Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.144 2014.6.20



地下室人に読ませたい『哲学入門』
    

下原康子


『哲学入門』(戸田山和久 ちくま新書 2014)という本を読みました。読売新聞の書評がきっかけです。評者は宇宙物理学者の須藤靖氏。この本のおかげで哲学アレルギー症状がいくらか軽くなったそうです。哲学にも物理にも接触経験がない私には無縁の本に思われましたが、書評の中の次の一節に興味を惹かれました。

<物理学的決定論と人間の自由意志の存在は両立するのか、さらに自由意志なくして道徳は存在しうるのかを論じた6章と7章は極めて刺激的>とあります。

脳の中でアハ!細胞が発火し、おなじみの人物への連想につながりました。一人は『地下室の手記』の地下室人です。「自然法則に妥協しない」と強気ですが、実際には「‘ににんがし’にあかんべえ」するのが関の山という、御託の多いジタバタ男です。それから『罪と罰』のラスコーリニコフがいます。彼は自分の犯罪について「はたして自由意志だったのか?そうでないなら罰って何だろう」とわけがわからない悩み方をする、これまた、はた迷惑な空想男子です。本書で彼らに対する示唆を得られるだろうか、そう思って読み始めました。

『哲学入門』の著者の語り口はカリスマ塾講師さながらです。平易で懇切丁寧、ギャグで気を惹くなどの工夫満載。にもかかわらず、内容はとても難解でしばしばお手上げ状態になりました。ひ弱な脳には重労働でしたが、飛ばし読みをしながらもなんとか読み終えることができたのは本書における著者のミッションが明快で一貫していたからです。「理系崩れの哲学かぶれ」という著者の研究・教育方針は「哲学と科学の境目をなくそう」。その方針に則り、本書が試みるのは唯物論的・発生学的・自然主義的観点を基本姿勢とする『哲学入門』です。

この世界にあるのはモノ(物理的対象)だけという世界観に立った上で、日常生活に現れる抽象的な対象(「存在もどき」)がなぜ存在するのか。意味・機能・情報・表象・目的・自由・道徳を取り上げて、それら「存在もどき」を「モノだけ世界観」の中に描きこもうとしています。その情熱は真摯で頼もしく感じられました。とはいえ、理系の説明の大半は理解できなかったというのが正直なところです。それでも、いくつかのインスピレーションを得ることができました。

「情報・知識は人間特有の概念ではなく自然界にもある」
「自己は実体というより組織化のされ方である。自己と呼ばれる組織化を経由している行為が責任のある行為なのである」
「生きること総体に目的はない。人生は短めの目的手段連鎖の集まりである」


これまでいくら考えても埒が明かなかった問題、たとえば、目的とか自由について、進化論や発生学の観点から読み解く、といったアイディアそのものが私にとっては大発見でした。

しかし、章が進むにつれて納得度は下降気味になり、書評でもっとも注目した、自由・道徳の部分には物足りなさが残りました。

そういえば、朝日新聞の書評には次のように書いてありました。(評者は批評家の佐々木毅氏)

<従来の「哲学」はともすれば「文学」に接近するが、そちらの方向には敢然と背を向け、日進月歩の「科学」の達成と歩を同じくしようとする「哲学」。そして著者は、これこそが本物の「哲学」だと言うのである> 

しかし、「哲学」を物語るという行為は「文学」に無縁ではないはず。一人のドストエフスキーかぶれが『哲学入門』に興味を抱いたという小さな事実を戸田山さんに伝えたい、と思ったりもしました。最後の章「人生の意味」の中(以下)に、ドストエフスキー的なテーマが響いているように感じました。

「一歩ひいて眺める能力と自分であることを止められないというギャップが無意味さを生む」
「人生の意味も無意味も、われわれが生存のために獲得した副産物だ」
「そもそも人生の無意味さは解決を要する問題なのか」
「アイロニカルな笑みをたたえ、ジタバタ生きることにおいて、われわれは自分の人生を生きるに値すると見なしていることを態度で示している」