Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.71 2002.2


ドストエフスキーが『主婦』を書いたころ(1845〜1949)

下原 康子

「まったくのナンセンス」作品。当時のロシアの偉大な批評家ベリンスキイは『主婦』をこう評した。若きドストエフスキーと文壇は『九通の手紙に盛られた小説』以降、その乖離にますます拍車をかけた。そして、『主婦』によって両者の対立は決定的なものとなった。その意味で、作品『主婦』はその後のドストエフスキーの人生にとって重要な分岐点ともいえる。若きドストエフスキーは、この作品をどのような状況下で書いたのか。書簡からドストエフスキーの軌跡を追ってみた。(書簡引用:米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集16』書簡上)

1845年:24才

3月(兄ミハイル宛)
ぼくはどんなにせっぱつまっても歯をくいしばって注文仕事はしまいと誓いをたてました。注文というやつは何もかも押しつぶしてしまします。台なしにしてしまします。ぼくは自分の書く作品はどれも文句のつけようがないほど完璧に仕上がっていないと気がすまないのです。『貧しき人々』は「もうこれ以上決して手をださないと誓いました」というほど何度も書き直した作品であった。しかしながら、その後の作品においては注文仕事はしないという誓いは物の見事に破られた。

10月8日(兄ミハイル宛)
ネクラーソフは生まれながらの投機師で、さもなかったら、存在できなかったはずです。彼はそのために生まれてきたのです。そういうわけで、帰ってくるとその晩ぼくのところへ来て、普及版小型文集の案を持ち出しました
その後ネクラーソフは『現代人』誌、『ペテルブルグ文集』(『貧しき人々』は1946年1月ここの載った)で成功し、長く出版界に君臨することになる。

11月16日(兄ミハイル宛)
ベリンスキイは言葉につくされぬほど僕を愛しています。つい近ごろパリからツルゲーネフが帰ってきてのっけからぼくに深い愛情と友誼で結びついたのでベリンスキイはツルゲーネフはぼくにほれこんだと言ったくらいです。彼は実にいい男です。ぼくもほとんど彼にほれこんだほどです。/クラエーフスキイはぼくが金のないことを聞いてどうか五百ルーブリ借りて欲しいといとも慇懃に頼むという有様です。/ミーヌシカ、クラールシカ、マリアンナなどという女たちはなんともいえないほど美しくなりましたが、目の玉が飛び出るようなお金がかかります。この間もツルゲーネフとベリンスキイがだらしない生活をすると言ってぼくを罵倒しました。あの連中はどういうふうにぼくを愛したらいいのかまるでわからないのです。みんな一人のこらずぼくにほれこんでいます。ぼくの借金はもとのままです
つかの間の絶頂期。それにしてもドストエフスキーは金銭感覚においては並はずれた欠陥人間だったと言わざるをえない。

1846年:25才

4月1日(兄ミハイル宛)
仲間の連中が、ベリンスキイを初めだれもかれもが、ゴリャートキンでぼくに不満をいだいています。/ぼくには恐るべき欠点があります。それは方図のない自尊心と名誉心なのです。自分はみんなの期待を裏切った、傑作と成り得べきものを台なしにしてしまったという想念がぼくを責めさいなむのです
気まずくなっているにもかかわらず、ベリンスキイのために旅行先での保母さがしにやっきになっている。たびたび引越しをしてお金を浪費。ミハイルがエミリヤと結婚。

10月7日(兄ミハイル宛)
ペテルブルグはぼくにとって地獄です。ここで暮らすのは実に苦しい、ほんとうに苦しいのです!健康は次第に悪くなるのが感じられます。/『現代人』は1月1日からネクラーソフとパナーエフが刊行します。/しかし、ぼくはいっさいのものを遁れて逃げ出します。兄さん、僕を助けてください。クラエーフスキイは金を貸してやると押しつけてきます。でも僕はすでに百銀貨ルーブリ借りているので、今は彼から逃げ回っているのです。常に借金をさせておくのはクラエーフスキイの盛んに使うやり口ですが、それは僕を奴隷にし、文学の仕事で彼に隷属させるやり方なのです
神経性の病になやまされ体調が悪い。転地のためイタリア旅行を計画。しかし、クラエーフスキイに前借りしては小説を書く自転車操業にはまっているためどうにもならない。

