ドストエフスキーとてんかん/病い


<抜粋>

[ドストエフスキーの病跡学]

村田 忠良

典拠
てんかん学 秋元波留夫、山内俊雄 編
岩埼学術出版社 1984
W部 てんかんの精神病理学 18章 てんかんの病跡学 U.てんかん患者の病跡学 2.研究補遺 
2)ドストエフスキーについて(P.574〜579)



ドストエフスキーについての病跡学は、病跡学の典型的な地位を占めている。それは、かつて進行麻淳が精神病の「疾患単位」モデルであったのと同じニュアンスを感ずるほどのものである。ドストエフスキーがてんかん患者であったことを疑う者はいない。病跡学的研究の論文も枚挙にいとまないといってよい。したがって、ドストエフスキーの病跡学などいまさらの感なきにしもあらずであり、屋上屋を架する体の作業とみられても致し方ない。

ただ、例えば古典的なFreudの論文にしても、荻野がすでに鋭く指摘している。よく知ら れているように、Freudはドストエフスキーのてんかん初発年齢を18歳、つまり彼の父親が農奴によって惨殺されたという知らせを受けたときと想定して、精神分析学的にドストエフスキーのてんかん病因を解説する。そしてこのFreud説に対する反論も少なくない。荻野はしかし、その反論が「多くの場合、Freud のドストエフスキー解釈に対する反感に基づいているよう」だと指摘し、「しかしながらわたしたちがFreud の論文を、偏見をもたずに注意深く読んでいくとき、 Freud独自の洞察や卓見を、そこに見出すこともできるように思う」という。これには、大きな首肯性をもつにしても、Freudの理論の根拠は「ドストエフスキーがシベリアにおいては発作を起こさなかったというのが事実であれば、それは、彼の発作が罰としての性格を持っていたことを裏づけるものにほかならない。他の方法で罰せられていたとすれば、もう発作を 必要とはしないからである」という点にある。Freudは「シベリアにおける発作の有無については証拠がない」というが、今日われわれは、ドストエフスキーが流刑地でてんかん発作をみていたことを知っている。

また、ドストエフスキーが最初の結婚のとき、また再婚のときにも激しい全般けいれん発作に襲われていることに対して、精神分析学的に解釈することはもちろん可能であるが、日常てんかんの臨床に従事する者としてはごく単純に、飲酒と睡眠不足が発作を誘発したと、まずは考えるのである。当時のロシアの結婚式は一週間余も連日酒宴が続く風習であったというので、主役である新郎が過量の飲酒をし、睡眠不足の状態にあったことは容易に考えられることである。このようないわばてんかんの臨床での常識的な因子分析を経ないで意味づけ作業を行うことが、病跡学の分野にはたまたまあったのではないかと思われる。このようなごく臨床的な観点からドストエフスキーのてんかんについて若千の考察をしたいと いうのが、本項の主旨である。

(i)てんかん発作の初発について

多くの論著を通読・検討してみても、彼のてんかんの初発年齢は明らかでない。Lavrin, J. によれば、「彼がまだ7歳にしかなっていなかった1828年に、すでにてんかんの最初の徴候が現れていたらしい」とあり、確実なものとして、さらに「ドストエフスキーの友人である医師ヤノフスキーの言によれば、このような発作はいく度か(軽い形で)すでに1846年に起きていたということであるし、米川の年譜には「1847年7月、ヤノフスキイ、街頭でのドストエフスキイの発作をてんかんと診断」とある。(ちなみに1846年は25歳。同一人物ヤノフスキイの証言についてもこのように1年のずれがあることは不可解である。) またよく知られていることだが、流刑地からの兄への手紙の中にてんかん発作にふれている。 この点については、米川によれば「1850年(29歳)1月23日、流刑地オムスク要塞着。ドウロフ、ヤストルジェムスキィと同じ監房に収容される。初めての発作」とあり、「1852 年(31歳)間々てんかんの発作」とある。一方Lavrinによれば、「1854年2月22日付のドストエフスキーの兄への手紙から判断すると、流刑地においてはじめて、それ以来生涯の持病となった強度のてんかん発作が、彼を襲ったのである」とある。(ちなみに最初の妻マリヤ・ドミートリエヴナ・ イサーエヴァとの結婚は1857年2月15日、36歳)Lavrin も米川も、先にヤノフスキーの証言を引用しながら、その後の流刑地での発作を初発としているのはなぜなのか、わからない。

