ドストエフスキーとてんかん/病い


自殺について

(村上仁著『芸術と狂気』みすず書房 1950)


自殺という現象は種々多様な観点から研究することができるが、従来最も広く用いられたのは統計学的、社会学的方法である。殊にデュルケムが自殺を統計学的に観察することによって「自殺は社会学的現象である」という独特の学説を提唱したことはよく知られている。デュルケムは統計的観察により、独身者は結婚者より自殺する傾向が強く、また新教徒はカトリック教徒より自殺者の数が多いのを見た。デュルケムによれば、これは疑いもなく独身者には結婚者の支持がなく、また新教徒には強力な教会による社会的束縛が少ないからである。社会的統制の減退、個人の社会からの解離、各人をその一定の位置に保たせる社会的秩序の消失、これが自殺の本質的原因である。経済的危機、内乱等の際に自殺が増加するのもこの点から理解できる。

デュルケムの学説の後継者アルバックスやベイエも同様の見地から自殺を考察している。例えば、アルバックスは『自殺の諸原因』なる大著も詳細なる自殺の統計学的検討から出発している。彼は、自殺は人口が増加し、社会的慣習の変動せる地方に多いのを見、自殺は文明による社会的均衡の表現なりとした。都会では田舎より自殺者が多いのも、都会においては、生活の複雑さ、不安定さの程度が田舎よりも高いからである。戦争中は自殺の減少が見られるが、これは社会的固結、興奮により社会の努力が一定の方向に統一されるからである。自殺の直接的、個人的動機は経済的破局、恋愛及び結婚の失敗、犯罪、身体的疾患の苦痛等色々あるであろうが、それらは結局「救い難い社会的孤立の感情を来させる動機となるに過ぎない。自殺の真の原因は「自殺者の周囲に生じた社会との隔離、空虚の感情である」。彼等社会学派の人々は自殺を結局社会学的現象とし、自殺者の個人的素質は問題にしない。精神病者が自殺に傾き易いことは彼等も認めているが、デュルケムは精神病的自殺は自殺の限られた一部分に過ぎないと考へ、アルバックスも精神病を破産、失意、家庭的葛藤等と同じく単に自殺の動機をなすべきものに過ぎないとしている。

かくの如く自殺を社会学的に決定される現象なりと考える立場と正反対なのは、自殺が個人的素質によって決定されるとする立場である。この見解は日常絶えず精神病者を観察し、彼等が極めて累々強い自殺傾向を示すことを実際に知っている精神病者によって、最も大胆に主張された。例へばフランスの精神病理学者A・デルマによれば、自殺は専ら病的心理学の領域に属する出来事である。彼は自殺者の90%は体質的憂鬱病者によって、残りは感動過多性性格者によってなされると主張している。自殺を決定するものは個人的条件、殊に生理学的基礎に立つ個人的素質である。

これに対しててデュルケム派の社会心理学者なると共に、精神病学者でもあるシャルル・ブロンデルは自殺の社会学説と病理学説とを折衷しようとする、彼は自殺が社会的条件によって著明な且つ規則的な変動を示すことは認める。然しこのことは、自殺が直ちに社会的条件によってのみ決定されることを実証するものではない。「社会的事実がすべて社会的原因を有するとは限らない」とデュルケム派の人々がいう如く、社会的現象が一定の法則に従う独自の領域であるとしても、それを構成するものは心理的な個人である。恰かも生物が無生物とは異なる独自の現象であるとしても、生物を構成するものは無生物であると同じである。生物は無生物よりなる栄養を欠いては生活できないように、社会も正常なる個人なくしては成立しない。個人は社会的条件だけでなく、生物学的基礎に立つ病的状態によっても自殺への傾向を示し得る。社会的諸条件の悪化が自殺の増加を来さしめることは確かであるが、この場合これらの諸条件は自殺に抵抗力の弱い人々に特に影響を及ぼすのではあるまいか。この見地からブロンデルは自殺を次の二種類に分けて考へる。その一は社会的要因が殆んど問題にならないもの、即ち重症の精神病、殊に憂鬱病においては、個人的な病的原因がそれ自身で自殺を来たさせ得る。その二は精神変質者換言すれば、生来の性格異常者における自殺、この場合には社会的条件が自殺の大きい要因となる。最後に第三の場合として、全く健常な人々において自殺が存し得るや否やについてはブロンデル懐疑的であるように見える。

以上述べた如き自殺の原因に対する統計学的乃至社会学的立場と、精神病学的立場との対立はフランス学界において最も顕著に見られるものであるが、他の国々においても幾分このやうな傾向は見られる。またこれは犯罪者や性格異常者の発現に素質と環境とのどちらがより大きな役割を演ずるかという、繰り返して論じられた問題とも関連を有する訳であるが、この問題を総括的に論するのは本稿の目的ではない。少なくとも社会学的に見て、それが経済的、社会的混乱等において増加し、また社会的宗教的慣習の相違等によって、数的に明瞭な差異を示すことは統計学的に確められた事実であって、この事実によって直ちに自殺を社会的に規定された現象なりとすることは誤りであるとしても、この事実そのものの重要さを否定することはできない。このような種々の社会的条件の分析は、それが自殺を防止する一つの実際的方法を指示し得るという点でも、大きな意味を持つであろう。また統計は自殺者の数が年齢、性別、季節等の諸条件によって規定されていることは教えるが、これを如何に理解するかは別問題として、これも甚だ興味ある事実であることに間違いはない。しかしこのやうな統計学的方法はそれだけでは自殺そのものの本質を明らかにすることはできない。自殺は結局は個人的、心理的方法によって考察されなければならない事実である。


