナターリヤが三ヶ月前に急死して、彼女の遺品の文箱の中から、情交の記録ともいうべき手紙の束が出てきたというのである。ナターリヤは、首都からやって来た数人の紳士たちと深い関係にあったのだ。お人好しのトルソツキーは、何も知らずにその紳士たちと深い関係にあった。妻が死んで、トルソツキーは、自分が長きにわたって寝取られ亭主であったことを知った。そのショッキングな発見以来、かれはずっと酒びたりである。
 しかも、ペテルブルグへ出かけて来たトルソツキーは、リーザという八歳になる娘を連れて来ており、いまホテルの部屋に閉じ込めているという。

 この小説は、主人公二人が漫才の「ぼけ」と「つっこみ」の関係になっており(トルソツキーが「ぼけ」役)、ドストエフスキーの得意な下卑たユーモアがいたるところに仕掛けられているのだが、その笑いの間に、残酷な「親子」関係が設定されている。妻に裏切られたことを知ったトルソツキーが、大人の分別を忘れて、遣り場のないくやしさを「父親思い」の幼い娘リーザにぶつけるのである。トルソツキーは、リーザをわが子と信じてかわいがってきただけに、そうではなかったのだとわかると、こんどは憎さがつのって、「おまえの母親は淫売だ」からはじまるののしりをこどもにあびせかけ、蹴るやら、おどすやら、ひどいいじめ方なのである。しかも、八つの女の子が、自分をいじめる「父親」が実は苦しんでいるのを見抜いていて、それにだまって耐えているのである。

【リーザ登場の場面を抜粋】米川正夫訳『永遠の良人』新潮文庫

・・・「リーザって誰のことです?」とエ゛リチャーニノフは呟いたが、不意に何か胸の中がどきりとした。それは余りに唐突な衝動であった。・・・「誰って、うちのリーザですよ、うちの娘のリーザですよ!」
「え、娘ですって?では、あなたとナタリヤ・・・亡くなられたナタリヤ・ワシーリェヴとの間に、お子さんがおありになったのですか?」・・・
 「ええ、そりゃあありましたとも。ああ、そうだった、成程、誰もあなたに知らせる者がない筈でしたっけ!何も私もぼんやりしていたのだろう!実はもうあなたがお立ちになった後で、あの子が授かったのですよ!」・・・・・・・・・・
 寝取られた男と寝取った男の再会から、滑稽にして残酷で、けがらわしく、しかも悲しい復讐劇がはじまる。・・・『永遠の亭主』で人物のおもしろさを言うなら、文句なしに「ぼけ」役のトルソツキーである。トルソツキーとはトルース、つまり腰抜けという意味である。・・・・・・・・・・

【十七 永遠の良人 の章抜粋】
・・・殆どまる二年たった。美しく晴れ渡った夏の日に、新しく開通したさる鉄道を走る汽車の中に、我々はまたもやヴェリャーニノフ氏の姿を見いだすのである。・・・
 この小説で作者ドストエフスキーは、情事後日譚が書きたかったのではない。惨めな亭主はひたすら恨み、怒り、復讐に邁進すべきであるのに、敵に対してうらめしい懐かしさを抱き、敵との和解を願い、またしても美しい友愛を交わしたいと願う、この奇妙なタイプの人間が書きたかったのだろう。
 小説の最後近くになって、ドストエフスキーはトルソツキーについて「最も変質的な出来損ないとは、それは、高貴な感情をいだいている出来損ないのことである」と定義している。柄にもなく、美しい友愛の理想にあこがれた万年寝取られ亭主トルソツキーは、まさにドストエフスキーの言う「高貴な感情をいだいている出来損ない」なのであった。そして、このような出来損ないこそ、ドストエフスキーが処女作以来最も多く取り上げた人物たちである。
 ・・・この『永遠の亭主』を書きはじめようとしていたころ、ドストエフスキーは批評家のストラーホフに宛てた手紙で、(このように言っている)。
 1869年3月18日(米川正夫訳)
 ・・・小生には一つ短篇の案があります。ごく短いもので、印刷二台分くらい、あるいはもっと長くなるかもしれません(…)。これはもう四年まえ、兄が死んだ年、小生の『地下生活者の手記』を賞めてくれたアポロン・グリゴーリエフの言葉に対する答えとして執筆を思い立ったものです。グリゴーリエフは、そのとき小生に、「きみ、ああいったふうのものを書きたまえ」といったのですが、しかしこれは『地下生活者の手記』ではありません。これは形式か
らいって、まったく別なものです。もっとも本質は同じことです、小生の常に変わることなき本質です。・・・・この短篇はごく早く書き上げることができます。なぜなら、その短篇の中の一行一句として、小生の脳裏で曖昧なところはないからです。




