ドストエフスキーとてんかん/病い

<抜粋>

『分身 ドッペルゲンガー』
 オットー・ランク 著 有内嘉宏 訳 人文書院 1988


オットー・ランク Otto Rank 1884-1939
ウィーン生まれの精神分析学者。フロイド派の代表的機関誌『イマーゴ』と『国際精神分析中央雑誌』の編集長として1912年から1924年まで活躍したが、彼の主著『出産外傷』(1924)の出版を契機にフロイドと袂をわかつことになった。その後パリを経て、1936年アメリカに移住し、フィラデルフィアなどで教鞭をとっていた。(訳者あとがき)

本書の各章にはタイトルがないが、内容に即して言えば次のとおりになる。(訳者あとがき)
1章:問題提起 2章:文学にみる分身像 3章:詩人たちの実像 4章:影・鏡像などにまつわる民間信仰 5章:分身の意味作用と表現形式に関する精神分析的解明

取り上げられている主たる作家と作品

ホフマン 『幻想作品集』中<なくした鏡像の物語>  
シャミッソー 『ペーター・シュレミール』
エドガー・アラン・ポー 『ウィリアム・ウィルソン』
モーパッサン 『オルラ』『あいつ』
オスカー・ワイルド 『ドリアン・グレイの肖像』
ドストエフスキー『分身』

第2章 文学における分身像:ドストエフスキー『分身』(P.42-52)

われわれの主題(分身)が最も衝撃的に、しかも心理的に最も深く表現されているのは、おそらくドストエフスキーの若き日の小説『分身』(1846)であろう。ドストエフスキーは精神障害の突発を、──病気に対する認識不足から──自覚せずに、あらゆる都合の悪い体験をパラノイア的解釈から秘密裁判所(フェーメ)の迫害とみなす── 一人の人間を通して描きあげている。妄想とその現実との混同へ徐々にのめりこんでいくさま、── 本来はそれが外的ストーリーに乏しい物語の全内容である ──が、卓抜な手並みで叙述される。高度なその芸術的業績は、パラノイア症候群の特徴を見落とさないだけでなく、妄想の形成を患者自身の立場から周囲の人びととその波紋を描かせていく、完璧な叙述の客観性に特徴がある。破局に至るまでのわずかな数日間に凝縮された展開は、物語全体を転載する以外にはほとんど再現のしようがあるまい。だが、ここではただ、簡単に個々の発展段階の特徴をしるすしかない。

物語の不幸な主人公ゴリャートキン氏名目参事官は、ある朝、役所に出向く代わりに、国政参事官ベレンジェーエフ、つまり、「ある意味で父親代わりになってもらった、大昔からの恩人」の館で催される晩餐会に出かけるために、格別念入りに品よく身支度をする。ところが早くもその道中で、さしあたり彼に計画を変更する気にさせるさまざまなことが起こる。馬車の中から彼は二人の若い役所の同僚を見かけるが、その一人は彼を指さし、もう一人は大声で彼の名前を呼んだように思われた。彼は「この愚劣な小僧っ子ども」に腹をたてているうちに、また新たな一段と都合の悪い事件に行く手を阻まれる。彼の直属の課長アンドレイ・フィリッポヴィチの瀟洒な儀装馬車が彼の馬車の傍らを通り過ぎ、課長は、このような状況で部下に出会ったことにどうやら驚いたとみえる。

ゴリャートキン氏は、「言い知れぬ苦悩に満ちた重苦しい不安にかられて」自問する。「課長に、おれがだれだか明らかにしたほうがいいのだろうか。それとも、まるきりおれじゃなく、おれと取り違えるほど似た、赤の他人のように、何食わぬ顔をしていたものだろうか?」「そうですとも、私はともかく私じゃございません・・・とにもかくにも、全くの別人でございます・・・ええ、それだけのことです」。結局、彼は上役に挨拶をしない。この馬鹿げた振る舞いや、そう仕向けた仇敵どもの悪意を思い出してほぞをかむうちに、ゴリャートキン氏はほんの数日前にはじめて知り合ったばかりだが、「主治医のクレチアン・イヴァーノヴィチに、彼自身の精神安定のために何かとても重要なことを伝えたい切実な欲求」を覚えた。

