Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
ドストエーフスキイ全作品を読む会 『読書会通信』No.167(2018)

「おとなしい女」と『作家の日記』


下原康子

空想的なリアリスト、あるいはリアリスティックな空想家。それが私のドストエフスキーです。現実と空想は対比的な概念ではなく、どちらも人間の謎という同じ源泉から生じています。「事実は小説よりも奇なり」はバイロンのことばですが、ドストエフスキーの創作原理はまさしくそのとおりで、新聞の社会面記事に尋常ならざる興味を抱いていたのもうなずけます。

“空想的な物語”という副題が付された「おとなしい女」が新聞記事からをヒントをえたことはおおいにありえます。そう思って探してみたら・・・、ありました。「おとなしい女」の掲載は『作家の日記』の1876年11月号ですが、その前月の10月号の第1章に注目すべき文章が3か所ありました。(当時のロシアの購読者はここも読んでいたわけです)。ここに提示されているヒントのテーマは二つ。一つはアフェクト、もう一つは自殺です。

1つ目は、第1章1の「単純な、しかし厄介な事件」。およそ半年前に起こった「コルニーロヴァの継娘殺し未遂事件」のことです。当時妊娠4か月だった若い後妻が、6歳の継娘を4階の窓から投げ落としましたが、少女は奇跡的に怪我ひとつしないで助かります。継母は、犯行後すぐに窓を閉め、着替えをし、戸締りをして警察に出頭します。そして、亭主に復讐するための犯行だったと自白したのでした。ドストエフスキーは、一見単純に見えるこの事件の中に、完全に解明されていない何かを感じ取ります。そして、この若い女の犯罪は妊娠中のアフェクト(病的激情)に起因するとして、──裕福で教養もある婦人が、妊娠中にかぎって押さえきれないアフェクトに駆られ盗みを繰り返したという例をひきあいに出して、コルニーロヴァの無罪を主張したのでした。

「かようなアフェクトは、なるほどまれにしかないものだが、それにしても、とにかくあることはある。ある行為をまったく意識を保って、しかも責任能力なしに行うことはあるのだ。万一、この考えが過ちであったとしても、刑罰の過ちよりは慈悲の過ちのほうがましである。」としたのです。そして「少女は白パンをおっかちゃんに届けにくる。夫婦は心からしんみりと許しあう。」という“空想” を繰り広げてみせたのです。

10月号の発行後、ドストエフスキーは獄中の彼女を3回訪問しました。(アリョーシャの行動的な愛を思い起こさせます)。出産を終えた彼女のそばには洗礼を受けたばかりの赤ん坊が寝ていました。ドストエフスキーは“空想”が真実になったことを見て取ります。そして、12月号「ふたたび単純な、しかし厄介な事件について」の中でそのことを報告した上で、再びアフェクトの主張を、より念入りに熱烈に繰り返します。最後を「あえて誤りを冒して彼女を無罪にすることはできないのだろうか?」と結びました。ドストエフスキーの心理考察と情熱は司法を動かしました。シベリア懲役の宣告は覆り、彼女は無罪になったのです。驚くべき展開であったと思います。1877年4月号の「おかしな人間の夢」のすぐ後に「被告コルニーロヴァの釈放」の報告があります。

ここからは私の想像。アフェクトから「スタヴローギンの奇行」を連想しました。ガガーノフの鼻をつかんで引き回した例の事件です。うわさの手法で描かれたこの場面の終わりに、スタヴローギンは、「むろん、許していただけるでしょうね・・・どうしてふいにあんな気持になったのか、ほんとに、さっぱりわからないんですよ・・・ばかげたことです・・・」とつぶやきます。T. Alajouanineというフランスの神経科医は、このときのスタヴローギンの衝動的な行為はドストエフスキーが自身のてんかん性の精神運動行動(自動症)の体験を思い起こして描いたものと述べています。この解釈が気になって、「『悪霊』創作ノート」(米川正夫訳)をめくっていたら、次のようなメモをみつけました。

ニコラスはシャートフに「おお違うよ、ぼくは健康でてんかんなんかありゃしない。ぼくの中には悪霊の大軍団なんかないよ。われわれは放蕩しながらも健康をまもるさ。用心深いからな。ぼくは何ごとにつけても度をはずすようなことはできないんでね」(『悪霊』の中では、シャートフが「きみ、てんかんの持病はないのか?」と聞いた相手はキリーロフでした)。ドスエフスキーがアフェクトを強く主張した背景には自らのてんかん体験があったかもしれない、と私は想像しています。

