ドストエフスキーとてんかん/病い


自己像幻視

(村上仁著『芸術と狂気』みすず書房 1950)

ここに自己像幻視とは、フランスの心理学者ソリエの用いたAutoscopieいう術語を筆者が仮に訳してみたもので、要するに自己自身の姿が幻覚として自己の目の前に現われる現象を指す。これは極めて稀な現象であって、これを経験した人はそんなに多くはないはずであるが、東西の文献には古くからしばしばこの現象の記載がある。目本の古い隨筆では「かげの病」とよばれ、西洋のドッペルゲンゲル、即ち分身或いは二重人格人と訳される言葉もこの自分自身の幻覚的な像という意味に用いられることが多い。しかしこの現象の記載のうちで最も有名なものはゲーテが『詩と真実』に自己の体験を述べた一節であろう。

「・・・・・恋人のフリードリケに別れた苦悩に満ちた日のことを私は忘れることが出来ない、私が馬に乗ったままで彼女に別れの挨拶をした時、彼女は眼に涙を浮べていたし、私の胸は苦しかった。ドルゼンハイム村の方へ少し行くと私は向うの道から金糸入りの灰色の上衣を着て馬に乗ってくる私自身の姿を肉体の眼ではなく魂の眼で見た。この幻像は私がその時の夢のような状態からのがれるために頭を振ると、直ちに消え失せた。・・・・・不思議なことに私が八年後にフリードリケを再び訪れた時、偶然にも私はあの時の幻像と同じ灰色の上着を着ていたのであった。」

この種の体験は健康人でも稀にはあり得るものであって、レールミットによれば、文学者ではゲーテの他、ミュッセ、ダヌンチオなどもこの現象を体験したという。またテーヌは夢の中でこの現象を体験して、次のように述べている。「夢の終り頃に机の前に椅子に座って夢の中でこの現象を体験して縞の部屋着を着た私自身の姿が見えた。私は驚いてそのために目が覚めた」。ソリエ、レルヘンタールなどのこの現象の研究者は、普通人乃至神経質者に見られたこの種の体験を募集記載している。しかし、従来の医学的、心理学的文献の多くは癲癇、精神病その他の脳疾患に羅った人々に関するものである。

以下にこの現象の心理学的特徴を二三述べてみよう。まづこの自己像の幻視は明瞭な感覚的性質を備えていないことが多い。ゲーテも「肉体の眼でなく魂の眼で」と断っているが、単なる表象像に近い場合もあり、多くは平面的で立体感を欠き、幻像の背後のものが透き通って見えることもある。また幻像は本人と必ずしも似ていない、別の着物を着ていたり、本人より甚しく老けて見えたりする。しかも本人は、幻像が自己自身の像であることを直感的に確信して疑わないのがこの現象の特徴である。また幻像は本人の目の前に、本人に向いあって現われるのが普通であるが、側方に現われることもあり、多くは動かないが、本人に近よったり遠ざがったりすることもある。時には本人の動作を模倣したり、本人と対話したりすることもある。幻像の現われる条件としては、疲労、憂鬱性気分、就眠時など幾分意識の緊張の低下している時にあらわれやすい。ゲーテの場合も恋人との離別のため苦しんでいた時であり、彼自身も述べているように「夢のような状態」に在ったのである。更に夢の中で自己の姿を見ることは上掲のテーヌの例もそうであるが、決して稀ではない。なお健常人ではこの現象は高々数十秒位しか続かない。四六時中自己の幻像につきまとわれたりするのは精紳病者の場合以外にはない。またこの現象は不愉快さ乃至恐怖感を伴うものであり、そのため種々の迷信と結びつくことがある。日本では、自分の姿を見たものは近いうちに死ぬといい伝えられているという。ゲーテは彼の幻像のうちに八年後の自分の姿を予見したことを信じているが、これは強いて心理学的に説明しようと思えばできないこともなさそうである。

さて自己像幻視は如何なる機構によって起るのであろうか。これは自己が二つに分れるという点で、自我分裂或ひは二重人格に属するものだといえるが、この二つの術語は種々雑多な病的心理状態を指すために漠然と用ひられているもので、これだけでは何も説明したことにならない。私達の問題にしている状態に最も近いのは、神経衰弱の患者の次のような訴えである。「私は意志も感情もなくなってしまった、道を歩いていても自分が歩いているという感じがない、自動人形が歩いているようだ、時にに歩いている私を別の私が遠くから眺めているように思う」、この状態は、自己像幻視の前駆として現われることもある。しかしこの自我重複とでも名づくべき状態では分離した「精神的自我」が実在の自己像を見ているのであるが、自己像幻視では自我は架空の自己像を見ているのであって、つまり自己像が外界に転位している点が違う。

一体自己の感情を外界に転位すること、すなわち投射という現象は誰でもある程度体験することである。たとえば気分がふさいでいれば、外界の景色も暗く感じられる。しかし病的な状態ではこの傾向が甚だしくなり、他人が自らと同じ動作や表情を示すように思ふことがある。たとへばある癲癇患者は発作の直前、自分の前にいる人が急に苦悶し、手足をひきつけるのを見て驚くと共に自分が痙攣発作を起して倒れた、つまりこの患者は発作直前に、自己の痙攣の動作を他人に投射したのである。このように自己の感情や行動を外界に転位するという現象は病的な精神状態では累々見られることであるが、自己像幻視ではこれが更に一歩進んで、自己の身体表象そのものが外界に転位されるわけである。この機構は精神病者の幻聴の発現の機構と甚だよく似ている。病者は初期には「自分は駄目だ」という無意識な劣等感に苦しみながら、本来の自我はこの劣等感に負けまいと努力している。その内に突然この劣等感が外部に転位されて、「お前は駄目だ」という他人の肉声となって明瞭に聞えてくる。これは自我重複の感じが、実在の自我像が外界に転位されると共に自己像幻視となるのとよく似ている。勿論健常人ではこのような機構は、疲労時などに一時的に短時問発現するだけなのは前に述べた通りである。