外国生活の光と影


 ドストエフスキーと妻アンナは1867年(4月14日出発)〜1871年(7月8日ペテルブルグ着)まで4年間、外国生活を送った。が、光と影に満ちた歳月だった。

光の部分 『白痴』『永遠の夫』『悪霊』を書けたこと。次女リュボフィ出産。

影の部分  長女ソフィアの死亡。ギャンブルからくる金策。質屋めぐり。

 1867年〜1871年。この時期、日本は幕末から明治維新という怒涛の時代を迎えていた。が、ドストエフスキー夫妻の外国生活も、波瀾に満ちていた。外国生活での光の部分は『白痴』『悪霊』という世界文学線上に輝く不朽の長編作品を二作発表に加え、中編名作『永遠の夫』も発表したこと。反対に、影の部分は、長女の死と、金策に走り回ったことである。が、最大の影、すべての影の原因となったのは、ドストエフスキーがルーレット賭博にはまったことである。
 ギャンブルが元凶だった。しかし、ドストエフスキーは、この影に終止符をうつ。1871年4月28日金曜日、ヴィスバーデンから妻アンナにあてた手紙がそれである。この作家の人生にとって最も重要な出来事とみるので抜粋を紹介します。

1871年4月28日付 「妻アンナへ」
 
 アーニャ、どうかリューバのために、わたしたち未来ぜんたいのために、この手紙を興奮しないで終わりまで読んでおくれ、終わりまで読んだ時、この不幸も実際のところ何も絶望するほどのことではなく、それどころか、むしろ何かプラスになるようなものがある、失ったものよりはるかに多く値するものが得れるということを悟ってくれるだろう!そういうわけで、わたしの天使、心を落ち着けて、よく効いておくれ、お願いだから、自分の体をこわすようなことはしないで。
  かけがいのないわたしのアーニャ、わたしの永遠の友、わたしの天使、お前はもうわかってくれるだろうが、わたしはすっかり負けたのだ。お前の送ってくれた30ターレルを、そっくり負けたのだ。どうか思いだしておくれ、わたしにとってはお前が唯一の救いなのだ、お前よりほかにわたしを愛してくれるものは、この世にだれ一人ありはしない。それから、アーニャ、こういうことも思いだしておくれ。すでにそれ自身の内部に罰を蔵しているような、そういう不幸があるものだ。これを書きながらも、お前はどうなるのだろう?これがおまえにどんなに響くだろう?何か悪いことが持ち上がりはしないか?とこんなことを考えている。もしお前が今このとき私をかわいそうにと思ったら、そんな気持ちを棄てておくれ、わたしはこれくらいでは足らないのだから!
  電報を打つのは遠慮した。心配だと書いているお前の手紙を、さっき受け取ったばかりなのに、そんなことをする勇気はない。明日にもSchreiben sie mir(わたしに手紙をおくれ)(金送れという意味の暗号)という電報が届いたところを想像しただけでも・・・まあ、お前はどうなるだろう!ああ、アーニャ、なぜわたしは出かけて来たのだろう!
  今日の首尾はこんなふうだったのだ。はじめ、午後12時すぎにお前の手紙は受け取ったが、金はまだ届かなかった。それから宿へ帰って、お前に返事を書いた。(卑怯な、そして残酷な手紙、わたしはほとんどお前を責めているのだ)。もしお前が明日の土曜日の四時以後に郵便局へ行ったら、それを受け取るだろう。その手紙を局へ持って行ったが、また局員は金がきていないという。もう二時半だった。四時半に、わたしが三度め局へ行ったところ、局員は金を渡した。いつ着いたのか?というわたしの問いに対して、いとも落ちつきをはらった調子で、二時頃だ、というではないか。・・・
 ・・・アーニャ、最期にもういちどわたしを救けておくれ、30ターレル送金をたのむ。わたしはそれで足りるようにする、倹約する。たとい遅くとも日曜日に送金が間に合ったら、わたしは火曜日に帰宅できる。いずれにしても水曜日には間違いなしだ。



