ドストエフスキーとてんかん/病い


<抜粋>

てんかん人の世界 
(O.テムキン『てんかんの歴史1』より)


O.テムキン てんかんの歴史 1 古代から十八世紀まで 
和田豊治訳 中央洋書出版部 1988 P.412-424


4. てんかん人の世界

てんかん患者の宗教的行為に関する十九世紀後半の研究がさらに進むと、そこに預言するてんかん人という早期の偏見との著しい平行関係があることが判明した。もちろん形而上学的解釈は根本的に変えられた。てんかん者が発作の中で、普通の体験では手にできない真の天啓をもつか否かが以前は問題であったが、しかし今度はてんかん者が見聞きするものの主観的な真実性、さらにその患者が信ずるものの社会的な意味が問題になってきた。そしてこのような事にたいする関心は精神科医に限らず、歴史家や文学関係の人たちにもおよんだ。マホメットの天啓に関する四十年代の解釈の変更は、確かにてんかん者とその世界についての見解の推移を示す鏡でもある。

周知のように西洋ではマホメットがてんかん人であり、それゆえにぺてん師であるといい伝えられてきた。この話をギボンは中傷であるとして退けた。ところが、今度は力ーライルは英雄と英雄崇拝について講じたときに、マホメットを預言者の英雄としてとりあげた。てんかんについては何もふれなかったが、これは彼には英雄がぺてん師であってはならなかったからである。一方、精神科医たちもてんかん説から離れた。また、ボーはてんかんを否定して偏執狂とみた。このことが次いでファルレ、フェリュス、ルノーダンといった知名な精神医学者たちによって、フランス医学々士院に提出した報告で論議された。すなわち、彼らはマホメットをその使徒たることの絶対的信者であり、大立法者であり、そして大政治家とみたのである。また、彼らもてんかんという診断をしりぞけたが、ボーはかわりに精神病者のエクスタシー状態を採用するように望んだ。しかし彼らは疑似性エクスタシー〔すなわち一種の詐病〕と考えた。

「マホメットが幻想によって、天から降ってくると主張する偽りの啓示によって、民衆をだましたとしても──このために敵からぺてん師という汚名を着せられるのだが──、しかしコ─ランがいうように確かに純粋で誠実なものを人びとにもたらし、それで国家を改革し、野蛮で無知な状態から解放したのである」。

このようにしてマホメットを詐欺師として独断的に忌避した時は去り、マホメットその人への歴史的な興味、そしてイスラムの伝統の研究へと移っていった。一八四三年に、ドイツの東洋学者のグスターフ・ワイルが『預言者マホメット』という本を著したが、そのなかで彼もまたマホメットに偽りのない真実を認めている。ワイルによれば、まずマホメットの思考が、自分を純粋な信仰の開祖と信じさせることになったいう。そして、それに活発な幻覚が加わったのであるが、それは神の啓示を告げる天使の姿となって現れた。マホメットの場合、「このような自己欺瞞はすべて了解できるのであって、それは当時の迷信にもよるのであるが、彼は以前にてんかん者として悪霊がのり移ったと自ら思いこんでいたからである。そのため彼は重要な問題でひどい心労があった後にしばしば起こった意識消失を、いとも簡単に天使との超自然的交遊のせいにしたのである。そして目覚めた後、自らの精神にはっきり現前したものを天の啓示と考えた」。なお、ワイルはそのてんかんの証しとして伝説的な履歴を添えているが、それがやがてアングロサクソン圏内にアーヴィングの著書『マホメットの生涯』によって伝わった。

かれこれ二十年後に、いまひとりのドイツの伝記作家シュプレンガーが資料を再検討したが、その発作には健忘が著明でないことから、マホメットがてんかんに罹病したことを否定している。そしてマホメットはヒステリーで、他の疾患のまねをする病気であったという。当時マホメットの身辺にはマラリヤが流行していたが、彼の発作はその発熱時の状態を示したという。「顔が蒼白になり、ふるえ、悪寒状態を呈、最後に大粒の汗が顔から流れ出すと、それで発作が来たことがわかったといった」。