さて、先にもふれた初発年齢18歳説に関するものとしては、Lavrinによれば、「また、ドストエフスキーの発作は父の死の知らせを受けたときにはじまったという推測もある」と述べ、米川は「1839年6月(18歳)父ミハイル、領地の農奴の怨みを買いチェルマーシニャの森のはずれで殺害される」と記すだけで、発作の記載はない。Grossman, L. の年譜には、1839年(18 歳)の欄に「L. F. ドストエフスカヤ(エーメ)の証言によれば、「家ではドストエフスキーがてんかんの発作を起した最初は、父の死を知らされた時と言い伝えています」とある。また続いて、ドストエフスキーの死後、0.F. ミルレルが「F.M.の病気は青年時代の初期に起った家庭内の惨事によるという注目すべき証言がある。だがこれは、他ならぬF.M.の肉親の一人が筆者に伝えてくれたものであるにもかかわらず、裏付けがないので保証しかねる」という記述を載せている。

なお、先にもふれたヤノフスキーの証言についてGrossman の年譜には、1847年(26歳)「7月7日。はじめて強いてんんかん発作を起す。医師S.D.ヤノフスキーが、ソロニーツィン宅から帰る途中、イサク広場で、てんかんの発作を起して陸軍省の書記某に抱えられてくるドストエフスキーに会う。脈拍は百を越え、軽い痙攣が認められる。ヤノフスキーは、半幌馬車で自宅へ連れて行き血を取る」の記載がある。また1849年(28歳)4月(1日か15日)には「ペトラシェフスキー会。 夜食時、気分すぐれず、閉会後、馬車でS.D.ヤノフスキーの家へ行く。激しいてんかんの発作を起す」とある。しかし、流刑地に着いた1850年から1854年までの年譜に発作の具体的な記述はないが、1855年(34歳)のところにヴランゲリの『回想』から、ドストエフスキーの妻となるマリヤ・ ドミートリエヴナが彼を知った頃のことにふれて、「てんかんに赤貧、それを見せつけられたし、あの人は『将来性がない』ので、とまで言っていたから」と書いてある部分を引用している。流刑地ではすでに彼がてんかん患者であることが知られていたことが明らかである。なお、彼女との結婚後の発作については1857年(36歳)「2月中旬。クズネックより妻と継子を連れて、バルナウールのセミョーノフ方に4日間滞在する。この時激しいてんかん発作に襲われる」とある。てんかん発作の発現はその後もたびたびあったことが年譜から知られるが、1857年、「12月16日。シベリア守備大隊付軍医エルマコフがドストエフスキー少尉補の診断書を作成する」とあって注目に値する。全文を引用してみよう。

「年齢35歳。体格普通。1850年初てんかん発作 epilepsia 症状。叫声、意識消失、手足顔面痙攣、泡噴出、かすれ声、脈弱迅減少。発作時間15分。その後発作状態一般の衰えを見せて意識恢復。1853年再発、以後毎月末発病。現在ドストエフスキー氏は、 過労のため体力の消耗を訴え、神経衰弱によりしばしば顔面神経麻陣に苦しむ。ドストエフスキー氏はここ4か年間、発作の都度治療を受けたが、依然おさまる気配がない。このゆえに勤務続行は不可能と認める」。