見るも無残にうろたえながら向かい合った医師に、彼は回りくどく、パラノイア患者特有のあいまいさで、実は敵に、「私を破滅させようと誓いを立てたあの意地悪な仇敵ども」につけねらわれています、と打ち明ける。連中は毒薬さえ手を出しかねないが、とりわけ道徳的に私を葬ることが狙いであり、そのために、さも意味ありげにほのめかされるさる女性との関係が切り札として使われているのです、と彼はさりげなく漏らす。連中がとかく彼を結びつけて中傷する、このドイツ人の女将と、彼がまさに物語の冒頭で訪ねようとする昔の保護者の令嬢クララ・オルスーフィエヴナは、きわめて繊細かつ個性的に説明される色情狂的な彼の幻想を支配しているのである。「このけがわらしいドイツ女の巣窟には悪の諸力の全軍が潜んでいる」と確信する彼ゴリャートキン氏は、恥じらいながら医師にこう告白する。課長と、クララに求婚している昇任したばかりのその甥が、私の噂話を広めたのです。私は以前泊まっていた女将に、食事代のつけを払う代わりに文書で結婚の約束をしなければならなかった、だから、私は「すでに別の女性の婚約者」だなどと。

少し早めに着いた国政参事官の館で、彼はそれとなく歓迎されていないことを知らされ、決まり悪そうに引きさがり、他の客たちが──そこには課長もその甥もいたが──奥に通されるのを茫然として見送るはめにおちる。その後、屈辱的な状況にもかかわらず、彼はクララの誕生日を記念して催される祝賀会に紛れ込み、いざ祝辞を述べる段になると、救いがたい醜態を演じ、一同のひんしゅくを買う。さらにクララと踊る際も彼は足がもつれてつまずき、ついにパーティーの席からつまみ出されてしまう。

深夜、彼は「仇なす敵から逃れるために」、悪天候をついて当てもなく人気のないペテルブルグの通りを駆けてゆく。彼は、「自分自身から身を隠そうとでもするかのように、いわば何よりも自分自身から逃げ出したいかのように」見えた。精も根もつきはて名状しがたい絶望にとらわれた彼は、ついに運河のほとりで足をとめ、欄干によりかかる。と不意に、「たった今、誰かが彼の横、彼のすぐ隣に、同じように欄干にもたれて立っていたように思えた。そして──なんと奇妙なことだろう!──彼に何やら話しかけた気配さえした、早口で手短に、よくのみこめなかったが、何か身近なこと、彼と個人的にかかわりのある話のようであった」。

彼はこの不思議な幻影にかき乱された心を落ちつけようとするが、さらに先を急ぐと一人の男がやって来る。この男こそ自分に向けられた陰謀の主役だと思うまもなく、彼はすれちがいざまに、ひときわ目立つその外見の酷似にぎょっとする。「男も同じようにとても急ぎ足のうえ、同じようにすっぽり外套外套にくるまっていたし・・・彼ゴリャートキン氏と同様、ちょこまかと、せわしなく、小走りに歩いていた・・・」。

三たび同じ見知らぬ男に出会い、途方もなく驚いたゴリャートキン氏は、男の後を追いかけて呼びとめるが、すぐ近くの街灯の光に全身が照らしだされると、人違いでした、とわびる。だが、彼は男をよく知っていることを疑わなかった。「ゴリャートキン氏は男の名前、名字も呼び名も父親の名前までも知っていた。しかし、たとえこの世の宝をみなくれたとしても、決してこちらからは男の名前を呼ばなかっただろう」。

なおも思いをめぐらすうちに、いまや避けられそうにない不気味な出会いを、彼はむしろ一刻も早く待ち望む気になりはじめていた。はたせるかな、ほどなく見知らぬ男はつい目と鼻の先を歩いていた。我が主人公はいまや家路をたどっていたのだが、その紛れもない分身もちゃんと家路を心得ているふうに見えた。分身はゴリャートキン氏のアパートに入り、危険きわまりない階段を敏捷に駆け上がると、ついに、下男が待ち構えていたように開ける住まいに入っていく。ゴリャートキン氏が息せき切って自分の部屋に駆け込むと、「見知らぬ男は、同じように帽子と外套をつけたまま、目の前のゴリャートキン氏の寝台に」腰をおろしていた。どうにも感情をぶちまけられず、彼は「恐怖のあまり体をこわばらせて相手の傍らにへたりこむ・・・ゴリャートキン氏は今宵の友人が何者か即座にわかった。今宵の友人こそ、ほかでもない、彼自身、まさにゴリャートキン氏その人であった。もう一人のゴリャートキン氏でありながら、しかもゴリャートキン氏自身── 一言で言えば、あらゆる点で彼は、いわゆる分身と呼ばれる者であった」。