これらをみるかぎりではマホメットの医学的判定が解釈者の宗教や哲学観そしてまた当時の病名分類学上の流れによるところが大きく、その手中にある資料によってはいないようである。実際、ヒステリーが流行語になるとヒステリー人とみられるようになった。ワイルはマホメットの幻視やインスピレーション、すなわちてんかん性の幻覚について、その存在を断定はしていない。しかし、この点についててんかん者の体験、とくにその宗教的な感性が問題になってくると、直ぐに精神科医の関心をかきたてた。そしてマホメットに類似の症例が多く引用されてきた。以下は、てんかん患者が妻にあてた手紙の一部である。

それから私はそう思ったのだが、自分の頭の髪をつかまれて空を飛び、美しい国につれていかれた。そこは緑の公園で、子羊でいっぱいであった・・・。それから、私には会社の人と思われたが、その人に神はどこかと聞いた。すると、答は天。そこで私もここが天だというと、その人はここは天への台所にすぎない。純粋で完全なもののほかは誰も天には入れないといった。その幻めいた人は、ここは聖人たちが完全なものとなったところだといい、そして救世主が行った後に入国した人の数を知らせてくれた・・・。
 
この種の患者は、その見たり聞いたりしたことの真実性を疑わない。彼らはその心が身から一時消え、そして魂の世界を訪れたと信じている。彼らがいう体験は多くの宗教的熱狂者たち、とくにマホメットのように新しく宗祖となった人たちのそれとなんら異ならないのである。

このようにしてやがて、てんかん人マホメットの筋書は再び信じられてきた。しかし、それはかつては預言者でないことの証しに用いられたものであったが、こんどはその神聖さのそれとして利用された。一方、彼が実際に幻覚をもっていたこともまた明白になった。他方、この再確認は作家フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキー(1821-81)の自己洞察にも負っている。ちなみに、ドストエフスキーの発作はエクスタシー状態の前兆ではじまったが、それが精神医学の文献では評判になった。

ドストエフスキーを幼い頃に知っていたソフィア・コヴァレフスカヤは記述しているが、それによると彼は彼女の面前で一八六五年に自分の病気について語ったという。すなわち、それはシベリヤ流刑中にはじまったもので、不意に古い友人が訪れてきた時のことであった。

それはちょうど復活祭の前夜のことであったが、しかし会合の喜びのままに彼らは何の夜かも忘れ、夜どおし坐りこんで語り明かした。そこには時も疲れもなく、意気投合して痛飲した。彼らは二人にとって何よりも愛するものについて語りあった。それは文学、芸術、哲学、そしてついには宗教にもおよんだ。友人は無神論者であったが、ドストエフスキーは信者であった。両者はそれぞれの立場で熱心に論じあった。「神は存在する、いるのだ」とドストエフスキーは、とうとう興奮して叫んだ。それと同時に、近くの教会の鐘がイースターの祈りをつげて空いっぱいに鳴りわたった。彼はさらにいった。「天が地上におりてきて、私はのみこまれたと感じた。私はほんとうに神を感知した。神は私の中にいた。そうだ、神は存在するーー私は叫んだーーそれから私はもう何も知らなかった。

彼はその語りの、この時点での自分の経験を、メッカからエルサレムまで一瞬のうちに飛んだという、伝説上のマホメットの天上訪問と同一視している。なお、ドストエフスキーはコーランの仏訳本をもっていたし、それを手にしたのはシベリヤ追放の時にさかのぼる。彼は多分コーランの一七章一節を読んでいたとみられるし、また伝説上の潤色にも明らかに通じていた。

彼〔ドストエフスキー〕はつづけた。「まったく君、病まない人よ、われわれてんかん者が発作前の数秒の間に体験する至福──それはどんな幸福なのか、あなたたちには思いもよらないものである。コーランの中でマホメットがパラダイスをみ、そのなかに入ったとわれわれは確信している。理性的でお馬鹿さんの人たちはみな、彼が単なる嘘つきで詐欺師と信じている。しかし、そうではない。嘘つきではない。てんかん発作中はほんとうに天国にいたのだ。彼は私と同じてんかんである。この至上の幸福が何秒、何時間、あるいは何カ月つづくか私はわからない。しかし私は、この至福を私の人生の悦びのすべてと交換したいとは思わない。

