Medical Dostoevsky
ドストエーフスキイ全作品を読む会『読書会通信』2002


ドストエフスキーのてんかん

Piet.H.A.Voskuil 著  下原 康子 訳

論 文 名:The Epilepsy of Fyodor Mihailovitch Dostoevsky(1821-1881)
著 者 名:Voskuil PH
著者所属:Dr.Hans Berger Kliniek, Epilepsiecentrum van de Stichting De Klokkenberg, Breda, Netherlands
掲載雑誌:Epilepsia 24:658-667,1983. Raven Press, New York


要 約

今から百年前、1881年1月27日にフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーはこの世を去った。その後、多くの伝記、単行書、回想記などが出版された。せまい範囲ではあるが医学分野の論文も発表され、その中ではドストエフスキーがてんかん患者であったという事実について議論されてきた。

ここに述べるのは、現在の医者が初めての患者に対して行うのと同じ方法をもちいてドストエフスキーの病気の詳細から彼の病歴を構成してみようという試みである。病歴に必要な情報は全発作の記述、頻度、誘因、進行、治療、家族の病歴である。1929年にハンス・ベルガーが発明した脳波を参考にすることができないのが残念だが、ドストエフスキーのてんかんの病型分類を試みた。

その際の問題はいわゆる恍惚前兆が存在したか否かの点である。ここに提供するデータによれば、ドストエフスキーのてんかんは原発性全般てんかんというよりむしろ部分複雑てんかんであって、その発作が二次的に夜間の全般発作を引き起こしたと考えられる。



ドストエフスキーはその生涯で数多くの医者と接触をもったが彼らに対しあまり尊敬を払っていなかったらしい。1877年3月7日、医学への進路についてアドヴァイスを求めてきた若い女性のA.F.ゲラーシモヴァに書き送っている。

「ほかでもありません、わが国の専門家の大多数は実に教養のない連中ばかりだからです。ヨーロッパはそれと違います。かの地にはフンボルトとか、クロード・ベルナールとかいったような、全世界的な思想と、偉大な教養と、知識を身につけた人がいます。しかも、それが自分の専門のほうばかりではないのです、ところが、わが国では巨大な才能を持った人でさえ(たとえば、セーチェノフのような)実際のところ無教育な人間で、自分の専門のこと以外はあまり知っていません。自分の反対派(哲学者)についてはなんの観念も持たず、そのために自分の学問的論結によって、益をもたらすよりも、むしろ害を与えているくらいです。(書簡 1877年3月7日)

ここに試みるのは、かの偉大な作家の没後百年以上たった今、彼の医者に対するイメージを改善させようという一つの試みである。この中で私は現在においても、患者の生活における事実の記録が研究におけるもっとも重要な方法の一つであり、てんかんの場合なおさらだということを示したいと思う。

この方法は今世紀になって発達した脳波記録装置のように洗練された方法ではないが、正しい方法なのである。病歴は診断と分類のためだけでなく、作家の生涯と作品の中で病気のはたした役割を評価するという点でも重要である。ドストエフスキーは作品の中でてんかん持ちの人物を数人描いてはいるが、彼自身の経験をそのまま語っているというわけではない。

1854年2月22日、(その一週間後、獄から釈放された)オムスクから兄のミハイルにあてた手紙の中に書いている。

「ぼくはよく病気になって入院しました。神経の不調のためにてんかんが起こったのですが、しかし、時たまです」(書簡 1854年2月22日)


1857年3月9日、友人のヴランゲリ男爵にあてた手紙で最初の結婚直後に起こった発作について書いている。(同じ日付で兄のミハイルにも書き送っている)

「バルナウールでぼくが発作を起こしたので、その町で四日もよけいに滞在しました。その発作は肉体的にも精神的にも、ぼくを粉砕しました。医師はほんもののてんかんだと断言し、もし猶予なく適当な方法を講じなかったら、つまり完全に自由な境遇でのみ可能な正規の治療をしなかったら、発作はもっとも悪質なものとなって、ぼくはそうした発作のとき、喉の痙攣のために窒息するかもしれない、と予言するのです。ぼくはほとんどいつも発作のとき、そういう痙攣に襲われるのです。(書簡 1857年3月9日)

