ドストエフスキーとてんかん/病い


[ドストエフスキー 精神療法的洞察  アリョーシャのイワンへの対応]

高橋 正雄

典拠:
臨床精神医学講座 [本巻24巻+special issue12巻+別巻2巻]
S8巻 病跡学 (2000年刊)
総論 病跡学の意義  C. ドストエフスキー 精神療法的洞察
(P.63-65)

生涯の大部分をてんかん発作に悩まされたドストエフスキー(1821-1881)は、自らの病いの体験ゆえか、病者の心理に優れた洞察を示した作家であり、『白痴』の将軍老人や『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老など、幾人もの精神療法家的な人物を描いている。だが、その中で最も代表的な人物といえば、『カラマーゾフの兄弟』の主人公アリョーシャであろう。アリョーシャは、文学的な批評ではいささか受け身で影の薄い存在とされていて、この作品の真の主人公は長兄のドミートリイや次兄のイワンではないかといった議論もなされているが、精神医学的にみると、三男のアリョーシャは、作中すぐれた精神療法家としての役割を果たしているのであって、まぎれもなくこの作品の主人公としての位置を占めるに値する人物であることがわかる。

アリョーシャの治療者的な資質が遺憾なく発揮されるのは、『カラマーゾフの兄弟』の第11 篇第9「悪魔、イワンの悪魔」の場面である。ここには、アリョーシャの次兄イワンが悪魔とさまざまな会話を交わすという対話性幻聴を思 わせる場面があるが、このときのイワンに対するアリョーシャの対応が、幻聴に悩まされている人間に対する対応としても優れたものなのである。

長兄ドミートリイの父親殺しの裁判を翌日に控えたこの日、イワンは自室で悪魔に遭遇する。 いつとはなしにイワンの部屋に忍び込んできた悪魔は、イワンに「ねえ、君」と話しかけるとともに、他人が知るはずもない彼の行動とその理由にまで立ち入ったことをいったり、「君は あす兄貴の弁護に出かけて行って、自分を犠牲にするんだろう」などと、イワンの心を見透かしたようなことを言い出す。それに対してイワンは、一々向きになって、「下司のくせに何を生意気な」とか「黙れ、蹴飛ばすぞ」と、反撃するが、一向に効き目がなく、イワンは悪魔とさまぎまな会話を交わすことになる。そしてその過程で、イワンは、「お前は僕の幻覚なんだ。 お前は僕目身の化身だ。(中略)一番けがれた愚かしい僕の思想と感情の化身なんだ」、「お前は僕だ。ただ顔つきの違う僕自身だ。お前は僕の考えていることをいってるんだ」と、悪魔という存在の自己由来性にも気づくのだが、そのくせ、悪魔のいうことを無視できずに、翻弄されつづける。 そして、悪魔に対して、「僕は、お前を追っ払うことが出来さえすれば、どんなことでも厭わないんだがなあ」と嘆くのみで、なんらすべがないイワンは、遂に「黙れ、 黙らないと殺すぞ」と、悪魔にコップを投げつけるという事態にまで立ちいたるのである。

こうしたイワンのもとへ駆けつけるのが、アリョーシャである。イワンが悪魔にコップを投げつけた直後、アリョーシャはイワンの部屋の窓を叩くのだが、イワンがアリョーシャを部屋に迎え入れようとした途端、悪魔は消えてしまうのである。

もっとも、イワンは、悪魔が去った後も、「今のは夢じゃない。そうだ、誓って今のは夢じゃない。 あれはいま実際あったのだ」と、その実在性を否定しきれずにいる。 イワンは、「あいつは狡猾だ、動物的に狡猾だ。 あいつは 僕の癇癪玉を破裂させる術を知っていた」と、あたかも悪魔が実在の人物であるかのごとくアリョーシャに訴えるのみならず、「あいつはね、 僕なんだよ、アリョーシャ、僕自身なのさ。 みんな僕の下等な下劣な軽蔑すべきものの現われなんだ」と、そこに自己の否定的な部分が反映されているという認識までも打ち明けるのである。

