Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.176 2019.10


追悼 田中幸治さん

八月もお盆を過ぎた頃でした。編集室に、薄紫の蘭の図柄が印刷されたハガキが届きました。炎暑の最中です。はじめ残暑お見舞いかと思いましたが、それは田中幸治さんの訃報でした。今日、ネット時代にあって私たちの読書会は、大勢の市民の参加を得て賑わっています。発足時の目的であった研究者と愛読者の融和は、着実にそのあゆみを進めています。今ある姿は、先人たちの賜です。ことし7月に亡くなった田中幸治さんは、黎明期の読書会開催に尽力された愛読者の代表のお一人でした。読書会で以下の報告をされています。
  
・1973年第19回読書会「シベリヤ流刑後『死の家の記録』までの書簡」
・1974年第24回読書会「ロシア文学について土地主義宣言」
・1977年「『おとなしい女』と『百姓マレイ』」
・1978年「米川正夫著『ドストエーフスキイ研究』」
・1981年「『小さな英雄』」、1986年「『罪と罰』3回目」
・1986年「『白痴』1回目」
・1989年「『おとなしい女』」

激変の70年、80年代に会をを支えたのち、「老兵は消え去るのみ」のごとくに静かに去っていかれました。
県職員であった田中さんは剣道家でもありました。豪放磊落にして繊細、気配りの人でしたが、語りはじめたら止まらない仏教談議に、当時はうんざりさせられたこともありました。けれど、あのなかに「アリョーシャ万歳!」が響いていたのです。いま、その声が聞こえます。さらば! 田中幸治さん!  (編集室・下原敏彦)           



田中幸治さんを偲んで  下原康子

「ドストエーフスキイの会」発足は1969年3月。第1回例会は4月9日。東大、日大に代表される学園紛争が一応の収束を迎え、一方で人類が初めて月に着陸した年のことです。その年の10月27日、新聞の「催し物案内」で例会の開催を知った私は、会場になっていた新宿厚生年金会館の一室を恐る恐るのぞきました。その時、飛んできて迎え入れてくださったのが田中幸治さんでした。その後も安心して参加できるようになったのは田中さんがおられたからです。田中さんはその年の忘年会にも誘ってくださいました。新谷敬三郎先生と江川卓さんが談笑なさる姿が記憶に焼き付いています。田中さんとの思い出はたくさんあります。今は亡き伊東佐紀子さんがいつもいっしょでした。

田中さんのお誘いで、読書会メンバーの6人で埼玉県寄居の少林寺五百羅漢をめぐったハイキング(1972.11.11)。長野県天狗山ペンションで泊りがけで開催した読書会(1974.8.24)。早稲田大学小野講堂で開催された埴谷雄高氏の文芸後援会(「ドスエフスキー後の作家の姿勢」1989.6.10)。終了後、大隈会館で埴谷さんを囲んだ懇親会の宴たけなわのころ、田中さんが剣道の竹刀の素振りを披露されました。埴谷さんはニコニコしながらごらんになっていました。

田中さんのドストエフスキー理解の核心部分には「剣道と仏教」が存在していたと思います。それに気づくようになったのはほんの最近のことです。当時、田中さんは物足りないお気持ちでおられたことでしょう。それでも、妹さんと同じ名前(康子)ということで、いつも気にして、伊東さんたちと出していた「ぱんどら」という同人誌にも感想をくださいました。伊東さんの「父の思い出」という作品が田中さんのお気に入りでした。退職されたとき、伊東さんと新宿のお店でおいわいをしました。記念にさしあげたガラス製の二羽のスズメをとても喜ばれて、ご自宅の庭に並べた写真を送ってくださいました。

平成7年4月20日。伊東さんが亡くなりました。平成8年4月27日に、田中さん、岡田さん、私たち夫婦の四人で、お墓まいりをしました。お墓からは諏訪湖が見渡せました。開花が遅れた桜が満開でした。田中さんとゆっくりお話したのはそれが最後になりました。

今でも、読書会に初めて来られた若い方たちを見ると、私がはじめて会に参加したときのわくわくドキドキ感と田中さんのあったかい笑顔がよみがえります。(2019.10.1)