10月下旬(兄ミハイル宛)
ぼくは別の小説を書いていますが、その仕事はかつての『貧しき人々』の時のように、爽やかな気持ちで軽々とすすんで、成績もいいのです。クラエースキイに向けるつもりです。『現代人』のご連中が冠を曲げようと、そんなことは平気です。しかし、来年の一月までにこの小説を書きあげたら、ぼくはまる一年作品の発表をやめて、いま寸時もぼくを落ち着かせてくれない長編を書くことにします
この小説――つまり『主婦』を書きはじめる。ベリンスキイたちから完全に別れる決意。長編というのは『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』

11月26日(兄ミハイル宛) 
ぼくは『現代人』といよいよ喧嘩別れするという、不快な結果を見ました。/やつらはみんな卑劣なやっかみやです。ぼくがネクラーソフをくそみそにやっつけた時、彼はちょこちょこと小走りに、まるで金を盗まれかかったユダヤ人よろしく、逃げ出してしまいました。次に新しい宿所を書きますこれからそこへ宛ててください。ヴァシーリエフスキイ島1丁目大通り角、ソロシッチ持家、番地は26号、ルーテル派教会の向かい
ネクラーソフと大ゲンカし『現代人』と決別。クラエーフスキイの『祖国雑誌』に頼らざるをえない状況。新しい下宿でベケートフ、ザリュベーツキイたち友人と共同生活。ペトラシェフスキー・サークルに近づいていく。 

12月17日(兄ミハイル宛)
ぼくは夢中になって執筆しています。なんだかわが文学界ぜんたい、すべての雑誌、すべての批評家を相手に訴訟でも起こしたような気がしてなりません。『現代人』は盛んに売り出しています。『祖国雑誌』とのつばぜり合いがはじまりました
ドストエフスキーがさかんに翻弄された当時の文壇と出版業界の状況は新谷敬三郎先生の『ドストエーフスキイの方法』に詳しい。

1847年:26才

1月〜2月(兄ミハイル宛)
ぼくの性質は人には反感をいだかせるようないやなところがあります。/何かの偶然によっていつもの凡俗の世界から力ずくで引き出された時だけぼくは自分が真情もあれば愛情もある人間だってことを人に見せることができるのです。それまではぼくはいまわしい男なのです。こんなふうに均衡の欠けた性格は病気のせいだと思っています。/この間じゅうずっとふさぎの虫に取りつかれて、書くことができなかったのです。/兄さん、ぼくは病気だったのです。/ぼくは『主婦』を書いています。もう『貧しき人々』以上にいいものになりつつあります。これも同じような種類のものです。ぼくの筆は、まったく魂の底からほとばしり出る霊感の泉に導かれています。あの一夏じゅう苦心した『プロハルチン』とは、わけが違います
記録に残るドストエフスキーの最初のてんかん発作はシベリア(オムスク)だが、その数年前から数秒間意識が抜け落ちるような欠神発作があったと考えられる。このような発作が数年続いた後、何かのストレスをきっかけに大発作が起こってくるという経過はよく見られる。(金澤治「知られざる万人の病 てんかん」 南山堂)ドストエフスキーは自分の病気に対する科学的関心を強く持っていたが、当時の医学はそれに応えられなかった。