1857年12月16日、シベリアの第七歩兵大隊の医師エルマコフ はドストエフスキー少尉補の診断書を作成している。

「年齢35才、体格普通。1850年初てんかん発作(Epilepsia)。症状は、叫声、意識消失、四肢顔面のけいれん、泡噴出、いびきのような息づかい、速くて弱い脈拍、発作時間15分。その後、発作状態は全般的な衰えをみせて意識回復。1853年に再発。以後毎月末発症。現在ドストエフスキー氏は、脳の器質性の障害が引き起こす極度の疲労と顔面神経痛にみまわれ、全身の衰弱に陥っている。ドストエフスキー氏はここ4か年間、発作の都度治療を受けたが、依然おさまる気配がない。このゆえに勤務続行は不可能と認める」(新潮社版 ドストエフスキー全集 別巻:年譜[L.グロスマン] 1980 P.146)

ドストエフスキーは1881年1月26日午後8時38分に息を引き取ったが、その年の2月24日、『新時代』第1793号に「F.M.ドストエフスキーの病気」と題するS.D.ヤノフスキーのA.N.マイコフ宛手紙が載った。[訳者付記]

「故フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーはペテルブルグにいる時分から、ペトラシェフスキー事件に問われる3年前、あるいは3年以上も前からてんかんに苦しんでいました。無論シベリア流刑以前です。問題はこの疾患の重いものはepilepsiaと称するもので、フョードル・ミハイロヴィチに現れた1846年、47年、48年の症状は軽度であったことです。ところが、はたの者は気づかなくても本人は誠に不安で、自分で意識して、平常卒中風と称していました」(新潮社版 ドストエフスキー全集 別巻:年譜[L.グロスマン] 1980 P.146)

1851年、オムスクの軍病院の医師だったトロイツキーは同僚のリーゼンカンプ(ドストエフスキーの工兵学校の学友でもあった)に「ドストエフスキーは気の毒だ。こんな遠くに連れてこられた上にてんかんがひどくなるなんて」と話している。(Catteau)

病 歴

てんかんと思われる発作の最初の記録はドストエフスキーの陸軍士官学校の仲間でルームメイトでもあったグリゴローヴィッチによるものだ。その発作は1840年代中頃、ドストエフスキーが最初に世に認められた作品『貧しき人々』を書いていたころのことだった。

「たまたま二人で散歩に出かけたとき、かれが発作に見舞われたことが何度かあった。あるとき、かれといっしょにトロイツキー横丁を歩いていて、葬式の行列に出会ったことがある。ドストエフスキーは急いであとに引き返そうとしたが、数歩も行かないうちに発作にに襲われてしまった。それがあまりにひどかったので、わたしは通りがかりの人の助けをかりて、かれを近所の食料品店まで運んでいかなければならなかった。そこでやっと意識を回復させることができたのだが、こういう発作の起こったあとは、たいていかれは憂鬱そうになり、それが二日か三日はつづくのであった」(ドリーニン編 水野忠夫訳 『ドストエフスキー同時代人の回想』河出書房 1966

同じ夏(あるいは一年後)ある小さなパーティが終わりかけていた夜おそく、別の友人がドストエフスキーの顔の奇妙な変化と目の中の驚愕の色に気がついた。数分たってドストエフスキーは力なく「ここはどこですか」とたずね、外気をもとめて窓にかけよった。そこの主人が部屋に入ってきたとき、ドストエフスキーは窓敷居に腰かけていた。彼の顔はゆがんで頭は片方にかしぎ、身体はけいれんを起こしたように震えていた。主人は冷たい水で彼の顔を濡らした。しかしドストエフスキーは十分回復しないうちに通りに走り出てしまった。驚いた主人はあとを追ったが追いつけなかった。そこで馬車に飛び乗り、2ブロック先の病院の門の前でやっとつかまえることができた。そのときは平静にもどっており、失礼して帰らせて欲しいとたのんだ。そして助けが欲しいという、ぼんやりとした考えから病院まで走ったのだと説明した。(Yarmolinsky)