プレイバック読書会

1987・8・28「会報No.100」から

『永遠の夫』を読んで  伊東佐紀子

 白夜のペテルブルグに夢のように現れる帽子に喪章をつけた男、それは現実か、あるいは40歳を前にして異常な神経に悩むヴェリチャーニノフの幻想か。それは何度もくりかえされ、彼は「分身」のゴリャートキン氏と同じ運命をたどるのかと、私は読み進んだ。
 しかしそうでもなさそうだ。現実のトルソーツキイが話し、動き出し物語は奇妙な方向に展開していく。二人の関係は、二重、三重に入り組んで、いかにもドストエーフスキイ的で面白いのであるが、一方で私は何ともつかみどころのない落ち着きのなさを感じた。
 作品中、トルソーツキイの話す、ツルゲーネフの「田舎夫人」が何かの暗示を与えてくれないかと私は考えた。この作品は一幕の戯曲で、小心の田舎官吏の妻、ダリアのもとに、少女の頃に求愛されたことのあるペテルブルグの伯爵がたち寄る。ダリアは首都に移りたいために、必死で伯爵の気をひく。二人が部屋にこもっている間、夫はそのまわりをうえろうろする。ダリアを想う年若い男もいる。という喜劇である。
 「田舎婦人」のダリアも、「永遠の夫」のナタリヤも共に28歳である。ドストエーフスキイはツルゲーネフを非常に意識して「永遠の夫」を書いたのではないか。この「永遠の夫」が発表されたのは、1870年であり、ドストエーフスキイは1867年に、バーデン・バーデンで、ツルゲーネフと論争の末に絶交している。作品中に別の作品に言及するのはめずらしい事ではないかもしれないが、何かの意図があったのではないか。ツルゲーネフが単なる、よくある話の喜劇で終わらせた、そこを出発点として、何倍もの面白さで、心理探求、展開を読者にしてみせた。ツルゲーネフに舌を出してみたと考えるのは、考えすぎだろうか。
 この作品の中で”永遠の夫”なる言葉をドストエーフスキイは随所に散りばめ、「永遠の夫」なる章まである。”分析批判”という章では、作者は全部を解説している。ここまで種あかしをして、これ以上、何をかいわんやですが、それでいて、すっきりした回答が得られない。読者により、いかようにも読めるのが文学だといえるが、ひとつにはこの作品の構成にもよるのではないか。悪夢のようなペテルブルグの夜、夫と情夫の関係が、一転して若い娘に求婚する気弱な三枚目と、その庇護者のような友人になってしまう。そして結末は、美しい妻と、その情夫らしき男をともなうトルソーツキイと、ドンファンにもどったヴェリチャーニノフの停車場の遭遇となる。
 つまり、物語の発端と何ら変わらないのである。読者は、かっての夫と情夫の、過去にとらわれて、どうしょうもなくあがく力関係に非常に興味をそそられ、その一面に集中していくと、はぐらかされたような気分になる。
 ドストエーフスキイの作品は一般的に、縦糸はあまり気にされず、作者が意識せずに、登場人物が一人歩きして、無限に緻密な横糸を織り、その集合が、自然と縦糸を作るという場合が多いように思われるが、この『永遠の夫』では、ちょっとちがうように感じられた。
そこが、”永遠の”というテーマかもしれないが。いずれにしても、何度読んでも一行一行にひきつけられる作品である。

■当時、読書会開催に尽力されていた伊東佐紀子さんは、この年から8年後の1995年に急逝 されました。49歳でした。   1987年、この年の8月開催の第92回例会では、新谷敬三郎先生が「ステパン氏が行く」を報告されました。奇しくも半年後、新谷先生も亡くなられた。
 今日、ドストエフスキーブームとされていますが、当時もまた多士済々のよき時代でありました。人も時代も過ぎ行く。
 が、ドストエフスキーだけが永遠です。



8・13読書会報告


『白痴』最終回はフリートークで

 8月13日(土)の読書会は、『白痴』第三回目、最終回ということで暑気払い「白痴祭り」と題してフリートークの読書会を開催しました。記録的な猛暑とお盆の最中でしたが、通常の18名の参加者があり盛会でした。
 ムイシシキン、ラゴージン、ナスターシャ、イッポリートなど登場人物へのそれぞれの思いや感想が語られた他、『白痴』作品に限らず全作品の登場人物についても、「好きな人物は誰か」「演じたい人物は」についても参加者全員のコメントがあり、暑気払いにふさわしい読書会となりました。また、同時にNHKテレビの取材撮影もありました。

読書会をNHKテレビが取材撮影
 
「なぜ、いまドストエフスキーが読まれているのか」それをレポートしたいので取材撮影させてください。NHKさんから、こんなお願いがありました。読書会は、今にはじまったことではないのですが、世間的にはブームと捉えられているようです。多くの人にドストエフスキーを読んで欲しい、知って欲しい。読む会の趣旨でもあるので、取材撮影していただくことにしました。ということで若い記者さん1名と撮影の人2名がみえられ、読書会の模様を終始撮影しました。また、参加者全員のインタビューもありました。(もっとも、テレビの常で放映されたのはごく僅かでしたが・・・・)なお、放映は以下の日時でした。

