Medical Dostoevsky
ドストエーフスキイの会 会報 No.100(1987.8)


脳生理学者とドストエフスキー



日本のとある医科大学の生理学教室実験室。一人の脳生理学者が、一匹の日本ザルを相手に実験の真っ最中である。この学者の研究テーマは“触覚”で、彼はこのサルを使って物の形や材質、かたいとかやわらかいとか、スベスベしているとかザラザラだとかに反応する細胞をみつけようというのである。

たいへん忍耐を要求される研究で、サルに一つのことを教え込むだけで二、三ヶ月かかることもある。彼はすでに十年この研究を続けているが、今までにかなりの業績を上げ、国内はもとより、最近では海外からも注目されはじめている。今後の十年はさらにめまざましい成果が期待できるであろう。彼自身、その見通しには十分な自信を持っている。

脳の研究では世界中の学者がしのぎをけずっている。触覚はもとより、視覚・聴覚・嗅覚の脳内地図は次々と塗りつぶされてゆく。基礎医学の研究者のほかにも、脳外科医や神経科医や精神科医が、また心理学者や哲学者が人間の脳の研究に貢献している。彼らは一様に「人間の脳(心)を人間の脳が解明できるのか」という疑問を胸に秘めている。これに関しては楽観主義者も悲観主義者もいる。一方で、疑問を口にする人も黙り込む人もいる。実際のところ、心の何たるかはまったくわかっていないどころか、それ以前の認識・学習・記憶といったメカニズムも十分には解明されていない。脳は宇宙と同様に依然として未知の領域である。

さて、わが脳生理学者は実験の途中でサルをほったらかしにしたまま椅子に深々とよりかかり思いに沈みはじめた様子である。やがて彼は一冊の本を手に取り、日がとっぷりと暮れるまで読みふける。この一冊、ドストエフスキーに違いないと、私は思うのです。