1846年5月の朝、ドストエフスキーは初めて医師ヤノーフスキイを訪問した。そのときのことをヤノーフスキイが回想している。

「背は普通よりも低かったとはいえ、体格はよく、とくに肩幅が広くて、胸は厚かった。頭部は均整がとれていたが、額は異常に発達していて、とりわけ額の上部が突き出ていた。明るい灰色がかった小さな眼は、じつに生き生きとしており、うすい唇はいつもしっかりと結ばれていて、そのため人の善さそうな、また親切そうな表情を顔全体につくりだしていた。髪の毛は明るい色というより、ほとんど白っぽくて、ひじょうに細く、やわらかそうに見え、手のひらや足なんかもめだって大きかった。服装はいつも清潔にしていて、センスよく着こなしていたといってもよかった。かれが身につけていたものは、上等な羅紗地で作った特別仕立ての黒いフロックコート、黒のカシミヤのチョッキ、一点のしみもない洗い立てのオランダ製ワイシャツ、それにチンメルマンのシルクハットなどで、服装全体の調和を壊しているものがあったとしたら、それはあまりかっこうのよくない靴と、軍学校の生徒というより、神学校の卒業生のように鈍重なかれの振る舞いだけであった。精密検査と聴診の結果、肺臓は全然異常がなかったが、脈拍が不規則で、婦人や神経質な人々によくあるようにひじょうに早いということがわかった」(ドリーニン編 水野忠夫訳 『ドストエフスキー同時代人の回想』河出書房 1966)

1847年から1849年にかけてヤノーフスキイはドストエフスキーの発作を3回目撃した。(Yarmolinsky)

1.1847年7月、ヤノーフスキイはなにか予兆のようなものを感じて聖イサク広場を横切ったときドストエフスキーを見かけた。彼は帽子を被らず、上着とチョッキのボタンはとれ、ネクタイもなかった。軍服の数名の男たちが肘で彼を支えていた。

彼は自分は死にかかっていると叫んでヤノーフスキイに助けを求めるのだった。脈拍は100以上になり、頭は後にのけぞりこわばって、けいれんが始まっていた。医師は彼を家に連れて帰り、静脈から石炭のように黒い血を抜いた。そしてそれから数日間は自宅に泊めた。

2.1848年5月、ドストエフスキーはヤノーフスキイにベリンスキイの死を告げた。ドストエフスキーの様子から医師は彼に泊まっていくようすすめた。その日は無事に過ぎた。しかし明け方の3時ごろ医師はドストエフスキーの眠っている部屋から重苦しいいびきのような息づかいを聞いた。行ってみるとドストエフスキーは仰向けになって目を開き、口から泡をふき、舌を出し、けいれんしていた。

3.1849年早春のある日、夜遅くサークル内での不愉快な事件のあった後、ドストエフスキーはヤノーフスキイに発作が起きそうだと言って助けを求めてきた。医師によればこの時おこった発作は特に激しくまた特徴のある発作だった。というのは患者は数回の光発作にみまわれていたのである。ドストエフスキーはこの時の発作の性質については認識がなかったが、「breeze(微風)をともなった発作」と表現した。前兆があったことが推測できるが、興味深いのはbreeze(微風)ということばが文字通りアウラ(前兆)を意味しているということである。もしドストエフスキーが医学書でこの言葉を知っていたとしたら(彼はときどき医学書を読んでいた)このときの発作にkondrashka(発作)ではなくエピレプシー(てんかん)という言葉をつかったであろう。

結論として、ドストエフスキーの最初のてんかん発作は25才ごろであって、4〜7才または一説にあるように18才の父の死の時ではない。最終的な診断は最初の結婚(1857年2月6日)後の数日間におこった激しい発作で下すことができる。このとき以来、発作は激しさを増し頻繁におこるようになる。

1850年以後の発作

1855年の兄ミハイルへの手紙でドストエフスキーは「私はあらゆる種類の発作にみまわれています」と書いている。二度目の妻アンナ・グリゴーリエヴナ・スニートキナの回想記によればドストエフスキーの発作はほとんどが睡眠中に起きているという。重要なのは彼がおそくまで執筆したり読書したりした夜のおそい時間に発作がおきていることである。二度目の結婚(1867)のハネムーンの間、短い期間に続けて二回発作をおこしている。二度とも夕食の席でシャンパンを飲んでいた。