8月25日 土曜日 NHKテレビ「おはよう日本」午前7時30分頃放映

 内容は、『カラマーゾフの兄弟』新訳で話題となった亀山郁夫さんの話。ドが愛読書というウルトラマンの若手俳優。一瞬の読書会風景。そして、何名かの会員の方のインタビュー。10分ほどの放映でした。ほんの短い時間でしたが、やはりテレビです。9月22日、例会の参加者にテレビを見たので、という方がいらっしゃいました。
 二次会にも出席された小口記者から、学生のとき先生にすすめられたが読なかった。「これを機に挑戦します」というお礼のメールがありました。

暑気払いカラオケ大会も盛大に
 二次会の後、カラオケ大会を開きました。12名の参加者が自慢の歌を披露しました。




連載        

日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー −「ドストエフスキー体験」をめぐる群像−
第12回  「三島由紀夫」という問題 (2)
                                         福井勝也

 三島由紀夫は生前その死を計画してから、ほぼ一年の間に自分がいなくなってからの仕事上の処置を彼らしく律儀にこなしていった。そしてその後、決行が間近になった頃、全部で九通か十通の手紙を親しい者たちに遺書を残した。その中に、妻瑤子あてのものがあったかどうかは明らかにされていないが、その一通は両親にあてられた。もう一通は「楯の会」の士官候補生のひとり倉持に届けられ、そこでは会の解散が命じられていた。それは「行為」は最初で一度切り、最後のものでしかないという三島の考えに基づくものであった。さらにもう一通の長文の手紙が三島の情報係だった伊沢甲子麿にあてて書かれていたという。三島の評伝を書いた米国人のジョン・ネイスンは、その文面の一部について触れて次のように書き写しながら感嘆の言葉をもらしている。
 「<小生の死体に楯の会の軍服を着せ、手には白手袋と軍刀を持たせて、お手数ながら写真をお撮りください。小生の家族は反対するかもしれませんが、小生はどうあっても文人としてではなく武人として死んだ証拠が欲しいのです。> 父梓もまた、家族宛ての手紙から似たような文面をしめしてくれた。<僕はペンを棄てました。私は文人としてではなく、完全に武人として死ぬのですから、戒名には必ず武≠フ字を入れて下さるようお願いします。文≠フ字は使う必要はありません。>こうした言葉が、生涯を終えるまでの毎夜を、その最後の一夜においてさえ、書斎でものを書いた人間から発せられたとは!」
 作家三島由紀夫はニヒリストとして人生を生きたというのが大方の見方である。しかし同時に、彼の遺作となった『豊饒の海』四部作が仏教的な輪廻転生を物語の骨格としたものであることから、三島のニヒリズムが死後の世界を何らか空想していたことが考えられる。その境界である死に際に、自分が何者として生きかつ死ぬかということを書き留めたのが引用の文章ということになる。そして所詮世俗的なものであっても、死後の自己の標章としての「戒名」にまで拘りを見せたことも事実だ。この死にゆく人間のある意味では、あまりに散文的な覚悟の言葉に作家三島の「生」の謎を解くきっかけがありはしないか。
作家<三島由紀夫>を考えることと、人間<平岡公威>を考えることとは勿論違っていてあたりまえなのだが、三島が先述の遺言の通り、「文人」であることを断念・拒否して「武人」として死んだという事実は、単に彼が作家としての人生に見切りをつけたという以上の意味が込められていたと考えられる。それは、端的に言うならば、彼の最期の壮烈な行為こそ、作家・三島由紀夫の死そのものであって(厳密には、三島は決行前夜『豊饒の海』第四部「天人五衰」に「完」の文字を記し終えた時に作家として死んだ)、同時にその最後の瞬間こそ、どんなかたちであれ人間平岡公威をこの世に生かしめようとした最終の意志表現であったということだ。
 実はこのことをだれよりも認識していたのは、やはり三島由紀夫、いや平岡公威の母平岡倭文重であった。昭和45年11月25日正午15分過ぎの三島の死後、家族の待つ平岡家にその遺体が戻ったのは翌26日の午後4時過ぎであった。夕刻の火葬場の時間に合わせるように、最後の告別も慌ただしく、遺書通り遺体には楯の会の軍服が着せられ、軍刀も胸に置かれたという。但し、最後の瞬間に、妻瑤子は原稿用紙と万年筆を棺に納めたとされる。さらに付記しておけば、三島の戒名は<彰武院文鑑公威居士>であって、彼の遺言通り<武>の字が入れられたものの、父梓の言によれば<何と言っても三島は文人として育って来たのだから、遺族相談により、伜のご勘弁を願って<武>の字の下に<文>の字が入ることになったという。この妻と父の遺志への<裏切り>を三島は予定しつつあえて遺言を認めておいたのだろうか。そしてそれから、遺体に付き添って火葬場へ行ったのは、実の父、平岡梓と妻瑤子とその父の画家杉山寧だった。つまり母倭文重は三島由紀夫の骨は拾っていないことになる。翌27日に平岡家は弔問客を受け入れた。瑤子は、三島の結婚後に知り合った客たちを応対し、倭文重は古くからの知人を相手にしたと言う。このなかの一人の弔問客が白薔薇の花束を持って訪ねてきた。その人物が三島の遺影を見上げていたとき、倭文重がうしろから次のように言ったと伝えられている。
 「お祝いには赤い薔薇を持って来てくださればようございましたのに。公威がいつもしたかったことをしましたのは、これが初めてなんでございますよ。喜んでくださいませな。」