4月(兄ミハイル宛)
ぼくの宿所は、マーラヤ・モルスカヤ街・とヴォズネセンスキイ通りの角で、シーリの持家、ブレムメル方ドストエーフスキイです。/あなたはとてもほんとうにしないでしょうが、文壇生活を始めてからもう三年目ですが、ぼくはまるで毒気にあてられているようです。人間らしい生活を見ることはできず、正気に返る暇もないのです。/みんながぼくに曖昧な名声をつくり上げてくれましたが、この地獄がどこまで続くのか見当がつきません
病気、経済的窮状、文壇との対立。さすがのドストエフスキーにも泣きが入る。

9月9日(兄ミハイル宛)
ぼくは自分の下宿にこもっていて、あなたを待つことにします。ぼくはいま健康にすぐれないのです、ある小説(『主婦』)を書きあげているところです。10月に掲載されます
文壇や出版界とのいさかい、金策、病気、引っ越し、『貧しき人々』以降の作品の不評、そうした中で書きあげた『主婦』だったが、その評は新進気鋭の若き作家のプライドをズタズタに引き裂くものだった。

1848年:27才

5月18日(マイコフ兄弟の母親 E.P.マイコヴァ宛)
取り急ぎお詫び申し上げます。昨晩はひどく激昂してお宅を辞してしまいました/小生はおのれの性質の弱点を予感して、本能的に逃げ出したのです。それは極端に押しつめられた場合、爆発せずにはいられないので、しかも他ならぬ極端な形で、誇張法的に爆発するのです。/小生はざっくばらんに心底から謙抑な気持ちでお詫びしようと思って筆を取ったのですが、にもかかわらず形式ばった自己弁護を始めました・・・
マイコフ兄弟は『分身』を評価した批評家。マイコフ家に招かれたとき、誰かにからかわれ口論になったようだ。このころ兄ミハイルも退官しペテルブルグに出てきていたので、米川全集の書簡に収められた1848年の手紙はこれのみである。


1849年:28才

2月11日(『祖国雑誌』の発行者 クラエーフスキイ宛)
小生が約束を履行せんとして自分自身に強制を行って、中にはいろいろと駄作(いや単数かもしれません)『主婦』のごとき駄作をものして、そのため誤認と自己卑下に陥り、その後もしっかりしたどこに出しても恥ずかしくないものが書けなかったからです。失敗のたびに小生は病気になりました
お金の工面だけが目的のなさけない手紙である。自ら『主婦』を駄作と言っている。

4月上旬(クラエーフスキイ宛)
いま小生に必要なのは15ルーブリです。ただの15ルーブリです。この15ルーブリで小生は落ち着くことができます。誓って申しますが、それがあれば原稿を書く気がまえも勇気も増してきます。貴君にとって15ルーブリが何でしょう?ところが小生にとっては大金なのです。お願いです。小生はまる一週間も文無しでいたのですから。せめて幾らかなり!『祖国雑誌』にこんな貧乏文士がいるなんてもうまったく恥じさらしです
ペトラシェーフスキイ事件による逮捕は、この手紙からまもない4月23日のことであった。

グリゴローヴィチとヤノーフスキイの回想

劇的なデビューを果たした若きドストエフスキー。だが、三年の作家生活で彼が得たものは、『現代人』との決別、文壇との断絶だった。なぜこんなことになってしまったのか。工兵学校時代からの友人でのD・V・グリゴローヴィチはその原因についてこのように分析している。

『貧しき人々』の作者として崇拝され、まるで天才であるかのように持ち上げられていたのが、急に、思いもかけず、「文学の才能は全然無い」とまでこき下ろされたのでは、ドストエフスキーのように感受性が強く自尊心の強くない人でも、参ってしまうだろう。彼はベリンスキイの仲間を避けるようになり、以前にもましてすっかり自分の殻に閉じこもってしまい、極度にいらだちやすくなった。(V・ネチャーエワ 中村健之介訳『ドストエフスキー写真と記録』論創社 1986)