「聖週間の最後の日、わたしたちは親類の家によばれ、姉の家にまわって夕べをすごしていた。夕食はとても愉快で(いつものとおりシャンパンが出た)客が帰って身内のものだけになった。フョードル・ミハイロヴィチは殊のほか元気で、姉と楽しそうに何か話していた。すると突然、何か言いかけて、真っ青になったかと思うと、ソファから体を浮かすようにしてわたしの方にもたれてきた。すっかり変わってしまったその顔つきを見てわたしはぎょっとした。急に、おそろしい、人間のものとも思われぬ叫びが、というより悲鳴がひびきわたって、彼は前にたおれはじめた。同時に、夫とならんで掛けていた姉が金切声をあげ、椅子からとびあがると、ヒステリックに泣き喚きながら部屋を駆け出して行った。義兄もそのあとを追って飛び出した。
てんかんの発作の初期にはつきものの、この“人間のものとも思われぬ”悲鳴を、その後、わたしは何十ぺんも耳にすることになった。だが、われながら意外だったのは、てんかんの発作を見るのは生まれてはじめてだったのに、この瞬間少しも驚かなかったことだ。わたしは彼の肩を抱きかかえ、力をこめて長椅子に掛けさせた。だが無感覚になった体は長椅子からずりおち、私の力ではどうしようもなかった。それを見たとき、どれほど驚いたことだろう。私は灯のともっていたランプを置いた椅子を押しやり、ようやくのことで彼を床におろし、自分も座り込んでけいれんの続くあいだ自分の膝の上に頭をのせていた。だれも助けにくるものはいなかった。姉がヒステリーをおこしたので、義兄も女中も、彼女につきっきりで介抱していたからだ。少しずつけいれんがおさまると、彼は意識をとりもどしはじめた。しかし、はじめのうち、自分がどこにいるかもわからず、口もきけなかった。たえず何か言おうとしたが、ろれつがまわらず、何を言っているのか聞き取れなかった。半時間ほどもしてから、わたしはやっと彼を起こして、長椅子に横にさせることができた。そして家に帰れるようになるまで、もう少し休ませることにした。だが、なんというひどい悲しみだったことか。発作が最初のから一時間たってぶり返したのだ。今度はもっと強く、二時間以上もたって、意識を取り戻してからも彼は苦痛に声をあげて叫ぶのだった。なんと恐ろしい光景だったろう!その後も彼は、二度つづく発作をたまには起こした。医者が言うのには、このときの発作は、挨拶まわりや招待宴ですすめられたシャンパンで興奮しすぎたためだった。酒は特に体によくなかったので、けっして飲まないようにしていたのだが。(アンナ・ドストエフスカヤ著 松下裕訳『回想のドストエフスキー』筑摩書房 1973)


ストラーホフも発作を目撃している。

「あれはたしか1863年のちょうど復活祭の日曜日のまえの晩のことだったかと思う。夜おそく、十時すぎに、わたしのところにかれが立ち寄り、二人で熱中して話しこんだときのことである。なにを話し合っていたのか今は思い出せないが、それがたいへん重要な、抽象的な話題だったことはおぼえている。ドストエフスキーはすっかり興奮して、部屋の中を行ったり来たりはじめたが、わたしはテーブルに向かって腰をおろしたままだった。彼は何か高尚で、楽しい話をしていた。わたしが少し感想を述べてからその考えを支持すると、かれはものにとりつかれたような表情をし、最高潮に達した熱意を示しながらこちらを振り返った。かれは思っていることを表現する言葉を探し出そうとするかのように、一瞬たちどまって口を開けた。なにかただならぬことを言うにちがいない、啓示のようなものを告げるにちがいないとわたしは予感し、心を張りつめてかれを見つめていた。すると突然、開いていた口から、異様な、長く引っ張るような、意味をもたぬ響きを出すと、かれは気を失って、部屋のまんなかの床に倒れてしまった。
そのときの発作はそう強いものではなかった。それでも痙攣のために全身が硬直するや、唇の端に泡を吹くふきだしはじめたのである。かれが意識を回復したのは三十分ほどたってからであった。それから、わたしは近くにあったかれの家まで歩いて送って行ったのである。
(ドリーニン編 水野忠夫訳『ドストエフスキー同時代人の回想』河出書房 1966)