「おとなしい女」の自殺をアフェクトに帰することはできないのはもちろんですが、コルニーロヴァと「おとなしい女」に共通した「窓から、投げる」行為は衝動性をイメージさせます。また、「5分、たった5分だけ遅れたのである!わたしが5分早く帰っていたら、─あの一瞬は浮雲のように過ぎ去って、そんな考えは決して二度と、彼女の頭には浮かばなかったであろう」という夫のことばはひっかかります。

2つ目は、同じく10月号の第1章3「二つの自殺」です。二人の若い女性の自殺がドストエフスキーに謎解きを迫りました。その一人はロシア亡命者の娘で、クロロホルムを浸した綿で顔をおおって寝台に横たわりそのまま死んだのです。奇妙な遺言を残しました。「私の自殺が成功しなかったら、シャンパンで私の蘇生を祝ってちょうだい。もし、うまくいったら、死んだことをよく確かめて葬ってください。だって、地下の棺の中で目をさますのは不愉快千万ですもの。あんまりシックでなさすぎますわ!」。ドストエフスキーは「彼女は、“冷たい闇と退屈”のために死んだ。シックという言葉の中に、挑戦、憤慨、怨恨が響いている」と書いています。私の連想はキリーロフに飛び、彼が遺書に「舌をべろりと出した面を描きたい」と言ったことを思い出しました。

もう一人の自殺者は、貧しい裁縫女です。たった数行の新聞記事によれば、彼女は仕事がみつからないことに悲観して4階の窓から飛び降りました。地面に墜ちたとき、両手に聖像をいだいていたというのです。「なんとつつましやかな、おとなしい自殺だろう」とドストエフスキーは書く一方で、ロシア亡命者の娘を思い起こし、「なんとかけ離れた二人の人間!死に方もなんという違いであろう、ところで、いったい二人の魂のうち、いずれが地上でより多く苦しみ、悩んだであろうか?」とつぶやきます。

3つ目は、第1章4「宣告」。退屈のために自殺した男の独白で、こちらは創作です。“唯物論者の論理的帰結の自殺”を宣言するこの男は、『地下室の手記』以来、様々なバリエーションで小説の中に現れ、私たちにはおなじみです。ドストエフスキー文学の核心部分を担う重要人物ですが、文字数に制限のある雑誌の紙面に登場させるのは勇み足だったかもしれません。批判や疑問が数多く寄せられたようです。(現在ならネット炎上でしょう)。そのため、ドストエフスキーは12月号の半分以上を使って、この男がいかなる人間か、この文章の目的は何かについて、一生懸命(ことばの上で)反論しています。いつかの日か、ドストエフスキーがどうしても伝えたかったというこの文章の“目的”を真実として感じ取りたい、それは私の希いでもあります。

「どうして人々を相手に語らずにいられよう?」それがドストエフスキーの人となりでした。(ディケンズがそうであったように)。さまざまな話題をあらゆる局面で人々に語りかけずにはいられず、読者の反応に対しても敏感でした。作家としての生涯を通して雑誌出版はドストエフスキーの念願でした。『未成年』執筆のころになってようやく経済的に安定し、個人雑誌『作家の日記』の自費出版が実現します。事務所は住居の一室で、社員は使い走りの給仕だけ。事務を一手に引き受けたのはアンナ夫人でした。雑誌の反響は大きく部数も伸びていきました。一方で、ドストエフスキーの健康は下降します。残された時間はわずかでした。『カラマーゾフの兄弟』の執筆のための中断後、1880年8月の臨時号「プーシキンに関する演説」を経て、1881年1月に復活号第1号が出ました。しかし、同じ月の28日に急逝してしまいます。59歳でした。

このたび「おとなしい女」の再読が『作家の日記』(1873,1876-77)に目を向けるきっかけになりました。研究者ならずとも宝の山だと思います。今更のように米川正夫さんの偉業(全集)に対する感嘆と感謝の思いに駆られ、本棚から『鈍・根・才 米川正夫自伝』(河出書房新社 昭和37)を探し出し読み始めています。