グリゴローヴィチは『貧しき人々』をネクラーソフに紹介した作家。(代表作『不幸者アントン』)工兵学校時代の文学友だちであり、一足先に作品を発表していた。同居人だったこともある彼はドストエフスキーの才能とともに、彼の純粋で一途な性格を見抜き、生涯を通して親愛の情を失わなかったようだ。文壇以外でもドストエフスキーにはそのような友人が少なくない。その一人医師のヤノーフスキイは『ドストエフスキーの思い出』の中で「フョードル・ミハイロヴィッチはその気質とその頑固さからして、いかなるものであれ、権威に服従するということが好きではなかった」と書いている。



4つの『主婦』評


小品で評価も低いことから、『主婦』の評論は少ないと思われる。かろうじて集めた4つの評を紹介する。

1.V・G・ベリンスキイの『主婦』評(『1847年のロシア文学瞥見』)

作者が、その気まぐれなファンタジーの驚くべき謎について必要不可欠な説明と解釈を与えてくれぬ限り、この、恐らくは極めて興味深いものであるに違いない小説『主婦』の、思想のみならず、意味そのものでさえ、我々の理解力をもってしては理解出来ない秘密であり、いつまでも秘密のままであろう。そもそもこれは何なのか?――1つの才能が不相応の高みまで登らんと欲して、そのためにありふれた道を歩むことを嫌い、何かあらぬ道を探している、そのような才能の乱用あるいは才能の貧困であろうか?それは我々には分からない。我々にはただ、作者が、マリンスキー(1797-1837 バイロンとユゴーの影響を受けたロマンチシズムの作家、軍人・デカブリスト)とホフマンを和解させようと試みて、そこへ最新種のユーモアを少々混ぜ、それからすべてをロシアの国民性という艶出し薬で力をこめて磨いたのだ、と思われただけである。とすれば、何やらグロテスクなものが出来あがったとしても、驚くには当たるまい・・・。(V・ネチャーエワ 中村健之介訳『ドストエフスキー写真と記録』論創社 1986)

参考:ベリンスキイの文学観 (『ペテルブルグの生理学』序 1845 )

文学はその言葉の広い意味において生きた世界全体であり、自然のように多様なニュアンスを帯びていて、その作品はさまざまな種類形態、階級部分にわかれ、巨きな象から小さな雀にまで渉っている。天才の名に輝いていない文学は哀れだが、天才の作品も無能凡庸の作品もすべてあるのでなければ豊かだとはいえぬ。凡庸の才は文学の富に必要であり、それが多ければ多いほど文学にとって良いのだ。だが、それが繰り返していうが、わが国には少ないので、それゆえ大衆には読むものがないのだ。

参考:ベリンスキイという人 (ゲルツェン『過去と思索』1845 )

「彼は布教し、説教することがなかった。彼に必要なのは口論だった。反論し憤慨することなしには彼はよくしゃべれなかった。・・・彼は豹のごとく相手に飛び掛かり、それをずたずたに引き裂いた。・・・・・口論は病人の喉からあふれ出る血をもって終わることが多かった」
(新谷敬三郎『ドストエーフスキイの方法』海燕書房 1974)

ベリンスキイは当時35,6才。結核におかされており、1848年5月26日にはもう亡くなっている。最晩年、ネクラーソフと雑誌の収益の取り分の請求で断られたことがもとでけんかしをし失意のうちに死んだ。「権威ある批評家」という大御所的イメージとはだいぶ違う。思想も文学に対する考え方もドストエフスキーと異なっていたが実務能力の欠如や熱中症という同じ傾向をもっていたようだ。1877年『作家の日記』でドストエフスキーはベリンスキイとの邂逅を「それは私の生涯を通じて最も感動的な瞬間だった。懲役に服していたとき、私はこのことを思い出して気力を取り戻した。現在でも思い出すたびに感激を禁じえない」と回想した。また同じころの『作家の日記』に死の床にあったネクラーソフの側でお互いに口には出さなかったが、共通の思い出に浸ったことを書いている。(米川訳『ドストエーフスキイ全集15』作家の日記下)