発作は一見は平常を保っているように見えるもうろう状態に続いておこることが多かった。発作の後は健忘症(発作後の自動症)に陥った。1875年8月、ドストエフスキーによれば、完全に意識をなくして床に倒れていた後、気がついておきあがってから、タバコを一つ二つと巻き終えた。全部で四本巻いたが「出来が悪かった」という。1870年10月、ドストエフスキーによれば発作の後、火のついたローソクを部屋に運んできて、窓をしめた。その直後また発作にみまわれたらしい。発作の後はしゃべったり書いたりするのに困難をきたした。加えて発作後の3〜5日は欝状態が続くと何度か語っている。(
Proffer

恍惚前兆(ecstatic aura) 


これまでは恐怖と失語症の前兆のみで、恍惚前兆にはふれなかった。実はこれが長年論議の的になっている問題点なのである。これに関しては1977年のW.G.Lennoxと1978年のHenri Gastautの注目すべき論文がある。Gastautの論文はCatteauの優れた業績をふまえたものである。

ドストエフスキーは少なくとも三人の人物に恍惚前兆について語っていることがわかっている。ストラーホフ、ソフィヤ・コヴァレフスカヤ、ヴランゲリ男爵の三人である。加えて、この現象を『白痴』のムイシキンと『悪霊』のキリーロフの口からも語らせている。

ストラーコフとの議論の最中、ドストエフスキーは熱中のあまり叫んだ。「神は存在する。いるのだ」それと同時に近くの教会の鐘がイースターの祈りを告げて空いっぱいになりわたった。彼はさらに言った。「天が地上に降りてきて私は呑み込まれたのを感じた。私は本当に神を感知した。神は私の中にいた。そうだ、神は存在する。私は叫んだ−その後は何も憶えていない」(Catteau)
ドストエフスキーはこの時点での自分の経験をメッカからエルサレムまで飛んだという伝説上のマホメットの天上訪問と同一視している。伝説によれば、これらの出来事は一瞬におこったとされている。ドストエフスキーはコーランの仏訳本を持っていた。またコーランの十七章一節を読んでいたとみられる。(Catteau)

ストラーホフの回想
ドストエフスキーは何どもわたし(ストラーコフ) に語っていたが、発作の前には、恍惚となる一瞬がかれに訪れるのだそうである。かれはこう言っていた。「ほんのわずかの瞬間、ぼくは正常な状態ではおこりえないような幸福、ほかの人々には理解できないような幸福を体験するのです。ぼくは自分のなかにも、全世界にも、完全な調和を感じます。それに、その感じはとても強烈で、甘美なものなので、あの快感の数瞬間のためなら、十年、いやもしかしたら一生涯を捧げてもかまわないくらいです」(ドリーニン編 水野忠夫訳 『ドストエフスキー同時代人の回想』河出書房 1966)

ソフィヤ・コヴァレフスカヤは少女のころドストエフスキーと出会った。その回想のなかでドストエフスキーが1865年に自分の病気について語ったことを書き記している。それはシベリア流刑中(1854〜1857)のことで、不意に古い友人が訪ねてきて、議論に熱中した時のことだった。これは、ストラーホフが1863年に復活祭前夜のこととして書き留めている出来事と同一のものらしい。(Catteau)

ソフィヤ・コヴァレフスカヤの回想
「天が地上に下りて来て、私を運んで行ったような気がしたのです。“神さまはある”と叫ぶとともに、私は正気を失ったのです。あなた方のような健康な人たちは、発作の起ころうとする瞬間に私が感ずるような天福はとても想像できません。マホメットはコーランの中で自分は天国にいたと言っています。愚人やわからず屋は彼を嘘つきだとか詐欺師だとか呼びます。決してそうじゃない。マホメットはうそを吐きません。彼は私のようにてんかんを病んでいたのです。その発作が何秒つづくか、それとも何か月つづくか言えないが、どんな幸福な生活をくれたってそれと取り代えっこはしません」(『ソーニャ・コヴァレフスカヤ 自伝と追想』野上弥生子訳 岩波文庫 1933)


発作の頻度

発作の頻度と進行の具合はヴランゲリ、ストラーホフ、ドストエフスキーの手記、二度目の妻の日記などから公平に正確に推定すべきだが、一日に2回から4か月に1回までの変動がある。平均すると、月1回の発作がおよそ35年間続いたと考えられる。

