Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
ぱんどら No.10 1997.11
永遠の友と過ごした日々 伊東佐紀子さんの思い出
下原康子
墓参を終えて
伊東さんが亡くなったのは平成七年四月二十日。関西大震災とオウム事件で、日本の安全神話が崩れ去った年だった。同じ年の五月、私自身、乳がんが発見され突然の入院を余儀なくされた。幸い早期だったので、一か月余りで復帰できたが、まったくさんざんな年であった。命日から一週間すぎた平成八年四月二十七日、やっと伊東さんのお墓を訪ねることができた。ドストエーフスキイの会の古くからのお友達でもある、田中幸治さん、岡田多恵子さん、私たち夫婦の四人である。お墓は上諏訪の小高い丘にある温泉寺というお寺の墓地の一角にあった。そばには大きな胡桃の木が一本あって目印になっていた。想像していた通り、そこから諏訪湖が見渡せた。暖かい日だった。十日ほど開花がおくれたとかで、諏訪湖周辺の桜はちょうど見頃になっていた。伊東さんが私たちの来るのを待っていてくれたような気がしてうれしかった。
それにしても新しく彫られた伊東佐紀子享年四十九才という文字を目にしたとき、告別式場の前に大きく表示された名前が突然目に入った時と同じ衝撃が蘇った。あの時、私は「いやだ、こんなこと本当じゃない」と声に出して叫んだのだった。いつだってぐちや苦情の聞き役は伊東さんだった。だから私は遺影にもお墓に向かってさえも「冗談じゃないよ、伊東さん」と言いたかった。けれどもお墓を去る時の言葉は、「また来るね」だった。病院で別れぎわにいつも言っていたように。亡くなる前日、最後の別れになった日もそう言って別れた。酸素マスクをつけていた伊東さんは目で答えた。あの時、お別れを言ったのだと思う。私は動揺していてそのサインをしっかり受けとめることができなかった。けれど、あのときのまなざしは今でもはっきり思い浮かべることができる。
伊東さんが亡くなって一か月も経ないで私自身がん患者となった。二重のショックであったが、私には伊東さんからのメッセージのように思われた。「落ち込んでいないで、自分の心配でもしなさい」そういって早期発見を促してくれたのだと。患者になってみて始めて伊東さんが闘病中にふともらした短い言葉の意味を新たに見出し、実感している。
共に過ごした日々
伊東さんとは図書館短期大学の同期生で同じ文芸部だった。その時の仲間三人(伊東さん、越後さん、私)で卒業後五年経ってから「ぱんどら」という同人雑誌を創刊した。このころ、越後さんはすでに結婚していた。板橋区にあったお宅に伊東さんと訪ねたことがある。私が長男の信也君をだっこした写真が残っている。伊東さんは短大卒業後、岐阜大学の図書館に就職した。東京を離れたことに私たちは驚きがっかりしたが、三〜四年で東京にもどり、東京大学海洋研究所図書室に就職した。公務員試験に二度挑戦して二度ども不合格だった私と違って伊東さんは秀才だった。当時伊東さんは練馬区富士見台のアパートで、私は杉並区阿佐ヶ谷のアパートで、共にきままな一人暮しをしていた。ドストエーフスキイの会に二人とも入会したのでお互い会う機会が多くなり、共通の友人もたくさんできた。伊東さんは若いころからいつも頼られるお姉さん的存在だった。例会の後、灰皿を一つ一つ確認する姿が思い出される。私のアパートのガス栓にまで気をくばっていた。
会った日は必ずどちらかのアパートに泊り込んだ。私はよその家に泊まるのは苦手なのだが、伊東さんのアパートは自分の家より居心地がよかった。朝はおそくまで眠っていられたし、(伊東さんも相当のねぼすけだった)伊東さんが作る手料理はおいしかった。健康に留意した献立だった。その点、私が作るものときたら毎回同じメニュー、コーンベジタブルとツナの上にキャンベルのホワイトソースをぶちまけて電子レンジでチンしたもので気の毒だった。けれど、伊東さんはおいしそうに食べてくれた。楽しみにしているとさえ言ってくれたものだ。私が結婚して品川区中延に移ってからも、津田沼の団地に引っ越してからも、変わらず泊まりに来てくれた。朝食のホットケーキを「お腹いっぱいだけど、もう一枚」とおかわりした笑顔を思い出す。ぱんどら創刊号の「父の死」の中で、「父はなんでもおいしそうに食べる人であった」と書いているが、伊東さんもそのとおりの人であった。