それでは自殺とは一体如何なる事実を指すのであるか、デュルケムは「死者のなした積極的消極的諸行為から死が生じた場合、且つ死者がこの結果の生ずべきを予期していた場合」これをすべて自殺と呼ぶ。しかしこの定義では道徳的見地から自らの生命を投げ出して他人を救う場合、例へば軍人の戦場における決死的行為も自殺の内に含まれる。それでデュルケム以外の人の多くは、このように社会的道徳的命令によって死が選ばれた場合はこれを犠牲と呼び、本来の自殺とぱ区別する。結局自殺とは「意識清明なる人間が道徳的必要なくして、死そのものを目的として死を選ぶ行為」である。

さて自殺者の心理を個々別々の例について具体的に観察することは極めて困難であって、未遂者の場合はとにかく、既遂者においては死後の遺書や周囲の人々の想像に頼る外はない。何れにしても自殺は、心理学的にはまづ精神病的自殺と、非精神病的自殺との二つに大別されねばならぬことは、多くの人々の一致した意見である。前者の中にも様々の種類があり、時には癩癩者の朧朧状態における自殺において典型的に見られる如く、全く衝動的に行われ、それが如何なる心理学的動機によるものか理解できないこともある。それは自已に対する破壊的、加虐的衝動の本能的な現われでもあり得るし、強い罪業観念によって来たものでもあり得る。この場合には上述の定義の「意識清明なる人間」という条件には合致しないとも考へられる。しかし精神病者の自殺のすべてがかくの如き衝動的なものなのではない。憂鬱病者は精神病自殺者の大きな部分を占めているが、彼等の多くは意識清明であり、病的なのは週期的に来る憂鬱病的感情変化のみであって、そのため彼等は将来の生活への希望を失い、過去の行為に対する罪業感に悩まされ、生を堪へ難い重荷と感じ、自ら死を選ぶに至るのである。彼等の死への準備は累々極めて慎重であり、周囲の人は最後まで彼等の死を予知し得ないことが多い。何ら明瞭な動機のない単なる厭世的人生観による自殺と思われるものが、その生活歴を詳しく調査すると、実はこの憂鬱病によるものなることを證明し得ることは決して少くない。

しかし真の精神病による自殺は必ずしも多いものではなく、グルーレは総自殺者数の約12パーセントという数字を挙げている。(A・デルマの如き極端な説は別としても、もっと大きな数字をあげる人が多いがこれは種々の理由で信用すべきものではない)。その残りにおいては、本人の性格的異常と外的或いは内的動機とが程々の割合において合併してその原因を形成しているのである。自殺に傾き易い一定の性格的特徴というものを特にあげることはできないが、意志薄弱であるとか、生の煩わしさに敏感すぎるとか、自尊心が強すぎて境遇の激変に堪へ得ないとか色々の場合が考えられる。一般に精神病学者は自殺者の大部分を精神変質者、或いは性格異常者と考える傾向があり、「健全なる人間において自殺者があり得るか」否かが累々議論の対象となるほどである。自殺者が多くは平生から明らかに常軌を逸した性向を示すことは確かであり、又このやうな性格者は種々の心因性原因によって、精神病的反応を呈し易く、これが自殺の動機となるということも累々認められる。彼等が正常人ならば堪えて行ける情況に堪えることができず、「死の誘惑」に陥ったということだけでも、正常「平均人」を標準として考える精神病学の立場からは、彼等を性格異常者と断定する根拠とはなり得るともいえる。しかし精神病学における「性格異常」なる概念は、広い意味では、単に正常なる平均的生活からの逸脱を意味するものであり、実用的、臨床的には「その性格のため、自己を苦しめ、或いは社会に迷惑をかける場合(K・シュナイダー)という制限が加えられ、主として社会的生活に充分適応できない人々を指すことになるが、何れにしてもこの概念はかならずしも「病的」という概念とは同一でないことに注意すべきある。自殺者には上述の意味での性格異常者が多いとしても、これによって彼等を直ちに「病的」なりとはいい得ないであらう。K・シュナイダーは多数の自殺未遂者につき自殺の性格と外的動機との関係を心理学的に分析して次の四種類に区別している。

