ドストエフスキーとてんかん/病い


<抜粋>


『死と神秘と夢のボーダーランド 死ぬとき、脳はなにを感じるか』
原題:The Spiritual Doorway in the Brain:A neurologist's Search for the God Experience. by Kevin Nelson,2011

ケヴィン・ネルソン 著 小松淳子 訳 インターシフト 2013

第8章:合一の美と恐怖 神秘の脳の奥深く
(P.268〜310)

人は無限なるものと関係しているのだろうか─それが問題の核心だ。カール・G・ユング

当初は見過ごしていたのだが、霊的体験に関するウィリアム・ジェイムズの見解を読み解くうちに、私の頭の中でどんどん存在感を増してきた臨死体験の一面がある。臨死体験のさなかに感じる“合一、世界との一体感”。これをもっと詳しく検討してみようという気になった。私の研究チームが行った調査では対象者の42パーセントと、かなり大勢がこの感覚を味わっている。ジェイムズはこの合一という神秘の覚を、宗教の組織化のもとになる主要な閃きであり、霊的体験の中で最も有意義なるものと考えた。

ここまで検討してきたさまざまな脳のシステムは、こうした神秘の体験について何を教えてくれるろう?覚醒系のレム睡眠にかかわる部分から直接一体感が生まれると考えるのは、納得がいかない。神秘体験中の脳の働きを解明するにはむしろ、覚醒系の恐怖と闘争・逃走反応とに関係している部分に目を向けるほうがよさそうだ。私たちが調査対象とした臨死体験者のうち、一体感を感じた者(神秘体験群と呼ぼう)は他の調査対象者よりも強い平穏感と喜びと理解を体験していた。これはいずれも、辺縁系がもたらす感情である。神秘体験群では、越えられない境界(“生還できなくなる限界点”)らしき所に到達した者の割合も多かった。彼らには他の調査対象者よりレム睡眠侵入が幾分多い傾向が認められたものの、この差は統計的に有意と言えるほどではなかった。

この結果から見る限りでは、神秘体験におけるレム睡眠期の意識状態の役割は間接的にも思える。闘争・逃走反応もしくはレム睡眠のスイッチによって辺縁系がいったん賦活してしまうと、その後、神秘的な一体感が訪れるか否かは辺縁系次第で、辺縁系を発火させた脳幹の活動自体はさほど影響しないように見えるのだ。第1章に登場したリハビリテーション医クリフに、アドレナリンの分泌増加が治まってくると、“自分より大きな存在と太い絆で結ばれている”感じがしたと聞いた時、ふと思い出した話がある。同僚の神経内科医が霊的体験談の収集に協力してやろうと言って話してくれた体験だ。彼、リードの体験も、クリフのそれと同様、アドレナリンの分泌増加と恐怖と超越的な合一体験との関連を示すものである。

昇る太陽 (269〜272)

当時、ボストン大学で神経内科の研修をようやく終えたリードは、打ち上げに友人二人とメイン州の海岸沿いでキャンプをすることにした。最初の晩は飲み明かして、夜が明けてみれば二日酔いだ。リードは酔い覚ましに、海沿いの遊歩道を散歩することにした。ここから先は、彼の口から語ってもらおう。

遊歩道は遠目に見たよりひどかった。岩をよじ登ったり下ったり、倒木を乗り越えたりね。頭がふっと軽くなって、気がついたら汗まみれだったから、びっくりしたよ。心臓がパクパクしていたから、こいつはアドレナリンの分泌亢進だと分かった。考えてみたら、前の晩にスコッチを浴びるほどやって脱水症状になっているところに、空きっ腹で、せっせとハイキングだもんな。で、砂浜に降りて、渚を歩こうと思ったんだ。

海の彼方、東から太陽が顔を出し始めていた。その息をのむような光景を眺めているうちに、思いはいつしか将来に向かっていた。これからどんな変化が待ちかまえているんだろうって。打ち寄せる波の向こうには、海が水平線まで広がっている。すると突然、圧倒されるような無限の宇宙との一体感が膨れあがってきた。自分が広大な海と空と融合する感じだ。だけど、それと同時に、どうしようもない疎外感に襲われたんだ。見渡す限り、砂浜が起伏を繰り返しながら続いている中で、僕という一人の人間が足元の砂粒より小さく感じられた。そのすぐ後にやって来た感覚に戦慄したよ。陶酔感や平穏感なんてとんでもない。感じたのは強烈な冷淡さだ。宇宙は冷酷だよ!悪意さえ感じた。宇宙は限りなく大きい。その理解を超えた大きさの前では、僕なんか例えようもなくちっぽけで取るに足りない。無力感に押しつぶされそうになって、激しい恐怖を感じた。