家族の病歴

Yarmolinskyはドストエフスキーの父親は渇酒癖と奇妙な発作があったと書いている。
その他叔父や兄弟にも飲酒に関わる問題があったといわれている。兄のニコライは多血症、痔疾、ヒポコンデリーでその結果生じた神経の障害があった。母は結核で死んでおり、父親はいわれているように暗殺されたのではなくおそらくは脳出血で死亡したものと思われる。息子のアレクセイは三才の時てんかん発作重延状態で死亡している。

鑑別診断

現在、3つの鑑別診断が考えられている。ヒステリー、全般てんかん、部分てんかんである。


ヒステリー

いくつかの理由によりドストエフスキーは神経症的な性格を有していたことは確かである。彼の言動は情動不安性、興奮性、うつ、フラストレーションの低レベルで特徴づけられる。時としてまったく無口、また別の時には自分自身をさらけだす。これらの症状は発作の前になると、昂じることが多かった。特にシベリア時代の兄ミハイルにあてた手紙の中で神経衰弱に似た神経障害や恐怖や心臓の鼓動の早いことなどを訴えている。「二年間というもの私は奇妙な道徳的に不安定な病的な状態に陥り、ヒポコンデリーになっていました。いったい、何をしていいのかわからずにいました」

1837年、おそらく精神的な誘因からくると思われる失声症の期間があった。フロイドの説では発作の原因をヒステリーとしているが、その事実材料はとぼしい。その説は作品の脚注とあいまいな暗示に基づく空想の産物である。またドストエフスキーの娘の信憑性に欠ける伝記(彼女は父が死んだとき12才だった)の中の誤った記述も一役かっている。

事実の分析においては Frank とCatteau の業績が優れている。当時フロイドが一般的に知られていた以上のてんかんの知識を持っていたとは思われない。彼はツヴァイクに宛てた手紙で次のように書いている。「てんかんは心の働きと別の器質的疾患である。そして、精神活動の低下と退化をともなう。天才といわれる人物のなかでてんかんと考えられている人のほとんどはヒステリーの事例である」

ドストエフスキーの発作は心理的なものではなかったが、実際には心理的なストレス、しかも、とりわけ執筆活動に関係のあるストレスによってしばしば引き起こされている。このことはアンナ・グリゴリエブナの日記と『白痴』について書きおくったマイコフへの手紙で裏づけることができる。

全般てんかんか部分(側頭葉)てんかんか

部分(側頭葉)てんかんか全般てんかんかの立証が不十分という理由からガストー(Gastaut)は恍惚前兆の存在をもはや信じることができないと結論した。彼の説によれば、「てんかんの症状の一つと言われるこの現象は実はドストエフスキーの創作によるものである。彼はてんかん患者としての経験と小説中の創造とを区別できなかった。あるいは意図的に区別しなかった。またドストエフスキーはいくつかの発作の前におきる精神症状に気づいていたには違いないが、それを神秘化している。そしてドストエフスキーの真実はこの神秘化の中にこそあった」また、ガストーは、部分てんかん対全般てんかんの議論で重要と思われるポイントを指摘している。

@自動症はてんかんにはよくある症状であるが、発作の前、あるいは発作に代わっておこることはなく、発作の後の症状である。Aドストエフスキーは自分の発作にむすびつけては恍惚前兆について言及していない。B原発性てんかんにしばしばみられるけいれんに対する家族的素因があった。ドストエフスキーの息子のアレクセイはてんかん重延状態で死亡している。C器質的脳病変を疑われるような、神経学的、精神医学的な証拠がない。D発作は夜間、しかも眠りの初期の段階で起きている。Eいくつかの発作、特に朝起こったものは、けいれんが先行していた。ドストエフスキーはその時「はじまる」と叫んだ。それは両側性の強いミオクローヌスの発作であった。これは大発作の前の症状であることが多い。Fドストエフスキーの知られている発作のすべては、わかっているかぎり全身性全般てんかんである。

たしかに、恍惚前兆はたいへん稀である。ガストーは35年間の診療で一人も見たことがないという。オランダのてんかん学者のなかにも恍惚前兆のある患者を診たという報告はない。しかしながら、なんともいえない幸福感や喜びを感じた患者の報告が、ガストー(1987)はじめAlajouanine(1951), DeCastro ら(1960), Boudouresque ら(1972), Cirignotta ら(1980) によって発表されている。(訳者注:日本における報告:松井聖、内藤昭彦恍惚発作を呈した側頭葉てんかんの一例-いわゆるドストエフスキーてんかんについて- 精神医学29(8):857-864 1987)