そんなイワンに対して、アリョーシャがとった態度は、次の通りである。まず、アリョーシャは、同情に耐えぬようにイワンを見やりながら、「あいつはずいぶん兄さんを苦しめたんですね」と、その苦しみに共感を示す。ついでアリョーシャは、悪魔が語ったという言葉の内容を聞くや、「じゃ、あなたじゃないんですね、 あなたじゃないんですね?」といいながら、次のように助言する。「なあに、勝手なことをいわせておいたらいいでしょう。あんなやつはうっちゃっておしまいなさい、忘れておしまいなさい。あなたがいま呪っているものを、残らずあいつに持って行かせておやんなさい、もう決して二度と帰って来ないように」。

ここでのアリョーシャは、悪魔の実在・非実在にこだわるのではなく、まずはそうした悪魔に悩まされたイワンの苦悩に同情を示している。そのうえでアリョーシャは、悪魔はあくまでも悪魔であって、イワンその人ではないと、イワンと悪魔とを別個のものとして峻別しようとする。悪魔はイワンの一部かもしれないが、やはり一部にすぎないのであって、全面的にイワンと同一視する必要はないとして、そんな奴のいうことは一々気にするに値しないといっているのである。ここでのアリョーシャは、いわば幻覚を異物化させ、たとえ悪魔がイワンの無意識に由来するものであるにせよ、自己は無意識そのものではないとすることで、イワンの幻覚へのとらわれから逃れさせようとしている。

このようなイワンと悪魔を区別し、幻覚や無意識を自分と一体化して考える必要はないとするアリョーシャの方針は一貫していて、その直後にも、「それは兄さんのいってることで、あいつじゃありませんよ」と、アリョーシャは、 幻覚との過度の同一視を戒め、イワンを幻覚から解放する方向ではたらきかけている。 とくに アリョーシャが、イワンの幻覚を逆手にとる形で、「あなたがいま呪っているものを、残らずあいつに持って行かせておやんなさい、もう決して二度と帰って来ないように」と、幻覚とともに自らの否定的な部分を異物化し排除させようとする姿勢などは、すぐれて治療的な態度といえるであろう。そしておそらく、このような精神療法家としての資質を備えたアリョーシャがきてくれたがゆえに、それだけで、イワンの心は安定し、彼の幻覚も消失したのである。

以上が、イワンの幻覚に対するアリョーシャの対応であるが、そこには、幻覚に対するドストエフスキーの深い洞察とともに、近年、原田らによってまとめられた幻聴に対する対応を先取りするような対処方法が含まれている。しかも、アリョーシャには、これ以外の場面でも、 相手の心理に対する鋭い分析や、相手の心情に 対する受容的・共感的な態度、相手の欠点より も長所を尊重する態度、援助される側の自尊心に対する思いやり、自分自身の欠点に対する認識など、精神療法家に求められる特質を数多く認めることができる。 とくに、アリョーシャは、 貧しい予備二等大尉スネギリョフの心理を見事に分析した際に、リーザという女性から「あの不仕合わせな人を見下げたようなところはないかしら…だって、あの人の心をまるで高い所から見おろすような工合にして、いろいろ解剖したのじゃなくって?」と批判されたことに対しても、「どうして見下げた所なんかあり得るでしょう。 僕ら自身あの人と同じ様な人間じゃありませんか」と答えている。ここでのアリョーャは、心理分析に伴いがちな傲慢性を認識するとともに、たとえ他者を援助する場合でも、自分と相手との共通性を強調して、そこに人間としての上下関係はないのだということをはっきり自覚しているのである。 そしておそらく、このような態度を、生来持って生まれたような自然な態度でとりえたところに、アリョーシャが誰からも信頼され、精神療法家的な役割を果たしえた理由もあるのではないかと思われる。

あるいは、『カラマーゾフの兄弟』の中で、 ドストエフスキーが、アリョーシャを理想的な人間として描いていることを考えると、理想的な人間の他者とのかかわり方はおのずから優れたカウンセリング的なかかわり方と似てくるものであり、カウセンリング的な対応の中にこそ、 望ましい人間関係のあり方のヒントが秘められているということであろうか?

いずれにせよ、FreudやKraepelin以前の時代に、幻聴の自己由来性や精神療法的な対応について、かくも優れた洞察を示したドストエフスキーは、自ら病める人間であったがゆえに 優れた心理的洞察に達しえた人間であり、彼と同世代のナイチンゲールとともに、自ら病める者が優れた治療者たりうることを示す好固の事例ではないかと思われる。