以上の資料を通じて明らかにされることは、初発年齢については7歳、18歳の憶測があること、26歳の時には明らかな全般けいれん発作があり医師の手当を受けていること、流刑地に着いた29 歳時に明らかな発作があり、その後毎月発作があったことが35歳の時点での診断書に明記されていることである。

荻野は、「わたしたちはこの問題について、アラジュアニンヌの結論『ドストエフスキーの発作がいつ始まったか、についての諸家の意見の不一致は、ドストエフスキー自身に由ると考えられる』を以って、ここに終止符を打ちたいと思う。こうした問題をこれ以上せんさくすることは、病跡学の本道から外れるであろう」という。 しかし、私は先にも述べたように、臨床てんかん学の常識的な手順としての、発作の初発年齢や発作型やてんかんそのものの経過(病態)を可能な限り閲明する構えは、そのままてんかんの 病跡学の基本でもあると考えるのである。 それは、いわゆるてんかん性性格変化、てんかん性痴呆(その存在の可能性は疑われてもいるが)などが発作型や経過によって大きな影響を受けないとはいえないからである。

(ii)発作型について

さて、ドストエフスキーの病跡学で最近の話題はGastaut, H. の論文であろう。その論旨は「ドストエフスキーの知られている発作すべてがけいれん性かつ全般性であったという事実である。この点で、40年間にわたって400回以上のけいれん発作をもち、しかも焦点てんかん発射性の単一発作症状を一度も示したことのないてんかんは、とりもなおさず部分てんかん圏から除外し、全般てんかんに入れて然るべきであると私はいってはばからない」ということである。 Gastaut が随分と大仰な身振りでこのことを主張するのは、ドストエフスキーの作品の中に登場するてんかん患者が示す「エクスタシー前兆」をそのままドストエフスキー自身が経験した発作内容と受け取り、「25年間にわたって認められ、擁護されてきたドストエフスキーの側頭葉てんかん説」を権威づける発言を彼自身がかつてしてきたからである。Gastaut がそれまでの所説を撤回して、ドストエフスキーの病跡学を一歩進めさせた功績は小さくないが、われわれが今までみてきた資料からは全般性のけいれん発作と考えるのが自然であって、側頭葉てんかんと考えることの方が初めから強引にすぎたといわねばならない。(ただドストエフスキーのてんかん発作型が全般性のけいれん発作であるとすると、その初発年齢が遅すぎることが気になる。7 歳頃から別の型のものがあり、26歳頃に全般性の型に移行したのであるかも知れない。)

またGastaut のいうように生涯に400回以上のけいれん発作があったとすると、それにもかかわらず知能の低下や性格の変化が著明でないことについては、Gastaut の「発作は彼の天与の才を鈍らせも損ないもしなかったし、またその才は決しててんかんに基盤をもつものでもなかった。この教訓は発作のために知能が低下したと、いわば間答無用の形のレッテルをはられている多くのてんかん患者のために、またその例外的な能力がてんかんの副産物と考えてはならない少数のてんかん天才人のために、きわめて強い弁護の砦となるであろう」という見解を採るべきであろう。

しかし、われわれはやはりこれをてんかん患者の通則として、安易に受け容れるべきではないと思う。現在もなおわれわれは難治てんかんの、患者の中に性格変化をみたり、記憶障害をみたり、知能低下の否定できない症例をみているのであって、それにもかかわらずドストエフスキーが大文豪ドストエフスキーであったところに彼の天才性を認めるべきなのだと考えるのである。天才の成因は不明である。が、彼の場合は、その生来の天才素因がてんかん発作体験を単なる素材以上のものへ開花させたと考えるべきであろう。ドストエフスキーの発作については、さらにまたJanzの所説に基づく考察がいくつかあるが、今はそれらにふれる余裕はない。