その中の、Cirignottaらは1980年に多描記脳波検査(Polygraphic EEG)を使って眠い状態またはリラックスした状態の時に起こった発作の記録を報告している。これらの発作は漠然とした主観的な症状から成り立っており、患者がその一瞬に知覚したことを表す言葉は不完全なものであった。しかしながら、それは強烈で、かつて経験したことのない感覚であった。発作が持続する間、いやな感覚、感情すべて消え去り、思考は停止していた。彼の精神と存在全体が至福の感覚で満たされた。周囲に対する注意力は休止したが、彼には、そのことが発作の開始のための必要条件であるかのように思えた。

患者の個性が発作の症状に影響を及ぼしているという見方は重要である。精神的前兆や発作の症状が患者の精神世界に関わりがあり、それがドストエフスキーにあっては至福と調和の世界に対する彼の熱望の現れであったという想像は確かに可能である。

何が真実だったのか、何がドストエフスキーの想像だったのか、早急に決定するのは危険だ。彼が『白痴』で描いたセミョーノフ広場の判決と処刑劇の場面は彼の想像ではなかった。その場面は歴史上の事実である。また、ドストエフスキーが潜在的な尊属殺人に対する罪の意識から、罰せられたいと望んでいたと推測する説もある。

てんかんの家族史と脳障害の兆候のないことは、部分てんかんの診断に矛盾しない。同様に夜間の全般てんかん発作の発生にも矛盾しない。

Janz(1974)の分類では、全般性強直間代発作と部分複雑発作の両方のある患者がしばしば睡眠中に発作をおこしている。一方、原発性全般てんかんでは発作の87パーセントが覚醒中に起きている。ドストエフスキーの場合、覚醒中の発作は稀であった。筆者はすでにドストエフスキーの睡眠習慣が尋常ではなかったことに言及した。ドストエフスキーの事例において、その症状に関する疑問は完全に解決されたとは言えない。同様に病因についても議論の余地がある。

遺伝に関しては、ヤンツが睡眠てんかんではその7.7パーセントに家族性てんかん障害が認められ、覚醒てんかんにおいては、(それはしばしば真性てんかんまたは原発性全般てんかんだが)12.5パーセントに家族性てんかん障害を認められたと報告している。

ドストエフスキーのてんかんの診断に解決をつけるため、ドストエフスキーの症状を要約してみよう。

@かすかなbreeze A恍惚前兆 B表情を伴う嚥下障害 C蒼白 D頭部ののけぞり E恐怖感 F叫声 G全身に及ぶ痙攣発作 H 自動運動を伴う永続的な混乱状態、書くこと・話すことの混乱、発作後の欝。I最近のことがらを記憶する機能の混乱(後述)。

私はガストーが提出した疑問のいくつかは共有している。しかし、ドストエフスキーの事例が二次的に全般性夜間発作にいたった部分複雑てんかんの分類であったという説を完全に否定する彼の説に賛成することはできない。なぜなら、我々は実際にそのような患者を知っているからだ。恍惚前兆があったかどうかは難しい問題だが、先にあげた症状から総括的に判断するかぎり、ドストエフスキーに部分てんかんの症状があったことは確かである。そしてそれは1846〜1847年の間、ヤノーフスキイや他の友人が残したドストエフスキーの発作の記録とも一致する。

訳者注:ガストーはこのVoskuilの論文を受けて1984年に「ドストエフスキーのてんかんについての新しい考察」(下原康子 訳:ドストエフスキーとてんかん 広場No.2 P.63-71 1992)という論文を発表した。その中で結論としてVoskuilの説に賛成している。

病 因

最初の発作が1846年に起こったという説を信じると仮定すれば、器質的な脳障害を受けたと思われる唯一の記述を兄ミハイルにあてた手紙の中に見出せる。

「ぼくは文字どおり死ぬほどの病気をしていたのです。神経系統全体が極度にひどく苛立ったための病気ですが、それが心臓に集中して心臓の充血と炎症を引き起こしたのです。蛭と2回の放血でようやく取り静めました」(書簡 1946年4月26日)