 この言葉は悲しみの尋常さを通り越して重く、深い。ここには、確かに平岡公威を作家三島由紀夫に育てた三島文学最大の擁護者であった倭文重が、作家三島の母としてではなく、息子公威の生みの母の姿に戻った瞬間が露わになっている。作家三島が死んだ瞬間に、作家の母も同時に死んだのかもしれない。その死と隣り合わせとなったかたちで、やっとこの世の呪縛から逃れた息子公威の姿に複雑に屈折したものであれ、ともかく不思議な安堵感とともに「喜び」を感じ取った母性がここに顕現している。そしてこの点で、注目すべきは先述の米国人のジョン・ネイスンのこの箇所に触れた最後の文章だ。ネイスンは、先程引用の母倭文重の言葉に続けて評伝を以下のように締めくくってこの著書を閉じている。(『新版・三島由紀夫−ある評伝−』野口武彦訳、2000・8新潮社)
 「弟千之が語ったような、<いつも存在しようとしながら存在できなかった男>のために、喜びを表明することはなまやさしいことではない。だが、ことによったらわれわれは、いま倭文重とともに、三島の切腹を、ただ不吉で不必要な生の空費としか見えぬものとしてではなく、生涯かけてあこがれた<英雄の死>とみなすこともできはしないか。とりすがるような思いをもって、三島が苦痛のうちに、そしてその苦痛を越えて、見届けようとしたものをついに見届けたのだとすら、望みをつなぐことができるのではないか。」
 千之が語ったとされる<いつも存在しようとしながら存在できなかった男>と言う三島に対する形容も、さすがに血を分けた肉親による本質的な表現だと思われる。兄公威を見る弟の視線にも、引用の母倭文重の言葉と同じ前提に立った身内ならではの見定めがある。その結果として、母親の言葉として運命的な「喜び」という言葉も発せられ、息子であり弟でもある千之が、それに深く反応したことでこのような表現が出てきたのだろう。筆者は三島(「その生と死の謎」)を考えるうえでこの言葉はおそらく最大のキイワードだと直感している。そしてネイスンの評伝の素晴らしさは、そのことを汲みあげるかたちで、三島由紀夫のむごたらしい最後を救済する一文で評伝を閉じている点にある。三島の理解者がこのネイスンの他、英国人のジャーナリストでドナルドキーン(彼も実は、三島文学を日本人の専門家たちに比べてより深く理解できた外国人の日本文学研究者であったが)とも親しいヘンリー・スコット=ストークス等外国人であって、この二人が評価の高い精緻な評伝(『三島由紀夫−生と死−』徳岡孝夫訳、1998・11彩流出版)を残していることが印象的な事実としてある。三島の作家人生を考える時、その時代の日本人との軋轢が彼を追い込んでいった経緯を思わざるを得ないところがある。まさに戦後の昭和を反時代的に一身に生きなければならなかった「宿命」がかれを突き動かして行った。その点では意外にも、彼の文学の持つ普遍的な価値とその意味の理解を通して、外国人のほうが三島自身の人生により深く寄り添うことが可能になったのかもしれない。これを皮肉と考えることも勿論可能だが、筆者はむしろ三島について考えるヒントもここに潜んでいるように思えるのだ。果たして三島由紀夫の人生にどう向かい合うべきなのか。
 作家三島の死を、その作家人生(=あるいはその「作品」)そのものから理解しようとしてもおそらく徒労に終わるであろう。そのことは、三島が戦後プロの物書きとして実質的にデビューした作品が『仮面の告白』という<私小説>であったということが象徴的に物語っている。それでは、作家三島由紀夫の「素面」を明らかにすれば良いかというと、これも不可能に近い。作家三島由紀夫の「素面」が人間平岡公威のそれでないのは勿論なのだが、人間平岡公威は最後まで作家三島由紀夫の「仮面」を着けてしか生きようのない「運命」に導かれていたところにその運命の本質的な不条理があった。そのことは、三島が作家として生き始めた最初から<悲劇的な死>を運命づけられていたことともどこかで繋がってている。ここには、「仮面」と「素面」の葛藤という問題すら姿を消してしまっている。ある時(ペンネームの「三島由紀夫」を名乗った17歳の時)から少なくとも表面的には、平岡公威は存在しなくなった。いや正確には、作家三島由紀夫という現象を生きた人間平岡公威は、死の瞬間まで抑圧され潜在化し続けた。そして先述したとおり、作家三島を死なせるに至った最期の過程で人間平岡公威の「再生」がやっと実現されたのだった。三島は作家として生きながらそのことの実現される時を求め続ける<逆螺旋の人生>を生きる運命を背負っていた。彼が、遺言で自分の死姿に拘り、それを後世に写真として残させ、さらには前述の「戒名」に拘って作家三島の人生を消し去ろうとした意図もそこにあったのだと考えられる。それが、ネイスンの言う<英雄の死>であり、三島が遺書で命じた<武人の死>による完成(=「再生」)の真相であったのかもしれない。いずれにしても、作家としての表現行為を断念しなければならなかった事実がその前提としてある。結局、私は改めて思う。そのようにしか生き得なかった人間平岡公威の「運命」を解き明かしてこそ、先述してきた作家三島由紀夫の最期の真実に到達することが可能ということになるはずだ。それではその「謎」を解く鍵はどこにあるのか。まずは作家三島由紀夫の、いや人間平岡公威の深層としての人間像について語ってみようと思う。        (2007.9.24)                                               


