ドストエフスキーとてんかん/病い


『見てしまう人々 幻覚の脳科学』 原題: HALLUCINATIONS. by Oliver Sacks, 2012
オリヴァー・サックス著、太田直子訳 早川書房 2014

第14章 ドッペルゲンガー 自分自身の幻 (P.305-324) 
ホートスコピーの部分の抜粋

さらに奇妙で複雑な自己幻視が「ホートスコピー(heautoscopy)」である。これは極端にまれなかたちの自己像幻視で、本人とその分身のあいだに相互交流がある。相互交流は友好的な場合もあるが、敵対的なことのほうが多い。さらに、どちらが「オリジナル」でどちらが「分身」なのかに関して、ひどい混乱が起こる場合もある。というのも、自己意識が一方から他方へ移る傾向があるのだ。初めは自分自身の目で世界を見ていたのに、そのあと分身の目を通して見ることがあり、そのせいで彼──もう一人のほう──が本当の人間だと思ってしまうこともありえる。自己像幻視(autoscopy)の場合とちがって、分身は本人の姿勢や行動を受け身でそのまま映し出しているとは解釈されない。ホートスコピーの分身は、限界はあるものの、やりたいことを何でもできるのだ(あるいは、まったく何もせずにじっと横たわっていることもある)。

「ふつうの」──リイネウスやリュランが経験したような──自己像幻視は、比較的良性のようだ。自己像幻視は純粋に視覚性のものであり、まれに現われるが、本人の動きを繰り返すだけで、自主性の主張もないようで、相互交流しようとすることもない。しかし、ホトスコピの分身は本人のアイデンティティを真似したり盗んだりして、不安と恐怖の感情を喚起し、衝動的な自暴自棄の行為を誘発することがある。ブラッガは同僚とともに1994年の論文で、側頭葉癲癇をわずらう若い男性のそのような症状を記述している。

ホートスコピイが発現したのは入院の少し前だった。患者は フェニトインの服用をやめて、ビールを数杯飲み、翌日はまる一日寝ていて、その晩、三階にある自分の部屋の真下にある大きい茂みのなかで、困惑してブツブツ言っているところを発見された。茂みはほぼ壊滅状態だった。・・・・・・

患者は次のように説明している。その朝、彼はめまいがするような気分で起きた。あたりを見回すと、まだベッドに寝ている自分が見えた。 彼は「自分だとわかっていて、起きないので仕事に遅刻する危険を冒しているこの男」に腹が立ってきた。その体を起こそうと、まず大声で呼びかけ、次に揺さぶってみて、そのあと何度もベッドのなかの分身に飛び乗った。寝ている体は何の反応も示さない。 そのときはじめて患者は、自分が二人いることにとまどい始め、どちらが本当の自分かわからなくなったことへの恐怖が募った。自覚のある体が、立っているほうとまだベッドで寝ているほうとで何回か切り替わった。ベッドにいるモードのとき、はっきり目が覚めているのに完全に体が麻痺していて、自分の上に覆いかぶさって自分をたたいている人物におびえていた。

彼の目的はただ一つ、再び一人の人間になることだ。窓のそばに立って(まだベッドに寝ている自分の体が見えて)窓から外を見て突然、「二つに分かれているという耐えがたい感覚を終らせるために」、飛び降りることにした。同時に、「この捨て鉢の行動がベッドに寝ている自分を怖がらせ、もう一度私と合体することを促す」ことを願っていた。次に覚えているのは、痛みで目が覚めると病院にいたことだ


1935年に提唱されたホートスコピーという言葉は、その後は必ずしも有用と見なされてはいない。オートスコピーとはっきり二分されるものではなく、連続性やスペクトルがあるものと考えられる。自己像との関係に対する意識は、ごく弱いものから非常に強いものまで、無関心から強烈まで、さまざまな可能性があり、その「現実味」の感覚も同じようにまちまちなのだ。

<中略>

ホートスコピーという用語が考案される一世紀前の1844年、医師のA.L.ウィーガン(Wigan,A.L.)が悲劇的な結果を招いた極端なホートスコピーの症例を記述している。

私が知っていた、ある非常に知的で感じのいい男性は、目の前の<自分自身>を認識する力を持っていた。そしてよく<彼の分身>に愛想よく笑いかけ、そのたびに相手も笑い返してくるようだった。これは長年楽しみとジョークのタネだったが、最終的には痛ましい結果を招いた。彼は次第に自分が、[もう一人の自分]に取りつかれたのだと思いこむようになった。このもう一人の自分は頑固に彼と言い争い、彼にとってひどく悔しいことに、彼を論破することもあった。論客として自らたのむところのあった彼は、そのことにひどく傷ついた。彼は常軌を逸していたが、監禁されることも拘束されることもなかった。しまいに、いら立たしさに疲れ果てた彼は、生きて新しい年を迎えまいと決意し──借金をすべて返し、毎週の請求書を別々の紙にくるんで──12月31日の夜にピストルを片手に持ち、時計が12時を打つと同時に口にくわえて発砲した。

分身、ドッペルゲンガー、半分自分で半分別人というテーマは、文学者にとって非常に魅力的であり、たいていは死や災難の不吉な前兆として描かれている。場合によっては、エドガー・アラン・ポーの『ウイリアム・ウィルソン』のように、分身は目に見える具体的な罪悪感の投影であり、その罪悪感が耐えがたいほど強くなって、最終的に本人が分身に殺意を抱き、気づくと自分自身を刺している。ギ・ド・モーパッサンの『オルラ』に出てくるもののように、分身は目に見えず実体もないのに、それでも存在の証拠を残す場合もある(たとえば語り手が水差しに入れておいた水を飲む)。