その伊東さんがステーキだけはあまり好きではなかった。これにはわけがある。ぱんどら3号の「ニューギニアの雨」にサラリーマン風の男がローストビーフを喉につまらせて苦しむ、という一節がある。これは伊東さん自身の体験なのである。ある時、伊東さんが今日はごちそうしてあげると言ったので、私はステーキが食べたいと答えた。上手に焼いてくれたステーキを私が夢中になって食べている最中、伊東さんが苦しみだしたのである。私はあわてて背中をたたくくらいはしたかもしれないが、結局、伊東さんが自力でつまったステーキを吐き出して事なきをえた。「あの時は本当に死ぬかと思った」と後になってよく言ったものだ。
現在、大学生の息子良太と高校生になる娘モモにとって、伊東さんは生まれたときからおなじみの伊東のおばちゃんだった。良太は一緒にマージャンをしたことを憶えているという。いまでも時々家庭マージャンをすることがあるが、そのたびに「伊東のおばちゃんがいたらいいのにねえ」と私が言うと、みんながうなづく。伊東さんはとても熱心だった。もし、今いたら、毎週のようにやって来て徹夜マージャンも辞さなかったかも知れない。パチンコも好きだった。しぶとくねばるほうだった。スポーツも好きでテニスが得意だった。一度、団地のグランドで手ほどきを受けたことがあるが、私が熱心ではないので続かなかった。主人は乗り気になっていたのだが。とにかく、伊東さんは生活を楽しむ人だった。こうして、長い時間を一緒にすごしたのだが、何を話し合っていたかについてはあまり記憶がない。二人でいてもまるで一人の時のようにお互いボーッとしていることが多かった。しやべるのはもっぱら私で、伊東さんはたいてい聞き役だった。私はその時々に思いつくままをしゃべっていたが、何を言ったかさっぱり記憶にない。きっとグチだの他人の悪口などもいっぱい言ったに違いない。けれど伊東さんがそれに答えてあいづちを打ったという記憶はまったくない。ほんの軽い口調でさえも、伊東さんから人の悪口を聞いたことがなかった。
シャンソン
伊東さんの思い出はとめどなくあふれてくるが、シャンソンにまつわる思い出はひときわ鮮明である。伊東さんはドストエースキイの会で知り合った外山さんと一緒に舞台芸術学院でシャンソンとカンツォーネを習っていた。それで、時々発表会があって、一番最初は渋谷のジャンジャンだったと思うが、とにかくそのたびに聞きに行った。ぱんどらの表紙をデザインしてくださった当時ドストエーフスキイの会会長で早稲田大学教授の新谷敬三郎先生も伊東さんの歌が好きで、お誘いすると喜んで来てくださった。いくらかハスキーであったかみのある、あの歌声をもう一度聞きたい、夢でもいいから聞きたいと思う。発表会の打ち上げやなにかで、数回、新宿厚生年金会舘の前にあるシャンパーニュという店に連れて行ってもらった。シャンソンを聞かせてくれる店で、伊東さんのお友達も歌っていた。ムッシュー谷田部と称する人がマスターだったが、なんとなくなつかしい感じがすると思ったら、私と同じ岩国出身ということだった。あの店はいまでもあるのだろうか。外山さんが新潟へ帰ったころだったが、伊東さんも歌をやめた。おそらく多忙になったためだと思う。発表会を楽しみにしていた私としては残念に思った。
闘病
平成三年六月二十八日、九段坂病院で伊東さんは最初の手術を受けた。ちょうどこの日私は出張で東大医学図書館に来ていた。午後の会合の合間を抜け出して病院へかけつけた。手術は終わって伊東さんは病室にもどっていた。一番上のお姉さんがつきそわれていた。伊東さんは私の顔を見るなりすぐに「卵巣も取ったの」と言った。子宮筋腫だと聞いていたので、とにかく手術で取りさえすればぐらいにしか考えていなかった私はショックを受けうろたえて「そう」とだけしか言えなかった。手術前の検査で医師からそうした不安について告げられていたそうだ。それで麻酔もさめやらぬ状態ですぐに医師に訊ねたのだという。