(iii)てんかん性格について

彼がてんかん性格者であったことは、例えばMinkowskiの類てんかん性性格の描写「人々と同調することが極めて困難なので(この点で同調者とは異る)、彼らは好んでその感情を対象に固定させる。ここから秩序の愛好が生れる。他方では多様な人々に愛情を向けることができないので、彼らはその感情を集団に集中する(たとえば家庭とか祖国に)。また感情的及び宗教的色調を帯びた一般的な観念に(たとえば世界平和とか宗教に)その感情を集中する。他人との人間関係に於いては、個人的なニュアンスは少く、むしろ道徳的な評価が優位をしめる。従って彼らは一定の道徳的又は宗教的な使命を帯びた人間として行動する傾きがある」これが、まさに彼のために用意されたものといってよいほどのものであることからも首肯されよう。

なおこのてんかん性格に関連して論議の的となるのは、彼の異常な賭博熱である。この賭博熱についても精神分析的な解釈が種々行われている。例えばFreudは「彼にとっては賭博もまた自己懲罰の方法のひとつであった」 といい、荻野は「耽溺傾向とてんかんとは、 ふかいかかわりをもっている。どちらも発作衝動に駆られて、まったく不条理な仕方で、状況に埋没していく。 それは、死の衝動、自己破壊の衝動にみずからをまかせていくかのようであり、またその耽溺的態度は、衝動的ナルシシズムにもみえる」といって、「賭博に惑溺し、さらに深い自己破滅へと おのれを駆り立てていく喜びは、まさしく痙攣的、自虐的歓喜であるといえる」 という。

いかにもそのとおりであると思われるが、これをもって、つまり賭博熱中がてんかん性格の特徴に基づく証明とはいい難い。なぜならこの文章中の「賭博」を「飲酒耽溺」におきかえれば、ただちにアルコール依存者の心理・様態の描写にもなるからである。(つまり、荻野の述べるところは、中毒者・依存者に共通する心理である。)しかもアルコール依存者の性格特徴は必ずしもてんかん性一色ではない。

そのような意味づけよりも、私には、むしろ彼がわが身を焼きつくすまでの賭博熱から翻然と 身をひいてあたかも憑きものが落ちたようにその後は賭博とは全く無縁の人となった事実に大きな関心をいだくものである。それは、アルコール依存者が「どん底体験」を経てある日ふと断酒生活に入ることと極めて類似の現象だからである。 それは決して小林秀雄のいうような「翌年(1872年)ドイツ連邦政府は、公開賭博を禁止した為、 ルーレット企業者等は、モンテ・カルロに集った。 帰国後、ドストエフスキーは数度ドイツに旅をしたから、彼の家庭生活平安の因の一部は、モナコの王様に負ってると言へるのである」と いった単なる物理的な環境変化からは説明できないものである。

断酒に成功している者に、その断酒決意の瞬間─―それは宗教的な回心にも似たもののようである──を回想してもらっても、なかなかそれと肯ける具体的な述懐は得られない。ただ客観的な説明としては、いかにもキルケゴールのいう不安にみちた「不連続の飛躍」による──この瞬間を私はかつて「出会い」としてとらえた──という内容が大きな妥当性を示す。(つまり最も多くの症例に共通する精神情況である。) ドストエフスキーのこの「回心」を、さまざまに意味づけすることは可能である。しかしわれわれの身近でアルコール依存者が、この不世出の天才と同じような体験を再現してくれていることに、われわれはもっと注目すべきであろう。てんかんとアルコール依存は異質な疾患ではあるが(ただ、先にも述べたように、私はドストエフスキーのてんかん発作の誘因に飲酒をかなりの程度に重視しているし、賭博場面──その前・中・後──での飲酒も考慮すべきと考えている)。 その「どん底」情況の酷似性は軽視すべきでない。そしてさらにいえば、アルコール依存者の中で断酒に成功している者の性格特徴が、先にあげたMinkowska の述べるてんかん性格に多くの共通点をもつということである。われわれはこの点にもっと大きな関心をもつべきであると思う。