一瞬の感覚だけどね。耐えられなかった。空から目を引き離して、何か気を紛らわしてくれるものはないかと砂浜を見回した。自分は無価値な存在だっていうおぞましい感情から目の前のありふれたことに、無理にでも気持ちを切り替えようとしたんだ。頑張った甲斐はあったよ。つまらない人間だっていう気持ちは消えた。でも、キャンプに帰る途中、不意にもの悲しい思いがこみ上げてきて、口がカラカラに渇いているのに気づいた。朝飯、食べていなかったしね。だるくてふらふらだった。

キャンプに戻っても、友だちには何も話さなかった。何か後ろめたいような、奇妙な罪悪感があったんだ。クーラーの所へ行って、水分と糖分を摂れるものを探したら、氷の塊の中に艶々したオレンジが転がっていた。一切れ切ってかぶりついたら、冷たくてみずみずしい風味が口いっぱいに弾けた。あのオレンジのうまかったことといったら・・・・・死ぬまで忘れないよ。オレンジの甘さで気力と体力が一気に回復して、最高に幸せと思っだけれど、どちらが強烈な体験かと言われれば、浜辺で感じた底知れないむなしさにはとうてい及ばなかった。


リードの砂浜での体験はこの時限りで終わった。それ以前に似たような体験をした覚えはないし、以後もこの時のような感覚は二度と味わっていない。彼が感じ取った無限の宇宙は、数学で言う無限の概念とはまったく異なるものだと言う。経験に裏打ちされたもの、知識と感情の同時融合だった。彼の体験の大きな特徴は恐怖だった。つまりは、恐怖が体験の鍵を握っていたに違いない。

リードは一体感を味わった後に、追いかけるようにやって来た恐怖に襲われたのに対し、クリフが一体感を体験したのは恐怖が始まってからだ。しかし、どちらの事例でも、一体感と恐怖感が密接に関連していたことに変わりはない。ならば、この二つの感覚は脳内でも結びついているものと思われる。

病んだ霊性、健全な霊性 (299〜300)

霊的体験と言っても通るけれども、実は間違いなく病んだ心、歪んだ心の産物というものもある。まず思い浮かぶのが、カルト教団人民寺院の教祖ジムー・ジョーンズの命令で起きたジョーンズタウンにおける集団自殺だ。それでは、ヴェトナム戦争に抗議して焼身自殺した仏教僧らはどうなのだろう? 彼らも心を病んでいたのか?

いかなる種類であれ、原理主義は幻想のうえに成り立った、異常に頑迷な信仰にほかならない、と主張する向きもあろう。しかし、そう主張する人々自身、自分が非難している原理主義者に劣らず頑迷なのではないか。意識と自己について考察した本書の第1部で私が言いたかったのは、私たちが揺るぎない現実と思っているものでも、少なくとも神経内科医の観点からすれば、筋金入りの無神論者の目に映る霊界と同じで、錯覚に過ぎないかもしれないという、そのことである。

霊的体験は本質的に、私たちの日常生活の境界を越えた体験だ。まあ、そう思う人が大半だろう。それでは、その境界を越えてどこまでが霊的体験で、どこから先が狂気となるのか?ほぼ誰もがそれと認める素晴らしい霊的体験をした人でさえ、この疑問に襲われることがある。ナンシーという女性もこの疑問を抱えていて、私にこんなメールを送ってきた。

一度死んで、神に遭って送り返された話(つまり、臨死体験談です)をする人について、お考えをお聞かせください。彼らは信じるに足る人々でしょうか、それとも、何かの病気なのですか? 私にとってはとても大切なことなので、ぜひとも詳しくお教えください。

臨死体験を病気、つまり、狂気への転落として扱うべき場合があるのだろうか? 霊的体験が健全だと見きわめられる基準はあるのか?誰にそんなことが分かる?病んだ霊性と健全な霊性を分かつ線は、病んでいる本人のみならず、誰の目にも見えないものなのだ。

