Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
ドストエーフスキイ全作品を読む会 『読書会通信』No.178(2020)
 

ドストエフスキーのおもしろさはディテールに宿る。
杉里直人氏「『カラマーゾフの兄弟』を翻訳して」を聞いて。


下原康子

ドストエーフスキイの会第255回例会に参加しました。四十数名の参加者で会場の早稲田大学文学部教室はいっぱいでした。新訳への関心の大きさがうかがえました。配布資料にそって、T.符号の話 U.辞書の話 V.注釈の話 の順に話されました。その中で私が特に興味深かったのが注釈の話でした。「注」は好奇心を満足させたり想像を広げたりしてくれます。例にあげられた注のひとつが、「ザリガニ」です。「第11編4章賛歌と秘密」にラキーチンのことばとして「賢い人間は何でもできる、賢い人間はザリガニの捕え方も心得ている(江川訳)」とあります。杉里さんの注によれば、このザリガニというのは「十ルーブリ紙幣」の隠語(このお札が赤い紙に印刷されていたため)で『死の家の記録』でも使れているそうです。

講演の最中に、杉里さんの「注釈と解説」部分のゲラ刷りが回覧されました。(出版は2月中旬とのことです)。ゲラ刷りを手に取り、その厚さ(A5版190頁、1264項目)に驚嘆し、「気づきの宝庫」を予感しました。このとき偶然開いたところで見つけたある注で「アハ!体験」が発動しました。確かめるには出版を待たねばなりませんが、おそらく“ベルナール”の注だったと思います。ベルナールが出てくるのは、ザリガニと同じ「第11編4章賛歌と秘密」の中で、ミーチャはアリョーシャにラキーチンから“ベルナール”を吹き込まれたと語ります。ミーチャは無神論者ということでベルナールを嫌い、ラキーチンも、モスクワの名医をも、ぞろぞろ出現するザリガニ捕りに長けた卑劣漢=ベルナール野郎の同類と総括します。法廷でも「そいつはぼくが拘引されてからまで、金を借りにきたんだ!見下げ果てたベルナールの出世主義者め、神さまなんぞ信じてもいないくせに、長老さまをたぶらかした野郎だ!(江川卓訳)」と怒鳴ってラキーチンの面目をつぶします。それにしても、ラキーチンは気になる人物です。ドストエフスキーは、ダメ人間、デタラメ人間、犯罪者でさえもどこか共感的に描いていますが、なぜかラキーチンには冷淡です。

アハ!体験を誘発させたのは、ベルナールの注で目についたストラーホフという名前でした。ベルナールとストラーホフ。何かの繋がりがあるのでしょうか?。帰宅して、グロスマンの「年譜」(新潮社版ドストエフスキー全集別巻 松浦健三訳編)でそのあたりを探ってみました。この「年譜」の人名索引はとても便利です。ベルナールとストラーホフの関連が以下のように書かれていました。
1866年12月 N.N.ストラーホフが、《祖国雑記》に論文「クロード・ベルナール。実験方法をめぐって」
(サンクト・ペテルブルグ、1866年刊『実験医学序説』について)を発表する。
また、同じく「年譜」1878年12月(カラマーゾフの執筆時期)に、以下の記載があります。
1865年刊『実験医学序説』の著者クロード・ベルナールが逝く。ロシアでも関連論文が多数現れた。

ストラーホフと言えば、「ドストエフスキーとてんかん」関連の文献でよく引用される人物です。彼がドストエフスキーから直接聞いたというアウラ体験の証言は、後世のてんかん研究に貢献しています。しかし、そのこと以上にストラーホフが有名なのは、1883年11月26日付けでトルストイにドストエフスキーを中傷する手紙を書いたことです。(ドストエフスキーが亡くなったのは1881年1月28日)。問題のこの手紙は1913年10月《現代世界》10月号に載りました。その時には、トルストイもストラーホフもこの世にいませでした。(この手紙はトルストイの返信もあわせてグロスマン「年譜」(P.521〜523)に、また、『回想のドストエフスキー 下巻』の最後に載っています。)

一方、ドストエフスキーの方はストラーホフについて手紙と手帖に書き残しています。
@アンナ夫人への手紙(1875年2月12日)
・・・なぜかストラーホフはわたしにたいして胸に一物あるような態度を取るのだ。・・・いや、アーニャ、これは根性の悪い神学生型だ。それ以外の何ものでもない。あの男は今までもすでに一度、わたしを見棄てたことがある。それはつまり、『エポーハ』が没落した時のことだ。『罪と罰』の成功を見てから、やっと駆けつけてきたのだからね。(米川正夫訳)
A手帖より(新潮社版ドストエフスキー全集27 江川卓・工藤精一郎・原卓也訳)
P.426(ストラーホフ)・・・ふかふかした椅子に座り、自分のではなく他人の七面鳥を食べるのが好きだ・・・生粋の神学校的特徴だ。素性はどこにも隠しようがない、いかなる市民的感情も義務もなければ、何か醜悪なことに対するいかなる憤りもなく、反対に彼自身も醜悪なことをする。・・・(文章の長さは900字ほどで、情けけ容赦ないことばが連ねてあります。《解題》によれば「手帖の内容の公表は、すでに作家の死の直後からはじまっており、1883年版のドストエフスキー全集第1巻に「ドストエフスキーの手帖より」と題して、主として晩年の断想的な文章が収録されたのが最初である。」とあります。)

これから先は、私の空想的推理です。
ストラーホフが「手帖」を目にした可能性は考えられます。怒りにまかせて中傷の手紙を書いたのかもしれません。その上で、私は、もう一つ別の理由として、ラキーチンのモデルにされたからではないかと推理しました。グロスマン「年譜」をたどって見えてくるストラーホフの複雑で面倒な人物像はラキーチンの印象と重なります。また、ドストエフスキーに対するストラーホフの感情のいらつきは、ラキーチンがアリョーシャに見せた嫉妬が入り混じったあざけりの態度を思い起こさせます。出世好きの神学生ラキーチンの20年後がストラーホフ。若き日のストラーホフがラキーチンのモデルなのではないでしょうか。ストラーホフにしてみれば、ドストエフスキーの最高傑作の中に、未来永劫、好もしくないモデルとして登場するのは耐えがたいことでしょう。ちょっぴり同情します。それにしても、その「意趣返し」がいかにもラキーチン的なのは滑稽で、痛々しくもあります。

講演を聞き、改めてドストエフスキーのおもしろさはディテールに宿ると思いました。たった一つの注でここまで楽しめるのですから。これからも繰り返し読みつづけていきたいと思います。