この前夜の体験が残した強烈な印象は、翌朝の迫害観念の増幅にはっきりあらわれる。以後、迫害観念は、まもなく現実の姿をとり、もはや妄想の産物の中心から消え去ることがない「分身」からいよいよ明瞭に紡ぎだされてくるように感じられる。「職務怠慢のかどで叱責」を覚悟しなければならぬ役所で、主人公真向かいの席に、紛れもなく第二のゴリャートキン氏である、新参の役人を見かける。だが、それは「別のゴリャートキン氏、まったくの別人でありながら同時に、第一の者と全く瓜二つのゴリャートキン氏。同じ背丈、同じ体つきと身のこなし、同じような服装、同じように禿げた頭──要するに、何一つ、いや事実完璧に似せるために何一つ忘れられたものはなく、もし二人を並べて立たせてみれば、だれ一人、まったく実のところだれ一人としてどれが本物のゴリャートキン氏でどれが偽者は、どれが古参でどれが新参か、どれがオリジナルでどれがコピーか、言えなかったであろう」。だが、この忠実な「鏡像」は、そのうえ、同名であり、同じ町に生まれ、両者は確かに双子と見まがうばかりだが、気質の点では、いわば原像と正反対なのである。「鏡像」は無鉄砲者・偽善者・追従者・出世主義者であり、だれにも取り入るすべを心得ているために、不器用・内気・病的なほど誠実なその競争相手をまもなく押しのけてしまう。

これより展開されるゴリャートキン氏と彼の分身との関係は、その描写が小説の主要内容をなしているが、ここでは最も重大な局面しか書きとめられない。最初はきわめて親密な友情関係、いや主人公の仇敵に対抗する盟約さえ結び、彼は新たな味方に最も重大な秘密までも伝える。「僕は好きだ。君が好きだよ、実の兄弟のように好きだ、本当さ。でヤーシャ、君と組んで、やつらにひとついたずらをしてやろうじゃないか」。

ところがまもなく、ゴリャートキン氏は彼の似姿こそ最大の敵であることを嗅ぎつけ、この元凶から身を守ろうとする──分身が主人公の同僚や上司たちの愛顧を横取りする役所でも、また分身がまんまとクララに取り入ったらしい私生活においても。癪なこの男は主人公の夢の中まで追いかけてくる。分身から逃げまどうさなかに似姿の大群に取り囲まれ逃げられなくなる、といった夢をみる。だが、起きているときも、この不気味な関係に悩まされ、挙句のはてにピストルによる決闘を申し込むのである。

この類型的なモチーフのほかに、ここでも鏡の場面がある。しかも、物語が鏡の場面ではじまるのは、その重要性を証拠だてていると思わせる。「さて、ベッドからとび起きるや、彼はまず、箪笥の上に置かれた小さな丸鏡の方へすっとんでいった。鏡に映し出された、近視で髪の毛がかなり薄くなった寝ぼけ顔は、まず絶対にだれの注意もひきそうにない、取るに足らない代物だったが、当人はその映像にいたくご満悦のていであった」。

分身による迫害が山場をむかえる段階になると、ゴリャートキン氏はレストランのカウンターで小さなパイを一個もらえば十倍の勘定を請求され、お客様はこれだけ食べられました、と明確な指摘がある。口も利けぬほどの驚きは、目をあげて「我が主人公がいまのいままで鏡とばかり思っていた」真向かいの戸口に、もう一人のゴリャートキン氏の姿を認めるや、たちまち理解に変わる──つまり人違い、あいつはそれをずうずうしく逆手にとっておれを笑いものにしようとしたのだ。極度の絶望にかられた主人公は、「父親同様の」庇護を求めて最上級の上司を訪ねるが、そのときも同様な錯覚に陥る。閣下と彼のぎごちない面談を突如中断させる「奇怪な客。前にも一度あったことだが、我が主人公がいまのいままで鏡とばかり思っていた戸口に──あの男があらわれた──それは言うまでもなく例のゴリャートキン氏の知人であり友人であった」。