一週間後に判明した病理結果は「悪性」だった。この日から四年間にわたる長い闘病がはじまったのだった。伊東さんは医師の告知を聞くまでもなく事の重大さを最初から認識していた。最初の手術、それに続く化学療法に耐えて、その後一年足らずだったが再発を見なかった。定期的に受けていた検査がクリアーされたときは必ず電話してきてくれて喜びあった。平成四年四月に公団住宅の抽選があたって川口の団地に引っ越した。何度となく訪ねて泊めてもらった野方のアパートを去るのは私でさえ淋しく悲しかった。伊東さんは何を思い、何を考えていたのだろうか。住まいを移して気分を一新したかったのかもしれない。
引っ越し祝いをかねて五月に外山さんと私とで新居を訪問した。外山さんは新潟からおいしくて栄養満点のごま豆腐を作って持参した。同じ年の六月にはドストエーフスキイの会総会があって新谷先生が講演をなさった。早稲田を退職された年でもあったので、会から記念品を贈ろうということになった。伊東さんが自ら選んだセカンドバッグをさしあげたら、先生は「こういうのが欲しかったのです」と大変喜ばれたそうだ。当日私は姪の結婚式で出席できなかったのが、かえすがえすも残念だ。というのは、この日がおそらく新谷先生にお目にかかる最後の機会になったと思われるからである。新谷先生は伊東さんが亡くなった同じ年平成七年十一月に胃ガンでお亡くなりになった。おぐわいの悪いのも知らず伊東さんの訃報をお知らせし、追悼文をお願いした。先生はご自分のことは何もおっしゃらず、伊東さんの早逝を残念がられ、「告別式に参列したいけれど、なにしろ年をとって」と言われて追悼文を書いて下さった。
七月には 「ドスフトエーフスキイ全作品を読む会」で主人が報告者になった。伊東さんも出席してくれてみんなで再会を喜びあった。これが伊東さんと一緒の最後の読書会となった。おいしそうにビールを飲む姿を見たのもこれが最後だった。八月の検査で腫瘍マーカーの数値が上がり再発が疑われた。九月十一日に九段坂病院に再入院が決まった。入院の数日前、川口を訪ねた。お互い無言のまま川口の町や荒川土手を散歩した。夏のなごりの残る暑い日だった。休日をのんびりと楽しむ人々を後目に伊東さんは土手の草むらを早い足どりでどんどん歩いた。私は駆けるように後をついて行った。伊東さんの入院中、私も急性肝炎になって突然一か月の入院をよぎなくされた。薬物性肝炎とわかって大事には至らなかったが、同じ時期入院生活を送ったことになる。
再発してからの治療は、はかばかしくなかった。伊東さんは転院を考え始めていた。相談を受けて私もそれを勧めた。平成五年三月、虎の門病院に移り二回目の手術を受けた。開腹してできうるかぎりの癌細胞を取り除くという大変な手術で七時間半かかった。医師の話では九十パーセントは摘出できたが肝臓の一部の取り除けない部分が残ったという。五月に一応退院はできたが手術の後遺症は大変なものだったと思う。その後も治療のため何度も入退院を繰り返さなければならなかった。仕事は可能なかぎり続けていた。伊東さんのことだから無理をしてがんばっていたに違いない。この夏の暑さはとりわけ厳しかった。通勤だけでも大変だっただろう。私は東邦大学佐倉病院図書室に移っていたので、休日にしかおみまいにいけなくなった。このころはたいてい主人も一緒だった。伊東さんのお姉さんたちによくお目にかかった。会ってすぐ訊ねるのは「食べてる?」だった。食欲のないとき物を食べるのが大変な仕事であることは、経験してみなければわからない。あれほどなんでもおいしそうに食べていた伊東さんが無理をしてがんばって食べる姿を見るのはつらかった。本当に伊東さんはがんばって食べていた。外出許可が出て二人で虎の門から日比谷公園をぬけて銀座まで歩いたことがある。その時ラーメンを食べた。そういえば駅の立ち食いソバが食べたいと言って、川口に帰る時だったか一緒に食べたこともある。伊東さんは全部食べきれず残したが、「食べてみたかったのよね」と言っていた。