かつては、病んだ霊性と脳というテーマが神経内科医の注目を集めていた。何と言っても、神経内科医としてはそういうタイプの症例を扱うことが多いのだから、当然と言えば当然である。

奈落の底 (301〜304)

フランクは私の大学時代の友人で、心理学者として成功を収めた男なのだが、20代の頃にさまざまな薬物を自ら試してみて以来、霊的体験の熱烈な探求者になった。本書で紹介できるような体験を掘り起こせないかと思って聴き取りをしてみたら、健全な霊性と病的な霊性の境界は向こうが透けて見えそうな紙一重だと痛感させられるような話をしてくれた。

まだ夜も明けきっていなかったな。マジック・マッシュルーム(サイロシビン)をやって長い夜を過ごした後だったから、もうグロッキー。くたくたで、ベッドにひっくり返ったまま、目をつぶっていたんだけれど、マッシュルームの刺激的な効果はまだ感じていた。いつの間にかうつらうつらしていたんだと思う。何の予感もなかっだのに、気がついたら、僕は物理的な形をまったく持たない、意識の特異点になっていた。空間にぽっかり黒い穴が現れて、抗しがたい力で吸い込まれたと思ったら、どんどんまぶしさを増していく光の層をいくつもものすごい勢いで通り抜けて、存在の中心というか、創造の渦に到達した。この耐えがたいほど眩い光の中心まで行ったら自分が消滅してしまうように思えて、ものすごく怖くなった。ワッと思って目が覚めたら、ベッドの上に起き上がっていて、心臓が早鐘のように鳴っていたよ。その時はそんな感じで終わっだのだけれど、今になってみると、普段は、あの幾重にも重なった光の層が、紙一重のところまで追っている耐えがたいほど強烈な純粋意識から僕を守ってくれていたと思えて仕方ないんだ。

いくつもの“住まい”を通り抜けてようやく神の元にたどり着く、聖テレサの霊魂の城にそっくりだ。フランクは、セロトニン2受容体がサイロシビンの影響下にあって意識が睡眠へと移行しつつある中で、ステイスの言う典型的な内向的神秘体験をしたのである。マイスター・エックハルトならば、フランクが光の中に見た黒い穴を、神の神聖な“煌めき”、すなわち、すべての神秘主義者が見る自我の殻の中に封じ込められた内なる光と捉えたことだろう。

フランクの話では、これは前兆に過ぎなかったそうだ。それから一年ほどして、彼は破滅の一歩手前まで追い込まれるほどに強烈で混沌とした体験をした。
 
これから話すのは、僕が大学院で哲学を学んでいた頃の出来事だ。ある晩、仲間で集まって、マリファナを吸っていた。ステレオから音楽が流れていたっけ。どうした風の吹きまわしか、誰かがベートーヴェンの第九をかけたんだ。曲が盛り上がってくるにつれて、僕はその迫力に呑み込まれていった。ただし、この時は、純粋意識だか何かに溶け込む感覚はなかった。第九にはこの世のものとは思えないほど神聖な力があった。やがて、トランペットが天使の訪れを告げた。神ご自身から僕に宛てたメッセージを持って遣わされたんだ。天使たちはテレパシーで僕に語りかけてきたよ。天命です、あなたは神の特使として神の真の愛と平和を地上にもたらす定めにありますって。神が僕に触れられた、僕を特使として選ばれたんだと、神意を確信したよ。

神と触れたという感覚はそれから二、三週間も続いた。来る日も来る日も、究極の現実に触れてしまったという激情を持て余しながら、その一方で、僕の中の冷静な部分はこの体験の意味するところを必死で探っていたんだ。そうするうちに、少しずつだけれど、どうやら強烈な妄想に捕らわれているらしいと気づき始めた。とうとう冷たい現実に戻った時には、心を洗われるような温もりのある神意を微塵も感じられなくて、想像を絶する闇に突き落とされたよ。あれは人生最大の試練だった。だって、神意を味わってしまった後で、何を信じろって言うんだ? 今までどおり、暮らしていけるわけがないじゃないか。奈落の底に落ちたなんていうものじゃない。自分か奈落になってしまった。気が狂うんじゃないかと恐れおののいたよ。生きているのが怖かった。それで引きこもりになって、気力も意欲も失って、どっぷり鬱状態だ。