マホメットの話はまた『白痴』と『悪霊』のなかでも述べられているが、この両小説でドストエフスキーはともに同じ前兆をもつ二人の主人公、すなわち『白痴』のムイシキン公爵と『悪霊』のキリーロフを描いている。ドストエフスキーのマホメットにたいする興味は、その純粋な人間的立場から了解できる。偉大な宗教創立者との同定かどれほど彼の宗教心をあおったか、またそれが彼の前兆の性状に影響をおよぼしたかは、この小説家であり政治思想家であるドストエフスキーの伝記作家たちにとっては問題である。実際、てんかんを口にすることを控えるどころか、彼の病気はその小説の、少なくともムイシキン公爵ならびにキリーロフのようなてんかん人物を、自らの体験に基づいて創作することを可能にしたといえる。そしてまた、そこに第三のてんかん者としてスメルジャコフが小説『カラマーゾフの兄弟』に登場する。ムイシキンとキリーロフは聖人タイプであるが、スメルジャコフはカラマーゾフ老人すなわち親分で、恐らく父であろう人を殺している。また、彼は白痴の娘の子であり、アルコール中毒者の孫でもあるが、ドストエフスキーは読者がうんざりするように計算ずくめで描写し、変質者の姿を浮き彫りにしようとしている。

ドストエフスキー自身のてんかん病因や性状については議論の余地がまだある。ソフィヤ・コヴァレフスカヤは別の解釈にしたがって、「彼は服役中に罰として樺枝むち打ち刑をうけた結果、たおれ病いになった」といっている。しかし彼女はどの見解が真実か決定できなかった。それは医者たちが彼女に「この病気にかかった人のほとんどが発病理由を忘れ、そのために想像だけがひとり歩きする、そのよい例である」といったからである。また事実トルーソーもてんかん患者は自らの病因について、あまりにも知らなすぎると述べている。「患者はその近親者の言を聞いたとおり、そのままくり返していうだけである」。何はともあれ、彼はシベリヤ追放になる前に友人でもある医師ヤノフスキーの治療をうけていたし、その病気は一八四八年にすでに診断されていた。彼の発作の発来がどれほど前にさかのぼるのかは明らかでない。フロイトは心因論的に解説して、ドストエフスキーの父が、そのいやしい農奴によって暗殺されたことに結びつけている。しかし病気がはっきり認められた頃には、彼はその当時流行していた「とくに脳や神経系疾患や精神病、そしてガルの古い原理にもとづいた頭蓋発達に関する医学書」をヤノフスキーから借りてみていたのである。

ドストエフスキーの病跡学や作品から、そのてんかん歴を裏づけるものをみてみよう。彼の大発作の前兆は別として、彼の性格と行動にはある特異性がみられる。それは当時、てんかん者の特性として大方が認めたものであった。発作の後で彼は「ただごとでない苦痛」、そして「耐えられない不思議な恐怖」に悩んだ。きわめて興奮しやすく、疑いぶかく、激しいかんしやくもちであった(コヴアレフスカヤは彼が集会の席で示したやきもちの場面を記述している)。しかし、きわめて信仰ぶかい人でもあった。この宗教的な感覚のずば抜けた深さは、多くのてんかん者にみられる浅薄なしぐさとはひときわ違っていた。彼の燃えるような宗教心は、そのエクスタシー幻想とあいまって、当時のてんかん預言者像にふさわしいものであったし、また実際に彼の言動や著作には預言者的な響きがあった。

ところで、彼はその小説でてんかんに多くの部分をさいているが、その目的はてんかん者の描写のためではなかった。ムイシキン公爵、キリーロフ、スメルジャコフの病気は、できるだけ小説をひき立たせるためであったし、また彼はむしろ自由にそれを利用してもいる。一方、そこには当時の医学文献にみられた片々をのせた小文が書かれている。たとえばムイシキン公爵の部分では、「彼の目は大きく、青く、動じない。その様子はなにか穏やかだが、重苦しく、そして異様なものが感じられる。これは一部の人には、一見しててんかんと察知されるものである」とある。

てんかん者の特有な容貌については、すでに古代の人相学者が述べているが、一八四三年にもビョーが「その顔には特長的なものがあって、いうまでもなく瞳孔は拡大していて、しばしば左右差をしめすが、これは生理的な線を越えたものであるし、また癖になってしまったものでもある」といっている。また、モーズリも「病気が固定したてんかん者では重苦しくて空ろな目がしばしばみられる」と述べている。ムイシキン公爵をてんかん者として紹介した後すぐに、ドストエフスキーは彼に外国にいってきたといわせ、「それはある特有な神経病のためで、てんかん病か舞踏病の類いのもので、一種の震えやけいれんがあったのです」という。なお、当時はてんかんと舞踏病とはきわめて近似とみられていたので、両者を並べて口にしてもおかしくはない。