平成六年十月、足のむくみがひどくなっていた。「今月から休職する事に決めた」と伊東さんは私の目をまっすぐ見て言った。心中を思うとなぐさめる言葉もみつからずただ悲しかった。ある時、めずらしく伊東さんが怒っていた。聞くと、主治医がいかにも末期患者向けのマニュアル的なアドバイスをした、というのだ。伊東さんが亡くなった後、「伊東さんには教えられることが多かった、叱られたこともあります」とお姉さんに話したのは、きっとこの医師だったのだろう。
平成七年を迎えるころにはむくみがひどくて点滴ができなくなった。急激にやせがめだつようになった。せめてもの救いだったのは痛みがなかったことだ。もっとも、伊東さんはめったなことでは痛いと言わない人だったから本当のところはわからない。諏訪からお母さんやお兄さんが出てこられた。九州にお住まいの伊東さんのすぐ上のお姉さんは一か月くらいおられて毎日かよって最後まで看病された。越後さん、外山さんがお見舞にみえた。外山さんがおみまいに持参していた和菓子を病室でいただいた日が私が伊東さんと会った最後の日だったと思う。ほんの少しだけど伊東さんも口にした。越後さんのプレゼントのお手製の小物はお棺の中に入れましたと通夜の日にお姉さんからうかがった。通夜も告別式も大勢の方が来られた。けっして派手な交際をする人ではなかったが、知り合った人たちの誰からも尊敬され愛されていたことがしみじみ偲ばれた。伊東さんの遺影は参列者一人一人に、「ありがとう、わざわざ来てもらってごめんね」と語りかけているようだった。告別式場に隣接する一葉会館の八重桜が満開だった。
同人雑誌「ぱんどら」
創刊当時の同人は伊東、越後、下原(佐伯)だった。3号より、ドストエーフスキイの会で知り合った外山さん、4号より同じくドフトエーフスキイの会の八木原(谷山)さんがメンバーに加わった。5号よりパンドラの箱をイメージした新谷先生デザインの表紙になって、外見はグレードアップした。創刊当初は一年に二回の発行となっていたが、計画どおりにはいかなかった。それでも、6号まではまあまあ順調に発行していたが、7号の遅れがひどかった。これで同人としての結束が弱まった感がある。7号発行の担当だった私のせいである。今頃になって反省しても始まらないが申し訳なかったと思っている。
同人としての結束はともかく、皆の友情に変わりはなく、伊東さんを失った悲しみを共にし、ここに「ぱんどら十号」を伊東さんの追悼号として発行することになった。9号までの伊東さんの作品は次のとおりである。
1号 (昭和四五)父の思い出
2号 (昭和四八)春宵
3号 (昭和四九)ニューギニアの雨
4号 (昭和五十)蜃気楼
5号 (昭和五一)少女の季節
6号 (昭和五三)Mr.M
7号 (昭和六十)ある日俺は
8号 (昭和六三)フライミートゥザムーン
9号 (平成二) ハナノキ
「父の思い出」は田中幸治さんの大好きな作品で、墓参の旅にコピーを持参して下さった。諏訪湖の遊覧船で風に吹かれながら、作品中の描写そのままの光景を眺めた。この作品は私にも格別の思いがある。伊東さんの思い出が私自身の思い出と重なるのである。私の育った岩国も"つつましやかな愛らしさ"を感じさせる地方の小都市である。私の父もちっぽけな材木会社を経営していた。(現在八二才で健在である)。そしてやはり仕事がいきづまったことが何度かあった。お父さんの後をチョコチョコ追いかけて山道を行く伊東さんの幼い姿が、父のスクーターの後につかまっている私の姿と重なる。材木置き場のある港によくそうして連れて行ってもらった。私の父も本が好きだった。本箱に水害でボロボロになった芥川全集やルソーの「懺悔録」があったのを憶えている。中学生の時、文庫本のジードの「狭き門」を買ってもらった。一応読んだと思うが、さっぱり理解できなかった。そのころの私はアルセーヌ・ルパンに夢中だった。