新訳・亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』(光文社)に関する新聞記事



 今日のドストエフスキーブームというか人気というか、これほどまでに注目を浴びることになった一因は、新訳『カラマーゾフの兄弟』に負うところ大であるといっても過言ではない。8月、9月の新聞各紙は、こぞって新訳の話題を大きく取り上げていた。当日、資料として新聞コピーを配布します。なお、各新聞の見出しは下記のようでした。

○読売新聞「顔」2007年9月
 東京外国語大学長に就任したロシア文学者 亀山郁夫(58)「『罪と罰』翻訳が息抜き

○朝日新聞 文化欄 200年9月1日 ドストエフスキーが新鮮!
 新訳『カラマーゾフの兄弟』全5巻で30万部突破
 亀山訳は「流れと勢い」重視  現代に通じる人間の卑小さ

○朝日新聞 広告 2007年9月14日
 21世紀の視点で読み直す『カラマーゾフの兄弟』
 新訳から読みとる新しい解釈と世界  「父殺し」のテーマの今日的な意義も喚起
 現代のグローバリゼーション社会に通底するドストエフスキーのテーマ

 


宣教師ニコライの全日記
 

 7月、8月、9月の新聞各紙には、東京・神田駿河台に「ニコライ堂」を建てたロシア人宣教師ニコライ(1836−1912)の日記約40年分の日本語全訳『宣教師ニコライの全日記』(全9巻)の特集記事が多くみられました。

○朝日新聞「文化」欄
 ニコライ宣教師の日記刊行 明治の庶民 克明に描く

○週刊読書人 一面 2007年8月24日
 対談=中村健之介・鈴木範久
 中村 1880年6月1日のところを開いてみたわけですね。ドストエフスキーと会った日だけはわかっていますがから。
 〈1880年6月1日モスクワ〉
 ドストエフスキーが来ていて、会った。・・・日本については、「あれは黄色人種ですからね。キリスト教を受け入れるにあたって何か特別なことはありませんか」と訊いた。やわらかみのない、よくあるタイプの顔。目が熱っぽく輝いている。
 日本の歴史や文化への大きな視点 。隈なく日本全国を歩く 土地の故事、来歴も記したニコライ

○産経新聞 2007年9月3日 月曜日
 ニコライ大主教 日本での布教日記刊行
 日露の狭間で苦悩・・・明治の生活いきいき



ロシア文学者 昇 曙夢(1878-1958)  提供者:印鑑工房『愛幸堂」(豊島高士氏)
 
□ 明治29年(1896)、昇夢は、このニコライ正教神学校に入学した!

 明治11年(1878)鹿児島県大島郡実久村に生まれた曙夢(直隆)は、17歳のとき上京した。なぜ東京に行こうと思ったのか。年譜には明治28年のとき、春、修学で鹿児島に上がり、同地にてギリシャ正教の教理を聞き、洗礼を受けた。となっているが、南の島に生まれ育った彼が、なぜ他国の宗教に興味を持ち、そんな気持ちになったのか。夏には上京し、すぐにニコライの神学校の扉をたたいている。なぜか。いつだれが教えたのか。知ったのか。大きな謎である。が、血縁にあたる豊島氏の奄美の話からニコライへの繋がりを想像できた。次回  



2006年のドストエフスキー書誌


提供:【ド翁文庫・佐藤】佐藤徹夫氏から(前号分に追加)