エクスタシー前兆はムイシキンに形而上学的な深さを、またキリーロフには神をめぐる観念について、知的かかわり以上のものをおしえた。キリーロフはその精神発作がないとてんかん者とはいわれなかったかもしれないし(キリーロフは否定する)、ムイシキンはよく知られていたあらゆる病状をそなえていても、依然として風変わりなてんかん人とされていたのである。彼は十分に健康を回復しているし、無邪気ではあるけれども陰謀や欲望、そして犯罪が複雑にからみあった世界に参加している。「よいきっかけとして」と評論家が記しているとおり、この病気は、「たとえば皮肉、ごう慢、身勝手、強欲などといったわれわれの欠点すべての座である心のその部分を壊してくれたわけで、その一方で立派なすばらしい面が大いに発展している」。しかし彼は突然、救いがたい植物状態に過ぎない存在となってしまう。このムイシキンそしてその他のてんかん者はドストエフスキーの創作人物であるが、この作家の面目は『白痴』が意図する「ほんとうに美しい人間」を描出するために、ムイシキン公爵をてんかん者として描いたことで損なわれるものではない。

1880年代における西欧のドストエフスキーの発見者たちは、一部の読者が病的世界にふみ入ることになろうという印象を隠せなかった。彼の小説の発見、そしてその翻訳の後の文学的な評価は本書の枠外のことであるが、ただここでてんかん者のてんかん発作をもつ生活と、激烈な情景がもたらす耐えられない緊張感を伴う小説の経過との間に、一種の平行関係があるとみた方がよくはないかという疑問は残る。確かにドストエフスキーはてんかん人であった。彼の小説は彼の精神と感情、そして想像の創造物であった。それゆえ小説の世界はてんかん人に独特なものの産物であり、彼の病気や個人的体験、そして創造性とが密接にむすび合っているのである。しかしこのことは、ドストエフスキーの世界がすなわちてんかんの世界であると考えることを意味してはいない。また、彼の影響は後世の人々にきわめて強力であったが、これについてはてんかんの歴史をその当時の生活や文学、そしててんかんというものの観点からみることが、やはり何といっても重要事である。

フローベールや若いゾラとともに台頭してきたフランス自然主義に属していたゴンクール兄弟に関する評論のなかで、ポール・ブールジェはこの兄弟の人生が「二つの無の間に起きたてんかん発作のシリーズであったといえよう」と指摘している。彼はこれを絶対的宿命論という見方で述べたのであるが、それは人生が暗くて危険な冒険であり、進歩を望んでも空しいというのである。一方、ロンブローゾはこの評言をとりあげ、さらに「この兄弟はいつも自叙伝を書いていた」ことを追記し、そして兄弟をてんかんとみなした。彼はゾラにあてた手紙を引用しているが、そのなかで兄のエドモン・ゴンクールがつぎのように書いているという。「われわれの仕事のすべて・・・それは神経病にもとづくもので・・・われわれは自分たちから(シャルル・ドマイの)病気の姿をひき出した」。さらにロンブローゾは兄弟の『日記』をひいているが、それには彼らの作品『修道女フィロメーヌ』について「すばらしい意力・・・それがペンを走らせた」という一文がある。したがってこの小説は彼らを驚かせたわけであるが、それは彼らのなかにあって、しかも意識していないあるもののように思われたからである。このようにロンブローゾはゴンクール兄弟の創作を、てんかん兄弟の病状表出とみたのであるが、これはドストエフスキーの作品をその病気の表現とみるのと軌を一にしている。

ロンブローゾの変質したてんかん者という説は、ソラが著作『獣人』(1890)でみせたジャック・ランティエーの描写に影響をあたえた。すなわちジャックの中に性欲と、女性の喉を切るという抑えきれない衝動とが混在している。そしてとどのつまりは、彼のその女はジャックにひそむ隔世遺伝の犠牲、すなわち古代穴居人の病的な再現のために犠牲となるのである。ゾラははっきりとジャックをてんかんとはいわなかったが、当時の医師たちにはこの診断が明らかであったとみられる。ロンブローソ自身は、ゾラがジャックのもつ「犯罪性のてんかん性眩暈」を描写している点を賞賛したという。パリの生理学者エリクールは隔世遺伝説を批判し、ロンブローゾの考えに拘泥したとゾラを非難しながら、ジャックについてつぎのように述べている。「・・・彼はてんかん人である。それは精神面のものであり、その発作はけいれんではなく、いつも同じ衝動の形をとる。初めは彼はそれと戦うことができる。しかし、結局は周囲にあおられ、やがてその理性が完全にくもり、そして全身性の脳性のけいれんが起こり、それがおさまって終了する・・・この衝動
はまず何よりも遺伝性の欠陥であるし、ゾラ氏はこれをわれわれに教えようとしている」。