なお外界に転位されるのは単なる自己身体の視覚的表象だけではない。時としてこの現象の経験者は「幻像が見えると共に自分の身体が空虚になり、私自身が幻像の方へ移ってしまったように思った」、あるいは「幻像は私と同じことを考へ、同じやうに動く」などと訴えることがある。幻像が大して自分に似ていなくても、それを自分自身の像であることを確信して疑わないのがこの現象の特徴だということは既に述べた。このやうな事実を説明するためにソリエという学者は、この場合外界へ転位されるのは、自己の内臓感覚だといった。近来の学者は内臓感覚というフランス流の少し古風な概念の代りに、身体図式といふ言葉を用いる。この言葉を理解するには、外科手術で手や足を切断された患者の訴える、幻覚肢という現象を観察するのが最もよい。

戦傷などで一方の足を切断された患者は、その後一定期間は切断された足が実際に存在すると信じ、その戦傷部くらいに痛みを感じ、足指などの運動を幻覚的に体験することがある。この事実は自己の身体各部の形態、運動、感覚などに関する我々の意識は(我々は通常はそれを自覚していないけれども)身体末梢部とは独立に相当強固に大脳内に形成されているということを我々に教える。自已像幻視においては、この身体意識あるいは身体図式が外界に転位されると考えると、この現象の種々特性が最もよく説明できるのである。要するに自己像幻視は、自己身体の視覚的表象像が身体図式と共に転位され、具体的・感覚的な自己の幻像となる現象であって、その前提条件は意識のある程度の低下と、それに伴う自我の空虚感乃至自我重複感であるということになる。

一向に隨筆らしからぬ堅苦しい文章になったが、この現象は文学ではどんな形で現われているだらうか。ゲーテのようにこの現象をそのまま忠実に記載した例は少くないようであるが、古来ドッペルゲル、分身、二重人格など呼ばれ小説の材料になっているテーマは少くともこの現象に暗示を得ているのではないかと思われる。ポウの『ウィリアム・ウィルソン』とドストエフスキーの『二重人格』とは何れも自己の分身、しかも自己の卑劣な下等な面を代表する分身に苦しめられる話である。単なる奇談・伝説としてこのテーマを取り扱ったものは他にも多数にあろう。芥川氏の初期の短篇にはこのテーマを用いたものが数篇あり、私は以前から、氏が自己像幻視に興味を持っていたのではないかと想像していたが、最近式場隆三郎氏の書かれたものを読んで、芥川氏が実際にこの現象に深い関心を抱いていたことを知り、面白く思った。その他支那の小説やそれを翻案した日本の物語、京傅や馬琴の読本などには離魂病、すなわち主人公の分身が主人公とは別個に別の場所で色々活動するというテーマがしばしば出てくる。しかしスティーヴンスンの『ジキル博士とハイド』となると、同じく二重人格と呼ばれてはいるが、心理学的には自己像幻視とは全く異った現象である。

この言を詳しく述べることは短時問では不可能であるが、人格分裂とか、二重人格と呼ばれている現象は大体次の三つに分けることができると思う。第一は「ジキル博士とハイド」型のもので、一定期間だけ平生の人格が一変して、全く別の人格に変ってしまう。そしてこの時には平生の人格に関する記憶が全くなく、逆に元に戻れば別の人格の時期の記憶がなくなるのが普通である。つまり二つの人間には大抵の場合記憶による連続がない。この種の分裂の最もありふれた例は神社の巫女の神懸り状態である。また平生は神経質で内気な娘が突然お転婆になり、或いは女優になった積りで、それに相当する動作や話し振りをしたりすることがある。この種の状態は、平生は人格の奥に潜んでいる無意識的な欲望あるいはコンプレックスが一定期間意識の表面に現われたものと考えられる。

第二に一般に霊肉の争いとか道徳と本能の相克とか呼ばれる状態、人格の傾向が二つに分れ、主体がその 何れとも決定し得ない状態も一種の人格分裂である。この状態はある種の精神病者では甚だ具象的な形をとり、例へば「私の体の中に悪魔がいて、私に色々な命令を下す、私の日常の行動は悪魔の命令に従っているので、私自身の意志で動いているのではない。私か話すのではなく、悪魔がしゃべっているのだ」などという。つまり相争う人格の二つの傾向のうち、一方の傾向は外界の他の人格と感じられるのである。最初の場合を継持的人格分裂と名づけるならば、これに対して第二のを同時的人格分裂と呼ぶこともできよう。最後に前に述べたような人格重複の状態、即ち「私は意志と感情を一切なくしてしまった、この自動人形のやうな私を別の私か遠くから眺めている」といふ状態も勿論人格分裂の一種であり、これが発展して具体的な幻覚となったものが、自己像幻視であると考へられる。この三つの人格分裂の間には移行型もあるけれども、典型的な場合には三者ともそれぞれ明確に区別しうる心理学的特質を具へているものである。(1957.12)