2.米川正夫の『主婦』評
(『ドストエフスキー全集別巻:ドストエーフスキイ研究』)

『主婦』は失敗作であるが、初期の小説の中で研究の対象として最も興味深い作品でもある。
第一に注意すべきは、『主婦』が空想家というテーマを最初に芸術化した作品あることである。/主人公のオルディノフに託してドストエーフスキイは当時の自身の内面を完全に具象化している。/ドストエーフスキイが後年『大審問官』や『おかしな人間の夢』等々で表現した人間の運命に関する偉大な思想はすでにこのころからこの作品において萌芽を示している。/ムーリンはその肉づけは欠如していて、生きた人間の脈はくは感じられないけれども、後年ドストエーフスキイの創作において重要な役割を働いたモチーフの一つがここで最初のひらめきを示している。/女主人公カチェリーナは『白痴』のナスターシャと多くの近似性を示している。/「偉大なる」批評家ベリンスキイはこの作品の表面のみを撫でて、まったくのナンセンスと評し去り、その底に隠れた哲学的深みを看取できなかった。

ドストエフスキー研究の大御所ならではの読みの深さではある。しかしながら後年の大作があってこその批評だから、『貧しき人々』しか知らなかったベリンスキイの評と比べるのは公平ではない。

3.中村健之介の『主婦』評
(中村健之介『ドストエフスキー人物事典』朝日新聞社 1990)

ベリンスキーが精神病院にしかないと評した「何かえたいのしれないもの、ファンタスティックなもの」こそがドストエーフスキイの文学に最初から現れている「本質的な」ものを示している。『女あるじ』にみられる内的感覚の記述は、ドストエーフスキイ自身の体験に根ざしている。当時、彼は「幻想と予感」に襲われる「神経性の病気」にかかっていた。それは「死の恐怖」を伴っていた。実際に仮死状態に陥ることがあった。オルディノフの強烈な暗黒と光明の体験は、「臨死体験」と似かよっている。ドストエーフスキイはミハイルに「神経がいかれてきたときは、それをものを書くために利用した」と書いている。『女あるじ』はその病的感覚の活動が物語形式でなく、直接的記述で書かれているため、健全者の読者には「えたいの知れないもの」になった。しかし、だからこそその中にドストエーフスキイの天与の病的感覚が生きたまま泳いでいるとも言える。
自分が精神異常だと思い込んだドストエフスキーは当時、脳解剖学の権威だったガルの「骨相学」を熱心に読みふけった。自分の頭の骨格をみて細かい性格分析をして欲しいと医者(ヤノーフスキイと思われる)に頼み込んだ。(アンリ・トロワイヤ『ドストエフスキー伝』中公文庫)


『読書会通信』編集者下原氏は感覚派・中村氏の魅惑的なこの評をエサに『主婦』のレポーターを報告者に引き受けさせた。その結果、報告者が健全者(ふつう)の読者であることが立派に証明された。喜ぶべきか残念に思うべきか・・・。「病的感覚が生きたまま泳いでいる」この作品は精神医学における興味ある一症例としての価値を有するので、その方面で利用されるとよいのかもしれない。

4.ニーチェの『主婦』評(渡邊二郎『ニーチェのドストエフスキー発見』)

ニーチェは1887年、偶然フランス語訳の『女あるじ』を読み、強い「親縁性」を感じた。ドストエフスキーの作品に触れたのはこれが初めてだったのだが、これをきっかけとしてかれはドストエフスキーの没頭し、やがてドストエフスキーとの出会いは「私の人生の最もすばらしい僥倖」であった、と言うまでになる。(『ドストエーフスキイ人物事典』)

文学的評価はどうあれ、このエピソード一つで『主婦』の存在意義はあったと言えるだろう。それにしても、健全者の読者である報告者の胸を騒がせるのは「読書会参加者諸氏のなかにもこの作品にニーチェのごとき親縁性を感じる方がおられるかもしれない」という期待を含む疑念である。