Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
清水正・ドストエフスキー論全集 第2巻 栞 D文学研究会 2008年5月

清水正のカリスマ

下原康子

「ドストエーフスキイの会」発足は1969年3月のことだが、その翌年1970年6月の第9回例会で当時日大芸術学部の学生だった清水さんの「『罪と罰』と私」という発表があった。私は同じ年の12月から参加するようになったので残念ながらその発表は聞いていない。

『場 ドストエーフスキイの会の記録I』にそのときの報告要旨が「ドストエフスキーに関する勝手気ままな饒舌」と題されて残っている。それを読むと、むやみやたらの驚愕マーク、めまぐるしい肯定と否定、エスカレートする饒舌、独断と居直り、歯止めのかからない挑発、まるで急性期の感染症患者が高熱にうかされてうわごとを叫んでいるかのようだ。活字でさえそう感じるくらいだから実際はすごかったに違いない。しかしながらさすがドストエフスキー読みの聴衆、報告後は熱いバトルが繰り広げられたらしい。近藤承神子さんが秀逸な印象記を書かれているが、この一見でたらめとも見える青年を「その心は正統派、当たり前の真っ白け」と見抜いているところがすごい。

その伝説的な発表の余韻やうわさからだろうか、その後お会いする機会はなかったはずなのに、長身痩躯・長髪・黒いマントという風貌(かなり想像が入っている)の清水さんが私の記憶に刻まれた。恐れをいだきながらも遠く憧れる存在であった。

初めて面と向かってお会いしたのは小山田チカエさんのアトリエだった。どういう集まりだったのか、そこに清水さんが学生さん2人とみえていた。沼野さん、庄司さんご夫婦もおられた。なぜか私の弟夫婦や従妹まで同席していた。そのときの清水さんも近寄りがたい雰囲気で言葉を交わすことはなかった。

その後、清水さんは日大芸術学部の先生になられた。なんだか腑に落ちない一方で「さすが日芸だなあ」とも思った。そのずっと後で下原敏彦氏を非常勤講師に招いていただいたときは、腑に落ちないどころか仰天であったが、ここに至ってはっきりと「さすが日芸」を再確信した次第であった。

再会した清水さんは短髪で丸顔、ジーンズの似合うかっこいい教授だった。人懐っこい笑顔をちょっぴり意外に感じながらも、話してみると昔とちっとも変わらない、相変わらずの熱い疾風そのままの人であることが即座に判明した。ドストエフスキー熱は長い年月を経てもみじんも冷めるどころかますます燃え盛っていた。

自覚があるなしに関わらず、清水熱に感染した学生たちに幸あれ。