この病気にかかる前までは、ドストエフスキーは自らの身体をかえりみず、医者にかかることを避けていた。しかし、この病気以後、その習慣はあらためられた。

治 療

1863年7月17日、ドストエフスキーはツルゲーネフに手紙を書いている。

「小生は重いてんかんを病んでいまして、それが次第に募っていくので、絶望に陥っているくらいです。どうかすると発作のあとで、二週間も三週間も、ご想像もできないような憂愁に襲われるのです!実際のところ、小生はできるだけ近いうちにベルリンとパリに向けて出発します。それはただただてんかんの専門医の診察を受けるためなのです(パリではトルソー、ベルリンではランベルグ)ロシアには専門医がおりません。小生は当地の医者たちから、互いに矛盾撞着した診断を与えられるので、彼らに対してまったく信頼を失ったほどです」(1863年6月17日)

Herpinを訪ねることも考えていた。ドストエフスキーはてんかん治療のための薬は服用していなかった。ヤノーフスキイは時々、放血をおこなった。ペテルブルグでドストエフスキーがかかっていた医者はI.B.von Bretzel であった。ベルリンでは胸部疾患の診察のためにFrericksという医者を訪ねた。またBad EmsではOrth医師の診察を受けた。

発作は1860年から1870年にかけてもっとも頻繁に起こった。しかしながら、肺気腫による死の数年前は徐々におさまっていた。『悪霊』執筆中、何度か発作にみまわれた。この間に起こった記憶の混乱が作品を構成する上で大きな障害となった。また、知っている人々の顔を思い出せず、そのために面倒をおこすこともあった。
1873年1月、ドストエフスキーはソロヴィヨフに自分の病気について語っている。

「わたしの神経は、若いときから痛んでいたのです。シベリアに送られる二年前、わたしが文壇の不愉快な雰囲気にとりかこまれ、いがみあいに明け暮れしていたときに、一種独特な、耐え難いほどに責めさいなむ神経の病気がはじまったのです。その不快な感じを物語ることはできませんが、その感覚だけははっきりとおぼえていて、自分が死につつあるのだとよく思ったものでした。そう、たしかに、ほんとうの死がやってきて、それから去っていくのでした。わたしはまた仮死をとても恐れていたものです。それが不思議なことに、逮捕されたときから、この嫌悪を催す病気はぴたりとやんでしまい、シベリアへの旅の途中でも、徒刑地でも、それ以後は一度も苦しめられたことはなく、こうして突然、わたしは健康を回復し、じょうぶになり、すがすがしい気分になり、心が落ち着くようになったのでした・・・。ところが流刑中にてんかんの最初の発作が起こり、そのときからてんかんがわたしに付きまとうようになりました。この最初の発作に見舞われる以前に身の上に起こったことなら、人生のどんな些細な事件であれ、出会った人々の一人一人の顔であれ、読んだり、聞いたりしたものであれ、すべてわたしは詳細にわたって記憶しています。ところが発作が起こるようになってから後にはじまったことだと、わたしはたびたび物忘れするようになり、ときによると、たいへんよく知っている人々でさえ、すっかり忘れてしまって、顔も思い出せなくなるようなこともあるのです。懲役に行ってから後に書いたものはなにもかも忘れてしまい、『悪霊』の続きを書くときなどは、登場人物の名前すら忘れてしまったので、最初から全部読み返さなければならなかったほどでしたよ」(ドリーニン編 水野忠夫 訳 『ドストエフスキー同時代人の回想』河出書房 1966)

ドストエフスキーの手記からの引用でこの論を終えよう。1865年12月、ドストエフスキーは書いている。
「たしかに、私はてんかん(falling sickness)だった。この病のおかげで12年間も不愉快な生活を強いられたことは不運だった。しかし、私はこの病気を恥じてはいない。てんかんは私の創作活動を妨げはしなかった」(Proffer)


Literary Reference

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2.Yarmolinsky A:Dostoevsky,his life and art.London, Arco Publications,1957.
3.Proffer CR,ed.The unpublished Dostoevsky:Diaries and notebook,Vols T-V(1860-1881).Ann Arbor:Ardis,1973-1976

Scientific Reference

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