一、外因自殺、本人の生前の性格や生活態度には殆んど異常がなく、過大過激な外因のみがその原因と認められるもの、その原因は多くは経済的境遇の激変、恋愛生活上の困難な問題等である。この種の自殺は決行前に永い熟考と準備とがなされるのが通常である。
二、逃避自殺、これは外因と共に本人の生活意欲の減退、厭世、憂鬱的傾向等の性格的要因が加っている場合であって、これと一との限界は観察者の意見によって異なる。厳格に観察すれば一に属するものは、極めて少なくなるであろう。この場合にも常に決行前充分の準備と考慮とがなされている。
三、激情自殺、これは一時的な激情、嫉妬、憤怒、反応的な憂鬱性、苦悶性、気分変調或いはアルコール飲用による感情変動等によって行われるものである。未遂に終れば本人はその行為を自ら肯定しないことが多い。青少年の動機の明瞭でない自殺には、この種のものが多い。
四、狂言自殺、この場合は自らの生命を絶つこと自身よりも、それが周囲の人々に及ぼす反響の方が本人にとって重要である。時には行為が未遂に終るように、前以って計画されていることもある。
五、最後の精神病的自殺について繰り返して述べる必要はないであろう。

なおヴィーンのペッツル教授の教室のマルガレーテ・マンディックスは多数の自殺未遂者について、その生活歴、性格、体質、動機等詳細に分析しているが、その一々を記述することは省略する。ただ彼女が彼等の自殺前の心境として共通なのは「自分が周囲の何人とも感情的に孤立させられているという感情」であると述べているのを引用するに止める。

自らの生命を維持せんとする欲望は、生物としての人間の最も深い本能に根差しているものである。それにも拘らず生の苦悩を深く体験した人は却つてしばしば死を望ましく、喜ばしいものと感ずるに到ることがある。自ら死を選ぶ人々は累々死の世界に深い憧憬を感じているようにも見える。この点から見れば人間には生への欲望の底に死への欲望も存するものではないかとも思われる。フロイドは憂鬱病者の心理の分析により、自殺を深層心理学的に説明しようと試みた。その説を一々詳しく紹介する必要はないが、彼が生の本能と対立し、累々破壊的、サド・マゾヒスティックな衝動として現われる死の本能を仮定したことは甚だ興味深い。現実の合理的的散文的なる生を逃れて、幽暗なる暗の世界、原衝動と夢の世界に帰ろうとする努力は、人間の芸術的意欲の底にその本質的要素として合まれており、それは累々死の観念と結びついて現われる。この傾向はノヴァーリスその他のドイツ・ロマンチークにおいて、最も明らかな形をとったと思われるが、現代においてもトーマス・マンの『魔の山』を読む人は、生に対するものとしての死の領域が、複雑多様の思想と形相の下に繰り返して現われて来るのを見るであらう。人間最高の典型と一般に考えられているゲーテは、実は青年時代何度も死の誘惑との戦いに打ち負けそうになった人であった。真に健全たる生とは、恐らくはその内に死と退廃とへの危機を蔵しながらも、それを克服し得た生であるのかも知れない。この意味で自殺は単に消極的なものではなく、その中に積極的な契機をも合んでいる。精紳荒廃の進んだ精神病者には自殺が見られず、また憂鬱病においても最も自殺の危険が多いのは、初期あるいは恢復期の能動性が保たれている時期であるという、専門家にはよく知られている事実も、この自殺の積極性と関連していると思われる。

のみならず自殺が罪悪と考えられるようになったのは、西洋においてもキリスト教以後であって古代の哲学者のうちには、自己の哲学的思想の論理的婦結として自ら死を選んだ人もあったのである。私はこのような問題を、倫理的見地から論ずる資格は全くない。自らの決断による自由なる行為として死を選ぶことが、果して一つの積極的なる意味を有する行為なりや否やを論ずることは私にはできない。私がここに言いたいのは、このような意味における自殺が同時に医学的、精神病学的見地からも観察され得ること、そしてこの二つの見地は全く別の意味を有するものであるから、両者を混同すべきではないということである。

例へば芥川龍之介の死は「常時の社会情勢に対するインテリゲンチャの漠然たる不安」の現われでもあり、又より深い、人生観的な苦悶の現はれと解することもできる。然し同時に彼が常時強い神経衰弱状態にあり、生理学的根底を有する「生命力の減退」に苦しんでいたことがこの自殺が実現され得た有力な原因である事も否定し得ない。しかもこのことは彼の死が、彼自身及び彼を理解する人々にとって有し得た、深い意味を何ら損わせるものではない。また太宰治の死が「芸術的行詰りに身を以て決着をつけようとしたもの」であり、またその他の深い意味かあるとしても、彼が生来現実的生活に、深い嫌悪と孤独とを感ぜざるを得ないような不幸な宿命を荷った、極めて特異な性質の持主であり、それが彼の死の本質的な原因であったことも確かである。彼の死は臨床的精神病病学の立場からは「厭人的な性格異常者に於ける、何度も繰り返され、最後にやっと成功した自殺企図の現われ」に過ぎない。しかしこの事は彼の芸術と死とが、彼の特異なる宿命的世界を理解し、これに同感する人々にとっては、深い本質的価値を有することを否定する根拠とは決してなり得ないのである。(1948.8)