この危機的状況からどうやって立ち直ったのか尋ねたら、衝撃的な答えが返ってきた。

僕が生き延びる唯一の道は、何か信じられるものを見つけることだと悟ったんだよ。でも、今までの現実には、僕がどうしても戻りたいと思っている自分に連れ戻してくれるようなものは何一つなかった。それまでの信念は、自分のものであれ、他人のものであれ、すべて粉々になってしまったからね。そこで、廃墟と化した僕の世界に残っていた唯一の真実にすがった。例のマジック・マッシュル〜ムの夜さ。あの時体験した意識の特異点こそ、絶対不変の必然だと気づいたんだ。仕方ないさ。生きていてなんぼだもの。だから、自分自身を信じることにした。初めはゆっくりと、目の前のことだけを一生懸命こなした。勉強への集中力を取り戻すのに時間はかからなかったよ。ただし、哲学から心理学に宗旨替えしたけれどね。

フランクが話し終え九時、私は神秘体験が持つ壮大な力に畏怖を感じていた。神秘体験が彼を狂気の淵から引き戻し、信仰の危機を乗り越えて人生を立て直すための基盤となったのだ。マイスター・エックハルトなら間違いなく、フランクは自分が触れた神秘的な存在を核とし、その周りに彼自身の層を幾重にも再建して立ち直ったのだと理解し、納得することだろう。

私の好奇心に火をつけ、霊的体験を神経学的な観点から実証しようと思い立たせたのは、「プロローグ」で紹介したジョーの悪魔との闘いだ。しかし、長年にわたって収集してきたさまざまなタイプの霊的体験に対して、いまだそれらの意味するところを十分解明できないながらも、深い敬意と同情の念を抱くようになったのは、フランクの神秘体験に人を狂気の淵まで追い込むほどの重大さを見、その奈落の底から這い上がったフランクの精神力と明晰さを知ったからである。

神経病、てんかん発作
 (P.304ー308)  


何千年とも知れない昔から、意識と行動に異常を来す発作に襲われた人々は、霊魂や亡霊の訪いを受けてきた。うつろな目で虚空を見つめる、卒倒する、四肢が脱力する、口から泡を吹くといった症状を伴う発作は、悪霊の仕業とも、神懸かりになった状態とも見なされていた。新約聖書の『マルコによる福音書』第九章第一四節から二九節には、“取り憑いた”子どもから出ていけと、イエスが悪霊に命じる物語が詳しく記されている。この子どもがてんかん患者であったことは言うまでもない。

つまりは、紀元一世紀の世でも、てんかん発作は霊的なものという考え方が既に定着していたわけだ。ただし、誰もがそう思っていたわけではない。それより遡ること五百年、ヒポクラテスが実に現代的な概念を提唱している。「したがって、神聖病なる病(てんかん)であるが、これは私の見るところ、ほかの病気と比べてとくに神々しいわけでも聖なるものでもなく、他の疾苦同様、自然なる原因を有する」。ヒポクラテスはこの原因が脳にあると見抜いていた。

それはそれとして、神経内科医の間では、てんかん発作が一因となって霊的体験をしたのではと見られている人物が時代を超えて大勢いる。たとえば、聖パウロ、ジャンヌ・ダルク、聖テレサ、エマヌエル・スヴェーデンボリだ。

てんかん発作にはさまざまなタイプがあるが、霊的体験の発現と最も結びつけやすいのは、側頭葉と前頭葉の辺縁系構造物における電気活動の異常による発作である。辺縁系に発作の焦点を持つてんかんは、短時間ではあるが強烈な霊的体験を生むことがあるからだ。なかには立て続けの発作が治まった後に霊的な妄想や幻覚に襲われるてんかん患者もいる。

辺縁系てんかん発作の単発精神症状と言えば概ね恐怖であり、これには時として、既視感や離人症(夢様体験)、体外離脱体験、恍惚感、記憶回想、幻覚、正体不明の存在の察知も含まれる。

辺縁系てんかん患者は、自分の発作が霊的体験に直接結びつかなくても、しばしば霊的体験に関する話題に執着する。ただし、組織化された宗教には縛られていないことが多いようで、辺縁系てんかん発作を起こした後、ころっと改宗してしまうこともある。