とりわけ印象深いのは、伊東さんのお父さんが東京からおみやげに買ってきた本の中に『まごころ』という本があったというエピソードである。生前伊東さんに聞いて確かめたことだが、私も同じ本を読んでいた。十編くらいの話を一冊にまとめた、小学生高学年から中学生向き程度の本だったが、その中のいくつかは、今でもよく憶えている。「だあるちゃん」という話は特に好きだった。戦災で赤ちゃんの時はなればなれになった母子が十年位経って再会する、という話である。少女は母を思い出せず心を開かない。ところがある時、ふと、棚にかざられたダルマをみつけ、「だあるちゃん」とつぶやく。母に寝かしつけてもらいながら、夢うつつに棚のダルマに呼びかけていた記憶がよみがえったのだ。「だあるちゃん・・・だあるちゃん・・・あ、お母さんだ!」と少女が叫ぶ最後の場面に私はいたく感動して、何度となく読み返した。伊東さんもこの話を憶えていると聞いてうれしかった。あるとき病院に行ったら、伊東さんは眠っていた。しばらくして目をさまして「子どものころの夢をみていた」と言った。それっきり無言だったので、どんな夢か聞くことはできなかったが、「父の思い出」にあるたるひめの滝で水遊びをしている夢だったかもしれない。「父の思い出」は泉が湧き出るように書かれた本当に美しい作品である。
二作目の「春宵」は当時の伊東さんの気分がよく伝わってくるように感じた。創作スタイルを模索しているようでもある。注目すべきは<安田>という人物である。8号の「フライミートゥザムーン」の主人公も<安田>である。得体のしれない謎めいた人物、として描かれている。伊東さんはあきらかにこの種の人物にこだわっていたとみえて、その後の作品にも繰り返し登場してくる。「ニューギニアの雨」のセンちゃん、「Mr.M」のMr.M 「ある日俺は」の奴等、「フライミートゥザムーン」の安田、「ハナノキ」の彼である。彼らは一様に彼岸へのあこがれを心に抱いている。実在のモデルがいたことも十分に考えられるが、(伊東さんの愛した人かも知れない)半分は、伊東さん自身であり、伊東さんが時にそうありたいと望んだ分身であったのだと思う。
ある時、新谷先生が「伊東さんは自意識の発達した人だけど、佐伯さんは自意識がない」と言われた。ドストエフスキーに傾倒し、地下室人を気取っていた私としては何だかバカにされたように思ったが、今では納得できる気がする。たよりがいのある伊東さんは一見気っぶのよい姐後肌に見られることが多かったが、内面はユングの性格のタイプで言えば内向的思考タイプであったと思う。一方でいつも伊東さんのお尻にくっついて歩いていた頼りない私の方は外交的直感タイプだった。趣味も違うし意気投合したというわけでもないのに、三十年間の長きにわたって身近で仲良くつき合えたのは、こうした異なった気質だったからかもしれない。もっとも伊東さんは、誰とでも長い交友を続けることのできる人であった。
「蜃気楼」は伊東さんの実体験がいくらか含まれている作品かもしれない。しかしながら、白い木戸は象徴的で、やはり彼岸への扉のように感じられる。「このような作品が十編も書ければ立派な作家です」と新谷先生は伊東さんの作品を評価されたが、「少女の季節」はこの一編だけで立派に作家と言いたくなるほど素晴しい。まるでチェーホフである。「Mr.M」あたりから創作スタイルに変化が見える。僕や俺という男性の一人称の語りになり、文体に軽妙さが感じられるようになった。「ある日俺は」はドストエフスキーの『地下室の手記』と『分身』を連想させる作品である。<安>というタマゴのような顔をした男が強烈な印象を残す。電車に乗るたびにその辺にいそうな気がするほどだ。「フライミートゥーザムーン」は昭和六三年に書かれているが、バーチャルリアリティーを先取りした作品である。伊東さんの現実認識の確かさと、ここでもやはり彼岸への志向が表現されている。「ハナノキ」が最後の作品となった。晩年「木を見るのが好き」と伊東さんはよく言っていた。ハナノキと対話する男から連想するのは、フランクルの『夜と霧』に出てくるアウシュビッツに捕われた女性の話である。彼女は死に瀕している。しかし、穏やかな様子で「窓から見えるカスタニエンの木が自分の友人であり、木が語りかけてくれる声をいつも聞いている」と語る。木は彼女にささやくのだという。「私はここにいる・・・私はここにいる・・・私は永遠の生命だ・・・」
時々「ハナノキ」の彼のように伊東さんも山奥の村に住んでいるのかも知れないと想像する。「拝啓、生きています」というはがきが届きはしないかと・・・。
完