モーパッサンはこれを書いた当時、しばしば自身の分身を見ていた、つまり自己像幻視を起こしていた。友人の語ったところでは、「帰宅するとほとんど自分の分身が見える。ドアを開けると、肘掛け椅子に自分がすわっているのが見えるんだ。見た瞬間幻覚だとわかる、しかし、異常なことじゃないか?冷静な頭の持ち主でなかったら、怖くてたまらないだろうね」。

モーパッサンはこの時点で神経梅毒をわずらっていて、病気がさらに進行すると、鏡に映った自分を認識できなくなり、鏡のなかの自分にあいさつし、おじぎをし、握手をしようとしたと言われている。

人を苦しめるのに目に見えないオルラは、そのような自己像幻視の経験から思いついたものかもしれないが、まったく別物であり、ウィリアム・ウィルソンや
ドストエフスキーの小説に登場するゴリャートキンの分身のように、本質的には18世紀末から20世紀初頭にかけてはやった、ゴシック文学のドッペルゲンガーにほかならない。

現実世界では、ホートスコピーの分身は──ブラッガーらによって報告されている極端な症例はあるが──それほど悪意はないようでもある。温厚なものや、前向きで品行方正なものもある。オリン・デヴィンスキー(Devinsky,O.)の患者の一人は、側頭葉発作にともなうホートスコピーを起こして、その症状をこう説明している。「夢のようでしたが、私は目が覚めていました。突然1メートル半ほど向こうに自分が見えました。私の分身は芝刈りをしていたのですが、それは私がやっているべきことだったのです」。この男性はそのあと10回以上、発作の直前にそのような症状を経験し、発作活動とは関係なさそうな発症も何度かあった。1989年の論文にデヴィンスキーらは次のように書いている。

彼の分身はつねに透けていて、全身像で、等身大より少し小さい。患者とはちがう服を着ていることが多く、患者とちがう考えや感情を抱いている。分身はたいてい患者自身がやっていなくてはならないと思う活動をやっていて、彼は「あいつは私の罪の意識です」と言っている。

身体性は世界で最も確かなもの、反論の余地のない事実であるように思われる。私たちは自分自身が自分の体のなかにあって、自分の体は自分のもの、自分だけのもの、だから自分の目で外の世界を見て、自分自身の脚で歩いて、自分自身の手で握手している、と考えている。そして意識は自分の頭のなかにあるという感覚も持っている。身体イメージや身体図式(ボディ・スキーマ)は人の意識のなかで一定不変の部分であり、おそらくある程度生まれつき備わっていて、関節と筋肉の受容体から継続的に送られてくる、自分の手足の位置と動きに関する固有受容フィードバックによって維持され、再確認されている。そう長年考えられていた。

そのため、マシュー・ボトヴィニックとジョナサン・コーエンが1998年に、条件がそろえばゴムの手を自分の手とまちがえる可能性があることを示したとき、それを知った者は一様に驚いた。被験者の本物の手がテーブルの下に隠され、ゴム製の手が目の前にあって、両方が同時にたたかれると、分別のある被験者でも、ゴムの手が自分の手だと強く錯覚してしまう──たたかれている感覚は、無生物だが実物そっくりのこの物体にある、と。私がロボットの「目」をとおして見たときに経験したように、そのような状況にあるのだとわかっていても感覚を払いのける役にはたたない。脳はすべての感覚を関連づけようと全力を尽くすが、この場合は視覚入力が触覚に勝る。

スウェーデンのヘンリク・エールソンは、ごく単純な装置──映像ゴーグル、マネキン人形、ゴム製の腕──を使って、そのような錯覚を生じさせる実験をいろいろ考案している。正常な触覚、視覚、そして固有受容感覚の調和を混乱させることによって、一部の人々に不可思議な経験を誘発し、自分の体が縮んだり巨大化したり、ほかの人と体を交換したとさえ信じさせたのだ。さまざまな実験を行っているストックホルムの彼の研究所を訪ねたとき、私はこれを実地に経験させてもらった。ある実験では自分に三本めの腕があると確信し、別の実験では自分が身長60センチの人形の体になったように感じ、映像ゴーグルによって「その」目をとおして見ると、部屋にあるふつうの物が巨大に見えた。

この研究を踏まえるとどうやら、さまざまな感覚器官からの入力が混乱するだけで、脳による身体の表象が往々にして惑わされるのはまちがいなさそうだ。視覚と触覚の言っていることが一致しているならそれがいかにばかげていても、生まれたときからの固有受容感覚と確実な身体イメージでさえ、受け入れてしまうことがありえる。(そのような錯覚の影響を受けるかどうかは個人差があり、自分の体が空間のどこにあるかに関して、飛びぬけて鋭い感覚を持っているダンサーやアスリートを、この方法で惑わすのが難しいかもしれないことは想像できる)

エールソンが研究している身体錯覚は、単なるパーティ用の手品ではない。私たちの身体自我や自己感覚が、触覚と視覚だけでなく固有受容感覚とおそらく前庭感覚も含めて、いくつもの感覚の協調から作り出されることを暗示しているのだ。エルーソンらは、おそらく脳のあちこちに「多感覚」のニューロンがあって、脳に入ってくる複雑な(そして通常は矛盾のない)感覚情報を強調させるのに一役買っているという考えを支持している。しかし、もしこれが自然の力また実験によって邪魔されると、身体と自己についての盤石であるかに見える確実性が、たちまち消え去ることもありえるのだ。

第14章終り