<翻訳>

・罪と罰 (中) ワイド版
   ドストエフスキー作、江川卓訳 岩波書店 2007年7月18日 ¥1300+
   364p 18.2cm <ワイド版 岩波文庫・286>
・カラマーゾフの兄弟 4
   ドストエフスキー著、亀山郁夫訳 光文社 2007年7月20日 ¥1029+
   700+1p 15.2cm <光文社 古典新訳文庫 K Aト 1-4>
・カラマーゾフの兄弟 5
   ドストエフスキー著、亀山郁夫訳 光文社 2007年7月20日 ¥629+
   365+1p 15.2cm <光文社 古典新訳文庫 K Aト 1‐5>
   *「エピローグ」を収録。亀山氏による「評伝」と論考を収録。

<研究書>

・われわれはみな外国人である 翻訳文学という日本文学
   野崎歓著 五柳書院 2007年6月1日 ¥3500+
   494p 19.5cm <五柳叢書・89>
   ・最短のドストエフスキー(p226−228)
   ・血肉を備えたテクスト 『ドストエフスキー 父親殺しの文学』上・下 亀山郁夫著(p380−383)

・『ロシアの近代化と若きドストエフスキー 「祖国戦争」からクリミア戦争へ』
   高橋誠一郎著 成文社 2007年7月19日 \2600+
   270p 19.4cm
   ・序章 近代化の光と影;第一章 父ミハイルと若きドストエフスキー;
   ・第二章 自己と他者の認識と自立の模索;第三章 欲望と権力の
    考察;第四章 『白夜』とペトラシェフスキー事件;終章 日本の
    近代化とドストエフスキーの受容

・カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ 別巻
   ドストエフスキー著、亀山郁夫訳 光文社 2007年7月20日
   <光文社 古典新訳文庫 K Aト 1−5>
   ・ドストエフスキーの生涯/亀山郁夫(p65−156)
   ・解題 「父」を「殺した」のはだれか/亀山郁夫(p169−353)
   ・訳者あとがき 『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を終えて(p354-365)

<作品翻訳>

・『罪と罰 (下)』ワイド版
   ドストエフスキー作 江川卓訳 岩波書店 2007年8月17日 ¥1400
   431p 18.2cm <ワイド版 岩波文庫・287>

<研究文献>

・『鶴見俊輔書評集成 1 1946〜1969』 みすず書房 2007年7月10日
   ¥4500 9+498p 19.4cm
   ・ドストエフスキーの二重人格 シモンズ『ドストエフスキ』(p222〜23)

・『詠んでおきたい世界の名著』 三浦朱門編著 PHP研究所 2007年8月16日 ¥648 350p 15cm 
   <PHP文庫・み-2-6>
  ・『罪と罰』 フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(p190〜201)

・<すばる文学カフェ・ことば> 金原ひとみとドストエフスキー(亀山郁夫)
   「すばる」 29(9)(2007.9.1) p164〜165

・<書評再録> 『21世紀 ドストエフスキーがやってくる』 大江健三郎ほか著
   集英社刊・発売中・定価2625円
   作家たちに生起する「事件」(高橋敏夫)
   「青春と読書」 42(9)=374(2007.9.1) p89

・<虎馬圖書館・25> 世界一お喋りな文豪によるお水な女の激しい恋愛劇
   (温水ゆかり)
   「本の話」 13(9)=148(2007.9.1) p33

<図書>

・『大いなる人生』 高田宏著 芸術新聞社 2007年9月10日 ¥1600
   ・ドストエフスキー アンリ・トロワイヤ著『ドストエフスキー伝』(p175-188)

・『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』 亀山郁夫著 光文社
   <光文社新書・319> 2007年9月20日 \780

・『アレクサンドルU世暗殺 上・下』 エドワード・ラジンスキー著、望月哲男・
   久野康彦訳 NHK出版 2007年9月30日 @2300
   *上の副書名「ロシア・テロリズムの胎動」、下の副書名「ドストエフスキー
     の死の謎」
   *未完の『カラマーゾフの兄弟』と若きテロリストたちが交錯する

<逐次刊行物(雑誌・新聞)>

・ドストエフスキーが新鮮 新訳『カラマーゾフの兄弟』全5巻で30万部突破/小山内伸
    「朝日新聞」2007年9月1日 p34
・<顔> 東京外国語大学長に就任したロシア文学者 亀山郁夫さん
    「『罪と罰』翻訳が息抜き」/松本良一
    「読売新聞」2007年9月4日 p2

・<標点> ドストエフスキー再来 新訳本がベストセラーに/加藤義久
    「山梨日日新聞」2007年9月8日 p15

・21世紀の視点で読み直す『カラマーゾフの兄弟』 光文社古典新訳文庫・
    トークセッション in 東京ミッドタウン/島田雅彦、亀山郁夫
    「朝日新聞」2007年9月14日 p20−21 *全面広告頁