同僚や上役に対する奇怪な振る舞いによって、ゴリャートキン氏は解雇される。だが、他の分身主人公の破局がことごとく女性に結びついているように、本来の破局はここでもクララ・オルスーフィエヴナとかかわりがある。彼の分身や、「ドイツ人の女将」の一「弁護人」ワフラーメーエフと手紙のやりとりをしているうちに、手違いから、ゴリャートキン氏は改めて彼の色情狂的幻想をあおる、一通の手紙をひそかに手渡される。その私信でクララ・オルスーフィエヴナは、心ならずも押しつけられた結婚から私を守り、すでに卑劣漢のしくむ陰謀の罠にはまり、いまこうして高潔な救いの神に心中を打ち明けている、この私と一緒に逃げて欲しいと願っていた。

疑い深いゴリャートキン氏は、あれこれ思案に暮れたすえ、やはり呼び声にこたえ、指示通りクララを、夜九時に馬車に乗って彼女の家の前で待つことに決める。だが逢引に向かう道中で、彼はなおも万事を解決する最後の試みを企てる。彼が父と仰ぐ閣下の足下に身を投じ、破廉恥な分身から救っていただきたい、と嘆願してみよう。つまり、「あれは別の人間でございます、閣下。そして私もまた別の人間でございます!彼も一個の独立した人間でございますし、私も独立した人間でございます、本当に、私は完全に自立しておるのでございます」と言うつもりであった。ところが、いざ貴人の前に出ると、彼はうろたえ、どもりながら作り話をはじめ、閣下にもその客人たちにも不審感をうえつけてしまう。とりわけ、その場に居合わせ、ゴリャートキン氏が先に助言を求めた例の医師は、彼を鋭く観察し、もちろん、閣下の寵愛をうける彼の分身もまたそこに居合わせ、結局彼を分身が外に放り出すことになる。

ゴリャートキン氏は長時間クララ家の中庭に潜んで待ちながら計画の利害損失をいま一度すっかり洗い直した。と突然、彼は華やかな証明に照らされたあちこちの窓から見つけ出され──もちろん分身によって──とても愛想よく館に招き入れられる。彼はもくろみが発覚したと思い、不愉快きわまりない事態を覚悟するが、意外にもそのようなことは何も起こらず、逆に、一同から好意的に愛想よく歓迎される。「幸せな気分に襲われ、彼はひとりオルスーフィイ・イワーノヴィチにばかりかすべての客人に対して、いやそれどころか危険な彼の分身に対してさえ、あふれるばかりの愛を感じ、分身もいまでは決して邪悪な敵ではなく、もはや分身そのものですらない、まったくの局外者で親切な人間のように思えた」。

それでも主人公は客の様子から、何か特別なことが準備されているにちがいない、という印象を受ける。つまりは分身と和解させようとしているのだと思った主人公は、接吻のために頬をよせる。ところが、「ゴリャートキン二世氏の下品な顔に何やら邪悪な影が浮かんだようであった──ユダの接吻、うわべの愛情の、あの渋顔が・・・ゴリャートキン氏は頭ががんがん鳴り、目の前が真っ暗になった。ゴリャートキン氏の似姿が果てしない長蛇の列をなして物音もすざまじくドアから部屋の中へなだれ込んできそうな気がした」。

はたせるかな、そこへ不意に一人の男が入ってくる。その姿を見るなり、我が主人公は、「すでに前々から何もかも承知し、似たような事態を予感していた」とはいえ、思わず恐怖にとらわれる。勝ち誇った分身が意地悪く彼にそっと耳打ちするところによれば、それは医者であった。医者は、一同に申し開きをしようとする哀れなゴリャートキン氏を連れ去り、彼と馬車に乗り込むや、たちまち馬車は動き始めた。

「仇敵どもの甲高く響く、まことに抑えがたい叫び声が、別れの挨拶がわりにおくられてきた。しばらくの間、なおも幾人かの人影が馬車と歩調を合わせ、車の中をのぞきこんでいた。だがその数もしだいにへり、ついにはだれも見えなくなった。いまではただゴリャートキン氏の恥知らずな分身だけが残り」、右に左になりながら馬車と並んで走り、別れのキスを送るのだった。しかし、分身の姿もついに消え、ゴリャートキン氏は気を失ってしまう。夜の闇の中でふっと我に返ると、彼は傍らの同伴者から食費も宿泊料も国から支給されます、と聞かされる。「我が主人公はわめき、頭を抱えた──この通りであった、彼はもうとっくの昔にこの事態を予感していたのだ!」