ジャックが、てんかん(性眩暈)であったことをもの語るひとつの場面がある。それは彼が若い婦人をつれて汽車にのり、投げたナイフが当ったところに坐ろうとする。その時に知人が入ってきて無駄口をたたく。「すると、その瞬間から何もわからなくなった」。その後は婦人を同伴したことが定かでなかった。ナイフをセーヌ河に投げたことは思い出したし、またどこかで食べたはずだが・・・とも。正気になったとき、彼はベットに筋かいに着たままで寝ていた。彼はうろたえて、死んだような気絶の後さながらの深い眠りから覚醒したのである。ジャックに関するゾラの人物描写は外見だけにかぎったものではいない。読者がジャックの心情を知るのは、殺人や血の影にひかれながらも、一生けんめいに脅迫的な衝動と戦う場面である。ゾラはてんかん者の内面をみせようとするが、しかしこの「病気」(とジャックは思っている)につきまとうものをとり除くと、ジャックの世界はこの自然主義作家のそれに他ならない。

話は一八七三年にまでさかのぼるが、モーズリが「てんかん性神経症の精神特徴」について思索し、そして指摘したところによると「それは異常にいきいきとした想像力であって、これは苦しいこと、またはぞっとすることに集中しやすい」。さらに「多分に最近よび声がたかい、殺人や二重結婚その他の犯罪を書いた小説の出現は、てんかん性想像力の成果といってもよい」という。この「てんかん性想像力」は多分に一般的意味で用いられ、また現実主義的傾向をもつ作家すべてにあてはめられた。ただしモーズリがドストエフスキーを、そのような目でみたとは考えられない。それは一八七三年には、ドストエフスキーはまだイギリスでは知られていなかったからである。しかし、前述のモーズリの記載はドストエフスキーによくあてはまるところである。そこで求められるべき結論は、当時の作家のうちでは少なくともてんかん人ドストエフスキーが、その保有するてんかん性特徴を小説に反映させた作家のなかのひとりであるということである。

てんかんの精神面に熱中したいま一人に、哲学者のニーチェ(1844-1900)がいた。彼は「知的けいれんをもつ人々」について思索したが、彼らは自分自身でいらだち、その仕事には一時的に強烈な満足感をもっても、その後で寂しさと苦々しさを感ずるという。彼らは自分のそとにある何かを、たとえば神とか情熱的な人生とかを夢みたり、実践したりし、その中に飢えたように埋没してしまう。そしてまた、ニーチェはパスカルとともに問うのであるが、それは実行への衝動ではなく、結局は自分からの逃避ではなかろうか? この問題の証明にはたしかに「精神科的な知識と経験をもって当らなければならない。それにしても、行動をしじゅう渇望していた四人(アレキサンダー大王、シーザー、マホメット、ナポレオン)はてんかん人であったし、その一人にはいるバイロン卿もまたてんかんであった」。

知的けいれんをもつ人々を口にしたのはニーチェがはじめではなかった。これは当時、てんかんの暗喩は稀ではなかったからである。ジャクソン自身は「観念〔思考〕のけいれん」といったが、これは一般に精神障害、とくにてんかん性精神病の発作にもちいられていた。一方、1880〜81年の同じ本にニーチェの見解が出されたが、それはキリスト教の設立者である聖パウロをとりあげ、この使徒にてんかん人の名を冠したのである。ニーチェが認めたように、パウロはユダヤ教律法の熱狂的信者であったとはいうものの、しかし実際はそれから身を引こうとしていたし、またイエスのなかに律法の崩壊を認識するようになる。そのような考えが現れためは「てんかん者では必ずそうであるように幻想と同時であった。内心では嫌気がさしていたとはいえ、律法のはげしい熱狂的信者であったパウロの前に、人影のない道で神の光芒を放っているキリストが現れたのである。そしてパウロはつぎような声を聞いた『なぜあなたは私を迫害するのか』」。ニーチェは視点を聖パウロからキリスト教に転じ、そしていう。すべての道義は罪びとの宗教上の復活にもとづくので「エクスタシーのひと時・・・その時に人びとは〈降りそそぐ恵み〉を、そして道徳的な心の奇跡を体験するのである」。ニーチェは「このような突然の、非合理的な、そして抗しえない転機とか、さらにはもっとも惨めな不幸から、もっとも深い喜悦感への変化といったもの」の生理学的な意味を問い、その答を精神科医に託しながらも、「これは恐らく仮面てんかんだったのではなかろうか?」と暗示的に述べている。