辺縁系てんかん発作の中でも最も霊的な色彩がはっきりしているのは、“恍惚感”を伴う発作である。神経内科医は以前から、フョードル・ドストエフスキーが小説や自伝に書いている、恍惚感を伴う発作に関心を抱いてきた。ドストエフスキーは、友人とこんな議論を交わしている。

私は本当に神に触れたんだ。神が私の中に入ってきたのだから。そう、神は存在する。そう叫んだけれど、後は何も覚えていない。君たち、健康な人には、私のようなてんかん患者が発作の寸前に感じる幸福感を決して想像できまいよ。この至福が何秒、何時間、何か月続くものか分からないけれど、嘘じゃない、人生がもたらすどんな喜びとも引き換えにするつもりはない…全生涯にも値する至福なのだから。

ドストエフスキーは自分の霊的恍惚感に火をつけるのは病気ではないかと薄々気づいていて、『白痴』のムイシュキン公爵にこう言わせている。「これが病気だとしたらどうしよう? いや、精神の異常な緊張のせいだとしても、かまうものか。治った時に思い出せる結果を、あの一瞬の感覚を子細に検討してみて、やはり調和と美の極致だったと納得できるものであるなら、しかも、今まで想像することもなかった未知の感覚、完璧さと均整と融和と祈りがもたらす恍惚感とが渾然一体となって至高の人生を得たと感じることができるなら、病気だからどうだと言うのだ?」

時間の消失と究極の確かなるものとの接触は、紛れもなく霊的体験の要素だが、私か知る限りではプロティノスやエックハルトの記述にある神秘的な合一については、ドストエフスキーは一言も触れていない。ドストエフスキーのこの上ない多幸感は、てんかん発作がもたらしたものであるけれども、それを彼が神に与えられたと感じたのなら、モルヒネが脳に及ぼす影響と何ら変わらないのではないか? ドストエフスキーのてんかん発作とは別に、神秘的合一を体験させる、恍惚感を伴うてんかん発作もあるのかもしれない。ならば、そうした発作を研究すれば、神秘的合一にかかわる脳領域を見定められるかもしれないが、今のところ、そういう特殊なてんかん発作が脳内のどこから生じるか、原因は何なのか、定かでない。と言うのも、そのタイプのてんかん発作はきわめて稀であるからだ。ドストエフスキーさえ体験したことがないと思われるほど稀なのだ。

それよりもはっきりしているのは、ドストエフスキーが、宗教的な話題への執着と、とりわけ宗教的なテーマについて書きたいという強迫衝動とを特徴とする、典型的な“側頭葉人格”であったことだ。

自分が治療しているてんかん患者が霊的体験をしても、それを評価できるほどの心理学と哲学の高度な知識を持ち合わせていない神経内科医は大勢いる。そうした神経内科医は得てして、神秘体験を何となく霊的と思える他のタイプの体験と十把一絡げに扱うものだ。そうした中で、注目に値する例外と言えるのが、ロンドン大学の脳神経科学者、マイケル・トリンブルとアンソニー・フリーマンである。フードの“M”評価尺度を側頭菓てんかん患者に適用して、彼らが自己喪失や自分より偉大な存在に吸収される感覚を体験している事実を突き止めた。それでも、その患者たちが、意識の特異点や合一や神の特使として選ばれたという妄想を体験したフランクと同様の神秘体験をしたのかと言えば、やはり疑問だ。彼らが精神障害者と神秘体験者のいずれであったかはいまだ不明である。さらに言うなら、こと脳に関する限り、どうなればその両方になりうるかも不明なのだ。

世界各国の神経内科医が収集した事例を見ると、霊的な体験を伴うてんかん発作は、右側の辺縁系の構造物に端を発している可能性が高い。一方、脳の異常な放電が治まった後の霊的体験につながる精神障害と妄想はむしろ、多くの場合、左右両側の辺縁系が病んで起こる。

こうした稀な例と言える歴史上の人物はさておき、たいていの人では、辺縁系てんかん発作が霊的体験の触媒になることはない。それでも辺縁系てんかん発作が注目に値するのは何より、原因が普通はてんかん発作以外であるにせよ、活性化されれば霊的体験の一因となりうる脳領域がどこなのか教えてくれるからである。