・<図書館だより> 話題の新訳「カラマーゾフの兄弟」/中山明子
    「日本とユーラシア」 1364(2007.9.15) p6

・<定義集> 【しっかり憶えていましょう】 自立し闘う力を養う気育/大江健三郎
    「朝日新聞」2007年9月18日 p23

・『カラマーゾフの兄弟』完訳記念対談 現代に生きるドストエフスキー/沼野
    充義、亀山郁夫  *東京大学文学部本郷キャンパスにて
    「本が好き!」(光文社) 2(10)=16(2007.10.1) p04−08




本・森田草平『私の共産主義』  新星社 昭和23年9月30日発行 随筆集 

・・・明治37年頃、始めてガーネット夫人のツルゲーネフ全集の翻訳が英国に現れ、続いてドストエーフスキイの全集の翻訳が同じ夫人の手に依って訳された。これは在来英国にあった訳と違って名文であり、又間違いのない翻訳でもあった。私なぞはこれに依って始めて露西亜の二大文豪の作に接することが出来たのである。処が、このガーネット夫人の訳でさへ、同じ頃独逸に現れたドストエーフスキイの訳には及ばないといわれた。(尤も、私はそうも思わないけれど)
提供・池田和彦氏 下記同書「我が外国文学への道」から抜粋紹介

 この夏、信州伊那谷に帰省した折、村内にある長岳寺を参拝した。この寺は、昔(56年前)幼稚園をやっていて編集室・下原も通った所である。ここは、現在、「風林火山」でおなじみの戦国時代の武将武田信玄終焉の寺として、また、中国残留孤児問題の先駆者になった山本慈昭の寺としてよく知られている。が、1915年(大正4年)『カラマゾフ兄弟』(日月社)の訳者森田草平が、戦時中疎開していて『煤煙』を書いていた寺であるということは、あまり知られていない。村人も知る人は少ない。ガラスの陳列棚の中に信玄の遺品らしきものが並べられてあった。その隅の暗がりに『煤煙』の原稿が、申し訳なさそうにあった。私は、森田草平が疎開していたということは知っていた。三本木平に桑摘みを見物にきていた文人の話は、文学好きの母からよく聞いていた。が、原稿の存在は知らなかった。寺も高速道路建設で近くに移転し山本住職も故人となった。実家は檀家ではなく、縁もなくなった。今夏、帰省した折、親戚のものが観光案内をはじめたというので(村は昼神温泉郷という観光地)協力半分、懐古半分で案内してもらった。「こんなところに原稿があったんですね!」私が驚くと、信玄の最期を熱心に説明していた若い住職は、いっそう驚いた様子で「ここにきて『煤煙』のことを聞かれるお客さまは、めずらしいです!!」と戦国談の腰を折られてさも残念そうであった。

新聞・読売新聞 2007年9月5日 水曜日 名作の復刊・新訳ブーム

青春時代の一冊 団塊世代にもう一度
海外名作文学の新訳出版や1960〜70年代のベストセラーの復刊が、文庫本などで相次いでいる。定年退職で時間のできた団塊世代に、若いころ親しんだ本をもう一度読んでもらうことを狙った動きだ。(文化部 待田晋哉) 
「あんなに長くて、重たい小説が売れるなんて・・・」。今年、出版関係者の間である古典文学作品の大ヒットに驚きが広がった。19世紀のロシアの文豪、ドストエフスキーの『罪と罰』に並ぶ代表作『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫全5巻)である。好色で金に汚い父親フョードルの殺害を巡り三兄弟がぶつかりあう物語で、亀山郁夫外大学長が30年ぶりに手がけた。・・・編集を担当した同社翻訳出版部の川端博編集代理(58)も青春時代、ドストエフスキーに熱中し『カラマーゾフの兄弟』を過去5回読んだ。「学生時代、ドストエフスキーは特別な響きのする作家でした。ある程度売れると思ったが、これほどの反響があるとは・・・」と驚く。





掲示板

2008年は『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』と大作を取り上げます。レポーターを希望される方はお申し込みください。

『広場』販売
○ドストエーフスキイの会の最新会誌「ドストエーフスキイ広場No.16」が刊行されました。
 ご希望の方は「読書会通信」編集室まで。 定価1200円 バックナンバーもあります。
            

編集室

○ 年6回発行の「読書会通信」は、皆様のご支援でつづいております。
   ご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です) 
   郵便口座名・「読書会通信」 口座番号・00160-0-48024 
   カンパくださいました皆様には、この場をかりまして厚くお礼申し上げます。

○ ドストエーフスキイ作品の感想、評論、自著の宣伝、映画、演劇評、自身のドストエフスキー体験など、かまいません。
  原稿をお送りください。(メールか郵送)

  「読書会通信」編集室:〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方