第3章 詩人たちの実像:ドストエフスキー(P.69-72)

診断(てんかん)の問題は未解決だとしても、ドストエフスキーの重い心の病も疑いをさしはさむことができない。早くから変わり者の彼は、臆病で自分の殻に閉じこもって暮らしていた。ライムントのように彼も極度に疑い深く、自分に向けられるすべての行為にはなんらかの侮辱と、彼を傷つけ怒らせる魂胆があるとにらんだ。工兵学校時代に、彼自身の告白によれば、すでに軽い発作(てんかん性の)に見舞われたらしく──ドストエフスキーはこの発作を、ちょうど生きながらにして埋められることへの恐怖のように、ポーと共有しているわけであるが──、いずれにせよ、病気は追放時にはじめて突発した、とする主張は通らないように思われる。逆に、ドストエフスキー自身は、逮捕の瞬間から持病は影をひそめ、服役中はただの一度も発作に悩まされなかった、と語っている。本人の言葉どおり、もしあの破局が訪れていなければ、夫は気が狂っていたでしょう、と彼の妻は覚え書きに書いている。だが、この心理的に理解しやすい事情は、むしろヒステリー性疾患(擬似てんかん性の発作をともなう)を証明していると思われる。この種の発作は、服役後異常な頻度と激しさで繰り返され、詩人はそれを作品の中にも幾度となくみごとに描いている。発作についてドストエフスキー自身はこう語る。

「私は数瞬間、通常の状態ではありえない、余人にはとうてい理解できそうにもないような幸福感を感じるのです・・・この感覚はとても強く、とても甘美なために、そのような数秒間の至福を手に入れるためなら人生の十年間、いや全生涯だって犠牲にすることができるでしょう」だが、発作の後は途方もないうつ状態にあった。彼は自分を犯罪者と思い込み、知らない罪がのしかかっているような気がした。── 「十日ごとに発作に襲われる」と彼はペテルブルグに滞在した最後の数日間に手紙をしたためている、「そして発作後五日間は正気に返らない、私は救いようのない人間です」── 「理性が全くだめになってしまった、本当です。そう感じます。だって、神経震盪が時おり私を狂気に近づけたのですから」

ドストエフスキーの行動は、「カルタ遊び、好色な放埓、神秘的な恐怖探求の際」など、いかなる方向にも常軌を逸していた。「到る所で常に」と彼は回顧する、「私は最後の極限まで進み、生涯たえず──線を踏み越えてきました」。

ドストエフスキーの性格を明らかにするために、彼もポーのように奇矯で高い自尊心・自負心に満ちていたということを付け加えておかなければならない。彼自身、青年時代(『分身』完成のころ)に、「僕には恐ろしい悪徳、限りない自己愛と功名心がある」と兄に手紙を書いているが、病跡学者によれば、ドストエフスキーはありとあらゆる自己愛の混合体なのである。虚栄心と自己愛はまた彼の多くの登場人物をも性格づけている。たとえば、パラノイア患者ゴリャートキン。後期の創作に色濃くにじみでている詩人自身の性格特徴が、ごく初期の人物であるゴリャートキンの中にすでに数多く盛り込まれ、詩人みずから繰り返しゴリャートキンのことを「告白」だと述べている。

メレジコーフスキーによれば、分身モチーフがドストエフスキーの中心課題である。「このようにドストエフスキーの場合、すべての悲劇的な闘う一組(ペア)の者たちは、自他共に許す一個の完全な人格である活力あふれる人びとには、実は、第三の分裂した人格の二等分、つまり互いに分身のように求めあいつきまとう片割れ同士にすぎないことが見透かせる」。また芸術家としてのドストエフスキーの異常性について、メレジコーフスキーは次のように語っている。
「事実、飽くなき好奇心を持ってただただ病気のことを、人間の心の最もおそろしい最も恥ずべき潰瘍ばかりをほじくりまわすとは、なんと奇妙な芸術家であろう・・・そうしてこれらの<至福の人びと>これらの憑かれた人、愚か者、白痴、精神障害者たちはなんという奇妙な主人公であろう?ひょっとすると彼は芸術家というよりも、精神科医、それも、先生、まずご自身を治療なさい!と言わずにはおれない、医師なのかもしれない」