その当時、ニーチェはまだドストエフスキーを知らなかった。そして1887年に彼を発見するのであるが、それはニーチェの最後の著作時期であった。その著書『アンチ・クリスト』のなかで、「ロシヤ人の小説からとび出したような世界すなわち社会の屑、神経病、〈子供じみた〉馬鹿などが集まる場所」を披露する福音書を攻撃している。この子供じみた馬鹿はムイシキン公爵をすぐに想起させる。そしてまた、その数行後に彼は書いている。「この最高におもしろい退廃の近辺に、ドストエフスキーがいないとは残念なことである。このような崇高、不健全、幼稚性がまじりあったもの悲しい出し物を、十分に感じとれる誰かがきっといると私には思われてならない」。この心にくいこむ芝居をつくったのは、実はイエスその人であったともいうのである。ニーチェ以前にはムイシキン公爵にキリストのような姿がとらえられたが、しかしニーチェに至ってからは、キリストの中にひとりのムイシキン公爵をみることによってキリストは格下げされた。ニーチェにとってはてんかんは、その信仰と信者とをともに破壊する器であった。彼にはもはや、真実か虚偽かという疑問に真面目に対処できる信念の人々はいないと思われた。彼らは決して心の強固な自由人ではなかったからである。さらにまた、信念の強固な人たちは熱狂者になった。それはサヴォナローラ、ルター、ルソー、ロベスピエール、聖シモンなどで、それらの人たちの精神はすっかり病んでいたし、「心のてんかん人」であった。

ニーチェがいう心のてんかん人と、発射性損傷と夢様状態をもつ、ジャクソンがいうてんかん患者とは、やはりあまりにも対照的である。この対照性は科学的な解説ではなく、病気の解釈ということにもとづく。ゾラ、ニーチェ、ドストエフスキーはてんかんというものを、それぞれ自分の考えによって、社会的な交流および人間的な価値判断という視点からみた。しかしジャクソンには、それらの人たちの世界は生物学的過程の指標にすぎなかった。いうまでもなくジャクソンの大成果は、てんかんと最新の神経生理学とを、神経細胞の発射説にもとづいて並列させたことであり、また人間の行動の統御を脳や脊髄の階層的な解剖学にむすびつけた点である。このことを彼は偉大な科学的想像力でなし遂げたが、しかし医師として患者に同情はしたものの、その行為が馬鹿げていても、病的であっても、そして犯罪をおかしても無関心であった。ゾラはわれわれが知るかぎりでは、ジャクソンの医学に熱心に賛同し、またそのように行動したといえる。それでも特殊なてんかん者の意義については的を後者にしぼり、きびしい自然法則をふまえた人間社会のなかで考えていた。ジャクソンがてんかん者としてのジャツク・ランティエーの人物像を検討していることは想像できるとしても、それは彼にとって自然主義が興味の対象であったからではない。さらにまた、たとえばムイシキン公爵をジャクソンの患者としてみるとか、その考察をドストエフスキーの『白痴』と比較するといった試みは無意味である。矛盾がかちあうばかりでなく、まったく場違いなためである。

それにしても十九世紀の終わりには、それぞれの国や職域の間に交流がなかったとはいっても、ジャクソン、ガワーズ、ザムト、ファルレ、ロンブローソ、ドストエフスキー、ゾラ、ニーチェその他多くの人たちが、てんかんに関する輝かしい知見を提供してくれた。たおれ病いの歴史がてんかんの歴史であるかぎり、肉体と魂、身体力と精神力、個人的権利と社会的制約といった問題の競合がつきまとうが、彼らの知見はそのような歴史の段階が十九世紀の終末に近いことを示していたのである。